蜘蛛のノクターン

第五章の二「闇の微笑」

作:おくとぱす さん

      (四)

 北沢京子の初体験は、体験とまでいかないうちに終わった。
 中学生の時である。
 相手も同じ中学生。
 セックスに関する興味は押さえがたいものを持っていても、それに知識とテクニックがまるきり伴っていない年頃であった。
 互いの服を脱がせあうところまでは爆発的な興奮にとらわれて無我夢中だったものの、いざ体を重ねる段になって、停滞した。
 相手の少年が、どこに入れたらいいのかわからなくてまごついた。京子はこれから処女を失うのだという期待と緊張と戦慄その他自分の想念で頭がいっぱいで、相手のことを考える余裕もなければ導いてやる度胸もなかった。ただ身を固くしてベッドに寝そべりながら、話に聞く破瓜の痛みが襲ってくるのを待ち受けるだけだった。
 やがて、悪戦苦闘の末、むくわれず相手は京子の腹の上にうめき声と共に放出してしまう。
 そこまでなら童貞処女同士ということで、経験を積めば笑い話ですむことだっただろう。
 相手は勉強も運動も何でもできないことのない、もちろん顔もいい、学校中の人気者だった。その心を射止めたことで有頂天になっていた京子は、相手のプライドがその失敗でいたく傷ついたことに気がつかなかった。
 罵られた。ひっぱたかれ、殴られた。
 濡れもしない不感症、このマグロ、お前みたいなブス相手じゃできねえよ、と言われた。
 なまじそれまでの高ぶりが激しかっただけに、京子が転げ落ちた天国から地獄への落差はすさまじいものがあった。
 それから男性が恐くなった。
 男の子を見て格好いいなとは思う。
 けれども、筋肉が駄目だった。じかに触れ、肌を重ねて感心した、スポーツで鍛えた男の体の固い感触。その記憶が反転して恐怖のみなもととなった。
 電車の中で男の腕に触れるだけでも鳥肌が立った。
 女子同士、じゃれついて抱き合ったりする。
 その時だけ安らぎをおぼえた。
 柔らかい肌は気持ちいい。
 鍛えていても、女の子の筋肉は男のそれとは違う。
 剣道部の、ボーイッシュな女子の先輩に京子は憧れていた。
 なんやかんやと近づきになっているうちに、試合を終えたあとの防具を手渡される機会があった。
 中にこもっていた甘酸っぱいような汗のにおいに、京子は秘部が濡れるのを感じた。
 家に帰って、先輩の顔を思い浮かべながらオナニーした。
 燃えた。
 枕を噛んで声を必死にこらえ、快感の洪水に溺れたあとで、京子は自分が女性とセックスしたがっているということに気がついた。
 自分が女性愛に目覚めたことを知った。これはまともではないのだと京子を取り巻く世界は言っていた。だが、どうしても男とつき合う気にはなれなかった。
 アメリカでは同性愛者が自由にやっていると聞いてうらやましく思い、中学生なりに考えて、いつか留学してやろうと決意した。
 そのための勉強が役に立ち、名門校として名高い高陵学園女子高等部の入学試験を突破することができた。

 卒業式の後の春休み、京子は友達の家に遊びに行っていた。
 相手の家族は留守で、二人きりとなった。
 他愛ないおしゃべりの中で、ふと催眠術という言葉が出た。
 京子は小学生の頃から読書量が多く、催眠術に関する知識もかなり持っていた。
 遊びで相手にかけてみた。
 京子に才能があったのか、相手の催眠感受性が高かったのか、糸に吊され回転し、黄金色の光をきらきらさせる五円玉が目の前を往復するのを見ているうちに、相手の瞼が閉じ、深い催眠状態に入ってしまった。
 かけるのが初めてだった京子は慌てた。
 急いで覚醒させようとする。
 そのとき、
「ねえ、聞こえる? 今から数を十数えるから……」
 ふと、前屈みに脱力している相手の胸元に、ブラに包まれたやわらかそうなふくらみが見えた。
「ゆっくりわたしが十数えたら……」
 気持ちよさそうに目を閉じている相手の唇が、誘うように半開きになり、動いた。
 京子の心臓がどどどと音を立てて鳴った。
 目が覚めます、という言葉は喉で止まり、飲みこまれた。
 生唾を飲み、震える手を握りしめ、開いた。
 もう震えは止まっていた。
 京子はメガネを外し、新しい道へ足を踏み出した。
「あなたは、もっと深いところへ入っていきます……」
 その夜京子は、服を脱がせた相手の体をいじってあえぎ声をあげさせた記憶を幾度となく反芻し、失神寸前にまで指を使った。

 女子校は京子にとってこの世の楽園のように思われた。
 教師はともかく、教室に男がいない。
 それだけでも喜ばしいのに、この学校の生徒には魅力的な子が多く、教師にも、信じられないくらいに綺麗な女性がいた。
 京子はよこしまな野望をひとまず胸に秘め、まず催眠術のスキルアップをはかるべく、催眠を研究対象にしているただ一つのクラブ、オカルト研究会に入った。
 催眠術に詳しい先輩たちから、真綿が水を吸うように京子は技術を吸収していった。

 夏休みも終わって、秋が近づいてきた頃である。
 同じ一年生の和田恵理香と京子は部室で二人きりになっていた。
 いつものように、催眠術の練習をした。
 京子がかけられる番だ。
 恵理香の誘導は本人の性格通りはきはきして元気がいい。そのせいで成功率は半分ぐらいだった。のりのいい相手にはいい効果があるのだが、そりが合わないとなると全然かからない。途中で笑い出されてしまうこともあった。恵理香は誰でもさっと催眠に入れてしまう京子をいつもうらやましがっていたが、静かに誘導していく京子の真似をするとかえってぎこちなくなってしまい、スタイルを変えるべきかそれともこのまま己の道を突き進むべきか、悩んでいる最中だった。
「はあい、じゃあ目を閉じてえ、体の力を抜いてえ……」
 今日はいつものやりかたでやってみるつもりらしい。語尾を上げ、リズミカルに言葉をつなぎ、暗示を重ねていく。京子の誘導はさざ波に揺れる水面からだんだんと水底へ引きこんでいくような感じだが、こちらは豪快に波の上を疾走するウォーターバイクだ。波頭から勢いよく飛び出し、また次の波で飛び出す。そのジャンプのタイミングにこちらが乗ることができれば、大波を利用して空へ舞い上がるように一気に意識を飛ばすことができる。
 その日は珍しく恵理香の暗示が強い効き目をあらわした。
「体が揺れるよ、揺れるよ、右に揺れるよ、右に揺れる、右にぐぐっと傾いて、今度は左に戻っていくよ、左にどんどん傾くよ、左に体が引っ張られるよ、左に体が傾いて、ほらまた右へ戻っていくよ、右へ揺れるよ、右へ体が引っ張られるよ、体が揺れるよ、体が揺れるよ、右に左にふらふら動くよ、体の力がだらんと抜けて、右に左に大きく揺れる。揺れるととってもいい気持ち。……」
 京子の体が大きく動き出した。
 前後に揺れるよう誘導するのはそれほど難しくない。背筋を伸ばして座らせるだけで自然と腹筋が疲れて人の体は前屈みになろうとする。それに合わせて暗示を与えれば、前に倒れようとする人体と背筋を伸ばそうとする意志とがシーソーのように体を前後に揺らしはじめる。
 だが横揺れは自然には起こらない。そのときはたらくのは暗示の力だけだ。
 京子は横揺れまでは記憶していた。あ、揺れてる揺れてると思った。音楽に合わせて身を揺するのが快感であるように、体が勝手に揺れるのは気持ちいい。いつも通り気を楽にして、心地よく揺れに身をまかせた。
 体が円を描いて回り始めると暗示を与えられ、自分の体がその通りに動き始めたのを自覚したところで、京子の意識はいつになく深いところに沈んでいった。
 気がつくと外は暗くなっていた。
「どうだった?」
 恵理香が屈託なく見つめてくる。この子、きれいといつも思っていた。今日はなんだかいつもよりさらにきれいに見える。
「うん……なんか、深くかかっちゃったみたい……」
 かけられていた間の記憶が飛んでいた。かかりが深かった場合、忘却暗示抜きでもそうなることがある。
 京子はどういうわけか思い出そうという気にならなかった。恵理香に聞くべきなのに、恵理香の顔を見た途端にその気が失せた。どうでもいいことに思えた。
 帰りの電車の中で、下着が濡れているのに気がついた。
 下校するときにはこうではなかった。じわじわとしみてきたのだ。
 どうしてだか体がうずいている。疲労感があるが妙に気持ちいい。まるでオナニーしたあとの余韻のようだ。
(まさか!)
 他の生徒なら自分を恥ずかしく思うだけで終わっていただろう。
 しかし京子にはぴんときた。
 何くわぬ顔で次の日学校へ行き、今度は恵理香に催眠をかけた。
 恵理香はおとなしい京子に油断しきってすぐに催眠状態へ誘導される。
「……はい、あなたはきれいなお空にふわふわと浮かんでいます……」
 恵理香を深い催眠に入れると、京子はあれ以来はじめてのみだらな暗示を与えた。
「あなたは自分のベッドで、オナニーをしています……」
 いつも恵理香は反応がいい。すぐに手がスカートの中でうごめきはじめる。
「今までで一番興奮したときのことを思いだしています……これまでで一番エッチな気持ちになったときのことを思いだしています……その様子がビデオに映るようにはっきりと見えてきます……何が見えていますか?」
「あ……は……き、京子……」
「……京子が、何をしていますか?」
「あ、あたしの、おまXこ、なめてる、あは、ああ、あたしの催眠術にかかって、子猫になって、あたしのおまXこ、ぺろぺろと、なめてる、なめてるの!」
「………………」
 京子はすぐ恵理香を催眠から覚ました。
「あ……」
 告白してしまったことを理解した恵理香から血の気が失せる。
 そのおびえた様を見た京子は、濡れた。
 うつむいて震える恵理香の肩に手を置き、びくっとして上げたその唇を奪う。
「恵理香……なんだ、言ってくれればよかったのに……」
 こうして二人は同志となった。
 春が来て、進級した時にはすでにオカルト研の全員が彼女たちの手中に落ちていた。
 何喰わぬ顔で新入生を勧誘し、一人、また一人と催眠の魔の手に落としてゆく。
 自分の技術に自信を持ち、今や京子の夢は大きくふくらんでいた。
 オカルト研の外には、落としてやりたい相手が沢山いる。
 だんだんとペットを増やしていって、いずれハーレムをつくる。そこには運動部の凛々しい先輩がいる。堅物で知られる生徒会の美人会長も。和服が似合いそうな同じクラスのあのお嬢様も、それから先生も。特にあのものすごい美形の先生。いつの日か、必ず、落としてみせる。
 そして今、京子の獲物リストの中にアヤの名前が加えられた。
 アヤを自分たちのものにすることで、京子の学園生活はさらに楽しいものになるだろう。

     ※

 そんな身の危険が迫っているなどとは思いもせず、アヤはオカルト研の部室を去ったあと、万里江との関係修復に全力をつくした。
 夜に電話した。元々根に持つ方ではない万里江はすぐいつものように上機嫌になった。
 話すのは万里江ばかりだった。つきあいはじめた隣の家の大学生の話を延々とした。普段のアヤなら三分と我慢していられなかっただろうが、事情が事情なのでじっと黙って聞いていた。
 聞けば聞くほど怒りがつのってきた。万里江はそこらへんの軽薄な連中と変わらなくなってしまっている。
 万里江をこんな風に変えてしまったのはあの氷上教師だ。
 許さねえ。
 はっきりそう決意すると、万里江の浮かれたおしゃべりにも平気で耳を傾けられるようになった。
 これは喧嘩だ。万里江をめぐる、自分と氷上との。
 喧嘩に勝つためになら、どんなことだって我慢できる。
『ね、アヤもさあ、折角いい素材持ってんだから、彼氏の一人や二人ぐらいつくりなよ。ほんと、もったいないっていつも思ってたんだから』
「ああ、そういうのも楽しいかもな」
 アヤは優しく言った。
 菩薩のような表情の下で、アヤの全身は戦闘モードに移行していた。体の隅々にまでエネルギーが満ちあふれ、じっとしているのが辛い。細胞一個一個が戦いを待ちわびて活性化している。
 万里江、必ず元に戻してやる。
 今に見てろ、“吸血鬼”。
 てめえの好きにはさせねえからな。

     (五)

 翌日の放課後、アヤは万里江をオカルト研の部室に連れてきた。
「ここお?」
 悪名高いオカルト研の看板を見て、万里江は怪訝な顔をする。アヤは、すんげえ面白え連中と知り合いになったと言って万里江の好奇心を煽ったのだ。
「ま、とにかく入ってみろよ」
 中には京子と恵理香がすでに待っている。
 まずここが関門だった。万里江は人間を第一印象で判断するタイプだ。ここで悪い印象を与えてしまったらもうこの先の見込みはない。
 幸い、万里江は京子と恵理香を気に入ったようだった。アヤにとってはガラクタとしか思えない室内の妙ちきりんな品々が面白いらしい。意外な趣味というやつだ。
「催眠術う?」
 話を聞かされた万里江は露骨にいやそうな顔をした。
「ま、そう変な顔するなって。ひょんなことで知り合って色々教えてもらったんだけどな、これがまた楽しーんだ」
 アヤは陽気な笑顔でしゃべった。万里江を信頼させるための演技ではあるが、言っていることに嘘はない。
「ブラスの方もあるだろうし、いやなら別に無理にたあ言わねえけど、オレはかけてもらうから、そこで見ててくれるか?」
「うん……」
「じゃ、センパイ、頼むぜ」
 アヤはさっさと椅子に腰かけ、足を投げ出して目を閉じた。
 京子がその前に立つ。
「……なんか、信じらんないなあ。アヤが、あなたはアイドル歌手ですなんて言われたら、スマイル全開で踊り出すわけ?」
「そーゆーの見てみたいなら、やってもらってもいいぞ」
 昨日と同じように京子は静かにアヤをリラックスさせ、風船の暗示を与えた。アヤの腕が上がってゆく。
「へえ…………」
 万里江が本気で感心した声を出した。
 京子はアヤがかかったふりをしているのではないかと心配した。催眠術にかかるまいと抵抗されてはかかりにくいのはもちろんだが、逆に何としてもかかってやると気合いをいれられてもかかりにくくなってしまうものだ。しかしアヤのまぶたはぴくぴくしていた。どうやら本当に催眠状態に入っているようだ。
「あなたは鳥になりました。鳥になって、大空に自由にはばたいて下さい。あなたには翼があります。はばたけば、どこでもあなたの好きなところへ飛んでゆくことができます……」
 すると、力無く垂れ下がっていたアヤの腕が、広がって上下に動き始めた。
 見つめる三人の目の前で、猛禽類のはばたきさながらに力強く腕が揺れる。
「アヤ…………ほんとに、かかっちゃってるの?」
「もう何も見えないくらい高いところまで来ました。もうはばたく必要はありません。何も見えない真っ青な空の中に、あなたは何もかも忘れて浮かんでいます……」
 アヤの腕が止まり、中空を漂った。無重力状態に浮かんでいるかのようだ。
 ゆったりとくつろいだアヤは、至福の表情を浮かべていた。
「アヤのこんな顔、はじめて見た……」
 万里江は驚いて口にし、それからぽつりとつぶやいた。
「…………やっぱりアヤって…………きれいだよね……」
 見とれていた京子と恵理香はそろってうなずいた。万里江に目を丸くされ、慌てて殊更に真面目な顔をつくった。
 それから少しして、アヤの催眠は解かれた。

「……ああ、気持ちよかった」
「どんな感じなの?」
「すっげえいい気分。なんか、もうちょっとあのままでいたかったな」
 アヤは笑顔で言った。そこに嘘はかけらもない。アヤ自身、こんなに爽快感を味わったのは久々だった。
「な、面白えだろ。マリもちょっと試してみねーか? いい気分になれるぞ」
「うーん……」
 万里江の顔つきには好奇心を刺激された様子がうかがえ、アヤは押せば落ちるとふんだ。
「な、じゃあ、やってみろよ。センパイ、頼む」
「じゃあこっちに座ってください」
 京子が折り畳み式のデッキチェアを広げていた。
 万里江はアヤに押されるままにそこに身を横たえる。京子がその脇に椅子を置いて自分も腰かける。
 アヤは離れたところの椅子に座り、いかにもこの状況を楽しんでいるかのようににこにこしていたが、その実これからが本当の勝負と気を引き締めて手に汗を握っていた。恵理香が横からなめ回すような視線を向けてきているのにも気づかない。

「まずゆっくりと深呼吸して、体の力を抜いてください。力が抜けて、ぼんやりした気分になったら、天井のあれを見てください」
 首をのけぞらせた万里江と一緒にアヤも天井を見上げた。蛍光灯は消されている。それまで気づかなかったが、白いビニールテープが十文字に貼られている。
「あの十字の交点を見つめてください。あそこを見つめながら、ゆっくりと体の力を抜いていきます。まず腕の力を抜きましょう。腕の力が抜けて、だらんとなってきます。……」
 言われた途端にアヤの体から力が抜けた。
「ちょっと」
 それに気づいた恵理香がアヤをつっついてわれに返らせる。
「気をつけて。あなたは京子の声を聞いていると催眠に入ってしまうんだから」
 恵理香はそうささやいた。
 後でアヤを落とすための布石だ。
 今は万里江の記憶を探るのが優先するからアヤを起こした。これが終わればアヤを自分たちのものにする。あらかじめこう暗示を与えておけば、アヤは簡単に京子によって催眠状態に落とされる。
 一方で、京子の声がわずかな驚きを語尾に示して途切れた。
 はじめて一分もしないうちに、万里江がもうトランス状態に入ったのである。
 京子は暗示を変更した。
「目を閉じてください。目を閉じたら、体の力を抜いて、ゆっくりと、自分が水に浮かんでいるところを思い描いてください。とても透明で綺麗な水面です。あなたはゆっくり沈んでゆきます。魚になったように、水の中でも息はできます。静かに水の中に沈んでいって、だんだんと辺りが暗く、しんとなってきます。あなたは深いところに沈んでいきます……」
「驚いた」
 恵理香はアヤに耳打ちするように言った。
「すごい、早いよ」
「早いって何がだ」
 アヤも小声で訊ね返した。京子の暗示に反応してしまわないように自分なりに注意しているのか、拳を強弱をつけて握っている。
「あの子、すごい催眠にかかりやすいんだ」
「マリエが?」
「……じゃなきゃ、催眠に慣れてるかだね。催眠って、何度もかけられているとかかりやすくなるんだ。スポーツといっしょ、体が覚えこむんだよ」
「………………」
「こりゃ、氷上先生のこと、案外本当かもね」
 言われてアヤの眉は不機嫌につり上がった。

 京子はまず万里江の方の記憶を確認した。大学生の彼氏の名前、素性。つきあい始めた時期。
 万里江は先々週の土曜日と言った。アヤは違うだろと叫び出しそうになった。アヤが聞かされた、万里江が告白し相思相愛になり、いきなり体験し、一日中一緒にいたというのはこの間の土日にかけての話だったはずだ。一週間ずれている。
「では、これからあなたの心のアルバムをめくっていきましょう」
 京子はアヤの証言を記したメモを手に万里江の記憶を探った。
 つきあい始めたというその土曜日のことを思い出させる。
「あなたはアヤさんに電話をかけました。一緒に遊びにいけなくなったという電話です。そのことを思い出してください。あなたはどんな風に言いましたか? 全部はっきり思い出すことができます」
「……『ああ、アヤ? あたし。今、家。今日さあ、悪いんだけど行けなくなっちゃった。ごめん!』……そしたら、アヤが、何でだって聞いてきて……『ほんとにごめん! これから、前に言ってたカレにコクるんだ! 勝負のときなんだ! 今度埋め合わせするから、お願い、許して!』」
「違う!」アヤは思わず怒鳴った。「場所なんて言わなかったし、カレの話なんて一言も……!」
「やめて!」
 京子が慌ててさえぎる。
 万里江の体がぴくりとしたので急いで何も聞こえない、何も気にならないという暗示を与える。
「静かにして……ここで醒めちゃったらおしまいだよ……」
 恵理香がアヤを必死になだめた。
「おかしいのを確かめるためにこうしてるんだから、お願い、我慢してよ」
「………………」
 アヤは座り直して憤然と腕を組んだ。
「……電話を切った後、どうしましたか?」
「…………家の窓から外に出て、屋根づたいに隣の家に行って、おにいちゃんの部屋に入って…………」
 万里江らしい一直線の告白風景をアヤはこめかみに血管を浮き上がらせて聞いた。
「……それから家に帰って……すごくいい気持ちで……部屋の中でしばらく踊ってた…………」
 そう言う万里江の顔は恋愛が成就した幸せを追体験しているのか、にこやかに笑っている。
「幸せな気分で眠った、次の朝です。あなたは目が覚めました。その時のことを思い出してください。何か聞こえますか?」
「……携帯が……鳴ってる……」
「誰からの電話ですか?」
「アヤ……」
「どんな電話でしたか?」
「……アヤが、怒鳴ってる……あたしが昨日どこにいたかって……」
「何て答えましたか?」
 万里江はほぼ正確にアヤとの会話の内容を再現してみせた。
 メモを見た京子がうなずく。
「では、その次の日、月曜日です。学校に行ったあなたは、門のところにアヤさんがいるのに気がつきました。アヤさんがあなたをどこかへ引っ張っていきます。どこですか?」
「校舎の……裏…………家庭科室のところ、あそこの物置の陰……」
 万里江の声が緊迫した。客観的に思い出すばかりでなく、その時の感情もよみがえってきているのだ。
「アヤが……あたしの肩をつかんで……すごく痛い、痛いよ…………あたしのカレのことを聞いてきて…………そんなやつのためにオレとの約束を破ったのかって、すごい怒ってて……」
 アヤは立ち上がった。恵理香が顔色を変えるが、アヤは自分で自分の腕をがっしりつかんでそれ以上の行動に出るのをこらえた。

 それから京子はさらに万里江の一週間の行動を綿密に聞き出していった。
 聞いているうちにアヤはだんだん不安にとらわれてきた。アヤの記憶とはまるでかみあわないが、万里江の語ることは首尾一貫していた。大学生の彼氏以外の男の影はどこにもあらわれず、氷上教師の名も、部活の顧問として会う以外には出てこなかった。自分が間違っているのではないかと疑念がきざした。京子と恵理香も同じように感じはじめている気配があった。はっきり口に出しこそしないものの、時折アヤを見る目に、アヤの方こそ催眠で記憶をしっかり確かめるべきだと思っているらしい色がにじんでいた。
「土曜日になりました。……アヤさん、まだ続けます? この先は……」
 京子が訊ねる。このまま聞いていくと彼氏との初体験を万里江当人の口から聞かされることになる。
 アヤは敗北感に打ちひしがれつつ、やめてくれと言いかけた。
 その時、外から金管楽器の音が聞こえてきた。
 吹奏楽部員が練習を始めたのだ。
 アヤの脳裏にサングラスの美女の冷たい姿が浮かんだ。
 ここであきらめたら、万里江をあいつの手の中に戻すことになる!
「……続けてくれ」
 アヤは言うと、これからの精神的衝撃を覚悟して歯をくいしばった。

     ※

「おにいちゃんと一緒に、ビデオを見てる……アニメだよ…………あたしが見たいって言ったら、駄目だぞって言われたんだけど、どうしても見てみたい、見せろって、ごねて、それがエッチなやつなの知ってたんだけど、知らないふりして…………ほんとはさ、それをきっかけに誘惑してさ、エッチしちゃおうって思ってたんだ……」
 聞かずもがなのことを万里江は自分からしゃべり出した。つい先日のことなので暗示なしでも詳細に思い出せるうえに、とりたてて隠そうという意志もないらしい。アヤは耳をふさぎたくなった。
「……それで……」
 先をうながす京子の声は押さえきれない興奮でかすれていた。アヤの前でまずいのはわかっているが、万里江も文句なしの美少女だ。その万里江がこれからセックスの様子を語り出すと思えばどうしても体が熱くなってしまう。アヤをこの場で眠らせて、自分がその彼氏になりかわって万里江を愛撫しようか。そんな考えが一瞬頭をよぎる。
「ビデオをずっと見てたの……………………」
 万里江の声が途絶えた。
 様子が変わった。
 顔面が妙な痙攣をはじめ、突然呼吸困難に襲われたかのように、血の気がのぼって真っ赤になった。
 腕や脚も細かく震えはじめる。
 デッキチェアが揺れる。
「ど、どうしたの?」
「ビデオ……見てたら……はうっ……あっ……」
「どうした!」
 思わずアヤも声を出す。
 それが引き金となったかのように――
「は…………ああああっ!」
 万里江は長々と叫び声をあげた。
 それは……京子や恵理香の秘部を瞬時に濡らし、アヤを立ちすくませるような――
 よがり声。

 万里江の目がいきなり開いた。
 京子を見た。
 万里江はにっと妖しく笑った。
 その瞬間、京子は動けなくなった。
「おにいちゃん…………」
 万里江の手が呪縛された京子を捕らえ、しがみついた。
 万里江はデッキチェアから身を乗り出し、体重をあずける。
 京子の膝が砕け、床に倒れる。
 その上に万里江がのしかかっていった。
「好きだよ…………ね、抱いて……」
「ま、待って! わたしはおにいちゃんじゃ……!」
 わめく京子の口を万里江はキスでふさぐ。
 舌を入れられて京子はわずかにあらがった。しかしすぐに目つきがとろけた。これまで恵理香としたキスなど子供の遊びのようなものだったことを京子は知った。万里江の舌が京子を押さえつけ、貪欲にむさぼる。経験豊かなはずの京子が何一つ抵抗できない。京子は口から犯される。
「ね、気持ちよくしてあげる……あたしの言うとおりに、ね、力を抜いて……この指、この動きだけを感じて……」
 万里江の手が服の下にもぐりこんできて京子の胸をじかに触る。耳を息でくすぐられながら乳房を揉まれ、京子の体が先ほどの万里江のように痙攣した。信じられないほど巧妙な指の動き。ほんの数回揉まれただけで胸が燃えるようになる。乳首はまるでクリトリス。軽くつままれただけで京子の理性は跡形もなく溶け崩れた。
「ひ……あうっ! はあ……すごい! いい、いい!」
「ね、感じて……もっといいことしてあげる……ほら、ものすごく気持ちよくなるわ……たっぷり快感をあげる……そしてあなたはあたしのものになるの……」
 万里江は京子の耳たぶを舐めながら、片手で胸の愛撫を続け、もう片方の手をスカートの中へ伸ばしてゆく。それと察した京子は自分から脚を大きく広げた。

 アヤは想像もできなかった淫猥な友人の姿に魂を抜かれたように棒立ちになり、きれぎれにつぶやくのみ。
「マリエ……何やってんだよ…………お前……ほんとに……マリエかよ………………違う、違う……こんなの、マリエじゃねえよ……」
「ああっ!」
 手をさしこまれて京子は悶えたが、万里江の手はぴくりと止まった。そこにあるべき男のものがないので驚いたらしい。
 その瞬間があったおかげでようやくアヤはわれに返った。
「………………っ!」
 隣で恵理香がかすかな声を上げた。万里江の媚態に心を奪われ取りこまれてしまったのか、スカートをめくり上げて体をくねらせている。目が霞んでいた。
「……やめろ! てめえら、やめねえか!」
 アヤは激怒した。
 恵理香を突き飛ばし、駆け寄って万里江を京子から引き剥がす。
「あはあ…………」
 万里江は今度はアヤにしがみついてきた。手がアヤの体をまさぐる。背が高く強靱なアヤの感触に、こちらこそ本当の『おにいちゃん』だと思いこんだらしい。
「マリエ! 目を覚ませ!」
 アヤは剛力で万里江の肩をつかみ、揺さぶった。
「起きろ! 目を覚ましてくれ! オレはおにいちゃんなんかじゃねえ! 起きるんだ、マリエ!」
「……おにいちゃん……好き……」
 なおも口走る万里江の頬をアヤは平手打ちした。
 さすがに万里江の様子が変わる。
「マリエ……正気に戻ってくれよ…………起きてくれ!」
 アヤは泣きそうになりながら万里江の肩を揺らした。
 万里江の顔から一切の表情が消える。
 開いたままの目がうつろに変わる。
 まばたきをひとつ。瞳がかすかに動いてアヤの顔に焦点を合わせる。さらにまばたき。
「アヤ……?」
 目をつぶり、まとわりついたものを振り払うように頭を振る。次に目を開いたときにはアヤの知るいつもの万里江に戻っていた。
 アヤは安堵してへたりこむ。

 だが、そこで万里江の声がただならぬ響きを帯びて一気に跳ね上がった。
「何よ、これ…………どうして、ここに……いやっ、あたし、今……何、あんたら、あたしに何したの!」
 床の上に半裸であえいでいる京子の姿を驚愕の目で見る。
 催眠術にかけられた後の記憶がよみがえってきたのだ。
 何を言わせられ、自分が何をしたのかをはっきり認識してしまったらしい。
 万里江は両手で顔を覆った。
「マリエ……」
 声をかけられた万里江がアヤを見た目は真っ赤で、怒りに満ちみちていた。
 ぶちのめした相手にどんな怨嗟の目を向けられても動じたことのないアヤが、顔をひきつらせ、後ずさった。
「信じられない! あんたがこんなことするなんて! 友達だと思ってたのに! ひどい! 最低!」
「マリ……エ……」
「気安く呼ぶな! もうお前なんか友達じゃない! ひとのエッチ暴いて楽しいか! こののぞき魔! 変態! そこのセンパイたちと仲良くレズってろ、バカ!」
 石膏像よりもなお色を失ったアヤに涙いっぱいの一瞥をくれると、万里江は戸口へ駆けだした。
 鍵がかかっている。外そうとしたところで万里江は頭をかかえて呻き声をあげた。
「痛た…………ぐっ……」
「マリエ!」
 アヤは飛びつく。
「何すんのよ! 離して! 離してよ! お前なんか嫌いだ! 離せっての!」
「待ってくれ! 頼む、オレの話を……」
「嫌! 触んないで!」
「待ってくれ!」
「離して!」
「いやだ!」
 アヤは全身全霊の力をこめて万里江を抱きしめた。
「頼む…………待って……待ってくれ……マリエ……」
 万里江ははっとする。
「……アヤ………………あんた、泣いてる……の……?」

「頼むよ……マリエ、頼む…………オレ、お前に、元に戻ってほしいんだよ…………。
 オレのこと、どう思ってもかまわねえ、これで絶交しても……殴ってもかまわないから……。
 ほんのちょっぴりでもいい、オレのこと、まだ好きでいてくれるなら…………頼む、聞いて、話………………お願い…………万里江!」

 嗚咽がアヤの背中からこぼれた。

 何かあたたかい大きな波のようなものが部屋いっぱいに広がり、しんとなった中に、はああと大きなため息がつかれた。
「………………仕方ないなあ」
「マリエ……!」
「わかったよ。たまには練習さぼるのもいいでしょ。話とやら、聞かせてよ」
「マリエ!」
 アヤが満面を輝かせると、万里江は手のかかる子供をかかえた保母のように笑い、それから突然顔をしかめた。
「痛っ……」
「あ、すまねえ……」
 泣き笑いの顔でアヤが腕の力を緩めると、万里江はうずくまってしまった。
「どうした!」
「頭いたい……気持ち悪い……」
「深い催眠状態からいきなり醒めたからですよ」
 床の上から身を起こし、ずれたメガネを直しながら京子が言った。
 恵理香ともどもばつの悪い顔をしながらも服の乱れを整え、万里江をまたデッキチェアに横たえさせる。
「あんな風に解いたら後遺症が出るに決まってます。今から楽にしてあげますから」
 京子は万里江の目を閉じさせ、深呼吸させながら額に手をあててさすり、まず一度催眠状態に戻るよう暗示を与えていった。
 その様を見ながら鼻をすすったアヤに、横合いからティッシュが差し出される。
「使いなよ」
 恵理香が照れたように言った。
「……あんた、結構いいとこあるじゃん。ちょっと感動しちゃったよ」
「私も」
 万里江を眠らせた京子も振り返る。
「ちょっと正義の味方、やってみたい気分になりました」
「やってやろうじゃない。オカルト研の底力、見せてやるわ!」
 アヤへの欲望はひとまず棚上げし、二人ははじめて真剣に万里江に向かった。
 
     (六)

 それまでは半信半疑だった二人だが、ここにきてようやくアヤが正しいのだと知った。
 おかしいのは万里江だ。
 涙に感動しただけでそう思ったのではない。今の行為が、万里江がおかしい何よりの証拠だった。
 京子はひとまず万里江の催眠を解き、アヤと互いの記憶の食い違いについて存分に話し合いをさせた。
 アヤの話を聞いた万里江はすぐに不機嫌きわまりない顔になった。
「ほんとに、頭大丈夫、あんた?」
「マリエの方こそ!」
「まあまあ、落ち着いて」
 京子は割って入るなり、万里江の手を取って自分の胸を触らせた。
「きゃあ! ちょっと、何すんの!」
「万里江さん、そのまま揉んでみてもらえますか」
「やめてよ、変態!」
「さっきはあんなにすごいことしてくれたじゃありませんか」
 万里江は羞恥と怒りとで赤くなる。
「でも……あれは、相手がおにいちゃんだったから……」
「おにいちゃんにあんなすごいエッチなことしたんですか?」
「……やめてったら、その話!」
「おい!」
「大事なことなんです」
 京子はきっぱり言ってのけた。
「すごいテクニックでした。どこでおぼえたんですか?」
「おぼえ……って…………知らないよ、あたし、あれが初めてだったんだから!」
「初めてであんなことができたんですか?」
「………………」
「本とかビデオとかで知っていたとか」
「……そんなの、見たことない」
「じゃあどうしてでしょうね」
「知らないったら! したいと思ったら体が動いたの! それでいいじゃない! もういい加減にしてよ! やだよ、もう!」
「演奏したいと思うだけで楽器ができますか?」
「え……」
「そうはいかないでしょう。練習しなければ駄目ですよね。スポーツだってそう、剣道でいくら相手から面を取りたいと思ったって、そうする技術を磨かないとまず無理です。セックスのテクニックだって同じです。意志は確かに大事ですけど、それだけで何でもできるものでもありませんよ」
 京子は静かな中に自信をこめて言った。自分の経験からきている言葉なので重みがある。
 万里江は返事につまる。
「…………でも、知らないものは知らないんだよ」
「じゃあ、何も知らないのにいきなりあんなことができた自分を、おかしいとは思いませんか?」
「………………」
「あなたが実はセックスの大天才だとか」
「そんな! ……」
「アヤさんが気にしているのもそのあたりなんです。もう一度だけ、催眠で確かめてみませんか? アヤさんが見ていますし、もうおかしなことにはならないと約束しますよ」
 万里江はためらった。
「マリエ、頼む」
「……わかったよ。それでアヤの気がすむなら、何だってしてやるよ。でも、今度さっきみたいなことさせたら、もう絶対に許さないからね」
「ああ、わかってる」

 京子は万里江を横たわらせた。深呼吸を繰り返させて気を落ち着かせる。
 催眠術に対して不信感を抱いてしまったであろう万里江を誘導するために、先ほどとは別の手を使うことにした。
「では、目を閉じてください。アヤさん、万里江さんの手を握ってくれますか。軽くです。手に手を重ねるようにしていてください」
「あ、ああ……」
「万里江さん、その手に気持ちを集中してください。友達思いのアヤさんの手です。あなたを心配してくれているアヤさんの手です」
「なんか、恥ずかしいな」
 目を閉じたまま万里江は笑った。アヤも笑い、万里江の手を大きく包みこんだ。
「そのまま、楽しかったことを思い出してみてください。色々なことがありましたね。ゆったりと、思い出してください。次から次へと、楽しい思い出が浮かんできます。映画みたいに、いくつもいくつも思い出が浮かんできては、静かに静かに心に溶けていきます」
 万里江の顔に安らかな微笑みが浮かんだ。
「そうしていると、アヤさんに握られている手から、じわーっと温かいものが流れこんできます。楽しい思い出を味わっているうちに、手がじわーっと温かくなってきます。温かいものが手から腕に広がってきます。腕全体が温かいものに満たされます。腕から、体中にそれが広がってきます。体中が温かくなって、とってもいい気持ちになります。温かいものに満たされて、体中の力がすうっと抜けます。温かいものが体中いっぱいに満ちて、ふわふわと漂っているみたいな気分になります。体のどこにも力を入れる必要はありません。力が抜けます。力が抜けます。全身の力がすうっと抜けて、あなたは深いところへ入っていきます」
 がたっとデッキチェアが揺れた。
 傍らに膝をついていたアヤが、京子の声を聞いているうちに催眠術にかかって、万里江の体の上にくずおれてしまったのだった。
「きゃあ!」
 万里江が驚いて目を開けてしまう。
「アヤさん!」
 京子は大慌てでアヤの催眠を解いた。
「…………参ったな……」
 アヤは身を起こしてきまり悪げに頬をかく。
「ははは、アヤったら、おかしい、アヤがかかっちゃうなんて」
 意外なこの展開によって、万里江は本当にリラックスすることができた。
 再度の誘導で、万里江はあっさりと催眠状態に入っていった。

     ※

 自分たちも、催眠の毒牙にかけた相手の記憶を操作する。催眠中にあったことを忘れさせ、その間別のことをやっていたように思いこませ、さらにその時間帯のことを気にしないように念押しの暗示を与えておく。
 それを逆に考え、京子はこれまで培ったあらゆる技術を投入して万里江の記憶を探った。
 万里江の記憶操作は実に緻密になされていた。
 忘却暗示の壁が立ちふさがっているのなら、突破すればいい。しかしこの場合、万里江の記憶は虚構のストーリーに従って細部にいたるまできちんと組み立てられており、忘れていることなど何もないかのように装われていた。何も知らずに万里江を催眠にかけたなら、万里江の記憶がおかしいなどとは気づくこともできないに違いない。壁そのものがどこにあるかわからないように埋めこまれているのだ。
 アヤの証言があるのでその点は問題ない。しかし、それを元に掘り出された壁は、とてつもなく強固だった。
 どこの記憶が改変されているのかはおおむねわかっている。術者が氷上先生であるらしいことも。
 記憶をさぐる時に難しいのはそこまでたどりつくことであって、これだけの材料がそろっていればその後は割と簡単にいく。
 そのはずなのに、崩せない。
「はい、あなたの隣にいるのは氷上先生です。とっても背の高い、きれいな、氷上先生があなたの隣にいます。先生があなたに話しかけています……」
「『万里江、あなたにかけた催眠を解きます。あなたは私にかけられた催眠から醒めて、これまであったことを全部思い出せます』」
 恵理香が麻鬼の真似をして氷のような声で言う。似ても似つかないが、万里江には麻鬼の声に聞こえているはずだ。
「『さあ、もう全部解けました。あなたはこれまで私に忘れるように言われていたことを、全部思い出すことができます』……」
「………………」
 万里江の反応はない。
「……駄目だよ、こりゃ」
 手を変え品を変えて突破口を探り続け、一時間あまりが過ぎて、恵理香が疲れ果てて言った。
「こっち、プロじゃないんだし、多分キーワードで閉じてるんだろうけど、あたしたちじゃどうしようもないよ。本当に氷上先生にかけられたかどうかだってわかんないしさ」
 京子もくちびるを噛んだ。ここまで隙がないとは思ってもみなかった。自分たちが記憶をいじった相手をこれだけ探られたならば、どこかでぼろを出すだろう。氷上先生とはまだ断言できないが、これをやった相手に教えを請いたいぐらいの気分だった。
 しかし、あきらめるわけにはいかない。ここでやめたら、万里江の背後の人物に全てを知られてしまうだけだ。これからのじぶんたちの楽しい催眠ライフのためにも、こんなことをする相手が何者なのかは何としても確かめておかないといけない。
「……アヤさん。すみませんが、やっぱりエッチなところから攻めるしかないようです。我慢していただけますか?」
「……それしかないんだな、本当に」
「残念ですが、今の私たちではもう手がありません」
「…………わかった、それで何とかなるなら、やってくれ。万里江にはオレが命がけで詫びる」
 大袈裟とは思えないアヤの表情だった。切腹する前のサムライというのはこういう顔をしているのかもしれない。京子は催淫暗示をかけた。厳粛な気分でそんなことをするのははじめてだった。

     ※

「ん…………あ……はあ…………あっ……」
 万里江の口から淫声が洩れる。
 恵理香の手が万里江の制服の下で胸をまさぐっていた。
 アヤはみだらな万里江の姿を見ていられず、壁際に背中を向けて立ち、落ち着かなく身じろぎしていた。
 万里江の足は大きく広げられている。恵理香の手はそちらにも伸び、スカートの中で微妙な動きを繰り返していた。
「さあ、あなたの体を手がいじっています。いい気持ちです。あなたは前にもこんな風に快感を与えられたことがあります。それを思い出してください。思い出すことができたら、あなたはその時に戻って、最高の快感を感じることができるんです」
 京子は自分たちの手口を元に、万里江がまず徹底的に淫乱にさせられたと考えた。人間は苦痛に弱いのと同じくらい快楽にも弱い。まず最初に快楽の味を教えこんでおけば、逆らおうという意志がなくなる。快楽を与えてくれる相手の言うことを従順にきくようになるのだ。
 同じ手を使っているとすれば、快感を万里江に与えれば、同じような快感を与えられた時のことを思い出す可能性が高い。彼氏に気持ちよくされたようにすり替えられているかもしれないが、万里江が彼氏と体験したのが三日前だから、まだそこまでは手が回っていないかもしれない。それに賭ける。
 さらに言うなら、どんな想像力たくましい相手であっても、まさかセックスの快感を武器に使ってくるとは思うまい。
 とはいえ、先ほどの万里江を思えば、京子はひるむ。
 アヤがあの場にいなかったら自分も恵理香も万里江のなすがままになってしまっていただろう。体の芯がまだ熾火のように燃えている。もう一回やってくれるなら、アヤを放りだして愛欲におぼれてもいいとさえ思えてくる。あの涙を見ているのに、だ。あのようなテクニックをセックス初心者の万里江にたった一週間で教えこめる人間。化け物だ。そんな相手にセックス勝負を挑むのだ。自分たちのテクがどこまで通用するだろうか?
 しかしもう引き下がれない。
 恵理香と呼吸を合わせ、京子はさらに快感をおぼえるように万里江に暗示を重ねてゆく。
「いい気持ちでしょう。まだまだ感じたいでしょう。もう少しでイけそうです。でも、何かが足りません。とってもいい気持ちなのに、どうしてもイクことができません」
「ああ……は…………あ……イク、ああ、イかせて、お願い!」
 アヤが壁に拳を打ちつける。できるものなら自分の鼓膜を破ってしまいたいとでもいうように、耳をふさいで頭を振る。
「どうしてでしょう? それは、ここがいつもの場所でないからです。あなたがいつも気持ちよくしてもらった場所、いつもこんな風に体をいじられていた場所でなければイけないんです。そこへ行きたいでしょう。行きたくてたまらない。そこでならあなたは最高に感じることができる」
「ああ、いや、もっと! はふ、はあ、イかせて、ねえ……もう駄目、はやく、いやあ!」
「ではそこへ移動しましょう。あなたはその場所に移動します。あなたがいつも今と同じように感じていたその場所に、はい、今あなたは戻ってきました。いつもの場所です。ここはあなたが一番気持ちよくなった場所」
 万里江の声がひときわ高く激しくなった。京子も恵理香に手を貸して万里江の体をいじり始める。両方の胸を京子が揉みしだき、恵理香はクリトリスをさすりながら秘部に指をさしこむ。万里江は涙を流してよがり、悶える。
「はい、あなたはいまどこにいるのですか? それを言うことができれば、最高の気分でイクことができますよ。教えて下さい。あなたのいる場所はどこですか?」
「…………はあ、ベッド、ベッドの上!」
「やったよ、京子!」
「まだよ! 万里江、それはどこ? どこにある部屋?」
「広い、広いベッド……! 大きい部屋、天井が高いの、高いの、ああ、はあ、広くて、大きくて、あふ、はあ、イク、ああっ!」
 万里江は痙攣し、ぐったりとなった。
 京子も恵理香も息をついて額の汗をぬぐった。恵理香が万里江のスカートの中から抜き出した指は皮がふやけ、まとわりついた粘液が指の間に糸を引いてにちゃにちゃと音をたてていた。振り向いたアヤはそれを見るなり目をそむけた。

 これから先は一言一句聞き逃すまいと、京子も恵理香もアヤも万里江の周囲に身を寄せた。
「落ち着いてきました。あなたは今とても幸せな気分です。イッたその場所に横になったまま、とてもいい気持ちになっています。
 ゆっくりと目を開けてみましょう。何が見えますか?」
 万里江のまぶたが上がった。アヤはまだ快感に溺れているそのうつろな目を直視できなかった。
「…………きれい…………」
 万里江は恍惚とつぶやいた。
「……マリエ……」
「何が見えますか?」
 京子は足が震えるのを感じた。恵理香が手を握ってきた。
 ついに、来た。
 壁を、越えた。
 今こそ真実が。
「あなたはどこにいますか?」
「…………部屋……ベッドの……上……」
「そこはどこですか? どこにある部屋ですか?」
「……わからない……知らない…………教えてもらってない……」
「部屋の中に誰かいますか?」
 すると万里江はまた恍惚となった。
 先ほどの性的興奮とは違う。
 真に美しいものを見た安らぎの顔だ。
「どうしたの? 誰がいるのですか?」
「…………きれい……きれいな…………青……」
「青?」
「……青…………すごくきれい…………ああ、気持ちいい……見てるとぼうっとなっちゃう…………すごくきれいな……青い………………目……」

「青い……目?」

 三人は顔を見合わせた。
 アヤと恵理香の視線を受けて、京子が呼吸を落ちつけて問いかける。
「それは、誰?」

 …

 その瞬間!

 …    

「あああああああああああ!」
 万里江の口から、世にも恐ろしい絶叫がほとばしった!

「あああ! あああああ!」
 万里江は眼球が飛び出しそうなくらいに目を大きく見開いた。
「マリエ! どうした! マリエ!」
「落ち着いて! 何があったの! 大丈夫、何もないから!」
 万里江の上体がバネ仕掛けの人形のようにぽんと起き上がる。
「マリエ!」
 叫んだアヤは、万里江の目を見るなり、とっさに飛び退いていた。
 万里江の目に満ちる、凶光!
「ぎゃああっ!」
 悲鳴は――――京子。
 たまたまそちら側にいたのが京子の不運だった。
 血も凍るような叫び声をあげる万里江の右手が、その表情とはまったく無関係に、突然かぎ爪をつくり、京子の頬をえぐったのだ。
 眼鏡が吹っ飛ぶ。頬に平行に三筋はしった赤い線から、血の珠がぷつぷつと浮かび、したたってくる。
 万里江はデッキチェアから飛び出した。
 アヤと腰を抜かした恵理香の間を抜け、まっしぐらにドアの方へ。
 ドアを開けようとしたが、鍵がかかったままなので開かない。
「ちょっと! 今の声は何! どうしたの!」
 外に人が集まってくる。
「開けて! 開けて! 助けてえ!」
 万里江がドアを叩いて金切り声で叫ぶ。鍵を外すということが頭に浮かばないのか、ドアに爪をたてて引っかく。曇りガラスに浮かぶ血のついた指に、外で悲鳴が上がる。
「マリエ!」
 アヤがじりじりと接近する。
 万里江はそのアヤを見て髪の毛も逆立つような恐怖の表情をあらわし、ドアに背中を張りつけた。
「どうしたんだ! マリエ! しっかりしろ!」
「来るなーっ! 来るな! 化け物、来るな! あっちいけーっ!!」
 万里江は叫んだ。
 その声と表情の異様さにアヤは立ちすくむ。
 万里江は救いを求めて激しく周囲を見回した。
「おい……どうしちまったんだ! 化け物ってなんだよ! マリエ! オレだ、アヤだ! オレがわかんねえのか!」
 万里江の目が、何かを決意したように鋭く光った。
 突進してきた万里江からアヤは反射的に身をかわしてしまった。
 アヤの横をすり抜け、万里江は走る。
 行く手は――――窓。
「マリエ!」
 万里江は頭の前で腕を十字に組み、飛んだ!

 窓ガラスが砕け散る。
 外は日暮れ時。
 細かな破片に夕陽が反射し、薄紅色のきらめきを写す。
 虚空に飛び出した万里江の体をアヤは呆然と見つめた。
 動くこともできなかった。
 紅の乱舞と共に、大切な友達が、窓の外へ、消えてゆく。
「マ…………マリエーっ!!」
 完全にその姿が見えなくなってから、ようやくアヤは叫んで窓辺に駆け寄った。
 グラウンドにいる運動部の皆が驚いてこちらを見ている。
 夕陽を浴びて長々と赤黒い影を引きながら、四つんばいに近い姿勢で走り去るポニーテールの人影をアヤは見た。
 ここは二階だ。鍛えている万里江は無事に着地できたのだろう。
「マ……リ……エ……」
 何が何だかわからないままに、その姿を追うアヤの見開かれた瞳から、大粒の涙がひとつ、ふたつとこぼれ落ちた。
 背後でドアが開く。
 マスターキーを持った男性教師が野次馬集団を引き連れて押し入ってくる。
「なんだ、何があった! ……お前か、水南倉!」
 教師の手がアヤの肩をつかむ。
「何をした! 今度という今度は、ただじゃすまさんぞ! 来い!」
 アヤの中で、凶暴なものが炸裂した。
「触るんじゃねえっ!」
 胸ぐらをつかみ、相手を投げて床に叩きつける。
「どけえっ! ちくしょう! どけ、てめえら!」
 つめかける女生徒たちを半ば突き飛ばすようにしてアヤはその場から逃げ出した。
 オカルト研の部室から飛び出して、割れた人垣の間を突っ走る。
(マリエ……!)
 あれが万里江か。
 あんな目で万里江がオレを見るのか。
 万里江はあんな風にされてしまったのか。
 アヤは万里江を抱きとめなかった自分を責めた。
 友達とか言っておいて、これか!
 オレは……!
 涙があとからあとからこぼれてきた。
「ちょっと、アヤさん、どないしたん?」
 どこかで聞いた声がかけられてきた。
「うるせえ!」
 相手が誰かも認識しないまま、アヤは怒鳴りつけて走っていった。

「…………ふうん……」
 迫水千尋はその後ろ姿を見送ると、小さな体を生かして人垣の間をくぐり抜け、オカルト研の部室の中まで入りこんだ。
 痛たたとうめきつつ身を起こす男性教師、抱き合ったまま震えている京子と恵理香。京子の頬には血が流れている。
「……なるほど」
 横倒しになったデッキチェアと本棚の背表紙を一通り眺め、可愛らしい鼻をくんくんいわせた。
「面白いね。……」
 何を見て取り何を思ったのか、千尋は低く口にして微笑みを浮かべ、ひとり踵をかえすと、騒ぎを聞きつけて集まってくる人の流れとは逆に、いずこかへ立ち去っていった。

      (七)

 保健室で怪我の手当を受けてから、京子は恵理香と一緒に絆創膏も痛々しい姿で先生の事情聴取を受けた。
「災難だったな。ま、あの水南倉にかかわってそのくらいですんだのならありがたいというものだ」
 ろくに京子の話を聞こうともせず、男性教師はふんぞりかえって言った。
「まったく、水南倉ときたら、いくら理事長の親戚だからって、冗談じゃない、あいつのせいでどれだけ我が校の評判が落ちているのか理事長はご存じないんだ。でもさすがに今度という今度はかばいきれまい。停学、いやそれじゃ手ぬるい。二階から生徒を突き落としたんだからな。退学だ。そもそもあんなやつの入学を許したのが間違いなんだ。……」
 一方的にアヤの悪口を聞かされただけで二人は解放された。

 外は真っ暗になっていた。
 ずっと聞こえていた吹奏楽部の練習音もいつしかやんでいる。
 カーテンがはためいている。風が吹きこむオカルト研の部室で、二人は黙々と室内の片づけにあたった。
「…………ねえ」
 恵理香が言った。
「……何」
「やっぱり、後催眠よね、あれ」
「…………それ以外何があるのかしら」
「あの子、あたしたちが化け物に見えてたんだろうね」
「でしょうね」
「…………ねえ京子、あたしたちも色々後催眠使ってるけどさ」
 恵理香の声は震えた。
「あそこまでものすごいのかけるなんて……普通じゃないよ」
「………………」
「やっぱ……アヤの言ってた通り、氷上先生なのかな……」
「………………」
「あの先生のサングラスの下……外人のお父さんの方の血を引いて、青いって噂だけど…………万里江の言ってた、すごいきれいな青い目って……」
「………………」
「ねえ、何か言ってよ……どうしたのさ、黙っちゃって……」
「………………もう、やめて!」
「どうしたのよ、いきなり」
「恵理香はいいわよ、無事だったんだから!」
 京子は涙目で怒鳴り、頬の絆創膏に手をやった。
「……考えてもみてよ! これだってきっと後催眠よ!」
「…………そうだろうね、多分」
「どういう暗示だったと思う? きっと思い出しそうになったら相手の顔を傷つけろっていうやつよ。じゃあそれは何のため?」
「え……」
「逃げ出しちゃった万里江さんが、どこへ行ったと思う?」
「まさか……」
「あたしたち、あの子に名前知られてる! そしてあたしにはこんな目立つ傷がつけられた!」
「ち、ちょっと待ってよ…………何、京子、するってえと、その、万里江にあんな暗示を与えた相手が、あたしたちを狙ってくる…………?」
「他にどんな解釈があるのよ。あるんだったら教えて」
「………………」
 恵理香は頬をひきつらせながら何とか笑ってみせた。
「……せ、先生に相談しよっか?」
「何て言うつもり? あたしたちが、催眠術にかけられた一年の本城さんにこんな目にあわされて、それをかけた張本人の氷上先生に狙われてます? そんな二流のジュニア小説みたいな話、誰が信じてくれるの?」
「あ、あは、あはははは、京子、ねえ、それ、きっと、考えすぎだよ、考えすぎ……あはは……」
 恵理香の笑い声は空しく響いた。
「……そうよね、考えすぎよね」
 京子も無理矢理笑顔をつくった。
「氷上先生だって、やっぱりそこは先生なんだもの、そんなことするわけないわよね……」
 二人は口をつぐみ、破れた窓からこわごわと本校舎の四階を見上げた。
 音楽室も音楽準備室も、電気は消えている。
「…………そろそろ、帰ろっか……遅くなっちゃったし……ガラス、朝一で入れてもらわなくっちゃ……」
「そうね……」
 二人は部室の電気を消し、廊下に出た。

 もう部室棟には誰も残っている気配はない。
 渡り廊下を抜け本校舎に入ると、一直線の長い廊下には闇が満ち、重たく静まりかえった向こうに、非常灯のあかりだけが緑色に寂しく光っていた。
「………………」
 身を寄せ合うようにし、無言で階段を降りようとした二人の耳に。

 かつううん。……

 闇を切り裂くような、一体どうすればそんな音が出るのか見当もつかない、鋭い足音がひとつ響いた。

「…………あ…………」
 足が凍りつき、錆びついたおもちゃのようにぎこちなく振り向いた二人は、見た。

 遠い遠い闇の彼方に。
 突然点った小さな炎。
 ゆらりゆらめく光の中に。

 真白く、凄艶な、サングラスの美貌!

「ひ…………」
「ひいい!」
 首筋まで鳥肌に覆われ、京子も恵理香もものすごい悲鳴をあげて階段を駆け下りていった。


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