蜘蛛のノクターン

第六章の一「深淵よりの刺客」

作:おくとぱす さん

「あなたはわたくしを愛しながら、わたくしといっしょにきっと死ぬのよ。さもなければ、わたくしのことを憎んで、憎みながらもわたくしについてきて、そして憎みながら死んで、死んだあとも憎みつづけるか。わたくし、うまれつき冷淡だけど、無頓着というのとはまたちがうのよ」

レ・ファニュ著『吸血鬼カーミラ』より

  第六章の一 深淵からの刺客

(一)

 降りしきる雨があじさいの色濃い緑の葉を叩いている。五分咲きのつぼみが雨滴を浴びるごとにぶるっと身じろぎする。
 前線が数日にわたって居座り、街は今日も陰鬱な雨雲に覆われていた。
 高台の上にある高陵学園も薄靄に閉ざされている。
 だがいかにどんよりとした天気であっても、女子校の華やいだ雰囲気を消し去ることはできそうにない。

 女の子の元気な声がやかましく飛び交う昼休み。
「……樋口さん、これはどういうこと?」
 廊下の明るさとは無縁の生徒指導室に、困惑した声が流れた。
 片方は英語の女性教師。薄手のスーツが似合う、なかなかの美人である。やや丸顔気味の、愛嬌のある顔立ちで、肌にもつやがあり、女子大生と言ってもまだ十分通用するだろう。
 向かい合って、彼女の受け持ちクラスの生徒である小柄な一年生が座っていた。
 二人を隔てる机の上には、先日行われた小テストが広げられている。
 名前の欄には樋口佳奈とあった。
 正答の赤い丸よりも、間違いを示すチェックがはるかに多い。
 だが奇妙なことに、丸は前半にばかり集中している。というより、前半だけにしか丸がなく、後半はことごとくチェックで埋まっている。
「何、この35って?」
「ラッキーナンバーです」
 佳奈は事も無げに答えた。女教師は全然悪びれたところのないその表情を探るように見た。
 生徒指導室にたった一人呼びつけられたというのに、佳奈は臆するどころか、どうして呼ばれたのかまるでわかっていない顔をしている。
 担任教師はあらためてテスト用紙に目を落とした。
 まず名前の横の、クラスと出席番号を書く欄。
 小さな四角の中に、35という数字が書いてある。35年35組、出席番号35番。学年、クラスはもちろんのこと、出席番号も違う。樋口佳奈の番号は21番だ。そもそも彼女のクラスの人数は32人である。
 それだけでも普通ではないのに、テストの内容がさらに奇妙だ。
 全部で十二問ある問題のうち、最初から第五問までしか解いていない。その全問が正解。しかしそこから後は白答。そして、解いた分の点数の合計が、ちょうど35点。
 さらに、答案の余白のあちこちに、35、三十五、参拾伍、Thirty-five、]]]Xと様々な字体で落書きがしてある。無論全部佳奈の字だ。
 異常であった。
 採点をしていて気づき、ぞっとした。
 それでも話を聞くだけ聞いてみようと呼び出したのだが、当の相手は何一つおかしいとは思っていないようだった。教師生活はまだ三年目だが、からかわれているかどうかぐらいはわかる。第一、この樋口という生徒はおとなしく、そんな悪巧みをするようなタイプではなかった。
「ラッキーナンバー……?」
「はい」
「そ……それって、占いかなんか? 今日の運勢とかなんとか……」
「朝起きたら、頭にひらめいたんです。今日は35の日なんだって」
 思春期の少女は、大人からみれば病気とも思えるような思いこみにとらわれることがある。それはよく承知していた。しかしいざそういう相手を目のあたりにしてみると、どう対処していいやら見当がつかなかった。
 話をした感じでは、佳奈は正常だ。このテストをのぞけば、どこもおかしなところはない。
「……樋口さんって、最近明るくなったわよね」
 探りを入れるのも兼ねて、話題を変えた。
「そうですか?」
 これはまぎれもない真実だ。
 入学してきた当初の佳奈は、はっきりいって友達など一人もできそうになかった。引っ込み思案で、しかも赤面症の気があり、話しかけただけで逃げ出してしまうようなところがあった。
 担任としては、彼女がいじめの対象にならないよう随分気をもんだものだ。
 吹奏楽部に入ったと聞いて、正直驚いた。一大決心をしたのだろう。その勇気を思って、心から応援した。
 だが同時に、耐えられずにすぐに逃げ出すだろうとも予想していた。
 何しろ顧問が“アレ”だから。
 どんなに気にくわない人間でも同じ学校に勤めている以上は同僚のはず。でも、どうしてもあの相手だけは同僚と思うことができない。
 音楽教師、氷上麻鬼。
 名前からしてまともではない。
 ドイツ人とのハーフということだが、それにしてももっと普通の名前にできなかったものだろうか。字面を見るたびにぎょっとしてしまう。最初から父方の姓でマキ=フォン=カルンシュタインと名乗ればまだそういうものとして受け入れられるのに。
 もの凄い美形だ。女性の美しさをたとえるのに凄いという言葉を使うのはふさわしくないけれど、“アレ”にはそれ以外の言葉が見つからない。平仮名で、すごい、ではない。漢字で、凄い。あそこまで完璧で隙がないと、どんな比喩も空しいだけだ。いくら見ても見慣れるということがない。人間とは思えないくらい。目が合うと、女同士なのに、まるで強烈なセックスの欲望にかられたときのように体が甘く痺れてくる。動けなくなる。いつまでも見とれてしまいそうになる。
 人間ではない。
 人間のはずがない。
 だから、“アレ”でいいのだ。
 つきあいが悪く、職員室ではあまり他人と会話しないし、音楽準備室に閉じこもっていることが多い。
 だが、問題はそういう表面的なことではない。
 人間同士がコミュニケーションを取るためには、感情表現が不可欠だ。
 とっつきにくいとはいえ、話しかければ普通に受け答えしてくるし、たまにではあるが笑顔だって見せる。生徒が騒げば注意する。朝夕会えば挨拶もしてくる。職員会議で校長が長く話すとつまらなさそうによそ見をしている。一度だけ、欠伸をしたのを見たことがある。
 けれど、そうした表現のことごとくが、どうしても本当のものと思えないのだ。
 仮面をかぶっている。仮面の下にあるのはこちらの理解の及ばぬ、人間ではない別の生き物ではないか。笑っているときでも、おかしくて笑っているわけではない。別次元の存在が人間の振るまい方を練習し、それらしく見せかけているだけなのだ。自分がこの学校に赴任してから今年で三年目。長くつき合えばつき合うほど、そんな風に思えてきて仕方がない。
 怖い。
 正直、近寄りたくない。
 生徒たちの間では、吸血鬼と呼ばれているらしい。
 聞いたときはなるほどと感心した。人間に似て人間ではなく、しかも美しく、恐ろしい。まったく言い得て妙だ。アレにふさわしい。
 いつもサングラスをかけている。目が弱いのだ。そのあたりも吸血鬼と呼ばれるゆえんだろう。そんな人間が教職にあること自体が間違いだとも思う。
 授業では中途退席者が他の教科に比べて多いらしい。あの目に見つめられているうちに、貧血みたいになるのだという。そういう子を生徒たちは血を吸われたと騒いで持ち上げている。馬鹿らしい。体育の時間に倒れる子だって同じくらいいる。最近の女の子は朝ご飯をまともに食べないから、貧血は不思議でもなんでもない。何であれ面白い方へ結びつけていくあたりはやっぱり幼い。そう思って納得しようとしているのだが、どうしても、まさか、もしや、本当にと疑う心を捨てられない。
 その麻鬼が顧問をしているのが吹奏楽部。
 毎年春には大勢の新入部員を集める。そして大半が一月ともたずに逃げ出す。性別を超えたあの美貌に引かれて入部したものの、思った以上に厳しい指導についていけなくなるのだという。
 佳奈も、そうなるだろうと見ていた。
 でも、違った。
 ゴールデンウィークが終わった頃から、佳奈は目に見えて明るくなってきた。
 部活になじんできたらしい。体育会などではよくある。他人が辞めていくところを踏みとどまることで自信がつくのだ。
 友達もできた。隣のクラスの須藤真央と特に仲がいい。真央は学年トップクラスの優等生で、美人で、何もせずとも自然と皆が頼りにし、場の中心になる子だ。同じ部活ということで親しくなったようだ。佳奈が真央に従うというのではなく、あくまで対等、それどころかどうも真央の方が佳奈に気を遣っている気配があるのがちょっと不思議だが、まあ教師の目の届かないところでは色々あるのだろう。
 成績も上がりはじめた。真央に教わっているのだろうか、この上がり具合だと期末試験では相当上位に食いこんでくるのは間違いなかった。
 だが、予想が外れたのを喜んでいた矢先へ、この答案だ。
「毎日どのくらい勉強しているの?」
「一時間もしてませんよ。予習、復習やって終わりです」
「へえ、すごいわね」
 謙遜だろうと思って聞き流す。もっとやっているはずだ。でなければこの点の取り方は説明できない。
 特定の点数を狙って取るというのは離れわざだ。それには全問正解できるだけの力がなければできない。だがテストの時、佳奈の手は時間の半分もたっていない時点で止まり、後は居眠りしていたのだ。信じられなかった。
「最近、教わったことが全部頭に入るんです。だから授業が面白くて面白くて」
 佳奈はそんなことを言った。冗談だと思って聞き流していると、証拠ですと、佳奈はすらすらと教科書の例文を何ページにもわたってそらんじてみせた。あっけにとられた。
「……塾とか予備校とか行ってるの?」
「別に。部活が忙しくて、そんな暇ありません」
 信じられなかった。
「部活はどう?」
 その話題になるとちょっと佳奈の顔は曇った。
「氷上先生はまだ怖いけど…………結構楽器できるようになってきて、面白いです」
 結局、最後まで35については納得いく理由は引き出せなかった。
「失礼しましたーっ!」
 明るい声を残して扉が閉じられると、女教師は謎のテスト用紙を前に、ため息をついて首をかしげた。

 佳奈は生徒指導室を出たその足で、音楽準備室に向かった。
 どうしてそちらに足が向くのか、自分でもわからない。昼練なら音楽室だ。練習している音がする。でもそっちじゃない。準備室に用事がある。氷上先生に会わなければいけない。用事ってなんだっけ。多分楽譜の整理だろう。そうに違いない。佳奈は自分を納得させる。
 準備室のドアに手をかけたときには心臓が痛いくらいに強く打っていた。怖い。氷上先生は怖い。大きい人は苦手、こちらの目をのぞきこんでくる人も苦手。なのに、不思議、嫌じゃない。……体が何だか変だ。熱でもあるみたいに、火照っている。
「失礼します……」
 石壁に囲まれた、薄暗い地下室に来たみたいな感じがする。ここは怖い場所。そのはずなのに、来るべき場所に戻ってきた、そんな感じがした。
 顔を上げると、いつも通り、氷上先生が座っている。そこだけ影になっているみたい。とても綺麗。さっきまであんなに怖かったのに、姿を見た途端になんともなくなった。自然とため息がこぼれる。
「何?」
 サングラスの奥の瞳が光る。
 背筋のあたりをぞくぞくとしたものが駆け抜けた。震えた。胸が痛い。痛い……乳房がぱんぱんにふくらんだみたいになって、痛い。乳首がじんじんする。熱湯がにじんでいるみたい。
どうして?
 わけがわからないままに、奥へ進んだ。勝手に足が動く。先生の向かい、楽譜棚のところへ体を運んでいく。この部屋に来たときにはそこに立つ。朝、友達にあったらおはようと言うのと同じくらいに当たり前のこと。
「……ちょうどいいわ、そこのCD出してくれる」
「は、はいっ!」
 やっぱり用事はこれだったんだ。安心。
「下から二段目の、右側。モーツァルトの“ハフナー”」
「……どれですか?」
「交響曲第35番」
「!」
 言われた途端に心臓が大きくどくんと鳴った。
 体が重くなった。腰のあたりが特に。体の中身がどろどろに、骨まで溶けてしまったようになる。下半身の感覚が消える。
(何、これ……どうして!)
 サンジュウゴという響きがエコーがかって体の中を駆けめぐる。
 幸福感が心を満たす。快感の大波が押し寄せてくる。
(あ…………ダメ! ここ、学校、先生の、あの先生の前なのに…………したい! が、我慢できない!)
 わずかな理性の抵抗は圧倒的な洪水にたちまち押し流された。指先でCDを適当にかき回しながら、もう片方の手を胸にやった。ブラジャー越し、制服の上からでも乳首が硬く尖っているのがわかる。軽く一揉みしただけで快感が電撃となって身の裡を突っ走った。戸棚にもたれかかって息をつく。スカートの中で、おもらししたみたいに下着がみるみる濡れてくる。止まらない。すぐに太腿に流れ落ちてくるだろう。
「何をしているの?」
 すぐ間近から声が降ってきた。氷上先生がすぐ背後に立っている。足音ひとつしなかったが、わかる。体の深奥が凍りつく。
「い、いや、いえ、な、なんでも……!」
 慌てて胸から手を離した。羞恥と緊張で頭はたちまち痛いくらいに冷える。だが体のうずきが押さえられない。CDを取り出そうとするが、手が震えて見当違いの場所ばかりをひっかく。体に火がついたみたいだ。今すぐ服を全部脱ぎ捨てて、体中をいじり回したい。
「……ちょっと刺激が強すぎたみたいね。今度はちゃんと忘れてもらうわ」
 何のことだろうと考える暇もなく、肩を押さえられた。
 正面を向かされる。サングラス越しの瞳を見上げるとどうしてか体の力が抜けてきた。全身を燃やす性欲はそのままなのだが、意識がそこから遠ざかっていく感じで、気にならなくなってくる。頭も霧がかかったようにぼやあっとなってきた。おかしいとは思わない。溶けていくみたいないい気持ち。もっとこの感じに深く身をひたしたい。
「佳奈」
 麻鬼は言うとサングラスを外した。
 サファイアブルーにきらめく美しい瞳を見た途端、佳奈は自分が誰であるかを“思いだした”。
「名前を言ってみて」
「あたしは……奴隷……35号……です……」
 佳奈はそう口にして、恍惚と体を揺らめかせた。
 以前とは違う。35号とはどういう意味なのか。
「何があったの?」
「……さっき、長峰先生に呼ばれました……」
 佳奈、いや35号は、問われるままに今し方の担任との会話について話しはじめた。

(二)

 その前日のことである。
 吹奏楽部の練習が終わった後、電気を消した暗い音楽室に、影のようにひっそりと立ついくつかの人影があった。
 麻鬼と、麻鬼の操り人形と化した女の子たちだ。
 麻鬼はサングラスを外している。
 メトロノームがかち、かちとゆっくり音を刻んでいる。
「これからあなたたちにテストをします」
 麻鬼は言うと、皆に服を脱ぐよう言った。全員がすぐに従った。それぞれ特徴のある裸身がなまめかしく浮かび上がる。
「それでいいわ。じゃあ座りなさい」
 次々と床の上に腰を下ろしてゆく。佳奈は若干緊張気味に正座、真央は色っぽい斜め座り。万里江は秘所を堂々さらしてあぐらをかき、祥香は膝をかかえた体育座り。片膝立てた大胆な座り方の子もいる。
 麻鬼はかたわらの椅子に腰かけた。脚を組み、靴を脱ぐ。窓の外は雨。カーテンの隙間から水の幕を透かして射しこむ外の光が、指の長い、雪よりもなお白い美しい足を、淡くほの光るように浮かび上がらせる。
「さあみんな、私の足を見なさい。ようく見なさい……」
 麻鬼の足がゆっくりと左右に振られた。低く深い声が、反響を吸収するようになっているはずの音楽室に、長い尾を引いて、幾重にも重なって流れてゆく。
 女の子の頭がゆらゆらと右に左に揺れはじめる。
「じっと見るのよ。だんだん他のものが気にならなくなってくる。この足を見ていると、だんだん頭の中が暗あくなって、他のものは何一つ見えなくなってくる。見えない、見えない、何にも見えない。よそを見てみてもいいわよ。でも何も見えない。見えるのはこれだけ。自分がどこにいるのかもわからなくなってくる。でも全然怖くない。私の足を見ていると、怖いことは何もない」
 麻鬼は全員の意識を集中させると、少し間を置いて、指揮者が次の曲を始めるように、別な暗示に切り替えた。
「これから私が数を数えるわ。すると、あなたはだんだん感じてくる。数をひとつ数えるごとに、体中が熱くなって、気持ちよくなってくるの。数が増えていくにつれてどんどん激しく感じてくるわ。でもイクことはできない。どんなに感じても、どんなにイきたいと思っても、数を聞いているだけでは、絶対にイクことはできないの。よく覚えておいて、もう気が狂いそうになっても、数を聞いているだけでは絶対にイけない。いいわね。
 でも、イク方法はちゃんとあるから大丈夫。それは、この足に触ること。私の足に触ればそれだけで、これまで感じた以上にものすごいオーガズムに達することができるのよ。わかった? 今言ったことが全部のみこめたら、両方の手の平を床に付きなさい」
 メトロノームがかち、かち。
 やがて、皆が言われた通りの格好をした。
 麻鬼の指が鋭く鳴る。
「はい、その手はもう離れない! ぴったりくっついてしまって、どうやっても取ることができない!」
 それから麻鬼はゆっくりとカウントを始めた。
 ひとつ、ふたつ。数えるたびに、脳天を貫くような音を立てて指が鳴る。
 数字が増えてゆくにつれ、女の子たちの呼吸が荒くなってきた。
 体をもじもじと揺すり、肩で息をする。切なげな吐息を洩らす。床に接着された手を離そうとしているのか、上体を左右に揺すってもがいたりもする。
 十を数える頃には、全員がよがり声をほとばしらせるようになっていた。
「十一。……ほうら、あなたの大事なところに、熱いものが出入りしている。動いて、こすれて、とてもいい気持ち。十二……」
「ああっ!」
「はあっ!」
「いや……いやあ!」
「気持ちいい! あん! いい!」
「駄目えっ!」
 まだ甲高く軽やかだった皆のあえぎが、十五を数えるあたりから獣じみた悲鳴に変わってきた。
 腰を激しく揺する。首をのけぞらせ、たまに息を吸うとき以外には絶え間なく叫び続ける。泣き叫びながら、振り子人形みたいに頭を左右に振りたくる。目も口もいっぱいに開ききって全身をがたがた震わせている者もいる。音楽室中に淫蕩な臭気がたちこめた。みな飢えた牝豹みたいに麻鬼の足に見入る。それだけがこの快楽地獄から解放してくれるのだ。だが手が床に貼りつけられて動かせない。もがく。暗示は強力で、どうやっても手を離すことができない。
 カウントがさらに進む。
「二十。……」
「もう駄目、駄目、だめええ!」
 真央が絶叫した。
 その手が離れた。欲望が暗示を破ったのだ。麻鬼に向かって突進しようとする。だが腰が抜けている。豊かな胸を揺らしながら床を這う。あふれた愛液がかたつむりみたいにうしろにぬらぬら糸を引いて光る。
「いいわよ」
 麻鬼は優しく言って足を差し出した。
「最高の気分になれるわ」
 真央は震えて行方も定まらない手を伸ばした。
 麻鬼の足を押しいただいた途端に、全身に電流を流されたようになって、声も出せずに仰向けに転がり、釣り上げられた魚のように大きく数度のたうち、動かなくなった。
「うあああっ!」
 次いで、万里江が叫んだ。
 あぐらをかいた格好で前に手をついていた万里江は、まず組んでいた脚を開き、動かせない手ではなく腰の方を前に進めて、四本の指を床にくっつけたまま、両の親指を持ち上げて秘所に触れさせることに成功していた。
 秘裂と陰核を夢中になって刺激しつつ、じりじりと麻鬼の方へ身を寄せてゆく。手は床から離れないが、ずらすことはできる。禁止暗示をそう都合良く解釈したらしい。
 そちらを向いた麻鬼が、足を伸ばした。万里江は唾液がこぼれる唇を突き出して、幼児が母親の乳房にむしゃぶりつくように、足の指にキスをする。そのまま意識が飛び、糸の切れた操り人形のようにかくんと後ろへ倒れていった。幸いポニーテールがとぐろを巻いて後頭部のクッションになった。腰がひくつき、両膝を立てて開いた股間から、勢いよく小水が噴き出した。まだそこにあった手がびしょびしょになった。麻鬼があらかじめ椅子の背にかけてあったタオルをかぶせる。
 祥香は元々こらえ性がないので、麻鬼の暗示にもかかわらず早々にイッてしまっている。だがそのせいでかえって連続的なオーガズムの嵐に巻きこまれ、他の誰よりもものすごい叫び声を振りしぼり、忘我の境地に突入していた。両手もさっさと床から離して自分の胸と秘所を激しくいじり回している。麻鬼の足のことも忘れてしまっているのか、一人で勝手に快感をむさぼり、やがて体力の限界を超えて動かなくなった。
 そうやって次々と倒れてゆく中、佳奈一人が最初の姿勢のままでいた。
 もちろん平気なわけがない。それどころか、他の誰以上に激しい快感が身の裡を燃やしている。内臓がことごとく煮えくずれ、全身の毛穴から熱蒸気となって噴き出しているようだ。気が狂う。というより、もう発狂しているのかもしれない。思考能力は崩壊していた。目鼻口すべてから溶けた体の中身を垂れ流している。体の下にも、汗と愛液が混じり合った水たまりが広がっていた。失禁もしていたかもしれない。わからない。眼球が飛び出しそうなほどに大きく見開いた目は、とめどなくあふれる涙に覆われてまばたきさえしない。それでも体はなお動かさず、首筋や腕、腿のあたりにくっきりと浮き上がった筋ばかりが、意図してしようとしても到底不可能な激しさで振動している。もしどこかが切れたとしても、今の佳奈は認識することができないだろう。もしかしたらそれさえも快感になってしまうかもしれない。
 麻鬼の足に触れない限りイけない。手が床にくっついて離すことができない。今の佳奈に残っているのはこの二つの暗示だけである。
 他の者が暗示を破り、誤魔化し、あるいは無視して己の快楽に身を投じてしまったのに対して、佳奈は律儀にその両方を守り、自分の魂が火だるまになっているのに、なお耐えている。
「……三十」
 麻鬼がじっと佳奈を見下ろしながら言った。もう残っているのは佳奈だけだ。後はみんな淫靡な骸と化して転がっている。
 薄闇の中で、麻鬼がかすかに微笑んだのを佳奈は見た。
 指が鳴った。カウントの声はもう聞こえなかった。限界を超え、佳奈の目がぐるりと反転した。暗黒へ落ちてゆく。もう戻ってこられない。でも怖くない。御主人様が笑いかけてくださったのだ。佳奈は白目をむいて、土下座するように前のめりに床に頭を沈め、奈落の底へ深く深く沈んでいった。

 気がつくと、温かかった。
「……大丈夫?」
 この世の誰よりも美しい、唯一無二の御主人様が佳奈を見つめていた。
 天国に来た、と真っ先に思った。
 地獄かも知れない。それでもいい。このひとと一緒にいられるのなら、また今みたいな業火に焼かれてもかまわない。
 やがて意識がはっきりしてきた。
 麻鬼の膝の上に、赤子のように抱きかかえられていたのだ。
 なんてもったいないことか。こんなあたしを、あたしみたいな小さな者を、御主人様が抱いてくださっている!
 佳奈は歓喜のあまり泣き出した。
「……よく頑張ったわね。お前、素晴らしいわ」
 見回せば、裸の女の子たちが死屍累々。
「どれだけ私の言うことをきいてくれるかのテストだったんだけど…………お前が一番優秀よ」
「あ……ありがとうございます!」
 佳奈はしゃくり上げた。そんな風に評価されたのは生まれてはじめてだった。これまではいじめられ、無視され、片隅で小さくなって生きてきたのだ。思い出したくない暗い中学時代。今は違う。御主人様のものになったことで、自分は生まれ変わった。もう離れられない。どんなことがあってもついていく。
「この間の盗聴器のお手柄もあるし、まだ一学期だけど、お前はもう昇格させてもいいわね。番号をあげる」
「ばん……ご……う……?」
「佳奈」麻鬼はやや硬めに口にした。佳奈はそれを片仮名でカナと聞いた。奴隷であるときにはそれが自分を表す。ただしあくまでも仮の名前だ。本当は奴隷に名前はない。奴隷は奴隷にすぎない。カナというのは人数が多くなってきたための、便宜上の呼び方にすぎない。
「お前は今日から35号よ。いいわね」
 その言葉は佳奈の耳に、天上の楽の音のごとくに響いた。
 声の響きそのものにまず陶然となり、意味を理解するまでに少しかかった。
 そして、天にも昇る心地になった。
 他の女の子たちは誰も名前はいただいていない。マオ、マリエ、ショウカ、マナミ、サキ、エリカ、キョウコ。みんなこの素晴らしい世界の仲間。でもここでの真の名前を持っている者はまだいない。
 自分が最初だ!
 番号で呼ばれるのは、奴隷のうちでも特に優れた、御主人様への忠誠心が高い者だけなのだ。
 自分がその一員に!
 勝利感、達成感にカナは酔った。性的な興奮も含めて、これ以上ない至上の快感に溺れた。
「御主人様……」
「何? 35号」
「殺して……あたしを、殺してください……」
 カナ……否、35号は泣きながら本気で言った。あまりに幸せなので、この一瞬が過ぎ去ることに耐えられそうになかった。
「あら」
 麻鬼は興味深げに35号を見つめ、それから笑った。
 薄暗い室内で、その瞳が青い炎となって冷酷にきらめいた。
「そんな楽しいこと、許すと思っているの?」
 慈悲のかけらもなく言われ、その声と妖しい笑顔に35号は骨の髄までしびれた。瞬時に強烈なオーガズムに達し、灼かれた脳髄が真っ白な灰になって、何もわからなくなった。

 佳奈が小テストで担任を戦慄させたのは、この翌日である。

(三)

 雨は連日降り続いた。
 日曜日には久々の青空が広がったものの、週が開けるとまた雨雲が重く立ちこめた。
 高陵学園では毎週月曜日に朝礼がある。
 夏服の女生徒がずらり居並ぶ体育館は、小鳥のさえずりのようなおしゃべりで埋めつくされる。
「ねえ、聞いた? 中等部の先生、チカンやって捕まったんだって!」
「ええっ? 誰、だれ?」
「福田らしいよ」
「え、あたしは長谷部だって聞いたけどな」
「うわ〜、サイテー、長谷部先生カッコよかったのに〜」
「ゲンメツう〜」
 だがいつもより声は低い。大半の生徒は興味深げな視線を隅にいる一団に注ぎ、ひそひそと何かしら言い交わしている。
『え〜』
 校長が咳払いする。
『今日から二週間の間、皆さんと一緒に勉強する教育実習生の方々を紹介しましょう』
 生徒たちが注目していたのはこれであった。
 八人の男女が壇上に上がってきた。
『現国を担当します、十条です……』
『数学の立川です。みなさんと仲良くやっていきたいと思います』
 雰囲気がわかっているので、大体において教育実習は母校で受けられるよう学生は希望する。だから女性がほとんどだ。それでもたまに男性が混じる。この学園の大学部所属で、母校への申し込みが間に合わなかったり就職活動とぶつかって時期が合わなかったりした者だ。二人いる。容赦なく品定めする生徒たちの視線が、その時だけは色気づき、なまじ格好良かったりすると拍手もものすごい。
 順繰りに自己紹介してゆく。
 相手が女性だと大半の生徒は顔も名前も数秒で忘れてしまう。
 だが、最後の一人が名乗った時、誰もがその教生を強烈に記憶にとどめた。
 理由は二つ。
 ひとつは、教生の立場と無難な紺のスーツに似合わぬ、大粒のルビーの指輪をはめていたこと。模造品であろうが、その真紅のきらめきは見つめる皆の目を奪った。
 もうひとつは、
『朝霞令子です』
 その教科。
『音楽です』
 一瞬にしておしゃべりが途絶え、しんとなった中、ただ空気ばかりが不穏にゆらぎ、乱れた。
 振り返る勇気のある者はいない。だが体育館の後方、影にひそむように立っている美しい長身を、誰もがすぐ背後に立っているかのように意識し、水を浴びたような心地になった。
 朝霞令子は異様な雰囲気を察し、上品に整った顔立ちをわずかに引きつらせた。それでも落ち着いた声でよろしくお願いしますと挨拶し、丁寧に頭を下げた。

 音楽室に入ってきた朝霞令子は、五線譜の刻まれた黒板の前に立っても生徒達の方には目もくれず、呆けた表情で横に立つ美身に見とれていた。
「どうしたの」
 麻鬼に言われてようやく我にかえり、半開きになっていた口を殊更にきつく引き締めて生徒達に向き直る。
 その表情がもったのはほんの数分だけだった。音楽室の後ろの方に移動した麻鬼にたちまち視線が吸い寄せられ、またとろんとなる。
「センセー」
 リコーダーを手にした生徒が朝霞令子の前でひらひらと手を揺らした。
 練習する生徒達の間を回っていた令子は、はっとなって振り向く。
「え……あ、何?」
「気持ちはわかるけどさ、ダメだよ、しっかりしてないと」
 生徒の口元には同情の笑みがたたえられていた。令子も笑い返した。連帯感が生まれた。
「えっと、あなた、名前は?」
「羽住。羽住祥香」
 祥香は垂れてきた長い髪を背中にやると、声をひそめて言った。
「きれいでしょ、あの先生」
「…………そうね」
「吸血鬼ってあだななんだよ。血ぃ吸われないように気をつけてね、センセー美人だから、狙ってくるかもよ」
「……ありがと」
 令子は営業スマイルにもにた作り笑いを浮かべた。けれどもすぐにまたその視線は影のような美身を求めてさまよいはじめるのであった。

「朝霞さん」
 その授業が終わった直後、音楽準備室で静かな声が流れた。
「は、はい!」
 令子は両腕を体にくっつけて直立不動の姿勢になった。
「そんなに固くならないで。授業中も、ずいぶん緊張してたわね。最初だから仕方がないけど、もっと気楽にしていなさい」
「……はい」
「それから、その指輪」
「………………」
「きれいだけど、学校につけてくるものじゃないわね」
「……すみません……」
 神妙に口にしたが、すぐに、でもと続けた。
「これ、わたしにとって大事なもので……外すわけにはいかないんです……。すみません……」
 サングラスの下で、麻鬼の瞳が興味深げにきらっと光った。
「……わけありなの。面白そうね。どういうわけか、私にだけ、教えてくれない?」
 これでも親しもうとしてしゃべっているのだろう。だが薄暗い空模様の窓の外、鈍色の光が彫りの深い顔立ちに不気味な陰翳をつけており、この世のものとも思われない美貌を、魂を譲るという言質を相手から取るべく奸智をめぐらす悪魔のように見せていた。
 令子の顔面は蒼白に変わった。もつれそうになる舌を懸命に回転させて、なんとか令子は言葉を搾り出した。
「……す、すみません、これは、どうしても…………」
「そう」
 意外にも麻鬼はあっさりと引き下がった。
「誰にでも言いたくないことはあるものね。無理には聞かないわ。でも、教えてくれると嬉しいわ」
 麻鬼は言いながら、人前では絶対に外さないサングラスの縁に手をかけて静かになでさするようにした。
 令子はその指の動きを見ているうちにふらっと重心が前に移ってたたらを踏んだ。はっとなり、大きくまばたきをして首を振る。
 その様子を麻鬼は値踏みするように観察していた。
「朝霞さん」
「……は、はい!」
「あなた、前にどこかで会ったことない?」
「い、いえ…………」
「そうよね。ごめんなさい、数年前教えた子にどこか似ていたから」
「わたし、別の高校ですよ」
「そうね。……じゃあ、実習録忘れないでね」
「はい……」

 教育実習生たちの指導にあたる主事の教師が、険しい顔をした。
「その指輪、また今日もしているのですか。教師としてですね、華美な装飾品はどうも……社会常識という点からいっても、それではあなたの教師としての適性までも、疑わないわけにはいきませんよ」
 ねちねち言われる。
 だが、当の朝霞令子は平然としていた。麻鬼に対した時とはまるで別人で、自信に満ちた笑顔を浮かべ、断固として応えた。
「もうしわけありません。でも、これはわたしにとって大事なものなので、外すわけにはいかないんです。どのように評価なされても構いませんから、お気になさらずに」
 相手はたじろいだ。ぶつぶつ言いながら踵を返す。
 教生の控え室にされている会議室には、他の者もいる。出身校の違う彼女に遠慮半分、厄介者にかかわりたくない気持ち半分で、微妙に距離を取っている。
「ねえねえ、朝霞さん」
 そういう空気には頓着しないタイプと見える、活発な感じの教生が話しかけてきた。
「どう、調子? あたしもうくたくた。まだ水曜日なんだよねえ。先は長いわ。でもほんと、授業って面倒よねえ。予定と時間が全然合わなくってさあ。こんなことならもうちょっと事前準備しときゃよかった。実習録だって、あの先生細かいとこまでうるさいから、書くの時間かかるのよね」
 しばらく愚痴ったあと、令子の方へ水を向ける。
「それはそうと、その指輪」
「……」
「すごく目立ってるよ。やっぱりちょっと考えた方がいいんじゃない」
「ありがと。でも、これ、わけありなの」
「どんなわけよ。教えてよ、ね」
「だ〜め」
「けち。でも、それ生徒もマジ気にしてるよ。そろそろ来るんじゃないかな」
「来る? 何が?」
「新聞部。あたしの頃は大したことなかったんだけど、今元気のいい子がいるみたいで、すごいんだよ」
 鞄の中から取りだした校内新聞を令子に見せる。
 カラフルな大活字と扇情的な見出しが躍っていた。女性週刊誌、いや、スポーツ新聞のようだ。写真もついている。剣道着姿の凛々しい女生徒。最近はパソコンで編集をするので、素材さえあればいくらでも画像が取りこめる。
「……“剣道部主将、涙のリベンジ宣言! インターハイ、瑛華の笠井には負けない!”」
「それ、インターハイに今年も出たいって言っただけだし、ライバルは誰って聞かれて、注目していた選手の名前出しただけなんだって。それでこんなに書かれちゃって」
「……面白いじゃない」
「自分が的になってもそう言える?」
「う〜ん……」
 令子は裏面をめくった。先生の素顔というタイトルの記事の中で、美術教師の不倫疑惑が暴露されていた。
「これは……ちょっときついわね……」
「でしょ。今日の昼休みあたりに、きっと来るわよ」

 本当にやってきた。
「朝霞せ〜んせいっ!」
 曇りではあったが雨が降っていなかったので、令子は仲良くなった生徒たちと一緒に屋上でお弁当を食べていた。
 そこへ現れた。
 赤い紐で左右をくくった、可愛らしい髪型をしている子だった。髪型ばかりか体も小さく、大きな目に色濃い瞳が印象的だった。制服を脱がせてランドセルを背負わせれば小学生と言っても通用するだろう。
「ごはん終わりました? 今インタビューよろしいですか? あ、うち、新聞部の二年、迫水千尋いいます。よろしく」
 可愛らしい甲高い声に似合わぬ関西風のアクセントでまくし立ててくる。
「……いいけど……ここで?」
「今日じゅうに教生先生全員のインタビュー取って、週末に新刊出さんとあかんのですわ。先生方おられる間でないと意味ないもんで。そうゆうことで、ご協力お願いしまあっす!」
 真正面から向き合ってみると、第一印象以上に目のひかりが強い。好奇心に満ち、生き生きときらめいていて、つい引きつけられてこちらからのぞきこんでしまう。まばたきするたびにぱちぱち音が聞こえるようだ。
 どうやらこの可愛い子が先ほど聞いた“元気のいい子”らしいと令子は見当をつける。
 いいとは言っていないのに、千尋は生徒の輪の中に座りこんでメモを取りはじめた。ついでに隣の子の弁当箱からシュウマイをひとつつまんで口へ放りこむ。かなり図々しいが、陽気で、憎めない。手早くマイクの用意もした。人の指くらいの細い棒で、コードが千尋の制服の胸ポケットへ続いている。
「ほんじゃま、ぷろふぃーるっちゅーやつからいってみましょか」
 令子の名前と大学、出身地を聞く。
「趣味は」
「う〜ん、ペットを飼っているんだけど、これって趣味かな?」
「どんなんです?」
「可愛い子猫なの。今、わたしの言うこと何でも聞くように、しつけてる最中」
「ちょっとちゃうような……」
「育てるんじゃなくて、しつけるのが好きなの。生まれたばかりのをもらってきて、トイレとかのしつけをきちんとしてから飼い主に返してあげる……トレーナーみたいなことしてるんだけど」
「……変わってはりますなあ。十分趣味ですわ、そりゃ」
 千尋は円陣を作っている生徒たちを見回した。
「……なんか、みんなが子猫ちゃんみたいに見えてきましたわ。せんせえ、実はそっちのケがあるんちゃいますやろな?」
「まさか」
「ほんじゃ、次。特技は?」
「どんな猫ちゃんでもなつくようにさせられるわ」
「へえ、そりゃすごい。……ほんまにそっちの趣味ちゃうんでしょうな」
「実はそうなの。……って言った方が、記事としては面白いんだろうけど、おあいにくさま、わたしはノーマルよ」
 令子は笑いながら、左手の中指の指輪をさするようにした。
 千尋がめざとく気づいた。
「……せんせえ、美人やから、モテますやろ。今つきあってる彼氏、何人ぐらいいはります?」
「いきなりね。そんなことまで書くの?」
「ノーマルだっちゅう証明に」
「ま」
「それは冗談やけど、せんせえのその指輪、みんなめっちゃ気にしてはるんです」
「仕方ないわねえ」
「彼氏にもろたとか」
「ふふ、秘密」
「あ〜、聞きたいわあ」
「駄目」
「ほな、彼氏のタイプは。どないな男が好きなん?」
「そうね…………背が高くて、何があっても動じない、わたしを導いてくれるような人、かな。黒い服が似合ったら最高」
 ひゅうひゅう、と千尋は口を尖らせて茶化す。
「それがせんせえの彼氏ですのん? 大学生? それとも、担当教授とか……せんせえの大学やったら、一流の音楽家ばんばんおるんちゃいます? そう言や、うちの出身ちゅーわけでもないのに、生徒のうちがこう言うのもなんやけど、どうして実習とはいえうちなんかに来はったんです?」
「昔、ちょっとだけこの街にいたことがあったの」
 令子は金網越しに海を見た。
 灰色がかった凪いだ水面に、雲間から光が射し、そこだけ群青色にきらめいている。
 遠い目をしながら、また指輪をさする。
「あ、もしかして、その指輪と関係が」
「ふふ、まあね」
 千尋ばかりか、他の生徒たちも盛り上がった。
「聞きたい聞きたい、教えて教えて!」
 インタビューも忘れたように千尋が迫った。目がきらきらして、怖いくらいだ。視線に射抜かれるような心地になる。この目で迫られたら、普通の生徒では秘密を隠しとおすことは難しいだろう。
「大事な人との思い出ってやつね」
「うわお! そこ、そこ、もう一言!」
「だ〜め。秘密」
「そないなこと言わんで!」
「駄目よ。これは秘密なの。他のことなら教えてあげるけど、これだけは駄目」
「けち〜。ほな、奥の手や」
「あら、どうするの?」
「催眠術かけちゃる。うちの言うとおりに、何でもしゃべるようにしちゃる」
 千尋はそんなことを言い出した。

 令子はきょとんとした。
「へえ、催眠術」子供をあしらうような、余裕の笑みを浮かべる。
「面白いわね。どうやるの?」
「この手見てえな。よおく見てるんやで」
 千尋は握った手を令子の顔の前、額ぐらいの高さに差し出した。
 令子ばかりか、その場の全員の視線がそこに集まる。
 これも小学生みたいにちっちゃく、綿アメでも握っているのが似合いそうな色白の手。
 最初はゆるく握っていたのだが、だんだんと力がこめられてきて、小指が内側にもぐってゆき、手首のあたりに筋が浮いてきた。
「んんん……!」
 それまでの軽やかな声が嘘のように低音でうなり、拳に力を入れるのに合わせて、シンセサイザーの音程ダイヤルをひねったみたいに高く上げてゆく。
 冗談だとばかり思っていたのが度肝を抜かれ、誰もが真顔になった。
 皆の視線を拳に引きつけ、
「ハッ!」
 武道の気合いのような強烈な発声と共に、五指を勢いよく開く。
 皆の体がびくっと震えた。
「……そら、三つ数えたらせんせえは何でもうちに白状してしまうようになるんや。いち、にいの、さん!」
 令子は数回まばたきし、それからくすくす笑い出した。
「すごい、何かほんとに言わなきゃいけない気分になってきた」
「よっしゃあ! んじゃ、その指輪の秘密! さあさあ、せんせえはもううちの言うことはなんでも聞くんや、さっさと白状したらんかい!」
 令子は苦笑した。千尋も照れたように笑いながら手を引っこめた。
「あなた、結構上手ね。本格的に練習してみたら? 気の弱いひとだったら本当にかかっちゃうかもしれないわよ。ね、みんな」
「うん……ちょっとびっくりした……」
 生徒たちは半ば呆然としている。お弁当の箸を取り落とした子もいた。千尋がそちらへ目をはしらせる。一瞬、千尋の目がこれまでとは違う不気味な光を放ったように見えた。“売り物”を吟味する奴隷商人の目つき、と言ったら近いだろうか。
 令子に向いたときにはもうそんな気配はどこにもなかった。気のせいだろうと令子は思った。
「せんせえは気ぃ弱あないんか?」
「残念、わたしは違うみたいね」
「ちぇえ、おもろない」
 千尋は気を取り直して真面目に質問してきた。
「うちの学校の印象はどないです?」
「そうね、みんなお行儀良くて、さすがは名門校ね。もし本当の先生になれるんだったら、ここに来たいわ」
「お上手でんな。ダンナにゃかないまへん」
 千尋が扇子で頭を叩く仕草をし、笑いを誘った。
「それに、生徒のみんなも、先生も、きれいなひとが多いのでびっくりしたわ」
「ほんま? 毎日見とるせえか、全然そないな風に思ったことないんやけどなあ」
「レベル高いわよ、うちの大学に比べたらずっと」
 言われて千尋も他の生徒たちも嬉しそうにした。
「放課後のあれは驚いた。大学ならまだしも、高校で」
 校門の前に、迎えに来た運転手つきの車だの、金持ちの彼氏の外車だのがずらりと並ぶのである。高陵学園の名物といってもいい光景であった。
「うちはお嬢様多いさかい」
「先生方も、結構若い人多いじゃない。よそから三美人って呼ばれてる先生がいるって聞いたけど」
「英語の長峰、美術の榛名、体育の藤堂やろ?」
「あたし、榛名嫌い。あいつ、性格悪いよ」
「藤堂だって、彼氏いない歴二十四年」
 他の子たちが口をはさんでくる。双子校の男子高等部、あるいは近隣の諸校でも有名で、何かと男関係の噂が絶えない美女教師たちに対して、あからさまな嫉妬の色がうかがえる。この手の話題に盛り上がるのは女性ならどの年代でも同じだ。
「ねえ」しばらく聞いてから令子は言った。
「あの先生は入らないの?」
 それが誰を指すのかは言うまでもない。
 しんとなった。
 そういうあらゆるランク付けに関して麻鬼は別格。この学園における暗黙の了解事項である。
 令子は空気の変化を読んでそれを悟った。急いで笑顔をつくり、次の質問を千尋に求めた。

(四)

 教育実習はつつがなく進み、実習生たちも当初の緊張が取れて教壇になじんできた。
「新聞、出たわよ」
 放課後、実習生の一人が会議室にカラフルな冊子を持ちこんできた。
 教育実習生全員のインタビューが、顔写真入りで並べられている。
「へえ。……思ってたよりおとなしいじゃない。安心した」
「なになに、じゃあ書かれるとまずいネタあるんだな? きりきり白状せい、この不心得者めが!」
「きゃあ、お許しくださいお奉行さまあ!」
 令子はひとしきり笑うと、まだ音楽準備室でやることがあると言って部屋を出た。
 廊下の角で、いきなり生徒とぶつかった。
「大丈夫?」
「すみません……」
 どこか上の空で相手は言った。千尋ほどではないにしろ、小柄だった。その手には今見せられたばかりの校内新聞が握られている。それを歩きながら熱心に読みふけっていたのだ。ぶつかるのも無理はない。
「それ、そんなに面白い?」
「あ…………い、いえ……」
 はじめてそこに人間がいるのに気がついたように女生徒は言い、すぐにまた新聞に目を落とし、詫びも言わずに歩き去ってゆく。
「確か……樋口……佳奈、ね」
 令子はその後ろ姿を見送ってつぶやいた。
 それまでの人好きのする笑顔が影をひそめ、別人のような酷薄な笑みがその唇に浮かんだ。
「…………どうやら気づかれていないようだし、そろそろはじめましょうか」
 そして静かに後を追っていった。

 佳奈は屋上に出た。
 風が強い。濃い灰色をした雲のかたまりが次から次へと形を変えて空をはしってゆく。
 人がいないか見回してから、もし誰かが来ても見つからないように、建物の影に身をひそめる。
 腰を下ろすなり、手の中の新聞を、まるでそれが最愛の恋人に変身したとでもいうかのように、胸に抱きしめて頬ずりした。
「ああ…………」
 腕をそろそろとスカートの中へさしこんでゆく。ためらいがちなその動作は自分で自分をじらすため。瞳は酔ったようにうるみ、頬は上気して、半開きの唇を舌が淫らになめ回す。
「あ……!」
 眉にしわが寄り、かすかな悲鳴をあげてうつむいた。肩が波打つ。両の膝が電流を流されたみたいに震え、大きく開いてゆく。
「あ……あん、はあっ、はっ、あ……あっ!」
 スカートの中で指がどのように蠢いているものか、際限なく噴き出してくるあえぎ声を歯を食いしばってこらえる。
 くちゅ、くちゅと粘液をかき回す音がこぼれてきた。
「ああ……駄目、ああ……いい! ん!!」
「何をしているの?」
 いきなり声が飛んできた。
「!」
 愕然となった一瞬、風の向きが変わってスカートが大きくめくれ上がった。ずり下げられたパンティは太腿の付け根のところで細く丸められており、慌てて抜き出した指先はべっとりと濡れて糸を引いていた。
 快楽は霧消し、青ざめて立ち上がったときには、腕を組んだ相手がコンクリートの壁を回って姿をあらわしていた。
 教生の先生だ。
 それも、音楽の。
「あなた、確か……樋口さん、だったわよね。吹奏楽部の」
 佳奈は死人みたいな顔色になった。まさか覚えられていたとは。これで逃げ出すことはできなくなった。担任の長峰先生に報告され、後で呼び出されて、かえって大恥をかくことになるだろう。
「何をしていたのかしら、こんなところで?」
 スカートの、指が触れた所に、風でもう乾燥してきた愛液が白いしみになって浮かび上がってくる。それにも気づかない。足ががくがくして、貧血を起こしそうだ。
 相手は歩を進めてきた。ルージュの濃い唇の端が笑いの形に持ち上がっている。どうしてこの場面で笑うのか。気味が悪い。悪寒をおぼえた。
「いけないことをしていたんでしょう?」
 言われて心臓が口から飛び出るかと思った。息ができなくなり、苦しくなってぜえぜえ喉を鳴らした。
「え……あ…………」
 こういう時には親指を内側に巻きこんで手を握る。そうあの人に教えられた。そうすれば勇気が湧いてくる。心が落ちつき、冷静に対処できるようになる。
「……何か御用でしょうか?」
 以前の自分なら、とてもこんな風にふてぶてしく言い放つことはできなかった。あの人のおかげだ。あの人って誰だっけ。今はそれよりも目の前のこと。
 しかし……この先生は、何のつもりだろう? 叱るでもなく、動転した様子もなく、薄笑いを浮かべて自分を観察している。
 弱みをつかんだのをいいことに、脅すつもりか。
 負けるもんか。
 だが、言われたのは意外なことだった。
「……その中の、誰のことを思って“して”いたの?」
 まだ腕に抱いている校内新聞のことだと理解するまでに少しかかった。
「武山君? 立川君? それとも、あなたそっちの趣味あるの? まさか、わたしの写真でオナってたわけじゃないわよね?」
「………………」
 まさかこのお嬢様風の教生がそんな露骨な言い方をしてくるとは。この際開き直ってやろうと身構えていた佳奈は意表を突かれ、何も言えなくなってしまった。
「貸しなさい」
 いつの間にか目の前にまで詰め寄られている。新聞がほとんど奪い取られるようにして相手の手に移った。
「ふうん。……」
 目を落とす。佳奈は居心地の悪い沈黙にじっと耐えた。
「この写真あんまり気に入ってないんだけど……わたしだったら嬉しいわね」
 艶っぽく笑った。
 佳奈ははっとした。相手の言葉の内容もあるが、それ以上に、そのどこか妖しい笑顔が、あの氷上先生と似ていたからだ。
 もちろん、あんな神々しいまでの美しさはない。美人だが、あくまで一般人の範囲内の美人だ。けれど、この、目が否応なしに引き寄せられる雰囲気――蜘蛛の糸を投げかけてくるような、蠱(まじ)を含んだ気配は…………同じだ。
 やっと名前を思い出す。朝霞……令子先生だ。
 令子はいきなり身を寄せてくると、素早く背後に回りこみ、左腕で佳奈の左肩を抱いて体重をかけてきた。
 膝で膝の後ろを突かれる。
 足が砕け、尻餅をつくように座らせられた。令子も一緒にかがみこむ。
「もしかして」
 佳奈の膝に新聞を置く。気を取られた隙に、令子の右手がスカートの中へ入りこんできた。
「きゃあ! ……」
「あなたが見ていたのはここかしら。――――高陵新聞、第35号」
(え!)
 35と言われても佳奈には何のことかわからない。
 だが、それがオナニーを誘ったのも事実だ。
 先刻、回ってきた新聞を何の気なしに受け取り、流し読みしてゴミ箱に放りこもうとした時、題字の下に通算号数が書いてあるのに気がついた。
 途端に激しく欲情した。
 なぜ、と冷静に考えることもできない強烈な欲求だった。とにかく一度声をあげてイかないとおさまりそうになかった。それで部活の前に新聞を抱えてここへ来たのだ。
 自分でも、ただの数字でどうしてとは思う。
 しかし、佳奈自身にすらわからないそれを、なぜこの教生先生が知っている?
 驚きのあまり閉じる力が緩んだ隙に、令子の手が太腿を割った。
 今は醒めているとはいえ寸前まで洪水だった秘所は、何の抵抗もなくぬるりと指を受け入れてしまう。
「あっ!」
 嫌悪感よりも、快感が突き上げてきた。
 指が動いた。佳奈より長くしなやかな指が奥深くまで侵入し、巧みなテクニックでかき回しはじめる。これまで誰にもこんな風にいじられたことはない。あの人にも。あの人は直に触ってくださらない。それだけが不満だ。でも、あの人って誰? 再度ちらりと思い、脳裏に青い光がきらめいた瞬間、体に官能の火がついた。燃え上がる。
「あん! い、いや! や! やめて! やめてください! あっ!」
「教えてくれたらやめてあげる。誰のことを思っていたの? それとも、これ? この数字?」
「やめ……あ……や、やめて……あっ……」
 令子の腕をつかんだ手からみるみる力が抜け、屈服を示して垂れ下がる。
 高台にあるので周囲から見られることはないとはいえ、常識ではこういうことをする場所ではないむき出しの空間。生徒を教えるべき立場にある先生、しかも同性の相手。倒錯的な状況がさらに佳奈に愉悦をもたらした。佳奈は酔ったようになり、自分から足を大きく開き、さらなる侵入を誘う。
 ほんの数分としないうちに佳奈の膣が激しく痙攣した。悲鳴は重ねられた令子の口に吸いこまれていった。
「ふふ、可愛いわ、あなた」
 令子は背中をコンクリート壁につけて座った。スカートにもかかわらず足を大きく開いて伸ばす。自ら安楽椅子の背もたれとなって佳奈を背後から抱きかかえた。佳奈はこれが夢か現実かわからなくなって放心しており、されるがままでいる。
「さあ、深呼吸して……」
 令子は佳奈をあやすように、耳元でそうささやいた。語尾をやわらかく伸ばした、心に忍びこんでくるような声だった。
「深あく吸って、深あく吐いて。そうよ。体が楽になってくるわ。息を吸って……吐いて……深あく吸って……深あく吐いて……。どんどんリラックスしてくるでしょう。体の力がどんどん抜けて、とってもいい気持ちになってくる……」
 佳奈はまだ身も心も絶頂の余韻にひたっており、けだるさの泥濘の中から起きあがれない。体をゆっくり揺さぶられるのが気持ちいい。半ば惚けたような表情のまま、言われるままに深呼吸を続け、脱力してゆく。
 令子は左手を、指を伸ばして佳奈の目の前にかざした。
 ぼやっとした佳奈の視線が、そこに光る真っ赤な宝石をとらえる。
「さあ、これを見て。じいっと。ようく見るのよ。きれいでしょう」
 かすかに手首を振ると、曇天の下でも細かなカット面が鮮やかに光る。
「きらきら光って、きれいでしょう。ようく見て。きらきら光っているわね。きらきら、きらきら光って、とってもきれい。ほうら、まぶしいくらいにきらきらしてる。もっと見て。じっと見て。きれいな光をようく見て。まぶしいでしょう。目に痛いくらいにきらきらしてる。光と一緒に頭に熱いものが入ってくるわ。ほうら、だんだん熱くなってきた。まぶしい。だんだん見ているのがつらくなってくる。でも目を離せない。光がどんどんまぶしくなってくる。どんどん頭に熱いものが流れこんでくる。まぶしくて、熱くて、目を開けているのがつらい。目を閉じていいのよ。まぶたがずしんと重くなってくるわ。ほうら、もう目を開けていられない。目を閉じましょう」
 佳奈のまぶたが簡単に落ちた。
「はい、すうううっと力が抜ける。体の力がすうっと抜ける。どこにも力が入らない。だらーんとなって、だらーんとなって、深い、深あい所へ入っていく……」
 その言い回しはどこかで聞いたことがあった。
 声こそ違うが、大好きな言葉だ。いつも言ってほしいと思っていた言葉。逆らう理由はどこにもない。
「樋口さん、わたしはあなたが好きよ。だから、わたしの言うことをきいて、わたしの言うとおりにして」
 その声は明瞭に佳奈の中に響いた。
 甘美なぬくもりが全身を満たした。
 わたしも好き。そう答えを思い浮かべた途端に、心が溶けた。
 自我の枠が水のように透明になり、佳奈は形のないしずくとなる。溶けた佳奈は、赤い光がゆらゆら揺れる水面を遠く見つめながら、深い深い、青い海の底へ沈んでゆく。
「いい気持ちでしょう。これであなたはわたしの言うことならどんなことでも聞けるようになった。あなたはわたしの奴隷。わたしがあなたの御主人様よ」
「どれい……ごしゅじんさま……」
 佳奈は切なげな吐息と共に身をくねらせた。その言葉がたまらない幸福感を呼ぶ。この世に、奴隷になって御主人様に命令される以上の快感があるだろうか。
「立ちなさい」
 佳奈は言われるままに立ち上がった。
 令子も立ち、スカートの尻を払いながら暗示を与える。
 佳奈はスカートをめくった。
 濡れたパンティを下ろし、かがみこんだ。
 ここはトイレなのだった。個室の壁がすぐそこにある。囲まれている。佳奈は迷うことなく風の中に放尿した。
「そうよ、いい子ね」
 身を震わせて立ち上がった佳奈の股間を、令子はポケットティッシュでぬぐってやる。
「この子はOK。さて、次は、と。……」
 吹奏楽部が練習を始め、足下の教室からトロンボーンの音が響いてきた。
 令子は曇天の下でひとり、うっすらと笑った。

 週が変わった。
 今日も雨。
 出勤してきた長峰教師は、職員室の前で立ち話をしている二つの人影を見た。
 足が止まった。
 片方が、樋口佳奈だったのだ。
 あれ以来、佳奈に対してどうしても身構えてしまう。
 その後おかしな点の取り方をすることもなく、別段奇妙な行動を取るわけでもない。気にしなければそれですむ話なのだが、喉に刺さった魚の骨のように、いつまでも気にかかって仕方がない。
 相手は、教生だ。確か音楽。
 年齢の近い教生と生徒が友達のようになるのは珍しくない。
 二人は楽しそうにしている。
「あ、おはようございます」
 佳奈が自分に気づいて頭を下げると、心臓がどきんと鳴った。
「おはよう……」
 動揺が顔に出なかったか気にしつつ、笑顔をつくる。
「じゃ、朝霞先生、また後でね」
 佳奈が小走りで去ってゆく。
「……あの子、うちのクラスの子なのよ。おとなしいから心配してたんだけど……仲良くなったみたいね」
「変わった勉強法やってるみたいですよ。その話してたんです」
「え」
「ヨガだか気功だか……精神集中のための、特別な方法があるんだそうです」
 それか、と内心に声を上げた。
「へえ、どんな?」
「まず深呼吸するんです。それから……」
 丁度そこへ別の教師がやってきた。指導主任だった。朝霞教生は呼ばれて行ってしまった。

 授業がないところで小テストの採点をした。別のクラスのものなのだが、あんなおかしな回答がないか、つい身構えてしまう。
 一通り終わったところでトイレに立った。
 出た所で、さっきの教生に出くわした。
「あら、どうしたの?」
「今は授業ないんです。準備室にいてもよかったんですけど、あそこ、ちょっと……」
 わかるわ、と、口にこそ出さないが深く同情した。
“アレ”と同じ部屋に二人きりというのは、つらいだろう。
 それはそうとして、朝の話の続きを聞きたかった。
 佳奈の勉強法についてだ。
 どう切り出そうかと思っていると、相手が妙なことを言い出してきた。
「先生……ちょっと、ご相談したいことがあるんですけど…………今、よろしいですか?」
「いいけど……私に?」
 相談事なら指導主事に持ちこむべきだろう。
「先生でないと駄目なんです」
 真剣な表情だった。
 誰にも聞かれたくない様子だったので、職員室の隣の小会議室に入った。教生が控えに使っている会議室の半分ほどの広さしかない。朝霞令子は自分で鍵をかけた。それでもまだ邪魔が入らないか気にしている。
「で……何?」
「……何から話せばいいのか……」
 混乱した様子でうろうろ歩き回る。ただならぬ雰囲気だ。これは本当に重大なことかもしれない。もしかしたらアレがらみかも。不穏な予感におののく。
「落ち着いて。まず座りましょう」
 半分は自分に言い聞かせるための言葉だった。
 令子は椅子に座り、手を胸の前で組みあわせた。腕がかすかに震えている。心なしか顔色も悪い。
「どうしたの、一体」
 聞かれても答えず、祈るようにしばらく目を閉じ顔を伏せ、たかぶりを静めようとしているのか、大きく深呼吸していた。
 と、急に顔を上げて真正面からこちらを見た。ぎょっとする。真剣な目だ。よほどのことだ。気を引き締める。
「……樋口さんと仲良くなって、色々話をしたんです」
「例の、勉強法ってやつ?」
「ええ。
 …………先生、催眠術って信じます?」
 予想外の言葉に戸惑う。
「催眠術? そりゃもちろん、知ってるけど……」
 大学で受講した心理学でちょっと触れていたような……でもそれはもう忘れてしまった。テレビや映画なんかで出てくるものの方がまだわかる。結構怪しげな、きわものめいた印象がある。
「樋口さん、自己催眠を練習して、勉強ができるようになってきたらしいんです」
「……そういえば、そんなこともできるらしいわね」
 自律訓練法、イメージトレーニング、自己暗示、性格改造。習ったこと、テレビ、本屋で見た背表紙、そう言った記憶を探って相づちを打つ。
 それが成績上昇の秘密かと納得した。それほど突拍子もないことではなかったので安心する。もっとも35についてはまだ謎だが、ひとつわかったことでこれもいずれ判明するだろうと楽観した。
「で、それがどうしたの?」
「樋口さん、それを氷上先生から習ったそうなんです」
「………………」
「氷上先生、結構催眠術について詳しいんです。吹奏楽部のみんな、普段は普通なんですけど、部活の時は様子が変なんです。特に音楽準備室にいるとき。催眠術にかかったときって、気持ちよさそうな顔してるんです。気持ちいいらしいんです。ふわーって力の抜けた、幸せそうな顔して、先生の前でふらーっと立ってるんです……」
 脳裏にイメージが浮かんだ。“アレ”が、サングラスの奥の目をぎらぎらさせて、生徒の前に指を突きだしている。『あなたは眠くなる……眠くなる……』テレビで見た催眠術師みたいに怪しげな声を出し、生徒の目がだんだんと閉じてゆく。黒い影のような“アレ”が両腕を大きく広げる。吸血鬼のマントに恍惚となった少女たちは捕らえられる。顔をそむけさせ、白い喉に美しい顔が迫る。開いた口の中には鋭い牙が真白く光る……。
 窓の外で雷鳴が鳴ったような気がして慌てて振り向いた。雨ではあったが、静かだ。錯覚だ。
 緊張のあまり、いつのまにか両脚を固く閉じていた。生唾を飲んだ。今のイメージは異様なまでに鮮明で、迫力があった。教師と生徒、女と女、あってはいけない光景。だが……吸血鬼となら……背徳、しかし痺れるような……魅惑的な……。
 いつの間にか喉を差し出す乙女は自分になっていた。喉を見つめる氷のような視線を感じていた。もうどうなってもいい。許されざる快感の期待に胸がときめく。
(そんなわけないでしょう!)
 大慌てでうち消した。相手はアレだ。絶対にそんな風になるわけがない。アレは人間。名前があり、家があり、職についている、並外れて綺麗なだけの、血の通った人間なのだ。
「……で、それがどうしたの?」
 動揺を隠すためにことさらに強い声が出た。
「わたし……見ちゃったんです……」
 令子の声が震えた。
「先生の机に…………その…………あれが……」
「何?」
 令子は頬を赤くし、ためらいがちに告げた。
「男のひとの……の形の……」
「!」
 大人のおもちゃ。バイブ。ローター。縄。ムチ。手錠。知っている限りのそういうものが浮かび、自分も真っ赤になる。
「な……!」
「本当なんです! 先生の机の、一番下の引き出しの奥に……バッグの中に、それが……!」
「………………」
「まさか……まさかとは思うんですけど、氷上先生、生徒に催眠術をかけて、そういうもので…………催眠術にかけられると抵抗できなくなるんです。かけた人の言うとおりに、どんなことでもしてしまうんです。音楽室って外に声が漏れませんから、それをいいことに……」
「まさか……」
 令子と同じことをつぶやいた。理解力がすぐについていかない。令子が催眠術についてはやけに断定的にしゃべることをおかしいと気づきもしない。
 真っ先に、面倒なことになると思った。
「気のせいよ、きっと……」
 もしそれが本当で、マスコミに知られでもしたら、学校がめちゃくちゃになる。
 催眠術という所がまず怪しい。本当にそんなことがあるのだろうか。
 大人のおもちゃにしても、アレが彼氏と使うのかもしれない。アレの私生活など想像もできないが、深くつき合っている相手がいても不思議はない。むしろそうであればほっとするだろう。アレも自分と同じだったということで。自分には今二年越しでつきあっている男がいる。体の関係もある。たまには変わったプレイをしてみたいと夢想したこともある。アレだって同じように考えたのかも。今晩彼氏の家に持ちこむつもりだったものを、運悪く教生に見つかったのだ。だったらむしろ同情する。
「でも……」
「落ち着いて。はっきりした証拠はあるの? まずそこから確かめないと。闇雲に騒ぎ立てても自分が恥をかくだけよ」
 もしや、本当にと思う気持ちも半分ほどあったのだが、口に出してみるとやっぱり令子の気のせいだと思えてくる。
 令子は目尻をぬぐった。崇拝するようにこちらを見た。
「やっぱり長峰先生、頼りになりますね……。男の先生はもちろん駄目だし、他の先生でも大騒ぎされてしまいそうだと思って…………よかった、長峰先生に聞いてもらえなかったら、どうしようかと……」
「伊達に年とってないわよ」
 令子はほっとしたように笑った。その顔は幼い感じがした。やっぱり大学生、まだ若い、後輩だ。頼りにしてもらったことで余裕が生まれた。あらためて見てみれば、きれいな子だ。美人なのにつんとしたところがない。音楽の練習に明け暮れていて自分の値打ちを知らないのだろう。社会に出たら男が放っておかないに違いない。
「そうですね……証拠もないのに、決めつけちゃいけませんね……。
 まだ一週間ありますから、色々注意してみることにします……」
「わたしはいつでも相談に乗るから、何かあったら教えてね」
「ありがとうございます……」
 令子は頭を下げ、癖なのか、右手で左手の指輪をさすった。
 ついまじまじと見てしまったこちらの視線に気がついたらしく、令子が左手を持ち上げる。
「……これ、やっぱり気になります?」
「まあね。あ、でも、説教する気なんかないから、安心してね」
 その前の話が緊張を強いるものだったので、軽い話題に気が楽になっていた。令子も懸念が払拭されたと見え、明るい笑顔を浮かべた。
「それって、やっぱり男のひとから?」
「……誓いの指輪なんです」
 令子は五本の指を立て、中指の指輪を見せつけるようにした。
「誓い?」
「ええ。大事なひととの」
「大事な……」
 謎めいた笑顔を見て、ただの恋愛ではないと直感した。迷宮の入り口をのぞきこんだような気分。好奇心がむくむくと身をもたげてくる。
「これ、大きいでしょう。みんな模造品だと思っているようですけど、実は、本物なんです」
「え」
「堂々としていれば案外気づかれないんですよ。リングは銀、土台はプラチナ。スタールビーはもちろんミャンマー産。これ、粒の大きさもそうですけど光加減が独特のもので、今なら、そうですね、数百万円します」
「!」
 どうしてそんなものを大学生が、とはとっさに考えられない。金額を聞かされた途端に、真紅の輝きに目を射抜かれたような心地がした。意識が宝石のきらめきに埋めつくされる。人として、女性として生まれた以上仕方のない反応だ。
「……というのは、嘘」
「…………え?」
「実はガラスです」
「……びっくりさせないで。からかうのはやめてよね。そうならそうと、最初から……」
「それも嘘。実は本物なんですよ」
「あのね」
 むっとした。無言の怒りを読みとったか、令子は肘を机につき、立てた腕を前に滑らせてきた。
「どっちか、わかります? 見分け方は、簡単なんですけど」
「………………」
「ルビーって、鋼玉の一種で、硬度は九、ダイヤモンドの次に硬い石なんです。だから、簡単には傷はつかないんです」
 言いたいことはわかった。指輪は水平より高い位置にある。表面をじっくり観察する。
「カット面を見てください。特にその角のきらめき加減を。鋭く、きらっと光るかどうか。にせものならすり減って鈍いはずです」
 令子は手首をゆっくりひねった。宝石が角度を変える。細かなカット面が外の光と蛍光灯を反射して、精緻にきらきら輝く。きれいだ。言われた通り、目をこらして見分けようとする。
「ようく見てください。ダイヤなら小さくて見づらいでしょうけど、このくらい大きいなら離れていてもわかるでしょう。だんだん近づけていきますから、わかったところで言ってくださいね」
 赤い光が徐々に大きくなってきた。審美眼を試されている。早く見つけてやろうと意地になった。目をこらす。右に左に宝石は角度を変え、そのたびに細かなきらめきがあらわれてくる。
 じっと見る。見つめる。きらきら光る。赤いきらめき。きれいな光。強く見過ぎて目が疲れてくる。でもわからない。もうちょっと近づいてくれば……もう少し……。令子の腕が静かに左右に揺れ始めたのにも気づかない。揺れる宝石を必死に目で追い続ける。
 揺れる。揺れる。大きく揺れる。
「ようく見て……目を離さないで……余計な力を抜いて……光だけを見て……気持ちを楽にして……何も考えないで…………」
 令子が優しい声で色々と話しかけてきている。聞いているうちに、言葉の意味を考えることができなくなってきた。世界が遠くなってきた感じ。目の前で揺れる赤い宝石だけを見続ける。
「目が疲れてきましたね。目を閉じていいですよ。体の力がすうっと抜けて、まぶたが重たーくなって、重ーくなって、はい、閉じる、閉じる、閉じる……閉じる。目を閉じてもよく見えます。もっと大きく、よく見えます……」
 言われるままに目を閉じた。
 暗い中に、赤い宝石が浮かんでいた。大きい。だんだん大きく、目を開けていたときよりずっと鮮明になってくる。何十ものカット面がいちどきにきらきら光っている。深い光。綺麗だ。何を見ようとしていたのかわからなくなる。もうどうでもいい。この輝きをずっと見つめていたい。赤い宝石が視界いっぱいに広がる。暖かいものが波のように広がってきて、自分を包みこむ。いい気持ちだ。とてもいい気持ち。幸せな気分。こんなに落ち着いた気分になったのは久しぶりだ。
 令子が机をトン、トンと指で叩く。ゆったりしたリズム。その音が頭の中にしみ通ってくるよう。
「今から数を十数えます。すると、先生は今よりもっと深い、深あい所へ沈んでいきます。それはとても気持ちのいい所です。数を数えるたびに、先生はぼうっとなって、何も考えることができなくなって、ふわあっとしたいい気持ちになっていきますよ……」
 数字が増えていくたびに、本当に頭の中が空っぽになってきた。体のどこにも力が入らなくなって、髪の毛さえも重く感じられてきた。机を叩く音を聞いているうちに、頭が後ろに傾いてゆき、大きくのけぞった。口が馬鹿みたいに開くが気にならない。気持ちよくて、そんなことはどうでもいい。
「はい、もうあなたは何もわからなくなってしまいました。自分が誰なのかも、どこにいるのかも、頭がぼうっとなって、考えることができません。考えたくありません。わたしの言うとおりにしていると、いつまでも今のいい気持ちのままでいることができるんです」
 腕が軽くなって上に持ち上がっていった。足が左右に大きく開いた。立ち上がって上着を脱いだ。自分は草原に立っていた。涼しい風が吹いていて、草の上に寝転がって雲を眺めた。誰も見ていないので、ちょっとエッチな気分になって、指を大事なところに忍ばせてみた。ものすごく感じた。何をしても幸せな気分だった。
 自分は催眠術にかかっているらしい。これがそうなのか。悪いイメージがあったが、あれは嘘だった。そう言えば、ついさっき色々聞いた。催眠術にかかったので、自分は令子のなすがままになってしまう。でもなんていい気持ちなんだろう。いつでもこんな気分になりたいかと聞かれた。はいと心から答えた。
 肩をぽんと叩かれる。沈みなさい、と言われて今のように肩を叩かれると、すぐにこのいい気分になることができるのだ。安心した。
 これから目がさめます、と言われた。もっといい気分にひたっていたかったのに、数を数えられるとだんだん頭がすっきりしてきた。少し残念だった。
「はい」
 指を鳴らす音を聞いた途端、世界が元に戻った。
「どうでした、催眠術にかかった気分は」
「気持ちよかった……」
 催眠中に起こったことは、夢を見ていたみたいでぼんやりとしか思い出せない。
 だけど、と不思議に思った。どうして私に催眠術を?
 疑問を口に出す間もなく、顔の前に手をかざされた。真っ赤な指輪に気を取られる。
「沈みなさい」
 肩を叩かれた。
 意識が溶けた。
「今度はもっともっと深い所へ入っていくことができます……深く、深く……」
 考えることができなくなった。

 朝霞令子は首を垂れている長峰教師を前に、妖しくほくそ笑んだ。
「さあ、次はあなたの番ですよ、氷上先生」
 窓の外には相変わらず雨が降りつづけている。 

「絶対に、許さないから」

 低いささやきはしずくだけが聞いた。


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