(一)
週末、人でごったがえす駅前でアヤは万里江が来るのを待っていた。
どこでも男という生き物は本能的にいい女をかぎつける。わざと猫背にし、だらしない格好をして、目立たない位置に身をひそめるようにしているアヤに、何人も男が声をかけてきた。大抵の相手はアヤが無視していると去っていった。しつこいやつもアヤがひとにらみすると青ざめて去った。強引に手をつかまれた。アヤは靴の踵で相手の足の甲を踏みつけると、悲鳴をあげたその顎を掌底で打った。吹っ飛んだ男は人混みの注視を受けると捨てぜりふを残して逃げていった。
目の前を高陵学園の制服を着た女子が二人歩いていった。片方は小柄、もう片方は背が高く、こっちは松葉杖をついている。
アヤは時計を見た。
待ち合わせの時間は過ぎた。
万里江は吹奏楽部に所属している。毎日学校へ行くだけでも面倒くさいのに、さらに部活なんてものをやる神経がアヤにはどうにも理解できない。
その点をのぞけば、万里江は週末の夜を一緒に過ごすのに申し分ない相手だった。
うまがあう、というのか。人間嫌いなところのあるアヤだが、万里江だけには気を許すことができた。万里江が他人に余計な興味を持たず、小うるさく干渉してこないからだろう。万里江の方でもアヤに対して同じように感じていてくれるらしく、自分を恐れて腫れ物を触るようにしか接してこないお嬢様学校の連中の中で、万里江だけがアヤに普通に声をかけてくる。アヤにとって万里江はかけがえのない友人だった。
だから万里江のことは誰よりよくわかっている。どうせ今も、トランペットの練習に夢中になって遅れているのだ。そういうやつだ。来たらそれを理由にまず一杯おごらせよう。
そう思ってにやっとしたところへ、携帯が振動した。
万里江からだった。
『あ、アヤ? あたし。ごめんねえ、今日さあ、ちょっと別の用事入っちゃってさあ、駄目になっちゃった。ほんとにごめん! 今度埋め合わせするから、今日は許して! お願い!』
アヤの眉間に不機嫌な皺がよった。電話の内容もさることながら、いつどのような目にあわされるかわからない不良の心得として、電話の際にはどこにいるのかまず最初に言うよう万里江と取り決めてある。それがない場合は警戒信号だ。
万里江はアヤほど危機感を持って日常を生きていないから、忘れることもしょっちゅうだ。また言っておかないといけないなとアヤは思った。
「なんだ、用事って」
「ふふ、ひ・み・つ」
アヤはますます険しい顔になった。万里江は確かに脳天気だ。だが、自分勝手に約束を取り消しておいて理由も説明しないような無責任なやつではない。
「秘密って、おい……どうした、マリエ」
アヤは万里江を普段はマリと呼ぶ。マリエと呼ぶのは真剣な時だけだ。そうさせる何かをアヤは万里江の声から聞き取っていた。
「お前なんだか変だぞ」
『何が変なのよ。じゃあ切るね。まったね〜』
「待て! お前、今どこに……」
電話は切られた。アヤは急いで万里江の携帯にかけ直した。
何度かけても留守番電話にしかつながらない。
アヤは時計を見直した。
練習は六時で終わると言っていた。
この時間なら、まだ学校かその近辺にいる可能性が高い。
アヤは走り出す。それまでの、中年オヤジのようなくたびれた姿勢が消えた。背筋が伸び、気の抜けたように垂れ下がっていた目がきりっとつり上がる。その姿は一陣の風となって繁華街の雑踏の中に消えていった。
※
ビルの谷間の暗がりにアヤは立ちつくしていた。
すぐそこが広い道路で、街灯と車のライトで明々となっているのだが、光に身をさらすのがアヤは嫌いだった。
学校はじめ辺りをしばらく駆けずり回ったが、結局万里江は見つからなかった。
万里江が立ち寄りそうなところには残らず足を運んでみた。
偶然学校の生徒を見かけた。吹奏楽部員だったのを幸い、物陰に連れこんでアヤにしては丁寧に訊ねてみたが、泣き叫んで許しを請うばかりで役に立つ情報は聞き出せなかった。
携帯はまだつながらない。
滅多にしないことだが万里江の家にも電話してみた。あんまり大きな声で言えないんだけど、最近悪い友達とつきあっているみたいでねえ、まだ帰ってないのよと電話に出た母親は告げた。
単に自分が知らないところにいるだけだと気を落ちつけようとしても、胸騒ぎが治まらない。
万里江はどこに。
焦る気持ちのままに目の前の壁を殴りつける。二度、三度と殴る。
「ちくしょう……」
つぶやいた直後、愕然と振り返った。
見たのは一瞬だ。だが動体視力には自信がある。
間違いない。
今通り過ぎた車。
助手席に乗っていたポニーテールのジャージ姿。
「マリエ!」
アヤは叫んで暗がりから飛び出した。
しかしもう車のテールランプは彼方に走り去り、他の車と見分けがつかなくなってしまっていた。
※
「マリエ、お前、昨日一体どうしたんだよ」
翌日曜日、携帯に万里江が出るなりアヤは勢いこんで話しかけた。
『ああ、アヤ、おはよ……』
「おはよじゃねえ! 昨日どこ行ってたんだ!」
『何さ、いきなり』
「いいから答えろ。昨日、大事な用事があるとかいってオレとの約束断ったな。その用事って何だったんだ」
『そんなこと言ったっけえ……?』
「ああ、言ったよ。昨日、どこへ、誰と、何しに行った。答えろ!」
『何よ、朝っぱらからいきなり。いくらアヤでも怒るよ』
「いいから、答えろっつってんだよ!」
アヤの剣幕に驚いたか、息をのんだ気配の後で万里江はしぶしぶ言う。
『……デートしてたんだよ』
「デートだあ? 誰と!」
『彼氏に決まってるよ!』
「彼氏? お前にそんな相手いたかよ! どこの誰だ、そいつ!」
『カレはカレだよ! もういい加減にしてよ! 何よ、日曜日だってのに、朝っぱらから変なことばっか言ってさ!』
やばい、切られると思ったアヤは声の調子を抑えて急いで訊ねた。
「すまねえ、じゃあ、あとひとつ、ひとつだけ教えてくれ。お前、昨日、氷上と一緒にいたか?」
『そりゃ、部活あったから学校じゃ一緒だったけどさ』
「違う、練習のあとだ!」
『……はあ? なんであたしが先生といなくちゃいけないわけ?』
「お前が氷上の車に乗ってんの見たんだよ!」
『頭大丈夫? いつあたしが先生の車に乗ったってのさ。もう、寝ぼけないでよね。どうせ昨日も散々飲んだくれて暴れてたんでしょ。ちゃんと寝て、たまには顔でも洗ってさっぱりしたら。あたし寝直すからね。じゃ、ばいばい』
「マリエ…………」
アヤは切られた携帯を手に立ちつくした。
万里江にカレなどいない。万里江が男に興味を示したこともない。そもそも万里江はアヤと同じく恋愛そのものに対して淡泊だった。そこが気に入った理由でもあるのだ。
その日一日、万里江の携帯は電源を切られたままだった。
※
月曜日、アヤは校門で万里江が登校してくるのを待ちかまえた。
校門への坂を上ってくる姿を見つけるなり、突進する。海が割れるように他の生徒が道を開ける。
「あ、アヤ。おはよ、どうしたの、こんな時間に。早いね」
「ちょっと来い」
「何よ、いきなり。痛いよ、放して」
アヤは万里江を校舎裏に引きずりこんだ。
「きのうはすまなかった」
つり上がっていた万里江の眉がそれを聞いて水平に戻る。
「なんだ、そんなこと言うために早起きしたの。気にしてないのに」
「でも、教えてくれ。その彼ってどこのどいつなんだ」
「彼? な、何のこと?」
万里江は内心がすぐ顔に出る。
「何とぼけてやがる、昨日電話で言ってただろう、土曜日にカレとデートしてたって!」
「知らないよ、そんなの」
「誤魔化すな。オレははっきりおぼえてるんだ」
「……駄目だよ。秘密なんだから」
そういう言い方で万里江は白状した。
「誰だ、そいつ」
「秘密だって言ってるでしょ」
「言えよ」
「嫌」
これが他の相手ならとうに殴りつけているところだが、相手が万里江なのでアヤはこらえる。
「どうして」
「だって、言ったらいけない相手なんだもん」
「……どういうことだ」
「いくらアヤでも駄目なものは駄目。教えない」
「言え」
「嫌だってのに」
頬をふくらませる万里江の顔を見ているうちに、アヤは切れた。
「言えっつってんだよ、コラ!」
「きゃあ! 痛い! 放して! 痛い痛い!」
「言ったら放してやるよ!」
「…………奥さんと子供のいる相手だよ! 言ったらひどい迷惑かかるから、絶対に言っちゃいけないんだ! これでわかったかよ! 放してよ、バカ!」
「まだだ! そいつの名前は! うちの教師か! それともよそのやつか!」
「やめてえ!」
「何してるの」
いきなり声がかかった。アヤは振り向くより早く体が戦闘モードに入るのを感じた。背中に一面冷水を浴びせられたみたいな心地がした。
「せんせい!」
万里江が背の高い、サングラスをかけた美しい人影の後ろに逃げこんだ。涙の浮かんだ目でアヤを睨みつける。
「……あなた、一年生ね。何をしていたのかしら」
「う、うるせえ!」
アヤは背を向けるとその場から逃げ出した。場所も悪ければ状況も悪い。他の教師なら睨むだけで追い払ってやるのだが、あの相手だけは別だ。何の準備もなしに立ち向かえる相手ではない。喧嘩するときはこちらが場を支配するべきで、そうでないときは即座にその場から逃れる。それがアヤの骨身にしみこんでいる鉄則だ。
それにしても、どうして滅多に人の来ないあの場所にあいつが現れたのだろうと、落ち着いてからアヤは首をひねった。万里江のポケットに小さな送信機が入っていたことなどアヤが知ろうはずもない。
※
放課後、アヤは音楽室のある四階に行き、トランペットパートが練習している教室をのぞいた。
万里江はいない。
「ほ、本城さんなら、今日は用事あるとかで、先に帰ったわよ……」
上級生がおびえた顔をして言う。アヤのことはこの学校で知らぬ者はない。可憐な白い花園に咲いた一輪の黒薔薇。どうして彼女がこの高陵学園に入学できたのかは学園七不思議のひとつだ。
念のため、音楽室をのぞいてみた。
いきなり全身の毛が逆立った。
あの教師、ドイツ人とのハーフ、吸血鬼ともあだ名される美女の後ろ姿が個人練習室の中にあった。扉のガラスは上の方にしかついていないので他に誰と一緒なのかはわからないが、とにかくここにいるのは間違いない。アヤは急いでドアを閉め、わずかながらも安心した。
その麻鬼は、クラリネットの二人に楽器を吹かせて万が一にも外に声を聞かれないようにしながら、携帯でこんな風にしゃべっていた。
「いい、万里江、私の声が聞こえるわね。よく聞くの、聞こえるのは私の声だけよ。あなたはちゃんとまたこの深い深あいところに来ることができたわ。あなたの身も心も私のものになったの。いいわね。私の言うことをきいていたら、またすごくいい気持ちにしてあげる。……」
※
一週間が過ぎた。
アヤはひどい焦燥にかられていた。
「おいマリエ、お前昨日さっさと帰っちまっただろ。どこ行ってたんだ?」
「何言ってんの? あたしちゃんと練習してたよ」
これが火曜日の会話。
「昨日、練習の後、氷上とどこに行ったんだ?」
「はあ? あたしが、先生と? どこに行ったって?」
これが水曜日の会話。
木曜日、こんなことがあった。
「おい! 今、氷上となに話してた!」
「あ、アヤ」
「アヤじゃねえ! 今なにしゃべってたんだ!」
「は?」
「だから、あいつと!」
「何言ってんの、誰もいなかったじゃない」
「………………」
金曜日のこと。
「マリエ、ちょっと来い」
「あ〜、アヤだ〜」
「ち、ちょっと、何だ、マリ、抱きつくな!」
「人にくっつくのって気持ちいいよねえ……」
「……なんだと? ……!」
気配を感じて振り向いたアヤは、物陰から立ち去る美しい影を見逃さなかった。
その週の土曜日は学校が休みだ。
吹奏楽部は部としての活動は休みだが、その気がある者は練習しに出てきてもいいことになっている。
練習熱心な万里江は学校に出かけた。
アヤは万里江の家の前からその後をつけた。
どこか別の場所に行くのではと思ったが、万里江は学校最寄りの駅で電車を降りた。
まっすぐ学校の方へ坂を上ってゆく。
他にも吹奏楽部員らしき制服姿がちらほら見える。私服のアヤはどうするか迷った。迷った一瞬の隙に、万里江の姿を見失っていた。
それきりその日は最後まで万里江を見つけることができなかった。
その夜、アヤは荒れた。
万里江が何か自分の知らない別の人間と入れ替わっているような気がしてならない。いや、それはアヤの中で確信となっている。常識的に考えればそんなことは信じられない。だが常識なんかくそくらえ。そこの、大切な友人が危ないとわめいてる第六感、おめーが正しい。オレは信じるぞ。
あれは万里江じゃない。万里江本人ではあるが、万里江じゃない。アヤはどう表現していいのかわからない。とにかく万里江はおかしい。どんどんおかしくなっている。
なのに、どうしたらいいのか見当もつかない。
焦りばかりがつのってゆく。
行きつけのバーで、まだそれほど遅くもない時間に、アヤはすっかりできあがってしまっていた。
「だからよ、ユー・エフ・オーは……」
ふとアヤは耳をそばだてた。
大学生ぐらいの若い男たちが声高に言い合っている中に、そんな単語が聞こえたのだ。
UFOか。
会話の主たちが言っていたのはそういう名前のプロレス団体のことらしいが、アヤにとってUFOといえば未確認飛行物体の他にない。
――マリエは宇宙人にでもさらわれたのかもしれない。
そんな阿呆なことを酔ったアヤの脳味噌は勝手に思い描いた。
UFOの中に捕らえられた万里江が、怪しげな台に縛りつけられている。アヤにはSF的知識は皆無なので、怪しいといっても想像できるのはせいぜいパイプベッドとロープ程度のものだが。服がはだけられ、あられもない格好になった万里江の周囲を、灰色の影が取り囲む。どれも妙に背が高い。憎たらしいが格好いい。そしてサングラスをしている。万里江はそいつらによって何がなんだかわからないぐにゃぐにゃしたへんてこりんなものに改造されてしまう。その万里江であったものが、万里江とまったく同じ姿をした着ぐるみの中に詰めこまれ、背中のチャックが閉じられる。宇宙人からの指令を受けるため、後頭部にポニーテール型のアンテナが装着される。そうして宇宙人の手先になった万里江は、よっ、と普通にアヤに挨拶する。だがその目の中に、万里江の正体であるぐにゃぐにゃのものがうねうねしているのだ。
アヤの目の前に置かれている水割りのグラス、その中身がうねうねと蠢いたように見えた。何十本と並んでいるキープボトルの瓶の首がいっせいにぐにゃりと曲がったような気がした。店内を見回せば壁も天井も床も人間も、何もかも全てがうねうねにょろにょろと歪んでゆくように思われた。
アヤは吐き気をおぼえて店をふらつき出た。
翌日、夜になって二日酔いからようやく回復したアヤが何の気なしにテレビをつけると、UFO特集をやっていた。
UFOを目撃した後記憶をなくした外人が、催眠術によって宇宙人に誘拐された記憶を取り戻していた。
(………………)
―――催眠術か。
(二)
週が替わった月曜日、万里江が自分の方からアヤを物陰へ引っ張っていった。
もともと万里江はさっぱりしていて、たとえ口げんかしたとしても次の日にはけろりとしている。だが、それにしても表情が妙に明るい。浮かれている、いや舞い上がっている。足が地面についていない。
「いやあ〜、もうじき夏だけどさあ、あたしはこれまで冬でさあ〜、でもついに春だよ、春が来て、世界が春になったんだよおお!」
踊り出した万里江を見てついに壊れたかとアヤはぞっとした。
アヤの視線をどう受け止めたか、万里江はにたりと笑ってアヤの背中をばんばん叩いた。
「いやあ、いい! ほんとにいいもんだ! キミも早く彼氏作りなさい!」
「…………なんだと?」
「聞きたい?」
万里江はふっふっふっと意地悪く笑った。
「どうしても聞きたい?」
「……言えよ。言ってみろ」
「そうか、そんなに聞きたいのなら、ソナタにだけはひそかに教えてしんぜようぞ」
聞かされたアヤのあごが音をたてて地に落ちた。
きゃっと万里江は両手を頬にあてて乙女チックに飛び跳ねる。
「男と……一日中?」
「いやん、そんな大きい声で言わないで!」
「ちょっと待て、それって、この間言ってた、奥さんと子供がいるってやつか?」
「な〜に言ってんだよ、何の話さ、そんなの知らないよ、あたしの彼氏は、きゃっカレだって、恥ずかしい、あたしの彼は、うわうわやっぱり恥ずかしい、だからその、あのおにいちゃんは、だからその、なんだ、隣の、ほら、昔の、あれさ、いわゆるひとつの、幼なじみってやつで……」
今大学生という部分はオーバーヒートしたアヤの脳には届かなかった。
※
昼休み、アヤの姿が図書室に現れると、悲鳴こそ上がらないものの、おとなしい生徒たちの間に恐慌が巻きおこった。
猫背ぎみの黒い長身が戸口から図書室内をじろりと見回すと、図書委員も読書中の生徒も青くなって顔を伏せた。
重い沈黙に閉ざされた中に、アヤの足音だけが響く。
廊下をどたどたと黄色い声を上げながら誰かが走ってゆく。
図書委員は震え、お願いだから刺激しないでと神に祈った。
アヤが奥の方へ行くと、一人また一人と物音をたてないように図書室から逃げ出していった。
立ち去るタイミングを失った女の子の後ろに足音がやってきて、止まる。
女の子は気づかぬ風で本を読み続けようとしたが、ページをめくる手が震える。文字が全然頭に入らない。怪物のような女生徒の視線が自分に向けられているのがはっきりとわかる。風がかすかに流れ、視界の端でアヤが別のテーブルに移動したのを見て取ると、安堵のあまり涙が紙の上にぽろぽろ落ちた。
……アヤは別に生徒をいじめに来たわけではない。
立ち直るのに半日かかった。頭を整理して一から考え直してみる。万里江は自信満々で、自分の方が間違っているのかとも思ったが、やっぱりどう考えてもおかしいのは万里江の記憶の方だ。アヤは自分の目と耳を信じている。妻子のいる相手とデートしたという万里江の声は今でもはっきり思い出すことができた。
記憶が操作されている。昨日のテレビの影響でアヤはすぐそう結論づけた。そんなことが現実に起こるわけがないと思っていたが、万里江の様子はまさにそれだ。それなら催眠術で思い出させることができるはず。しかし催眠術のかけかたなどアヤは知らない。そんなことを知っている人間も周囲にいない。仕方なく、これまで一度も足を踏み入れたことのない図書室へやってきたのだ。
これからここの誰かに血みどろの喧嘩をふっかけようとしているかに思われる険しい顔は、ずらりと並ぶ本棚の偉容に圧倒されたからであり、じろじろと一人一人を睨みつけていくのは、来てみたはいいがどうしていいかわからなくなったからであった。右手がスカートのポケットにさしこまれ、手練の得物の小型ハンマーを握りしめているのは自分を奮い立たせるおまじないのようなものだ。
「おい」
カウンターにいる図書委員に声をかける。
「は、はい……」
「ちょっと聞きてえんだが、ここに……」
いかにも勉強ができそうな上級生の顔を見ているうちに、アヤの声は尻すぼみになっていった。自分の疑念が小学生以下の馬鹿馬鹿しい妄想に思えてきたのである。こいつに、他の連中も聞いている中で、宇宙人にさらわれたオレの友人の記憶を取り戻すために、催眠術について調べたいなんて言うのか?
「……いや、いい」
駄目だ。ここは駄目だ。オレの場所じゃない。
立ち去ろうとしたアヤに、声がかけられた。
「何か探してんの?」
子供のような、舌っ足らずな響きの声だった。
見れば、声そのままの小さな少女がアヤを見上げていた。
目が大きく、丸顔ぎみの可愛らしい顔立ちで、制服を着た小学生が紛れこんでいるかのように思われたが、襟章を見ると二年生だ。
「本探してるんやったら、そっちの検索機で探せるで」
ロリータ系の外見と声に似合わぬ関西系のイントネーションで言うと、カウンター横のディスプレイを指した。
「使い方わかる? タイトルと、ジャンルと、著者名で探せるんや。キーボードが苦手やったら、画面をこないしてな、マウスで文字をポチ、ポチ、ポチっとな、こう打って、検索ってところを最後に押したらええんやで」
「あ、ああ」
「あんたアヤさんやろ? 噂には聞いてとったけど、ほんまにかっこええなあ。うち、迫水千尋。さこみずでもええけど、ちひろて呼んでくれる方が嬉しいわ。ハクスイセンジンなんて読んだらあかんで。そんなん言われても何者かわからへん。坊さんちゃうねんで。今年の春転入してきたんや。そやからこの学校のことよー知らんとこは一緒やね。元々こっちの生まれなんやけど、あっちにおったさかい、ちょっと関西弁入ってる。気にしないでおくれやす。へへ。せやけどほんま、アヤさんとこないなとこで会えるなんて驚いたわー。……」
初対面の相手によくしゃべるとアヤは呆れ、それから苛立ちをおぼえた。
さっさとあっちへ行ってほしいのはもちろんだが……
何だ、こいつの、この感じは?
人なつこい笑顔の奥に、何かがある。
アヤだからこそわかる。
目に見えない触手がこのちっこい相手から伸ばされ、自分に巻きついてくるようだ。
悪寒をおぼえた。
蜘蛛をふと思い起こした。
「あ、邪魔? ごめんな。じゃあ、あたし図書委員ちゃうねんけど、わからんことあったら何でも聞いてな」
アヤの目つきで察したか、それとも偶然か、千尋はアヤが怒鳴り出す一瞬前のタイミングで離れていった。
気を取り直してアヤはディスプレイに向かう。
書名で探す。ジャンル検索とは何のことかアヤにはわからない。
たどたどしく催眠術のかけかたと打ちこみ、検索。
ない。
じゃあ記憶喪失。
これもない。
考えて、UFOと打ちこんでみる。
何冊か出た。だがあまり役に立ちそうなものはない。
催眠と打ちこむと、そういうタイトルの小説が一冊だけ引っかかってきた。これはどうだろう。著者の名も聞いたことがある。映画化されたやつだ。読むだけ読んでみようか。
「へえ、そういうの興味あるん」
いきなり言われてアヤはもう少しで後ろ殴りに拳を振るうところだった。
千尋が無遠慮に画面をのぞきこんでいる。
「何だ、のぞくんじゃねえ!」
「そんな、怒らんといてや。ごめんごめん」
関西弁で言われてもアヤには謝られているようには思えない。千尋の表情にも悪いと思っている様子はかけらもなかった。
「せやけど、そういうの調べたんやったら、その本やったらあかんよ。筆者はしっかりした人やねんけど、それにはアヤさんの役に立つことは書いてへんちゃうんかなあ。心理学とかそっちを探してみた方がええと思うわ。ここの図書室、まじめな本は結構充実してはるし。転入してみてびっくりしたで。よーけ金かけてはる。さすが私立はちゃうなあ。このコンピューターやって大学とかそーいうところとリンクしてるみたいやし、そや、司書の先生に相談してみたら色々と教えてくれるで、きっと。人も機械も使えるもんは使わんともったいないやんか、なあ」
この場にいる全員が息をのんでこのやりとりを注視しているのがアヤにはわかる。期待に応えて、ぺらぺら回る口にマウスを押しこんで黙らせてやろうかと思った。思いとどまったのは千尋の次の言葉のせいだ。
「そういや、四組の北沢さんと和田さんが結構くわしいいうの聞いたことあるなあ。オカルトやったか超能力やったか、そんな研究会やっとるはずやで」
「二年四組の北沢と和田だな」
アヤはようやく有用な情報を得て勇み立った。物言わぬ本は苦手だが、相手が人間ならアヤは何とでもできる。
椅子から立ち上がったときにはもう千尋のことは忘れてしまっていた。
黒い疾風のように去っていったアヤの後ろ姿に、千尋はにっこり微笑みかける。
「アヤ、気に入ったよ。そのうち、たっぷり遊んであげる。ふふ。……」
ひっそりと口にした声は別人のように低く、そこに関西弁の響きはなかった。
(三)
放課後、アヤの姿は東校舎の離れにあった。
校舎から突き出たその部分は部室棟と呼ばれている。ベビーブーム世代が入学してきたときに増築したはいいが、少子化時代を迎えて使い道を失った。それが専用の部室を持たない文化系クラブの巣窟と化したのだ。
その中でも最奥の一室のドアに、どこか歪んだおかしな字体でオカルト研究会と書かれた看板がかかっていた。
喧嘩相手の技や戦い方を事前に調べる時と同じ熱心さで、アヤはわずかな間に目標人物についての情報を一通り集めていた。
それによると、オカルト研の評判はあまり芳しくない。
占いとか前世とか、そのたぐいのことに興味を示すのは古今東西女の子の変わらぬ性というやつで、少ないながらも部員が途絶えることはない。
しかし、奇声を上げるとか屋上で円陣を組んで祈っているとか、夜に学校に忍びこんで儀式めいたことをやっているとか、とにかく怪しい行動ばかりしているというので敬遠された。占い研究会、幻想文学同好会が分離して独立し、本体であるはずのオカルト研は数年前から部活棟の一番奥の部屋に事実上隔離された状態になっている。
今の会員数はざっと七、八人。
目標の北沢京子と和田恵理香は、三年生を差し置いて部の中心的存在であるという話だ。
アヤはドアに手をかけた。鍵がかかっている。だが中に人の気配がある。
「開けろ! いるんだろ、北沢! 和田!」
ドアを殴り、蹴飛ばした。何事かとそこら中の室内から顔がのぞくが、アヤと知るとたちまち引っこんで息をひそめてしまう。
ドアがめりっと変な音を立てた。音楽室だの放送室だのといったところの防音ドアならともかく、普通の横開きドアだ。アヤのキック力をもってすれば、あと二回も蹴りつければドアそのものをぶち破ることができる。
大慌てで鍵を外す音がした。
アヤはドアが開くなり現れた相手を突き飛ばすようにして室内に入りこんだ。後ろ手にドアを閉める。
「………………」
怪しげなタイトルの本ばかりぎっしり詰めこまれた本棚、水晶玉やらピラミッドやらその他使い道の見当もつかない小物が色々と置かれているカラーボックスに、真っ黒いテーブルクロスをかけた丸テーブル。髑髏マーク、目玉の図柄、どこの国のものかもわからない変な文字に模様といった落書きが壁に塗りたくられており、床にはでかでかとカラフルな魔法陣が描かれている。
見るからに胡散臭い雰囲気の、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中にいたのは三人。
メガネをかけたおとなしそうな女の子がアヤの目の前で尻餅をついている。
派手な目鼻立ちをしたもう一人は奥で棒立ちになっている。
その前に、制服を脱ぎ捨てブラジャーとパンティだけになっている子がいた。
着替えている途中にしては様子が変だ。
侵入者のアヤを目を丸くして見つめ、はっとして叫んだ。
「あっ……あれ、ここ、お風呂じゃ……きゃあ、あたし、どうして、こんな、ハダカに……!」
自分の下着姿に気がつき、机の上に脱ぎ捨ててある制服を急いで身につける。
「せんぱい、何ですか、これ! ひどい!」
「待って、お、落ち着いて、これは実験よ、そう、実験。思い出して、ねえ、ほら、深呼吸して、ね」
棒立ちの女子が言うが、早口で言うので相手には何の効き目もない。アヤを前にして本人が相手以上に動転してしまっている。
「か、帰ります! 失礼します!」
「待ちな」
アヤはその女の子の襟元をつかみ吊し上げた。一年生だ。
「ひ……」
「おめー、クラスと名前は」
「い、一年二組、金原エミ……です……!」
「万里江のクラスか。まーいい。何もしねーよ」
アヤは手を放し、頭をなでてやった。エミはすくんでしまって動けない。
「ところで、今おめー、何されてたんだ?」
「さ、催眠術、です……」
「へえ」
アヤはにやりと笑う。エミが恐怖のあまり失神しそうになる。
「行っていいぞ。おめーには用はねえ。外の連中に、何も心配するこたあねえって言っといてくれ。オレは今日はちょっと相談事があって来たんだ。喧嘩しに来たわけじゃねえ」
「は、はい……」
「ただし、余計なことは言うな。わかってるよな?」
エミが飛び出してゆくと、アヤはドアの鍵をかけ直した。
「さて、先輩。念のため確かめさせてもらうけど、あんたら北沢と和田だよな?」
「そ、そうよ」
奥にいた和田恵理香が言った。気が強そうだがさすがに嵐のようなアヤの襲来に度肝を抜かれている。線の細い北沢京子の方はまだ尻餅をついて起きあがれない。
「おめーら、催眠術ってのができるんだな。そんならちょっと聞きてーんだが、記憶喪失のやつの記憶を、催眠術で思い出させることってできるか?」
単刀直入に訊いた。
恵理香と京子は顔を見合わせた。
「…………話を聞かせてくれる?」
※
アヤは万里江の名は出さずに友達の話ということで事情を説明した。
最初恵理香も京子もぽかんとしていた。しかしアヤの言葉を疑う様子はなかった。アヤがためらいながら口にした宇宙人という言葉にも、笑いのかけらも浮かべなかった。どんどんその表情が真剣になっていく。
「宇宙人というのはともかく、本当だとしたら、面白い話ね……」
「本当なんだ!」
「あんたが嘘ついてるなんて思ってないわよ。でも、そんなこと、あたしたち以外には誰も信じないでしょうね」
「信じてくれるのかい」
「あったりまえでしょ!」
恵理香は拳を握ってガッツポーズを作った。
「記憶操作! 失われた記憶の空白にひそむ真実の姿はいかに! これよ、これなのよ、こういう事件を待っていたのよ! オカルト研の血が騒ぐわ!」
ひとり盛り上がる恵理香をよそに、メガネの京子がアヤにルーズリーフを差し出した。
「本当は回りの人たちの証言とかも欲しいところだけど、今はまず、あなたのおぼえていることを、その、最初のところ、先々週の土曜日から、一日ずつ順番に書いていってくれますか? とりあえず状況を整理しなくてはいけませんから」
京子はおとなしいが話し方はしっかりしていて、直情径行タイプの恵理香よりよほど信頼できそうだとアヤは思った。
黒板に京子は縦線を引き、アヤのメモを元に、左側にアヤの見聞きしたこと、右側に万里江の言ったことを日付順に対応させて書いていった。
「これで間違いありませんね?」
「あ、ああ……」
「……こうして見てみますと、やっぱりこの最初の土曜日が問題ですね。ここが発端です。ここでその友達さんに何かが起こって、それから後はずっと記憶をいじられています」
「催眠術をかけられたっぽいね」恵理香が言った。
「何?」
「ここで誰かに催眠術をかけられて、記憶を消されて、それからさきずうっとかけられたまんまなんじゃないかな。それなら毎日の変な様子も全部説明つくもん。ほら、ここ、最初は不倫してるって言ってたんでしょ。きっとこのときはそう信じこまされてたんだよ。でも、土曜日に大学生の彼氏とエッチした。そしたら、それまでの記憶は全部その彼氏とのことに書き換えられた」
どうして即座にそんなことまでわかるのか。不思議に感じるよりも、アヤは初めて示された解釈にただ衝撃を受けていた。
「何だと。じゃあ、氷上のやつが……!」
「氷上って、まさか、あの“吸血鬼”?」
アヤは口をふさいだがもう遅い。京子も恵理香も目を輝かせる。
「なるほど…………じゃあ、その友達ってのは、ブラスバンドの誰かなんだね。で、あの先生に何かされてるらしい、と。すごい、それならぴったりだ」
「催眠術は吸血鬼の十八番ですものね。だとすると、こっちはヘルシング一行ということになるのかしら」
「その子がミナで、アヤがジョナサン、京子がキンシーで、あたしがヘルシング教授」
「恵理香がヘルシングなの? どうしてわたしがカウボーイなのよ。せめてセワードにしてよ」
二人が話しているのはブラム・ストーカーの有名な小説『吸血鬼ドラキュラ』の登場人物のことだが、無論アヤにはちんぷんかんぷんだ。ちなみにミナというのはドラキュラに狙われる女性、ジョナサンはその婚約者、ヘルシング教授がバンパイアハンターで、その手伝いをするアメリカ人がキンシー、同じく手伝うイギリス人の富豪がセワードである。
「うーっ、燃える!」
「ちょっとどきどきするわね」
「……で、どうなんだ。記憶は戻るのか、戻らないのか」
「そんなはっきりしたことは言えないよ。でも、確かに催眠術なら何とかなりそう。やってみる価値はあるんじゃないかな」
「よし、じゃあすぐにマリエを……」
アヤはせっかちに部屋を飛び出そうとした。万里江の名を口走ったことに気がついてもいない。
「待って!」
「何だよ!」
「慌てないでください。その万里江さんというひとは、記憶がなくなっていておかしいなと思っているわけじゃないんでしょう? ちゃんと自分の記憶があるのに、それはおかしいから正しい記憶を思い出せなんて言っても、絶対言うことは聞いてくれないと思うんですけど……」
「………………」
「もしあなたが、あなたの記憶は間違っていますなんて言われたら、へえそうかなんて思います?」
「そりゃあ……思わねえな」
「ましてそれで催眠術にかかってみてなんて、受け入れてもらえないと思います。嫌がる人間にはうまくはかけられません。自分から進んで催眠術にかかりたいと思ってもらわなくっちゃ駄目なんです」
「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
「急がないで。まずあなたから、催眠術にかかってみませんか?」
「……え?」
アヤは京子をまじまじと見つめた。
「催眠術を魔法か何かと勘違いしてませんか。そういうのとは違うってことを、ちゃんと納得してほしいんです」
「そうそう、何事も体験してみるべきよ!」恵理香が勢いこんで迫る。
「催眠術がどういうものかも知らないで、友達に催眠にかかってみろなんて薦められますか? 新発売のこのジュースはおいしいから飲んでみてって、飲んだことのない人間に言われたって信用できないでしょう? 缶のデザインが可愛いからおいしそうなんて言われたって駄目ですよね。でも、飲んでみたらおいしかったって言われたら、それならわたしも飲んでみようかなって思いませんか?」
「……まあな」
「考えたんですけど、まずあなたが万里江さんを連れてきて、万里江さんの目の前で催眠術にかかってみるのがいいんじゃないでしょうか。そうして、面白いからやってみたらって薦めるんです。それならそんなに警戒されないと思うんですけど……」
「……まあ……それもそうだな……」
「あなたも、一度やってみてからの方が安心できると思います。どんな感じになるのか、一回つかんでおいた方がいいでしょう」
「何にも恐いことなんかないよ。すんごく気持ちいいんだから」
割りこんできた恵理香の表情と言葉にアヤは不良の自尊心をつつかれた。
「恐くなんかない」
「よかった。じゃあ、椅子に座って下さい。この椅子でもいいし、もっとゆったりできるデッキチェアも用意できますけど」
「……これでいい」
アヤはパイプ椅子にどかりと腰かけた。決心した風でいてその実目がきょろきょろ動き、落ち着かない内心をあらわにしてしまっている。
「京子、あたしは何すればいいかな」
恵理香が言った。最初はこの気の強い恵理香の方が優位にあるのかと思ったが、どうも京子の方が上らしい。京子はおとなしいながらもじわじわと押してくるタイプだ。線の細い雰囲気に油断して、一声怒鳴れば簡単に言いなりにさせられると安心しているうちに、気がつくといつのまにか主導権を握られている。こういうのはけっこう厄介だぞとアヤは心中につぶやく。どんな場でも相手を観察するのはアヤの習性だ。観察の結果が喧嘩で役に立つことが多いからである。
「はい」
京子がアヤの前に立ち、ドアの方を指さした。
あっちむいてホイの感覚で、アヤはついつられてそちらを見る。
「ドアの鍵、さっきあなたが自分でかけましたね」
「あ、ああ」
京子の指が目の前を横断して反対側を向く。アヤの視線がその指を追い、首が回転する。
「窓には鍵がかかって、あの通りカーテンがかかっています。外の景色が見えますか?」
「……いや」
「ここは二階ですから、外からも見られることはありません。邪魔は入らないということをまず納得してください。そういうことに気をわずらわせたらうまくいきませんから。心配なら自分で確かめてきてもいいですよ」
アヤはそうした。一度ドアを開け、廊下の様子をうかがいもした。誰もいない。さっきの騒ぎにもかかわらず、教師が駆けつけてきた気配もない。アヤは安心してドアの鍵を閉めた。
「ではまず、指をこんな風に組んでみてもらえますか」
京子は両手を組み合わせ、両方の人差し指を伸ばして立てた。
「指を離しておいて下さいね。そして、その間をじっと見つめてください。見ていると、指がだんだん近づいて、くっついてしまいます」
アヤは抵抗しようとしたが、指が震え、どうしてもじりじりと近づいていってしまう。
「深呼吸してみてください。息を吐くといっしょに、指がぴったりとくっついてしまいますよ」
その通りになった。
「あ……」
「ね、変な感じしますか?」
「いや、何ともねえ。へえ、おもしれえ」
この指立ては、人間の体の形状を利用した簡単なトリックで、どんな人間でも必ず指がくっついてしまう。催眠術でも何でもないのだが、そういうことに無知なアヤはすっかり感心してしまっていた。
「アヤさんはかかりやすいんですね」
「……そうなのか?」
「ええ」
京子はメガネの底で穏やかに笑いつつ断言した。先ほどの印象にもかかわらず、アヤの警戒心は薄れた。そんなものかとあっさり信じさせるものが京子の笑顔にはあった。こいつ、案外目が大きくて可愛いなとアヤは思った。
「もう少し試してみましょうか。すぐわかると思いますよ」
京子の背後で恵理香が何やら小道具の準備をしていた。ライターの音がして、香が焚かれた。いい匂いだった。やたらと古くさい置き時計のネジをまき直す。かち、かちという音が少し大きくなった。怪しげな雰囲気の室内にその音はよく似合っていた。
「なんか、緊張するな」
「いやだと思ったらいつでもやめていいですからね」
「へえ、そうなんだ。ワン、ツー、スリーで気を失ってばったり倒れちまうんだとばかり思ってた」
「そんなのは無理ですよ。何回も催眠に入って、慣れている相手でないと」
「なんか、あんた本物みてえだな」
「そうおっしゃってくれると嬉しいです。色々勉強しましたから」
京子は微笑み、そう言って本棚を示した。魔術だとか超科学だとか、図書室ではついぞお目にかかれそうもない本の一群の中に、催眠術に関する題名の背表紙が何冊も並んでいるのがアヤの目に入った。
「さっきのヤツみてーに、オレの服も脱がしちまうんじゃねーだろうな? あんたら怪しいって噂聞いたぜ。まさかオレを催眠術にかけておねーさまなんて呼ばせる気じゃねーよな?」
アヤは相好を崩して言った。気を許したがゆえの軽い冗談だったのだが、二人は驚いたような顔をして、にこりともしなかった。ジョークのわからんやつ、とアヤは少しこの二人への評価を下方修正した。やっぱり万里江はいい。こう言ったら、そーよおねーさまあとか何とか言ってのってくるだろう。打てば響くとはあのことだ。
そうだ、忘れてはいけない。これは万里江のためでもあるんだった。
「まーいいや、かけるんなら早くやってくれ」
「……じゃあ、まず目をつぶって……」
京子はアヤに深呼吸を繰り返させた。
深く息を吸ったことなどなかったアヤは、すぐにいつになくリラックスしてしまう。
目を開けるように言われたのでアヤは驚いた。このまま眠くなると言われるとばかり思っていたからだ。
「こんな風にしてみてください」
京子は箱を捧げ持っているかのように、二十センチくらいの感覚をあけて両の手の平を向かい合わせた。
「そうしたら、その間をじっと見つめてください。さっきみたいに、今度はその手の平が、だんだん近づいていきますよ。磁石に変わったみたいに、手と手が引っ張り合って、近づいていきます」
京子の声は相変わらず細いが、そうなることを確信している口調だった。かといって反発を呼ぶほど強くはない。
アヤは自分の手が言われた通りに接近してゆくのを信じられない思いで見た。
「もうすぐ完全にくっついてしまいます。ほら、くっついた。しっかりとくっついてしまいます。どんどん力が入って、手と手が接着剤でくっつけられたみたいに、がっしりくっつきました。その手はもう離れません。試しに引っ張ってみます」
京子は強めにアヤの肘を引いた。合掌したアヤの手は離れず、上体が傾いて倒れそうになった。
「うわっ!」
「ね、離れないでしょう」
「ほんとだ……」
「じゃあ、今度はその手が離れるようにします。手を見ていてください。今から三つ数えて、その手に息を吹きかけると、手の力が抜けて、離れます。ひとつ、ふたつ、みっつ」
京子が口をすぼめる。手に風を感じた途端にアヤの手はぱっと開いた。それまで何とか離そうと力を入れていたので、反動で両腕が大きく開く。
すかさず京子が言う。
「その腕が、重くなります。腕の力が抜けて、重くなってしまいます。持ち上げていられません。だらりと下にぶら下がります」
アヤの腕が体の両脇に垂れ下がった。
「もうその腕は自分では動かせません。はい、足も同じように重くなってきます。足が重くなって、力が入らなくなります」
投げ出すようにしていたアヤの脚も、言われるままに脱力した。
なんかまずいぞと思った瞬間、アヤの目を明るい光が埋めた。
京子がライトを手に持ち、上からアヤの額を照らしたのだ。
否応なくアヤの視線は光に引き寄せられる。
「この光をじっと見てください。じっと見ていると、だんだん瞼が重くなってきます。もう体中の力が抜けています。力を入れようとすればするほど逆に力が抜けてしまいます。瞼も一緒に、だんだんと重くなってきます」
アヤの持ち前の反抗心が抵抗した。しかし言われた通り体に力は入らない。目だけは閉じるまいとする。上目遣いに光を見つめさせられて目が疲労し、涙がにじみ、自然とまばたきが増える。それを指摘される。
「ほら、まばたきが増えてきました。もう目を閉じてしまいたい。瞼がすごく重たくなります。目を閉じるとすごく楽になります。瞼はどんなにしても閉じてきてしまいます。もうすぐその目は閉じてしまいます。いい気持ちです」
京子の声はまるでそれが世界の真実の法則であるかのように、逆らいがたい重みをもってアヤの中に響いた。アヤの目は半眼になった。ああ、駄目だ、本当に閉じちまう……まあいいかとアヤは思った。何がなんでも閉じるまいとまで突っ張ることはない。試しじゃないか。途端に心の中に京子の言葉がするりと入りこみ、アヤの目は固く閉じてしまった。いい気持ちだった。
「首の力が抜けます。頭が重くなって、首が前に傾いてきます」
言われるままにアヤの首は垂れた。
「では、風船を思い浮かべてください。とても大きな風船です。あなたの好きな色です。どんな色の風船ですか?」
「……黄色……」
アヤは抑揚のない声でぼそりと言った。
「ふわふわ浮かぶ黄色い大きな風船の糸が、あなたの目の前にぶら下がっています。その糸を手でつかんでみましょう。両手で、しっかりと握ってみましょう」
アヤの手が持ち上がり、体の前で握られた。
「しっかりつかみましたね。その黄色い風船が、空へ浮かんでいきます。あなたの手も、黄色い風船に引っ張られて、どんどん上にあがっていきます。手が引っ張られます。風船はどんどん空へ向かってあがっていきます。きれいな空です。あなたの体もふわりと軽くなって、黄色い風船と一緒に、きれいな空の上へふわふわと浮かんでいきます」
アヤは万歳をするように両腕を上げた。顔もそれに合わせて持ち上がり、のけぞるようになる。
「はい、あなたはふわふわときれいなお空に浮かびました。体中が軽くなって、とてもいい気分です。静かに風船から手を離してみましょう」
アヤの腕が落ちる。
「手を離しても体は空に浮かんだままです。あなたはきれいなお空の中に、ふわふわと浮かんでいます。とてもいい気持ちですね。ここでは、あなたがこれまで気にしていた悩みも、緊張も、プレッシャーも、何一つ感じないでいいんです。ふわふわと浮かんでいる間に、わずらわしいことは全部どうでもよくなってきます。
しばらくそのままお空の散歩を楽しんでいてください。わたしの声だけはどこか遠いところから響いてくるみたいに気持ちよく聞こえます。それ以外は何の音も聞こえません。風のささやきだけです。そよ風の音を聞き、雲を眺めながら、きれいなお空でゆったりとくつろいでいてください」
アヤは全身をゆらゆらさせながら、安らいだ表情になった。それを確認し、京子は静かにアヤから離れた。
「思ってたよりあっさりかかったね。不良少女はかかりやすいって引田天功が言ってたそうだけど、本当だね」
すっかり催眠に入ってしまったアヤを見て、恵理香が小声で言った。人が変わったようににやにやしている。
「で、どうする、これから。あたしとしては、先輩への口のききかたってやつを教えこんでやりたいんだけど」
「ちょっと待ってよ」
「どうしてさ。まさか、あんな馬鹿ばなし本気にしてるの? せっかくのチャンスじゃない、楽しもうよ。最初はすんごく憎たらしかったけどさ、よく見りゃ超きれいな子じゃん」
ひそひそと言いつつ恵理香がアヤを見る目は先ほどとはうって変わっていやらしく、間違いない情欲の色があらわれていた。
アヤのジョークは当を得ていたのである。
京子と恵理香、この二人には同性愛志向があった。
先ほど逃げていった一年生は、催眠術の実験と称して二人の性愛玩具にされかけていたのだった。
催眠術を使って、おもちゃにした相手の記憶を消すこともしょっちゅうやっている。だからアヤの話を聞いてすぐにああいう解釈をひねりだせたのだ。
京子も、仮面を外したように表情を変えてアヤを見直した。素顔は恵理香以上に好色そうな顔つきだった。
いつも人を威圧するために険しい顔をしていたアヤだが、緊張がすっかり解けて心の中で空中浮遊を楽しんでいる今、元々の整った顔立ちを危険な二人の前に無防備にさらしてしまっている。
脚はすらりと長く、キックで男の大腿骨をもへし折るというパワーが秘められているとはとても思えない優美さがある。
ゆったりと上下している胸は恐らく二人の手には収まりきらないほどの豊かさがあるだろう。
この美貌とプロポーションに男の面接官が魅了されて入学を許可したのだという噂である。確かに、こうしてみると野性美に満ちたすばらしい美少女だ。その噂も納得できる。
このアヤを自分の思うがままに操るところを想像するだけで興奮した。嗜虐心があおられる。
誘惑に負けそうになった京子は必死に首を振ってこらえた。
「駄目よ。惜しいけど、駄目。まだ初めてだし、そんなにこっちに気を許しているはずないんだから、今日のところは何もしないの。もっと慣れてきてからよ」
「でも、もったいないよ。割と簡単にかかったし、キーワード埋めてさ、忘れさせちゃえばいいじゃない?」
「記憶を消すのはいいけど、どこまで消すの? ここに来たときから全部? 普通の生徒と違うのよ。思い出す、いえ、ちょっとでもおかしいなと思われてしまったら、わたしたち、キーワードを言う前に殺されるわよ」
「………………」
恵理香は瞬時に青ざめた。
「そこまで完璧に記憶を消してしまえる自信があるならやって。わたしは駄目、今はまだそんなの恐くてできない」
「………………」
「その、氷上先生の件をはっきりさせておかないと、この子は心を開いてくれないわ。まずそっちが先よ」
「でも、あれ、本当かな? 信じられないけどな」
「どうだっていいじゃない」
京子にしてもアヤの危惧を真に受けていたわけではなかった。アヤに催眠術をかけるために、表向き信じるふりをしてみせただけなのである。
「どんな形であっても、まずそれを片づけて、わたしたちを信頼させるの。そうすれば簡単よ」
「わかったわよ。まかせるわ」
「うまくいったら……ふふ、楽しみ」
京子は恵理香を抱き寄せて軽くキスをした。
※
「はい、では頭の中に時計を思い浮かべてください。大きな時計です。その針が、ゆっくり逆に回っていきます。じっと見ていてください。針が回ると、時間も一緒に戻っていきます。針がぐるぐる回っていきます。あなたの時間もどんどん過去に戻ってゆきます。あなたはどんどん昔に戻ってゆきます。
……今は四月です。あなたは高陵学園に入学したばかりです。あなたは自分のクラスを知りました。忘れないように、名前とクラスを紙にメモしておきましょう」
京子が紙とシャープペンシルを渡すと、アヤはぼんやりとした目を開け、机に向かって丁寧な字で『一年三組 水南倉綾乃』と書いた。
「……なんか、いかにもお嬢様って名前だね。意外」恵理香がつぶやいた。
時間は一気に戻された。
「あなたは小学三年生です」
『三年一組 水南倉あやの』と書いた。
「あなたは小学校に入学したばかりです。平仮名は書けますか? 書けるなら、自分のおなまえを書いてみましょう」
『いちねんにくみ みなくらあやの』
シャーペンを拳で握り、腕をぐりぐりと動かして斜めにひん曲がった文字を書く。
退行はそこまでで止められ、時間が進んだ。
「はい、あと一週間で元の時間に戻ります。今は先週の月曜日です。月曜日、起きたばかりです。その日の最初のごはんが目の前にあります。何があるのか、教えてください」
それから今日まで、一週間分の食事をすべてアヤは回想させられた。恵理香がそれをメモしてゆく。
京子はゆっくり数をかぞえてアヤを覚醒させた。
「………………」
「気分はどうです?」
寝ぼけたようにぼうっとしていたアヤは、まばたきを二、三回した。それから細長い眉がきりっと角度をつけて持ち上がり、弛緩していた顔に危険なものが流れこみ、たちまち眠れる美少女から凶悪無比な不良少女へと復帰する。京子も恵理香もたじろぐほどの、それはものすごい変化だった。
立ち上がり、腰や腕を回す。
「悪くない。……うん、いい気分だ」
「催眠術にかかっていた間のこと、おぼえてますか?」
「ん……オレ、ほんとにかかってたのか? 何言われたかとか、全部おぼえてるぞ」
「はい、ちゃんとかかってましたよ。ほら、昔に戻るって言ったら、この通り」
自分の幼い字を見せられてアヤは驚いた。
「はあ…………そーいや、小学一年生って言われて、一年生んときはこんな風に書いてたなあって思いだしてたけど…………これ、ほんとにオレが書いたんだよな? おめーらが書いたんじゃなく?」
「ええ、アヤさんが自分で。それにアヤさん、昨日の夜ごはんがなんだったかおぼえてます?」
「んと……確か――」
「じゃあ、その前の日、土曜日の夜ごはんは?」
「ちょっと待ってくれよ。ええと…………あの日は、街で飲んで……」
「金曜日のお昼ごはんはわかります?」
「そんなの知るかよ! 三日前の昼飯なんか一々おぼえてるやつがいるか!」
「でも、あなたはちゃんとおぼえていたんですよ。ほら」
一週間の食事が逐一記されたメモを見せられて、アヤは興奮した。
「すげえ! これならマリエも思い出すぞ!」
「催眠術って全然危なくないの、わかっていただけました?」
「ああ、面白かったぜ。じゃ、明日にでもマリを連れてくるから、そんときゃ頼むぜ、センパイ!」
意気揚々とアヤが出ていった後、京子と恵理香はアヤの無邪気さをあざ笑い、乾杯するように手と手を打ち合わせた。
※
翌日の放課後、何も知らないアヤは宣言通り万里江を連れてきた。