「観音通り」

 タクシーは、時に一瞬にしろ乗客の人生も乗せて走る。
ある年の2月初旬、土曜の寒い夜だった。

 井の頭線のS駅の踏切際で、杖で身体を支えた初老の男性が手を上げた。
「悪いけど、ちょっと待ってくれる」、少し遅れ右手の居酒屋から酩酊気味の女性が
店の支払いを済ませ出て来た。
告げられた行先は京王線S駅の南口、「観音通り」と呼ばれる昔ながらの商店街が
終わり、「S橋」を下った路地裏だった。走り出して直ぐ、車内の空気を女性の鋭利
な声が切り裂いた。「よくタクシーなんか乗れんな、自分で払えよ!」、酔いの中に
毒を孕んだ物言いだった。それを初めに次々と浴びせられた男性への罵詈雑言の
数々は、聞くに耐えないものだった。もしこれが短距離客でなかったら、(男性には
済まないが)車を降りてもらっただろう。男性は私の手前があるのかじっと我慢して
その罵りに耐えていた。

 降車場所は行止まりとなる細い私道入った古いアパートだった。
男性が料金を精算し車を降り、ホッとしながら私はメーターを空車に戻した。
しかし女性が座ったまま降りようとしない。「着きましたよ」と降車を促すと、不機嫌
そうに声が返った。「いいのよ、車出して」「え?どちらへ」、「どこでもいい、ともかく
早く出して早く」、悪い方が残ったと思いながら、仕方なくバックで車を発進させた。
夫婦じゃないのかとその関係を訝しながら、「送ります、お宅はどちらですか?」
と尋ねた。「家、家はいまんとこよ、一緒に帰りたくなんかないのよ」
「どうします?」「どっか走って」、困惑しながらもまた戻ってくる事を考えて周辺に
コースを取った。行先のない乗客はタクシー運転手の天敵の一つだが、会話が
成立する中ではこれが初めての経験だった。

 その場を離れ次第に落ち着いたのか、客席から声が掛かった。
「あの人足が不自由だったでしょ」「ええ」「切られたのよ」「糖尿ですか?」
「そう、術後の経過が悪くC病院に担ぎ込まれてね、偶然私が身の回りの世話を
担当したの」女性はさら独白のように言葉を続けた。「結局女房にも逃げられてね、
私のところ転がり込んで来た。娘と二人で生活に手一杯のところにさ。昨日から
区の主催のレクレーションであの人休養ホームに行ってたの。当然酒なんか
飲めないから、帰った途端連れてけって聞きゃしない。色んなことがあったけど、
私はね、ただケジメをつけて欲しいの」「ケジメ、・・・入籍とか?」
「そんなんじゃない、そんな女じゃないわよ私は」、ときっぱりした口調で返された。
「・・・酒よ、医者にいくら止められても分かりゃしない」、そして自嘲気味につぶや
いた。「何が良くてあんな男と一緒にいるのか、時々自分を恨みたくなる」
「お姉さん、人の哀しにみも相性があるって思うことがあるんですよ。他人には
絶対に分からない世界のどこかで、お二人はそんな相性が合うんでしょう」

 何の言葉も返っては来なかった。女性客はただ車窓にもたれ、ぼんやり外を
眺めていた。車がC病院の向かい側を過ぎN通りに差掛った辺りで、「運転手さん
戻って、さっきのとこ」と声が来た。「はい」と答え、バックミラー越しに垣間見た
女性の顔は酒も抜け、真顔だった。「さあ帰りましょう、心配してますよ」「そんな
奴じゃないわよ、そんなこと言って貰ったこともない」「いや、乗車の時と降車時の
顔が違ってた。男がそんなこと軽々しく口に出したら嘘になります」

 周辺の周回だったから、車は直ぐに戻り着いた。
降車際、「悪かったわね、商売の邪魔して」のねぎらいに、「いやとんでもない、失礼
しました」と受けた。料金は3,620を指し、女性は四千円を出して「釣りは要らない」
と受皿に置いた。私は忘れ物の注意を促し礼を告げ送り出した。ドアを閉め日報に
降車時間を記入してから札を数えると、そこには千円札が五枚置かれていた。
直ぐ外に出て、「お客さ〜ん、多い多い」と手にした千円札をかざして呼びかけた。
「おやすみ」なのか「お稼ぎ」なのか声が返り、階段を上りながら手が被りを振っていた。

 京王線S駅の南口、「観音通り」は普段抜道に使う小さな商店街である。