(一)
遠い所で雷が鳴った。
「……降るな、こりゃ」
グラウンドを走りながら、本城万里江は黒い雲に一面埋めつくされた空を見上げた。
私立高陵学園、女子高等部。
万里江は雨が来る前にあと二周はしようと足を速めた。
ジャージ姿の足運びは速い。ランニング中の運動部の一団を、ポニーテールをなびかせて外側から一気に抜き去ってゆく。
あっという間にトラックを一周し、二周目に入ろうとしたところでふと万里江は向きを変えた。一直線にグラウンドから走り出る。
「アヤ!」
声をかけた先には、長身の女子生徒がいた。
別に特別な格好をしているわけでもないのになぜか黒々とした印象を与える。肩を斜めにし、足を投げ出すようなどこかオヤジめいた歩き方。すっと鼻筋の通ったなかなかの美形だが、なんだか眠そうな半開きの目をしている。しまりがない顔つき。土手を駆け上ってきた万里江を見る目も気だるげだ。
「……なんだ、マリか」
「こんなとこにいるなんて珍しいね。帰るの?」
「まーな。ひとっ降り来る前に引き上げだ」
口振りまでオヤジっぽい。しかし通りかかる女生徒たちは彼女に気づくと顔色を変える。目を合わせるまいとうつむいて早足に通り過ぎる。健全な生徒を近づけぬ剣呑な気配が彼女にはあった。
「おめーの方こそ、元気だねえ。若いね」
「何言ってんのよ、同い年で」
「飽きっぽいおめーが、ラッパだっけか、よくまあ続くなあ」
「好きなんだよ。それにラッパじゃない、トランペット」
「ラッパでいい、めんどくさい。よくまあ部活なんかやってられるもんだ」
あーかったりいとアヤは続ける。
「今日も練習か? まー、今度また遊ぼうぜ」
「アヤこそ、ほどほどにね」
「へっへっへ、まあな」
よれよれタバコをくわえているのが似合いそうな口振りで言うと、アヤは片手を上げて踵を返した。
「!」
その背中に突然緊張がはしる。
周囲の空気が帯電したように思われた。アヤの全身が戦闘モードに入ったのを万里江は感じた。猫背気味の、制服をだらしなく着崩した姿勢に変わりはないが、半眼の目の底に刃のような光が宿る。今の彼女はうずくまった虎と化していた。
万里江は何度かこれを見たことがある。誘われて夜遊びに出かけた時、繁華街の裏路地あたりで。相手は一人の時もあれば三人の時もあった。いずれも相手は血まみれになってコンクリートに倒れ伏した。右手がスカートのポケットに突っこまれている。得物の小型ハンマーを握りしめているのか。当たると骨がべこりとへこむんだぜ、と笑いながら説明された時にはさすがに万里江も血の気が引いた代物だ。
万里江はアヤの視線の先を追った。
「……あ、“吸血鬼”」
校舎の玄関口に、女性にしては驚くほど背が高い、ぴしりとした女性の姿があった。
氷上麻鬼。この学校の音楽教師である。
ドイツ人とのハーフで、教師などやっているのがもったいないくらいの美形である。モデルに転身すればひいき目に見ても日本中の話題ぐらいは独占できるだろう。
遠くから見てもすぐわかる。同じようなスーツを着ていても他の女教師とは雰囲気がまるで違う。立ち姿ひとつとってもギリシャ彫刻と小学生の粘土細工ぐらいの差がある。何をせずともそこにいるだけで周囲を圧倒する。誰も指ささなくともまわりの空気が自然とそこに向く。意識が否応なく吸いよせられてしまう。
この距離でも超絶の美貌はそれと見て取れた。触れたものをことごとく凍りつかせるような冷え冷えとしたものを漂わせた、近寄りがたい美しさ。“吸血鬼”のあだ名は伊達ではない。空に黒雲がかかっているとはいえ時刻はまだ早いのに、その周囲だけが一足先に夜を迎えたようだ。その姿に気づいた女生徒が一人の例外もなく立ちすくむ。誰にも真似できない洗練された足取りの後ろ姿に、魂を抜かれたような一団がふらふらとついてゆく。しかし皆一定の距離を置き、決してすぐ側に寄ろうとはしない。
彼女は万里江の所属する吹奏楽部の顧問でもある。
彼女に憧れて入部してくる者は少なくなかったが、ミーハーな動機しかない連中はすぐに辞めた。麻鬼と身近に接するというのは、音楽の方に目的意識を向けていない者にとってはきつすぎるのである。
麻鬼と真正面から向き合うと誰でも、自分を動かしている燃料が凍りつき、動作不良を起こしてしまうような心地になるのだ。
麻鬼はいつもサングラスをしている。目が弱いという話で、いつでも外さない。部の先輩たちにも外したところを見たことのある者はいなかった。いかにも吸血鬼めいている。
余計に冷たい印象を与えるからいけないと言う者と、あれがあるからこそミロのビーナスみたいな不完全の美が生まれていいのだという者とで校内は二分されている。
万里江は外さないでいる方がいいと思っている。サングラスといっても色が薄いので目の形まで隠されているわけではない。麻鬼の目の造作そのものは文句なしに美しい。しかしそこに宿る光がいけない。あの光は、強い――というのとはちょっと違う。冷たい――近いが、それだけではない。もっと、普通とは違う……あやしい、そうだあやしい光だ。怪しい、ではない。妖しい、だ。アヤのような友達を持っていると自然とそういうことには敏感になる。合奏などでよく目が合うが、そのたびに妖しいと思う。あれはあまり直視してはいけないタイプの目だ。本能的にそう感じる。だから万里江は合奏のときにはあまり指揮者の方を見ない。
もっとも、怖いもの見たさというやつで、いっぺんでいいからあれを後ろから奪い取って笑ってみたいという風にも思ってはいるのだが。
「……ああ、真央の見舞いに行くんだ」
万里江は言った。
同じクラスでもあるクラリネットの須藤真央が入院したのは先週のことである。
遅くまで残って練習していた帰りの事故であったという。
何でも、ダイエットで食事を抜いていたので貧血を起こし、それが階段の上だったので転がり落ち、倒れるまいと変な風に踏ん張ったので足の筋が切れ、頭を打ったらしくしばらく意識が戻らなかったと、あり得るかぎりの不幸が一度に重なったらしい。聞いたとき悪いとは思いつつ万里江は笑いをこらえられなかった。大事はないが慎重を期して今週はずっと入院しているそうだ。
自分が居残り練習をさせた後の事故でもあり、責任を感じたらしい麻鬼は毎日のように見舞いに行っている。顧問としてまことに結構なことだと万里江は偉そうに考えた。
万里江のパートはトランペットだ。
万里江はトランペットが好きだった。ぱあんとどこまでも突き抜けるような音がいい。聞くのもいいが自分で出すのはもっといい。自分で出した音が開口部からほとばしり、ずっと向こうまで飛んでゆくのが気持ちいい。もっとうまくなりたいと真剣に思う。だから心肺機能を鍛えるためにこうして自発的なトレーニングも欠かさない。共学の学校のブラスバンド部では金管は大抵男子が吹く。パワーがいるからだ。万里江は運動部レギュラーにも負けないぐらいのトレーニングを自分に課している。ランニングの後は屋内で腹筋運動だ。吐く息をコントロールするため腹筋は大切である。楽器に向かうのはそれからだ。
万里江は部で練習している曲だけでは物足りなく、自分で勝手に楽譜を入手してきては吹いている。先輩たちが色々言うが気にしたことはない。
ただ、麻鬼だけは苦手だ。
麻鬼は万里江が好きな映画のテーマやジャズ曲を気ままに吹いていても何も言わない。一度話したことがあるが、みんなでやっている曲さえちゃんとできているなら好きなようにしていいと言った。
しかしどうしてもあの目に見られていると落ち着かない。顧問であるということを抜きにしても、麻鬼がいると心から楽しめない。
「ラッキー、今日も遊べる」
万里江は脳天気に言った。
その万里江をよそに、アヤは一人剣呑な気配を保ち続けている。
麻鬼の姿が見えなくなると、はじめてアヤはふっと戦闘態勢を解除した。
「……どうしたのさ、アヤ」
「……おめーん所の顧問だよな、あの氷上って」
「うん……」
この学校の生徒で麻鬼をそのように呼び捨てにできるのはこのアヤただ一人だろう。万里江にしてもそこまでの勇気はない。
「…………何なんだ、あいつは」
「何なんだって言われても……」
先生は先生だ。それが何だというのだろう。
「マリエは何も感じないのか」
どうしたんだ、こいつ、マジだと万里江は驚く。アヤが彼女をマリエときっちり呼ぶのは滅多にない。
「何もって……相変わらず人間離れしてるとは思うけど……」
「離れ、どころじゃねえ。最初っからデンジャラスなやつだとは思ってたが…………なんだ、ありゃあ……」
「ねえ、わかるように話してよ」
万里江は自分より頭一つ高いアヤをじっと見た。もったいないといつも万里江は思う。背が高いしスタイルもいい。元々の顔かたちは抜群なのだから、姿勢を正し真面目な顔をすれば、ちょっとそこら辺ではお目にかかれないような美少女となるであろうに。もっとも万里江もアヤに、そのだせージャージをどうにかしろとよく言われるのだが。万里江は着替えるのが面倒くさいのでよくジャージ姿のままでいる。今日の練習もこの姿でやるつもりだ。それで登下校するのもしょっちゅうだった。お互い様といえばお互い様だ。
万里江はアヤが自分の感じるところを言葉にするのは不得手であるのをよく知っているので、急かさずに次の言葉を待った。
「…………おめー、今の部活やめろよ」
「え?」
「やめろ」
「どうしてさ」
「いいからやめろ」
いくらアヤの言うことでもそうはいかない。
「……変なアヤ」
万里江が言うとアヤは押し黙った。何か言いたいのに言葉が見つからないで焦っているようだった。他人にはガンを飛ばしているようにしか見えなかったであろうが。
「………………いいか、もしなんかあったらすぐオレに言えよ」
「……うん、わかった」
友人の精一杯の忠告に、万里江は真摯にうなずいた。
アヤは万里江に背を向ける。
「じゃ、オレ帰るわ」
「なんでそっち行くの」
「裏から帰る。アイツに近寄りたくねーから」
くれぐれも気をつけろと念押ししてアヤは去って行った。
「………………何なんだろ、一体……」
どうやら氷上先生をひどく警戒しているようだが、何かあったのだろうか。アヤはああ言ったが、万里江にとっては毎日顔を合わせている相手だ。今更気をつけるもなにもない。まあアヤの気まぐれかと万里江は簡単に片づけた。
その頬に雨滴がかかった。
雷が近くで鳴った。
「うわっ、来た来た」
万里江はアヤの黒い後ろ姿を一度だけちらりと振り向き、すぐにその言葉を頭から忘れて校舎の中へ逃げこんでいった。
(二)
週が変わった月曜日の朝。
「わあ、真央、久しぶり。もういいの?」
「うん、何とか。この通り松葉杖は手放せないけどね」
「筋やっちゃうなんてドジなんだから」
「おっと、そいつを言っちゃあおしまいだぜ」
クラスメートに取り巻かれた須藤真央に教室の隅から万里江はちらりと目を向けた。真央の左足にはギプスがはめられている。左手の指にも包帯がまかれていた。転んだ時に爪はがれちゃってさあ、うわ悲惨、と飛び交うかまびすしい会話を小耳にはさみながら、ぼんやりと窓の外の方へ顔を向ける。万里江は他人の事情にはあまり興味がない。
「マリ、須藤のやつ出てきたよ」
三人連れ立った女子が万里江の所に来て小声で言った。
このクラスには二つの派閥ができている。
一つは真央を中心とするグループ。どちらかというとインドア、文系タイプの女子が多い。
もう一つはあえていうなら体育会系タイプの一団で、万里江はこちらに属していた。
もっとも万里江の方では属しているなどと思ったことはない。
真央はそこにいるだけで目立つ存在だ。美形で、背が高く、いつもきちんとしている。男の目がない女子校では往々にして恥じらいというものを忘れがちになるが、真央はごく自然に清純な姿を保っている。成績はトップクラス、スポーツも抜群ではないがそこそこ優秀で、誰にもわけへだてなく接し、面倒見もいい。
優等生の真央に対して、万里江をたとえるなら野性派というところか。成績は下から数えた方が早いが、そんなことを気にしたことはない。自分のやりたいことをやりたいようにしかやらない主義だ。
文句なしの優等生である真央のことが気にくわない者が自然と寄り集まり、真央に対抗できるただ一人の人材である万里江をかつぐようなかたちになっている。
「ダイエットしすぎで貧血だって? そんだけスタイルいいくせに、まだ上を望むか、このこの」
「へへ、目指せ氷上先生ってね」
「……相変わらず気取ってやがる。そう思わない、マリ」
憎々しげに言いつつ万里江の同意を得ようと媚びる視線を向けてくるクラスメートをまるきり無視して、万里江は頭の後ろで腕を組んで空を見ていた。
先日の雷雨はものすごかった。あれ以来、ずっと晴れた日が続いている。
トランペットを吹いたらどこまでも音がはしってゆきそうな、澄んだ空だ。
なのに、なんだかもやもやする。
この間はすぐに忘れてしまったアヤの言葉が妙に今になって思い出されてくる。
真央が氷上教師の名を出したからだろうか。
万里江はいきなり立ち上がった。
つかつかと真央に向かって歩く。
しんとなった辺りの空気をものともせず、真央の真正面に立つ。
「あ、万里江。おはよ。元気してた?」
真央はにっこり笑う。
「おはよ……」
笑顔といい態度といい文句のつけようのない、いやになるくらい完璧な優等生だ。
……優等生だった。
(こいつ…………?)
何かが違う。
きれいになった、とまず思った。
万里江は物事をあまり深く考えない。じっくり観察し、分析し、つきつめて考えるようなことは性にあわないのでやらない。その分、直感を大事にする。万里江は第一印象こそ真実だと信じていた。これまでそれが間違っていたためしはない。
普段の真央には自分の優秀さを鼻にかけるようなところがあった。本人は気づいていないのだろうが、優雅で人当たりのいい外づらの底から、ちくちくした棘がいつものぞいていた。そういうところが万里江の周囲に人を集める原因でもあった。同じ吹奏楽部に所属していることもあり、別に真央のことはどうとも思っていない万里江にしても、たまに無性に腹立たしくなり、その突き出た棘をへし折ってやりたいと思うときがあった。
その傲慢な感じが、消えている。
「……手、大丈夫? それじゃしばらく部活も出られないね」
「まあね。しばらく先生の手伝いでもするよ。楽譜の整理ぐらいならこれでもなんとかなるし」
「“吸血鬼”と二人っきり? 危ないぞ、それ」
「へへ、襲われちゃうかもね」
真央は万里江の茶化しにそう笑って返してきた。
周囲がきゃあきゃあ言う。万里江は一緒に笑顔を浮かべながら、違和感を感じていた。
万里江の知っているこれまでの真央なら、笑うは笑うにしても、そんなことあるわけないでしょと生真面目に答えたはずだ。
男を知ったか、ととっさに思った。思いつくのはそんなことしかなかった。万里江自身には男性経験はないが、中学生の頃周囲にそういう友人が多かった。大体は経験した直後、自分一人だけが周囲より一歩抜きんでた存在になったような、優越感と、その裏返しの包容力に満ちた顔をしたものだ。真央の物言いに、万里江はその友人たちの顔つきを思い出した。
「……あんた、カレでもできた?」
率直に訊ねてみた。思い立ったらすぐに行動に移すのが万里江だ。
「ええっ?」
真央ではなく周囲が驚きの声を上げた。
「ああっ、さては病院で誰か捕まえたなあ!」
「何言ってんの、見たでしょ、あのゴリラみたいなオヤジ!」
「いいや、恋は理屈じゃない!」
「何よ、それ」
真央は何もないと繰り返し、取り巻きはむきになるところがあやしいと追及した。そのかしましいやりとりに万里江はすぐうんざりし、教室を出た。
真央に彼氏ができたことは間違いない。万里江は即座にそう結論を下した。絶対に間違いない。どうしてみんなは根ほり葉ほり聞かないとわからないのか、不思議だ。
いいことだ、と万里江は思う。万里江自身は恋愛には全然関心がない。そもそも他人に興味がない。あの優等生に彼氏ができたなら、めでたいことだ。それだけの話だ。
今日はアヤは学校に来るだろうか。どうせこんな朝っぱらには姿を見せるまいが、一応普段のたまり場をのぞきに行こうと万里江はぶらぶら歩いていった。
その日の放課後。
同じ教室で練習していた先輩たちが時計を見た。
太陽は少し前に西の丘の向こうに沈んでいる。
空はまだ白いが地上はみるみる薄闇に閉ざされつつあった。
西空をバックにした建物や木々が輪郭のくっきりしたシルエットとなる。万里江はそちらにトランペットを向け最後の一音を長々と伸ばした。
心地よい疲労感とともに楽器の片づけに入る。管の中にたまった水分を抜き、ピストン部にオイルを指す。トランペットは万里江の宝物だ。丹念に手入れをし、マウスピースを水道で洗う。
楽器ケースと楽譜を手に音楽室に戻る途中、万里江はトイレから出てきた松葉杖の人影を見かけた。
「真央……なんだ、帰ったんじゃなかったの」
「帰ってもいいって言われたんだけどね。久しぶりに顔出したんだし、そのまま帰るのもつまんなかったから。今度の演奏会の曲決め、手伝ってたんだ」
「じゃあ、ずっと準備室に? 御苦労さん」
心から言った。テープやCDをひたすら楽譜とつき合わせながら聞き続けるなんて万里江にはとてもできない。
「スコアばっかり見てて疲れちゃったよ」
本当に疲れている風だった。万里江にも経験があるが、松葉杖で一日過ごすのは大変だ。無理もない。それに、
「……あの先生とずっと一緒だと気疲れしない?」
「そうでもないけど」
万里江はそれはすごい、かなわないなと素直に認めた。あの“吸血鬼”をものともしていないのか。この図太さは見習いたいものだ。
「帰り、大変だろ。途中までならつき合うよ」
「ありがと。でもいいよ。先生が車で送ってくれるっていうから」
「へえ、そっか。じゃ、またね」
真央は音楽室ではなく準備室の方へ行った。
その後ろ姿を見て万里江はおや、と思った。
やけにうきうきしているように見えたのだ。
これからデートに出かけるようだな、と思った。
深く考えるタイプではない万里江は、それ以上想像をはたらかせることはしない。
音楽室では、ほとんど全員が帰る支度をしている中で、小柄な女子が一人だけ楽器を持って小さくなっていた。
「佳奈、また居残りだって」
サックスの子が万里江に耳打ちした。
クラリネットの樋口佳奈。
高校から楽器をはじめた彼女ははっきり言ってまだまだ下手で、このところ麻鬼に重点的に指導されている。
可哀相にと万里江は思う。
あの気の弱い樋口が、氷上先生とずっとさし向かいで練習させられるとは。プレッシャーでがちがちになるので全然練習の成果を見せられず、それで何度も居残りさせられる。何度も居残りさせられるから余計にプレッシャーになる。悪循環だ。先生も、少しは考えればいいのに。今日は真央が一緒だからまだましか。でも、真央はいつも樋口の下手さにいらいらしている。表面上は親切にしているが、万里江にはわかる。樋口にとってプレッシャーは五割り増しだ。これでは今日も駄目だろう。
そんな風に万里江にしては深い思索をめぐらせていると、気がついたら音楽室に残っているのは佳奈と自分の二人だけになっていた。
「あら」
楽器室へのドアが開き、サングラスをかけた長身が姿を現した。
うひえっと万里江は心中に悲鳴をあげた。もうとっくに慣れているはずなのに、今でも出現と同時に首の後ろのあたりがちりちりする。こんな感じをおぼえるのは他には戦闘モードに入ったアヤだけだ。絶世の美貌は関係ない。中身の問題だ。人間の皮をかぶった別のものがそこにいるみたいだ。アヤが変貌するのは危険を感じた時だけだが、この先生ときたらのべつまくなしにそんな気配を振りまいている。
「本城さん、まだ残っていたの。もうすぐ下校時間よ。気をつけて帰りなさい」
「は、はい」
万里江は慌てて音楽室を出た。
樋口さん、準備室へと背中で声を聞いた。
上級生よりもトランペットが上手な万里江はまだ麻鬼の個人指導を受けたことはない。
マンツーマンで接すると、麻鬼は以外に取っつきやすいと聞いている。
本当だろうか。
ふと、これから準備室で真央をまじえた三人がどのような会話を交わすのか、聞いてみたくなった。
「おや」
声をかけられた。夜になると校内を見回る警備員だ。
「もう遅いよ。早く帰りなさい」
「はあい」
万里江は準備室への興味を忘れ、急ぎ足で下校していった。
(三)
家に帰ったときにはもう真っ暗になっていた。
玄関をくぐる直前、ふと隣の家を見上げた。
軒先を接するほどに近いそこの二階の窓に、灯りがついている。
夕食後、自分の部屋でベッドに寝転がった万里江は、麻鬼のことを思いだした。
二人きりになったとき、どんな会話をするのだろう。
(盗聴してみようか)
唐突に思いついた。
万里江は二年前、盗聴されたことがある。
町を巡回していた盗聴調査会社の人間が、お宅から盗聴電波が出ていると言ってきたのだ。
調べてもらったところ、万里江の部屋から盗聴器が発見された。
犯人は不明。盗聴器はそれほど強力な電波を飛ばすものではなかったので、犯人は割と近くで受信していたらしいということしか分からなかった。
その時、調査会社の人を見送って外に出た万里江は、隣の家の二階の窓にちらりと人影が動いたのを見た。
(あいつだ!)
万里江は直感した。
隣家には一人息子がいる。その時高校生。機械に強く、その関係の大学を目指していると聞いていた。
間違いないと万里江は思った。だが証拠はない。さすがに万里江も証拠もなしによその人間を犯人呼ばわりしたりはしなかった。
その気もなかった。両親は憤慨していたが、万里江自身は何とも思わなかったのだ。着替えているところをのぞかれたわけでもない。自分なんかの部屋の音を聞いて何が面白いのだろうと本気で考えた。いつもがんがんに音楽をかけていたから、さぞやかましかっただろうと相手に同情さえした。
ただ、自分の直感を証明したいとは思った。
相手が出かけるのに合わせて自分も外出した。
声をかけ、一緒に歩き、盗聴器の件を話す。
「犯人を見つけたら、仲間集めてリンチしてやるんだ」
万里江はできるだけどすをきかせて言った。その当時からもうアヤとのつきあいがある。その真似をした。アヤから聞いていた残虐な話をできるだけ詳細に語って聞かせた。
相手の反応を見た万里江は、確信した。
「……あんたでしょ」
その一言を告げて以来、相手は万里江に頭があがらない。
万里江は運動靴を手にすぐ動いた。元々ジャージ姿なので着替えることもしない。物置になっている部屋の窓を開ければその向こうに隣家の壁がある。窓と窓とが向き合うようなつくりにはなっていないが、万里江は屋根づたいに軽々と隣家に渡り、目的の窓の外に忍びこんだ。
ガラスをノックすると、開かれたカーテンの向こうに目も口も真ん丸にした相手の顔があらわれた。今は大学生だ。
鍵をあけろとあごをしゃくって命令する。
「……へえ」
するりと入りこんだ万里江は、靴も脱がずに室内を無遠慮に見回した。
男の部屋に入ったのは初めてだ。
何かにおう。臭いというわけではないが、女の子の部屋とは根本的に違う、男くささとでもいうべきにおいが充満している。
決して狭くはないはずの部屋は、本と物で埋めつくされていて狭苦しく感じられた。
万里江には何が何やらわからないが、電子部品とおぼしきものが机の上やら棚やらそこいら中に置いてある。
にんまりとした。
「な、な、なんだよ、いきなり……」
動転する相手を無視して床の上に座りこみ、靴を脱ぐ。
女の子の声がした。何かと見れば、ビデオだった。
アニメだ。
どこか外国の、お城の中らしい。
鎧を着た、髪の短い女の子が兵隊に捕まってもがいている。
『見苦しいぞ、静かにせよ!』
迫力ある女性の声が飛んだ。
どうやら悪役らしい。背の高い、大人の女性だ。玉座に座っているところを見ると女王なのだろう。小さい頃よく見ていた変身して悪いやつと戦う女の子のアニメ、月がどうたらこうたらいうタイトルだったが、それに出てきた悪の女王を思いだした。するとこの女の子が変身するのだろうか。ごつい近衛兵たちを瞬時に黙らせた女王の威厳ある姿を見て、万里江はふと麻鬼を連想した。あの先生にこんな格好させたら似合いすぎてきっと怖い。
女王は近寄ってきて、女の子を品定めするように見た。女の子は悔しげに唾を吐きかける。あ、こりゃこいつ殴られるなと万里江は予想し、全然違うのでありゃりゃと思った。どうもアヤみたいな子とつきあっていると発想が殺伐としてしまう。
女王は手から金のロケットをぶら下げた。
アップになった女の子の目の前で、ロケットが左右に揺れる。
揺れるロケットを目で追っているうちに、女の子の目から光が失われてゆく。
『さあ、このロケットを見てると、だんだん瞼が落ちてくるわ……』
女王のささやくような声に合わせて、女の子の目が閉じていった。そして女の子はがくりと膝を折った。
(あ、これ、催眠術だ)
万里江はようやくそう思いついた。
本来の部屋の主が慌ててビデオを止める。
大急ぎでテープを取り出そうとする相手の狼狽ぶりを尻目に、万里江は床の上にあるビデオのパッケージを手に取った。
寝ぼけたような目をした今の女の子の裸の絵が描いてある。十八禁のマークが入っていた。
「へえ、『てのひらの上のお姫様』。こっちは『橘くんのお庭番』か」
「うわっ! か、返せ!」
冷や汗まみれの手がパッケージをひったくる。
「レンタルじゃないよね。わざわざお金出して買ったんだあ。ふうん、そういうの好きなんだねえ」
万里江は別にアニメを見ているからといってどうこう思いはしないのだが、優位に立つためにあえてあざけるような声で言う。
「う、うるさい!」
「いいの? 大声出すと家の人に見つかっちゃうよ。あんたには前科があるんだから、そうなったらどうなるかわかってるんでしょうね」
何一つ公にはなっていないのに前科も何もないが、心に負い目のある相手には十分すぎるほど効き目のある言葉だった。
黙りこんだ相手に万里江はだめ押しする。
「あたしの方は平気なんだよ。あんたに盗聴テープをもとに脅されてたって言えばいいんだから」
「と、盗聴なんて!」
「うるさいよ」
万里江はぴしゃりと言うと、腕を差し出した。
「あんたの趣味は黙っててあげるから、盗聴器ちょうだい」
「……え?」
「盗聴器よ、盗聴器。持ってるんでしょ?」
「な、何で……」
「いいから。早く出しなさいよ」
しらばっくれようにも万里江の勢いにのまれて知恵が回らない。引き出しを開けた。やっぱりこいつがとは万里江は思わない。もう彼が犯人なのは彼女の中で確定しているからだ。
差し出されたのは、コンセントの三穴ソケットだった。
「何よ、これ?」
二年前に万里江が見た物は、みの虫クリップで電源につながれた、タバコ箱ぐらいのサイズの黒い箱だった。盗聴器とはそういうものだと万里江は思っている。
「この中にマイクがしこまれているんだ」
「へえ」
万里江が本気で感心すると相手は喜色を浮かべ、色々とうんちくを傾け始めた。UHF発信というのは何のことやらさっぱりわからないが、15メートル以内の音なら大体拾え、電源にさしこまれているかぎり電気を拾って発信を続けるそうだ。それ以外は普通のコンセントと変わらない。よさそうだと万里江は考えた。しかし、色が悪い。黄色。一般家庭ならともかく、学校では目立つ。準備室にいきなりこれがさしこまれていたら麻鬼はすぐ気づくだろう。盗聴器とまでは見抜かれないにしても、どこかに他に必要とする場所に持っていかれる可能性が高い。
「これじゃ駄目だわ」
二年前のと同じ型が出てくる。しかしどこかから電源を取らなければならない。機械の蓋を開け、電源をつないだ上で取り付けるような真似は万里江にはできない。
「電池のものはないの」
「ペン型のがあるけど……」
「いいじゃない」麻鬼の机の上のペン立てに差しておけば気づかれないだろう。
「電池が半日ぐらいしかもたないんだ。元々会議を録音したりするためのものだから」
「そりゃ駄目だわ。他には」
「電池で20日もつ電卓型とか、10日ぐらい大丈夫な携帯電話型のがある。でも、ぼくは持ってないんだ」
「買ってよ」
「無茶いうな! 高いんだぞ!」
「じゃあ自分で作ったらどうなの」
相手はぎくりとした。もちろん万里江は見逃さない。
「……あるのね」
しぶしぶ相手が出してきたのは、万里江の小さい手の平の中にさえもすっぽり隠れてしまうような、マッチ箱ぐらいの小さな箱だった。
両面テープでどこにでもつけられる。単五電池二本、寿命は一週間ぐらい。もちろん取り替えればいつまでも使える。
これならいける。
受信機も差し出させた。ウォークマンぐらいの大きさだ。これも自作品。状況がよければ300メートルぐらいまで離れていても電波を受け取れるという。
万里江はマイクの方を相手の尻のポケットに入れさせると、階下へ行くよう命令した。イヤホーンを耳に入れて受信機のスイッチを入れると、本物のウォークマンのように小さな赤いランプが点灯した。
階段を下りる音がする。随分はっきり聞こえるものだと感心した。フローリングの床を歩くスリッパの音まで聞こえてくる。
母親が何か話しかけてきた。赤いランプがそれに合わせてぴかぴかと光った。すぐそこで話されているようにその声は明瞭に聞こえた。父親の声もしたが、男の低い声はどうも聞き取りにくい。
「………………」
「これ、いいわね。もらうわよ」
戻ってきた相手に有無を言わさず通告する。目を白黒させている顔を見て、年上にもかかわらず可愛いとちらりと思った。
翌日の火曜日、万里江は授業をさぼって音楽準備室に忍びこんだ。
音楽室で麻鬼が授業をしているのは確かめてある。
麻鬼の机周辺を物色する。どこにしかけたらいいだろう。
机の中。引き出しの上板につければ、まず気づかれることはあるまい。
しかし、鉄の塊であるスチールデスクの中からでは電波が飛びにくいと聞いていた。
早くしないと授業中でも麻鬼が戻ってくるかもしれない。
万里江は予想される事態をあれこれ考えて、すぐ頭が混乱した。元々考え事は得意ではない。
結局、机の引き出しの下面に取り付けた。奥の方につけたので、机の下に潜りこみでもしない限り見つからないだろう。大掃除はまだ先の話だ。
準備室から抜け出すと、万里江はばくばくいっている胸を押さえてため息をついた。すごいスリルだった。
授業終了のチャイムが鳴ると同時に万里江は胸ポケットに入れた受信機のスイッチを入れてみた。
音楽室の方に向かって歩いてゆく。雑音だけだったのがすぐにはっきりした物音に変わる。がたっと音がした時には万里江はその場で飛び上がりそうになった。麻鬼が椅子に座ったのだ。準備室のドアの外に立つと布ずれの音まで聞こえた。麻鬼の見事な美脚が組みかえられたらしい。これを録音したらあいつに売れるかなと万里江は身もふたもないことを考える。
「あれ、万里江」
いきなり声をかけられて万里江の心臓は爆発した。
「ま、ま、真央」
「どこでさぼってたのよ。ノートいるなら見せてあげるから言ってね」
真央は松葉杖をこつんと突き、ふと万里江の胸に目をやった。
「あ、そういうの見つかったらやばいよ」
「あ、ああ、そ、そうだよね」
万里江はあたふたしながらその場を離れた。
真央が準備室に入ってゆく。
『先生』
真央の声が聞こえてまた万里江の心臓は高鳴った。
『はい、このプリント、みんなに配っておいて』
それ以上に大きく麻鬼の声が聞こえた。まるですぐ耳元で話されているかのようだった。プリントの束を机の上でとんとんとまとめる音がやかましいぐらいだ。
これはいける、と万里江は自信を持った。面白い。盗聴したがる人間の気持ちがよくわかる。きっとあいつもこんな風にどきどきしてたんだろうなと万里江は考え、また可愛いなと思った。
木曜日。
練習後、真央と佳奈が残された。指の怪我がよくなり楽器が吹けるようになった真央が、ブランクを埋めるために佳奈につき合わされるらしい。
万里江は一応受信機のスイッチを入れたが、たった二日のことなのにもう飽きていた。
色々と麻鬼の行動はわかったし、話し声も聞いた。確かに準備室では普段より親しげだ。でもそれだけだ。最初の興奮が冷めると、当たり前の教師の行動であり当たり前の生徒との会話でしかない。そんなものをじっと聞いているのは退屈以外の何物でもなかった。
万里江は音楽準備室の向かいの教室の椅子に腰かけていた。誰かに見つかったらという警戒心はもうなくしている。足をだらしなく投げだし、あくびをかみ殺した。
クラリネット二本のユニゾンが聞こえる。時折つまずくと麻鬼の冷たい声がもう一度と告げる。またはじまる。佳奈は前よりは随分と上達してきた。でも、だからなんだというのか。つまらない。
『じゃあ練習はここまでにしましょう』
麻鬼の声が言った。メトロノームが止まり、二人がありがとうございましたと言って楽器を片づけ始める音がする。
やっと終わったかとため息をつき、いけねと万里江は腰を浮かせた。残っているのがばれたら怪しまれる。スイッチを切った。
『……はい、二人とも、こっちを見……』
麻鬼の声が途中で薄れて消えた。
「………………」
万里江の手がぴくりとした。
何だかその声が無性に気にかかった。
これまで聞いたことのない、おかしな響きだと思った。
万里江はもう一度スイッチを入れ直すかどうか迷った。
気のせいだ。どうせ何もないに決まっている。
前に、未成年であることを隠してアヤとバーで飲んでいた時、一人の男が入ってきた。アヤはすぐに万里江を引きずるようにして店を出た。マリにはわかんねえかもしんねえが、あれはしゃれにならねえ、近づいちゃいけねえやつだとアヤは言った。そのときのことが突然頭に浮かんできた。
どうしてそんなことを思い出すのだろう。万里江は自分を不思議に思い、結局スイッチは入れずに暗い廊下を走っていった。
「………………」
翌日の金曜日、万里江は麻鬼の机の下でしばらく考えこんでいた。
またしても授業中である。
そろそろ電池を入れ替えないといけない。
そのために来たのだが、盗聴器に手を伸ばしたところで馬鹿らしくなってしまった。
今回はもうスリルを感じない。どうしてあたしはこんな面倒なことをしてるんだろうといらいらがつのるばかりだ。
盗聴器を取り外し、見つめ、電池は入れ替えずにまた机の下に戻した。
明日は土曜日。土曜日でも授業がある日だ。あと一日ぐらいは電池はもつだろう。明日で盗聴は最後にして、外すのは月曜日にしようと万里江は決めた。週末にはアヤと遊ぶ約束がある。このところアヤとは会っていない。アヤにこのことを話して盛り上がろうと思った。今日と明日の間に何か話のネタになることが一つぐらいは聞けるだろう。
土曜日の練習中、万里江はふと受信機をONにした。
『……多分八時頃、例の子を連れていけると思うわ』
麻鬼の声が聞こえた。電話しているようだ。
八時? 練習は六時で終わる。例の子というのはなんのことだろう。
相手が誰かはわからない。内線ではないだろうということぐらいしか見当がつかない。麻鬼はすぐに電話を切ってしまった。
練習終了後、万里江は教室に一人身をひそめた。
(四)
外はまたしても一面の曇り空で、まだ明るい時分であるはずなのに教室の中は真っ暗だった。
万里江は教室の通路側の壁に背を預けた。今日も万里江はジャージ姿だ。床にあぐらをかく。椅子に腰かけるよりも、少しでも壁側に身を寄せていたかった。今日は誰にも見つかってはいけない。何かが起こる。そんな予感がした。
そのせいか、緊張していた。心臓がやけにうるさく鳴っていた。教室中に響き渡っているようだ。
受信機を取り出し両手で持つ。
今日は誰も居残るようには言われていないはずだ。真央も佳奈も先に帰ったのを確認している。
スイッチを入れると最初は何も聞こえなかった。人はいるようだが声を出していないのでわからない。
小さな赤いランプがまぶしいくらい明るく見えた。その光のせいで廊下を通りかかる人間に見つかってしまうのではないかと思った。馬鹿な。落ち着こう。万里江は深呼吸した。腹式呼吸でお腹にいっぱい息を吸いこんで、深々と吐く。演奏会前にはいつも緊張をこうやって解く。数度繰り返すと気分が楽になってきた。
『…………』
万里江は耳をそばだてた。何かが聞こえた。人の呼吸音のような、でももう少し強い息づかい。そうすれば準備室の中が見えるというわけでもないのだが、つい受信機のランプにじっと見入る。
『さあ、そのままじっとしていて』
赤いランプがちかちかした。麻鬼の声だ。万里江は声をあげそうになった。まるで自分に向けて言われたような気がした。
『…………あっ』
別の女の子の声がした。
かすかな声だった。必死に何かをこらえていて、こらえきれずにあげてしまった震える吐息だった。
『動かないで。じっとして。動いてはいけないのよ。動かないで、気を楽に、私の言うとおりにして』
麻鬼が言う。低く優しく伸びる、聞いたことのない……いや違う。この間ちらっと聞いた、あの声だ。
『あっ、あっ、あっ、あっ、……』
吐息が、じわじわと、少しずつ少しずつ大きくなってくる。
(こ、こ、これって……!)
万里江はねっとりしたものに包みこまれたような心地になった。心臓が激しく鳴る。全身が指先までどこもかしこも熱くなり、胸のあたりがぎゅっと引き締まって息が苦しくなる。
(エ、エッチしてる……?)
一応、万里江の語彙にレズという言葉はあるにはあった。女が女を好きになること。しかし恋愛に興味を持たず、男女間のセックスのことさえろくに知らないできた万里江には、女性同士がどのような愛の行為を交わすのかなど想像もできなかった。
『あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、……』
吐息が次第に有声音に変わってゆく。与えられる快楽が徐々に高まっている。万里江は生のあえぎ声を聞くのは初めてだった。快感でいっぱいになった体内からしぼり出されてきた、濃密な官能のかたまり。どこをどんな風にされたらこのような声が出るのか、万里江にはわからない。わからないままに圧倒される。
『さあ、私の言うことをよく聞いて。私の言うとおりにするのよ……』
『あっ、あっ、あっ、あっ、ああっ、ああっ、ああっ、ああっ!』
麻鬼の声に合わせてランプが光る。規則正しいあえぎに合わせてランプが明るく光る。暗い教室の中で、万里江の目はランプにとらわれた。真っ赤な光がちかちか光る。一定の、完全に安定したリズムの声に合わせて赤いランプが明滅する。
『体の力を抜いて。そう。もっと。足先からふくらはぎ、もも、腰。お尻も、背中も、すうっと力を抜いて。私の声をよく聞いて、肩と首の力を抜いて。体中の力を抜いて、このリズムに身をまかせるの。体のこわばりが全部とけて、気が楽になるわ。ほうら、いい気持ち』
『ああっ、ああっ、ああっ、ああっ、ああっ、ああっ、ああっ!』
あえぎ声には何の変化もない。変わらない強さ、変わらないリズムでずっと続いている。それがおかしいとは気がつかない。赤い光だけが万里江のすべてとなった。あえぎ声と共に光る赤い光が万里江の脳に突き刺さり、赤い光と共に入りこんでくる麻鬼の声が万里江の心を縛り上げる。
『さあ、力を抜いて。楽になってくる。だんだんぼうっとしてくる。頭がぼうっとしてくる。体のどこにも力が入らない。いい気持ち。何も考えないで、このリズムにずっと身をまかせていたい。ほうら、ぼうっとしてきた。頭の中がゆらゆらと揺れている。一つ一つの音が、波のように、あなたの体を包んで、揺らして、余計なものを全部溶かしてしまう。あなたは溶けていく。深い、ふかあいところに沈んでいって、何もかも溶けて、真っ白になって、何もわからなくなる。沈んでいく。沈んでいく。とってもいい気持ち。いつまでもいつまでもこの気持ちでいたい。ずっとずうっとこの感じのままでいたい…………』
万里江は組み合わせている自分の脚の筋肉がこわばってくるのを感じた。ふくらはぎと腿ががちがちになる。お尻がきゅううっと締まる。受信機を握る手も動かない。腕も固まり、首が張る。あごが固くかみ合わされる。どこにも何の力も入れていないはずなのに、全身がかちんかちんになる。けれどもとても気持ちいい。
万里江の目が閉じた。目を閉じても真っ赤なランプが心の中で脈動している。それはどんどん大きくなってくる。小さな光点が、明るくなるたびに前より大きくなってくる。太陽みたいに大きくなって、万里江の視界をいっぱいに埋めつくして脈打っている。光が大きくなるたびに万里江は暖かいものが体に満ちるのを感じる。光が万里江と一体になる。万里江は真っ赤な光の球だ。一定のリズムで万里江はふくらみ、万里江は脈打ち、何もかも忘れて深い深いところに落ちてゆく。
万里江の首ががくりと垂れた。受信機が手からこぼれて床に落ちる。かたんという音は万里江にはもう聞こえない。
『ああっ、ああっ、ああっ、ああっ、ああっ、ああっ、……』
『……はい、あなたはもうすっかり私の言うとおりになってしまいます。私の声があなたのすべてです。あなたの体は私の言うとおりに動きます。私の言うとおりにしていると、ふわあっとした、とってもいい気持ちになります……』
それから麻鬼の声はわずかに途切れた。
勝ち誇った、別の口調で言った。
『さあ、私のところへいらっしゃい、万里江ちゃん』
万里江はのろのろと立ち上がり、体をゆらめかせながら音楽準備室へと歩いていった。
アヤは腕時計を見た。
万里江との約束の時間だ。万里江の姿はまだ現れない。
(練習好きなやつだからな)
アヤのポケットの中で携帯電話が振動した。
表示を見ると、万里江からだった。
「あ、アヤ? あたし。ごめんねえ、今日さあ、ちょっと別の用事入っちゃってさあ、駄目になっちゃった。ほんとにごめん! 今度埋め合わせするから、今日は許して! お願い!」
「なんだ、用事って」
「ふふ、ひ・み・つ」
「秘密って、おい……どうした、マリエ。お前なんだか変だぞ」
「何が変なのよ。じゃあ切るね。まったね〜」
「待て! お前、今どこに……」
電話は切られた。アヤは急いで万里江の携帯にかけ直した。
何度かけても留守番電話サービスにしかつながらない。
アヤはひどい胸騒ぎをおぼえた。
とりあえず学校へ行ってみよう。
繁華街の雑踏をアヤは豹のように駆けだした。
(五)
麻鬼にも協力者がいる。
学校から歩いて十分ほどのところにある、個人病院の蜂谷医院。
その院長、蜂谷将行だ。
三十代半ば、医者というより格闘家、プロレスラーと言った方が誰しも納得するであろう、がっしりした体格と力強い風貌の男である。麻鬼と向かい合うと美女と野獣というより他にない。
「この子が犯人か」
椅子に座らせられて首を垂れている万里江を蜂谷医師はよだれを垂らさんばかりの顔つきで見た。
「処女だな、間違いない」
このたくましい巨漢は、ヨーロッパの伝説に出てくる狼男のごとく、処女にしか興味がないのである。
「がっつかないの。後でじっくり楽しませてあげるから。それより、これ、ありがとう。こんなに早く片づくとは思っていなかったわ」
麻鬼は重たげなものの入った袋を医師に渡した。
「協力者とか、録音とか、そういうのは大丈夫か」
「ええ、じっくり聞き出したわ。この子個人の興味で仕掛けただけ。私が普段どんな風にしゃべるのか聞いてみたかったんですって」
「女子高生が盗聴器か。嫌な世の中だ」
「まったくね。今回は佳奈のお手柄よ。たっぷりとご褒美をあげなくちゃ」
それはこういう事情である。
二日前の木曜日、万里江がかすかな疑惑を抱いたその直後、音楽準備室で佳奈と真央は麻鬼によって催眠状態に導かれていた。
佳奈はもちろん、今では真央もすっかり服従の暗示を植えつけられてしまっている。
「今日は二人で愛し合ってもらうわ。お互いの目を見て。はい、だんだん相手のことが好きになってくる。相手とエッチなことがしたくなってくる。相手の体を触りたい。相手の体を触って、気持ちよくしてあげたい……」
二人の少女はたちまち目をうるめ、息を荒げ、手を取り合ってキスをはじめる。
「あ、佳奈、ブラしてないの……大胆……」
「だって、最近きつくなって……」
「御主人様にいっつもいじっていただいているからでしょう……ずるい」
「そんな……真央はいいよ、こんなに大きくってさ……」
「あ……」
「ここじゃ駄目よ。そっちでやりなさい」
二人とも服を脱ぎ、空のスチールデスクの上に、まだ左足を動かせない真央が横たわった。
その上にのしかかろうとした佳奈のあごをくいっと手で持ち上げ、蒼い目で見つめながら麻鬼は命令する。
「いい、御主人様の命令。これからこの子をたっぷり可愛がってあげなさい。でも、絶対にイかせてはだめよ。相手の反応を見て、イクぎりぎりのところで止めて、じらすの。この子が泣きながらイかせてくださいって頼んでくるまで、絶対にイかせてはいけないの。わかったわね」
からみ合いたちまち嬌声を上げはじめた二つの裸体に背を向けて麻鬼は自分のデスクに戻り、サングラスをかけて平然と教師の仕事をはじめた。
やがて、真央のよがり声ばかりが聞こえてくるようになった。
高まっては落ちつき、また高まっては落ちつく。もう少しで意識が中天へ飛び立ちそうなのに、離陸できない。真央の声に涙が混じりはじめた。
「ああああっ!」
真央の声が長々と伸びた。豊かな乳房が激しく揺れ、自由に動かせる右脚が股間に顔をうずめている佳奈の背中を叩いた。
「あ…………」
慌てて身を起こした佳奈の目の前で、真央は世にも幸せそうな顔でだらりと四肢を投げ出し動かなくなる。
「……イッちゃったようね」
ファイルを閉じて立ち上がった麻鬼を、佳奈は蒼白になって振り返った。
「御主人様の言いつけを守れなかったのね。そういう子がどうなるか、わかっているわね」
「ひ! お、お許し下さい! いや! 許して!」
「駄目よ。お前は私の言葉には逆らえないの。だって、お前は奴隷なんだから。さあ、こっちへいらっしゃい」
麻鬼は自分の机の下を指さした。
「あそこをよく見なさい。あそこは真っ暗。どこまで続いているかわからない、とてもとても怖い穴。ほうら、怖いでしょう。あの中には恐ろしいおばけが沢山いるの。真っ暗な中で、ものすごくこわいおばけが、誰かこないかって待っているの」
佳奈はがたがた震え出す。佳奈が幽霊や怪談が苦手なのはとっくに麻鬼に知られている。
「あそこへ入ってもらうわ。御主人様の言うことがきけない奴隷なんかいらないもの。あの穴にお前を捨てることにするわ」
泣きわめく佳奈の裸の体が、麻鬼の指示に従って勝手に机の下に潜りこんでゆく。麻鬼は椅子に腰かけ出口をふさぐ。
「何にも見えない。あなたの回りは真っ暗。どっちを向いても何にも見えない。お前は闇の中に一人きり。でも、音が聞こえる。何かの足音。真っ暗な穴の奥から、ひたひた、ひたひたと、闇の向こうから、おばけの足音が、だんだん、だんだん、お前の方に近づいてくる……」
「ぎゃああああ! ひいい! お願い! 出して! 出して! 許してええ!」
「御主人様の言うことは絶対に守る?」
「守ります! 絶対! だから、だから、ここから出してえ!」
「それが奴隷の言葉づかい? そんな生意気な奴隷はいらないわ」
「いやあ! もうしわけありません! 許し……お許し下さい! わたくしめが悪うございました! もう二度と御主人様の言いつけにそむいたりはいたしません!」
「ちょっと時代劇入ってるけど……まあいいわ」
麻鬼は靴を脱ぎ、錯乱した佳奈の目の前に素足を差し出した。
「許してあげる。この足にキスしなさい。そうすると、今の怖いところから抜け出すことができるわ」
佳奈は飛びつくように麻鬼の足を抱えこむと、新たにあふれてきたうれし涙をどっと流しながら唇を押しあてた。
「ほら、暗い中に光がさしてきました。お前の体に、とても明るい光が空からさして来ました。明るい、暖かい光がお前を包みこみます。怖い気分がたちまち薄れてきます。心が安らかになってきます。もう何も怖くありません。体中が暖かい光に包まれて、とてもいい気持ちです……」
胎児のように体を丸めてしまった佳奈に麻鬼は一度深く眠るように言い、真央の方をしばらく相手にした後、戻ってきて言った。
「はい、目を覚ましましょう。今から数を三つ数えるとお前は目を覚まします。もう何も怖くありません。お前は元通りの私の可愛い奴隷です。……はい、一、二、三。
ゆっくり辺りを見てごらん。暗いけれど、何も怖くない。口にして言ってみて、お前は今どこにいるの?」
「…………机の……した……です……」
「まだ怖い?」
「……いいえ」
「わかったわね、これからも私の言いつけはきちんと守るのよ。でないと、またおしおきよ」
「……はい、御主人様」
佳奈が狭いところで姿勢を変えたのか、ごつんと頭をぶつける音がした。
「何やってるの。もういいわ、お前の体は自由になる。そこから出てくることができるようになるわ」
佳奈は何かごそごそして出てこない。
「どうしたの?」
「御主人様…………これ、何ですか?」
佳奈は麻鬼の言うことには絶対服従であるが、人形ではない。自分の判断力は残してある。
その佳奈が発見したのが、万里江がしかけた盗聴器であったのだ。
麻鬼は蜂谷医師からCCDカメラを借り受けた。5ミリもない小さなレンズのビデオカメラである。
それを机の向かいの棚に仕掛けた。蜂谷医師が悪のりして貸してくれた赤外線センサーも連動させてあるので、机の周囲に誰か近づいた時だけビデオが作動するようになっている。
設置した翌日、ビデオには机の下にかがみ込んだ万里江の姿が余すところなく映し出されていた。
「音だけで、うまくかけたものだな」
「こういうタイプで助かったわ」
麻鬼はテーブルの上に置かれた受信機を示し、発信器の前で指を鳴らした。赤いランプがぴかりと光る。
「暗い中で、規則正しい声を聞き、ランプの点滅を見つめ、君の暗示に耳を傾ければ誰だって落ちるか」
「ふふ」
「それで、今度はどのようにするのだね」
「それがね、この子、ちょっと確かめてみたけれど、佳奈以上のオクテなのよ。佳奈は奥手にしても性的なものに対する興味は普通にあったんだけど、この子はそれもまだ全然なの。だから、まずその辺りから教育していかないといけないわ」
「性教育の課外授業か。なんなら俺が一気に教えこんでやろうか」
「いきなり怖がらせて、会陰部裂傷させて、記憶を消すのに苦労させる気? その後のこともあるんだから、一時間ちょうだい。それからなら好きにしていいわよ」
「よかろう」
「あと、病院のスタッフ一人、借りるわよ」
(六)
万里江は目を開けた。
思い切り爆睡した後のような、すっきりとしたいい気分である。
だけど自分がどこにいるのかわからない。記憶に靄がかかっていて、練習が終わったあとどうしていたのか思い出せない。
「!」
目をむいた。
真正面にソファがある。
制服の女の子が一人座っている。
その隣に男がいる。
男が、女の子を抱き寄せ、キスをした。
(な、何、なによ、これ?)
女の子の腕も男の首に回される。二人がなめくじのように舌をからませるのが視力のいい万里江にはよく見えた。くちゅくちゅと音も聞こえた。
男の顔は全然知らない。女の子は……知っている。よく知っている顔なのだが、なぜか名前が出てこない。しかし今の万里江にはそれを不思議に思っている余裕はない。
男の手が女の子の胸にかかった。制服の上から胸を揉んだ。女の子が切なげなため息をついた。両手で揉んだ。女の子はうつむき、頬を上気させた。
上着が脱がされる。白い肌を見て万里江は恥ずかしさをおぼえた。女同士、裸そのものに興奮したりすることはない。けれども筋張った男の手によって服を脱がされ肌をあらわにされるというのは、更衣室で脱衣する女子を見るのとは全然違う、異様な緊張を万里江に与えた。
男の手が万里江に見せつけるようにブラジャーの紐をつまみ、肩から外す。ホックが外された。
万里江は思わず顔をそむけようとした。
だが、できなかった。後ろに立っていた人間の手が万里江の両あごをそっと押さえたのだ。
「駄目よ、万里江、目をそらしては駄目。じっと見るの。あなたの顔は動かない。私がいいと言うまで、頭も、体も、どうやっても動かせないのよ」
深い声だ。氷上先生の声だということはわかった。どうして先生がそんな所に立っているのかわからない。考えることができない。手の感触はひんやりとしている。けれども柔らかく、いい匂いがして、触られていると体が軽くなるような気分になる。その手に支えられているあごはもう動かしたくなかった。
女の子の胸はちょうど万里江と同じくらいの大きさだった。82のBカップ、と万里江は自分のサイズを思い出す。乳首がわずかに外向きだ。そのきれいなピンク色が目に飛びこんでくる。
男は女の子の脚を開き、自分の膝の上にまたがらせた。男も上着を脱ぎ捨てている。白い肌の上を対照的に色濃い腕が這い回る。腰を抱き、脇をなで、じわじわと乳房に向かって近寄っていく。万里江はまるで自分の体を触られているような感覚にとらわれた。乳房が男の手の中に収められる。男の手の甲に筋が浮き上がる。指が動き、乳房をつかみ、こね回す。女の子は目を閉じる。吐息が震える。乳首が男の指の間に突き出してくる。男の指が乳首をつまむ。女の子の頭がのけぞり、あ、あ、あ、と快楽のあえぎを洩らす。
「ね、よく見て。気持ちよさそうでしょう。ああされて気持ちよくなっているの。腕がだらんとなって、全然力が入っていないでしょう。体中の力が抜けちゃって、声がでちゃうくらい気持ちいいのよ。声がでるくらい気持ちいいって、わかる? おっぱいをあんな風にされたら、ほら、あの顔を見てごらん、とろんとなって、何も考えることができなくなっているでしょう、ああなっちゃうくらい、とてもとても気持ちがいいのよ……」
麻鬼の手が万里江の胸を触る。ジャージの前が開けられている。Tシャツの上からブラジャー越しに乳房を揉む。ブラの布地が巧みに乳首をこする。万里江はひどいくすぐったさをおぼえて身を縮める。だが、その奥にかすかにじんと痺れるようなものを感じた。体中にその痺れが波のように広がってゆく。麻鬼の手はそこまでで離れていった。安堵すると同時になんだか物足りない気分。あと少し触られていたら体が変になっていたような気がする。そうしてほしいような、ほしくないような。万里江は混乱する。
男の手が女の子の足に伸びる。膝をつかみ、円を描いてさすりながら、太腿に動いてゆく。スカートがまくり上げられ、白いパンティがのぞく。万里江の心臓がひどく高鳴る。スカートが脱がされた。男の手が腿をじっくり愛撫したあと、いよいよ臍の方からパンティの中へ降りてゆく。布地は張りつめ、男の手の形がはっきりと見える。はあはあ息を荒げていた女の子がいきなり高い声を上げた。
「さあ、女の子の大事な所を触るわ。これまでどこを触られても気持ちよかった。でもあそこはそんなものじゃない。ものすごい気持ちいいの。気持ちよすぎて、体に火がついたみたいになって、あんな声がでちゃうの。頭の中はぼうぼうと燃えるみたいになって、でも体は逆に溶けかけたロウみたいにぐにゃぐにゃになっちゃって、何も抵抗できなくなる。抵抗する気にもならなくなるのよ。ほら、すごい声が出ているでしょう。痛くもないし、苦しくもないの。気持ちよすぎてあんな声が出てるの。ほうら、見える、濡れてきたでしょう。じわじわって、おしっこを洩らしたみたいに、パンティにしみができてきたわね。あれは気持ちよくなっている証拠なの。気持ちよくなると、体の奥からじわじわと濡れてきて、あふれてとろとろに流れだしちゃうの。それはとってもいいことなのよ……」
万里江の目の前で男女は互いの服を最後の一枚まで脱がし合い、全裸となった。男の屹立したものを見て万里江は脳天に釘を打ちこまれたようなショックをおぼえた。人間のものとは思えなかった。赤黒く、グロテスクで、そこにだけ別の生き物が取りついているかに思われた。女の子の脚を開いた姿もショッキングだった。自分のものをそんな風に開いてみたことなどない。女の襞もまた、名状しがたい不気味な生命体に見えた。
二人は肌を合わせ、相手の体の至る所を舐め合った。横たわった男の上で女の子が男性自身を口にくわえた。女の子が自分で自分の脚をかかえ、大きく秘部をさらけ出した。男の舌と指の動きが万里江に余すところなく見せつけられる。
その間ずっと麻鬼の『解説』が続いた。時に麻鬼の手が万里江の体の上をうごめいた。万里江は生まれて初めての感覚に惑乱し、頭の中がめちゃくちゃになり、しかし顔は少しも動かせずに男女の絡みを凝視させられ、しまいには女の子が触られているのかそれとも自分が触られているのかわからなくなってきた。大きく脚を開いて声をあげているのは自分、それをじっくり観察しているのもまた自分。万里江の周囲で世界は混沌となり、麻鬼の声と手がそれをさらにかき回す。
男のものが女の秘部に埋めこまれていった。万里江はもう思考力を失っている。何が、どこに、といった細かい意味をとらえることができなくなり、目から入ってくる光景がダイレクトに脳髄に焼きつけられる。目は血走り、息は荒くなり、汗のにじむ手で腿をぎゅっと鷲掴みにしながら震えている。男が動き、女が悶える。男のものが女の秘裂に出入りしている。粘液にまみれてつや光っている。その様から万里江は目が離せない。女の甘やかな悲鳴が耳に挿入されてくる。男の肌に浮いた汗の匂いが鼻を犯す。男の手が万里江を抱き、女の腕が万里江にしがみつく。
女のあえぎが高まってきて、叫び声となった。男の動きがさらに激しくなる。
「さあ、もうすぐイクわ。射精する。射精すると、これまで感じたこともないくらい気持ちよくなって、あなたの体の力がすうっと抜けていくの。射精した途端にあなたは体中が痺れてしまって、すうっと力が抜けて、眠ってしまうのよ……」
男がうっと呻いた。抜き出された男のものの先端から、白い液体が勢いよく飛び出すのを万里江は見た。不思議なにおいが充満した。何度も何度も液体は飛び出し、女の子の体に降りかかった。男の腰が痙攣し、筋肉の緊張が失われて、ふううと気の抜けた息を吐いた。
それに合わせて万里江の全身が脱力し、意識が心地よい奈落の底へ落下していった。
アヤは学校の校門前に来た。
門はとっくに閉ざされている。フェンスの向こうに教職員用の駐車場が見えるが、車は一台もない。夜空を背景に校舎は黒々とそびえたっていて、どこにも明かりはついていなかった。
(マリエ……!)
万里江が目を覚ますと、下着姿でベッドの上にいた。
なぜ、とかすかに思った。
自分の記憶へ意識を向ける間もなく、頭の中に今見たセックスの光景が生々しくよみがえってきた。
体の中で熱い嵐が荒れ狂う。
ベッドがきしんだ。目を向けると、山のような大男がいた。上半身裸で、ものすごい筋肉が盛り上がっていた。
ああ、あたし、このひととセックスするんだ、と万里江はごく自然に考えた。あたしは女でこのひとは男。女と男がいればセックスするのは当たり前。何の疑問もおぼえず、恐いとも思わなかった。
男の猛々しいものが両脚を割って入りこんできた時だけ、激しい痛みとともに、万里江の脳裏に疑問符が浮かんだ。しかしそれも一瞬だった。
毛深い男の胸板に顔をうずめ、弾力ある筋肉の感触を味わっているうちに、腰のあたりに熱いものが生まれてきて、何もかもどうでもよくなってきた。
そういえばあのビデオで、催眠術で眠らされた女の子はあれからどうなったのだろうと、最後に心のどこかで考えた。
「お疲れさま」
「堪能させてもらったよ。やっぱり鍛えている女の子はいいな。素晴らしい体だった」
「また抱かせてあげる……といってももう嫌なのでしょうね」
「ううむ……正直、気がのらんな」
「そうはいかないわよ。こっちの課外授業はこれからが本番。色々と協力してもらうわ」
「今度はどんな仕掛けをたくらんでる?」
ふふ、と麻鬼はサングラスの下で薄く笑った。
「健全な男女交際」
(七)
それから一週間後。
「お隣、今日から夫婦で旅行ですって」
夕食の時、母親が言った。
万里江はいつものようにベッドに寝転がりながら、奇妙なうずきを体の中に感じていた。
運動した後の疲労だろうと片づけたが、全身がむずむずして、何だかじっとしていられない。
この一週間、我ながらよく練習した。
毎日しっかり走って、楽器を吹いて、麻鬼先生にみっちり指導された。麻鬼先生は怖そうな外見とは裏腹に、話してみたらとても優しかった。優しいけれども締めるべきところはびしっと締めていて、頼りがいのあるお姉さんという感じのひとだった。あの目はとってもきれいだ。見つめられると幸せな気分になる。万里江は麻鬼のことが好きになっていた。
逆に、アヤとの間には変なしこりができていた。
万里江に何かとつきまとい、昨日の夜何してた、練習の後どうしたと一々訊いてくるのだ。万里江が普通に練習してまっすぐ家に帰ったとおぼえている通りに説明しても、やれ授業が終わるなりさっさと帰ってしまっただの、麻鬼先生の車に乗ってどこかに行っただの、おかしなことばかり言う。自分の行動は自分が一番よく把握している。あたしが二人いるとでもいうのか。変なアヤ。
先週の土曜日、約束をすっぽかしたのを根に持っているのだろうか。だとしたら見損なった。そんなやつとは思わなかった。
ま、いいかと万里江は伸びをしながら考えた。今度お返しに一日つきあってやろう。アヤとの夜遊びにはどうしてだか前ほど気が乗らないが、そうすればアヤとの仲も元に戻るだろう。
それよりも、この体のうずきの方が問題だ。
何だか落ち着かない。何かをしたくてしたくてたまらないのに、それが何かわからない。
そうだ、と万里江は思いついた。
制服のポケットから小さな箱を取り出す。盗聴器だ。何も面白いことが聞けなかったので外してきたのだ。これをあいつに返してこよう。今晩はあいつは家に一人。それなら好都合だ。家に他の人がいるときには返せない。相手が一人きりのときにしか返してはいけない。理由なんてわからない。とにかくそういうことになっているのだ。
やることを見つけると俄然元気が出た。
まず電話だ。電話? どこに? わからない。けれども電話しなければならない。万里江は携帯を手にする。指が勝手に番号を押す。
『はい』
「本城です。これからはじめます」
『頑張って。電話を切ったら、電話したことを忘れるのよ』
「はい……」
どうして携帯なんか手にしているのだろう。まあいい。カレンダーを見る。生理は昨日終わった。どうしてそんなことをチェックするのか気を回しもしない。万里江は内省という言葉とは縁がないのだ。部屋を飛び出す。
階段を駆け下りるようにして浴室に飛びこんだ。シャワーを浴びる。上機嫌に鼻歌を歌いながら髪を洗い、全身を磨き上げる。
「……あっ」
泡をたてたスポンジで乳首をこすったとき、万里江はこれまで感じたことのない刺激に思わず声を上げた。
自分の乳房を見つめる。乳首が勃っていた。そっと手で触ってみる。すごい快感が生まれた。熱い波。足の指の先まで痺れる。指の腹で押しながら回してみる。目の焦点がぼけた。手で乳房全体を揉んでみる。乳首とは違い強くはないが、じわっとした快感がゆるやかに広がってゆく。揉みながら少し手を浮かせて手の平で乳首を転がすようにしてみた。
「ひ……あ……あ……!」
足の力が抜け、立っていられなくなった。
膝を突くと、シャワーの湯が顔面にかかった。お湯を吸いこんでしまってむせかえり、われに返った。
……なんだったんだろう、今のは。
まだ体がじんじんしている。力が入らない。腰から下が自分のものではないようだ。
鏡に映る自分の姿をふと見た。濡れた髪、少年のように引き締まった肩、見ているだけでも変な気分になってくるエッチな胸、腹筋が浮き上がり贅肉のかけらもない腹。ぺたりとお尻をついているのでそこから下が見えない。
下を向く。体に降りかかるお湯が臍の下へ流れこみ、少し濃いめのヘアが筆先のように尖って細い水流を導いている。
(………………)
喉を鳴らし、指をそろそろとそこへ向かって伸ばしてゆく。
そこに触るともう我慢できないくらい気持ちよくなる。そんなこと、いつ知ったのだろう? でも確かに知っている。それがどのくらい気持ちいいのかも。触りたい。触って、さっきみたいな快感をまた味わいたい。
だが、指は肉襞に触れる直前で止まった。
違う。
この指ではない。
これで触っても気持ちがいい。でも、自分で触るのでは、本当の快感は得られないのだ。
ではどうしたらいいのだろう?
わからないままに万里江は浴室から出た。体のうずきはさっきよりも強くなっていた。
髪を乾かし、化粧水を顔にすりこむ。自分が汗くさいような気がして、香水もちょっとだけ振りかけた。これまでそんなことは一度もしたことがないのだが。
部屋に戻った。
早く出かけよう。
万里江はジャージを脱ぎ捨てパンティ一枚になった。
ノーブラのままタンクトップを着る。その上にカーディガンを羽織った。下はショートパンツ。どうしてこんなみっともないジャージ姿で外に出て平気だったのか、これまでの自分が不思議だ。
髪をまとめた。いつもは大雑把にかき集めひっくくるだけだったが、今日はきっちりブラシをかけ、丁寧にまとめて赤い紐で縛った。鏡の前に立つ。同じポニーテールでも全然印象が違う。可愛いぞ、オヌシと万里江は自分を賞賛した。
最後にルージュを引いた。麻鬼先生にもらったものだ。色はほとんどないが、なんともいえないつやが出る。化粧など生まれてこのかたろくにしたこともないはずなのに、万里江の手は手慣れた様子で動いた。うきうきした気分になっていてそれをおかしいなどとは思わない。
準備万端整えて、窓から万里江は抜け出した。
前と同じように滑りこんだ隣家の室内は、今度は万里江にはやけに居心地よく感じられた。
「よっ」
気軽に挨拶する。
靴を脱ぎながら万里江は自分のむき出しの脚に注がれる相手の視線を感じていた。
ふふ、見てる見てる。
「今夜ソナタは一人ぼっちなんだってなあ。どうせ彼女もおらんのだろ。寂しいやもめぐらしを慰めに、可愛い万里江ちゃんがわざわざ来てやったのだぞ、ありがたく思え」
部屋を見回す。
「ふーむ、前より片づけたかな。女の子を迎えるにしてはちょいと華やかさが足りんけど、まあ上出来上出来。
ところで、お客が来たというのに、お茶の一杯も出ないのかね」
図々しく催促して部屋の主を追い払う。
早速万里江は物色を開始した。
「ほほう、やっぱりこういう所にこんなものが……」
「うわっ! な、何してる! 見るな!」
「まあいいじゃないの。へえ、体操着の誘惑……盗撮!女子更衣室……」
「やめてくれえ!」
万里江は押し倒されるような形になった。
「こら、重いぞ」
「あ、ご、ごめん!」
万里江のカーディガンの前が開いている。男の目が呆然と見つめていた。
「どこ見てる。エッチ」
赤面して飛び退いたのを、万里江はまた可愛いと思った。
「やっぱり男ってそーゆーの、ブルマとか、好きなの?」
「………………」
「これは嫌かね、キミ」
万里江はお尻をついたまま脚を持ち上げて男の目の前にぶらぶらさせた。
相手の目の色が変わりかけたところで、さっと身を起こしてカーディガンのポケットから盗聴器を取り出す。
「これ、返すわ」
「え……」
「もういらないから。ありがと」
「じ、受信機は?」
「盗聴器って高いんだってね」
万里江は質問には答えず言った。
「知らなかった。この間のコンセントのやつとか、五万とか六万とかするんでしょ。気軽に買えなんて言っちゃってごめんね。これだって、材料費とか結構かかったでしょ。ウリ一回分ぐらいじゃ足りないかな?」
「う、売り……?」
何とも言えない艶っぽい空気が流れる。
「コホン、で、い、一体、何に使ったんだ」
年長者の余裕を見せようと咳払いした相手の目がまたむき出される。
万里江は四つんばいになってお尻を見せていた。
「さてさて、後はどこにどんなものがあるのかな?」
視線が突き刺さるのを感じて万里江はぞくぞくする。ショートパンツはわざと小さめのをはいてきた。淡い水色のお尻に、この格好なら下着の形がくっきりと浮かび上がっているはずだ。あちこち移動しながら、時折くいっとお尻を振る。相手の体温がどんどん上がってきているのがわかる。楽しい。もっともっとそうしてやりたい。
「あ、これ」
目的のものを見つけた。
「この間のやつだよね」
目的? わからない。しかしそのビデオにどうしてか心引かれる。
『橘くんのお庭番』。どことなく人のよさそうな制服姿の男の子、ジャンプしている忍者の格好をした女の子、それにとろんとした目をして制服の前をはだけて乳房をむき出しにしているメガネの女の子の絵がパッケージに描かれている。そのメガネの女の子に万里江はなぜか親近感をおぼえた。
「見せて」
「見せてって……」
「エッチなやつでしょ。知ってるよ。こーゆーのってどんなだか興味あるんだ。あたしの仲間うちじゃそんなの見てるのいないもん。自分じゃ見れないしさ。ね、見せて」
どうしていいやらわからない顔で相手はビデオをデッキに押しこむ。
万里江は床の上にあぐらをかいた。ベッドに腰かけ落ち着かない風な相手の方を見やり、小悪魔的な笑みを浮かべて片膝を立てる。鍛えていてボリュームのある太腿の付け根、ショートパンツの内側に、パンティそのものがちらりとのぞく。見られているのを知りながら、気づかない風に万里江は微妙に脚の角度を変え、存分に見せつける。
ビデオが始まった。
とある高校の図書室で、主人公らしい少年が憧れの先輩と一緒に図書委員の仕事をしている。これが橘くんだ。先輩は玲子という。縁なしメガネが似合う、きりっとした顔立ちの美人だ。このひとかっこいいと万里江は見るなり思った。
高校生らしく先輩とのエッチを妄想しつつ冬道を下校する橘くんの後ろから、ポニーテールの女の子が元気よく駆けてきた。パッケージでは忍者装束を着ていた子だ。
桔梗というこの子は本当に忍者で、この現代になお橘家のお庭番をつとめているそうだ。
桔梗は催眠術が得意であるらしい。それで橘くんの妄想を聞きだすなり、それが橘くんの望みと早合点して、煙幕を張って消えてしまった。
何よ、勝手なやつね。姿も性格も自分と似ているのはこっちの方なのだが、万里江は桔梗には全然親しみをもてなかった。
その桔梗の姿が図書室に現れる。
貸し出しカウンターにいる玲子先輩に、一冊の本を差し出す。
『あれ……この本おかしい……』
口絵写真を指さした。畑の中の白い道が地平の向こうへ消えていく、外国の風景だ。
玲子の視線をとらえると、桔梗はその写真を少しずつ動かしはじめた。
『ほら、素敵な写真……。こうして目で追っていくと、ゆらゆらして、なんだかこの写真に吸いこまれていくみたい……』
あ、催眠術かけられてると万里江は思った。途端に同じ部屋にいる相手のことを忘れ、画面に気持ちがとらわれた。
『ああ、あなたは今どこにいるのかしら。それすらもわからなくなってしまいました。もう考えるのが億劫ですね。どこかをゆらゆらと漂っているみたい。もう体に力が入らない。ああ、なんて幸せな気持ち……』
玲子の目がどんよりと濁った。
そう、あれは気持ちいいのよね。万里江は玲子の感じているであろう心地よさを自分のことのように感じた。体中の力が抜けて、手足が勝手にふわふわと漂い出すような感じになるのだ。いつどこでそんなことを体験したのか、万里江は考えもしない。自分が知っているのだから知っているのだ。文句あるか。
『さあ、遠くから私の声だけが聞こえています。あなたはもう何も考えられませんから、この声だけが頼りです。私の声に集中していれば、ずっと楽しい気分でいられますよ。私に委ねるだけでいいの……』
そう、催眠術をかけられて、ひとの声の言うがままになるのは幸せだ。すごく幸せな気持ちになるのだ。玲子は幸せだ。万里江は画面の中の玲子と一緒に深いところへ入っていく。
玲子は桔梗に操られるままに橘くんのアパートへ上がりこんだ。
『ふうー、寒かったあ。圭介、お待たせ』
橘くんとは一年越しの交際でラブラブだという暗示をかけられている。
万里江も、なんだか一年前からよくそんな風に親しげにこの部屋に遊びに来ていたような気になった。
玲子と橘くんは一緒にコタツで鍋を囲む。橘くんの頬についたご飯粒を玲子は優しく取ってやり、自分の口に運ぶ。うらやましい、あたしもああいうことしてみたい……万里江は胸が痛むのをおぼえた。
暗示のせいで玲子にはその姿が見えない桔梗が、玲子の耳にささやく。
『あなたは圭介のことが大好きです。でも……、彼は最近、他に彼女がいるかのような素振りをみせています。とても不安な気持ちになってきましたね。あなたは彼を自分に繋ぎ止めたいと思っています。がんばって振り向かせないと、彼は他の女の子の所へ行ってしまいます』
万里江も不安にとらわれた。心の中に黒雲が沸き起こってくるようだ。これをなんとかできるなら、自分ならどんなことでもするだろう。
『……そうだ、あれを試してみましょうね』
桔梗に言われた玲子は曇った表情で橘くんを見やり、もじもじとして、それから決意を眉にあらわして言った。
『圭介……私のこと、今でも好き?』
好きだと言われると、玲子は笑顔を浮かべ、橘くんの前に座りこんだ。そして、ズボンのジッパーを下ろし、引き出した橘くんのものをぱくっとくわえた。
万里江の口も合わせてわずかに開いた。口の中でまだ柔らかかった男性自身がたちまち固くなってくる、その感じが生々しく実感される。そうだ、ああすれば彼の心を自分に引き止めておける。
玲子は情熱的に橘くんのものを舐めしゃぶる。彼のものがしゃぶれてとっても幸せだと桔梗が暗示を重ねる。そうだ、あんな風に言われると本当に幸せな気持ちになって、口の中のもののことしか考えられなくなるのだ。これもよく知っている。万里江は何度も、何度も……。
何度も?
かすかな疑念は横合いでごくりと鳴った喉の音で消え去った。
「……何見てんのさ」
飢えた野犬のように万里江を見ていた目は、そう言われてたちまちそらされる。Tシャツの裾でズボンの前を隠している。結構立派そうと万里江はサイズを目測した。
たちまち橘くんは達し、白い物をたっぷりと玲子の口の中に放出した。万里江はそれを見ると、アニメであるにも関わらずにおいを感じ、自分の意識がすうっと薄れていくような心地にとらわれた。頭を軽く振って気を取り直す。
桔梗がさらにみだらな暗示をかける。
『良くがんばったわね。これで彼の心は繋ぎとめることが出来たわ。さあ、安心したら今度はとてもエッチな気分になってきちゃいました。彼とセックスして愛を確かめあいましょう。ああ、もうあなたのあそこは彼のものが欲しくて濡れてきてしまいました。さあ、彼におねだりしちゃいましょうね』
画面から流れるその声を聞いた万里江の体の中に、いきなり強烈な熱気がふくらんだ。
風呂場で感じたものと同じ、でもはるかに強い欲望。自分の体が紙に変わって、一つだけ飛んだ火花から、あっというまに全身が炎に包まれる。表面が燃えてはがれた後にあらわれるのはなまめかしい別の生き物。万里江は変貌する。深いところに身をひそめていた別の万里江が万里江の体を支配する。
熱い。溶ける。たまらない。
画面の中で、玲子が橘くんに抱きついた。
『ねえ、圭介、してちょうだい。私もう……我慢できない……』
玲子が自分の胸を触らせるところがアップになったシーンで、万里江はベッドの方を振り向いた。
「ねえ…………ああいうこと……したい?」
「え……」
「なんか…………変な気持ちになってきちゃった……」
万里江はカーディガンを脱いだ。タンクトップには乳首がくっきりと突き出している。万里江は片手で軽くさすった。布地の上からでも強い快感をおぼえ、上体をかがめて息をつく。
目を上げる。床から見上げる妖艶な視線に相手は呪縛される。そういう目だ。動けなくなった男の脚に万里江はとろけるような肢体を投げかける。まとわりつくようにしながら、上へと這いのぼってゆく。
「ね…………さわって……」
万里江は相手の手を自分の素肌へ誘った。ちょっと触れただけで痛いくらいに感じる。声が出る。すごい。これだ、これが欲しかったのだ。
「や、やめ……出……出る……」
万里江が耳たぶに息を吹きかけ、手でズボンの上からさすると相手は裏返った悲鳴をあげた。腰がひくひくと動き、ズボンの前にたちまち大きなしみが浮かんできた。
「あ……すごい……」
万里江は世にも情けない表情をした相手のズボンを脱がせてやった。濃厚な男の香りが漂った。酔ったようになる。
「すごい…………こんなに濡れちゃったね……」
万里江は相手に身をすりつけると、その頬にキスをした。
「気にしてるの? 何でもないよ、これでおあいこだよ…………ほら、あたしだって……もう、こんなに……」
男の手をショートパンツの中へ導き入れる。万里江の秘所はもうぐしょぐしょだ。男の手が驚きに引きつる。ショートパンツを脱ぎ、男のトランクスに手をかける。
「脱いで……。あ、すごい……べとべと…………こんなに出たの…………素敵……」
万里江は白い粘液まみれの男のものに憑かれたように見入った。
相手の体をベッドに横たわらせる。体を入れ替え、万里江は濡れたパンティに包まれたお尻を顔の前に突き出すようにした。
「女の子の……見たことある? いやじゃなかったら…………べとべとになってる、あたしのも…………脱がせて……」
男の指が布と肌の隙間に入りこんでくると、万里江は興奮して身を震わせた。長々と引いた糸が太腿にへばりついてぬるりとなった。
「あ……恥ずかしい……あなたの、ここ、あたし、じっと見てるの……見られてると恥ずかしいでしょ……あたしも、おんなじなの……」
きれいにしてあげる、と万里江は舌を伸ばした。
丁寧に、丹念に、残滓一つ残さず徹底的に舐め取る。口に含んで舌でいじりまわしているうちに、もう復活してきた。
「大きくなってきたよ……ねえ、気持ちいい?」
「あ……」
「気持ちいいんなら、声出して……。ね、気持ちよくなってる声聞きたいの……。だって、あたしだって、気持ちよくなったら……」
胸を肌にすりつける。
「はあん……ほら、こんな声でちゃうんだよ……こんなの、嫌? 嫌じゃないでしょ。みっともないって思う? 思わないでしょ。あたしに触られて、気持ちよくなったんなら、ね、気持ちいい声聞かせて……あなたの声、聞きたいの……」
「あ……ああ……すごい……気持ちいいよ……」
「嬉しい……」
万里江は男の服を全部脱がせ、自分もタンクトップを脱いで全裸になった。あらためて肌を重ね合う。
何をどうすればいいのか、万里江には全部わかっていた。楽譜を見ただけで一々考えずともトランペットが吹けるように、男の反応に合わせて万里江は必要な言葉と動作を自然に選んだ。頭の中にマニュアルプログラムがはしっているかのように、少しでも次の手順に迷いが生まれればすぐに正しい選択が示された。
「ね、乳首、どう? 感じる? すごい、勃起してるよ……ほら、あたしの乳首も触って……あっ、はあ……気持ちいい……ね、あたしの乳首、立ってるでしょ…………あなたのおっぱいも、気持ちいいんだよ……もっと揉んで……いじって…………あなたのおっぱいよ、ね、あなたの乳首、いじって、感じて……」
「あ……ああ……は…………はう……」
まずは男の感覚を混乱させる。それから男を感じさせるように誘導する。その手順を深く深く万里江は教えこまれていた。女性が男性を感じさせ、悶えさせ、はては失神させるビデオを見せられた。男性相手に何度も練習させられた。自分が失神してしまいもした。男を感じさせると自分もすごく気持ちいいことを知った。もし男を失神させることができたなら、万里江も最高の気分になることができる。蒼い目をしたすごくきれいなひとがそんなことを言っていた。あのひとが言ったのだからそれは本当のことなのだ。万里江は混濁してゆく意識の片隅で、夢を見るように、忘れていた記憶をよみがえらせた。それらは泡のように浮かび上がってきて、ありありと思い出されてはすぐに割れて消え去り、また心の深いところに雫となって垂れ落ちていってしまうのだった。
「気持ちいい……気持ちいいよ……あ、声、出ちゃう……出して……いじって…………あ、いい……もっと、気持ちいい声、聞いて……声、聞かせて……あっ、すごい、いいよ、いい、もっと……」
「あ、ああ……はあ……いい……きもちいい……」
「そう、そうよ、ね、もっと感じて、気持ちよくなって……ほら、おまXここんなになって……指、もっと……あは……すごい、すごいよ……ね、あなたも、こんなになって、ぐしょぐしょに濡れてる…………」
二人の声はからみ合い、溶けあった。のたうつ体が重なり、抱き合い、とろけて、ひとつになっていった。
「ああ、イク、イク、すごい、すごい、ああ、はあ、あん、イクうっ!」
「ああ、すごい、ああ、はあ、イク、イク、イッちゃう、イッちゃうよ……ああっ!」
万里江の中で万里江は弾け、熱いものを万里江は放出し万里江は体で熱いものを受けた。万里江はもはや自分がイッたという意識すらなく、快感にすすり泣く男の体にしがみついて、自分の声か相手の声かもわからない叫び声をあげながら、はるか深い深淵へとどこまでもどこまでも落下していった。
「はい、よくできました」
家の近くに止められた暗い車の中で、サングラスをかけたままの美女が微笑みを浮かべた。
その手にあるのは赤いランプの点った受信機。コードがつながれていて、車載のスピーカーから脱力した二人の息づかいが聞こえてくる。
「つめがまだ甘いけど」
「わずか一週間でここまでできるようになれば十分だろう」
ハンドルを握る蜂谷医師が呆れたように言った。
「それにしてもさすがは教師、大したものだ。教え方がうまいのだな」
「万里江の飲みこみがよかったのよ。あの子は素質あるわね」
「このあとあの彼氏が大変だな。童貞だったかどうかは知らないが、これだけいい思いをしてしまったら、もう普通のセックスでは物足りなくなってしまうだろう」
「そこまでは責任持たないわよ」
蜂谷医師はごつい指の上で器用にビデオテープを回転させた。
「これももう返却していいな。よくまあ色々と思いつくものだ。感心するよ」
「ちょっとこりすぎたわ。次の機会があればもうちょっと簡潔にするわよ」
「おっ、気がついたようだぞ」
スピーカーからごそごそと身じろぎする音が聞こえてきた。
万里江は裸で男に抱きついている自分を発見した。
(あ…………)
体を動かすと、まだ自分の中にくわえこんでいた男のものが、すっかり力を失ってするりと抜け落ちた。合わせてなまぬるい液体がどろっとあふれ出てシーツを濡らした。
(あたし…………しちゃったんだ……こいつと、初体験……)
驚きも、怒りもない。
灼熱した快感の記憶だけがある。
すごかった。
初めてなのにあんなに大胆に振る舞えたことが信じられない。でも、誘惑するのは文句なく楽しかった。その後の気持ちよさときたら、この世にこんなにいいものがあるなんて思ってもみなかった。
これはやみつきになりそうだ。
自分が抱きついている相手の方に気を向ける。
姿勢が悪かったのでわからなかったが、こうやって横になってみると、結構背が高い。全然鍛え方は足りないけれどもやっぱり男だけあって肩幅は広く、腕も固い。
万里江のすぐ目の前に横顔がある。目は一応開いてはいるが、天井を呆然と見たまま喪心してしまっている。口は馬鹿みたいに開き、まだ荒い息をしている。あご骨の陰に、そり残しの髭が何本か生えていた。
万里江の愛撫に反応してここまで感じてくれたのだ。
可愛い、と万里江は心から思った。
昔のことを思い出した。
小さい頃は、よく遊んでもらった。
『隣のお兄ちゃん』はいつも優しくて、万里江はおにいちゃんとけっこんするとか何とか言っていたものだ。
胸の中にあたたかいものが生まれた。
この人とはうまくやっていけるだろう。
直感がそう告げた。
色々と品定めしてみる。
容姿は……悪くない。元々目鼻立ちは格好いいのだ。磨けば光る。
性格は……いいやつだ。ちょっと気弱。多分万里江の尻にしかれることになるだろう。そういうのも悪くない。
趣味は……自分とは何の接点もない。だけどそれならそれで、これから自分が相手の好きなものをおぼえ、相手に自分の好きなものを教えていく楽しみがある。自分が知らない世界のことを知るのは面白い。
普通とは順番が逆だが、今度デートしよう。冬には一緒のコタツに入って、熱い鍋をつつこう。
「あ…………」
相手がようやく万里江の方を向く。万里江は笑った。
「よかったよ……すっごく、よかった。最高」
万里江は顔をよせると、いかにも不慣れな風に、だが明確な自分の意志で、その頬に唇を押しつけた。
「ね、もう一回…………しよ?」
「あら」
「おや、第二、いや第三ラウンドか。男はつらいな。これも教えたとおりなのか?」
「まさか。驚いたわ。あの子自身よ、これは」
麻鬼はサングラスを外した。それからふっと微笑んだ。
「万里江、たいへんよくできました。お幸せにね」
麻鬼の白い指が受信機のスイッチを切った。
「出して」
赤いテールランプが夜の彼方へと消えてゆく。
万里江の中にもう先ほどの狂おしい炎はない。完全に消え失せた。余熱が残っているだけで、それもどんどん薄れていっている。したいと思っても、よみがえってくることもない。
けれども、それでいい。手の中の肉棒は全然固くならないが、握っているだけでほっとする。腿のあたりをなでられている。くすぐったいけれど、いい感じ。激しい快感はなくてもいい。いま欲しいのはあたたかさ。ゆらりゆらりと波間に漂っているような、この気持ちいい感じをずっと味わっていたい。どこを触ってもいい。肌に触れて、触れられて、ぬくもりを感じ、ぬくもりを与えていたい。
動くことさえしなくていい。
万里江は相手の体の上に乗ったまま、胸に耳を押しつけて、静かに心臓の音を聞いていた。
万里江は言った。昔の呼び方を思い出して、誰に植えつけられたのでもない、まぎれもない真実の愛情をこめて、そっと。
「好きだよ、おにいちゃん…………」
甘い吐息が、闇に溶けた。