蜘蛛のノクターン

第二章「白き指の拷問」

作:おくとぱす さん

  須藤真央は最初、不思議だと思った。
 高陵学園女子高校の吹奏楽部に所属する彼女のパートはクラリネット。
 吹奏楽におけるクラリネットはオーケストラでいうバイオリンにあたり、主旋律を担当することが多い重要な楽器である。
 そのクラリネットは三パートに分かれる。
 1st、2ndはメロディを吹くことが多いが、これは上級生に占められている。真央は3rd。和音を作る時にはいつも低音の方を吹く。あまり目立つパートではない。
 真央の右隣に樋口佳奈が座っている。3rdクラリネットは真央と佳奈の二人だけだ。大編成の組める学校なら三、四人いるところだが、ここの部は部員数がそれほど多くないのでこれで精一杯なのだ。
 不思議だと思ったのは、その佳奈のことである。
 佳奈は真央と同じ中学だった。けれども当時からそれほど仲が良かったわけではない。真央は中学校から吹奏楽部に入って楽器の経験を積んでいたが、佳奈は進学してから入部してきた初心者だ。たまたま楽器が同じクラリネットとなったので並んで練習するようになった。それなりに会話はするし、一緒に行動したりもする。しかし引っ込み思案でいつも人の視線を気にしてびくびくしているような佳奈は真央にとってそれほどつきあって楽しい相手でもなかった。
 それが、この数日で変わってきたのである。
 佳奈は合奏を苦手にしていた。個人練習ではできる所を合奏ではよく失敗する。同じ部員であっても他人の前で演奏するのが怖いらしい。佳奈が失敗すると同じパートの真央も一緒に吹き直す羽目になる。いらいらさせられるのはしょっちゅうだった。
 なのに今。
 真央の隣にいる佳奈は、演奏するのが楽しくて楽しくて仕方がないというように、目を輝かせメロディに合わせて体を揺らしていた。
 クラリネットが目立つ所で佳奈の楽器から甲高い異音が鳴った。リードミスである。クラリネットは湾曲した竹の板のようなリードと楽器の間に息を吹きこむことで音が鳴るのだが、その隙間の調整がうまくいっていないとこんな音がしてしまう。初心者がよくやるミスだ。
 いつもならそれで赤面し萎縮してさらに失敗を連発する佳奈が、照れたように笑っただけで何事もなかったように吹き続けた。
 合奏は週に二回。前のときにはこうではなかった。
 前回の合奏で散々やり直させられた難しいパッセージを佳奈はミスをすることなく吹ききった。
 不思議だと思った。

 次におかしいと思った。
 譜面から目を離して見上げると、指揮者である顧問の女教師、氷上麻鬼と視線がぶつかった。
 字面をみるとぎょっとするような名前の彼女はドイツ人を父に持つハーフである。
 そこらへんの男よりよほど背が高い。脚が長く日本人離れした見事なプロポーションをしている。背筋をぴしっと伸ばした立ち姿はスーパーモデル顔負けだ。しかもその顔立ちときたら整いすぎていて真央にはたとえる言葉も思いつかない。彫りの深い、理知的な美貌だ。こんな美人がこの世にいるのかとはじめて見たとき真央は呆然としたものだ。
 立ち居振る舞いすべてがきりっとしていて、女子校であるにもかかわらず生徒の熱い眼差しを一身に受けている。
 しかしいつも一人だ。
 麻鬼の漂わせている雰囲気が生徒たちがきゃあきゃあ言って周囲に群がるには冷たすぎるせいだった。
 目が弱いとかいうことでサングラスをかけ、どんなときでも外さない。それで余計に近寄りがたい。麻鬼の方では何も言わないし断ったこともないのだが、近づく側で恐れをなしてしまうようなところがあった。遠くからうっとり見つめるというのが女生徒たちの麻鬼への態度だった。素晴らしい美術品をみるような目だった。
 麻鬼はあだ名を“吸血鬼”という。とある怪奇小説に登場する吸血鬼と彼女の父親の姓が同じであるためについたあだ名であるというが、どう見ても容姿性格からきているとしか思えない。
 合奏前の和気あいあいとした、言いようによっては弛緩した空気が、麻鬼が姿を見せただけでぴしりと引き締まり、緊張に満ちる。
 時に鋭く時になめらかにタクトは動く。だがその目は常に冷たく光って少女たちを縛りつけている。
 最前列で間近に麻鬼を見ることになる佳奈は、これまではなによりも麻鬼の目を怖がっていた。無理もないと思う。失敗した時にサングラスの下できらりと光るあの目には、気が強いのを自負している真央でも怖じ気づく。
 その佳奈が、しっかり麻鬼を見上げているではないか。
 麻鬼の方でも何度もサングラス越しに佳奈に目を向けてきた。当然その隣の真央も見つめられることになる。
 指揮者として演奏者と目を合わせるのは不思議でも何でもない。そうでない指揮者の方が問題だ。クラリネットは重要なパートなのだから、見られることが多いのも不思議ではない。
 そのはずだ。
 麻鬼は表情に乏しい。笑う時でも歯を見せたことなどなく、唇の端をわずかに持ち上げて微笑むだけだ。
 その微笑みは滅多に見られない。その分、一度でも見せられると強烈な印象が残る。部員として毎日のように麻鬼と接している以上、一般生徒よりははるかに沢山その笑みを目にしているのだが、何度見てもそのたびに胸の中に妖しい気分がざわざわと沸き起こってきて、慣れるということがない。真央はひそかに鏡の前で練習してみたことがあるのだが、どうやっても真似できなかった。悔しく思った。だから麻鬼の笑顔には敏感だ。
 佳奈が上手く吹けているのだから、貴重な微笑みが降りそそいでくるのも変ではない。
 ではなぜ、何でもないところで麻鬼の目が微笑むのか。
 他の部員は誰一人気がついていないようだが、真央にはわかる。クラリネットとは何の関係もないところで一度、二度、三度、麻鬼の微笑みが佳奈に向かって投げかけられた。
 真央にではない。佳奈に、だ。
 おかしいと思った。

「ねえ、真央、これなんかどう? 可愛くない?」
 佳奈は明るく言った。
 合奏の翌日、日曜日。
 真央は佳奈に買い物に誘われて街に出ていた。
 佳奈を観察してみた。話してみても何もおかしな所はない。今まで通り真面目なことばかり口にする。
だけど口調がはきはきしている。真央とおしゃべりするのが楽しくて仕方がないようだ。前はすぐに目をそらしおどおどしていたのに、まっすぐ真央の目を見つめてくる。
 間違いなく佳奈は変わっていた。
 ただ、悪い変わり方ではない。どうしたのか不思議ではあったが、今の佳奈は前よりずっと好感が持てた。
 だから色々感じていた疑念を捨てた。
 人はちょっとしたきっかけで変わる。佳奈も何かきっかけを得たのだろうと好意的に解釈することにした。それが何なのか聞き出すのがこれからの楽しみだ。
 佳奈がとある店に真央を引きずりこむまでは、そう思っていた。
 ランジェリーショップ。
 可愛いものが欲しいときは真央もここに来る。佳奈は何の面白みもない白かせいぜいストライプぐらいしか身につけないだろうと勝手に思っていたので、カラフルな下着に興味を示しただけでも驚きだった。
 ところが、そこで佳奈が可愛いと指さしたのは、真央ですら身につけるのには勇気がいるようなものだったのだ。
「ち、ちょっと、大胆すぎない?」
「そうかなあ。可愛いと思うけど」
 佳奈は小首をかしげた。冗談で言っている顔ではなかった。じっと見つめる目が真剣だった。
 真央は佳奈の体型を知っている。平均よりやや貧弱。正直な話、自分ならばそれを身につけても何とかさまになるが、佳奈では大人になろうと背伸びする小学生のようにしか見えないだろう。
 しかし佳奈はそんなことは気にもしていないようだった。
 遠くを見るような目をした。セクシーに着飾った自分を思い描いているのだろう。
 一瞬、佳奈がかすかに笑った。
 真央はなぜかぞっとした。
 この子、誰かの前でその格好をさらけ出したところを想像している!
 理屈ではない。直感だった。
 いつも自分の後についてくるだけだと思っていた佳奈が、いつのまにか自分よりも先に、まだ真央の知らない世界へ足を踏みこんでいる。女の勘がそう告げた。
 気に入らなかった。

「あ、あの……失礼します……」
 佳奈は震えながら音楽準備室のドアを開けた。
 その姿を真央が見たら唖然としただろう。真央が知っている通りの、おどおどした佳奈だったからだ。
 この学校には音楽教師は一人しかいない。その一人が机に向かって何か書き物をしている。
 佳奈はサングラスをかけた姿を見ただけですくみ上がった。
 この先生はすごく綺麗、だけど怖い。いつも怖い。どうして音楽室でだけは平気なのだろう。
「あの…………い、言われてきたんですけど……」
 誰かに、何かを言いつけられてここに来た。しかし、誰に言われたのかどうしても思い出せない。きっと部活の先輩の誰かだろうとは思う。なのにわからない。
「樋口さん」
 顔も上げずに麻鬼は言った。佳奈は脳天から冷たいもので貫かれたような心地がした。足が震えた。
「どうしたの。用があるんでしょう」
「え……だ、だけど……」
「早くなさい」
 佳奈の心臓は口から飛び出すのではないかというほどめちゃくちゃに脈打った。なのに体中が凍りついて動けない。
「…………樋口さん、よかったらちょっと手伝ってほしいのだけど」
「は、はい!」
 麻鬼の言葉が佳奈をパニックから解放した。することがあれば人間は精神の安定を保てる。佳奈は一も二もなく従った。
「そこの棚」
 麻鬼は相変わらず顔を上げずに指だけで指し示した。
 机の真向かいにある、楽譜の並べられた棚である。
佳奈はそこに行った。
 それきり何も言われないのでまた佳奈は不安になった。
「あ、あの……」
「こっちを見て」
 麻鬼は言った。
 振り向いた佳奈はその場で硬直した。
 麻鬼が真正面から佳奈を見ていた。
 “吸血鬼”。そうあだ名されるゆえんの、底光りのする目だ。
 麻鬼の手が止まっている。握られていたボールペンが手から離れ、机の上にかつんと硬い音を立てた。佳奈はびくっとした。
「佳奈」
 麻鬼は低く伸ばすように名前を呼んだ。そしてサングラスを外した。
 妖しいきらめきをじかに見た途端、佳奈は深く暗い水の底に沈んでいったような感覚にとらわれた。
 頭の中に霞がかかる。色々なことが消えてゆく。代わってとても大切なことが次々によみがえってくる。
「あなた、名前は」
 麻鬼が訊ねた。佳奈は考えた。思い出せない。名前……あったはずなのに……いや、違う。名前はあった。でも捨てた。いらなくなったのだ。
「あなたは、誰」
 麻鬼が重ねて問うた。
「……名前は、ありません」
 佳奈は答えた。そう答えることは喜びだった。名前のないことが自分の誇りだった。
「あなたは、何」
 これこそ待っていた質問だった。
「わたしは……奴隷です」
 佳奈は心から答えた。そう口にした途端、体の奥底からどろりとしたものがこみ上げてきた。熱い吐息が半開きの口からこぼれた。
 自分は名前のない奴隷だった。御主人様のいうことには何でも従わねばならない。そうすればすばらしい快感を与えてもらえる。そのために名前も何もかも捨てたのだ。何もかも御主人様の言いなりになる奴隷でいるのはとても素晴らしいこと。どうしてこれまで忘れていられたのか不思議なくらいだ。
「そうね、またわたしの奴隷になることができたのね。いい子ね」
「はい、御主人様」
「スカートを脱いで、お尻をこっちに向けなさい」
「はい……」
「可愛いわね。では、目をつぶりなさい。そして、わたしの言うことをよく聞きなさい。
 これから、お前の体に触ります。私が言った場所に、私の人差し指が一本だけ触れます。お前の体のあちこちを触ります。私の指なのですから、触られているところはどこもじんじん感じます。どこを触られてもお前はいい気持ちになってしまいます。けれども、お前はその間動いてはいけません。絶対に声を出してはいけません。これはお前をもっと立派な奴隷にするための練習なのです。わかりましたね」
「は……い……」
 これから与えられる快楽への期待からか、佳奈の体はもうかすかにくねりはじめている。
「はじめます。…………右の肘」
 麻鬼は机についたままである。標本を解剖する医者のような冷静な目で佳奈の体を見ている。しかしその口から流れ出てくるのは、覚醒時に聞いてもそれだけで操られてしまいそうな、深い、とろけるような声だ。
「右肩へ、ゆっくり上がっていく……肩に来たわ。肩を、円を描いて回っている。……そこからだんだん首の方へ。右の鎖骨。鎖骨の上を、そっとなぞるわ。気持ちいいでしょう。でも動いては駄目。動かないでいると、もっといい気持ちになれる……首を上がっていくわよ。わたしの指が、ゆっくりとお前の首をたどっていく……ほら、あご。あごの下をくすぐっている。あごから、右の耳の方へ登っていく……右の耳へのぼっていく。お前、耳が弱いのね。ぞくぞくして、とてもいい気持ちね」
「あ……」
 佳奈はこらえきれない吐息を洩らして身震いした。
「耳から、お前の可愛いほっぺ。やわらかいわね。つんつんしてあげる。ほら、つんつん。指はまだ止まらないわよ。ほうら、唇に来た。上唇を、右から、左へ、私の指がたどっていく……今度は下。下唇を、左から右へ、ゆっくり、ゆっくりと」
 佳奈は水を求める瀕死の病人のように弱々しく口を開閉させた。もうこの段階で顔は真っ赤で、体の横で気をつけの姿勢をとっている手はかぎ爪のようにこわばって震えている。
「声を出したいのを我慢しているのね。偉いわ。何て素敵な奴隷でしょう。じゃあ、ご褒美に、私の指を舐めさせてあげる」
 麻鬼がそう言うなり佳奈の口が待ちかねたように開いた。佳奈の頬はすぼみ、恍惚とした表情を浮かべる。くちゅ、くちゅと口の中で音がした。その顔は麻鬼からは見えない。なのにまるで目の当たりにしているかのように、佳奈が満足する一瞬前のタイミングで指を抜く暗示が飛んだ。
「もっと、してほしい? 答えていいわよ」
「ほしい……です……」
「じゃあ、目を開けなさい。ゆっくりと、こっちを向いて」
 麻鬼の目が佳奈の意識をとらえる。今の佳奈にはそこに満ちる光が全てだ。
「お前はとってもいい子ね。私のいうことをよく聞いてくれるから、お前をもっと素晴らしい奴隷に育ててあげる。いい、これからはじめるのは特別なレッスン。これはとても大変なレッスンだから、できなくてもいいわ。でも、私の言うとおりにできたら、あなたはこれまで味わったことがないくらい気持ちいい気分になれる。怖いのならやめてもいい。さあ、やるかやらないか、選びなさい」
「え……あ……」
「お前には、どんな怖いことでも決断できる勇気をあげた。思い出しなさい。お前には勇気がある。さあ、私の目を見て、決めるのよ」
「して……ください……」
「立派よ。ほら、またひとつお前の中の弱虫な部分が消えていった。すうっと。これでお前はまたきれいになった。
 その棚に手をついて、お尻をこっちに突き出しなさい。……それでいいわ。はじめるわ。
 目をつぶりなさい。何も見えない。私の声以外何も聞こえない。いいわね。お前はこれから私の言うとおりになる。どんなことでも私の言ったとおりのことがお前の身に起こる。わかりましたね。
 では、私の手を思い出しなさい。両方の手です。お前の前でゆらゆらと動いた手です。その手を見ていると、いい気持ちになりましたね。その手に触られると、どこを触られてもものすごい快感を感じてしまいましたね。思い出して。お前をいい気持ちにした手を、それだけを考えなさい」
 いまだパンティに包まれたままの佳奈のお尻が痙攣した。パンティはもうぐしょぐしょになっていて、秘裂の形が浮かび上がってしまっている。そこがひくついているのは遠くからでも見て取ることができた。
「その手が、これからお前の足に触れます。右手はお前の右足に、左手は左足に。最初はかかとです。それからどんどん上に上がってゆきます。さっきの私の指と同じように、でも今度は十本の指全部を使います。だからさっきよりもずっとずっと感じてしまいます。私の全部の指がお前の脚の上を這い上がってきて、最後にお前の一番感じる所に一気に襲いかかります。いいですね。これは全部その通りになります。けれども、これは大事なことだからよく聞きなさい、お前は奴隷なのだから、どんなに感じても、絶対に声を出してはいけないのです。棚から手を離してもいけません。どんなに気持ちよくっても、お尻を突き出した今のポーズのままでいなければいけません。わかりましたね。これを最後までやりとげることができれば、お前に最高のご褒美をあげましょう。さあ、誓いなさい。どんなに感じても、絶対に声を出さないと。ご主人様に誓いなさい」
「あ……はあ……誓います……わ、わたし……絶対……我慢します……!」
 もはやこの時点で佳奈は絶頂寸前の興奮状態にある。
「いくわよ。
 はい、私の手が、あなたの両方のかかとに触りました。ちょっと冷たい手よ。ぞくぞくっとする快感が、足から体中にびりびり伝わってくる。どう、すごいでしょう。とってもいい気持ち。このまま触られているだけでイッちゃいそう。でも、イッちゃ駄目。手が上にあがっていくともっともっと気持ちよくなるのよ。私がいいというまでは、お前は絶対に勝手にイッちゃってはいけないの」
 何も教えられていなかった時の佳奈ならとうに失神していたであろう快感が佳奈の体を駆けめぐった。つかまっている頑丈な棚が体の震えにあわせてがたがた揺れる。佳奈はつま先立ちになり、浮かせたかかとを小刻みに揺り動かしていた。今そこが彼女の最高の性感帯となっているのだ。
「ほうら、私の手が上に向かって動き始めるわよ。今から数を二十まで数えるわ。私の手はだんだん上に上がってきて、二十数えたときにあなたの一番感じる所を全部の指でいじり回すの。数が一つ増えるたびに、今よりさらに気持ちよくなってくる。二十で最高に感じる。それまで、どんなにイきたくてもイけないのよ。頑張ってね」
 麻鬼のカウントがゆっくりと始まった。
 佳奈は耳から首筋まで真っ赤にして、金魚のように口をぱくぱくさせながら必死に快感に耐えた。五つと麻鬼が指を鳴らした所で佳奈の太腿にみだらなしずくがとろりと流れてきた。
「十七」
 麻鬼の指が鳴る。佳奈は全身にあぶら汗をかいていた。あごがはずれそうなほどに大きく開かれた口からはぜい、ぜいと苦しげな呼気がこぼれ、唇からよだれがしたたり落ちる。顔中がもう涙でぐしょぐしょだ。
「十八。……あと二つよ。あと二つで十本の指全部が一番感じる所にくる」
 次に麻鬼が指を鳴らした時、佳奈の口が動いてきれぎれに言葉をつむぎだした。
「ご……ごしゅじん……さま…………。
 も、も……もう……あたし…………だめ……。
 ゆ……る……し……」
 佳奈の腿が、これまでとは違う痙攣を見せた。
麻鬼の目が冷酷に光る。
「二十。はい、全部来た! 指が全部来た! ものすごい! 最高の気持ち! お前は声が出せる! 声を出していい!」
 麻鬼は鋭い声で告げた。
 佳奈の口から、野獣の吼え声のようなものすごい絶叫がほとばしった。同時にここまでこらえ抜いた膝が砕けた。床に膝を突き、楽譜棚に上体をしがみつかせながら佳奈はくずおれていった。
 佳奈の腰が突然痙攣を止めた。
 麻鬼が風のように動いた。――この美貌の女教師は、ここに至るまで机の前を一度も離れなかったのである。
 素早く駆け寄った麻鬼は、女性とは思えぬ力で佳奈の上体を抱き起こした。
 佳奈は笑いとも苦悶ともつかない形に口を開いたまま失神してしまっている。正座するような姿勢にされた、完全に脱力した佳奈の体の下から、湯気をたてる水たまりがみるみる広がっていった。
「とてもよかったわよ、佳奈」
 麻鬼は計算通りとでも言うかのように満足げな微笑を浮かべた。そのために最初にスカートを脱がせたのか。
 その麻鬼の目が、佳奈が正気の時に見たなら気絶してしまいそうな恐ろしい光を放った。
 音楽準備室のドアがいきなりノックされたのである。
 麻鬼は佳奈の体を足を投げ出して壁によりかかるようにさせると、窓際の花瓶を佳奈の水たまりの上に落として割った。
 サングラスをかけてドアの鍵を開ける。
 夜前に校内を巡回する、初老の警備員だった。
「あ、氷上先生、まだ残っていたんで……!」
 上は制服を着たままだが下半身がパンティ一枚の佳奈の姿を見て、目を丸くする。
「あっち向いて! ……スカートをひっかけて破いてしまったので、つくろってあげていたのよ。警備員さんにこんな格好見られたら大変ねなんて言ってたときだったから、驚いて花瓶割っちゃったわ」
「は、あ……そうですか。すみませんでした」
 警備員は納得した。机の上にスカートが広げられているのを一瞬だが見ていた。床の上の水たまりは花瓶の水……一度納得すると常識がそれ以外の点を勝手に補完した。氷上先生は針と糸を手にしていたようだった。佳奈が床の上にいたということは彼の常識に合致しないので、無視された。五分後に彼に質問したら佳奈は椅子に座っていたはずだと証言するだろう。人間の認識能力とはその程度のものなのだ。
「いつも熱心ですね」
「すみません。もう少ししたら帰ります」
 麻鬼はいつもの無表情のまま言った。警備員は、繕い物とは麻鬼の意外な一面を見たと感心しながら去っていった。

 下校時刻はとっくに過ぎ、外は暗くなっている。
 真央は一人校門の所で佳奈を待っていた。
 部活が終わった時に一緒に帰ろうと声をかけたのだが、佳奈はちょっと用事がと言って断ったのだ。
 けれどもその佳奈の靴が靴箱にまだ残っている。
 真央は校舎を見上げた。
 音楽室の明かりはとうに消えた。しかしその隣の準備室にはまだ電気がついている。この学校に音楽の教師は氷上先生だけだから、あそこにいるはずだ。
 小柄な制服姿が玄関に現れた。
「佳奈」
「あ、真央。待っててくれたんだ」
 佳奈はもう相当遅い時間であるのに、それが当たり前のことであるかのようににこりとした。
 その制服が乱れている。相変わらず野暮ったい膝までのスカート、きちんとした上着。どこもおかしなところはなく、いつもの佳奈らしくしているのに、なぜかそんな気がした。
「遅かったね。何してたの、こんな時間まで」
「練習してたの。でも、ちょっとドジってあの花瓶割っちゃってさあ、雑巾がけやらされる羽目になっちゃったんだ」
「最近熱心ね」
「……ふふ」
 佳奈は笑った。目がどこかとろんとなっている。目を開けて夢でも見ているようだ。真央の胸がどきりとした。見てはいけないものを見てしまったような感じ。つい喉が鳴った。
「……どうしたの?」
 屈託なくのぞきこまれて真央は慌てた。
「え、いや……のどが乾いたから……」
「じゃあジュースでも買っていこう。なんか暑かったよね、今日」
 佳奈は汗をぬぐう仕草をした。真央は今日はたしかずっと曇りで涼しかったはずと思ったが、あまりにも佳奈が断定的にいうものだからつい、そうだったっけかと納得してしまった。
 佳奈は校門を出てすぐの自動販売機で冷茶を買った。甘いものに目がなかった佳奈にしては珍しいと思った。プルタブを開け、一気に飲み干す。佳奈の方こそよほど喉が乾いていたらしい。吸いつくような勢いだった。真央はあっけにとられてその様を見つめていた。佳奈の口の端からこぼれた水滴がつうと肌をつたって胸元に流れていった。
 あの下着をつけているのだろうかと佳奈の胸のふくらみを見つめながら真央は思った。佳奈の胸は小さい。乳首がつんと上向きに突き出しているのを着替えの時に見て知っている。それを覆うセクシーなブラ。ふとそれをまさぐる白い指が頭の中に浮かんできた。細く、長く、信じられぬほど巧みにうごめいてブラを外し、忍びこんでゆく指……あらわにされた乳首をうす寒く光ってみつめる冷たい瞳……
(何考えてんのよ!)
 真央は赤面して目をそらした。
(女同士じゃない!)
「最近……佳奈、先生と仲いいよね」
 水を向けると佳奈はあっさりと答えた。
「うん、色々相談にのってもらってるんだ」
「へえ、そうなんだ……。相談って、どんな?」
「この間悩んでいることがあって、ちょっと話を聞いてもらったの。そしたらぱあっと気分が晴れちゃってさ。やっぱりうじうじ悩みをかかえているのは良くないよね」
 佳奈は両腕を広げて明るく言った。
 しかし口調と裏腹に、しゃべり終えるなり肩を落としてふうと息をつき、もう一本ジュースを買った。その動作は妙にけだるそうだった。
「佳奈、どうしたの? なんか疲れてるみたいだけど……」
 真央は佳奈の制服が汗まみれでしっとりしていることに気づいた。制服のままマラソンでもさせられたらこんな風になるかもしれない。
「きゃっ、これ、どうしたのよ?」
「ああ、先生の前に出ると緊張してすんごい冷や汗かいちゃったから……あれね、先生のマンツーマン受けるとダイエットになるって、本当だよ、きっと」
「……そんなに効き目あるなら、あたしも受けてみよっかな」
「いいんじゃない。真央、あたしよりずっとうまいんだからさ、先生に教われば一年でもファーストとれるかもしれないよ」
「……冗談よ」
 佳奈が熱心に薦めるのを聞いて、なぜか真央は突然とげとげしい気分にとらわれた。
「あたし、あいつ、“吸血鬼”、きらいだもん」

「今日はショパンの曲をいくつか聴かせます」
 麻鬼のきびきびした声が音楽室に流れた。
 音楽の授業である。音楽鑑賞だ。普通ならCDをかけるのだが、麻鬼はピアノ曲に関しては自分で弾いて聞かせるのが常であった。
「まずはワルツ第一番変ホ長調、『華麗なる大円舞曲』。有名だからどこかで聞いたことあるでしょう」
 麻鬼はどんな楽器でも一通りこなしてみせるが、本来の専門はピアノである。白い指が鍵盤の上を躍り曲名通りの華麗な旋律をつむぎだしてゆく様を、女子生徒たちは陶酔の眼差しで見つめていた。
「……次は練習曲十二番、『革命のエチュード』です」
 叩きつけるような和音が音楽室を満たす。
 この日、麻鬼はどういう気分の変化かメンズスーツを着こんでいた。男の教師連が着ているような吊しの安物ではない。ダークグレーを基調とした最高級品だ。朝の職員会議で一悶着あったらしいが、長身の麻鬼、その怜悧な美貌にスーツはあまりにも似合いすぎていて、うるさがたの古株たちも何も言えなくなってしまったという話である。
 真央はタカラヅカに憧れる女の子の気持ちがはじめて理解できた気がした。男性的な『革命』がふさわしい。激しい和音に合わせて右腕が躍動する。左手の指が低音鍵の上を流麗に走り回る。時に首が反り返り、肩が揺れ、上体が傾く。音ばかりではない、麻鬼の動き、いや、その存在自体が一つの芸術だ。引きこまれる。いつしか真央は麻鬼から目を離せなくなり、われにかえったときには曲が終わっていた。
 はあ、と生徒たちのため息が重なる。みな拍手することも忘れてしまっていた。真っ赤になって、馬鹿みたいに口を開けっぱなしにしながら腰をもじもじさせているのは一人や二人ではなかった。
 真央は小さく舌打ちした。
 なによ、みんな。“吸血鬼”じゃない、相手は。
 真央は女子にしては長身の方で再三バレー部やバスケ部に誘われていたし、顔はかなり美人の方に入ることを自分で自覚していた。胸の大きさにも自信があった。
 だがすべての点で真央は麻鬼にかなわなかった。比べるのもみじめなくらいの差があった。
 自分でもそれと意識したことはないが、真央は心の奥底でこの女教師に対して激しい劣等感をおぼえていたのだった。
 麻鬼の吸血鬼というあだ名を聞いたとき、真央はなるほどと思った。カーミラだかドラキュラだか知らないが、そんなことはどうでもいい。真央は麻鬼が人間ではないという考えに飛びついた。それならあんなに綺麗なのも、自分がついつい見とれてしまうのも許せるというものだ。
 麻鬼はいつも孤独でいるべきだった。自分が男友達を沢山作ってもてはやされている時、麻鬼は人間ではない美しさをたたえて一人窓辺に座っていなければならなかった。麻鬼のような女ははるか天上から普通の人間たちの営みを冷然と見つめているべきであって、降りてきて自分たちと同じようなことをしてはいけないのだ。
 佳奈の顔が浮かぶ。
 あんなに綺麗な麻鬼が、特定の誰かと仲良くなるというのは信じられなかった。
 それも、佳奈と。
 あの佳奈と。
 あのダサい佳奈と。
 あんなつまらない女と。
 信じたくなかった。

 もし、そうなら…………許せない。


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