「夏の花」 


   甲州街道の欅並木。緑のトンネルを抜けると街からは初夏の香りがする。
タクシー運転手に季節の移ろいは早く、私も既に9年半が過ぎた。同僚の顔
ぶれも随分変わり、他界してもう会えない人もいる。そんな一人にTさんがいる。

 Tさんとは会社の寮で知り合い、オーバーステイの退寮勧告を受け、二人で
緊急避難的に近くのアパートに移り住んだ。噂では裕福な家庭に育ち、K大の
付属高校で裕次郎とクラスメートだったと聞いていた。休みの日はよく「北の旅人」
「粋な別れ」などを聞きながら、静かに横になって時を過ごしていた。

 そんな日常生活の中、ある日を境に部屋の冷蔵庫に異変が起き始めた。
昨日までの「氷の世界」が、まるで備蓄倉庫のように食材で溢れ出したのだ。
やがて理由が判明する。Tさんがいつしか、近所のスーパーのレジ係の女性を
恋するようになっていた。Tさんの買い物の量は日ごとに増え、「食ってよ、食って」
の声に押されて私はまるでブロイラーのようになり、その年の定期健康診断で、
生まれて初めて「要精密検査」の赤紙をもらうはめとなった。

 その恋も突然終わった。ある日、Tさんは思い切って店のレシートの裏に「電話を
下さい」と書いて渡したそうだ。ほどなく連絡が来て会うことになり、結果、その人は
単身赴任の夫を待つ身と分かった。
小柄で控えめなその女性との最初で最後のデートは、M駅に程近いカラオケボックス
だったらしい。Tさんはきっとその日、出会いと別れの信号待ちの一瞬に、愛する
裕次郎の歌を思いのたけを込めて熱唱したことだろう。
数日後「人妻だったよ・・・」とTさんは少し淋しそう笑っていた。
それは、都会のビルの林をかけぬけるタクシー運転手の、小さな夏の花だった。

 その翌年の早春、Tさんは持病の疾患の発作であっけなくこの世を去った。
そしてこの春、Tさんが逝ってからもう七回目の桜が風になった。