「茶畑の駅」

 12月の忘年会シーズンを迎えるとある旅客のことを思い出す。
もう5〜6年前になるだろうか?すっかり灰色の街並みが日常となった今と違い、
通常私達が「マグロ」と呼ぶ困った泥酔者に当ることもままあった頃である。

 夜の10時半ごろだった。深夜便に備え銀座に向かう途中の代々木駅前で、
サラリーマンの一団が手を上げた。ドアを開けると一人の中年男性が客席に押し
込まれた。「運転手さん悪い。中央高速の八王子インターで起こしてやって」
「え、一人ですか?」「大丈夫、絶対直ぐ起きるから。行先はカネコね」「カネコ?」、
初めて聞く地名だった。「16号を行って横田の先の辺り、大丈夫大丈夫、後は
本人が教えるから」という大丈夫の合唱隊に送られて、一抹の不安の中で首都高
・初台から中央道・八王子の出口を目指した。

 歳末の繁忙期、しかも長距離の高速利用という深夜便としては最高のスタートで
進行中、客席から一度「ここどこ?」という声が掛かった。「今中央高速に入ったとこ
ろです」「ふ〜ん」でそれきりまた夢の中へ戻ってしまった。国立/府中インターで
並走するタクシー群は散り、八王子を目指すタクの数は極端に減った。
料金所を出て側帯で声を掛けたが、死んだように反応がない。仕方なく窓を全開
にし, 更にエアコンをオンにして常套手段の寒波攻撃を仕掛けたが全く効果なく、
逆にこちらが凍えそうになってきた。時間の無駄と諦め、先ほど伝えられた「カネコ」
の駅を地図で確認すると、なんと八高線(*)の駅で入間市の外れの方角に位置して
いた。「ヤバイ、これで終わるぞ!」と思ったが後の祭り、ともかく16号線の外回り
から物流トラックに挟まれながら川越方面を目指した。米軍の横田基地を過ぎた
までは良かったが、その先のどの辺りで左に曲がるのかは暗夜行路だった。
しばらく走った後、やっと営業中のスタンドが見え、駆け込んで道を尋ねた。
案の定少し行き過ぎていて修正する道を教えてくれた。しかし教えてくれた店員さん
が最後に加えた「でも駅が分かるかな?」の一言が、新たな不安を誘った。

 教えられた道は一面の茶畑の間を走る真っ暗な農道で、歩行者どころか行き交う
車もない。ヘッドライトの灯りを頼りにそれとおぼしき道で右方向に逸れてみた。しかし
今度は舗装もない田舎道となり、更に深海のようになってきた。手探りで進んでいくと
先の茶畑の隙間からチラッと灯台の灯りのように車のライトが洩れて来た。都合の良
いことに灯台守はタクシーで、しかもこちらに向かって来た。窓を開け手を回して止
まってもらい「カネコ駅にいきたいんですが」と聞いてみた。「ああ、今俺が出てきた
とこを入れば、突き当たり」と言ってからこちらの客席を一瞥し、「大変だね、もう直ぐ
だから」と笑顔を寄せて去っていった。やっとたどり着いた「金子」駅は、ここは無人駅
ではないかと思えるほど小さな小屋のような形状だった。もちろん駅前には何もなく、
ただ公衆電話ボックスがぽつねんと置かれているだけだった。「お客さん駅、駅、金子
駅だよ!」と膝頭を強く揺すって起こしたが、「ア〜」が精一杯の反応だった。交番でも
あれば警察官立会いで所持品を見せてもらったりの手も打てるが、この場所ではお手
上げだった。「まったくもうこんな日に」と、もう一度客席に視線を送った時、青い公衆
電話と目が合った。客席に回り耳元で「家の電話番号は?」と尋ねると何か数字を呟い
ている。急ぎ運転席からペンと日報を取りもう一度試してみると、××ー××××と数
字を告げている。そのまま書き留めると市外局番がない。「家だ」と直感し、直ぐ公衆
電話のダイヤルを回してみた。

 呼出音が長く続き、やがて女性の声と繋がった。「夜分恐れ入ります。東京のタクシー
運転手なんですが・・・」と私は事情を説明した。「主人だと思います」、電話口の女性は
そう事務的に答えて駅から家までの道を案内してくれた。そこは歩いても5分位の距離
の所で、通りに奥さんがガウン姿で迎えに出ていた。後を追いながら路地を進むと、先
を曲がった突き当たりのお宅だった。ドアを開けると、間髪を入れずに矢のような一声
がとんだ。「起きなさい!運転手さん困ってるでしょ!」その瞬間、脚気の検査のように
酔客が飛び跳ねた。事態が飲み込めずポカンとした顔に二の矢が飛んだ。「お金あん
の!」乗客はメーターに目をやって「WA!」と一声発してかぶりを振った。
「運転手さんごめんなさい、今取って来ますから」と奥さんは家に戻っていった。たちまち
酔いが覚めたのか、「運転手さんマズイよ、マズイ」と繰返しながら客は鞄を抱えて項垂
れていた。仕方なく代々木からここまでの経緯を説明したが、乗車時の記憶すら全くなか
った。奥さんが戻り笑顔で料金を精算してくれたが、さすがに目は笑っていなかった。
客はそのまま拉致されるように玄関に消えていき、私は2時間半余りでやっとこの仕事
から解放された。急ぎ都心に戻るともうすっかり潮は引けていて、頼みの無線配車の
声も途切れがちになっていた。結局その日はその後二〜三の客を拾っただけで時間切
れとなり、売上的にはマグロの一本釣りで終わってしまった。大漁旗がはためく車庫
に戻り、日報の余白に書きこんだ電話番号に二重線を引いてから納金し、皆の喧騒の
輪から離れ洗車に移った。

 ただ、思い返すと不思議なことなのだが、奥さんの一喝でマグロが跳ね起き泳ぎ出した
例が他にもある。骨伝導の経絡の関係なのか?はたまた恐怖心なのか?景気が回復し、
街に再びマグロが回遊を始める前に、優しい女房殿の声を聞き分けるメカニズムを、
運転手のために、一度「ためしてガッテン」で試して欲しいと思っている。


(*):東京の八王子と群馬の高崎を結ぶJR線で、「金子」は八王子から数えて7つ目の駅らしい。