蜘蛛のノクターン

変奏曲

作:おくとぱす さん

   序奏

 サングラスの美女と白衣の野獣が、コーヒーカップの置かれたテーブルを挟んで座っていた。
 窓の外はもちろん夜。
 この二人が昼間に顔をあわせることは滅多にない。病院業務のある蜂谷と教師である麻鬼とではそれも当然だが、そうでなくてもこの男女のどちらにも、太陽の光がどうにもそぐわない雰囲気が常にまとわりついている。
「……ねえ」
 麻鬼が言った。それまで何もせず虚空に目を向けてじっとしていた。彼女の場合、何をたくらんでいるかわからない分その方がはるかに怖い。
「それ、貸して」
「ん?」
 蜂谷医師は広げていた新聞を渡した。
「逆さだぞ」
「いいのよ」
 麻鬼は目を通すでもなく、手の中でもてあそんでいる。
「……何かあったのか」
「ちょっとね」
「どうした」
「………………」
 間が持たず医師はコーヒーをすすった。
「私、プロポーズされちゃった」
 盛大な噴水。
 麻鬼はさっと新聞をかかげて自分の身を守った。そう使うのが目的だったらしい。
「な…………」
 麻鬼は薄茶色のしずくがしたたる新聞紙を指先でつまみ、優雅に放った。見事ゴミ箱に収まる。
 蜂谷医師は口元からあごに垂れるコーヒーをぬぐいもせず、牙をむき出すようにして麻鬼を見た。
「ど、どこのどいつだ」
「あら、興味あるの?」
 麻鬼は面白そうに見返した。
「……医者として、自殺志願者を見過ごすわけにはいかん」
「何よ、それ」
「あるいは、精神医学上の貴重なサンプルだ。君に結婚を申しこむだなんて、その精神構造は研究に値する」
「あのね」
「絶滅させてはもったいない。WWFに保護を申請しないと」
「……いい加減にしなさい」
 蜂谷医師はわれにかえり、咳払いした。
 もしや、本気だったのか。
「……で、その奇特な男は―――男か?」
「もちろん」
「そいつは、君のことをちゃんと知った上で申しこんできたのか」
「ええ。私はもう彼のものになっちゃってるの」
「………………どういう意味だ?」
「つまりね。……」

   第一主題 羽住祥香

Variation1

 四月、高陵学園女子高校では、新入生に対する各部の勧誘合戦が花盛りであった。
 麻鬼が顧問を務める吹奏楽部は、三十人近い新入部員を獲得することができた。二、三年生を合わせたのと同じくらいの大人数である。
 例年通りであった。
 しかし、その大半がひと月としないうちにやめていった。
 これもまた例年通りの展開だった。
 麻鬼は遠くから鑑賞している分には天上の美影身だ。新入生は必ずふらふらとなり、蜜に引き寄せられる蝶のように音楽室の扉を叩く。しかしいざ間近にし、面と向かいあってみると、そのサングラス越しの妖しい瞳に生命力が吸い取られてしまうのである。
 麻鬼自身には睨んだりねめつけたりしているつもりはまったくなく、ごく自然にしているだけのだが、それでも見られた者はみな、体中の血の流れが止まり、神経のはたらきが麻痺するような心地になってしまうのだった。
 わかっているのかいないのか、麻鬼は新入生にはつきっきりで指導にあたる。同じ部屋でさし向かいになり、見つめられ、声をかけられ、時にはじきじきに手を取って教えられ、ほとんどの者が練習が終わるまでに虚脱状態に陥った。毎日のように貧血みたいになって倒れ、理性ではなく本能で体がもたないと判断した数人が、同じ思いの仲間を引き連れて次々と離脱していった。
 結局残ったのは十人ちょっと。
 そのなかに、羽住祥香がいた。
 楽器の経験は全然なかった。高校に入ったら何か新しいことをやってみたいと思い、最近興味の出てきた音楽方面の部活をしようと決めたという。
 一通り楽器を試したあと、サックスに決めた。初心者でも音を鳴らしやすく、知名度も高い楽器である。
 正直、練習熱心という方ではなかった。しとやかな外見に似合わず集中力に欠ける性格だった。退屈な基礎練習を繰り返すことにすぐ嫌気がさし、おしゃべりをはじめてしまう。
 だが、周囲が櫛の歯が欠けるように退部してゆく中で、どういうわけかこの祥香は頑として辞める気配を見せなかった。
 四月も終わりに近づき、周囲がまあこの子は残るだろうと安心しはじめた頃、祥香は問題児の正体をあらわしはじめた。
 ヒステリー気味というのか、感情の起伏がやけに激しいのである。
 ささいなことでよく泣き出す。それも、大粒の涙をぼろぼろこぼす。練習時間中ずっと泣いていたこともあった。かと思えば、どうでもいいようなことでひどく怒りだしたりもした。
 みな、腫れ物を触るように彼女に接した。

Variation2

「ちょっと! ごめんぐらい言ってったらどうなのさ!」
「何よ! そんなところに放り出しとく方が悪いんじゃない!」
 夕刻の音楽室。
 練習を終えた部員が教室から三々五々戻ってきてごったがえしている中に、そんな怒声が飛び交った。
 きっかけは、祥香が床に置いてあったトランペットのケースを蹴飛ばしたことだった。
 同じ一年生のものだったが、部の備品ではなく、個人所有のものだった。持ち主は当然怒る。それに対して祥香は、どうしてそこまでと思うくらいに憤然とくってかかったのである。
「蹴られたくないなら大事にだっこしてればいいじゃない!」
「ふざけないで! あやまってよ! ごめんも言えないの、あんた!」
「何よ! ちょっとくらいうまいからっていい気になるんじゃないわよ! なにさ、そのぼさぼさの頭! ジャージのふけ、ちゃんと払ってから学校に出てきなさいよ!」
「何よ、自分こそ枝毛ぼうぼうのくせに!」
「言ったわね!」
 口論がたちまちつかみ合いに発展する。体力に自信のある相手だったからことが派手になった。
 机が倒れ、誰かの悲鳴が上がった。
 ――――。
「やめなさい」
 その声は、たった一言で金切り声の嵐を制圧し、室内にいた全員を金縛りにした。
 静まりかえった音楽室を恐るべき眼光が見回してゆく。
「部長」
「はっ、はい!」
「原因はなに?」
「それが……」
 聞くなり美しい影は風のように動いた。
 さほど足を動かしたとも見えないのに、気がつくともう騒ぎの中心にいた。
 鳥肌のたつような冷たい気配がその一帯に充満した。
「………………」
「さ、先に手ぇ出してきたの、あんただからね!」
 祥香に馬乗りになっているジャージ姿の女の子が、青ざめて怒鳴った。引っ張られたとおぼしきポニーテールが乱れ、ひどい有様になっている。その頬や首筋に引っかき傷があった。
 祥香の方は、平手打ちされたとみえ、両方の頬が赤い。つかまれた胸元が大きく開いていた。
「本城さん、羽住さん、お互い、あやまりなさい」
「……ごめん、羽住」
「………………」
「羽住さん」
「……あたし、何も悪いことしてないもん!」
「まだ言うの、あんた!」
「やめなさい。じゃあ、本城さん、あなたは帰っていいわ。みんなも、もういいわよ。羽住さん、準備室へいらっしゃい」
「いやだよ! なんで、あたしだけセッキョーされなきゃなんないわけ!」
「お説教なんてしないわ。ほら、起きなさい。怪我はないわね。あなたの言いたいことをゆっくり聞かせてもらうだけだから」
 祥香は肩を抱かれ、音楽準備室へと連れていかれた。
 “吸血鬼”の説教は、部員にとって楽器の個人指導以上に恐怖の的だ。あの目が真正面から、自分一人だけを目標に向けられてくるのである。個人指導なら楽器や楽譜に気をそらすこともできるが、説教だとそういう逃げ場もない。しかしこの時ばかりはさすがに、誰もが当然と言う目つきで祥香を見送った。

Variation3

「汚れちゃったわね」
 準備室に入るなり、麻鬼は祥香の制服の汚れをはたき落とした。
「痛いところはない?」
「………………」
 小学生みたいなふくれっつらをしていた祥香だったが、やはり内心では噂に聞く麻鬼の説教におびえており、意外な優しさに接してきょとんとした顔をした。
 麻鬼は祥香の腕を持ち上げてストレッチさせ、肩を揉んだ。
「……?」
「取っ組みあいしたんだから、体をよくほぐしておかないとね。今は興奮してアドレナリンが出ているから何ともないけど、後になって、普段使わない筋肉を使ったり、変な風に筋を伸ばしたりした痛みが出てきてしまうことがあるのよ。本城さんみたいにいつも運動しているならともかく、あなたはこうしておいた方がいいわ」
 祥香が反抗的だったとしても、こう言われては逆らいにくい。
 麻鬼は祥香の腰や脚までも揉んでいった。
 おかしいなとは思ったが、麻鬼の手の動きは本職のマッサージ師のように巧みで、痛いくらいに揉まれたところがすぐに楽になり、みるみるこわばりが抜けていくのが感じられ、自分がこんなに緊張していたのかと驚いた。
 麻鬼の手が背後から祥香のこめかみをはさんだ。
 長い指が両の目をふさぐ。その冷たさにびっくりしたものの、まぶたを軽く押さえる指のひんやり感が心地よかった。
「首を回すわよ。こうすると、首の力が抜けて、楽になるわ……」
 麻鬼の声が低く耳に入りこんできた。普段のきりっとした声とはまるで違い、語尾が伸びて、山奥に深々と流れるこだまのような、不思議な響きを帯びていた。
 祥香の首がゆっくりと回された。一回、二回。
「ほうら、首の力がどんどん抜けていく。こうやって回していると、首の力がすうっと抜けていく。いい気持ちでしょう。頭が楽になってくる……」
 ほんとだ、と祥香はぼんやり考える。頭の中がふわあっとなって、深い所に沈んでいくみたいな感じ。
 さらに数回まわったところで麻鬼の手が離れていった。物足りない。もっと触っていてほしい。
「そこに座りなさい」
 祥香はソファーに腰を下ろした。
「羽住さん」
 今のふわっとした感じをもう一度期待して祥香は目を上げた。
 麻鬼が椅子に座り、こちらに相対している。
「!」
 ある程度の美人なら親しめる。すごい美人なら憧れる。だがここまで格が違うと、自分と比べてどうこうなどと考えることもできず、この世にこんなに美しいものがあるのかと、ただ感動して見とれるだけだ。
 その美貌が、怒り、そう、間違いない、怒りに満ちている。
 サングラスの下で、あの目が、普段はこちらの心を吸いこんでしまうような底知れぬ瞳が、見たことのない強いひかりをたたえて祥香を睨みつけている。
「あ……」
 麻鬼の表情そのものは平静だ。眉を逆立てるでも目尻を吊り上げるでもない。だがこれはいつもの、あのどんなときでもクールな氷上先生ではない。
 こんな先生、見たことない。
 まさか、本気で怒っているのか。
 祥香は怯えた。
「こっちを見なさい」
 声に棘はない。荒げることもしない。あくまでもなめらかだ。だがそれは研ぎ澄まされた刃のなめらかさ。優美な響きの中に、ぞっとするような鋭いものが秘められている。
 言うことをきいてはいけない。もっと反発し、好き勝手しなければならない。心のどこかでそんな声がする。セッキョーなんてうざったい。嫌だ嫌だ嫌だ。だけど逆らえない。麻鬼の眼光に祥香は貫かれる。どんなに抗おうとしても、大津波を雨傘ひとつで防ごうとするみたいに、何をしてもかなわない、どんな抵抗も通用しない、そんな気分に支配される。
「動かないで」
 どこをどうしたわけでもないのに強く言われた。祥香はびくっとなり、手を膝の上で握りしめ、背筋も肩もがちがちにして震えた。
「動かないでと言ったでしょう」
 なおも言われる。どこが動いたのかわからない。少しでも体を動かしてしまったら、この怖い声に突き刺される。祥香の体は石像みたいに硬直する。
「そう、あなたの体はどこも動かせない。私がいいと言うまで、動かすことができない」
 サングラスの向こうの麻鬼の目は、祥香を見据えたまま小揺るぎもしない。祥香は言葉の中身を考えることもできないまま、とにかく従わねばならないと強迫観念にとらわれ、ますます固くなってゆく。
 息もできなくなる。横隔膜がひくつくようにかすかに上下するだけだ。耳がじいんとなってきた。どくんどくん聞こえてくるのは心臓の音。少しずつ速くなってきている。麻鬼の目がなんだかぎらぎら光ってくるように見えてきた。いや、本当に光っている。視界の端の方が薄暗くなってきて、狭まった中に、サングラスの向こうで麻鬼の瞳ばかりがぎらついている。視線をそらすこともできずに見つめていると、目が痛くなってきた。まばたきが増える。そのたびにますます目の光が強くなっていくようだ。いつこのまばたきのことを怒られるか。いけない。なのにますますまばたきの回数が増える。涙がにじんでくる。
 そう、目を閉じてしまえばいいのだ。
 思いつくなり祥香はまぶたを下ろした。
 すると祥香の精神は海の底みたいな深い所へ勝手に沈んでいってしまった。食事の時に手が意識せずとも箸を持つ形を作るような感じで、こういう場合はそうなるのが祥香にとっては当然だった。

「……そういうわけでね、まだほとんど何もしていないのに、勝手に催眠に入っちゃったの」
「ほほう」
「家庭の事情があるってことを知ってたから、その辺りの不安を解消させて、落ち着くようにしてあげようと思っていたんだけど」
「人助けとは珍しいな」
 麻鬼は何か言いたげに蜂谷医師を睨んだが、その点については触れずに先を続けた。
「あんまり簡単にかかったから、逆に気になったのよ。それで探ってみたら……」

Variation4

「体がずしいんと重くなる。手も、足も、頭も、上に砂袋がどしんと置かれたみたいに重くなって、動かそうとしてもどうやっても動かなくなるわよ」
 麻鬼は祥香をソファーに横たわらせ、そういう暗示を与えた。祥香は手足をソファーにへばりつけるようにして、苦しそうに身じろぎする。
「はい、体にかかっていた重さがなくなる。重さがすうっと消えていって、今まで押さえつけられていた分だけ、ふわあっと、軽くなっていくわ。ほうら、体が軽い。軽い。風船になっちゃったみたいに、体がふわふわ浮き上がっていく。とっても綺麗な空の中に、ふわふわって浮かんでいく。どこまでも澄み切った青い空、可愛いかたちの真っ白な雲。ぽかぽかした空に、あなたは雲と並んでふわりと浮かんでいる。すご〜くいい気持ち」
 祥香の表情がゆるみ、腕が次第に空中に持ち上がっていった。
「強い風が吹いてきた! 吹き飛ばされる! ああっ、体のバランスが崩れた! 落ちる! 落ちる!」
「きゃああっ! いやああっ!」
 祥香はものすごい声をあげて暴れた。ソファーから転げ落ちそうになり、それがさらに暗示の効果を強め、真っ青になる。
「……パラシュートが開いた! もう大丈夫! ほうら、落ちるスピードがゆっくりになってきた。ゆっくりになってきた。もう大丈夫。このくらいゆっくりなら、何の怪我もしない」
 麻鬼は祥香を支えながら言った。祥香は深々とため息をついた。
「……でも、もうあんまり高いところに上るのはよしましょう。すうっと下に降りていく。もう怖いことの起こらないところまで、どんどん降りていきましょうね。深いふかあい所へ降りていく。ほうら、気分が落ち着いて、とても安らかな気持ちになってきた。……」
 そうやって祥香を深い催眠状態に入れる。
「……さあ、あなたは私のことが大好きになる。あなたは私が大好き。大好きな私には、どんなことだって話してしまえる。そうでしょう?」
「うん……」
「今あなたはとっても落ち着いた、幸せな気分になっている。私の声を聞いてこんな風になったのよ。
 それで、教えてほしいんだけど、他の人の声を聞いて、今みたいにリラックスした、いい気分になったことはある?」
「うん、あるよ」
 素直に祥香は答えた。
「その人のこと、教えてもらっていい? 言いたくないならそう言ってね。私はあなたの嫌がることは絶対にしないから」
「………………」
 祥香はわずかに抵抗した。麻鬼はソファーに座らせた祥香の隣に腰を下ろし、肩を抱いて揺らしながら祥香の心を裸にしてゆく。
「あなたは私のことが大好き。私もあなたが大好きなの。だけど、隠し事はいけないわ。あなたのこと、色々教えてもらったら、もっとあなたのことを好きになる。どんなことだって、あなたの全てを受け入れてあげる。だから、よかったら、教えて。あなたが気持ちよくなった時のこと、聞きたいの。誰に気持ちよくしてもらったの? 私に言ったら、あなたと私は本当の仲良しになれるのよ。それとも、もしかして、その人に、言っちゃいけないって言われてるの?」
「……別に……」
「じゃあ教えて。誰に、こんないい気持ちにしてもらったの?」
「………………」
 祥香は重ねて問われ、男の名前を口にした。
「あなたはその人のことが好きなの?」
 訊ねると祥香は熱い吐息をついて体をくねらせた。
「……その人は、あなたにとってどんな人なの?」
「ご主人様……」
 麻鬼の目がサングラスの下で光る。今度は錯覚ではない。
「まあ、うらやましいわね」
 麻鬼は祥香の頭をなでるようにした。祥香は誇らしげに微笑む。
「私もあなたと同じようになってみたいな。どんな風に気持ちよくしてもらったのか、最初から順番に教えてくれる? ご主人様と会ったのはいつ?」
 ………………。
 祥香は、中学校の担任だった男のことを事細かに語った。
 二月のあたま頃にその男に催眠術をかけられ、深く精神を支配されたらしい。
 祥香は男の手によって処女を奪われ、尋常ではない快感を与えられて洗脳された。
 その時の記憶を呼び起こされ、祥香は麻鬼の目の前で四つんばいになり、腰をふりたくりながらよがり声を張り上げた。
「後ろから、せんせいが……! いい! 気持ちいい! あ、でも、でもお、どうして、イけない! イッちゃ駄目ってせんせい言ってる! あ、あたしが、せんせいのものになれば、心からせんせいのものになれば、イかせてくれるの! 
 なる、なる! あたし、せんせいのものお! せんせいのものになる! なるから、イかせてえ!」
 祥香の痴態が一段落してから麻鬼は続ける。
「今のあなたは天国にいるみたいな気分ね。……さあ、あなたの目の前に、ご主人様がいるわ。あなたをご主人様がじいっと見つめている。まだまだ、ご主人様はあなたをいくらでも気持ちよくしてくれるわよ。あなたの望む通りに、一番してほしいことをしてくれる。どんな風にしてほしい? そうだ、魔法の言葉を言ってもらいましょう。ご主人様はあなたを一言で今みたいないい気分にしてくれる、魔法の言葉を知っているはずね。その言葉を口にしてもらいましょうね。いつもは忘れてしまっているわ。だけど今なら思い出すことができる。その言葉が頭の中に浮かんでくるわよ。ほうら、浮かんできた。その言葉を言ってほしくてたまらなくなってきた……。自分から口にして、おねだりしてみましょう」
「ああっ! 言って、『お前は俺のもの』って言って!」
「それを言われるとどうなるのかしら?」
「いいの、いい、気持ちよくなるの!」
「じゃあ言ってあげる。今からご主人様がその言葉を言うわよ。それを言われると、あなたはいつもと同じように反応するの。……」
 麻鬼が男みたいな低い声でキーワードを告げると、祥香は再び全身をのたうたせて絶頂に駆け上っていった。

Variation5

「調べてみたら、出るわ出るわ。その長谷部って先生、祥香だけじゃなくって、そのお母さんにも催眠をかけて、好き放題に操っていたの。祥香の家ってお父さんが留守がちだから、それをいいことにしょっちゅう祥香の家に寝泊まりして、酒池肉林を決めこんでいたみたい。祥香はお母さんが妊娠したせいで落ち着かなくなっていたんだけど、この分だとお腹の子、本当にお父さんの子かどうか」
「オス蜘蛛の登場というわけだ」
「違うわ」
 わずかに語気荒く麻鬼は言う。
「寄生虫よ、あれは」
「で、その子の洗脳はどうやって解いた」
「解いてないわよ」
「なぜ」
「寄生虫は寄生虫なりに楽しんでいるもの。ひとのやることに横やり入れるのは好きじゃないし、興味もない。家を乗っ取ろうがこの国を支配しようがどうでもいいわ。人それぞれの自由よ」
「……君の楽しみを邪魔しない限りは、な」
「そういうこと。だから、私に『ご主人様』のことを白状したってことは忘れさせて、そのままにしておこうとしたの。
 ただ、うちの部をめちゃくちゃにされるのは困るから、最初の目論見通り、あまりお母さんのことで悩まないようにしてあげようと思ったんだけど……。
 どういうわけか、抵抗するのよ。
 それで、長谷部先生に与えられた命令がどんなものか一通り聞き出してみたの。そうしたら、学校で問題ばかり起こしてたのは、長谷部先生の指示だったのよ」
「どうして教師がそんなことを?」
「その日はそれで帰したけど、別の時にまた催眠に入れて聞き出してみたら、また長谷部先生に念押しされてるのよ。学校、特に部活のときにはいつもいらいらする、どうにも落ち着かなくて仕方がなくなるって。あなただったらどう考える?」
「……中学校の教師だろう。ふむ……彼の親戚か友人に高校の音楽教師がいて、ライバルである君の所の部活を潰そうとした」
「うちのライバルなんて、どこにいるのかこっちが聞いてみたいわ」
「……では、昔吹奏楽部にいてひどい目にあったことがあり、恨みを抱いている」
「そんなことのために生徒を洗脳するの?」
 蜂谷医師は思案した。
「そうか、その子の洗脳のためだ。さらに自分への服従を強めるために、学校で居心地を悪くして、その分だけ自分といるときに安心を得られるようにする。母親の件でもう家庭は居心地が悪くなっているから、学校も駄目となればよりその男に頼るようになる」
 麻鬼はうなずいた。
「そんな所かなと私も思ったわ。でもうちの部で問題を起こされるのは困る。だからまず部活の間、時々『ご主人様』の言うとおりにいらいらする夢を見るようにして、それからその夢を現実にやったこととして長谷部先生に報告するようにさせておいたの」
「……随分と面倒なことを」
「汝の欲せざるところを人に施すことなかれ、よ。私は邪魔されたくない。だから人のやることも邪魔しない」
「妙な所で寛大なんだな」
「あら、私はいつも寛大よ」
「………………」
「だから、そういう目はやめて」
「それで」
「……別に、長谷部先生が祥香をどうしようと、構う気はなかったのよ。だけどこの間、電話が来たの」
「電話? 長谷部氏からか?」
「ええ」
 羽住祥香の担任をしていたということで、祥香が高等部で問題を起こしていると聞き、相談に乗ると言ってきたのだ。
「それは…………もしや、狙いは……」
「ふふ」
「オス蜘蛛が、メスに惹かれてやってきたのか」
「蜘蛛じゃないけど、まあそういうことね」
「……プロポーズというのはそのことか」
 麻鬼は薄笑いして自分のコーヒーに口をつけた。

   第二主題 長谷部雄也

Variation1

 高陵学園女子高等部。
 同じ学園に属するとは言っても、中等部とは別の場所にあるので、中等部教師の俺には滅多に来る機会がない。
 生徒指導室に通された。
 大体こういう部屋は似たものになるが、こころなしか、うちの学校より華やいだ雰囲気がある。
 ドアが開いた。
 いきなり周囲が夜の暗がりに沈んだ。
 あらわれた美女は、深い闇をその身にまとっていた。
 ――――目をしばたたいた。
 窓の外は放課後の西日に輝き、長身の女性教師はありふれたスーツ姿。何もおかしなことはない。
 俺は立ち上がった。心臓がばくばく言っている。どもらないようにするのが大変だった。
「あ、どうも、長谷部です」
「氷上です。お呼び立てしてしまいまして、申しわけありません」
 向こうから言ってきた。俺の胸に真っ赤な矢が突き立ったみたいな感じがした。この声を耳元でささやかれるところを想像しただけで頭がゆだってくる。いけない、落ちつけ落ちつけ。
 この美女をはじめて見た時、俺は一瞬で心を奪われてしまった。そしてわれにかえった後、どんなことをしても絶対に俺のものにしてやると決めた。
 俺の特技は催眠術。
 これからこの美女を俺のなすがままに操ってやる。俺から離れられないようにしてやる。
 餌はもうまいてある。俺がじっくり練り上げた、羽住祥香という生きのいい餌が。
 この氷上麻鬼と二人っきりになり、かつ向こうが俺の話に耳を傾けるようにする。そのためにまず祥香を洗脳し、俺の手駒にしたのだ。
 たったそれだけのために、大袈裟だと思うか? だけどこの相手の場合、そこに持ち込むのが難しい。普通の口説きが通用するなら、もうとっくに誰かのものになっているはずだ。
 ここまで遠大な計画を練ったのも、警戒させずにこの状態に持ちこむためだ。
 恐ろしいくらいに順調だ。
 あとはここで催眠術をかけること。
 そのためにも、まずは親しい雰囲気づくりだ。
 ……それにしても、とあらためて思う。
 本当に、なんてきれいな女なんだろう。
 その周囲だけ空気の色が違って見える。そこだけ清浄に輝いていて、他は全部薄汚れているみたいだ。この麗姿の前ではそこら辺の女どもはゴミくずも同然だ。グラビア美女だってひとやまいくらのバーゲン品だ。細胞の一片からしてつくりが違うんじゃないか。
 傾国の美女ってやつはこんな風じゃなかったのだろうか。服装なんて関係ない。いや、平凡なスーツ姿だからこそ、かえって彼女に似合う服をあれこれ想像してしまい、より惹きつけられる。それにこの目。どんな男でも目配せひとつで言いなりにしてしまえるだろう。サングラスをかけている。熱帯の太陽から肌を守るパラソルみたいなもので、その影の部分に入れば何とか向き合える。そうでなければ彼女の輝きに圧倒されて、初恋を告白する中坊みたいに口ごもってしまっていたかもしれない。
「いえ、こちらこそ、お忙しいところにお邪魔しまして」
「お気になさらずに」
 唇の端をわずかに上げて微笑む。動作にすればそれだけだが、俺はまたしても魂を射抜かれたような感じがした。
 微笑みを浮かべたまま、美女はこちらに歩いてくる。
(え)
 足を止めずにどんどん近寄ってきた。
 やっぱり俺より背が高い。いきなりだったこともあり、俺はのけぞった。すぐ目の前にまで美貌が迫る。サングラスの下で瞳がきらめく。吸いこまれるような気分になった。
「こっちを見て」
 氷上教師は言って、サングラスを取り去った。

Variation2

 ……。

「それで、羽住さんについてのお話とうかがいましたが」
 美しい声に言われて俺ははっとした。
 生徒指導室で、テーブルをはさんで向かい合っている。
 いつ座ったのかおぼえがない。
 多分、彼女に見とれているうちだろう。
 そのくらいにいい女だ。
 まだ頭がぼうっとなっている。
 普通ならとても無理めなこんな女をものにしてこそ、催眠術を練習した甲斐があるというものだ。
 俺は祥香の中学校時代の話をし、羽住家の家庭の事情を説明した。向こうは大まかなところは耳にしていても詳しくは知らなかったらしく、俺の説明に熱心に耳を傾けていた。
 時折冗談を口にすると、笑った。何度か笑うのを見ているうちに、こちらの気後れもなくなってきた。
 ずいぶん向こうも気を許してきたようだ。
 チャイムが鳴った。部屋の外でさっきまで聞こえていた生徒たちの足音も一段落ついた。窓の外は夕暮れに変わり、電気をつけていない室内は薄暗くなってきた。
 よし、そろそろいくか。
「……これを見ていただければ、よくわかると思います」
 俺は鞄から一枚の絵を取りだした。
 氷上教師の隣の椅子に腰かける。向こうは警戒した様子はない。
「羽住が描いたものです」
 相手の目の前に絵をかざした。
 無論祥香が描いたものなんかじゃない。
 意識を一点に集中させるよう構図や色合いを工夫して描かれた、催眠絵画というやつだ。市販されているものに俺が手を加え、いかにも中学生が美術の時間に描いたもののように作り上げた。快心の傑作だ。ちなみに俺の受け持ちの生徒でもう実験済みだ。
「白い道が消えていくあたりを見てください。そこに小さく人の姿みたいなものが描いてあるでしょう。はじめは見えにくいかもしれませんが、じっと見ていればわかります。ほら、よく見てください……」
 氷上教師の手は膝の上。さすがに上品に、動かない。落ちつきのない者、せっかちな者だとここで自分の手で絵を持とうとしたかもしれない。
 サングラスの下の瞳が、俺の言葉通りにじっと絵の一点に見入っている。
 俺はわずかに絵を揺らしはじめた。
「そこに真実の姿があるんです。深い心の奥底があるんです。じっと見て、その姿を見つけてください。気を楽にして、深く深くに沈んでいる、本当の姿を見つめてください。じっと、じいっと見つめてください……」
 絵の動きにあわせて氷上教師の頭が左右にふらふら揺れる。
「気を楽にして、見つめてください。じいっと見つめていると、面白いことが起こってきます。よく見てください。だんだん頭の中がぼうっとしてきます。いい気持ちになってきます。じっと見るんです。何だかぼうっとしてきます。なんだか絵がまぶしく見えてきたでしょう。白い所がなんだかまぶしい。見ているのがつらい感じです。ようく見るんです。まぶしくて、見つめているのがつらいでしょう。まばたきが多くなってきましたね。目がしょぼしょぼして、痛いくらい。閉じてしまって構いませんよ。まぶたが重うくなって、重うくなって、はい、すううっと、閉じてしまいます。まぶたがすうっと閉じる。閉じる……」
 長い睫毛がかすかに震える。じっと絵に見入る瞳が半開きになり、俺の暗示に従ってまぶたが降り、ぴったりくっつく。
 やった。かかった。
 俺は小躍りしたくなった。
 いや、まだだ。まだ浅い。早く深化させないと。
「今から三つ数えると、あなたの目はぱっちりと開きます。でも、僕の手の平を見ていると、またすぐにまぶたが重くなって、目を閉じてしまいます。そうすると今度はもっと力が抜けますよ。はい、ひとつ、ふたつ、みっつ」
 サングラスの下で目が開く。ぼんやりしている。その前に手を突き出す。ちょっとびっくりしたのか、目が見開かれる。俺の手に視線が固まる。
「ほら、またまぶたが重くなってきましたよ。まぶたが重い、まぶたが重い、ほうら、目がどんどん閉じていく……。目を閉じるのと一緒に体の力もどんどん抜けていく……体中の力が抜けて、だらーんとなってとてもいい気持ち……ほら、目が閉じる、閉じる……」
 氷上教師の目は固く閉じ、合わせて首が前に傾いた。
 その目をまた開かせ、すぐに閉じるよう暗示を与える。
 これを繰り返し、さらに深い所へ誘導してゆく。
 やがて絶世の美女は俺のなすがままになった。
 両腕を体の脇に垂らし、首を後ろに大きく傾け、真白い喉を俺の目の前にさらしている。
「……さあ、もうあなたは自分がどこにいて、何をしているのか、さっぱりわからなくなってしまった。そんなことはどうでもいい。なんにも考えられない。何も考えられない。リラックスした、いい気持ちだ……」
 スカートの膝がゆるんでいる。その足の何と細く、長いことか。ストッキングをはいていない肌は透けるようで、しゃぶりつきたいくらいだ。
 暗示ひとつでこの足は左右に開く。そうしたい。だが、いつ人が入ってこないとも限らない。そうなったら何もかも台無しだ。ここまで我慢してきたんだ、あと少し、ほんの数時間待てばいいだけじゃないか。俺は欲望を必至で抑え、興奮が声に出ないよう気をつけて、後催眠暗示を植えつける。

Variation3

「今日の夜、何か予定はあるか?」
「いえ……特に、何も……」
 麻鬼は抑揚をつけない淡々とした口調で言った。
 その向かいに座る長谷部が、にやにやしながら指示を出す。
「じゃあ、いいか、よく聞くんだ。お前は、今日の仕事が全部終わったら、羽住祥香の家へ行かなければならない。彼女は色々と問題を起こしているので、顧問のお前は家庭訪問してご両親と話をしなければならないんだ。部活が終わったら、祥香が待っている。祥香と一緒に、彼女の家へ行く。ここで言われたことは全部忘れてしまう。でも、部活が終わったら、必ず家庭訪問をしなければならない」
「はい……」
「今お前はとてもリラックスした、幸せな気分になっている。いつでもすぐこんな気分になれる、魔法の言葉を教えよう。……『幸せな結婚式』だ。言ってみろ」
「しあわせな……けっこんしき……」
「そう、その言葉を聞くと、お前はどんなときでもすぐに、今とまったく同じ状態に戻るんだ。わかったな。それじゃあ、数をゆっくり一から百まで数えろ。百までいくと、お前はすっきりした、とてもいい気分で目が覚める。目が覚めた時、俺と会ったこと、俺に言われたことは何もかも全部忘れてしまっている。お前はちょっとここで一休みしているうちにうたたねしてしまったんだ。わかったか。わかったら、数えはじめろ」
「はい」
 麻鬼は言うと、腕を伸ばした。
 長谷部の耳元で音高く指を打ち鳴らす。
 長谷部の目が焦点を失った。
 麻鬼は指をその前で振った。
 反応はない。
 催眠術にかけられているのは長谷部の方なのだ。
 長谷部は、自分が麻鬼に催眠術をかけたと思いこまされている。
「ふふ、お上手なあなたに、特別サービスよ」
 麻鬼は胸元を大きく開いて胸の谷間をあらわにし、うつろな目をしてふらふらする長谷部の上体を抱えこんだ。
「ほうら、いい気持ちでしょう。あなたはとても深い、深あいところでくつろいでいる。すごく幸せ。幸せ。あなたの夢はもうすぐかなう。ここまで全部うまくいっている。あなたは私を深い催眠状態に入れて、後催眠暗示を与えた。それから私をどうするつもりなの?」
 麻鬼の豊かな胸の中で、長谷部はぶつぶつと答えた。
「これから祥香を呼びだして、手順を教えておく…………祥香が帰りにあんたを誘い、家の玄関を入ったところで、キーワードを言う…………俺は先に家の中で待っている……催眠状態に入ったら、服を脱がせて、思い切り感じさせる……服従するよう教えこんでから、忘れさせ…………俺のことが男性として気になってくるように……なんとなく会いたくなって、三日ほどしてからまた電話をかけるように、深く埋めこんで、帰らせる……」
「そう」
 麻鬼は優しい顔をする。しかしその目はまるで笑っていない。
「それは必ず成功する。成功したところをイメージして。ものすごく鮮明に浮かんでくるわ。そのイメージは必ず現実のものになる。あなたの計画は順調。どこもまずいところはない。最高の気分よ」
「………………」
「これからあなたはこの部屋を出る。この部屋を出て、ドアを閉めるとあなたは目が覚める。目を覚ましても、私の目を見てから後のことはまったく思い出せない。あなたは自分の夢の通りに、私に催眠術をかけて、キーワードを埋めこむことに成功した。それが本当にあったこと。計画がうまくいって、すごく満足した気分で目が覚めるのよ。いいわね」

 ……。
 俺はドアを閉めるなり、その場で飛び上がって快哉を叫びたい気分になった。
 うまくいった!
 何もかも、俺の狙い通りになった!
 こんなにうまくいくなんて、夢みたいだ。
「………………」
 うまくいきすぎて、かえって不安になった。
 そっとドアを開き、中をのぞきこんで見る。
「十八、十九、二十……」
 氷上教師が、俺が最後にとらせた姿勢のまま、数を数え続けていた。
 完璧だ。
 彼女に与えたキーワード、幸せな結婚式の幻影が浮かぶ。女子校とはいえ殺風景には変わりない廊下が、俺の目に花びら舞い散るバージンロードみたいに見えてくる。ウェディングドレスを身につけた絶世の美女が、幸せに涙ぐみながら俺の方へ歩いてくる。
 もうじき、それは現実のものになるのだ。
 生徒が通りかかり、俺は怪しい人物に見えないよう必死で笑いをこらえた。

Variation4

「心の底から願っていたことだったから、現実と思わせるのも簡単だったわ」
「それで」
「彼のシナリオ次第と思って、特に決めずに祥香の家に行ったわ。知ってる、羽住家ってね、ここのすぐ近く、三軒向こうなのよ」
「ほう」
「笑っちゃったわよ、ここの前通ったときには」
「で、彼をどうしてやったのかね」
「とりあえず夢をかなえさせてあげたんだけど……」

「『幸せな結婚式』」
 羽住家の玄関に上がるなり、祥香が麻鬼に言ってきた。
 麻鬼は祥香を抱きしめると、耳元で自分のキーワードをささやいて祥香を自分の言いなりにする。
「さあ、私の手を引いて、中へ連れていって」
 居間では長谷部が涎を垂らさんばかりの顔つきで待ち受けていた。
 かかったふりをしている麻鬼をなめ回すように見て、図々しくもサングラスに手をかける。
 外されるなり麻鬼は前に踏み出して、長谷部に自分の顔を近づけ、閉じていた目をかっと開いた。
 サファイアブルーの強烈な眼光。
 長谷部の体が震える。
「沈みなさい…………深く、深く、沈みなさい……」
 一度この目によって催眠状態に落とされている長谷部は、たったそれだけの言葉でもすぐに脱力し、麻鬼にすがりつくようにしてくずおれた。
 ソファーに座らせ、手早く深いトランス状態に誘導する。
 念のため確認してみると、祥香の母美也子は奥の部屋で、何も見えず何も聞こえない状態に置かれていた。好都合なのでそのままにしておく。
 麻鬼は祥香の目を閉じさせ、暗示を与えた。
「あなたは今から私になる。あなたは音楽の先生、氷上先生になる。あなたはすごく背が高い、スタイルがいい、みんなから“吸血鬼”って呼ばれている、きれいなきれいな氷上麻鬼先生になる」
(このくだりを聞いたところで蜂谷医師は爆笑した。「自分で言って恥ずかしくなかったか」「いいじゃない、そのくらい」)
「あなたは長谷部先生の催眠術にかけられた。催眠術にかけられて、いまとても深い所に入っている」
 次に長谷部。
「あなたの目の前に、氷上さんがいる。あなたの催眠術にかかって、あなたの言うことはなんでも聞くようになった氷上さんが、目の前に座っている。ここにいるのは二人だけ、他の人間はいないわ」
 薄目を開けさせる。向かいのソファーに座っている祥香の姿が麻鬼に見えるはずだ。暗示を受け入れた証拠に、長谷部は快心の笑みを浮かべた。
「さあ、あなたがやりたかったことをしましょう。あなたの望んでいた通りに氷上さんを操りましょう。ほら、見て、彼女はあなたの言葉を待っている。完全にあなたの催眠術にかかっているから、どんな暗示でも受け入れて、あなたの言うがままになるのよ」
「………………」
 長谷部はまず『麻鬼』のプロフィールを聞き出すことからはじめた。
「お前は俺の質問にはどんなことでも答えるんだ。いいな。まず、名前は」
「氷上……麻鬼…………マキ=ヒカミ=フォン=カル……カルム……」
 麻鬼のドイツ人の父親の姓を言おうとして、おぼえていない祥香は口ごもる。
「カルンシュタインよ」
 助け船を出すと祥香はすぐそう言った。
「年齢は」
「二十六」
(「驚いたな、そうだったのか」「祥香が私をそう思っているのよ。ま、妥当な線よね」)
「住所は」
 これは麻鬼が横で耳打ちする。
「今つきあっている男がいるか」
「いえ……いません……」
「これまで男とつき合ったことは」
「…………ありません……」
「セックスの経験はあるか」
 祥香は眉を寄せて考えこみ、やがて答えた。
「昔…………沢山の男の人と、めちゃくちゃに、変態的なことをして遊んで…………そのせいで、セックスが嫌になりました……」
(「どういうことだ?」「祥香にとってはそうあってほしかったんでしょう。真央の時と同じよ。私にあまり男遍歴があるとは思いたくないし、かといって処女というには色っぽすぎる」「ぬけぬけとよく言う」)
「イッたことはあるか」
「はい…………昔……」
「オナニーは。したことがあるか。どのくらいしている」
「……月に一度か二度…………」
「やってみせろ。ここはお前の家、お前の寝室。お前はひとりきり、誰もいない。そうら、だんだん体がうずいてきたぞ。むらむらした気分になって、手がいつもやっているように動き出す」
 祥香の顔が赤らんだ。ラブシーンを演じる女優のように、まず胸のボタンを一つ外して首を傾け、長谷部に流し目を送る。手首をくねくねさせながら体をなで回し、膝を曲げてソファーの上に丸くなる。片脚を上げて、爪先から両手でさするようにして、スカートをゆっくりめくる。ひとつひとつの動作に全部気取ったポーズがくっついてくる。
 祥香の想像する麻鬼の秘め事スタイルはこういう風であるらしい。
 麻鬼は苦笑した。
 気を取り直し、冷静な声で長谷部にささやく。
「ほら、次のボタンが外れた。ブラが見えるわね。色は何? どんなデザイン?」
「……黒……白い肌にくいこむような、やらしい黒だ……」
 実際の祥香のブラは淡いグリーン。黒というのは長谷部の願望である。
祥香がスカートを脱ぐ。
「パンティも黒……男を誘ってやがる…………真面目な教師の服の下で、本当は男に抱かれるのを待ち望んでいたんだ……そうさ、俺がこれから男のよさを教えこんでやる…………もう俺から離れられないくらいに気持ちよくしてやる……」
 長谷部は興奮のあまり自分から野望をぶちまけはじめた。
それを耳にした祥香が応える。
「そう……そうよ、私、ほんとうは、とってもいやらしい女なの…………こんなエッチな下着つけて、男が声をかけてくるのをいつも待ち望んで、夜にはこっそりオナニーしてるのよ……!」
 麻鬼を真似した低い声で祥香はあえぐ。
 長谷部はたぎる情欲のままに『麻鬼』に色々な格好をさせ、服を脱がせ、床の上に四つんばいにして尻を突き出させた。
「……お前の体中が熱い。セックスがしたくてしたくて仕方がない。早くおまXこに入れてほしい」
「ああっ、ねえ、長谷部さん、はやく、麻鬼のおまXこに、ちょうだい!」
 祥香はそんなことを口走りながら腰を揺らし、濡れてしみのできたグリーンのパンティをずり下げた。
長谷部は服を脱ぐ。肉棒は血管が浮いてグロテスクなぐらいにふくれあがっていた。『麻鬼』の腰を抱え、一気に刺し貫く。
「うっ!」
「ああっ!」
「……ものすごく感じる。これまでで一番気持ちよかったときのことを思い出して。その感覚がよみがえってくる」
 麻鬼が暗示を与えると、つながった男女はどちらも魂消るような悲鳴を上げた。
「くううっ! すごい! せんせい! 気持ちいい!」
 祥香はすぐにおのれを失い、自分が『麻鬼』であることも忘れて泣き叫んだ。
「うあっ、何だ、絡みついて、うあ、み、美也子より、すごいぞ、これは……!」
 長谷部も声を上げたが、さすが長年野望を抱いていただけあり、陶酔しつつも自分が支配者であるということを忘れなかった。祥香のときと同じ手法で、まず快感暗示で絶頂に押し上げ、落ちつかせずにまた感じさせ、今度はいくら感じてもイけないように命令する。そうやって『麻鬼』が自分から屈服してくるのを待つ。
 そのはずだったが、麻鬼がそうはさせなかった。
「ものすごく気持ちいいわ。あと十数える。ひとつ数えるごとにあなたは高まっていって、十でもう我慢できなくなって射精してしまうの。どんなに我慢しても出ちゃう。でも、我慢すればするほど、出したときに最高の気分になるわ……」
 妖艶にささやきつつ背後に回った麻鬼は、長谷部の胸に手を這わせた。白磁のような指が、祥香では到底及ばぬなまめかしさで肌を愛撫し、乳首をつまんでいじくり回す。面白がって耳に熱い息を吹きかける。
「ほら、感じるでしょう。ひと〜つ。ふたあつ……。あなたのお○んちんが熱くふくらんできた。みっつう……。出しちゃってもいいのよ。ね、出して。とっても気持ちいいのよ。……」
「う……お、お前は俺のものなんだ! 俺の言うとおりにお前は感じるんだ! 俺のものになる、なる、な……あ!」
 長谷部は歯ぎしりした。
「そうよ、我慢するの。まだ我慢するの。でも、十って数えたら、これまで我慢していた分、爆発するみたいに射精するわ。はい、よっつ……。高まってくる。我慢できなくなったらいつでも出していいのよ。どこで出しても、その時にはこれまで味わったことのない快感が味わえるから。さあ、もっと気持ちよくなるわよ。いつつ……」
 脂汗を流して抵抗しながらも、長谷部は腰を前後に激しく揺する動きを止められない。犯されている祥香はとっくに「せんせいのものになる!」と絶叫し、忘我の境地に達している。
 麻鬼を支配したいという欲望がよほど強かったのか、甘美な拷問とでも言うべきこの責めに長谷部はカウント9まで耐え抜いた。
「あ、あ……気持ちいい、気持ちいい……」
 長谷部の目尻からは涙が流れている。すすり泣きの狭間からこぼれる声は甲高く裏返っている。
「……さあ、もう駄目。もうあなたは我慢できない。次であなたは最高の絶頂を味わう。オーガズムがあなたを襲う。あなたは破裂する。何もかも全部ぶちまける。……はい、十!」
 麻鬼が指を鳴らすと、まず祥香がびくっとなり、絨毯に爪をたてたまま、全身の張りを失って横倒しに倒れた。
 腰をつかんだ位置で固まった長谷部の両腕の間に、根元まで粘液にまみれた男根が抜き出され、宙に反り返る。
 長谷部は大口を開けて天井を向いた。
 その喉の底から地鳴りのような音が響き、次いで火山の噴火を思わせる凄まじい雄叫びがほとばしった。
 信じられないほど大量の白濁液が噴出した。
 二メートルではきかない距離を飛び、絨毯に、祥香の髪に、顔に、肩に、体に、雨のように音をたてて降りそそいだ。
 長谷部の体が噴出に合わせて大きく二度、三度と痙攣する。
 残滓が両脚の間にだらりと垂れ落ちると、上体も崩れ、自分の精液でどろどろになった祥香の上に倒れこんでいった。
 失神してしまっていた。

「男が気絶するところも悪くなかったわ」
「宗旨替えするか」
「男は簡単に落ちるからつまらない」
「助かるね。で、それから」
「後はいつもと同じよ。服従の暗示を与えて、キーワード埋めこんで。ただ、彼の計画については、一部始終聞かせてもらったわ」
「どんなものだった?」
「ずっとあたためていただけあって、結構周到よ。最初は祥香をめぐって何度かやりとり。それからデート。デートするたびに快感を与え、好意を持たせていく。夏休み前に、恋人宣言。夏休みの間に深い関係になったらしいと周囲に思わせ、秋口あたりにプロポーズ、年末に結婚。これが他人のことだったら、早いとは思っても、おかしいなんて思いもしないでしょうね」
「なるほど、それがプロポーズというわけか。君はもう彼のものになってしまっているのだな――――彼の中では」
「ふふ」
「今は、どの段階だ?」
「この間一度ドライブしたわ。ラブホテルに連れこまれた。丸めた布団相手に、彼ったら三回もチャレンジしたのよ。終わったあとも、幸せそうに布団をなでながら暗示をかけてるの。結構可愛かったわよ」
「それを見ながら君も燃えたのだろう。相変わらずいい趣味だ」
「美食家のあなたに言われたくないわね」
吸血鬼と狼男は冷笑を交わしあった。
「……これからはどうするのだ」
「いくつかテストをするわ。合格すれば夢を見たままでいさせてあげる」
「テスト?」
「そう、テスト」
「失格したら?」
「おしまい」
 事もなげに麻鬼は言った。

  終奏《Finale》

 その後、羽住祥香が問題を起こすことはなくなった。
 麻鬼の説教が効いたのだろうと吹奏楽部員たちは納得した。ただ当の祥香は、いつになってもそのことに触れられると顔色を変えて泣き出した。よほど恐ろしい説教をくらったのだろうと、また新しい伝説が生まれた。

 練習が終わり、部員たちが引き上げてゆくなか、ひとり小柄な女の子がクラリネットを抱えて小さくなっている。
 祥香は帰ろうとして、音楽室に入ってきたポニーテールの女子とぶつかりそうになった。
「……!」
 敵意丸出しで睨んできた相手に、祥香は平然と耳打ちした。
「佳奈、また居残りだって」
「え」
「じゃね、また明日」
 先日の喧嘩などなかったことのように親しげに言われ、本城万里江はきょとんとして祥香の後ろ姿を見送った。

 さらに数日後。
 麻鬼に連れられた祥香は蜂谷医院の一室にいる。
 心地いい夢の中から浮上してきた祥香は、椅子に腰かけているジャージ姿の女の子の姿を認めた。
「あれは誰?」
 祥香のもう一人の『ご主人様』の声がする。声はするけれどもどこにいるのかわからない。でも気にならない。祥香は答える。
「……万里江……」
「そうよ。あなたは彼女のことが大好き。大の親友。彼女にはどんな姿を見られても構わない」
 祥香は肩を抱かれる。見ると、男がいる。
「その人はあなたの恋人。あなたはこれから彼とセックスする。それを万里江に見られる。見られるととても気持ちいいわ。万里江はウブで何にも知らないから、きっとものすごく驚くでしょう。その驚く様子を見ると、あなたは興奮するわ。見せつけてやりたくてたまらなくなるのよ。オクテの万里江に、あなたの方がすすんでること、すごいセックスができるんだってこと、たっぷり見せてあげましょうね」
 祥香はソファーに男と並んで座った。
 万里江と向かい合うようになる。
 その後ろに黒い影が立つ。万里江に何か言っている。その声は聞こえる。しかし祥香にはまったく理解できない。その必要もない。
 それまで閉じられていた万里江の目がゆっくりと開いた。
 びっくりしたようだ。祥香は嬉しくなる。よく見ててね、あたしの万里江。男が顔を寄せて、キスしてきた。祥香は自分から舌を差し入れた。万里江の視線を感じる。体が熱くうずいてきた。
 祥香は濃厚なセックスをした。

 雨の季節が来た。
「中間テスト」

 麻鬼は長谷部の手を顔の前に持ち上げさせた。
「目を開けて。あなたの手をじっと見て。その手に、今から私がパワーを入れるわ。そうすると、あなたの手がかっと熱くなる。その手が熱くなって、火花がぱちぱち散っているみたいになる。三つ数えるとそうなる。ひとつ、ふたつ、みっつ。はい、手が熱くなる。手がものすごくちりちりしてくる。
 ……あなたの手は魔法の手になった。その手はすごいパワーを発揮するの。エッチしたいと思った女の人にその手で触ると、相手はどこを触られても感じてしまって、あなたの思い通りになるのよ。そういう手なの。あなたが本当に相手に欲望を抱いたときにだけそうなるのよ。普段は何ともない。心の底から相手をものにしたいと思ったとき、あなたの手は魔法の手に変わる」

「……それがテストか?」
「万里江に手伝ってもらうけど。後は彼の誠実さ次第ね」
「誠実さ?」
「ええ、そうよ」
「……嬉しそうだな」
「好きなのよ、こういうの」
「何をたくらんでいるかは知らんが、仏心を出すんじゃないぞ」
「あら、珍しいことを」
「あいつだけは特別だ」
「祥香が気に入ったの? それならわかるけど」
「うるさい。テストなんて生ぬるいことはするな。二度と生徒を洗脳してものにするなんてうらやましい、じゃない、破廉恥な真似ができないよう、徹底的にいたぶってやれ」
「そういうことなの。男の嫉妬は醜いわよ。それに、そこまでするほど悪行三昧ってわけじゃ……こんな会話、このあいだ逆の立場でしなかった?」
「知らんな」
「ずるい」

 休日、久しぶりの晴天が広がった。
 俺は公園で走っていた。
 いつものトレーニングジムではなく、なんだか太陽の下で体を動かしたくなって、わざわざ少し距離のあるここまで出かけてきたのだ。
 タオルを首に巻いて木々の間を走っていると、同じようなことをしている連中に次々と出会う。
 夫婦ならともかく、若いカップルを見かけた。珍しい。
「ほら、頑張れ頑張れ!」
「ひい、はあ……」
 大学生ぐらいか、やせぎすで見るからに運動不足の男が、溌剌とした少女に励まされつつ、引っ張られるようにして足を運んでいる。
 少女は髪をポニーテールにまとめ、タンクトップにショートパンツ姿。尻が高く、使い古された言い方だがかもしかのようによく引き締まった脚をしていた。すれ違いざまにちらりとのぞくと、こんなひ弱なやつにはもったいない、生き生きと輝くような美少女だった。
 さっさと追い抜いて、ランニングコースの出入り口である広場に戻る。
 ベンチに腰かけ汗をぬぐっていると、さっきのカップルがやってきた。
「ほれ、なんでもいいから飲み物買ってきな!」
 少女が男に言う。ぞんざいな言い方だが明るいのでかえって清々しい。見れば見るほどいい女だった。俺のものにしてやりたい。
 ……ん?
 手が何だか熱い。
 見てみたが異常はない。だが、広げた指の周辺に、かすかにスパークが飛んでいるみたいな感じがする。
 そうだ、魔法が発動したのだ。この手で触ればあの美少女は俺のなすがままになる。
 待てよと心の中で何かが警報を鳴らした。常識で考えてみろ。マンガじゃあるまいし、そんなにうまい話があるわけないじゃないか。
 手持ち無沙汰になった少女が、俺と同じベンチに座った。
 足をぶらぶらさせている。
 じゃあ、試してみよう。
「……おっと」
 俺は小銭を取り出し、わざと少女の足元にばらまいた。
「すみません」
 拾ってくれる少女の手をつかむ。
 少女ははっと俺を見つめた。
 その明るい瞳に、さざ波のようなものがかぶさった。
「あ……」
 少女は俺の手を見つめ、空いている方の手で自分の胸を抱くようにした。
 走った後で上気していた頬に、それまでとは違う赤らみが浮かんでくる。
 可愛い膝小僧をすり合わせた。
 間違いない。欲情している。
「お〜い」
 男の声がすると、少女ははっとして手を引いた。
 小銭を拾い集める俺を、足を震わせながら見つめている。
 突然少女は身をひるがえし、男の元に走っていった。
「……行くよ!」
「え、いきなり、どこへ?」
「どこでもいいから!」
 少女は男の耳元で何か言った。
 男の手から缶ジュースが転がり落ちた。
「え、そ、そんな、ここで?」
 きょろきょろする。
「馬鹿! いいから、早く!」
 少女は男の腕をつかみ、木が沢山茂っている方へ引きずっていった。
 まだぱりぱりスパークを飛ばしている自分の手と、地面に残された二本の缶ジュースを交互に見つめ、俺は大きく喜びの声を上げた。辺りからおかしな目で見られようともどうでもよかった。
 本物だ。
 手に入れた。
 俺は魔法の力を手に入れたぞ。

 家に帰ってからしばらく、手をながめてにやにやしていた。
 試してみたい。
 我慢できなくなって街に出た。
 電車に乗った。夜にさしかかった所で、適度にこみあっている。
 女性は沢山いるが、魔法が発動するほどいい女はいなかった。
 繁華街で探そうかと思ったとき、車両の反対側に目が引き寄せられた。
 車内でそこだけが黒々と沈んでいるように見えた。
 暗黒の中心に、一人の少女がたたずんでいる。
 俺の恋人の麻鬼を学校で見たときにもそんな印象を受けたものだが、こっちはもっと危険な雰囲気だ。麻鬼が夜の女王なら、こちらは闇の黒豹だ。乗客も本能的にやばいとわかるのか、その周囲に近寄る者はない。
 俺の手が真っ赤に燃えた。
 いい女だ。
 高校生ぐらいか。手首をつり革の輪にさしこんで、ぶら下がるようにしている。猫背だが、背は相当高い。麻鬼ほどではないにしろすらりとして、足が長い。よくよく見ればスタイルも抜群だ。半眼に閉じた、眠っているような目をしている。だらしない顔つきをしているが、元々の顔かたちはすばらしく整っている。
 原石のダイヤモンドだ。それも極上のやつだ。
 俺は彼女の所に行った。
「よお、久しぶり」
「……?」
 ちらりとこちらを見た目は、正直言って背筋の寒くなるようなものだった。底の見えない真っ暗な穴が二つ空いているみたいなのだ。
 さすがにすぐに手を触れることができず、立ちすくんでいた。相手は俺に関心を示さなかった。けれど、まるきり無視しているわけでもないのは、すぐに吊り輪から手を抜いたことでわかる。
一目でそれとわかるような不良ではない。しかし本当に危険なのはこういうやつだと教師の俺は知っている。
 普通に口説けるような相手に使うのはつまらない。こんな相手を落としてこその魔法の手だ。
「元気にしてたか? 最近どうしてる?」
 言いながら俺は肩に手を置いた。
 相手は驚いたように俺の手を見た。
 魔法の力が注ぎこまれていく。呼び起こされた快感が波紋のように体中にはしっていって、すぐにこの少女も激しく欲情する。
 少女の瞳に炎が宿った。
 そうだ、この力の前には、こんな不良少女だって屈服するのだ。
「次で降りるぞ」
 俺は声をひそめて言い、少女の手を握った。ますますパワーが流れこんでいく。少女はかすかに震えている。武者震いしているみたいだ。これからの悦楽を予感しているのだろうか。
 たっぷり楽しませてやる。
 電車が駅に入り、ドアが開いた。
 俺は少女の手を引いた。
 引く手に抵抗を感じた。
「この――――チカン野郎!」
 ……。
 雷鳴みたいな声だった。
 振り向いた次の瞬間、顔面に拳がめりこんで、俺の視界は真っ赤に染まっていた。

「赤点」
「終わったな、あの男も」
「私という『恋人』がいるのに、浮気するなんて。私を触っていれば無事ですんだのにね。残念」
「男にそれを要求するのは無茶だ」
「ふふ、魔がさしたのね、きっと」
 麻鬼は上機嫌にうそぶいた。
「魔、か。分解すると君の名前だな。確かに君がささやいたようなものだ」
「あら、私は何も命令はしていないわよ。破滅を選んだのは彼自身」
 麻鬼は歌うように言うと、テーブルの上の新聞に目を落とした。学校教師、痴漢で逮捕という記事が小さく載っていた。
「それにしても…………よりにもよってあの子に手を出すなんて」
「その女生徒、水南倉といったか。ものすごい手並みだったぞ。電車のドアが開いてから二秒としないうちに、顔面に拳が三発、重心のかかった膝へ前蹴り一発、とどめとばかりに脇腹に肘打ちひとつ。速すぎて、普通の連中にはただ突き飛ばしただけにしか見えなかっただろうな」
「見てきたように言うのね」
 蜂谷医師はひそかに入手してきた長谷部のカルテを麻鬼に手渡した。
「鼻骨……前歯五本……あごまで折れたの。怖いこと。肋骨も。膝は複雑骨折。荒れてるわね。万里江も心配してるし、そのうちカウンセリングしてあげなくっちゃ」
「そうしてやってくれ。もう少しで二度と自分の足で歩けなくなっていたところだ。過剰防衛にしてもやりすぎだ」
 麻鬼はうなずいて、それからあらと声をあげた。
「眼窩上縁部亀裂骨折ってあるわね。顔へは三発でしょう。鼻、口、顎……。これは?」
「ホームに放り出された彼を、痴漢と聞いて正義感に燃えた男が一発殴りつけたのさ」
「…………昨日、あなた、夕方出かけてたわね」
「そうだったかな」
 蜂谷医師は握り拳をさすってにやりとした。
「で、これからはどうするんだ」
「そうね……美也子さんは、洗脳を解いて、楽な出産ができるように自己催眠のトレーニングを積ませて、祥香は、お母さんをできるだけサポートするように性格改造するとしましょうか」
「うちに産婦人科ができるわけだ。長谷部は用なしか。さすがにこうなると可哀相な気もする」
 麻鬼は憐れむような眼差しを宙に向けた。
「羽住家を自分の城にすることだけ考えていればよかったのにね」
「亭主がいるだろう」
「消せばいいのよ」
 さらりと口にする。
「……おい」
「別に直接手を下させろなんて言っているわけじゃないのよ。人が不幸になるようなやりかたはいけないわ。無粋よ。
 そうじゃなくて、美也子さんにもっと夫婦愛を教えこむの。もっともっと愛のすばらしさを教えこんで、毎日のように御主人を求めさせる。できるだけ精力のつくような食事を出させる。お風呂に一緒に入ったときにものすごく欲情するようにする。そのほか、いくらでもやり方はあるわ。そしてじきに、年長の夫は快楽の極みを味わいながら、彼女の中で昇天するの」
 彼女のとんでもない発言には慣れているはずの蜂谷医師も、さすがにこれには青ざめた。
「腹上死って、男の理想の死に方じゃないの?」
「否定はしないが……しかし……」
「それから、幼子をかかえて悲しみにくれる未亡人に、娘が仲良くしていた教師という線から接近して、一年ほどしてから結婚するのよ。祥香とだっていいわ。
 そうして、新しい愛の巣を築き上げていくの。これでみんな幸せ。不幸になる人はいない」
「そ、それは…………そんなことは……うまくいくわけがない!」
 思わず医師は叫んでいた。戦慄が口走らせた悲鳴だった。
「ええ、そうでしょうね。でも」
 麻鬼は夢見る乙女のように口にした。
「そのくらいできる男だったら、本当に花嫁になってあげてもよかったわよ」
「…………ひとつだけ、聞かせてくれるか」
「なあに?」
「中間テストだったな、これは。
 では、期末……いや、最終試験までたどりついていたら、一体、何をさせるつもりだった」
「………………」
 麻鬼は答える代わりにサングラスを外し、サファイアブルーの瞳を静かに虚空に向けながら、繊麗な赤い唇を徐々に持ち上げ、いつになく大きな笑みを浮かべた。
 闇の中に咲いた血の色の妖花。
 蜂谷医師は慄然となりながらも、魅入られたようにそこから目を離すことができなかった。


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