蜘蛛のノクターン

第六章の二「三つの操り人形」

作:おくとぱす さん

 第六章の二 三つの操り人形

(五)

 火曜日。
 空は今日もぐずついて、時折ぱらぱらと雨滴がしたたってきた。

「ここ最近、若者によって金品を強奪される事件が急激に増加しております。歓楽街ばかりでなく住宅街でも発生しているので、十分に注意するように警察から厳重な指導がありました。生徒には、危険な場所には近づかないこと、部活でやむをえない場合を除いてできる限りすみやかに帰宅すること、遅くなった場合には必ず複数で一緒に帰ることなど、強く指導してください。場合によっては先生方自身で送っていくこともお願いします。……」
 高陵学園、朝の職員会議。
 職員室の壁際に教育実習生たちが立っている。
 朝霞令子の指には相変わらず真紅の指輪がきらめいている。教育実習もあと数日を残すのみとなった今となっては、もはやあきれはてて誰も文句を言わなくなっていた。
視線を横へ流す。その先には英語の長峰教師がいる。
 彼女は今朝、いつになく清々しい気分で目が醒め、今もまだその感じが続いているはずだ。
 何も覚えていないのはその表情で明らかだった。
(可愛い可愛い子猫ちゃん)
 令子は頭の中で呼びかける。
 もしもそれが実際の言葉となって発せられたならば、清楚な女教師はこの場で服を脱ぎ捨てて四つんばいで令子のもとに身をすり寄せてくるだろう。
 つい一時間前まで彼女は猫だった。全裸のまま朝食のミルクをおいしそうにすすり、皿の隅々まできれいに舐めとった。
 令子はひそやかに笑った。迫水とかいった新聞部の子の顔を思い出す。そう、わたしは子猫を飼うのが趣味。子猫を調教し、どんなことでもきくようにしつけるのがわたしの楽しみ。あの子が本当のことを知ったらどんな記事にするだろう。
 それからあくびをかみ殺した。
 昨夜はあまり寝ていない。
 催眠をかけ自分のものにした“猫ちゃん”を、一晩中“調教”していたからだ。
 もう言うことは何でもきくようになった。
 でも、と令子は心中につぶやく。
 まだ不十分だ。
 視界の片隅が薄暗く沈んでいる。まるでそこだけ夜が明けていないかのように。
 職員室の最奥部、ひとり静かに腕を組む、黒く、美しい影。
 誰もそこには目を向けない。こちらを向いてしゃべっている校長も教頭も自然と見ないようにしている。なのにそこに“彼女”がいることは誰もがこれ以上ないくらいに強く意識している。
“彼女”は彫像さながらに身じろぎひとつしない。令子から見えるのも後ろ姿だけだ。それでも魔的なまでの存在感は変わらない。無意識が望んだのか、見るまいとしていたのに令子の首は見えない手に鷲掴みにされたように回転し、夜の気配を身にまとった美麗な姿を視界の中心にとらえた。
 途端に両の目が焦点を失い宙をさまよった。
 意識を肉体に縛りつけていた鎖がことごとくちぎれ飛んだかのようであった。解放された意識はたちどころに底知れぬ闇の奥底へ吸いよせられてゆく。
 体が泳いで足を踏み替えたところではっとなり、青ざめ、かすかに首を振った。崖縁で踏みとどまった自殺志願者のような形相であった。指輪のはまった手を固く握り、反対の手も重ねて目を閉じた。呼吸を整えると失われた血の気が戻ってくる。
(…………駄目……かなわない……)
「でも、絶対…………あきらめるもんですか……」
 そのためにわたしはここにきたのだから。
 かすれたつぶやきを耳にして、隣の実習生が訝しげな顔をした。

 その日の四時間目の終わり頃、昼休みまであと数分というところで事件は起こった。
 暗黙の了解というもので、四時間目の授業はチャイムが鳴るより少し早めに終わる。
 教壇に立った令子に向かって生徒たちが礼をし、わいわいおしゃべりしながら音楽室から出ていこうとした時、生徒の一人が悲鳴を上げた。教科書が投げ出され、はさまっていた楽譜とプリントがばらまかれた。
「ちょっと! 由実! ねえ! どうしちゃったの!」
 最後尾の座席に座っていた彼女の友人が、座ったままでいた。声をかけてもぼんやりした表情のままだった。肩に手をかけたところ、その体はがちがちに硬直しており、マネキン人形のような手触りが返ってきたのだった。
「どうしたの!?」
 急いで駆け寄った令子もまた、肩に手をかけてその柔らかさの失われた感触に愕然とした。
 相手の目の前に手をひらひらさせる。まばたきはしているが、その視線はうつろだ。反応はない。
「トランス状態に入ってる……」
 思わずつぶやく。
 理由は言うまでもなかった。
 授業を令子にまかせ、ずっと教室の後ろの方にいた麻鬼だ。
 特に麻鬼に何をされたというわけではない。“吸血鬼”が真後ろに座ったために、数十分にわたってその尋常ならざる気配に全神経を集中させ、あげく魂を吸い取られたようなこの状態に落ちこんでしまったのだ。
「詳しいのね」
 心を闇へ連れ去る声が静かに降ってきた。
「そ、そう……なんですか、これ? ……」
 令子は大慌てで催眠について何も知らないかのように言いつくろった。
「は、はじめて見ました……」
「へえ」
 表情筋を総動員してしらをきった令子に対し、何もかも見透かしているかのような麻鬼の声であり表情であった。
 退いた令子に、後ろからこの場に似合わぬ冷静な声がかけられた。
「血ぃ、吸われたんだよ」
 見れば髪の長い、大人びた容姿の美少女がたたずんでいた。吹奏楽部の、羽住祥香。令子はそう思い出す。確か先週、吸血鬼というあだ名のことを教えてくれた子だ。
「血……?」
「でも大丈夫だよ、先生が治してくれるよ。どうせ金縛りでしょ。由実、よく“なる”って言ってた。先生にまかせとけばいいよ。先生、ああいうの治すの上手なんだ。大騒ぎするようなもんじゃないよ。みんな、行こ、お腹へった」
 クラスのリーダー的存在の祥香に言われ、生徒たちは波が引くように音楽室から消えていった。
「せんせい!」
「大丈夫よ」
 麻鬼はまず半狂乱になった生徒の肩を押さえた。それだけで相手は惚けた顔になる。額に手をあてて目を閉じさせる。同時に目を閉じなさいと言う。麻鬼の言葉のせいでまぶたがくっついたように錯覚し、麻鬼の言うがままの状態に落ちてゆく。
「落ちついて。ゆっくり深呼吸しなさい。すうっと吸って、すうっと吐いて。……そう、ほら、そうしていると、体の余計な力が抜けて、気持ちがどんどん落ちついてくる…………ゆったりしてきて、とてもいい気持ちになる……」
 深い声で言いながら右に左に相手の体を揺らす。直角に曲がっていた相手の肘が次第に広がってゆき、腕全体の力が抜け、だらりと垂れ下がった。
「はい、椅子に座りましょう」
 麻鬼が手を離しても上体が左右にさまよい続けている。両の目をしっかりと閉じ、ついさっきまでの動揺が嘘のようにリラックスした表情。
 次に麻鬼は硬直している由実の方に行った。
 耳元に唇を寄せ、ささやく。
「皆川さん。皆川さん。……由実」
 この声に呼ばれたならば、鉄壁さえもとろけ、粘泥と変わってしまうだろう。
「由実。由実。……」
 繰り返し、繰り返し。
 名を呼ぶことは相手を呪縛することでもある。こんな風にささやかれ続けていたら、由実は未来永劫麻鬼のとりこになってしまうかもしれない。
「由実。私の声が聞こえるわね。よく聞きなさい。私の声はあなたの心の一番深い所にまで届く。私の声を聞いていると、あなたの体は、私の言うとおりになってくる。
 ……由実。今、あなたの体はとても硬くなっている。どんなに力を入れてもびくともしない。でも、これからだんだんとやわらかくなってくる。今から私があなたの体をなでるわ。すると、あなたの体から力が抜けて、だらあんとなってしまう。そうなるととってもいい気持ちよ」
 麻鬼の手が由実の頬をさすった。指の長い、真白い手が上下するにつれて、由実の体にさざ波のような震えがはしった。
「ほうら、力が抜ける……体がどんどん柔らかくなる……とってもいい気持ちになって、深い、深あい所へ入っていく……」
 由実の腕を数回なでさすると、膝小僧に接着されていた手が緩んだ。麻鬼がつかんで揺すると簡単に離れ、腿の上を滑って体の脇にだらんとぶらさがった。
 麻鬼はその由実の腕を持ち上げた。目の上あたりまで持ってゆき、離す。すると腕はその場所で何かを捧げ持つような形で静止した。
「まだ体が固いわね。じゃあこれからあなたの体の中に入っている芯を抜きましょう。今のあなたの体には、針金みたいな固い芯が入っている。そのせいで体が固まっている。これからその芯を抜いてあげる。そうすると、あなたの体はやわらかくなって、どこにも力が入らなくなって、とてもいい気持ちになれるのよ」
 麻鬼は手の平で由実の頭頂を強く叩いた。
「はい、私の手に体の芯がくっついた。さあ、抜くわよ。体の中から、太く、固い芯が、ずるずると引き出されていく。抜ける感じをよく味わって。体の奥でこすれて、とてもとてもいい気持ちよ」
 明らかに性交のイメージである。由実の顔面に朱がさした。
「ほうら、抜くわよ。ずるずるっと、芯が、抜ける、抜ける……」
「は……ああっ!」
 なまめかしい悲鳴が上がると、由実の体は軟体動物のように前にぐにゃりとなり、机に突っ伏してしまった。
「はい、あなたの体から芯が全部抜けた。あなたの体にはもうどこに力が入らない。どんなに力を入れようとしても、どうやっても力を入れることができない。……」
 麻鬼はなおも暗示を重ねて由実を深い催眠状態に誘導すると、令子の方に向き直った。
「驚いた? ちょっとした催眠術よ。こういうの見るの、はじめて?」
「え…………あ……」
 令子は後ずさった。サングラスの下の目を優しく微笑ませた麻鬼が、誘うように手を開いてみせた。
「別におかしなものではないのよ。ちょっとしたコツさえ覚えれば、誰にでも使えるようになるわ。あなたもどう? 教えてあげるわよ。やってみない?」
「あ……し、失礼します!!」
 令子は金切り声に近い勢いで叫び、踵を返して音楽室を飛び出していった。
「おかしな人ね」
 麻鬼はそう言って笑い、二人の少女の方に向き直った。由実は貧血で頭がぼやっとなったのだということで、二人とも心から納得して教室に戻っていくことになるだろう。

 令子は自分で自分の体を抱きしめるようにしながら小走りに廊下をたどっていった。目はうるみ、頬が異様なほどに紅潮し、肩で荒く息をついており、はたから見るとまるで長距離走を終えたばかりのような姿であった。
 職員室の前まで来たとき丁度目的の人物を見つけ、足をさらに速めた。走るというより、突進という方がふさわしい。
「長峰先生!」
 相手がぎょっと振り向くのも待たず、その肩を叩く。
「沈みなさい!」
 出来る限り声はひそめたつもりだったが、かなり鋭くなった。
 長峰教師は即座に催眠状態に陥り、かかえていた出席ファイルや教材をばらばらと床に落とした。令子は見苦しいくらいに焦って拾い集め、ぼんやり立つ長峰教師の腕の中に押しこむ。
「いい、職員室に入って、これを置いたらすぐトイレに来なさい!」
 令子は言うと、相手が行動を起こすよりも早く自分から職員用トイレに飛びこんでいった。

 女性教員が多いのでトイレは割と広めである。
 洗面台の前に立ち、令子は何かをこらえるように身を震わせていた。
 ドアが開く。
 あらわれた人影の目の前に令子は手を開いて突きつけた。
「長峰先生、この手を見て。深い、深い所に沈んでいきます。何も考えられない、とっても深く、気持ちのいいところに沈みます」
 早口にまくしたてると、相手の反応を確かめもせずにその手をつかみ、個室の中に引きずりこむ。
「“可愛い可愛い子猫ちゃん”、さあ、あなたは猫よ、猫、可愛い猫」
 キーワードを与えられ、女教師の自我は溶け去り、一匹の猫がそこにあらわれた。
「ニャアン」
 一声鳴くと、猫なのにスーツを着ているのを変に思い、狭い所で何とかして服を脱ごうともがきだす。
「そのまま服を着ていていいわ。全然気にならない」
 令子がそう言うとおとなしくなる。
 令子は蓋を閉じた洋式便器に腰かけ、スカートをめくり上げた。
 引きむしるような勢いで全ての下着を取り去る。
「……さあ、お前の大好きなミルクをあげましょう。ここからじわじわにじみ出てくるから、丁寧に、一滴残さず綺麗に舐めるのよ。舐めている間は絶対に声を出してはいけないからね。御主人様の言いつけよ、わかったわね」
 言うと令子は大きく足を広げた。
 床に身を丸めてうずくまった“猫ちゃん”は、恥毛に縁取られた秘裂がすでに充血して蜜をにじませているのを不思議そうに見つめ、それから首を伸ばして顔を令子の股間に埋め、舌を動かしはじめた。
「あっ……そ、そう、全部、音を立てないように、大事に大事に……」
 令子の首が背後に大きく傾く。胸元を開き、右手をさしこんで揉みしだいた。断続的に快楽のうめきが洩れる。
「あっ、いい、気持ちいい、あ……」
 トイレに誰か入ってきた。令子は左腕にかみついてよがり声をこらえた。
 再びトイレが無人になると、さらに激しい声をあげ、舌を出して自分の腕を舐めた。手首の方へ舌を這わせてゆき、中指の真紅の指輪にキスをする。指先を唇にさしこみ、自分で自分の口の中をかき回した。
 むきだしの下半身が痙攣した。太腿が震え、“猫ちゃん”の頭をはさみこんだ。
「ま……麻鬼先生………………あたし……あなたを……!」
 令子は獣のような低いうなり声を短く上げた。限界を迎えた秘裂の奥底から粘液が勢いよく噴き出して“猫ちゃん”の顔を濡らした。
「………………」
 指を丸めた猫手で顔をなで、こびりついた愛液を丹念に舐め取っている“猫ちゃん”を横目に、令子は虚空を見やる。
「……本当に、全然変わっていないんですね……あの時から……」
 深々とため息をつき、両手で顔を覆う。
 その指の下から、しずくが流れつたって頬を濡らした。
 “御主人様”の異変に気づき、“猫ちゃん”は小首をかしげて「ニャウン?」と可愛らしく鳴いた。

(六)

 その翌日、水曜日。
 またも空は不機嫌にぐずつき、なま暖かい風ばかりがごうごうと強い。
 屋上へ出る扉の前、階段の踊り場で四人の女の子が膝小僧を並べてお弁当を広げていた。
「ふ〜んふふふふふふふっふふふ〜ん♪」
 陽気な鼻歌が流れてくる。ラヴェルの『ボレロ』のメロディーだ。
「真央、ご機嫌だね」
「……そう?」
「浮かれてる」
「そうかな?」
「そうだよ」
「それは、あれ、夢のせい。いい夢みたんだ、今朝。すごい格好いいひとが、今度の週末、二人っきりでデートしたいって申し込んできたの! あんな美形、見たことない! あたし、もう夢中でうなずいた。嬉しすぎて声も出なくって、返事はって聞かれて、あせってハイハイハイ!って言ったら、自分の声で目が覚めちゃった。惜しかったなあ……遅刻したっていいからもうちょっと見てたかった」
「へえ……真央もそんな夢見るんだ。なんか信じられないな」
「佳奈だってあの人見ればわかるって。……あ、でも、自分でもよく思い出せない…………ああ、すぐそこまで来てるのに、顔が出てこない! 悔しい!」
「そんなもんそんなもん。夢だしね。でも、あたしもそんな夢見たことあるよ」
「あたしも!」
 弾んだ第三の声が続いた。
「あたしも最近さ、そういう夢多いんだよね」
「へえ、祥香も」
「見てる時はさ、それが誰かわかってて、もう身も心も投げ出しちゃいたい気分でさ、何でもして、好きにしてってこっちから言っちゃうんだ」
「やだあ、エッチ……」
 三人がそれぞれの夢の話をしてきゃあきゃあ盛り上がる中、突然四人目の声がした。
「勝手に言ってろ、バカ」
 低く、とげを含んでいた。
「……何、その言い方」
「欲求不満垂れ流すならトイレに行きな。折角のおべんとタイムにくだらない話聞かされるこっちの気分にもなってほしいね。にたにたすんのは鏡の前だけにしといてよ。あんたの色ボケ面って見られたもんじゃないからさ」
「………………」
「ちょっと、やめなよ、二人とも! 万里江も、どうしたのさ、万里江らしくないよ!」
「いいから、祥香」
 真央がこれもとげとげしい低い声で返した。
「万里江はね、おレズの相手がいなくなって寂しいんだよ」
 空気が一気に緊迫した。
「……もう一回言ってみな」
「あんな不良のどこがいいわけ?」
 強烈な平手打ちの音が響いた。
「勝手なこというな! 何にも知らないくせに!」
 祥香の悲鳴が上がる。
 つかみ合いに発展しかけていたその場が、しかし次の瞬間、唐突に沈静化した。
 にらみ合う二人の頭に、冷たいお茶が注ぎかけられたのである。
「!」「きゃあ!」
「……頭を冷やしなよ、二人とも」
 空き缶を指の上で器用に回しながら言ったのは、何と佳奈であった。
「………………」
 真央も万里江も互いへの怒りをそのまま佳奈にぶつけかねない目で睨んできた。以前の佳奈ならもうそれだけで真っ青になって泣き出していただろうが、今は平然と受け止めていた。幼稚園児を苦笑しつつ相手する大人のような目であった。
 佳奈はきっぱりと言ってのけた。
「今のは万里江が悪い」
「………………」
「でも真央もはしゃぎすぎ。彼氏とデートだろうとえっちだろうと構わないからさ、もうちょっと遠慮しようよ。万里江の気持ち考えないで騒いだこっちも悪かったし」
「………………」
 真央も万里江も傍観者の祥香までも、かつてなかった佳奈の態度に呆然となる。
 階段の下で足音がした。
「……樋口さん、そこにいたの。ちょっと来てくれるかしら?」
 佳奈の担任、長峰教師だった。
「はあい。
 ……じゃ、後でね。仲良くしなきゃ駄目だよ」
 弁当箱を手早く片づけると、佳奈は「めっ!」と真央と万里江を叱りつけ、スカートを軽やかにひるがえして階段を駆け下りていった。
「…………どうしたのかな、佳奈……」
「前はああじゃなかったよな」
「魔法でもかけられたみたいだね」
「……誰に?」
「さあ」
 言った祥香も首をかしげた。

「先生、ずっと様子見てたんですか? 意地悪いんだ」
「喧嘩してる声がしたから急いで登ったのよ。そしたら……。
 樋口さん、あなた本当に変わったわね」
「そうですか?」
「前はもっと…………物静かな感じだったけど」
「でしたっけか?」
 佳奈は言うと空き缶をモーションをつけて放った。回転しながら飛んだ黄緑色の缶は見事に遠くのゴミ箱に収まる。その隣にいた女生徒がびっくりしてこちらを見た。佳奈は手をひらひらさせて謝った。
「……で、何ですか、用事って?」
 一連の動作を目を丸くして見ていた長峰教師は、言われてわれにかえった。
「……そ、そう、大事な用事なのよ」
「だから、何なんですか?」
「大事な…………大事な……」
 長峰教師は戸惑った表情を見せて弱々しく繰り返した。用件が思い出せないようだった。けれども、絶対に佳奈を連れていかなければならないということだけは間違いないらしく、足取りは確固として迷いがない。
 視聴覚準備室に入った。ヒアリング授業でよく使うので、英語教師の長峰がここに来るのはそれほど不思議ではない。
 放送室顔負けの機材がずらり並ぶ中に、朝霞令子が待ちかまえていた。
「あれ……朝霞先生?」
「どもども」
 令子は佳奈の背後でしっかりと扉が閉じられたのを確認すると、両手を膝にあて上体をかがめ、迷子に話しかけるときのように佳奈をのぞきこんできた。
「こんにちは」
「こ……こんにちは……」
 今の佳奈には、先日の屋上での一連の記憶はない。
「いきなりで悪いんだけど、この間わたしが言ったこと、覚えてる?」
「な、何でしたっけ?」
 令子の意図を勘ぐっていた佳奈の意識は、言われて記憶を探る方に集中した。不安を表してめまぐるしく動いていた眼球が、斜め上を向いて静止する。
 その変化を見抜いた令子が言葉を放った。
「私はあなたが好きってこと」
「!」
 言われた途端、佳奈の手からナプキンにくるまれたお弁当箱が落ちた。目に見えない巨大なハンマーに一撃されたような感覚。今いる世界から別の次元に心だけが弾き出されたよう。体の場所は一ミリも変わっていないのに、もうそれは自分の肉体ではなくなっていた。
 何これ、と佳奈は自分の体の変調に驚いた。
 同時に、どういうことと真っ当に令子の言葉を吟味する。
 この教生はそういうひとだったのか。
 他の教生の先生と何だか雰囲気が違うって噂が、そういえば……。
 まさか、あたしを?
「こ…………!」
 困ります、やめてください、あたしそういう趣味ありません。そう言おうとしたが、舌がもつれてうまく言えなかった。体がひきつったみたいになって動けない。不思議なことに、苦しい感じは全然しない。妙に心地よい痺れで、抵抗する気になれなかった。
「少しはきくようだけど…………やっぱり駄目ね、先生みたいにはいかないか……」
 令子は言い、真紅の指輪を佳奈の目の前に突きつけてきた。
「さあ、猫ちゃんの集会にあなたも出ましょうね」
“猫ちゃんの集会”という言葉を聞いて、佳奈の心のスイッチが切り替わった。令子によって埋めこまれた後催眠のキーワードであった。佳奈はたちまち深い催眠状態に落ち、令子の奴隷になる。
「………………はい………………」
「もうわたしの声しか聞こえない。わたしの声しか聞こえなくなって、何でもわたしの言うとおりになる」
「はい……」
 佳奈は令子に命じられた通り、床の上に横たわった。
 スカートをめくりあげ、パンティを脱ぎ捨てた。ここは自分の家、真夜中。
「さあ、今からわたしが数を十数えると、エッチなことをしたくてたまらなくなるわ」
 佳奈は切なげに体をくねらせ、指を秘所に這わせてあえぎ声をあげた。
「とっても感じる。もっともっと感じたくて、たまらないでしょう。……もうたっぷり濡れたわね。あなたに、いいものをあげるわ」
 令子は顔を上げ、侍女のように傍らに立つ長峰教師を指でうながした。
 佳奈に歩み寄ったその手に、太いバイブレーターが握られていた。黒く、猛々しく反り返っている。
「それを佳奈ちゃんに入れてあげなさい。これは担任がやらなきゃならないことなのよ。クラス担任は、生徒のおまXこにバイブを深くさしこんであげなきゃならないの。そういう決まりなのよ」
 長峰教師の額をなでながら令子は言った。理性の働きを眠らされている女教師は義務感にかられ、ぐいぐいと容赦なく佳奈の秘裂に黒い棒をねじこんでいった。
「ああっ! 痛い! いやあっ!」
「大丈夫、すぐにとっても気持ちよくなる。ほうら、痛みが薄れてくる。痛くなくなってきた。痛くない。もう全然痛くない」
 佳奈の眉間のしわが緩む。
 バイブは根元まで佳奈の胎内におさまった。抜けないようにビニールテープで固定される。赤いテープの輪が股間から両方の腰骨にはしり、V字型の紐パンティをはいているような姿になった。
「“猫ちゃん”、パンツはかせてあげて」
 ウサギのプリントの白パンティをはかせられた佳奈を立たせると、令子はワイヤレスリモコンのスイッチを入れた。
 佳奈の腰が波打った。
「あうっ! ひいっ!」
「どう、気持ちいいでしょう?」
「ああっ! いい! すごい!」
 佳奈の膝が砕け、前のめりに崩折れた。床を舐めんばかりの姿勢でお尻をつきだし、激しく振りたくった。ウサギが右に左に踊った。
「いいわよ、そのままイッちゃいなさい。すごく感じるでしょう。あっという間にイッちゃうわよ」
 佳奈が絶頂の悲鳴をほとばしらせると、令子は泣き顔の佳奈を無理矢理に立ち上がらせた。息づかいはまだ荒く、支えていないとまた崩れてしまいそうである。しみ出た愛液が腿にひとしずく流れてきた。令子の手がその目を閉じさせる。
「深い所に入っていく。……快感も収まってきて、もう何も感じない。もう何もわからない。
 さあ、これからわたしが言うことをよく聞きなさい。今から言うことは、全部その通りになるの。
 あなたのおま○こには、太いバイブが入っている。これを入れたのは音楽の氷上先生。あの氷上先生が、あなたにこのバイブを入れた。これは特別なバイブだから、氷上先生にしか抜くことはできない。わかるわね、氷上先生にでないと抜いてもらえないの。
 今は何も感じません。これから教室に帰って授業を受けるけど、その間おかしな感じは全然しない。トイレに行っても何にも気にならない。それがそこに入っているのは当然のこと。でも、六時間目が終わって、部活のために音楽室に入ると、それが今みたいに激しく動き出して、どうにも我慢ができなくなっちゃう。勢いよく動いて、体が壊れそうになっちゃうけど、それは特別なバイブなので、他の人でも、自分でも取ることはできないのよ。氷上先生に頼んで、取ってもらわなくっちゃいけないの。
 とっても恥ずかしいけど、勇気を出してお願いするのよ。でないと抜いてもらえないから。大丈夫、氷上先生は絶対によくしてくれる。あの先生のことは信頼しているでしょう? だから怖がらないで、バイブを抜いてくださいって、はっきり口に出してお願いするのよ。わかった?」
 言われた内容が頭に刻みこまれると、佳奈は小さくうなずいた。
「じゃあ聞くわよ。そのバイブをあなたに入れたのは誰?」
「氷上先生です……」
「それは自分で外せる?」
「……できません……」
「長峰先生が抜いてくれるって言ってるわ。お願いしてみる?」
「……駄目です…………氷上先生でないと……」
「そう、よくできました。お利口さんに、プレゼントをあげる」
 令子はボールペンを佳奈の制服の胸ポケットにさしこんだ。
「それはいつもそこに入れておかないといけないの。外したり、筆入れにしまったりしちゃ駄目よ。いいわね」
「はい……」
「本当にいい子ね。じゃあ、これから教室に戻ってもらうけど、この部屋を出たら、まずトイレに行きなさい。トイレでおしっこをして、全部出し切ったら、すっきりした気持ちで目が覚めるわ。その時には、この部屋であったことは何もかも全部忘れている。あなたは長峰先生に英語のテストのことで呼び出されて、説教されていたの。わたしとは会わなかった。わたしに言われたことも何一つ思い出せない。でもさっき言ったことは全部その通りになる。この部屋を出たらそうなる。行きなさい」
 佳奈はすぐに回れ右をして、鍵を開けて出ていった。若干がにまた気味になっていた。
 床に転がったままのお弁当箱。

「さて、と……」
 令子は“猫ちゃん”に向き直った。
「もう一回おさらいしましょうね。今日、放課後、先生は音楽準備室に行くんです。なぜなら、氷上先生が生徒におかしなことをしているらしいって聞いたから。あなたは生徒思いの勇気ある先生だから、そんなことをしている先生は絶対に許すことができない」
 ただ、と続ける。
 令子の表情が変わった。それまでの支配者としての自信が消え失せ、不安が色濃くにじんだ。
「氷上先生は催眠術の達人なの。だから、催眠術をかけられないように気をつけなくちゃいけないわ。もし催眠術をかけられちゃったら、先生だって何をされちゃうかわからないのよ。だから絶対にかけられないようにして。教えた通り、ひとつのものをじっくり見ない、規則正しい物音には気をつける、言われたことにすぐに反応しない、感情的にならない、それを忘れないで」
 一晩だけの“講習”ではまったく自信がなかったので、さらに一晩かけてじっくりと教えこんだ。知る限りの方法で催眠に入れては覚まし、入れては覚まし、催眠に入る感覚を体におぼえさせ、他人の誘導ではそうならないように厳重にプロテクトをかけた。
 それが通用するだろうか。
 あの“吸血鬼”に。
 しかし、もう後には引けない。
 今日を逃すと機会がない。
 今日は合奏がある。その前の一瞬だけ、完全にあの先生は一人きりになる。そこが勝負だ。他の日だと、いつ生徒が入ってくるかわからない。他人に目撃されたら何が起こるかわからない。そんな危険は冒せない。
「……わかったわね。じゃあ、あなたにもプレゼントをあげる」
 令子は佳奈に与えたのと同じボールペンをこれも胸ポケットにさしこんだ。
「今日の間はずっとそこに入れておくのよ。絶対に外したり、いじったりしちゃいけないからね。
 ……じゃあ、樋口さんを連れてきてから今までのことを全部忘れましょう。頭の中がきれいになって、何も思い出せない。この部屋を出て、ドアを閉めると目が覚める。職員室まで歩いていく間にどんどん頭がすっきりしてきて、自分の席に座ると完全に催眠から醒める。はい、行きなさい」
 長峰教師は無表情のまま従った。

 令子はドアが閉まるとすぐにウォークマンのような黒い機械を取りだした。イヤホーンを伸ばし耳に差しこみ、スイッチを入れた。
『何だったの、先生の話?』
『こないだのテスト。前置詞間違ってばっかりだったから、ちょっと怒られちゃって』
 右の耳に、佳奈と他の生徒の会話が聞こえてくる。
『長峰先生、少々お時間いただけますか』
『……なに?』
 左からは、感情のない声が入ってきた。
『この本、今よんでみてるんですけどお、わかんないとこあるんでえ、教えてほしいんですう』
 ぐにゃぐにゃした女子の声がした。どうやら二人組に呼び止められたらしい。
「感度は良好」
 令子は満足げにつぶやいた。
 盗聴器であった。
 イヤホーンを外し、部屋を出た。
 いきなり目の前に生徒が通りかかり、腕がぶつかった。
 手に握っていた受信機が転げ落ちた。
 令子は大急ぎで拾い上げると動作を確認した。大丈夫、生徒に英文の意味を説明している声がちゃんと聞こえてきた。
「すみません……」
 ぶつかったポニーテールの少女はすまなさそうに頭を下げた。
 この子も吹奏楽部の子だと令子は緊張する。確か……本城万里江といった。
 顔を上げると、万里江は興味深げに令子の手の中の機械に視線を注いできた。
「へえ、先生もそういうの持ってるんだ」
「え、あ、ええ、そう、音楽とか、聞いておかないと大学で遅れちゃうから、ね」
 そう誤魔化す。見た目はウォークマンとそう変わりないからこれで納得してくれるはずだ。
「音楽? それで?」
 首をかしげた万里江を尻目に、令子はさっさとその場を離れた。
 長話は危険だった。

 そして、放課後になった。

 掃除が終わると空白の時間帯が来る。帰宅部の生徒が引き上げ、部活をやる生徒は練習に没頭し始めるため、中途半端にうろつく人間が姿を消す。
 音楽室のある四階も、そんな静けさに包まれていた。
 普段は各教室をそれぞれのパートが占領して練習に使うのだが、合奏がある日は音楽室に集まる。人数の多い学校ならば合奏に参加できないメンバーがかなり残っているものだが、部員が少ないため麻鬼はコンクールだとか演奏の出来は気にせず、全員合奏に参加して楽しむように指導していた。
 ウォーミングアップをすませ、指揮者である麻鬼が姿をあらわすまでしばしの間、誰もがてんでばらばらに自分の譜面を吹き散らしている。目立つメロディーを吹く者に他人が調子を合わせ、いつしか全員で演奏しはじめてしまうことも珍しくない。高陵学園の吹奏楽部はまるで全体がひとつの生き物になったような息のあった演奏で知られていた。
 そんな中、佳奈がひとり赤面してうつむいていた。
「どうしたの、具合悪いの?」
 隣の真央が心配して声をかけてくる。
「う、うん…………」
 佳奈は楽器を置いた。辛抱しきれずに腰をもじもじと揺する。
「は、はじまっちゃったみたい……」
「ありゃりゃ、ご愁傷さま。持ってる?」
「だ、大丈夫……。先生に言っといて……ごめん」
 佳奈は音楽室を出た。
 廊下に人影はない。佳奈はそれを確認するなり股間をおさえてうずくまった。
 腰から快楽が突き上げてくる。膣に深く埋めこまれたバイブレーターはまったく振動していない。だが佳奈はのたくるその感触を強く感じている。本来の機能がもたらす以上の刺激が脳髄に流しこまれてきていた。
 我慢している間にもう一回イッていた。うずくまってすぐにまたイッた。それでも快感の波はとどまるところを知らずにさらに押し寄せてくる。
「せんせい…………お願い、ああっ、何とかして……」
 壁に手をついて立ち上がり、よろめきながら準備室へ向かった。

 佳奈と入れ替わりに、楽器室の方から令子が入ってきた。
「みなさん、氷上先生はちょっと用事が入ってしまったので、遅れるそうです。それまで部長さんにお願いするって言ってました」
 令子はそれだけ伝えるとすぐにまた楽器室に消えた。教育実習生とはいえ教師の言葉を疑う者はいない。

 楽器室から廊下に出る。
 隣の、音楽準備室のドアが閉まった。佳奈が中に入ったのだ。
 胸ポケットからイヤホーンを取りだし、耳に入れた。
「………………よし」
 うなずくと、向かいの教室に入った。
 廊下からは見えない壁際に、目をつぶり手を宙にさしのべてポーズを取った長峰教師が立っていた。今の彼女はマネキン人形にされていた。
 ぴくりとも動かないその額に手をあてて優しくなでさすり、硬直を解いてやる。
「いいわね、これからあなたは氷上先生の悪事を暴くのよ。氷上先生の催眠術にかからないように、くれぐれも気をつけて。いい、教えた通り、催眠状態に入りそうになると、あなたのほっぺたがとてもかゆくなるからね。自分の頬をかくと、どんな状態になっていても頭がはっきりする。いいわね」
 令子はうつろな目の長峰教師を音楽準備室のドアの前へ連れていった。イヤホーンから聞こえてくる内部の様子に耳を澄ます。
「まだよ、もうちょっと…………佳奈ちゃん、そう、その調子…………」
 令子は呼吸すら止めて聞き入り、時折喉を大きく鳴らした。
 タイミングをはかり、
「……OK!
 さあ、行きなさい!」
 背中を強く叩いた。
 長峰教師の目に力が宿り、眉がつり上がって使命感が満ちた。

(七)

 合奏前ということで総譜を机の上に広げ、麻鬼は目を閉じてイメージを作っている。
 そこへノックの音がした。
 ノブが回り、小柄な女子が震えながら入ってくる。
「…………どうしたの」
「せ……せんせい……」
 佳奈は涙目で麻鬼を見た。
「ゆ、許して……もう許してください…………!」
「許す?」
 麻鬼は立ち上がった。
 サングラスをかけたその姿はいつも通り佳奈を怖じ気づかせた。しかし恐怖は体の中にふくらむ灼熱のかたまりの前にあっけなく溶け崩れ、蒸発してしまった。今はそれどころではなかった。氷上先生に何とかしてもらわないと、死んでしまう。佳奈は高熱で死に瀕する重病人のように足を引きずり、麻鬼の机の向かい、いつもの位置にたどりついた。こんな場合でも体は勝手にそこに向かっていったのだった。
 その間麻鬼はじっと佳奈を観察している。サングラスの下の瞳は氷河のきらめきにも似た冷徹な光を放っていた。
「せんせい…………お願いです、はやく、はやく抜いてください……ああっ!」
 佳奈は体を痙攣させた。再三の刺激がまた絶頂をもたらそうとしていた。佳奈は理性をかき集め、必死でこらえた。他人の目の前で恥ずかしい姿は見せられない。ましてこの怖い先生の前で。くいしばった歯から音が鳴り、組み合わせた手は血の気を失って白く変色した。
「……抜く? 何を? わかるように話しなさい、佳奈」
 名前を呼び捨てにされた途端に佳奈の表層意識のはたらきが止まった。全身が心地よく脱力し、解き放たれた快感が縦横無尽に体内を駆けめぐった。
「あっ、い、イク……っ……!」
 佳奈は泣くとも笑うともつかない歪んだ表情を見せ、足を大きく開いてへたりこんだ。パンティが丸見えになる。濡れそぼって肌の色を透かしており、今や埋めこまれたバイブの根元が浮き上がって見えていた。そこを中心にみるみる染みが広がってゆく。
「佳奈…………どうしてそんなものを入れているの? 答えなさい、それをあなたに入れたのは誰?」
 麻鬼がいくらあっけにとられていたとしても、少なくとも相手に命令する口調にはいささかの揺るぎも表れなかった。サングラスの下の瞳をじかに見ていないのだが、奴隷化された潜在意識が女王然とした問いに反応したのか、佳奈は“35号”の口調で従順に答えた。
「せ、先生です…………先生に入れていただきました……。すごい、すごく気持ち、いいです………………でも、だ、だけど、これ、今は、あっ、だ、駄目……」
 佳奈はすぐにまた恍惚と腰を揺すりはじめた。
 普通の女性ならこうも連続した刺激は苦痛になるだけなのだが、令子の催眠の影響下にあり、また日頃麻鬼によって快楽に慣らされている佳奈は、連続でオーガズムに達することが簡単にできてしまう。
「いい! 気持ちいい! あひいっ、いい!」
 抜いてもらうことも忘れて佳奈はあえぎはじめた。
「35号!」
 麻鬼の叱咤が飛んだ。
 麻鬼はサングラスを外していた。サファイアブルーの瞳のきらめきがどんな稲妻よりも強烈に佳奈の心をむち打った。
「……! は、はいっ!」
 佳奈から瞬時に情欲が吹き飛んだ。
 奴隷になってもこれまでの記憶を忘れるわけではない。ノリにまかせてとんでもない失敗をしでかした後、冷静になってどうしてあんなことをしてしまったのだろうと不思議に思うように、どうして御主人さまの前で好き勝手することができたのだろう、どうして御主人さまを怖いなんて思っていたのだろうと、それまでの自分が情けなく、恥ずかしく感じられて仕方がない。
「まだ感じる?」
「いいえ!」
 麻鬼は優しく訊ねてきたが、佳奈、いや35号は顔色を土気色に変えて直立した。
 御主人さまの意向を汲むことに全神経を注いでいる35号は、麻鬼の微妙な声音の違いを聞き分けることができた。それができるのはナンバーズ、奴隷のうちで番号を与えられた者だけだ。
 だからわかる。麻鬼はこの場での痴態は望んでいない。ならば快感は塵粒ひとつほどさえもおもてに表すことは許されない。今や佳奈の全ては麻鬼のためにある。
「それを抜きなさい」
「………………」
 即座に従うべきなのだが、かけられた暗示が佳奈の行動を縛る。
 麻鬼が入れたバイブ、麻鬼でないと抜けない特別なバイブを、麻鬼は抜けと命令してくる。佳奈はどうしていいかわからなくなった。忠誠心が強いので、麻鬼関連の暗示が麻鬼その人の暗示と同じくらい強烈に作用したのである。
「どうしたの」
「……駄目です…………あたしでは、取れないんです……」
「どうして」
「これは……御主人さまでないと……」
「私? 私が、いつそんなものをあなたに入れたの?」
 言われて佳奈はおののいた。
 麻鬼は何もかも承知の上でからかっているように見える。声と表情はそうだ。だがナンバーズに戻った佳奈にはわかる。麻鬼はこれについて何も知らない。心底から不思議がっている。
 それでは筋が通らない。
 目の前にいる御主人さまの言葉は絶対だ。だとすると、自分の方が何かとんでもない勘違いをしているのだ。
「……お昼休み……です……」
 恐る恐る口にする。記憶には脚の間に黒い張り型を押しこんでくる麻鬼の姿があった。
「ほんとうにそれは私だった? よく思い出してごらんなさい」
「………………」
「あなたの目に映った本当の景色を思い出すことができる。お昼休みだったわね。場所はどこ?」
 佳奈にかけられた忘却暗示はやすやすと突破された。佳奈にとって、麻鬼が直にかけてくる言葉以上に強制力を持つものなどありはしない。
「……視聴覚準備室……でした……」
「私はここにいたわよ。本当に私がそこにいたの? どうしてあなたはそこに行ったの? 誰かが連れて行ったの? 最初から、順番に思い出してみなさい。細かい所まで、ひとつ残らず」
「………………」
 記憶の中の情景が、受信状態の悪いテレビ画像のように歪んできた。思えば、御主人さまがなさったことのはずなのに、何だか違和感があった。そもそもどうして自分はあの部屋にいたのか。ひとつの疑惑がすぐ偽記憶のほころびへとつながっていった。
 あれは違う。御主人さまはこんな道具は使わない。股間に手を伸ばしてくる麻鬼の姿が漆黒の影法師となり、ぱりんと音を立てて砕け散った。その下から別の人間の姿が現れる。よく知っている人だ。隣にもう一人いる。あれは……。
「思い出したのね」
 麻鬼が確信をこめて言った。
 答える代わりにスカートをまくりあげた。パンティをずり下げ、むだ毛を抜くよりもあっさりと黒いバイブを抜き出した。
 こんなに大きく長いものが自分の中に入っていたと思うと気持ちが悪くなった。そんなものを御主人さま以外の相手に入れられたなんて、考えるのもおぞましかった。白濁した愛液がどろりとまとわりついており、自分が分泌したものとはいえ吐き気がした。
「……どこに捨てましょう?」
 御主人さまの前で怒りをあらわにすることは控え、つとめて冷静に訊ねる。
 麻鬼は何かを思いついた薄笑いを浮かべて言った。
「入れた相手に返してあげるのが一番だけど。……」
 サングラスをかけ直す。

 ドアが勢いよく開いたのはその瞬間だった。

 心の準備はできていたとはいえ、いざ淫ら事の現場に直面してみると、ダンプカーに激突されたような心地を味わった。唖然として立ちすくんだ中、唇だけがわなわなと動く。
「な…………」
 たっぷり五秒以上の沈黙を経て、ようやく声が出た。
「何をしているんです!」
「せ、せんせい!?」
 佳奈が悲鳴を上げた。その目の中に救いを求める光を見た。睨みつけているように見えるが、それは気のせいだ。佳奈は麻鬼にいたぶられていたのだ。自分が助けなければならないのだ。あのつり上がった眉も、険しい表情も、予想外の救いの手がさしのべられたことへの戸惑いなのだ。
「もう大丈夫よ、樋口さん」
 きっと麻鬼を見据え、
「氷上先生! あなたそれでも教師ですか!」
 麻鬼は唇の端を軽く持ち上げた薄笑いで応じた。瞳の色を隠すサングラスの下、切れ長の目尻がいつになく下がっている。おかしくてたまらないという顔つきだ。
「……私が何をしたというの、長峰先生?」
 その言いぐさに全身の血が沸騰した。
「ふざけないで! それは何! そんなもので、何してたの!」
 佳奈の手にあるバイブを指す。男性器の形をした黒い筒が、明らかに佳奈のものと思われる粘液にまみれている。生徒をこんなものでいたぶっていたなんて、許せない。
「先生、待って、これは、先生が……」
 佳奈が怒ったような顔で言ってくる。そうだろう、こんなものを入れられて怒らないわけがない。先生というのは氷上先生のこと。それ以外何があるというのか?
「大丈夫よ、樋口さん、もう安心だからね」
 優しく言うとあらためて麻鬼を鋭く睨んだ。
「氷上先生。あなたが生徒に催眠術をかけておかしなことをしていたのはわかっているんです」
「あら、そう?」
「しらばっくれないで!」
 部屋の片隅にあるスチールデスクに向かう。普段は使われていないが、今は教生の朝霞令子が使っている。その一番下の引き出しを開ける。スポーツバッグが入っている。そこにそれがあることは最初から知っていた。どうして知っているのか不思議に思うことはない。正義の味方は何でも知っている。
 取り出し、チャックを開いた。
 あらわれたのは数本のバイブ、ピンクローター、アナルビーズ、束ねられた縄に手錠、口にかますボールギャグ、黒光りする鞭、その他普通に生活している限りはまず目にすることのない品々。
「これが証拠よ!」
「それ、私のものなの?」
「当たり前でしょ! ふざけるのはやめなさい! もう言い逃れはできませんからね!」
「待って、せんせい!」
 佳奈が割って入ってきた。
 ぬめっと光るバイブを目の前につきつけてくる。
「?」
「返します!」
「返すって……」
「これ、先生があたしに入れたんじゃありませんか!」
「何言ってるの!」
「昼休みに! それだって、氷上先生のものじゃありません! 氷上先生はそんなことしません!」
 理解不能。混乱する。しかしすぐに何もかもを解決する解釈が頭に浮かんだ。
「樋口さん……あなた、催眠術にかかっているわね!」
「知りません! それより、これ……どうして!」
 佳奈はくってかかってきたが、真相を理解したからには問題ない。広い心で受け入れてやらねばならない。何しろ催眠術でおかしな行動を取らされているのだから。佳奈に罪はないのだ。
「先生!」
「樋口さん、あなたは普通の状態じゃないのよ。今すぐ元に戻してあげますからね」
 佳奈を手で押し戻し、麻鬼に指を突きつけ、
「さあ、樋口さんにかけた催眠術を解きなさい! でないと許しませんよ!」
「困ったわね」
「困ったじゃないでしょう! 生徒にこんなひどいことをしておいて、何しらばっくれてるの! ……何よ、その顔は! 何がおかしいの!」
「カナ、おいで」
 佳奈はなおも険しい顔をしていたが、手の中のバイブを汚物のように洗面台に放りこみ、従った。
 佳奈の額に麻鬼は手をあてる。ただそれだけなのに見ているこちらの身の裡をぞくりとしたものが駆け抜けた。
「目を閉じて。深く、深く眠りなさい……」
 麻鬼の声が変わった。ただでさえうっとりと聞き惚れてしまうような声をしているのに、さらに妖しい響きが加わった。
「今のあなたは深く眠っている。さあ、夢の時間は終わり。いつものあなたに戻りましょうね。今から三つ数えると、あなたは何もかも忘れて目を覚ます。はい、一、二、三!」
 麻鬼は甲高く指を鳴らした。
 佳奈がぼんやりと目を開き、間近に美貌を見て声をあげる。
「きゃっ!」
 後ずさったその頬は赤く染まっていた。
「え…………あ……ここ、準備室? あれ、長峰先生? …………あれ、あたし、どうして……ここに……?」
 佳奈は状況がわからずにきょろきょろし、この場のただならぬ雰囲気を感じとって泣きそうな顔になった。
「はい、お望みの通りにしたわよ」
 麻鬼が言う。
「……ひ、樋口さん、大丈夫? 何ともない?」
「………………」
 佳奈は半泣きになっている。涙のにじんだその目に、先ほどくってかかってきた時の強さはかけらも見当たらない。
 催眠術による人格変換。ある程度は理解していたものの、目の当たりにするとやはり気味が悪かった。
「長峰先生」
 麻鬼が言ってきた。思わずびくっと後ずさる。
「誤解しているようだけど、あなたの考えているようなものとは違うのよ、私たちの関係は」
「か、関係って何よ!」
「樋口さん」
 麻鬼は佳奈の肩をつかんで抱き寄せた。
「せ、せんせい……?」
「ねえ、佳奈。私の目をしっかり見て、正直に答えてね。
 ――――私はあなたが好き。あなたは?」
 小柄な佳奈の姿が、強いライトの光を浴びた蝋人形のように、とろとろと溶け崩れていったように見えた。
「あ…………す、好き……です…………愛してます……あたしは御主人さまのものです……」
 佳奈は腕を精一杯伸ばして麻鬼の首に回し、伸び上がって麻鬼の唇を求めた。
 佳奈の体がさらにとろけて、肉感的な麻鬼の唇の中へ吸いこまれていってしまった、そんな錯覚にとらわれた。爪先立ちの佳奈はこれ以上ないくらいの至福の表情を浮かべ、自分から舌をさしこみ、情熱的に動かしていた。いやらしい音が大きく鳴った。
 唇が離れ、浮いていた踵が床に着くと、佳奈は脚をがくがく震わせ、床にへたりこんだ。はるか頭上の美貌を仰ぎ見てなまめかしい吐息をつく。うるんだ瞳は幸福感でいっぱいになっていた。
「……この通り、私たちは愛しあってるの。ちょっと世間様の基準とは違うようだけど……そういうことで、納得してもらえないかしら?」
 なおも薄笑いのまま麻鬼は言い、少しずり落ちたサングラスを直した。
 答えようとして、それまで呼吸を忘れていたことに気がついた。
「じ……冗談じゃないわ! この変態! それだって催眠術でそう仕向けたんでしょう! まともじゃないわ!」
「催眠術について誤解してるようね。あのね、催眠術ってね、相手の心をどうにでもできるわけじゃないのよ。確かに催眠術にかかった相手には色々な行動をとらせることができるけど、相手が受け入れてくれなければ駄目なの。嫌だと思っていることはさせられないのよ」
「……じゃあ何、樋口さんの方があなたの変態行為を望んだっていうわけ!? 責任を生徒に押しつけるなんて、最低ね、あんた!」
「どうすればわかってもらえるのかしら。そうね、あなたも催眠術にかかってみればわかるわ。意識を失うわけではないし、私の好きなように操られてしまうわけじゃないってことがよくわかるわよ」
 麻鬼は両腕を大きく広げた。
 室内の照明が突然明度を失ったような気がした。
 後ずさった背中がドアにぶつかった。総毛立った。
「や、やめなさい! そんな手に引っかかるもんですか!」
「そう言わないで、ちょっとだけ、ね」
「いやよ!」
 麻鬼が手を伸ばしてきた。サングラスの下の瞳が異様な光を放っている。圧倒され、飲みこまれてしまいそうだ。この“吸血鬼”がこんな表情をするのか。これは本気だ、と悟った。初めて見た、この生き物の本当の感情。楽しんでいる。獲物を捕らえた猫のような、残酷な、そして無邪気な喜びがそこにある。
 伸ばした腕の先に人差し指がぴんと突き出し、正確にこちらの眉間を狙っていた。指されているそこにじわじわと、くすぐったいような冷たいような奇妙な感覚が芽生える。たちまち強くなる。指がぐうっと伸びてきて、額にめりこんできたかのような異様な感触。
 指がくっと横に動いた。一度この指が危ないと認識したせいで、かえって意識してしまう。これはいけないとわかっているのに、目がつい追ってしまう。
「ね、何も怖いことはないから、ね」
 その「ね」という声に合わせて指が反対側へ動く。
 白く、長い指だ。繊細きわまりない造形美。次第に大きくなってくる。こちらの心中を見通しているかのように目をそらそうとした途端にすっと動くので、まずいとわかっていてもどうしても見続けてしまう。
「大丈夫、気を楽にして、ね」
 左右に揺れていた指がぴたりと中央で止まった。また額にあの感覚。目が寄り目になる。慣れない眼球の状態に苦痛をおぼえ、いけないとあせって焦点をずらす。白い指がぼやけた二本の棒に変わる。だがそれがかえって悪い結果を招いた。指の向こう、腕の延長上にある、美しい悪魔の微笑みをまともに見てしまった。
 いつの間にこんなに接近していたのだろうと驚く暇もなく、サングラスの下の目に視線が吸いよせられる。指どころではない、容赦のない吸引力。
「ね、私の目を見て。ほうら、力が抜けてくるわ。体が痺れたみたいになって、力が入らなくなってくる…………」
 肩に手が置かれた。そこから体が冷たくなってくる。あの真白い手なのだから、こうなるのも不思議はない。私は凍ってしまう。氷像となって、深い所でずっと眠りにつくのだ。何も考える必要はなく、何の悩みも、苦しみもない。とても気持ちのいい、安らかな世界へ、だんだんと、沈んで……ゆく…………。
(あ?)
 不意に、頬にかゆみを感じた。蚊にさされたのをもっと強力にしたような猛烈なかゆさで、我慢出来ない。
 思わず頬をかいた。
 途端に、頭が元に戻った。
「やめなさい!」
 顔がくっつくほどに近寄ってきていた麻鬼を突き飛ばす。
 やっぱり自分にも催眠術をかけて好きにしようとしたのだ、こいつは!
 よろめいたその長身を思い切り平手打ちした。
 小気味よい音がぱしいんと響き、そむけられた美貌からサングラスが飛んだ。
「あ…………」
 肩で息をしながら自分の手の平を見る。
 小さい頃、宝物を思い切り床に叩きつけたことがあったのを思い出した。どうしてそんなことをしたのか自分でもわからない。でもそのとき、こんな感覚を味わった。
 今ならこれに名前をつけることができる。
 してはいけないことをした、背徳感。
 そして、爽快感。
 気持ちいい。
 誰もが無言のうちに恐れ、遠ざけていた吸血鬼。
 それが、今たくらみを暴かれ、破られ、頬を押さえて自分の足元にうずくまっている。
 はじめて、人間に見えた。
 全身に鳥肌が立った。身震いした。
「催眠術なんかにかかるもんですか! 人を馬鹿にするんじゃないわよ!」
 罵るとさらにぞくぞくとした。
 間違いない、これは快感だった。
「せんせい!」
 佳奈が金切り声をあげて麻鬼に駆け寄った。
 その様を見て、これまで意識したこともなかった感情がふつふつとこみあげてきた。
 自分が高陵学園の三美人の一人に数えられていることは知っている。
 だが、あくまでもこの麻鬼を除いての話だ。
 自分を姉のように慕ってくれる生徒は沢山いる。
 けれども、その慕情も、麻鬼が出てくるとたちどころに奪い取られてしまう。
 レズ趣味というのは軽蔑に値する。
 だけど、自分がそれほど生徒をとりこにすることができないのも確かだ。
 憎い。
 麻鬼が美しいだけの能なし教師であるのならこんな風に思うこともなかっただろう。
 麻鬼の牙城とも言うべき吹奏楽部は確固たる実績をあげており、高く評価されている。
 また、ハーフである麻鬼は外国語にも堪能で、英語教師である自分よりも流暢に英語で電話しているのを耳にしたことがあった。
「……あんたがそんな変態だなんて知ったら、みんなどう思うかしらね」
 自分の声とは信じられないくらいに邪悪な声が出た。
「まずクビは間違いないとして…………新聞沙汰になるわね。評判になるわよ。ワイドショーやらなんやらにとことん追い回されるわね、きっと。
 いいこと、あんたの悪事はもうおしまいなのよ。全部白状してもらいますからね。どうせ色々ひどいことをしていたんでしょう。ほんと、呆れちゃうわ。あんたみたいなのが同じ教師していたなんて、吐き気がするわよ。
 ……何笑ってんの!」
 麻鬼はうずくまったまま、打たれた頬を押さえて口元を吊り上げていた。乱れた前髪が垂れ下がって目を覆い隠している。
「せんせい……」
「佳奈、お人形さんになりなさい。そこのソファーに座って、可愛いお人形さんになって、じっとしていなさい。ハイ」
 麻鬼は指を打ち鳴らした。
 佳奈の瞳から光が失われ、佳奈はゆらりと立ち上がると、ぎくしゃくした足取りで言われた通りソファーに向かい、腰を下ろすなり完全に表情をなくして斜めに傾き、動かなくなった。
「…………! いつの間に! 解きなさいって言ったはずよ!」
「それは秘密。でも……」
 麻鬼はサングラスを拾い上げ、はめた。
「……この子はかかりやすいからうまくいったけど…………あなたにはかからないみたいね……」
 身を起こしたものの、うなだれた麻鬼の姿からはあの恐るべき迫力がすっかり消えている。サングラスのフレームが歪んでおり、こちらの身が切られるような普段の怜悧な印象は戻ってこなかった。
 そして、言った。

「私の負けね」

 そう言ったものの、麻鬼の口元にはまだ薄笑いが刻まれている。
(…………あ……!)
 閃光のように、真実が感得された。
(そうか……!)
 こういうタイプなのだ。
 あまりにも整っていて、あまりにも毅然としているので誤解していた。
 感情があらわれていないわけではなかった。
 本当は、いつでも自分たちと同じように喜怒哀楽を感じていた。
 ただ、それがはっきりわかるかたちで顔に出ないだけなのだ。
 誤解されやすい人間がいる。
 笑うような顔で涙を流す人。
 喜んでいるのに、怒ったようにしか見えない人。
 普通に笑っても、嫌みにしか取られない人。
 麻鬼も、そういうタイプの人間だった。
 真剣であっても、笑っているように見える。
 敗北感に打ちひしがれていても、何かを企んでいるように見える。
 そうだ、よく観察してみれば、確かに顔色が悪いではないか。
 脚が震えているようではないか。
 悪事を暴かれ、頼みの催眠術も通用しないので、衝撃を受けている。
 怯えているのだ。
 そうと悟った途端、自分の方が麻鬼よりずっと大きくなったように感じられた。
「…………他の人には言わないでおいてくれる?」
 先ほどまでだったら激昂していたであろうその台詞も、冷静に分析することができる。
 こういう言い方しかできない女なのだ。
「人に頼み事をするのにその言い方は何?」
 歪んだサングラスの下の目がぴくりと動いただけだったが、麻鬼がたじろいだのがわかった。
 ああ、気持ちいい。
「……まあ、全部明らかにしたら、樋口さんや他の子たち、何も悪くない生徒たちに迷惑をかけることになるのは確かね。黙っててあげてもいいわよ」
 麻鬼の目尻がほっとした内心を示してわずかに緩んだ。もうこの相手の心情は手に取るようにわかる。
「ただし、もちろん何もなしというわけにはいかないわよ」
「………………」
「まず、生徒にかけた催眠術は全部解いてもらいます」
「………………」
「今後は二度と催眠術を使わないこと。いい、今度おかしな真似をしたら、校長先生に報告して、あなたを学校から追放してもらいますからね」
「……わかったわ」
「それから」
 殊勝にうなずく麻鬼を見て嗜虐心を煽られ、思わず途方もない要求を突きつけた。
「これからは私の言うことは何でも聞くのよ」
「え……」
「はい、でしょ! 黙っててあげるんだから、そのくらい当然でしょう!」
「だけど……」
「この変態レズ教師、あんたに選択の余地はないのよ! 偉そうにしてんじゃないわよ!」
 麻鬼は眉を寄せてねめつけてきた。だが逆らえる状況ではない。唇がかみしめられて色を失い、
「…………はい」
 悔しげにつぶやいたのを耳にした瞬間、まぎれもない興奮に下着が濡れた。
「わかればいいのよ、わかれば」
 もっといたぶってやる。
 麻鬼に命令して、廊下に通じるドアと楽器室へのドア、両方の鍵を閉めさせた。
 開きっぱなしのスポーツバッグの中身を漁る。
「……それにしてもすごいわね、こんな太いのまで使ってたの。ほんと、救いがたいヘンタイね。うわ、これ、鞭じゃない。これで生徒を叩いて、燃えてたんでしょ」
 声も体も自分のものではないようだった。ごうごうと燃える炎が体を沸騰させ、充満した熱蒸気で体が勝手に動く。止められない。
「ほら」
 一番大きく、小突起が無数についている凶悪なバイブを麻鬼に投げ渡す。
「どんな風に使っていたのか、教えてよ」
「………………」
「何してんの! さっさと服脱ぎなさい! あんたの体で実演してみてって言ってるのよ! 素っ裸で、アソコにそれ突っ込んだ格好のまま、樋口さんの催眠を解いてもらうわ。愛しい氷上先生の正体をはっきり理解してもらわなくっちゃね」
 麻鬼はためらった。それに向かって何度も何度もうながし、脅し、罵った。
 やがて、麻鬼は背を向け、上着に手をかけた。
 布ずれの音は勝利のファンファーレのように聞こえた。
 ブラウスが肩を滑り落ちていって、純白の肌があらわになった。
 思わず息をのんだ。
 並大抵ではないプロポーションなのはわかっていた。
 しかし。
 今はじめて知った。あれでも、着やせしていたのだ。
 さなぎが脱皮するように、繊細な丸い肩があらわれた。
 一点の疵もない肌はなめらかにつや光っている。
 優美に盛り上がる肩胛骨。
 すっとはしる背筋の線は、指でなぞればその指の方がとろけてしまうだろう。
 長身相応にしっかりした胸郭、それを支えるウェストは信じられないほどに細く締まっていて、たっぷりした腰まわりへと非の打ち所のない曲線を描いている。
 背中を横切るブラジャーの色はやはりこの闇の美女にふさわしく、黒。真白い肌の上でこの上なく淫靡に浮かび上がって見える。
「……外しなさい」
 かすれた声しか出なかった。
 麻鬼は黙ってホックを外すと、あらわになった乳房を両腕で抱いた。そうすることで背中のラインが微妙によじれ、ギリシャ彫刻を思わせる完璧な裸身が濃厚な官能の気配に彩られた。
 頭の中が真っ白になった。
 欲しい、と思った。
 それしか考えられなかった。
 この体に触りたい。口づけしたい。抱きしめたい。
 自分のものにしたい。
「あ…………」
 腕を伸ばす。指先が震えている。
(!)
 腰が机の角にぶつかった。目に入らなくなっていたのだ。
 我にかえった。
 引きこまれた自分に猛然と腹が立ってきた。
 脳裏に映像が浮かぶ。自分の姿だ。鏡の前で、最近化粧ののりが悪くなってきたことを気にしてあれこれ新製品を試している。
 目尻にしわが出てきたようで気になっている。
 体脂肪率が多めなのでダイエットをしている。それでもお腹の肉が落ちてくれない。
 尻が垂れてきたとつきあっている男に言われたことがある。
 比べて、この麻鬼は。
 自分よりも年上のはずだ。なのに、どうしてこんな肌、こんな体型でいられるのか。
 手が勝手に動いた。
 バッグの中の鞭をひっつかむ。
「……こんなことしていたんでしょう!」
 雪の女王のような背中に向かって、思い切り叩きつけた。
「きゃあっ!」
 麻鬼の口から悲鳴が噴き出した。
 純白の肌に、斜めに赤い筋が刻まれた。
 それを見てさらに自分の中の魔物が猛り狂う。
 第二撃は狙いがはずれて机の表面を叩いた。
 三発目がうまく背中を打った。
 みみず腫れが斜め十字を描く。
「うれ、しいん、で、しょう、この、変、態!」
 一言ごとに鞭がうなった。
 背中に網目模様を刻まれた麻鬼は床の上にはいつくばって苦痛にあえいだ。
 凶暴な感情の赴くままに歩み寄り、その傷の上を踏みつける。
「う、ああっ!」
 鞭の柄でぐいと麻鬼のあごを持ち上げる。
「まだまだ、こんなもんじゃすまさないからね! あんたがひどい目に合わせた生徒たちの分、体にお返ししてやるわ!」
 滅茶苦茶を言っているという自覚はない。
「何よ、サングラスなんかかけて、気取っちゃって! 目が悪いんなら教師なんかになるんじゃないわよ!」
「や……め……」
 抵抗されたのでむきになり、サングラスを奪い取った。

「………………」
 手から鞭が落ちた。
「……何よ、あんた……その……目……」

 背後で鍵を開ける音が鳴り、人影が室内に飛びこんできたことには最後まで気がつかなかった。

 肩に手をかけられて、反射的に振り向いた。
 目の前に手の平がかざされた。
 中指に、逆にはめられた真紅の指輪がきらめいていた。
「これを見て…………沈みなさい……深い、深い所に沈んで、安らかに眠りなさい……!」
 相手が誰なのか認識するよりも早く、その声が心を縛った。
 涙声のようだ、とだけ思った。
 意識が溶けていった。

(八)

 顔から猛々しいものの消えた長峰教師の背中を支え、空いている方の机につかせる。
 うつろな目で首をふらふらさせているのを放っておいて、朝霞令子はうずくまったままの麻鬼の傍らに立った。
 その目は真っ赤で、頬には何度も涙をぬぐった跡があった。
「駄目……やっぱり、駄目……!」
 激しく首を振る。新たにあふれた涙がしずくとなって飛び散った。
 床の上の麻鬼のブラウスを拾い、裸の肩にかけてやる。
「もっとめちゃめちゃにしてやるつもりだったのに…………駄目……できない……!」
 令子は麻鬼の背中にすがりついた。

「思ったより早く出てきたわね」

 うつむいたまま、いきなり麻鬼は言った。

 いつもの麻鬼の声だった。
 麻鬼の体を中心に冷気のようなものが噴き出してきて、室内を埋めつくした。
「え…………」
 令子は泣き顔のまま固まる。
「私を完全に屈服させてから姿を見せると思っていたんだけど」
 令子はがたがたと震えだした。
「ま、まさか…………全部、わたしを誘い出すための……お芝居…………?」
「ふふ」
「だから…………だから、あんな下手な誘導しかしないで……わざと怒らせて……?」
 麻鬼は身を起こし、ブラジャーを手に取る。顔をしかめてホックを留め、ブラウスの袖に腕を通した。
「痛たたた……。長峰先生、結構サドっ気強いみたいね。思いっきりやってくれたわ。これは計算違い。それとも、これもあなたの誘導?」
「………………」
 もはや令子は言葉もない。
 その胸元に麻鬼は手を伸ばし、ポケットの盗聴器を探り出しスイッチを切った。
「ペン型ね。ちょっとした事件があってね、盗聴には気をつけるようにしてるの。それにしても、よりによって万里江に見られるなんて、運が悪かったわね」
「それで…………それで、わたしの狙いを……?」
「いいえ。その前から、あなたの行動に気をつけさせていたわ」
「じゃあ…………やっぱり……樋口さんに催眠をかけたから…………そういうことがあったら報告するように埋めこんであって……」
「それもあるけど、はずれ。もっと前にあなたの正体には気づいてたわ」
「そんな……! じゃあ………………い……いつから…………」
「最初の日から」
「………………」
 令子は蒼白になった。それでいながら汗があとからあとから珠となって肌に浮かんでくる。
「どうして………………わたし、名字も、顔も変えたのに……他の先生も、昔の同級生だって、誰も気がつかなかったのに……!」
「整形したのね。美人になったわ。素敵よ」
「どうして……」
 麻鬼は答えず、長峰教師の方に行った。
 前に垂れているその額を支え、なでさすりながら呼ばわる。
「長峰さん。長峰さん。長峰さん。……長峰麗子さん。私の声が聞こえますか?」
 反応があらわれる。顔が上がり、ぼやっとした目で麻鬼を見る。誰なのかわかっているのだが、頭が反応しない、そんな表情。
「さあ、これからは私の言う通りにしてください。私の声を聞いていると、朝霞さんのときと同じように、とてもいい気持ちになることができますからね」
 戸惑うように左右に目を向け、抵抗を示す。麻鬼はその頭をやわらかくはさみこみ、真正面からのぞきこんだ。サングラスはかけていない。サファイアブルーの瞳が鮮やかにきらめいて長峰麗子の意識を縛る。
「はい、力が抜けていきます。何も考えられなくなってくる……体がだんだん重おくなって……深く、深あく沈んでいく……」
 支配権が奪い取られてゆくのを令子は黙って見つめるばかりであった。
「先生……」
「お姉さん……律子さんは元気?」
「………………」
 令子の目が見開かれた。姉の名前である。正しい。ということは、当てずっぽうではなく、本当に、
「わたしの正体…………知って…………」
「ふふ」
「どうして!」
「見た目や名前が変わったって、声、口調、仕草……変わっていないところは沢山あるわ」
「そんなことまで……全部…………おぼえて…………?」
「忘れたことはないわよ、あなたたちのことは。…………ずっと」
「…………………………」
 それを聞いた令子の瞳にあらたな涙が盛り上がり、頬にどっと流れ出した。
「先生………………いいえ……いいえ!」
 令子は麻鬼の胸の中に飛びこんでいった。

「おねえさま!」

 それだけ叫び、泣きじゃくった。

「今更言うのもおかしな話だけど、あらためて」
 麻鬼はその髪をなでながら言った。
「久しぶりね。入間さん」
「いや! そんなのいや! 昔みたいに呼んで!」

「…………リョウコ。いえ、3号」

 呼ばれて令子は激しくおののいた。
「ああっ!」
 まぎれもない官能の悲鳴がその口からほとばしり出た。
「どうしてこんなことをしたのか、これからじっくり聞かせてもらうわよ」
 麻鬼は見た目だけなら慈母のように、優しく口にした。


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