東京の京王井の頭線「高井戸駅」。私はしばらくこの駅の小さなタクシー乗場を
専用車のように使っていた。法人時代の前半は一日の大半を都心のビジネス街
を中心に稼動していたが、ある時尿路結石で救急車のお世話になり大学病院で
治療を受けて以来、トイレに行きやすい杉並とか世田谷の住宅街にその中心エリア
を移していた。都心の渋滞でトイレを我慢したり、深夜のコンピュ−ター配車に備え
水分の補給を極力控えていたことがその病気の遠因ではないかと考えたからだった。
申請に最低必要な法人勤務10年の歳月は長く一種のサバイバル・ゲームで、
申請を目前にして病で倒れていった同僚を何人も見ていた。
その頃のこのタクシー乗場は私とK交通の初老の運転手が付けるだけでほとんど
無風地帯と化していた。時折会社の同僚が通り掛かるが、「朝から休んでいるのか?」
とばかり警笛を軽く鳴らしてニャッと笑い、エール用のハザードを一瞬点灯させて通り
過ぎて行くのが常だった。しかし閑静な住宅街を控えるこの乗場は実は穴場で、当時
はここから都心方面へのタクシー通勤客が何人か出ていた。Kさんもそんなお一人で、
何度か行き会内自然に車内で日常的な会話を交わすようになっていった。やがて
名刺をいただき、Kさんが代々木の専門学校の役員をされていることなどが分った。
担当は映像関係で、それは私も以前係わった分野だったので自然車内での話は弾み、
都会の朝の渋滞もいつも短く感じる程だった。
そのうち並んでいると私の車を選んで
乗車してくれるようになったが、さすがにこれは気が引けたので(公認タクシー乗場で
は先頭車から発車するのが慣習)、出番の日はご自宅近くで待たせていただくように
した。そしていつしか帰宅時の注文もいただくようになり、待機しやすいその自販機の
周辺が配車場所として定着していった。
しばらくしてKさんは、勤務先の専門学校の一学科を専任講師を引連れて独立し、
新たにビデオジャーナリストのための専修学校を立上げた。時あたかもWスクール
の時代で、「大学に在学しながら、夜うちの学校で学びたいという問合せが多いん
ですよ」と嬉しそうに話していた。
奥さんにも紹介され、まるで公私に渡る自家用タク
シーのようにご注文をいただくようになっていった。前半時代の売上は順調だったが、
後半は足切りに苦しむ日々も続いていたので、このKさんの定期的な乗車は得がたく
ありがたいものだった。しかしこの間順調そうにみえた学校経営も、講師陣の中心
人物が何人かの生徒を連れて新たに同種の学校を設立した頃から翳りが見え始め、
それまでの規則正しかった乗車時間が崩れ、配車場所の変更や時にキャンセルの
連絡も入り始めた。もうその頃には金策に追われていたのだろうが、タクシー代金は
いつもと変わらず、それがKさんの美学のように新札で支払われていた。
そして2002年の10月31日、
未だ明けやらぬ早朝の電話はKさんからのものだった。「今追い込みにかけられてい
る。済まないが、今日以降の予約はキャンセルとして欲しい」と告げて、電話は慌しく
切れた。私は「ご連絡ありがとうございました。奥様ともお身体気をつけてください」と
答えるのが精一杯だった。そして何より、切羽詰まった状況に追い込まれながら、
たかがタクシーの予約を最後まで忘れずにいてくれたことに深く感謝した。
その日を境に私は元の流しの運転手に戻ったのだが、ある日の出番で偶然E駅の
近くをKさんが歩いているのを見た。実車中のことで声など掛けれず、ただ車窓から
の会釈が限度だったのだが、Kさんもこちらを見とがめ笑顔を返してくれた。少し老け
た感じで作業服のような上着を着用し、長身に上質の背広を颯爽と着こなしていた
当時の面影からは遠かった。季節は流れ、2004年2月5日、私に個人タクシーの
正式許可が下りた。手続きを経て開業した3月中旬以来最近まで、時間の許す限り
E駅周辺やかってのご自宅の近所の方々など当たってみたが、Kさんの行方は分ら
なかった。そして表札もそのままだったKさんの自宅は買手がついたのか、初夏の
頃からリフォームの工事が始まった。
Kさんは私の法人時代を彩ってくれた「小僧の神様」のような存在で、この人がいなか
ったらそれは随分味気のないものだったろう。「個人タクシーは威張っているから決して
乗らない」と言っていたKさんだが、私の個人タクシーの誕生は本当に心待ちにしていて
くれた。(それは当たり前のことなのだが、)親切丁寧な応対で、乗客を安全に輸送する
ことがkeilloggタクシーの文字のない運送約款であり、それは今もKさんへの感謝の気持
ちにつながっている。
(2004年8月24日)