青梅街道に入った頃、薄くかけたラジオから明日の天気が流れ始めた。
「・・・明日も雨ですか?」、不意に女性の声がした。「ええ、また降ったり止んだりみたい
ですね。時雨かな知れません」「シグレ・・・冬が来ますね」
それが何かの印のように、それまで沈黙の車内に会話が流れていった。
そして、「今日は暇だったからお客さんは時の氏神。乗ってもらって助かりました。
遠くまでお出かけでしたね」の私の何気ない一言が、秋の一夜の始まりとなった。
「実はね運転手さん、今昔の彼に会ってきたんです」と、女性は私の言葉を引継いだ。
話の概略はこうだった。
結婚して二年近くになるが最近真剣に離婚を考え始め、今日帰宅したら話を切り出そう
と思っている。相手が相談もなく会社を辞めてから、もう一年ほど職に就いてくれず、
元から結婚に反対だった父は「出世の見込みがないから早く別れろ」といい、
今日あったという過去の彼には「ヒモだな」とまで言われたそうだ。
かって結婚対象の一人だったというその昔の彼との再会も、見えない明日への
不安の中で、ためらいがちに出した一枚の残暑見舞いがきっかけになったという。
私は人生相談的な話が嫌いで、客のそうした話題には興味がなかった。
普段なら「大変ですね」で終わったろうが、この時の冷たい雨が、快く送り出してくれた
という見知らぬその結婚相手の心の波紋と重なって私の中で揺らめいた。
「今日会ったという人も含め、あなたは多分横の比較で結婚相手を決められた。
そうだったら、今度は縦の比較に賭けてみたらどうでしょう?」「縦の比較?」
「さっきご主人の優しさに惹かれて結婚を決めたとおっしゃった。なら、それが
変わらない限りはご主人を信じてみたらどうでしょう。何より他人に話す前に、
二人だけでよく話し合ってみることだと思います。もしご主人が本当に優しい人なら
その時真価を発揮する。優しいだけの人というお言葉には逆らうけれど、優しい人は、
人生に一番強い人ですよ」。そして付け加えて、その夜はひとまず何も伝えないこと、
ご両親を含め他人を決して入れないことを伝えたような記憶がある。
降車地がH市でも駅から離れた深いところだったので、メーターは予想額を少し超えた。
「足りない分いま取ってきますから」「いやそれはいいです。覚えていたら、また次の時に
お願いします」「いろいろありがとうございました。お言葉に甘えてこの分もお借りしておき
ます。私、逃げ道はいつも用意してありますから・・・」
私はそれには返事をしなかった。ただ忘れ物の注意を告げ、軽く会釈してドアを閉めた。
幹線に戻り、新宿南口の終電時間に間に合うようにと速度を上げた。
ふと、「逃げ道」という言葉の真意に気がついた時には車はもう中野坂上を過ぎ、
目前に西新宿のビルの林が迫っていた。