「ほ〜ら、頭の中がジーンとしびれる、とても良い気持ちよ」
薄暗いマンションの一室の中で、落ち着いた女性の声が響いていた。
天井の蛍光灯は消してる。
小さなテーブルの上に置かれたスタンドの明かりだけが、この部屋を薄暗く照らしていた。
声の主は、よく洗濯されているであろう、真っ白な白衣を身にまとっている。
少し長めの髪を後で縛り、銀縁の眼鏡をかけていた。
眼鏡の中には、理知的な瞳が輝き、みるからに女医、といった趣がある。
唇はやや厚く、官能的な肉感があった。
彼女の前には、1人の少女が折り畳み椅子に座っていた。
そして、その官能的な唇で語りかけている。
「由里ちゃんはぁ、目が醒めた後、私ととっても仲良しになれるのよぉ」
「由里ちゃんは、私と仲良しになれて嬉しい?」
「私は、由里ちゃんと仲良しになれて嬉しいわ」
まるで子供をあやすような、柔らかい声色だ。
見つめる眼差しも、優しい。
どうやら、少女の名前は『由里』というらしい。
由里は目を閉じ、そして弛緩した表情で、寝息を立てていた。
寝顔というよりは、恍惚と言った方が良いかもしれない。
由里は、どうやら高校生らい。
白いブラウスに、金ボタンの紺色のダブルのブレザー。
襟元の赤いリボンが可愛らしい。
スカートは、チェックのプリーツで、最近の流行の短い物らしかった。
らしいかった、というのは彼女の膝にはバスタオルがかけられていて、スカートの裾が見えないからだ。
髪型はショートで、色白の可愛らしい娘であった。
白衣の女性は、両手で由里の頭を優しく、親指と中指と薬指と掌で挟み込んだ。
人差し指と小指は、立てている。
そして、由里の頭をゆっくり、そして大きく回しながら言った。
声色も先程とは違い、大きく、ダイナミックな物だった。
「ほ〜ら、私が由里ちゃんの頭を回しますよ〜、そうすると、由里ちゃんの頭の中もぐるぐる回って、由里ちゃんは、な〜んにも判らなくなります」
「由里ちゃんの頭が回る、大きく回る、グ〜ルグル回る〜」
「ほらほら〜頭の中でも、何かがグルグル回る〜大きく回る〜、ほ〜らとっても良い気持ちよ」
完全に力が抜けているのだろう。
由里の身体は、何の抵抗もなく大きく回っている。
そして、頭の回転に合わせて腕がブラブラ動いている。
いつのまにか、白衣の女性は由里の頭から手を離していた。
しかし、それでもまだ、由里の頭は大きく回転していた。
「ほ〜ら、私が手を離しても回ってますよ」
「大きく回る、もっともっと大きく回るわ」
由里の回転は、言われた通りドンドン大きくなっていった。
前には、胸が腿に着くくらいに。
後には、顎の下が見えるくらいに。
それにつられ、両腕も自由に大きくブランブランと揺れていた。
「私が、ハイッ!と言うと、由里ちゃんの頭の回転が止まって、後に倒れてしまいます、とても良い気持ちになりますよ」
「ハイッ!、倒れる、とても良い気持ちね」
「体がグーンと伸びてしまいます、もう何にも考えられない」
「ほ〜ら、由里ちゃんの頭の中はカラッポです」
「体が伸びてしまって、まるで棒のよう」
言われた通りに、由里の身体は完全に後に倒れた。
腰が椅子から離れるほど身体が伸び切ってしまい、全身が硬直している。
よく見ると、全身がピクピクと痙攣していた。
口は、ポカーンと開いていて、今にもよだれが垂れそうである。
頬はバラ色に輝き、うっとりとした表情で、非常に気持ちよさそうであった。
「ハイ、力が抜けますよ〜」
そういって、白衣の女性は完全に後に倒れていた由里の身体を、前に倒した。
由里の体が、脱力して前傾姿勢になる。
「今から、私が10数えるわ、10数えて手を打つと、とっても良い気持ちで目が醒めるわよ」
「でも、目が醒めても今まであった事は、全て忘れているわ、でも、今日の事は心の奥底にしっかりとしみ込んでいるのよ」
「そして、私と由里ちゃんはとっても仲良し、良いわね」
『仲良し』という言葉に反応したのだろう。
由里の口元に、笑みが漏れた。
「1、2、3、ほら身体に力が入ってきた」
「4、5、6、頭もすっきり、手足にも力が入ってきたわ」
「7、8、もう少し、もう少しで気持ち良〜く目が覚めるわよ」
「9、10、ハイ」
と同時に、白衣の女性は、由里の目の前で手を叩いた。
「ハイ、とっても良い気持ちで目が覚めましたよ」
「大きく、延びをしてみましょうね」
目を開いた由里は、しばらくキョトンとしていたが、言われた通り大きな延びをした。
十分に延びをさせた後、白衣の女性が由里に聞いた。
「気分はどう?由里ちゃん」
目が覚めたばかりだからであろう。
寝ぼけ眼で惚けていた由里だが、ホンの数刻ボケッとした後、顔をブルブルッと振り、溜息をつくような口調で、囁いた。
「とっても気持ちが良いですね」
そして、白衣の女性の方を向き、更に言葉を続けた。
「何回やっても、催眠術って気持ちが良いです、まどか先生」
由里は本気でそう思っている。
口に出しては言わないが、目が覚めるたびに、
『何で醒ましちゃうのかなぁ・・・』
と不満に感じているくらいだ。
出来れば、ずーっと、催眠状態の気持ち良さを味わっていたいと、思ってすらいる。
本来なら、治療のためにかけられている催眠術なのだが、由里にとってこの週一回の催眠療法は、彼女の一番の楽しみにまでなっていた。
由里が完全に目が覚めるのを待って、白衣の女性、まどかは、部屋の明かりを付けに行った。
「フフフ・・・そう言ってもらえると、私も嬉しいわ」
「由里ちゃんは、かかりも良いし、きっと良い効果が出るはずよ」
霧島まどかは、催眠カウンセラーだ。
年齢的には、まだ20代後半に入ったばかりだが、既に独立してカウンセラーをやっている。
「それじゃあ、また来週、同じ時間にきてね」
「は〜い、それじゃあ、まどか先生、さようなら〜」
まどかは、由里を玄関まで送った。
屈託の無い、由里の笑顔には、まどかへの好意に輝いていた。
勿論、さっきの催眠暗示の効果だろうが、決して悪い気はしない。
しかし、こういった感情も、治療が終わる頃には消してしまわなければならない。
そうしなければ、患者がいつまでも依存心を持ち続けるからだ。
事実、由里の催眠術をかけられる時の、期待に満ちた表情を見ると、はまりすぎているのでは、と感じることすらある。
更に注意しなければいけないのは、まどか自身の心だ。
催眠術を行うことによって、被催眠者の心には、催眠者に特別な感情が湧いて来る。
しかし、その特別な感情は一方通行の物ではない。
催眠者も、被催眠者に対して、特別な感情を抱くのだ。
そう、過度な思い入れは、お互いにとって危険なのだ。
とはいえ、学力増進の為に、集中力のアップを望む、由里の母親を満足させる為には、後一回も面接すれば大丈夫だろう。
後は、由里が自己催眠のトレーニングをすれば、まったく問題ない。
短期の仕事には、それ程の危険はないであろう。
「はぁ・・・」
今日の最後の患者を帰し、まどかは、溜息をついた。
そう、まどかの患者は、短期の人間しかいない。
それが彼女の悩みだった。
カウンセラーは、人の悩みを聞く仕事だ。
一般論を言えば、自分より年下の人間に悩みを話そうとする人間は、少ないだろう。
若さはそれだけで、信頼をおかれるのに、ハンデとなる。
また、まどか自身も年輩者の悩みを聞ける自信がなかった。
人生の年輪を、積み重ねてきた人間の苦労を、果たして理解できるのか?
何十年も働きずくめの、リストラに怯える中年男性の悩みが、理解できるだろうか?
家事、育児、に疲れ果て、誰からも認められない、中年の女性の苦しみを、理解できるだろうか?
勿論、若い女性のカウンセラーにも、メリットはある。
若い女性や子供の患者には、むしろ有利に働くだろう。
事実まどかは、組織に属していた頃、そういった患者からの評判は、すこぶる良かった。
しかし、彼らの悩みはおおむね軽い物が多い。
(勿論、例外もあるが)
また、若い人間は、催眠感受性が高く、簡単に深い催眠状態にはいるので、治療期間は往々にして短かった。
こういう考えは、モラルに反すると、まどかも判っている。
が、長期の患者が来ないと儲からないのだ。
はっきり言って、まどかは自分の催眠誘導技術に相当の自信を持っていた。
事実、かなりの腕前だと言って良い。
小学生の時、催眠術の本を買ったときから、まどか催眠歴は始まった。
女の子の間で、リーダー格でもあったまどかは、友人の殆どを練習台として、腕を磨いた。
中学、高校でも、同様に腕を磨き、その当時ですら、相当の腕前だったと言って良いだろう。
相手の隙をつき、一言の暗示で、相手を催眠状態にする事すら出来た。
そして、自分の技術に酔っていたまどかは、かなり自分の都合良く、催眠術を使っていた。
若気の至りだったのだろう、当時のまどかの友人達は、まどかの操り人形同然だったのだ。
まどかは、当時の事を思い出すと、今でも胸が痛くなるし、その経験が、カウンセラーへの道へ進ませる主因となっていると言って良いだろう。
しかし、まどかは焦りすぎている。
まどかは若い、そう、独立して1人でカウンセラーをやるには、若すぎるのである。
冷静に考えてみれば、簡単に判ることではあるが、催眠誘導技術に関して相当の自信を持っていたまどかは、それに気が付かなかったのだ。
「今日は、夜のバイトは無しっ・・・と」
まどかは、カウンセリング業を営む為に、高家賃のマンションを借りている。
防音効果が高いからだ。
知らない者からすると以外に思えるだろうが、催眠暗示は思いの外、大きな声になる物なのだ。
住居と兼ねているとはいえ、まどかの本業だけの収入では、到底維持できる物では無い。
よってまどかは、週3回、夜にバイトをして補っている。
1日の仕事を終え、まどかは夕食の支度の為、買い物に出かけることにした。
白衣を脱ぎ、ベージュのハーフコートを取り、それを羽織った。
歩きやすい、ヒールの低い靴を履き、玄関を出る。
冬の陽は短い。
まだ、5時を過ぎたばかりだというのに、辺りはもう真っ暗になっていた。
冷たい風に触れ、ブルッと1回身震いをした。
「えぇっ!」
玄関を出ると、小さい声ながら驚きを含んだ声が聞こえた。
となりの玄関前から聞こえてくるようだ。
まどかは足を止め、声のした方向を見た。
「そうなの・・・」
「うん・・・うん・・・」
「仕方がないね、ううん、良いの・・・」
「じゃあ・・・」
薄暗い灯りなのではっきりはしない。
が、どうやら小学生の女の子らしかった。
彼女は、携帯電話で話しているようだった。
その子には見覚えがあった。
隣の部屋の住人である。
特に親しい付き合いがあるわけでは無い。
会ったとき挨拶をするくらいだ。
都会でのマンション内での付き合いとは、その程度の物であろう。
その僅かの付き合いの中で、まどかが知っている事と言えば、母親がいないという事位だった。
彼女の父親と、少し世間話をしたことがある。
物心着く前に、病気で亡くなっているらしく、それ以来、男手1つで育てられているらしい
母親がいない所為であろう。
心理カウンセラーである、まどかから見て、どこか元気のない姿が、前から少し気になっていた。
幼少期における、母親の愛がいかに大切であるかを、物語っているように思えた。
あまりの、落胆と悲しみを見て取ったまどかは、興味をそそられた。
『放っておけないわね・・・』
これも、カウンセラーとしての習性であろう。
俯いたまま、その場を動こうともしない女の子の前に行き、目線を合わせるために膝をついた。
しゃがんで、目線を合わせる。
子供の心に飛び込むための、カウンセリングの基本だ。
上から見下ろしてしまえば、心が通じ合わない。
『えーと・・・確か名前は、友美ちゃんだったわね』
まどかは、記憶の中から、女の子の名前を探った。
「こんばんは、友美ちゃん」
「一体、どうしたの?」
優しい声で話しかける。
それと同時に、友美の頭にそっと手を置いた。
友美の心の不安を感じ取ったまどかは、スキンシップの必要を感じたからだ。
俯いていた友美だったが、まどかの声に反応して顔を上げ、まどかの方を見た。
友美の顔を間近に見るのは初めてだ。
大きな瞳に、小ぶりの鼻。
頬はふっくらとしている。
髪は細くサラサラしていて、少し茶色がかっていた。
その髪を、赤いリボンでまとめていた。
茶色のオーバーコートを身につけ、裾から赤いプリーツスカートが見える。
襟元から見ると、コートの下は、タートルネックの白いセーターらしかった。
『男親にしては上出来ね』
容姿を素早く一通り観察して、まどかは思った。
そして、プロのカウンセラーとして、友美を観察した。
見ると、友美の目には悲しみが宿り、いっぱいの涙を溜めていた。
『これは、一回泣かせた方が良いわね』
辛い事、悲しい事を我慢するのは、精神衛生上良くない。
発散させる事によって、心は落ち着く物だ。
ガス抜きには、泣く事が有効だろう。
と判断したまどかは、頭に置いた手を頬に移した。
人差し指は、目尻の近くにあてている。
そして、人差し指で軽く目尻を圧迫し、溜まった涙を流させた。
じっと心の痛みに耐えていた、友美だったが、涙が流れてしまった事によって、自分が泣いている事を自覚してしまった。
すると、今までのやせ我慢が吹き飛んでしまい、涙が次から次へと出てきた。
止めどもなく涙が溢れ、堰を切ったように泣き始める。
嗚咽を上げる友美を、まどかは胸で優しく抱き、思う存分泣かせた。
ひとしきり泣いて、友美は少し落ち着いたようだった。
大泣きした後の倦怠感が、友美の身体を包み、目と鼻が腫れぼったかった。
突然、自分がとなりのお姉さんに、抱きついて泣いていた事実に気付き、はっとして顔を上げた。
その瞬間、友美の顔を、まどかの掌が包む。
友美は、突然の出来事に、軽いパニック状態を起こす。
その隙に、まどかが催眠暗示を与えた。
「ハイッ!あなたの瞼が閉じてしまう、もう絶対に開かない!」
「開けてご覧なさい・・・」
「絶対に、開かないわ!」
廊下なので、余り大きな声ではない。
しかし、鋭い口調のその催眠暗示は、虚をつかれた友美の脳に、強力無比な効果を与えた。
友美の瞼はピッタリとくっついてしまい、どうあがいても開けられなかった。
『えっ?えっ?えっ?』
何が起こったのか理解できず、友美は、更に大きなパニック状態に陥った。
最初の暗示が、確実に効いたのをまどかは実感した。
もう、友美はまな板の上の鯉だ。
まどかは、矢継ぎ早に催眠暗示を与える。
「ほら、頭が後に倒れる」
まどかの手が、友美の頭を倒し、顎を上げさせる。
「ほら、身体がグッと反って、棒のように固くなるわ、ハイッ!」
右手を友美の顔にかぶせたまま、まどかの左手が、友美の腰を軽く突いた。
友美の体は、言われたとおり棒のように固くなった。
体はブルブル痙攣して、自分の意志では、どこも動かせなくなってしまっている。
スカートのヒダが、体の揺れに合わせて、震えている。
まどかは、友美の顔から右手を離した。
左手は、倒れないために腰を支えている。
そして、友美の表情を覗き見た。
瞼がピクピクと痙攣し、口は半開きに開いていた。
完全に術中に落ちたと、まどかは確信した。
更に深い催眠状態に誘う為、更なる催眠暗示を投げ放つ。
「私の手は魔法の手よ、触れた瞬間、頭の中に電気が流れて、頭の芯まで痺れてしまう!」
「何も考えられなくなって、頭の中がからっぽになるよ」
「とっても良〜い気持ち」
そう暗示して、右手の親指と人差し指で、友美のこめかみを押さえた。
その瞬間、友美の全身が電気に打たれたように痙攣する。
「ほーら、頭の中まで中まで、ジンジン痺れる」
「もっともっと、痺れる、ジーンと痺れるわ」
「頭の中はからっぽ、とっても良い気持ちよ」
初めの催眠暗示から、まだ1分もたっていない。
しかし、友美は完全に、まどかの催眠術の虜になってしまった。
頭の中はからっぽで、何も考えられなかった。
それどころか、今自分がどこにいて、何をしているのかすらも理解できない。
認識できる物は、まどかの声だけだった。
まどかの声が、頭の中でエコーがかかったように聞こえ、また、それが信じられない位気持ちよかった。
まどかにいつまでも語りかけてもらって、ずっとこのままでいたいと、思っていた。
濁流にもまれる木の葉のように、友美は、まどかの言葉の渦に、巻き込まれている。
身も心もまどかの物になってしまい、自分では、何もする必要も、何も考える必要もなかった。
全てを他人にゆだねる快感に、友美は完全に溺れてしまい、先程までの大きな悲しみは、遠い過去の出来事同様に、なってしまっていた。
まどかは思った。
『やはり、催眠術は面白い』
小学生で、初めて催眠術を人にかけた頃から、この思いは変わらない。
背中にゾクゾクした物が走り、胸がドキドキする。
特に、こういう、強引なかけかたは大好きだ。
そして、自分の手で支えているこの少女が、自分の掌の中にすっぽり収まってしまったような、錯覚をしてしまう。
そんな、催眠術に溺れてしまっている自分を、危険だと思う。
その所為で、まどかの心に癒せぬ傷が付いてしまったのだから。
取り敢えず、その考えを頭から追い払い、全身を痙攣させながら、まどかの催眠暗示を待っている友美に、次の暗示を与えた。
「次にハイッと言うと、全身の力が抜け、グニャグニャになってしまうわ」
「でも、大丈夫」
「私があなたの体を支えているから、安心して」
「とっても良い気持ちになるわ」
「ハイッ!」
友美の体から、一瞬に、完全に、力が抜けてしまった。
頭はガックリと垂れ下がり、両腕も腕そのものの重さで、ブラブラしている。
足からも完全に力が抜けて、まどかが支えていなければ、その場に倒れてしまっていただろう。
まどかは、友美の顔を覗き見た。
顔からも完全に力が抜け、恍惚とした表情であった。
小学生らしからぬ、色気すら感じさせる。
『ふふっ、友美ちゃん、可愛いわ!』
と、まどかは思った。
ピュウと夜の風が、吹き抜けた。
まどかは我に返った、惚けてなんかいられない。
まどかは、友美を抱えて、自分のマンションに戻った。
部屋に戻ったまどかは、催眠面接室に入り、スタンドの明かりを付けた。
部屋が薄暗い明かりで照らされる。
更に、暖房のスイッチを入れる。
ホンの10分ほど前まで、暖房を入れていたので、すぐに暖かくなった。
まどかは、友美を抱えたまま、折り畳み椅子を器用に広げた。
そして、完全に脱力している友美を、椅子からずり落ちないように、丁寧に座らせた。
「さて」
まどかは、腕まくりをした。
そして、友美の額に触れ、軽く揺らしてみる。
完全に力が抜けていて、深い催眠状態に入っている。
『コートが邪魔ね』
と思ったまどかは、コートを脱がせる為の暗示を友美に与え始めた。
スタンドを取り、友美の顔に近づける。
白熱灯の明かりが、友美の顔を照らした。
「ほ〜ら友美ちゃん、この部屋が段々暑くなってきたわ、暑くて暑くてたまらない」
「この部屋の暖房は、凄く強力、とっても暑いわ」
「25度、26度、27度・・・」
友美の顔に汗がにじんできた。
「ほらほら〜まだ暑くなる、ドンドン暑くなる、とっても堪らないよ」
「友美ちゃん、コートを着ているわね、コートの中がムンムンする、汗があふれてきたわ」
友美は苦しそうだ。
顔が汗でびっしょり濡れている。
友美は、コートを脱ごうとボタンに手をかけようとした。
「ハイ、腕から力が抜ける〜、まったく動かせないよ」
「どんなに力を入れようとしても駄目、まったく力が入らない」
「肩から手の先まで〜完全に力が抜けている〜」
友美の腕が、ダランと垂れ下がった。
重みでブラブラしている、完全に脱力しているようだった。
『暴れられたら困るわね』
と思い、まどかは暗示を与えた。
「ハイ、友美ちゃんの背中が、椅子にくっついちゃった!」
バン、と椅子の背もたれを叩く。
「足が床にくっつく!」
まどかの足の甲を軽く踏んだ。
「ほら、どんなに抵抗しても、絶対に離れない!」
友美はもがいた。
しかし、まどかの催眠暗示は強力だ。
友美は、腕を動かすことも、椅子から立つことも、足を床から離すことも、全てまったく出来なかった。
まどかは、スタンドを更に友美の顔に近づけ、
「ほらほら〜まだまだ暑くなる、ドンドン暑くなる、もっともっと暑くなるよ」
「まるで、真夏の太陽に、全身を照らされているみたいだわ」
友美は喘いだ。
口を開けて、ハアハアと荒く息を付く。
汗が滝のように溢れ、ゴクリとつばを飲み込んだ。
あまりに苦しいのだろう、目にはうっすらと涙を浮かべていた。
まどかは、暗示を続けた。
「私が、ハイッというと、友美ちゃんは腕が動かせるようになるわ」
「背中も椅子から離れるし、足もはなせるようになるわよ、いいわね」
「ハイッ!」
その瞬間、友美はコートを脱ぎ始める。
焦りと、手にかいた汗で、なかなかボタンを外せないようだった。
ようやく、全てのボタンを外し、コートを投げ捨てた。
更にセーターも脱ごうとした瞬間、まどかが催眠暗示を与える。
「ハイッ、友美ちゃんの体から、スーッと力が抜けてしまいます」
「もう、立っていられない〜」
「ハイッ、スゥゥゥゥーッ」
糸が切れた操り人形のように、友美の体が崩れ落ちる。
その体を、まどかが支え、静かに椅子に座らせた。
友美は、首をガックリとうなだれて、脱力している。
その友美の顔を、まどかは軽く手であおいだ。
「あらあら、今度は急に寒くなってきましたよ」
「冷た〜い風が吹いてきて、あなたの全身を冷やしてしまうわ」
「さっき、かいた汗がドンドン冷えていくよ」
熱さに喘いでいた友美が、体をブルッと震わせた。
「ほらほら〜寒〜くなる、ドンドン寒くなる、もっと寒くなる、凍えちゃうわ」
「冷たい風がビュウビュウ吹いている」
「友美ちゃんの体がドンドン冷えていくわ、汗がすっかり冷たくなってしまった」
友美の体が、ガタガタ震え始めた
両手で自分の体を抱き、両足をピッタリと付け、体を丸めている。
「さっき脱ぎ捨てたコートは、どこにいったのかしら?」
「あぁ、コートが着たい、コートが着たいわ」
「とっても寒くてコートが着たい」
まどかの暗示に反応して、友美の手が宙をまさぐり始めた。
うわごとのように
「コート、コート・・・」
と言っている。
「ああ、でも見つからない〜」
「あなたのコートは、風で飛ばされてしまった〜」
「大変だ、コートはあなたの手には戻ってきません」
友美は悲痛な表情になり、泳がせていた手で、また自分の体を抱いた。
時折、自分の手に息をかけて暖めようとしていた。
「ますます、寒くなってくるよ、風が冷た〜い」
「ドンドン、風が冷たくなってくる、強くなってくるわ」
「ああ、雪が降ってきた、吹雪よ、友美ちゃんは猛吹雪の中独りぽっちです」
友美は、椅子の上で足を折り畳み、手で足を抱えた。
椅子の上でガタガタ震えている。
まどかは、友美が倒れないように、椅子を押さえた
「友美ちゃんの体に、雪が積もってくる、寒い〜寒い〜」
「体が冷えてくる、ドンドン冷えてくる、もう完全に体が冷えてしまって、友美ちゃんは動くことができないわ」
「大変だ、このままだと友美ちゃんは凍え死んじゃうよ」
「助けを呼ばなくちゃ、でも駄目、凍えちゃって友美ちゃんは、声を出せないわ」
友美は、口をパクパクさせた。
しかし、かすれた、蚊の鳴くような声しか出せなかった。
顔を見ると、唇が真っ青になっている。
表情は、苦痛と恐怖で歪んでおり、目からは涙が溢れていた。
まどかはいつもながら、自分の催眠暗示の威力に、我ながら驚いていた。
『頃合いね』
まどかは、友美の後に回り、両手の掌で友美の頭をはさんだ。
「寒くて寒くて、友美ちゃんは何も考えられない」
「寒さのことで、友美ちゃんの頭はいっぱいよ」
「頭の中がはち切れる〜」
催眠暗示を与えながら、軽く頭を揺らす。
「私が、ハイッと言うと雪がやんで、寒さがひいていくわ、暖かくなるよ」
「暖かくなると、全身から力が抜けて、頭の中がカラッポになるわ」
「ハイッ!」
友美の体から、スト〜ンと力が抜け、両手がダラリと下がり、椅子の上に置いていた足が床に落ちた。
椅子から転がり落ちそうになり、まどかが支えた。
「スーッと力が抜ける〜、ほらほら〜全身がポカポカ暖かくなってきましたね、もう大丈夫、とても良い気持ちよ」
「頭の中はすっかりカラッポ、何にも判らない〜」
「おやおや、体が軽〜くなってしまった、フワフワの白い雲のように軽〜くなってしまったね」
「軽〜い、軽〜い、フワフワ〜、体が浮かんでいく〜、とても良い気持ちよ、頭の中は真っ白で何にもないよ」
友美は、先程までの苦痛の表情が嘘のように、おだやかな表情になっていた。
もう、何も考えることが出来ず、頭の中はカラッポだった。
まどかの声が、自分の回りを包んでいるように感じられ、またそれが堪らなく気持ちよかった。
今や友美にとって、まどかの声が世界の全てだった。
そして、聞いているだけで心地よい、まどかの次の言葉を待っていた。
『よしっ』
まどかは、確かな手応えを感じ、満足した。
脳に恐慌状態を与え、一気に深い催眠状態に落とす。
まどかが得意とする、やりかただ。
今や友美は、最も深い催眠状態に入り、まどかの言うことは何でも聞いてしまう、操り人形状態になっている。
ここまで、入れてしまえば後は簡単だ。
「それでは、私がハイッというと、貴女の目が開くわ、でも目は覚めません」
「でも、私の声以外、何も理解することは出来ないわ」
「目が開くと、貴女の目の前に、テレビとビデオが置いてありますよ、良いですね」
「ハイッ!まぶたにグーッと力が入って、目が開きますよ」
まどかの暗示で、友美はノロノロと目を開いた。
深い催眠状態特有の、うつろな表情だった。
ボーッとした目で、前を見ていた。
勿論、テレビやビデオなどは置いていない。
「じゃあ、ビデオのスイッチを押すよ、ハイ」
「あらあら〜、貴女の家の前が写ってますよ」
「おや、貴女が電話しているわね、何を話しているのかな?」
「お口が開いて、お話の内容を、ぜ〜んぶ話してしまうわ」
友美には、テレビが見えているのだろう。
まどかの言われたとおり、友美はさっきの電話の内容を話し始めた。
友美の話しはこうだった。
今日は、友美の誕生日だったのだ。
そして、誕生日のお祝いで父親と、外で食事をする筈だった。
しかし、急の仕事が入ってしまい、食事はキャンセルになってしまったのだ。
友美は、聞き分けが良い子だった。
父親が自分のためにどれだけ苦労しているか、知っていた。
だから、文句も言わず父親も責めずに、我慢したのだった。
「う〜ん・・・」
事情を知ってまどかは唸った。
『どうしよう、手に負え無いじゃない・・・』
友美の心の傷を癒す方法は、ただ1つ。
友美の父親を連れてきて、誕生日パーティーを開くことだ。
しかし、そんなことは出来るはずもない。
まどかは途方に暮れた。
『せめて、友美ちゃんと親しい人を連れてきて、パーティーを開くって方法はあるけど・・・』
友美の交友関係など、まどかが知るはずもない。
知っていたとしても、今から集めてパーティーを開くには、時間がなかった。
『そうだ!』
「ハイ、貴女のまぶたが閉じます、ほら、全身から力が抜けてとってもゆったりと、良い気持ちになりますよ」
友美は、まどかの催眠暗示とおり、目が閉じて、全身から力が抜けグッタリしてしまった。
「貴女の頭の中に、時計を思い浮かべてね」
「大きな大きな時計ですね」
「そして私が、ハイと言うと、その時計が逆に回り始めます」
「そうすると、本当に時間が遡っていきますよ、良いですね〜」
「ハイッ!」
まどかは、退行催眠を友美にかけ始めた。
「ほら、ドンドン時間が戻ります、時計の針が凄い勢いで逆回転します」
「ハイ、今日は、貴女がこのマンションに越してきた日です」
「貴女は、マンションの扉を開けます」
「アレアレ、誰か知らない人が立ってますね」
「貴女は間違えて、隣の扉を開けてしまいました、目の前にいる人はお隣の、まどかお姉さんです」
まどかは暗示を続ける。
「あれ、何か不思議な気持ちです、まどかお姉さんを見ていると、心が柔らかくなっていきます」
「貴女は一目で、まどかお姉さんが好きになってしまいました」
その後もまどかは、友美に自分に好意を持つ催眠暗示を続けた。
また、友美に自分との楽しく遊んだ、偽の記憶も作り上げた。
催眠状態では、被催眠者は催眠者に好意を持ってしまい、催眠後もそれは続く。
その上、まどかが与えた催眠暗示によって、友美はまどかが大好きになってしまっていた。
大好きなまどかお姉さんと一緒にいる。
友美は、幸せそうな表情で、リラックスしていた。
うっとりした表情の友美に、更に覚醒暗示を与える。
「私が今から10数えるわ、10数えて手を打つと、すっごく良い気持ちで目が醒めます」
「でも、目が醒めてもこの部屋であった事は、完全に忘れている、何一つ思い出せない」
「でも、貴女とまどかお姉さんのとも想い出は、心にくっきりと焼き付いています」
「それでは、数を数えます、1、2、3・・・」
目を覚ました友美に、まどかは誰と電話していたかを聞いた。
ただの隣の住人になら、友美も電話の内容など話さない。
しかし、『大好きなまどかお姉さん』になら、と自分の辛い胸の内を友美は語った。
まどかは、初めて聞くふりをして、まどかは友美の話しに耳を傾けた。
一通り聞いて、まどかは提案した。
「じゃあ、私が友美ちゃんの誕生日を祝ってあげるわ、どこか外でお食事しましょう」
友美はキョトンとしていた。
「ほらほら、もう時間も遅いし、早く出かけましょ」
「それとも、私と一緒の誕生日は嫌?」
身支度を整えながら、まどかは言った。
友美は、大きく首を何回も横に振った。
大きな瞳を、更に大きく見開いて、まどかにすがりついた。
「良いの?本当に良いの?」
目に涙を浮かべ、友美はまどかに何回も聞いた。
涙だけではなく、別の物でも輝いているの友美の目を見て、まどかは胸に熱い物がこみ上げてくるのを感じた。
まどかの目にも、熱い物がこみ上げてくる。
「何言ってるの、子供が遠慮何かするもんじゃないの」
「私と友美ちゃんの仲でしょ」
そう言って、友美の額を人差し指でツンと突いた。
喜びで顔を輝かせて、友美は言った。
「ちょっ、ちょっと待ってて、お父さんがこの日のためにお洋服を買ってくれているの」
「すぐに着替えてくるから〜」
友美はパタパタと、嬉しそうな足音をさせながら、扉から出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、まどかは微笑む。
そして大きな充足感に、身を任せた。
やはりまどかは若い。
本来なら、カウンセラーが踏み込んではいけない深みにまで、足を踏み入れてしまう。
自分でもそれはよく判っていた。
このままでは、いつか大きな苦労を背負い込んでしまうだろう事も判っていた。
しかし、それでもまどかは自分のやり方が好きだった。
いつか背負い込むであろう大きな苦しみも、友美の喜びを見れば、背負い甲斐があるって物だ。
『独立は正解だったかも・・・』
まどかは、ふと思った。
こんなやり方を、昔の上司が認めるわけが無い。
貧乏しても、苦労しても、掛け替えのない物が、人生にはある物だ。
近い将来、まどかは大きな苦しみに見回れてしまうに違いない。
しかし、例えそうであっても、まどかの人生は、まどかにとって正解なのであろう。
<おわり>