友になった日〜Stay with me〜
幸いにして、ボクの手はまだある。
そして、その次の日も、また次の日も、ピーティーはボクを追いかけて(襲って?)来た。
ボクも負けじと逃げ回るのだが、どうしても捕まってしまう。
いつからか『エルフの村まで無事戻れたらボクの勝ち、追いつかれたらピーティーの勝ち』という
無言のルールまで出来上がっていた。
でも、ボクは一度も村まで辿り着けたことはない。
低めの崖から飛び降りても、川に潜っても、相手は追いかけてくるのだから。
一晩中頭を捻って考えた逃げ路を使っても、向こうは更に上手の手を打ってくるのだ。
まるで森そのものが
彼に手を貸しているかのように。
毎日毎日、負け続けのボクだったが、その悔しさの向こうに、今まで感じたことのない
何かがあるような気がした。
そんなある日のこと。
その日、ボクは何か嫌な、全身の細胞が粟立つような感覚に付き纏われていた。
それを振り払うかのように、ボクは半ばムキになって走っていた。
その為か、ピーティーは後ろのほうに見える。
あと少しで村が見えてくる辺りにきて、ボクの眼にあるものが映った。
アトロウシェス・ビーの巣だ…。
一時は何気なくそれを見送ったボクだったけれど、少し行ったところで不意に振り向き、矢を放って
その巣を撃ち落した。
狙い通り、それは走って来たピーティーの目の前に落下する。
後は一目散。振り返ることなく村まで駆け抜ける。
この距離なら迷うこともない。ぎゅっと眼を瞑ったままで走った。
急に辺りが明るくなったのを感じる。
そっと眼を開いたボクの前には、村の外れ、ボクが住んでいる家が立っていた。
荒い呼吸を整えながら、後ろを振り返る。…いない。
漸く嫌な感じから少し開放されたような気がして、ボクは重い溜め息を吐いた。
ゆっくりと戸を開け、自分の部屋へと入る。
パタン。
妙に呆気なく閉まるドアの音に、ボクは先程とはまた違った、変な気分に襲われていた。
勝ったのに…。
勝ったのに、漸く、初めて、勝てたのに…。
何故か、頭の中の何処かで、黒いもやが渦巻いているようで。
違う…。
心の隅で本当は分かっていた。けれどそう簡単に、もう一人の自分が認めさせてくれなかったことに、
ボクはついに行き着いた。
そして、同時にそれが遅すぎたことも知る。
違うよ…。僕は勝ってなんかいない。
…行かなくちゃ。謝りに行かなくちゃ…!
ボクは部屋に置いてあった、液体の入った小瓶を掴むと、
もと来た道を全力で引き返していった。
何事にもルールはある。それを誰かが提唱したわけではないとしても。
例えば、強い種族は多くは子供を産まない。
けれど、生態系のバランスが崩れてしまうから、なんて、そんなこと本当は誰も『理解』していない。
いるとしても、『知って』いる者だけだ。
暗黙のうちに守っている絶対的な掟。それをボクは今、破ったのだ。
アトロウシェス・ビー。体長5センチはある、この森で最も危険な生き物だ。
その針には二種類の毒が仕込まれており、一つで相手の体を麻痺させ、動けなくなったところを、
数十匹がそれぞれ少しずつ、もう一種の毒を打ち、死に至らしめる。
彼らは針を打ち込んだときに死ぬのではない。
その特性のため、彼らの身に害を及ぼすものを完全に排除するまで、攻撃を止めることはない。
したがって、この森での生き物達の暗黙の掟には、このようなものがあった。
―― 逃げるものも、追うものも、『彼ら』だけは利用してはいけない。
ボクだって、分からないわけではなかったのに。
嫌な羽根音が聞こえてきた。
全身が寒気立つ。その音は警告音そのものだ。
我々は、そちらから何かをしてこない限り、手出しはしない。だが、害をなすのであれば、我が毒針を
以て、死の制裁を下そう、と。
羽音がどんどん大きくなり、森が一部だけ黒くなっている。
その中に、白い塊が見えた。ぎゅっと丸くなり、その厚い皮を申し訳程度の盾にしている。
それを見て、ボクは小瓶の蓋を開けた。
リディ、使わせてもらうね。
今はもう、外見では年齢を追い抜いてしまった少女の名を呟いて、中の液体を体中に振り撒くと、ボクは
ビーの群れに突っ込んでいった。
今ボクが使ったものは、シトラスの香水。前にリディが『瓶が可愛かったから』買ってきて、
ボクにくれたものだ。
アトロウシェス・ビーは柑橘系の匂いを嫌う。
ピーティーに群がっていたビー達は、驚いてボクから遠のき、ボクは道を妨げられることなく
進んでいく。
「ピーティーっ!!」
ボクはピーティーを抱えると、更に速度を上げてその場から離れようと駆け出した。
香水がアトロウシェス・ビーを踏み留まらせることが出来るのは一瞬だけ。その驚きはすぐに、
怒りへと変わる。
もはや迷うなんて、戸惑うなんて、そんな猶予を与えてはくれはしない。
もう、何がなんだか分からないまま、ボクは駆けていく。
目の前の世界はスローモーションで、辺りはやたら静かで。すぐ近くに迫る羽音でさえ、
水の中で聞いているように響いていた。
―― 耳を…。
「えっ!?」
ボクは誰かの声を聞いた。
―― 耳を澄まして…。
導かれるままに、眼を閉じて意識を集中する。
水の音…。
閉じた瞳にその水面の輝きまで伝わってきそうな、さらさらと流れる澄んだ音。ここから一番近い
水辺でさえ、そうすぐには辿り着けない処なのに。
あの川へ向かえばいいんだね。
―― そう。
「…痛っ!!」
夢の中を駆けていたようなボクの体に、激しい痛みが走る。背中を刺された。相手はもう、すぐ近くに
迫ってきている。はっと我に返り進路を変えた。
地面を走るより、こっちのほうが速いっ!
木々が狭い間隔で密集している獣道に入ると、ボクはタンっと弾みをつけ、枝に飛び乗った。
ピーティーから逃げるときには決して使わなかった、木の上の路。
久々に走ってみると不思議な感じがする。
―― 三つ先を、右にお行きなさい。
また、何処からか声が聞こえた。けれど今度は、先程の少し幼い声とは違って、
優しい女性の声だ。
とんとん木を渡っていくと、言われた三つ目の木が横に二本並んで先を見えなくしていた。
迷わず右の木に飛び移る。
ボクには疑う余地も、確かめる余裕もなかったから、降り返らなかったが、左の方の木には
決して進むことは出来なかった。
木々に絡み付いて養分を吸い取り、刺を伸ばして他者の侵入を拒む、『蔦薔薇』の群生地に
なっていたのだから。
その後も、何度もその声はボクを導いた。
―― さあ、これが最後よ。そのまま真っ直ぐ、恐れることなく進みなさい。
ちらりと後ろのビーを確認してから、ボクは七本ほど一直線に並んだ枝を駆ける。その先にはもう、
枝はない。
そして、最後の枝に渡ろうとしたとき、
―― いいわね、自分で決めたのだから、最後まで守ってあげなさい…。
「…!母さんっ!?」
振り向こうとしたが、飛び移った途端に、その枝はもう腐っていたらしく、
激しい音と共に元から折れた。
ドッパーン!
派手に水飛沫を上げて、ボクとピーティーは川に落ちた。昨日の雨で水かさが増していて、
もみくちゃにされながら流されていく。
ボクは、手を離してしまわないように、ぎゅっとピーティーを抱きしめた。
もう、どちらが上かも分からない。ただ目を閉じて、ボクは流れに任せて川を下っていく。
やがて小さな滝から川の支流へ放り出された。
緩やかな流れから、ボクは川原の草地に這い上がると、咳き込みながら仰向けに倒れた。
あがった息と、鼓動が、やけに頭に響いている。
右の腕で目を覆った。もはや、顔を濡らしているのが何か、分からなくなった。
激しい運動によって全身に巡った毒で、体がひどく思い。
このまま、自分のすべての力を奪い去ってくれたら…。
ボクはそう思う。あるいは願っていたのかもしれない。
ビーの毒は、たとえ全身に広がったとしても、そのまま動きつづけていれば、体内の循環作用で、
やがて力を失う。
しかし、じっとしていて、血の巡りが活発でなければ、じわじわとその命を奪う。
だから、ビーは先手を打って相手を麻痺させるのだ。
少しずつ、息が苦しくなってくる。けれどもボクは動こうとしない。
先程の、逃げ回っている光景が、瞼の奥で繰り返されている。
―― 最後まで守ってあげなさい…。
はっとして、ボクは眼を開けた。
…そうだ。道連れにするわけには、いかない…。
言うことを聞かない自分の体に鞭打って、放りだしていた袋に手を伸ばす。確か、毒消しの薬草も
入っていたはずだ。
かじかんでいるかのようにガタガタと震える手で、ボクは薬草を取り出すと、側にいたピーティーに
差し出した。
パクっ。
ピーティーはそれを、いつものようにボクの手ごと口に入れる。
けれどもボクは慌てもしない。声を上げようとも、手を引き抜こうとも。
手をもぎ取られても当然だ。その程度のことで許されることではないのだ。自分が犯した罪は。
顔を伏せ、その状態のまま、ボクは力なく座っていた。
ボクが無反応だったので、つまらなそうにピーティーは手を放す。
瞬間、ボクは再び倒れこんだ。
体中の感覚がなくなっていく。その磨ぎ澄まされているはずの耳に捕えられる音も徐々に無くなり、
目は閉じられたままで…。
前後左右真っ白な世界。いやに耳鳴りがする。
…耳鳴り?
違う。声だ。幼げな声と、大人の女性の声。二つの声が重なり合って、語りかけてきている。
―― だめよ。まだこちらに来てはいけないわ。
―― 怒ってなんかいないよ。
―― あなたはまだ、本当の幸せを知らないのだから。
―― 僕が友達になる方法を知らなかっただけだから。
―― あなたは一人でいたくないと思っているわね。
―― 君が声を聞いてくれたなら、応えてくれたなら、僕は何処へでも行けるのに。
―― けれど同時に自分は一人でいなくてはいけないと決めつけている。
――だからお願い、耳を澄まして。声を聞いて。
―― 一度くらい、自分に抗いなさい。
―― 自ら暗闇に篭もらないで。
―― きっと誰かが応えてくれるから。
―― 一人じゃないって思ってみて。願ってみて…。
―― 起きなさい、ネシエ=ル・バーニング
がばっ。
ボクが思い切り良く上体を起こした。
その勢いでボクに乗っかっていたピーティーが転げ落ちる。
…あれ?
体が動く。痛みもない。
よく見ると、側に何か液体の入った、皿のような形の大きな葉と、スポンジのようによく水を吸う
苔の塊が置いてあった。
「に、苦いっ」
味覚がよ蘇るとすぐにボクは口を押さえる。
「これは…朝露果の見の汁?」
森の中にごく希に生えている果実。その果汁は、最高の解毒剤といわれている。
それをボクは口に含んでいたようだ。
「これは…ピーティーが取ってきてくれたの?」
甲羅返しをされた亀のようになっているピーティーを両手で抱え上げてボクが尋ねると、にま〜、
とピーティーが笑った。
「……………」
ボクは顔を伏せ、唇を噛み締めた。
その顔を、ピーティーが不思議そうに覗き込んでくる。
「ピーティー…。ごめん…。ごめんね…、僕…」
目尻が熱くなる、視界が歪む。
そんなボクの頬を、ピーティーが舐めた。
―― 怒ってないって言ったのに〜。
「………っ!」
幼い子の様な声が聞こえ、ハッとしてボクは顔を上げた。
眠たそうな顔と目が合う。まだその顔は微笑んでいる。
ボクの中に、何か熱いものが沸き上がってきた。どんなに押さえようとしても、収まってはくれない
激しさで。
「う……、うわああああああん……!」
大声を上げて泣いた。ピーティーを抱きしめたまま。
母親がいなくなったあの日から、他の誰にも、涙を見せたことはなかったのに。
恥ずかしいくらいに泣きわめいて、格好悪い所を曝け出して。
「…ごめん、ね。びっくり、したよね…」
手で目を擦り、まだしゃくり上げながらボクが言った。
気がつけば、もう日が西に傾き始めている。
その茜色の輝きが、何かに反射し、碧い光となってピーティーの顔に映った。
その何か――ボクが首から下げていた、左半分だけの雫の形に、後ろ半分がない碧い玉石の付いた
ペンダントを見つけると、ピーティーは飛び付き、石を覗き込んだ。
暫くそれを続けた後、ペンダントをくわえて引っ張ってみる。
「それ、欲しいの?」
ピーティーがうんうん、と頷く。
「ごめん、それは…」
ボクは戸惑った。
それは、母親がボクにくれた、たった一つのものだったから。
「ごめんね、それはあげられない」
ボクの一言に、ピーティーは残念そうにペンダントを放す。
その時不意に、今まで忘れていた優しい声がボクの頭に蘇った。
―― そのペンダントは、あなたが一人じゃないって『しるし』よ。だから…
…そうだよね。ボクはもう、一人じゃないから。『一人じゃないしるし』無くっても、ちゃんとそれが
分かるから…。
ボクはペンダントを外すと、それをピーティーの首に下げた。
「だからこれは、友達の『しるし』!」
ピーティーを抱き上げて、ボクはにっこりと笑った。
…そして、友達のしるしはもう一つ。
あの夜、僕の背に刻まれた、鎖で繋がれた運命の輪のアンクの刻印。そこにまた一つ、ビーによって
消えない傷が足されていた。
それがまるで、鎖を断ち切る赫い剣線の様であることを、ボクはまだ知らない。
「…………ぷはっ!はぁっ、はぁっ」
あわててボクは、ピーティーを顔から引き剥がした。
非常に危険。危うく永遠に夢の中だった。
ピーティーは、今では『お供』と呼ばれている。
最初は勘違いから付けられた名前だたのだが、本人(本ピーティ?)が気に入った様なので、
そのまま変えなかった。
あの日からもずっと、ボクとお供は森で勝負を続けている。
未だにボクは勝ったことがないけれど。
はっと我に返って、ボクは足元を確認し、愕然とした。ボクの足を取ったのは、上部が結ばれた、
少し離れたところに生えている二本の草の束。古典的な罠だが、それが作られたのは非常にごく最近。
お供はボクがここに来ることを読んでいたのだ。
「あーあ、負けたぁ」
ボクが言うと、お供が、えっへん〜。と威張ってみせる。
その姿に笑いかけると、
「さ、帰ろうか」
手を差し出した。
体が本調子に戻っていることを確かめると、お供がぽんと頭の上に乗ったのを合図に、
村へと駆け出す。
以前は一人でくぐっていた、森と村の境界線を、ボクはお供といっしょに通っていった。
僕はどうして生まれてきたの
偶然、奇跡、悪魔の悪戯…?
ううん、どれも違うんだ
すべては君と出会うため…
お供「…………………(ボクは友達〜)…」