蜘蛛のノクターン

第七章の一 「千尋の鈴」

作:おくとぱす さん

 第七章の一 千尋の鈴

          (一)

 雨。
 夕刻まで勢いよく降っていた雨は今では霧雨に変わり、細かいしぶきが風のままに流れ、そよぎ、さらさらと降りそそいでいる。
 街灯やビルのネオンは淡い靄に包まれて、行き交う車のライトは尾を引き、音はくぐもり、人の姿も影のよう。
 街は水の底に沈んでいる。
 鬱陶しい。もっと降れ。もっと激しく、ざあざあと、何もかも押し流してしまうくらいに降りやがれ。
 そうして今が夜だってことを忘れさせてくれ。
 夜はあいつの時間だから。

 ――――アヤは制服姿のままビルの間にひそみ、壁に背をあずけてうずくまっていた。
 静かな雨が服にしみ、肌を冷え冷えと覆ってゆく。傘は持っていない。思い切り濡れたい気分だった。濡れて、冷えて、倒れてしまいたい。
 前髪が顔にへばりついて、しずくが頬をつたった。
 ポケットからタバコを取りだし、くわえる。別に吸いたいわけじゃない。火もつけず、垂れ下がってすだれみたいになった髪の間から、ぽつ、ぽつと水滴を浴びて色が変わってゆく白い巻紙を見つめ、唇で徐々に重くなってゆく感じを味わっている。
 何もすることがない。
 できることがない。
 今日、停学処分をくらった。――――それ自体はどうでもいい。元々三年間も無事に過ごせるなんて思ってもいなかった。退学になったって構わない。元々あそこはいるべき場所じゃない。
 けれど……。
 わずかに上げたアヤの視線の先に、オレンジの街灯が輝いていた。
 光源とその周囲にきらめく無数の雨粒。それが夕陽を浴びてきらきら散った窓ガラスの破片に見えてくる。
 あれはまだ昨日のことなのか。まるでもう遠い昔のようだ。
 両腕を顔の前で組んで、窓を破って飛び出してゆく制服姿――――。
(マリエ)
 うざったいばかりだった学校で、ただ一人友達と呼べた相手。
 彼女は別の所に行ってしまった。
 相変わらず普通に学校に通い、トランペットをにこにこしながら吹いている。今頃は練習を終えて満足しきって家に帰っているだろう。
 だがその中身は別のものだ。本当のマリエはあいつに連れ去られてしまった。今いるマリエはあいつの操り人形だ。動いているけれど、生きてはいない。あれはマリエではない。
 そのことに気づいて、戦おうとした。
 そして、負けた。
 完膚無きまでに叩きつぶされた。
 仲間とたのんだ京子と恵理香も、あいつの糸にとらわれて、中身を全部吸われてしまった。
 あいつは蜘蛛だ。自分もマリエもちっぽけな虫。自由にどこへでも羽ばたいて行けると思いこんでいた。いい気になっていたのでマリエは蜘蛛の巣にかかってしまった。京子も恵理香も捕まった。自分ももう少しで捕らえられるところだった。あいつがみんなを食いつくし、満腹したから見逃してもらえただけだ。わかっている。
 助けたい。
 マリエだけじゃなく、京子も恵理香も。
 けれど、何をしたらいいのかわからない。
 あいつを殴りに行くか?
 ――――駄目だ。
 使う武器が違うのだ。
(…………催眠術……)
 あいつは催眠術を使う。催眠術で人を好きに操っている。ぶちのめしても、みんなを解放できるわけではない。縛られているのは心だ。どうやれば心を奪い返すことができるのか。
 試しということで、自分も京子に催眠術をかけてもらった。気持ちよかった。自分が溶けてゆくような感じがして、言われるままに空を飛びもした。学校の一室で椅子に座っていたはずなのに、いつの間にかどこまでも澄んだ青空を鳥になってはばたいていた。
 あんな風に、マリエも別のものに変えられてしまっているのだろう。自分では少しもおかしいとは思わないで。
 アヤの脳裏に万里江の痴態がよみがえってきた。思い出したくもない、吐き気がするような格好。自分から足を開き、あそこをぐしょぐしょにして、いやらしい声を上げてよがり狂った。
 あれもあいつの仕業だ。間違いない。
 セックスはまだしたことがない。世間では気持ちいいことらしく言われているが、信じられない。したくない。絶対に。
「アヤも早く彼氏見つけなよ。すんごく気持ちよかったんだから」
 “万里江”はつきあい始めた男とのセックスについてあっけらかんとそう語った。
 こんなやつじゃなかったはずなのに。
 気に入った所はあちこちあるが、男に対して、いや、セックス的なもの全てに対して淡泊なあたりが一番好きだった。同じ気持ちの仲間だと信頼できた。
 そこをあいつにぶち壊された。あいつの催眠術で、記憶も、感性も何もかも入れ替えられた。
 別に自分は女が好きというわけじゃない。万里江への気持ちは単なる友達以上のものだが、そこに性的なにおいは一切ない。一緒にいるのが楽しく、話をするのが楽しく、連れ立って遊び歩くのが楽しい。それだけだ。
 なのに……。
 アヤは胸を押さえる。
 大きな穴がぽっかり開いている。
 なくすまで、そんなに大きなものだなんて思ってもいなかった。
 今の自分には何もない。
 できることもない。
 するべきこともない。
 したいことさえ失われていた。万里江と一緒に奪われてしまった。
 このまま雨に溶けてしまいたい。
 胸の穴に雨が貯まってゆく水音を、アヤは鬱々と聞いていた。
 ……。

 気配がした。
 人が自分を見ている。
 だが、心配している気配ではない。――――“敵”とアヤの本能が認識した。
 足音が近づいてくる。三つ。
「……おい」
 女の声だった。顔をあげた。日焼けした脚と極限まで短くしたスカート、その中身の下着までもがもろに見えて、眉間に険悪なしわが寄った。
 げっ、と引きつった声を相手がこぼした。
「み、水南倉……」
 いずれも髪を派手に染め制服を着崩した高校生。見知った顔だった。この辺りでよく見かける連中だ。危険な男たちと一緒になって幅をきかせている。体は売るしクスリも売る。これと狙った獲物をチームを組んで引っかけ、時には狩ることもする。そういうことには一切加わらず一匹狼に徹しているアヤとの間には、反目こそあれ、友情などひとかけらも存在しない。
 予想外の相手に出くわしてしまって腰が引け、傾いた傘の縁から水滴が顔に落ちて、濃いめの化粧に筋が浮く。彼女たちはチームとしてならともかく、個人個人としての実力はアヤの足元にも及ばない。
 それでも逃げ出す寸前で踏みとどまり、何とか虚勢を張った。
「な、何してやがんだ、こんなとこで。あんまりみすぼらしいからよ、ホームレスと間違えて狩るとこだったぜ」
「……てめーらか。消えな」
 アヤは暗い目で言った。億劫で、わざわざ相手する気にもなれない。
 いつもならひとにらみで逃げていく連中が、どうしたわけか動かなかった。うずくまったままのアヤをくみしやすしと見たのか、見下ろしてくる視線にだんだんと凶暴の気がこめられてくるのが感じられた。
 肌がぴりぴりする。不快だ。
「……なー、水南倉ぁ。ちょぅっと相談があんだけどよ……」
 斜(はす)に構えた相手の声に、アヤの体が目覚める。その気はないのに体の方が勝手に戦闘モードに入り、活性化する。濡れた服が肌にへばりついているのがあらためて感じられてくる。これも不快。
「あたしたちさあ、今ちょぅっと金がいるんだよねえ……。知ってるだろ、うちのチームの山崎さん。あの人がさあ、上納金出せって最近すごくてさあ、あたしたちもたまんないんだよ。でさあ、ちょっとでいいんだ、な、カンパしてくれないかなあ……」
 ――――こいつら。
 むかついた。
 その辺歩いてるようなマジメな連中ならまだしも、このオレから金をむしろうってのか?
 何考えてやがる?
 アヤは身を起こした。水の貯まった胸の穴のせいで体が重かったが、身の裡にどす黒い炎が巻きおこり、水をたちまち蒸発させた。熱い蒸気が血管を突っ走る。空っぽになった胸の中で炎はますます猛りたち、出口を求めて荒れ狂う。
 喧嘩は決して好きではないが、今ばかりは別だった。
 いいだろう。やってやる。
 相手の三人は、アヤが戦闘態勢に入ったと見るやすかさず傘を投げ捨て、三人が三人みなそろってナイフを取りだした。
(何だと?)
 凶器を持ち歩くのは当たり前になっている世相ではあるが、まったくの喧嘩素人でもあるまいし、ちょいとのぞきこまれればすぐ見られるこんな場所でいきなり出してくるとは、場慣れしているアヤにとってはかえって意外だった。
「い、いいから、金出せよ!」
 相手は叫んだ。見開かれた目に、切羽詰まった光が揺れていた。
「金がいるんだよお! 今週中に五十万集めなきゃならないんだ! でないと、あたしたち、山崎さんに……」
 狂おしく口にする相手の目の回りに、化粧で誤魔化してはいるが隠しきれないあざがあった。殴られた痕だ。
 ……よくわからないが、知ったことではない。
「金が欲しいんなら、そこらでスケベ親父でも捕まえるんだな。ま、てめーらの“ど”ブッサイクなツラじゃあ無理だろーけどな……」
 一番強いと見た、左側のがっしりした体格の女にガンを飛ばす。
 アヤはいつもの猫背、両手をポケットに入れている。そこに凶器の小型ハンマーが隠されているのは不良たちの間では有名な話だ。睨まれた相手は視線こそ外さないが、アヤの手に注意を向けている。
 アヤの切れ長の目に爛々とした眼光が宿った。猫みたいと万里江に言われたことがある。気合いを入れた時、色が変わるように見えるらしい。
 相手はこの眼技にのまれた。手への注意を忘れ、アヤの眼光に対抗しようと、意識を目に集中する。雨に濡れはじめた染めた黄眉がぴくりと動いた。
(捕らえた)
 相手の意識全てが自分に向いた瞬間、アヤはそう感じた。背筋を伸ばす。アヤは元々背が高い。猫背でいたからそうは見えなかったが、背筋を伸ばすとこの場の誰よりも大きい。相手の目がアヤの目に釘付けになったまま、引きずられて上に向く。あごが持ち上がる。
 相手が棒立ちになったその瞬間、アヤは炎を解放した。
 重心の乗った方の膝を蹴る。稲妻のようなローキック。速度ばかりか、威力も尋常ではない。正確に関節に命中し、嫌な音が鳴った。
 相手の膝がありえない方向に曲がった。崩れる相手にはもう目もくれず、隣の女に向かう。
 と、視線は動かさずに足だけを横に繰り出した。そこにいた小柄な女の脇腹に強烈な蹴りが埋まり、呻き一つ出せずに悶絶する。
 最後の一人がナイフを振りかざした。バックステップしてナイフに空を切らせ、同時に脚を振り上げ、かかと落としの要領で相手の手の甲を蹴る。後押しされるような形で、ナイフは相手自身の腿に深々と突き刺さった。
 ――――最初の蹴りからここまで、二秒もたったかどうか。
 アヤはポケットに手を入れたままだった。
 真横に折れ曲がった足をかかえ、悲鳴。
 胃の中身をぶちまけ、その上に頭から突っ伏して動かなくなる。
 絶叫しながら地面を転がる。点々と散らばる血。
 三者三様の苦悶を冷酷に見下ろして軽蔑の鼻息を鳴らすと、アヤはまた元の猫背に戻ってその場を立ち去った。
 熱かった体があっという間に冷えてゆく。
 炎は盛大に燃え上がったが、その分消えるのも早かった。
(………………)
 かえって空しさだけが増した。
 雨がまた体にしみこんでくる。胸の穴から、炎の燃えかすに雨がしみてしゅうしゅういう音が聞こえてきたような気がした。

          ※

 アヤは自分の住まいの前に立った。繁華街から電車で数駅、住宅街の中のワンルームマンション。
 どうやってここまで戻ってきたのか記憶がない。
 ドアノブに手をかけた。難なく開いた。出かける時に鍵をかけるのを忘れていたのだ。
 どうでもいいことだった。
 靴を乱雑に脱ぎ捨て、水滴をぽたぽた垂らしながら上がる。電気もつけず、暗い中で制服を脱ぎ、片端から洗面所の籠に放りこむ。
 バスタオルで体を拭く。シャワーを浴びるのも面倒だった。そのままベッドに倒れこむと、タオルケットを頭からかぶって身を丸めた。
 万里江を思い、あいつを思い、手も足も出せずに小物あいてに鬱憤を晴らしている自分のみじめさに歯がみした。
「畜生、ちくしょう、チキショウ……!」
 アヤは闇の中で泣いた。

           (二)

 日曜日。
 久しぶりに晴れ間が広がった。湿気が多く白っぽかったが、晴れは晴れだ。
 停学三日目。
 部屋にいても気が滅入って駄目になっていくだけだ。そう考えられるくらいの健全さはまだ残っていた。
 行くあてはどこにもなかったが、出かけた。
 やっぱり退屈だった。
 男が声をかけてきた。大学生ぐらいだろう。
 普段なら無視するところだが、誘いに乗ってみた。
 相手は小躍りし、気味が悪くなるほどに目をぎらぎらさせてあれこれ話しかけてきた。話の半分は意味がわからない。自分の外見をほめたたえているようだが、「くーるびゅーてぃー」というのは何のことだ? 笑わない人間のことをそういうようだ、こいつの話からすると。
 適当に相づちを打ちながら、やっぱりつまらないと思った。
 大体、体ばかり見てくるのが嫌だ。
 修羅場経験の多いアヤは他人の意識の動きに敏感だ。腕や肩、胸元あたりに、ことあるごとに相手がねっとりと視線を向けてくるのがわかる。
 自分を犯したいのだろう。男というのはそういう生き物だ。
 大した暇つぶしにもならない。そろそろ切り上げるか。
「――――だね」
 相手の声にいきなり引き寄せられた。
「え? 何か言ったか?」
「いや、だから…………君の目って、なんか不思議だって……。元気いっぱいって感じじゃないんだけど、静かで、きれいな……深いっていうのかな、こういうの。そんな感じでさ、じっと見られてたら催眠術にでもかけられちゃいそうな……」
 みなまで言わせなかった。
 上に乗っているハンバーガーセットごとテーブルをひっくり返し、相手に叩きつけた。ついでに蹴りも入れた。

 いらいらする。
 誰彼かまわず片っ端から喧嘩を売って回れば少しは楽になるのだろうか。
 その時はいい気分になれるが、後でかえってひどく憂鬱になることがわかっていたので、そこまではしなかった。だが気分が晴れないことには変わりない。体の中の空洞に黒い雲が湧いて、雷を縦横無尽にほとばしらせている。どこかに噴出させたい。
 いつの間にか電車に乗っていた。
 窓の外は暗くなっていた。もうそんなに時間がたったのかと驚く。時計も携帯電話も持ってこなかったから、今何時なのかもわからない。
 街の中心に近づくにつれて車内は混みあってきた。
 誰も近寄ってこないからありがたい。今汗ばんだ肌をこすりつけられたりしたら、何をしてしまうかわからない。
 だがそのままでいてほしいという期待はあっさり裏切られた。
「よお、久しぶり」
 近寄ってきた男が言った。
「……?」
 ちらりと見る。二十代後半ぐらい、割と鍛えた体の男。知らない顔だ。
 にやにやしている。スケベなツラだ。性根が腐っている。臭い。こういうのにはおぼえがある。教師のにおいだ。
 それ以上寄るんじゃねえ。内心にうめき声をあげつつ無視していたが、相手はなれなれしく肩に手をかけてきた。
「元気にしてたか? 最近どうしてる?」
 がっしりつかまれた肩に伝わってくる体温。嫌悪感が全身を突っ走り、身震いした。
 その場で蹴りつけなかったのが信じられない。
「次で降りるぞ」
 何のつもりなのか、いきなり耳元に口を近づけて言ってきた。手を握られた。あまりにも怒りが激しくて、かえって頭がすっきりした。こいつ、誰かと間違えてるんじゃないのか。落ちついてそんな風に考えることさえできた。
 電車が止まった。
 男は自信満々に腕を引いてきた。一緒に来いということか。
 手を振り払い、アヤは体の点火スイッチを入れた。
「この――――チカン野郎!」
 容赦しなかった。殴った拳の下で鼻がひしゃげ、歯が折れた。膝への蹴りはこれまでになく心地よく決まった。突きこんだ肘には肋骨を砕いた感触が伝わってきた。相手の体がホームに吹っ飛んでいって、何度も転がった。
「痴漢だと! この野郎!」
 ごつい体の大男が駆け寄り、一発殴りつけた。
 ドアが閉じると、何だかおかしくなって、かすかに笑った。
 けれども電車が動き出すと、言いようのない倦怠感だけが残った。
 ――――帰るか。
 誰もいない部屋へ、一人アヤは戻っていった。

          ※

 月曜日。
 雨なので外に出る気にならない。
 することもなく一日中部屋の中でごろごろしていた。
 幾度となくうたたねし、そのたびに夢を見た。
 嫌な夢ばかりだった。
 夕方近くなって、また眠った。
 夢の中で、自分は催眠術にかけられていた。ぼんやりしたいい気分。怪しげな手つきをして暗示を与えているのは京子。……だったはずなのだが、いつの間にかサングラスをかけていた。はずすと、信じられないほどの美貌に、蒼い瞳が冷たくきらめいていた。万里江と一緒になって見つめた。逆らえなかった。万里江がひざまずく。ほら、アヤ。うながされるままに自分もひざまずいた。大の字にされ、手も足もぴくりとも動かせないまま、美しい、大きい女がのしかかってきた。これでいいんだよと万里江と京子と恵理香が言ってきた。これであたしたちとおんなじ。体のあちこちをいじられた。万里江と同じ声を出して同じように悶えた。
 ――――おかしな汗にまみれて目が覚めた。夢を思い出し、うなり声を上げ、血が出るまで額を壁に打ちつけた。

 チャイムが鳴った。
 よろよろしながら玄関まで行く。
「何だあ……?」
「やっほー、アヤ!」
 声を聞いた途端、頭も体も極低温の倉庫に放りこまれたようになった。思考は凍りつき、何も考えられないまま、体が習慣的に動いてロックを外してしまった。
「はあい、停学中のいけない子はお利口さんにしてたかなあ? お見舞いに来たぞっと!」
 ポニーテールを揺らし、万里江がするりと入りこんできた。何やら買いこんできたらしいコンビニのビニール袋をぶらさげている。制服姿、鞄を持っている所を見ると学校帰り、時間帯からすると部活はさぼったようだ。
「うわお、せくしい!」
 乳房の形が浮き上がる長めのノースリーブシャツにパンティだけの姿のアヤを見るなり黄色い声を上げ、次に目を丸くする。
「うわっ、何だよ、その顔! 血ぃ出てるじゃない! どうしたのさ!」
「あ……」
 手がのろのろと動いて額をなでた。固まりかけた血が指にねとついた。
「ぶつけた……んだ……」
「さては飲んでたな? 駄目だよ、そんなに強くないくせに! ほら、さっさと洗って! カットバンあったっけ、この部屋?」
 どう反応していいかわからない間に洗面所へ押しこまれた。勝手知ったる他人の部屋とばかりに室内を物色している物音を呆然と聞く。
「はい、これでよし。ほんじゃ、これ、差し入れ。どうせ放っといたらカップ麺しか食べないだろ。駄目だよ。いい若いモンが、それじゃすぐにババァよ。セッシャの特別サービスだ、ありがたく思えよ」
 万里江はまだ湯気の立つお弁当を開けた。
 向かい合ってあぐらをかき、割り箸を手に、もそもそとご飯を口に運ぶ。まだ頭の中がぐるぐる回っていて、どういう態度をとればいいのかわからない。
 万里江はいつもの万里江だ。自分が知っている通りの万里江だ。
 これは万里江じゃないはずなのに、どう見ても万里江でしかない。
 だまされてはいけない。
 だけど……懐かしい。
 最後に本物の万里江とこんな風に向かい合ってから、わずか二週間足らず。
 なのに、何年も会っていなかったような気がする。
 懐かしくて、うれしくて、たまらない。
「……どうしたのさ、あたしの顔に何かついてる?」
 万里江は小首をかしげ、それから学校であったことをあれこれ話し始めた。
「今日さ、教生先生来たんだよ。大体フツーのひとなんだけどさ、珍しいのが、音楽のが来てさ、朝霞っていうんだけど、氷上先生見てふらふらしちゃって……」
 氷上。
 ――――氷上!
 頭が一気に元に戻った。ごちゃごちゃになっていたものが、突然それぞれのあるべき所にきちんと納まった。
「やめろ!」
 万里江がびくっとした。
「ど、どうしたのさ」
「あいつの話なんかするんじゃねえ!」
「あいつって……氷上先生?」
「やめろっつってんだろ!」
 万里江はアヤの剣幕にたじろいだが、怯えはしなかった。アヤの雷には慣れている。……
「ねえ…………もしかして、氷上先生との間に何かあったの?」
 アヤは思わずまじまじと万里江を見た。万里江は真剣だった。
「駄目だよ、あの先生おとなしいんだから、あんまりいじめちゃ」
「何ぃ……!」
 おとなしい? あいつが?
 オレが、あいつをいじめる?
 冗談にしては出来が悪い。笑えない。
やっぱり“これ”は万里江じゃない。
 黙りこんだアヤを見てこの話題はまずいと思ったか、万里江はつきあっている男の話に切り替えた。
「昨日さ、久しぶりに晴れたでしょ、外で体動かしたくってさ、おにいちゃん連れてそこの公園に行ったんだ……」
 どうしようもないほど暗鬱となったアヤの様子にも気づかず、一人デートの話で浮かれはしゃいだ。
「……帰れ」
「え?」
「いいから、もう帰ってくれ」
「なんだよ、いきなり……」
「帰れ! 二度と顔見せんな!」
 アヤは万里江を突き飛ばすようにして追い出した。
 電話が鳴った。
『アヤ……ごめん、悪かった。アヤってああいう話好きじゃなかったよね。あたしが悪かったよ、だからさ……』
 何も言わずに受話器を置いた。
 置いてから、
「違う……違うんだ……。オレが会いたいのは、お前じゃなくて……本当の……」
 唇が静かに言葉を紡いだ。
 頬にゆるやかに涙がつたった。
 電話がまた鳴った。電話線を根元から引き抜いた。
 玄関扉が強く叩かれた。
 アヤはベッドにもぐりこみ、耳をふさいで身を丸めた。

           (三)

 次の日も“万里江”が部屋に来た。
 中には入れずに追い返した。
 水曜日、雨がやんだので早々に部屋を逃げ出した。“万里江”が今日も来るだろうから、夜まで戻らなかった。
 次の日も、ずっと外にいた。街には補導員がうろついていた。おまわりも普段よりも多かった。チンピラどもの騒ぎがこのところやけに増えているらしい。何度か捕まった。お嬢様学校の生徒手帳がこういうときだけは役に立つ。それでも居心地悪いことには変わりなかった。粘るだけ粘って、遅くに部屋に戻った。
「……アヤ」
 寒々とした階段の踊り場で、ポニーテールの制服姿が待ち受けていた。幽霊を見た気分がした。
「………………」
「遅かったね……」
 非難するような、いたわるような、複雑な顔をしていた。泣きそうにも見えた。口は笑いの形を作っていた。アヤが動けないでいると、自分の方から階段を降りてきた。
「アヤ…………ねえ、どうしちゃったんだよ……?」
「帰れ……」
 アヤは背を向けてやっとそれだけ言った。
「てめーの顔なんかもう見たくねえ……」
「どうしてさ! あたしが何したっての!」
 万里江はすぐに激昂した。これもいつもの万里江だった。
 ――――こんな所だけはそのままかよ、“吸血鬼”。
「アヤ! 何か言ってよ! 変だよ、あんた! どうしてそんなになっちゃったのさ!」
「う、うるせえ!」
 変なのはお前の方だ。そう言いかけたがやめる。同じことを前にも万里江に言った。言うだけ無駄だった。
「何もおぼえてねえくせに……!」
「なにわけわかんないこと言ってんの! いいから、こっち向きな!」
 肩をつかまれた。振り払った。睨みつけたが、それ以上に激しい瞳が見返してきた。
「いい、アヤ、あたしの目を見てしっかり言いな! あたしはあんたのこと友達だと思ってる! あんたのことが大事だし、心配してる! わかった? じゃああんたは? あたし、あんたの友達じゃないの? 答えて!」
 一言一言が心に突き刺さってきた。柔らかな部分を鋭くえぐり、アヤは血まみれになってゆく。
 これを、こんなことを、こいつが言うのか……!
 この“万里江”が……万里江と同じ顔、同じ声をしたこいつが……!
「あああああっ!」
 アヤは叫んだ。万里江の両肩をつかみ、壁に押しつけた。
「ちきしょう! 氷上! てめえ、どういうつもりだ! オレをこんなに痛めつけて、楽しいのかよ! オレが苦しむとこがそんなに見たいのか!」
 万里江の体を激しく揺さぶる。万里江が悲鳴を上げる。
「ま、待って! どうしたの! 違うよ、あたし、氷上先生なんかじゃないよ! 落ちついて!」
「うるせえ! てめえは氷上の人形だ! もう来るな! やめろ! こんなこと、もうやめろ、沢山だ、やめてくれ……!」
 激情と共に涙があふれた。肩をつかむ力がゆるみ、体の力も抜けた。床に膝をつく。
「………………」
 深い事情があると判断したのだろう、慰めるつもりらしく万里江が何も言わずに頭を抱きかかえてきた。
「!」
 蒼白になって腕を振った。手の甲に痛みがはしった。万里江が顎を押さえてよろめいた。
「あ……」
 アヤは手を押さえた。当たったところが灼熱し、煙をあげているように思った。
 万里江の目にも涙が浮かんだ。これまで以上に大きく鋭い刃がアヤの胸を刺し貫いた。
「馬鹿あっ! もう知らない! 勝手にしろ!」
 駆け去ってゆく。
 その後ろ姿を振り向き、手を伸ばしかけてためらい、拳を宙に握りしめる。
 踊り場には、すっかり冷めてしまった弁当が残されていた。
 二つ。――――万里江は自分も何も食べずにこの時間まで待っていたのだ。
 膝立ちのまま、壁を強く叩いた。
「氷上! 畜生! うああっ!」
 その場に身を丸め、泣いた。

          ※

 やがて、アヤはふらふらと外にさまよい出た。
 万里江に追いついたとして、一体何を言うつもりなのか、自分でもまったくわからない。何を言ってしまうかも。もうあんな目で見られるのには耐えられない。それでも追わずにはいられなかった。
 駅までの道を走る。
 途中、明々としているコンビニの前を通り過ぎた。高校生ぐらいの少年が数人たむろしていた。
 胸に不安がきざした。補導員から聞かされた言葉。最近若い子の恐喝事件が異常に増えている。あの三人がかざしたナイフのきらめきが鮮やかによみがえった。
 駅の近くには危険な連中がよく出入りするクラブがある。繁華街から離れているせいでかえってバイクや車で乗りつけるには便利なのだ。
 一層足を速めた。

 かすかな悲鳴のようなものを聞いてはっとした。
 例のクラブの近く。
 極限まで研ぎ澄まされた感覚が相手の所在を探り当てる。
 ――――いた。
 駐車場裏に、人影がうごめいていた。
 体格や髪型に見覚えがある。この辺りでも悪名高い暴力ジャンキーどもだ。暴れること、人を殴ること、女を犯すことにしか興味がない。その中でも最強クラスの猛者たち。アヤでも一対一でようやく勝ち目が四分あるかどうか。
 そいつらが、制服姿の女の子を取り巻いていた。
 血が沸騰し、アヤは突進した。豹を思わせる身ごなしで、すぐ近くにゆくまで誰も気づかない。
 最初の男の膝の後ろを蹴りつけて倒す。肩から体当たりして隣の男を仲間の方へ吹っ飛ばした。
 飛びこみ、女の子の腕を取る。
 あっと思った。万里江ではない。
 だがそれはそれだ。
「逃げるぞ!」
 意表を突かれたのか、他の男たちはでくのぼうみたいに突っ立ったままだ。追ってはこなかった。
 安全と思われる所まで走りに走り、誰も追いかけてこないことを確認してからはじめて相手に向いた。
 知っている顔だった。
「…………おめー……?」
「ア、アヤさん?」
 手をつかんだ時から小さい相手だとは思っていた。
 小学生ぐらいの背丈しかない。
 たっぷりした髪を頭の上側左右で縛っている。目が大きく頬のふっくらした、可愛らしい顔立ち。
「アヤさん! アヤさんやーっ!」
 満面の笑顔で飛びついてきたその甲高い声、関西風のアクセント。
「え、えーと…………?」
「ちーちゃん! 迫水のちーちゃんやで! ひどいわあ、アヤさん、もう忘れてしもたんか? ああ、でも、ええわ、うちの大ピンチをアヤさんが助けてくれはった! こんなこともあるんやなあ。幸せや! もううち死んでもええで!」
 やっと思い出した。
 迫水千尋。これでも上級生だ。
 あまり、というか全然いい印象がない。腹立たしかったことしか記憶にない。
 しかし今はそれどころではなかった。
「どうしててめーが……?」
「いやあ、うちまだあんまりこの街んこと知らんやろ、せやからあちこち見て回ってるんよ。新聞部としては知っとかなあかん“すぽっと”も結構あるし。んで、今回はこの辺っちゅーことで、あっち見てこっち見てあそこの茶店入ってあそこのアイス食って、晩ご飯は向こうのマクドですませてな、うろうろしてたらこんな時間になってしもたんや。やばいって思った時にはもうあいつらに捕まっててな……ほんと助かったで、アヤさん! 
 どう見たってやばい連中やったし、その辺のおっちゃんなんか見ただけでぴゅうううと雲を霞と逃げてってしもうたし、ああもう駄目や、うちの華麗な人生もこないな所で花と散るんか、落花流水、ぽとりと落ちるサザンカの花、神様仏様お釈迦様キリスト様マホメット様ええと後何がおったっけか、とにかく可愛いちーちゃんを哀れに思し召し、どうかお助けくださいませませ。助けてくださった神様の方にはこの先一年分のお祈りを特別サービスご奉仕価格で大提供! うちのお祈りはそんじょそこらのお祈りとはひと味もふた味も違うで、三ヶ月でええんや、洗剤つけまっせ。祈っとったらこれまでのことが走馬燈みたいに頭んなかよぎってな、そう言や走馬燈って誰か見たことあるひとおるんかいなあ、聞いたことないんやけど。確かあれや、馬の絵が電灯の回りぐるぐるするってやつやろ。古道具屋にあるかもしれへんいうて中学んときツレが探しに行ったんやけど、あれ、どないなったんかなあ。ツレといえばうちの向こうでのツレのユリってえやつがな……」

 戻ってさっきの連中に突っ返してこようと本気で思った。

「うるせえ! それより、そうだ、万里江、うちの学校の制服来た、髪後ろにポニーテールにしたやつ見なかったか?」
「あ、それなら見たで。駅前で切符買ってた。確かあの子、一年二組の本城って子やろ? 美人なんでおぼえとるんや。泣いてたみたいに見えたけどなあ。……」
「見た、だけでいい!」
 また高速回転をはじめようとする千尋の口をふさぎ、安堵のため息をついた。
 よかった、無事だ。
「てめーもさっさと帰って寝ろ! こんな時間にうろつくんじゃねえぞ!」
 突き飛ばすようにして立ち去る。
「………………」
 ぺたぺたと軽い足音がついてくる。
「……なんでついてくる?」
「もー電車ないねん。万里江さんが乗ってったのが終電や」
「歩け」
「朝になってまうわ。またさっきみたいなのに捕まらんとも限らんし。アヤさんと一緒なら安心や。泊めてえな」
 ええと、こういう妖怪にくっつかれた時は、脇によけて、『べとべとさん、先へお越し』と言うんだったっけか。
 結局、自分の部屋まで千尋はついてきた。
 万里江のことがなければ、こんな得体の知れない相手はさっさと殴りつけるか何かして追い払っていたはずだった。決して部屋に上げるような真似はしなかっただろう。

           (四)

「アヤさん、一人暮らししてはるんか?」
 千尋はワンルームマンションに目をみはった。
「家の事情だ。それ以上何かぬかしたらぶっ飛ばす」
 不機嫌きわまりない顔でアヤは鍵を開けた。
「うわ……」
 入ってすぐの流しには空のカップ麺容器が山となっている。汁を捨てるのを忘れていたものもあり、異臭が漂っている。
「ほんまにここ女の子の部屋?」
「帰れ」
「うんうん、実にエレガントな部屋や」
 言うなり千尋は片づけをはじめた。
「泊めてもらうお礼や、このくらいさせてもらうで」
「勝手にしな」
 アヤは奥に入って服を着替え、ベッドに寝転がった。
 一心不乱に洗い物を片づける千尋の横顔を眺める。万里江が遊びに来たときはよくああしていた……。
 首を振る。この先二度とそういうことはない。
 泣きたくなったが、千尋がいるので我慢した。
「終わったで。……それにしてもホンマになんもない部屋やなあ」
「だから何だ」
「いやな、ベッドにテレビだけなんて、ちいと寂しゅうないかと思うたんよ。もうちょい、ほら、なんちゅうんや、うるおいっちゅーか、わびさびっちゅーか……」
 アヤは毛布を投げつけた。
「それかぶってさっさと寝ろ」
「どこで寝たらいいねん?」
「床に決まってる。そこらへんの雑誌でも枕にして、丸くなってろ。朝には全身が痛んですっきり目が覚める」
「ち、ちょっと待ってえな、そりゃないで」
「たまにはそーゆー体験してみな。いい記事が書けるぜ」
「そりゃ話がちゃうわ!」
千尋は立ち上がり、ちっちゃな唇を真一文字に引き結び、何やら決意した顔をした。
 髪をほどき、制服を脱ぎ、靴下を脱ぎ、おとなしいキャミソールと白いパンティだけの姿になる。胸のふくらみは可哀想なほど小さい。盛り上がっているだけでも上出来というところか。こいつブラしてるんだろうかと気になった。
「ようし、やったるでえ……」
 腕を振り回して威勢をつけると、ベッドに飛びこんできた。
「うわあ!」
「うちもこっちで寝るんや! アヤさんと一緒や!」
「このやろ、出てけ!」
「いやや! 離れへんで! うちはアヤさんと一心同体になるんや!」
「気色悪いこと言うな!」
 しばらくもみ合っていたが、突然、
「痛っ!」
 固いものがごりっと骨をこすった。
「あ、すまん!」
 千尋は胸から何やら棒のようなものを取りだした。
 紐で首から下げていたようだ。ペンダント……にしては大きい。しかも長い。長さ十センチほどの棒の先に、三センチ角ぐらいの鉄らしき固まりがついている。
 軽い金属音がした。
「やっぱうちじゃ駄目やなあ。アヤさんぐらい胸あったらきちんと谷間に埋まるんやけど」
「何だ、それ?」
「鈴や」
 千尋は軽く振った。
 リ……ィン……、と、軽やかなのにやけに深い残響の残る、不思議な音が鳴った。
「いい音やろ?」
「おかしな形だな」
「映画なんかで見たことないか? ほら、豪華な家で召使いに用事があるときなんかに鳴らすやつ」
「そんなもんがあるならさっさとてめえの召使い呼べ。呼んで、家まで送ってもらえ」
「来るかいな」
 千尋は鈴を枕元に置いた。
「さてと、これでよし。ほんじゃま、そーゆーことで、おやすみ」
「……おい、誰がここで寝ていいって言った」
「もうここまできたら言ったも同然や」
 アヤは馬鹿らしくなった。
「……勝手にしやがれ」
「やった!」
 千尋はただでさえ大きな目を一層きらきらさせた。その手放しの喜びようを見ていると、これでよかったのかもという気にさえなった。
 小さな体がしがみついてくる。
「……何の真似だ」
「ほら、うち、可愛いぬいぐるみみたいやろ? ぎゅーって、思い切りだっこしたくならへん?」
「なるか!」
「してみい。気が落ちつくで」
「アホか」
「ものは試し。でないとうちも落ちついて寝られへんのや」
「……何でてめえが」
「アヤさんのな、ため息が気になる」
「………………」
「なんか辛いこと我慢してはるやろ」
 思わずまじまじと千尋を見てしまった。
 可愛らしい顔が、意外に大人びた深い笑みを浮かべる。
「こう見えても先輩やで」
「たった一年で偉そうにぬかすな」
 言うには言ったが我ながら迫力に欠けていた。
 千尋はアヤから離れ、おとなしく天井を向いて目を閉じる。
「ま、どないな事情かは知らんけど、うちでよかったら好きにしてな。アヤさんのためになれるんなら本望ってやつや」
「……するか、馬鹿」
 電気を消して目をつぶると万里江の涙顔が浮かんできて、とても眠れそうになかった。
 それでも、隣の小さな体を意識すると幾分楽になった。
 一人だったらどうなっていたかわからない。
(こんなやつでも…………いるだけましか……)
 薄情にそう思った。

          ※

 少しうとうとした。
「――――」
 おかしな気配で目が冴えた。
「……何してやがる?」
 千尋の手がタオルケットの下でうごめいている。
「あ、いや、別にな……」
「どこ触ってやがる!」
「うわ、怒らんといて! 悪気とかそーゆーのとちゃうねん」
「じゃあなんだ。てめえ、そっちの気があるんじゃねえだろうな」
「ちゃうちゃう。ちょっとな、見てたらうらやましくなったんよ」
「うらやましい?」
「アヤさんって、ほんまにきれいやなって」
「……」
 千尋の手がアヤの長い髪を手に取った。指の間からさらりとこぼす。
「この髪も。うちなんか、のばしたら変なくせが出てな、とても見られたもんやない。ほら、ぼさぼさやろ。だから縛ってるんや。
 うちの名前の千尋って――――“ひろ”ってのは両手をいっぱいいっぱいに広げた長さのことで、千尋っちゅーのはめっちゃ長い、あるいは深いって意味なんや。んで、長生きするよう願いをこめて、名前に使われるようになった。でもな、髪が長いって意味もあるんよ。
 …………まあ、親にゃ赤ん坊がどんな風になるかなんてわかるわけないんやけど……うちはあまりにも名前に合わないもんでな、ちょっと気にしとって……」
「親、か……」
 声がとげとげしくなった。綾乃という自分の名前はどうしてつけられたのか、聞いたこともない。今ではもう聞く機会もない。
「それにな…………こう見えても、うちにも野望はあったんやで。男どもを片端から悩殺っちゅーんはまあ無理でも、気に入った男の子を色仕掛けでものにするくらいはできるように、胸ばーん、腰きゅうっ、脚すらーりってえ風にな。でも、結果はこのちんちくりんや……。
 確かに男は寄ってくる。でもな、『おじょうちゃん、おじさんと遊ばない?』ってなのばっかしなんや。高校生や言うたらもっと目の色変えてくる。ろりこんっていうんやで、ああいうの。冗談やない」
 千尋の手がアヤの脚から腰、胸へとさすってきた。
「ほんま、うらやましいわあ……。どうやったらこないになれるん? 世の中ってつくづく不公平やなあ」
「知るか」
「なあ、アヤさん。ちょっとだけ、くっついてええか?」
「……おめー、本当にそういう趣味じゃねえだろうな」
「ちゃうって」
 許可を出すより早く千尋はアヤの上に這い上がってきた。
 豊かな胸に顔を押しつけ、Tシャツの布地越しに両方のふくらみをもみしだく。
「うひぇえええ!」
「ああ、極楽や……」
「やめねえか!」
 拳骨を振るった。千尋は目から星を飛ばして転がり落ちる。
「いったーっ! 何すんねん、いきなり!」
「おかしな真似するんじゃねえ!」
「ええやんか、気持ちええもんはええんやから!」
 言うなり千尋は両手をアヤの胸にのばしてきた。
 小さな千尋の手では大ボリュームのアヤの乳房は包みこめない。ほとんどを手からこぼしたまま、もみもみと指を動かす。
「どや、アヤさんも、こうされると気持ちええやろ?」
「全然」
 また拳骨を振るった。
「イツツツツ……。おっかしいなあ、うちのテクそんなに衰えたんかな?」
「てめえ、やっぱりそういう趣味か!」
「ちゃうちゅーとるやんか。アヤさん、こーゆーじゃれあいしたことないんか?」
「……ねえよ」
「そっか、やっぱりな。よーし、ほんじゃこれからたっぷりと……」
「このやろ、なんだその手は!」
「うひひひひ、お嬢さん、極楽教えたるでえっ!」
「やめねえか! こら! どこ触ってやがる!」
 ……。
 しばらくして、アヤも千尋も息を荒げながら動かなくなった。
「うにゃ……」
 千尋がアヤの体の上によじ登ってくる。
「この……」
「ちゃうちゃう、もう何もせえへんわ。ちょっと、ええか?」
 千尋は顔を横向けにしてアヤの胸に耳をつけた。
「めっちゃどきどきいうてはるな。ええわ…………この音聞くの好きなんや…………あ、だんだん落ちついてきた…………だんだん、だんだんゆっくりに……ゆっくりになってきた…………」
 声のトーンが徐々に下がってゆく。あれ、こいつこんな風にしゃべることもあるんだと驚くような、これまでとはうって変わった落ちついた口調になっていた。
「アヤさん、落ちついてきたやろ…………呼吸も楽になってきたんやね…………リラックスしてきたのわかるで…………どんどん楽になってきた……」
 信じられないほど低い声になる。それに合わせて確かに騒いだ火照りが収まり、気が楽になってきた。手足がだるくなる。
「やっぱりアヤさん鍛えとるせいか、落ちつくのも早いな。うちなんか、ほら、聞いてみ」
 高い声に戻し、するっと上に移動して、アヤの頭を抱えこむ。抵抗する間もない早業だった。
 どく、どく、どくと小さな鼓動が鳴っている。かなり早い。
「ほら…………少しずつ落ちついてくる……落ちついてくるけど…………まだまだ早いやろ…………じっと聞いててな、うちのどきどきが落ちついてくるのがわかるやろ………………少しずつ、少しずつ、どきどきが遅くなってきて、だんだんと楽になってくるんや…………」
 また声が低くなっていった。
 頭を抱かれるのは思った以上にいい気持ちだった。全然友達なんかじゃない千尋相手でも、安心感が生まれた。アヤは言われる通りに千尋の心音に耳を澄ませ、声が低くなるのに合わせて徐々に安らいだ心地に沈んでいった。
「こないな風にされとると、お母さん思いださへんか? ずうっと昔、まだちいちゃかった頃…………怖い夢見て一緒に寝てもらったこととか、もっと前の、おっぱいもらっとった頃とか……」
「………………」
 アヤは自分から離れて上を向いた。
 母親のことはあまり思い出したくない。父親も。親のことなんか……。

 リ……ィン……、と鈴が鳴った。

           (五)

「これな、明治時代に作られたやつやねん。あのころ、西洋のものを片端から取り入れて真似して、けったいなものも色々作られたやんか。鹿鳴館とか、授業でやらんかったか? でな、これ、そういう流れん中で作られたもんらしいんや。南部かな、あの辺の、鉄器づくりの盛んだった所で、鈴の部分は伝統的な作り方で、柄だけは西洋風にこしらえた、わよーせっちゅーっちゅーやつなんや」
 歴史に興味がないアヤには半分もわからない。千尋もその辺りは心得ているのか、相づちを求めもしない。
「うち、これ古道具屋で見つけたんや。“千尋鈴”いうんやで」
「ちひろ……?」
「千尋の底に沈んだ思い出を引っぱりあげてくれる」
「思い出……?」
「なんかロマンチックでええやろ。昔の、懐かしいことを思い出させてくれるそうや。一発で気に入った。うちのためにあるとしか思えんかった」
「……胡散臭えな」
「ま、その辺は向こうも商売、巡り巡る間にどっかで尾鰭つけたんやろな。でもな、そないなことはどうでもええ。大事なのはな、この音聞いてるとホンマに懐かしいこと思い出せるっちゅうことや」
「本当か?」
「あ、疑ってはるな? ほな、やってみよか?」
 千尋は目を閉じた。顔前に鈴を持っていく。
 いつも笑みを浮かべているような顔が無表情になり、アヤはつい引きこまれた。
 鈴が鳴る。
「…………ああ、そうやな……」
 瞑目したまま千尋はつぶやく。甲高いが、間延びした声だ。
「思い出した…………うちの田舎……おじいちゃんとこ遊びに行った…………夏休みや。
 太陽がかっと熱うて、蝉がみんみんやかましい。親戚の子と草まみれになって遊び回ってて…………呼ばれて、縁側に座って、スイカが出てきて………………真っ白なお皿に、種のぽちぽちの入った、めっちゃ綺麗な赤…………よう冷えてて、しゃりっとして、甘い……。
 夢中になって食べとったら、すうっといい風が吹いた………………水のにおい、草のにおい、お日様のにおい……。肌がひやあっとなって、庭のひまわりがゆらゆらと揺れて…………軒先の風鈴が……」
 リ……ィン……。
 アヤははっとして、数回まばたきをした。一瞬、本当に千尋の言う通りの景色が目に見えた気がした。
「な?」
 千尋が目を開いてにんまりとした。
「どや? アヤさんも、試してみい。今のはうちの懐かしいものや。アヤさんだったらアヤさんの懐かしいものが戻ってくるで」
「………………」
 懐かしいもの。
 何が見えるのだろう?
 アヤが何か言うより早く、千尋はアヤの額に手を置いた。
 反射的に目を閉じてしまう。
「気を楽にしてえな。別に思い出そうとせんでええんや。この鈴の音聞いたらな、自然に心が落ちついてな、心の底から思い出がふわふわと浮かび上がってくるんやで」
「嘘つけ」
「ま、試しや。楽にしとったらええ。何も思い出せんでも、この音聞いてるだけで楽になるし、何だったら寝てしもうても構わんで。ほんじゃ、ほれ」
 鈴が鳴った。
「……まだこれだけじゃ何も見えてきいへんやろな。でもな、さっきよりも落ちついた気分になっとるやろ?」
確かに、軽やかなのにどこかに鉄の重厚な響きを含んだ鈴の音は心地よく、全身の緊張をほぐす効果があった。
 千尋の手がゆっくりとアヤの額をなでさする。何しやがる、オレはガキじゃねえと不満に思ったが、そうされているのは気持ちよくもあり、なすにまかせておいた。
「次に鳴らすと、もっと楽になるで。鈴の音が、心の奥深くに届いて、懐かしい思い出が、だんだんと、だんだんと、呼び起こされて、ふわふわ、ふわふわと、ふかあい所から、とってもふかあい所から、ふわふわと、浮かび上がってくる…………」
 一言一言をリズミカルに細かく区切り、語尾に奇妙な余韻を残す千尋の声が、また徐々に低くなっていった。聞いているうちにアヤは頭がぼうっとしてきた。
 寝てしまってもいいとか言っていたな。いい気持ちだ、このまま寝ちまおう……。
 リ……ィン……。
 アヤの意識は深い所へ沈んでいった。
 深海に冷たくよどむ記憶の泡が、鈴の音に振動し、ひとつふたつと動き出した。
 はるかな底から浮かびあがってくるにつれて大きくなり、腕でかかえきれないくらいの大きさになり、アヤを包みこむ。
 光が弾けた。
 何かが見えた。見えたと思った瞬間にはもうアヤは泡を突き抜け暗い水中に戻ってしまっていた。いくつもの泡を突き抜ける。もう少しで見えるのに、輪郭がはっきり固まらず、保てない。アヤの眉根に、考えこむときのような痙攣が起こった。
 次の鈴の音がした。
 途端に、アヤは泡の中の世界にしっかと立った。
「さあ、もうすっかり昔に戻ってしもうたで……」
 天空のどこかから声がした。誰の声か、考えることができなかった。見えるものが懐かしく、それどころではなかった。
「何が見えるん?」
「ゆうえんち……」
 アヤは問われるままに口にした。語っているという意識さえもはや失われていた。声にすることによって一層世界ははっきりとなってくる。
 小さい頃、まだ四つか五つ、小学校に入る前。
 たった一度だけ連れていってもらった遊園地。
 父と母が一緒に笑っているのを見たのは、あれが最後だった。
「怖い顔ばっかりしてたオヤジが…………熊さんのぬいぐるみに恥ずかしそうに声をかけて……オレに、風船もらってくれた……」
「どないな風船?」
「黄色…………遊園地のマークのついた、明るい黄色……」
「どんな気分や?」
「うれしい…………。お父さんにもらったの、初めて……」
「プレゼントとかもらったことないんか?」
「いつもお仕事で忙しくて……カードと一緒に箱が届くばっかりだったの……」
 幼い自分と同化し、アヤの口調は次第に舌っ足らずになってきた。
「そっか。とってもうれしかったんやな。じゃあ、風に飛ばされへんように、しっかり風船握っとかなあかんで」
「うん……」
 目を閉じたままアヤはうなずき、口元に笑みを浮かべた。
 体の脇に置かれた手の指が何かを握るように動く。
「そう、絶対離さないように、しっかり持ったな。ほんじゃ、次に鈴の音を聞いたら、その風船が浮き上がって、手をぐぐうっと引っ張るようになる……」
 リ……ィン……。
「ほうら、手が上に引っ張られる。手が軽うなって、ふわあっと、黄色い風船に引かれて、上に持ち上がっていく……」
 アヤの腕が宙に浮き上がった。親指と人差し指と中指とで糸を握るようにしながら、手首が持ち上がり、肘が離れた。
「ああ、あかん、風船がめっちゃ強く引っ張っとる、このままじゃ手から離れてしまうわ。両手でしっかり握らなあかん」
 アヤは風船が飛んでいってしまいそうな恐怖感にかられ、急いで左手も持ち上げて糸をつかんだ。
「そうや、それで安心や……。そのまま、離すんやないで……」
 がっしり糸を握ると安心感が湧いてきた。このまま持っていればお父さんにもらった大事な風船をなくさないですむ……。
「体がふわありと軽うなってく…………体がかるうくなって…………どんどんかるうくなって…………風船と一緒に、お空にふわふわ浮き上がってく…………」
 そんな馬鹿なとちらりと思った。鈴が鳴った。途端に両腕の重さがなくなり、それが上半身にも広がっていった。
 千尋はアヤの背中に手を入れる。アヤは何の抵抗もなく上体を起こした。
「体全部がふわありと浮き上がる……」
 千尋はアヤの脚をかかえ、ずらしてベッドから下ろす。アヤは両腕をさし上げたままベッドに腰かける姿勢になった。髪が乱れて前に落ちかかっている。
「もう大丈夫や、ゆっくりと地面に降りて行こうな。はい、すうぅっと下に降りてきて、すうぅっと降りて、元の地面に戻る、戻る……」
 アヤの腕が言われるままに下降し、組んだまま腿の上に置かれる。千尋はその手をほどかせ、体の両脇に垂れさせた。
「体の力が抜ける…………めっちゃええ気持ちや、体のどこにも力が入らんようになって、ほうら、首の力が抜けて、肩の力も抜けて、ええ気分になる…………力が抜ければ抜けるほど、すんごいいい気持ちになるで……」
 アヤの首ががくりと前に折れる。
 千尋はアヤの肩をつかみ、揺さぶった。アヤの長い髪が右に左に揺れた。何の抵抗もない。
 鈴が鳴る。
「もう体はうちの言うとおりにしか動かない」
 ああ、そうなんだとアヤは受け入れた。乳白色の靄の海に浮かんでいるような感じがして、信じられないくらいに心が安まり、逆らって力を入れるのが面倒くさい。何もかもこいつの言葉通りになるのなら、楽でいい。アヤはすっかり千尋の声の虜になっていた。
 アヤの顎がくいっと持ち上げられた。
「ほな、目ぇ開けて」
 切れ長のアヤの目がゆっくりと開いた。ぼんやりと真正面を向き、普段の鋭いものがすっかり失われた、弛緩した表情で千尋を見やる。
 千尋は手の平をかざした。
「この手、じいっと見いや。ほら、もう目を離すことはできへん。じいっと見てると、だんだんと頭ん中がぼんやりとしてきて、何にも考えられなくなって、真っ白になっていく……。
 今から三つ数えると、瞼が重うなって、目を開けてられんようになる。目をつむると、どこにも力が入らなくなって、体がすううっと後ろに倒れていく……後ろに倒れる。
 ほな、ひとおつ、ふたあつ、ハイみっつう!」
 リ……ィン……。
 鈴の音がした瞬間、アヤのまぶたが垂れ下がって半眼になり、数回まばたきして抵抗したものの、閉じる、閉じると繰り返す千尋の低い声にすぐに誘導され、完全にまぶたが合わさってしまった。
「その目はもう開けられへん。どんなにしても自分じゃ開けることはできへん。だけどええ気持ちや。ほらほら、体の力が抜けるで、もうどこにも力が入らない、すうっと後ろに倒れる、倒れる、倒れる……」
 アヤはベッドに倒れこんだ。Tシャツの下で豊かな胸が揺れた。閉じていた脚も緩み、雪白の太腿が付け根まで千尋の目の前にさらけ出された。
「すうううっと沈んでいく…………深い所に入っていく…………とってもいい気持ち、アヤさんはもううちのもの……体も、心も、うちの思うがままになってしまった…………」
 千尋の顔に笑みがあらわれた。
 これまでの人なつっこいものとはまるで違う、大きな目がぎらぎらして、不気味な陰影のついた、妖気漂う笑顔であった。
 ベッドに上がり、安らかに寝息をたてるアヤの耳元で低くささやく。
 そこに関西弁の響きはなかった。
「前にも言ったよね……いつか、たっぷり遊んであげるって……。
 あんたはもうあたしのものだよ………………あんたはあたしの催眠術にかかった。身も心もあたしのものになった……」

 ――――その言葉を聞いた途端、アヤの心の中に火花が散った。
(催眠術!)
 裸になれと言われるよりもはるかに強烈な、すさまじい反発が沸き起こった。
 アヤでなければそのまま受け入れてしまっていただろう。
 あいつ、あの音楽教師の姿が脳裏に浮かんだ。
 万里江の顔も。昔の顔、あいつに捕まった後の偽者の顔。
 アヤは覚醒した。

           (六)

 アヤは目を大きく見開いた。
 勢いよく起き上がる。
「!」
 千尋がたじろいだ。
 アヤの瞳が色を変えた。これ以上ないくらい激しい怒りが燃え上がった。
「こ、この野郎!!」
 逃げようとしたところに腕をのばし、突き飛ばすような形になって千尋の体がベッドから転がり落ちた。
「ま、待って、落ちついてえな、アヤさん!」
「オレに催眠術かけようとしやがったな! 許さねえ!」
「ひええっ!」
 千尋は身を丸めた。うずくまった頭上をアヤの脚がうなりを上げて通過した。逆上していて、一切手加減しなかった。21インチ型のテレビがひしゃげ、たっぷり一メートルは吹っ飛んで部品をまき散らした。
「この……!」
「誤解や、誤解、アヤさんの誤解や!」
 千尋は蒼白になって逃げまどった。今の蹴りを食らえば、小さい千尋の体は窓から外へ弾き出されるかもしれない。そうでなくとも内臓破裂だ。運がよくて骨折。当たり所が悪ければ一撃即死もありうる。
 小動物を思わせるすばしっこさを発揮した千尋は、距離を取ると危険だと判断したのか、逆に自分からアヤに飛びついてきた。思いもよらぬ敏捷さで背後に回りこみ、腰にしがみつく。アヤは肘を振るうがあと少しで届かない。
「この、離せ、ぶっ殺してやる!」
「いやや! 離したらアヤさんうちを殴るつもりや! こんな可愛いちーちゃんを!」
「何が可愛いだ、催眠野郎!」
 それは今やアヤにとっては最上級の罵倒語、絶対に許せない相手を指す言葉だ。
 かかとで蹴りつけ、右に左に体をひねるが、千尋は妖怪子泣き爺さながらにぴったりくっついて離れない。腰に回されている腕をもぎ放そうとするが、千尋も必死だった。
「どけ、コラぁ!」
「駄目や! 駄目! 離さへん! もう離れへん!」
「この……」
「だって、アヤさんはうちのものなんやから!」

 ――――その言葉と共に。
 アヤの体が重りを巻きつけられたようになった。
(あれ……?)
「そうやろ…………アヤさんの体はうちの言うとおりに動くんや…………もうアヤさんはうちのものになっとるんや…………」
 千尋の声がまた低音に下がってゆく。
「だから、ほら、手も足も、ずうんと重くなる…………重くなって、だるうなって、ほら、もう立ってられへんで…………」
 そんな馬鹿なと思う。なのに、千尋の言葉のままに手も足も鉛に変わってしまって、動かせなくなった。
 千尋がアヤの腰を揺さぶった。上半身と下半身が分離してしまったかのように、ぐらぐらと頼りなく体が揺れた。
(ぐっ…………この野郎……)
 煮えたぎったアヤの頭脳は、これが暗示によるものだと思いつかない。ただひたすらに体の支配権を取り戻そうと焦る。そのせいでかえって思うように体が動かせなくなり、さらに焦って、落ちついて状況を見極めることができなくなってゆく。
「ほれ!」
 膝の後ろを突かれた。脚が折れ曲がり、床に膝をついてしまう。上体も前に倒れそうになった。危ないと思ったのに腕が動かない。千尋が支えていなければ顔面から床に突っこんでしまっただろう。冷汗がどっと噴き出し、頭の中が真っ白になった。
 素早く前に回りこんだ千尋が肩に手を置いてきた。膝をついているので頭の位置が同じくらいになり、目線はほとんど水平。大きな瞳が異様な光をたたえてアヤを見つめてくる。邪眼というしかない妖しいきらめき。アヤは脳髄を冷たいものに貫かれたような感覚をおぼえた。
「さあ、あたしの目を見て……」
 背筋がぞくぞくとなるような低い声。
 その声は信じられないほどに心地よく耳に響いた。平常の時でも抵抗できるかどうかわからない、実体をもって肌にまとわりついてくるような声だった。
「ほら、もう目が離せない…………あたしの目から視線を外せない…………そう、じっと見て……だんだんまぶたが重くなってくるよ…………ほら……」
「う…………あ……」
 歯ぎしりした。何とか逃れようとする。だが体は自由にならない。肩、指先、腰、腿、いたる所が異様に震える。
 苦痛が押し寄せてきた。肉体的な痛みとはまるで違う、どうやれば抗うことができるのか見当もつかない、精神的圧迫。千尋の言葉に反発することが信じられないほどに苦しい。世界中が敵にまわり、言うことをきかない自分を責めたてているような気分。
(嫌だ!)
 そう思うことさえ涙が出そうなほどの辛さを誘う。
 もう半分以上閉じたまぶたを懸命に持ち上げる。すると邪眼がきらめいてアヤの心を縛る。目を閉じる。すると心が闇に沈んでいきそうになる。どうしたら逃れられるのかわからない。催眠への反発と強靱な意志だけが頼りだ。嫌だという感情を必死にかきたてて耐える。
 しかし、陥落は時間の問題だった。むしろ、こらえて千尋の目を見続ければ見続けるほどにより強く心が呪縛されてゆくのだが、アヤにそんなことが理解できるはずもない。だんだんと、何が嫌なのかさえわからなくなってくる。千尋の目を見ていると幸せな気分がじわじわと押し寄せてくる。
「ほうら、どんどん深くなってくるよ…………」
 深いという言葉を聞いた瞬間、足の下に深淵が口を開けた。自分は穴の縁に指一本だけでぶら下がっている。
「抵抗しなくていいよ………………ほら、この音を聞いたらもう何もかも忘れて、楽になる…………楽になる…………」
 何が来るのかわかった。耳をふさぐべきだ。
 だけど……どうしてそんなことを?
 わからない……。
 楽になるならいいじゃないか。
 早く……楽にして……。
 千尋の手が揺れた。
 リ……ィン……。
(あ…………)
 アヤは落ちた。
 どこまでもどこまでも落下していって、何もわからなくなった。

          ※

 ぐったりとなって前に倒れてきたアヤの体を千尋は抱きとめた。
「深あい所に入っていくよ…………もう自分では目を覚ますことはできない……何も考えられない、とてもいい気持ち…………」
 ほら、立ってと千尋は促した。千尋の肩に手をかけて立ち上がったアヤは、息を弾ませ、目を固く閉じたままふらふらしている。
 ベッドに座らせた。
「……はい、これでアヤさんはあたしの言うことをなんでも聞く、とーっても素直なお人形さんになった。そうよね?」
 千尋の声は依然あの妖しい響きのままだ。
「はい…………」
 アヤはうなだれたまま従順に答える。
「じゃあ質問。あなたは何?」
「オレは…………人形…………」
「それじゃわからない。もっとしっかり言って……。それに、オレなんて言っちゃ駄目。女の子はそういう言葉づかいしちゃいけないんだよ……」
「オ…………あたしは……人形…………あなたの言うとおりになる、素直な人形…………です……」
「そう、それでいいんだよ。ほうら、口にしたらすごく気持ちよくなったでしょ? あたしの言うとおりにしてると、ずっとずっとそのままでいられるの……。今から、そのことを繰り返して自分に言い聞かせなさい。何回も何回も、あたしがこんな感じで肩に手をかけて呼ぶまで、ずっと繰り返すの。それまで、音は何にも聞こえない、どこを触られても何も感じない。……」
 十分アヤが深い催眠状態に入ったと確信したか、千尋はひとつ大きなため息をついた。声音がようやく最初の甲高いものに戻る。
「あ〜あ、めちゃめちゃや。誰が片づけると思うとるんや、怪力女」
 こつんとアヤの頭を叩く。
「えらい苦労かけさせよって。ただじゃすまさへんで、わかっとるやろな」
 アヤの口に指をつっこみ、左右に広げる。胸を揉む。Tシャツをまくりあげて、乳首をつまんで引っ張る。指をパンティの中に忍び入れる。いずれも、アヤは何も反応しない。
「よし。……」
 千尋は自分の制服のポケットから携帯電話を取りだし、かけた。
「……あ、うちや。遅れてすまへんな。そっちの首尾はどないや? …………そっか、そんならええ。………………あ、それは今日はパスした。めっちゃ上等な獲物落としたさかい。誰やと思う? アヤや。……そ、あの水南倉綾乃。そないに驚かんでや。ホンマに運が良かったんや。でな、今日はもうええけど、明日朝一でこっち来てや。住所は――――」
 それから千尋はアヤの肩に手をかけた。
「うちの声が聞こえるな? ええか、あんたにちょいと電話に出てほしいんや。向こうは偉いさんや、大事な人や、丁寧に挨拶せなあかんねんで。ええな。ほんじゃ、ほれ」
 アヤはうつろな目を開き、携帯を受け取り、のろのろと耳に持っていった。
「…………水南倉綾乃と申します…………はじめまして……よろしくお願いします…………」
「はい、ようできました」
 千尋は携帯を奪うとアヤの額をなでた。
「ほな、ゆっくりおやすみ。何も考えられなくなってくる。ほうら、眠い、眠い…………明日の朝まで夢も見んでぐっすり眠るんや。明日の朝に目が覚めると、うちとはすっかり仲良しで、うちの言うことはなんでも素直にきけるようになってるからな。
 ――――な、どうや? もうすっかりうちらのものや。今日はこのままおやすみさせとく。明日の夜から、早速始めるで……ふふふ……」
 安らかな寝息をたて無防備に眠るアヤを見下ろし、千尋は薄笑いを浮かべた。幼い顔立ちが蒼白い炎に縁取られたようになって、暗がりの中でたとえようもなく邪悪に浮かび上がって見えた。


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