smells like 70's

この一枚

毎月のレビューからは洩れてしまったけど、ぜひとも紹介したいこの一枚。順次追加更新。

(Feb.4.2005) 
NINA SIMONE / BLACK GOLD (1970)
最初に行ったライブは74年前後のクラプトンかジムホールだった。どう見ていいのか全然わからなかった。まだ人のマネをして一人前になろうとしている時期に、自由に楽しめばなんていわれても無理な話だった。ただ珍しいモノを見るように、なにか見落としてしまわないように目を凝らしていた。見終わった後はフラフラに疲れていた。無力だが必死だった。ちょっと切ないけど懐かしい。だから客に反応を強いる場面に出会うとうんざりしてしまう。待ってましたと応える客にもがっかりする。客が同じ「フリ」をするに至っては会場を後にするかスイッチを切ってしまう。演じ手は表情一つ変えず集中すればいい。ニーナの発する気は濃く熱い。孤高で気高くて、とてもじゃないが近寄れない。でも遠目に見てるつもりが、最後にはすぐ近くまで引き寄せられている。暖かく気高いモノだとわかる。そういう仕組みになっている。
http://www.boscarol.com/nina/

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(Oct.28.2004) 
ARCHIE SHEPP/ ATTICA BLUES (1972)
音楽を演じることって、究極的には演じ手が消えることだと思う。音楽に演じ手が完全に覆い尽くされ、演じ手がその音楽に演奏させられている状態。で、これ。サックスから飛び出した音に覆われてアーチの姿などもう見えない。ここにはフリージャズどころか何のジャンルもない。メロディとリズム、それに特大のロマンチシズムがあるだけ。優雅で幻想的な佇まいは間違って入った最高級ホテルのディナーのように眺めているだけで夢心地にさせてくれる。そして目を覚ますといつもの安食堂のメニューも何故か輝いて見える。まったく音楽は魔法だ。
http://www.archieshepp.com/

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(Spt.20.2004) 
DAVID GRAY/ A NEW DAY AT MIDNIGHT (2004)
ジャケ買いです。特に歌や演奏に惹かれたわけでもなく、ただこの夕暮れがよくて。で、やはりそんなに聴かなくて、でもしばらくすると、又ジャケが気になってしばらく車で流してたら、だんだん好きになってきた。個性が強いとか、何か変わってるとか、とにかく目につく部分があると理解しやすいんだけど、「何となくイイ」ってなかなか理解しずらい。時間がかかる。こんな時代にスローフードじゃあるまいし、全くしょうがない。でも見つけた人は勝ち。感じられた人の勝ち。人のことなど気にすることはない。世間の評判など関係ない。もっと自分の感覚を大切にしなきゃいかんな、と思ったりしました。

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(Jul.2.2004) 
TOD RUNGREN / LIARS (2004)
子供のためにハワイに移住したトッド。記事を見ると最近はCDという流通形態を過去のモノとしようとしすぎているような気もする。ダウンロードによって音楽を入手し聴き手が自由にCDを焼いて音楽を楽しむというのもそりゃわかる。でも何にも考えないでぶらっと行ったCD屋で思いもかけない買い物ってのもなかなか楽しいんだよね。みんながみんな自分の欲しいモノを判っている訳じゃないから店ってのがある。何もかもネット通販にはならない。そこんとこもう少しわかってもいいと思うんだけど。それはさておきこの新譜、足し算足し算で音楽を作っているであろうトッドならではの息もつかせぬポップス万華鏡。曲も良し、歌も良し。でもこれを聴いたあとにフレンチの後のお茶漬けのように初期のディランが心地イイのはナゼ。

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(Apl.25.2004) 
BILL EVANS TRIO / SUNDAY AT THE VILLAGE VANGUARD (1961)
村上龍の小説には呆れるほどに節操がない(のに、ついつい引き込まれてしまう)。最高に魅力的な女性、大金、海外の一流ホテル、麻薬、最高のセックス、最高の食事、、。しかし何をしてここまで即物的たらんとするかね。慎みという欺瞞、いやちがう。これはジャズなのではないかな。音楽はどこか生活とつながっているものだけどジャズだけは日常に背を向けている。背を向けながらも非日常でも逃避でもなくて、いわばもう一つの存在感みたいなものを感じさせてくれる(様な気がする)。プレーヤー達のストイックな美の追究はきっと日常では何の役にも立たない。でも退廃ではなく極めて創造的。つまりは無用のクリエイティビティ。でもジャズは愛され、飽きられない。冷たい演奏に客は拍手し満足する。そうだよな、もう一つの存在感が持てたら、いつでもくだらない日常から休憩に来れるもんね。

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(Apl.14.2004) 
JOHN TRUDELL / A.K.A. GRAFITTI MAN (1992)
イラク日本人拉致被害者家族に嫌がらせがおこなわれている。顔も素性も公表し退路を断って助けを願う人達に背後から銃を突きつけるように、陰湿な脅迫が横行している。弱い者に対してのみ強く出る人達。どこにでもいると言ってしまいたくない。人間に希望を失わないのはそれが人間の義務だから。これらの陰湿なテロリスト(彼らこそそう呼ばれるべき)を否定する根拠として希望を持つ義務がある。恐怖に翻弄される被害者家族の気持ちは察して余りある。卑劣なる暴力に負けないでほしい。アメリカインディアン活動家で詩人のジョン・トルーデルは1979年、FBIビルに登り星条旗を焼いた。その12時間後、彼の家は放火され、妻と幼い2人の子供、義理の母親を失った。誰が何のためになどどうでもいい。卑劣な脅迫、暗殺には立ち向かわなければ行けない。安息はないのかも知れない。悲しい時代だ。
http://www.johntrudell.com/

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(Apl.9.2004) 
RICKIE LEE JONES / THE EVENING OF MY BEST DAY (2003)
イラクで日本人3人が拘束されてまもなく政府は自衛隊の撤退はないと言明した。自国民を守る手だてを検討する以前に出されたこの声明にアメリカ政府から感謝の意が表明された。国民の信託を受け運営されているはずの政府は、国民を守らないと言い切った。泥沼化するイラクからの大統領選挙前撤退をもくろむアメリカ政府の思惑に協力するために自国民の生命を犠牲にするという。こんな政府に投票した我々とはいったい何なのか。「彼は醜悪な男 いつだって醜悪な男だった 彼は成長して彼の父親みたいに醜悪な男になった そして彼はうそをつく あなたをじっと見つめて嘘をつく 彼は成長して彼の父親みたいに醜悪な心の持ち主になった ねえ見苦しいあなた 何をもくろんでいるの? 人々が知ったら この醜悪な男をどうするかしら? 楽しんでる? あなたと私との関係が 終わるとき 私たちはまだここにいるかしら?」(1曲目アグリー・マン訳詞より)砂を噛むような思いという表現はいまの被害者家族のためにこそある。しかしそれは俺達全員の思いではないだろうか。
http://www.rickieleejones.com/index.htm

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(Apl.1.2004) 
JOYCE / PASSARINHO URBANO(1977)
滅多に見ないテレビを見ていて重苦しい気分になった。ストーカーに怯える被害者、行方不明の娘を捜せ、息子の不当逮捕、、ちょっと待て、何か変じゃないか。住民に注意を促すようでもないし、ただ怖いモノを見せるように結末もはっきりしない。視聴者の不安を煽るためだけに放映しているんじゃないか?もしかして、これはボウリング・フォー・コロンバインなんじゃないか?カナダより銃所持率が低いアメリカで銃犯罪が多い理由〜テレビでの恐怖イメージの流布とそれによる不安感情の醸成〜巨大な刷り込みビジネス〜政治が日本でも行われているのかもしれない。溺れる者は藁を持つかむ。で、それとは全く逆に、どんなときでも幸福な気持ちにさせられるのが最近再発されたこれ。自然で穏やかなテンション。人間本来のバイブレーションなのか、楽しいときでも悲しいときでも心にスっと入ってくる。これが音楽。音楽は侮れない。

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(Mar.20.2004) 
DAN FOGELBERG / THE ESSENTIAL (2003)
美食ってどこか品がない。誰もがする食事を格付けしたり娯楽にしたり、結局差別を遊んでいるような器の小ささを感じてしまう。B級グルメってのもなおさら悲しい。だからお宝鑑定団にも溜息がでる。食事についていえば、食べる側に何の栄養が不足しているのか=何が食べたいかを無視して、その料理自体に固有の評価があるかのようにいってしまうのはやっぱり違うと思う。人が最初。で、音楽。音楽も聴き手が共鳴して初めて意味があるもの。だからいくら名盤とかランキングといったところで本当は意味がない。品がないとはいわない。でも、「たまたま聞いたらよかった」が実はすべてなのだ。食も音楽も本来、人に勧められるモノじゃない。人が感じて取り入れる。だから本当の美食家は食文化を破壊する大手食品産業を、本当の音楽愛好者は大手音楽産業を討つのが正しい。音楽との出会いは個人的にはカーラジオが理想。滅多に好きな曲は流れないけど、雨の日にこのCDの「雨音のリズム」でも流れてきたら最高だ。
http://www.treehouse.org/fogelberg/

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(Feb.1.2004) 
TOWN AND COUNTRY / 5 (2003)
「音楽」ってつくづく一人称なものだと思う。表現者の意図とは関係なく聴き手の数だけ音楽の意味や役割があるのだろうし、もともと表現でない工場の機械音や風や波の音だって聴き手によっては音楽といえるかもしれない。いってみれば誰かがその音を楽しんだのならそれがその人にとっての音楽なのだろう。じゃあ音を楽しむというのはどういうことかといえば、それは「共鳴すること」なのではないだろうか。ほとんどアコースティック楽器による持続音で構成されているこのCDは、多分そんなに売れないだろう。しかしこの優しい持続音集は共鳴ということを強烈に意識させてくれる。演じ手は恐らくメロディーやリズムを排除して人間の身体の奥に眠っている共鳴欲みたいなモノを目覚めさせようとしているのかも知れない。ホント音楽って一人称なものだと思う。

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(Nov.5.2003) 
JOHNNY AND EDGER WINTER / TOGETHER (1976)
ジョニー弾きすぎエドガー切れすぎなどと揶揄されることも多いウインター兄弟。しかしこのライブ盤ではエンターテインメントの粋が凝縮された正にプロフェッショナルな芸を教えてくれる。楽しくなきゃお金は払ってもらえない。作り物じゃ客の目はごまかせない。ロックが記号化する以前、演技者と聴衆の間に一切の妥協、なれ合いのなかったころの正統派ライブ盤。音楽に夢を求めていた観客と、それに正面からぶつかっていくウインターファミリーの迫力。ブルース、ソウル、R&Rと自らのルーツを全開にして走りきった姿は文句ナシにかっこいい。Rデリンジャーを含むバンドのガッツ溢れる演奏と相まった直球ロックショウ。いつ聴いても心を踊らせてくれる。(ジャケ手前が兄ジョニー、奥からこっちを見ているのが弟エドガー)
http://www.johnnywinter.net/

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(Spt.8.2003)
STEVIE RAY VAUGHN AND THE DOUBLE TROUBLE / IN STEP
(1989)
エレキギターの楽しさに気付かせてくれたスティービー。3コードの繰り返しでも延々と続くスローブルースでも決してテンションが落ちないギターは本当に素晴らしかった。が、同時に不思議でもあった。何故ダレないんだろう。多分その答はメロディーなんだと思う。単純で強烈なメロディーをまるでアクション娯楽映画のように次々と展開させ、曲全体が強烈なバイブレーションを放っている。メロディーは陶酔をリズムは覚醒を誘い、聴き手は知らぬ間に虜にさせられてしまう。機械的なビートが蔓延する80年代に音楽が本来の持つダイナミズムを思い出させ、ロックギターファンの手にもう一度エレキギターを取り戻してくれたスティービー。しかしこのアルバムを出した1年後、彼の乗ったヘリコプターは山に激突。彼はこの世を去った。
http://www.sonymusic.com/artists/StevieRayVaughan/

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(Aug.24.2003)
BRUCE SPRINGSTEEN AND THE E STREET BAND / LIVE IN NEW YORK CITY
(2001)
洋楽を聴いているとつい歌詞の内容もわかったような気になってしまうことがある。BORN IN THE USAは米国賛歌、BURN TO RUNは青春の光と影‥。しかし彼は決して米国や青春を賛美しているわけではかった。“生気のない町に生まれ、人目を盗んで生きる、問題を起こし、どこへ行くこともできない‥(Born In The USA)”“今夜飲みに行こう、年を取ってから昔ことを考えてばかりいたくない、だが恐らくそうなるだろう(Glory Days)”まず現実を見ろと言う。そこから目を背けないで初めて自分が何をするべきかがわかると言っている。彼は聴き手を癒そう、楽しませようなどとは思ってはいない。彼がするのは自分の痛みを見せることだけ。後はそれぞれが考えればいい。そうして一人一人の存在が同じ価値を持つことに気付けばいい。そこから始めればいい。ヒーローはいつも敗者のためにある。敗者の国アメリカで彼は歌っている。
http://www.brucespringsteen.net/

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(Aug.13.2003)
Mireille Mathieu / rencontres de femmes
(1988)
あるイベントで客席から「どうしたらそんなに感動的に歌えるのか」ときかれて「感動的に歌っているのではなくて聴いているアナタが感動しているのです」と答えたのは吉田美奈子だったが、以前、同じことを感じさせてくれたのが、確か90年にパリの薬局で買ったこのLPだった。歌い手が魂を込めて歌う「うた」は、聴き手に届いた瞬間にもう歌い手のモノではなくなる。ミレイユのまっすぐな歌は聴き手のことなどハナから考えていない。聴き手にどう聞こえるかではなく自分がどう歌うかしかないのだ。聴き手のことを考えた歌は聴き手には届かない。ミレイユはそこにある曲の世界を一瞬の迷いもなく歌い切る。それ以上でも以下でもなく、そこにあるモノだけを歌い、そこにいる自分が歌えることだけを歌う。次の瞬間には忘れ去られるとしても気にもしない。つまり音楽という日常なのだ。
http://www.MireilleMathieu.com/

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