第七章の三 狂宴 I
(十二)
アヤの調教は延々と続けられた。
一度絶頂を味わってしまったアヤは、もはや快楽の暗示に抵抗することができなかった。
「ほうら、また……どんどん気持ちよくなっていく……。あなたの体は、どこを触ってもものすごく感じる。試してみるよ…………右の腕……」
低い声で暗示を与える千尋の目配せに合わせ、大の字になったアヤの右側にいる文月――――葉月かもしれない、判別不能――――が、目の前に投げ出されている真白い腕をそっとさする。それだけでアヤの体がびくっと震える。
「すごく気持ちいい。左手も同じ。触られるところ全部が最高の性感帯になる……」
左側の葉月――――あるいは文月――――が、広げられたアヤの手の平に口を寄せ、手首から中指の先まで一気に舐めあげた。ただでさえ神経が多く通っている部位を刺激され、アヤはクリトリスでも舐められたかのように悲鳴をあげ身を揺すって悶えた。
「ね、すごいでしょう。今のあなたの体は全部性感帯。ものすごく敏感で、どこを触られてもたまらない気分になる……。
これからあなたの体中をいじってあげる。そうすると、あなたは今までに感じた以上の、ものすごい快感にとらわれて、あっというまにイッてしまう。でも、今のあなたの体は普通じゃない。何回でもイける。一度イッても、すぐにまた気持ちよくなって、あっという間にまたイッてしまう。何度でも何度でもイける。全然つらくない。気持ちよくて、気持ちよくて、たまらない。いくらでもしてほしい。ほうら、もう体が熱く、ものすごく熱くうずいてきた。アソコももうぐちょぐちょ。してほしい。触って、気持ちよくしてほしい。もう我慢できないよ……」
一体どういう発声法なのか、今いるホテルの部屋はあまり反響がないのに、千尋の声は語尾が韻々と異様に伸びる。
全裸で横たわるアヤの左右にこれも全裸で身を寄せている双子。この妖しい声にこちらも虜にされてしまっているのか、目はどこか正気を失った風に霞み、千尋の唇の間から暗示が滑り出してくるに合わせてアヤと一緒になって切なげに身をくねらせている。
「さあ、その気持ちを口に出して言ってみようね……。言うことができるよ。どこを触ってほしいか、どうしてほしいか、口に出して、はっきり言ってみて……。そうすれば、すぐに最高の気分にしてあげる。
さ、言って……」
リ……ィン……と鈴が鳴った。
アヤは間断なく洩らし続けるあえぎの中から、唇を震わせ、顎を幾度となくむなしく動かし、ようやく聞き取れるだけの言葉を絞り出した。
「し………………して…………」
涙まじりに哀願するその姿には、もはや黒い不良少女の面影はない。
「……お、おねがい…………はやく………………してよお……」
「よく言えたね。じゃあ、たっぷりしてあげるよ…………ほら」
双子が左右から一斉に責めを開始した。
「ひいいいっ! あああっ、はああっ、ううう、ひやあああっ!」 甘い悲鳴がたちまち絶叫に変わる。たっぷり充血している乳首をいじられると声がさらに甲高く跳ね上がった。
「ああっ、あっ、ああああっ、いっ、イク、イクうううっ!」
ものすごい勢いでのたうっていた脚の動きが止まり、女性らしからぬ太い筋が盛り上がってびくびくと痙攣した。深い息を吐き出してぐったりする。だがそれもほんの一瞬で、すぐにまた悶えはじめる。悲鳴はさらに激しくなる。
「イクときにはちゃんとそう言うんだよ。口が勝手に動いてそう言っちゃうからね」
「イ、イク……っ!!」
わずか数十秒でまた絶叫した。
双子の指が秘所に迫る。
「ああっ! あ……い……イクッ……!」
もはや失禁同様に濡れそぼっている秘裂に指が触れただけで絶頂の声をあげた。舌が敏感な肉芽の上で巧みに円を描く。指が秘所と会陰、さらに後方にも入りこむ。両の乳房は思い切りこね回されている。首筋を強く吸われる。肩に噛みつかれる。何をされても痛いどころか、たまらない快感ばかりが押し寄せているはずだ。
「イク……ッ! あ…………ひ……あ……イ……ッ!」
絶頂の感覚がさらに短くなった。もはやイッている時間の方がそうでない時間より長い。
四本の手、二つの唇、ふたつの体がアヤの急所という急所を容赦なく責める。アヤは押さえつけられ、もはや身動きすることもできない。
「イク! ……イッ! ……ク! ……あ、ック!」
涙もよだれも鼻水もすべて垂れ流し。完全に正気をなくしているその目が開きっぱなしになった。喉の奥で獣のうなりのような異音を立てたかと思うと、眼球がぐるりと回転する。
それを最後に一切の反応がなくなった。突っ張っていた手足から徐々に力が抜けてゆく。広げられかき回されている秘所だけはなおもしばらく粘液を吐き出し続けていたが、やがて収まり、これも動かなくなった。
「…………終わ……り……?」
「……駄目……もう……?」
激しく上気した肌色をして、これもまるで何度も絶頂に達したあとのような、快楽のただなかにあるとろけた目つきで双子は口にした。
「ほい、御苦労さん。そこまでや」
まだアヤを揺り起こしてその身をむさぼろうとするのを、可愛らしい声に戻した千尋が肩をつかんでひきはがした。
アヤはそれからしばらくの間、何をしても目を覚まさなかった。
「大丈夫かな」
「死んで……ないよね」
「こいつがあの程度で死ぬかいな」
千尋たちは三人がかりでアヤを風呂に入れ、体を洗ってやり、またベッドに戻した。
自分たちも風呂に入り、一息つく。
「………………?」
アヤはしばらくしてようやく薄目を開いたものの、すっかり正気を失った目つきをしていた。
一番支配力が強いであろう千尋が鈴を鳴らしながら暗示を与えた。
「さあ、目を閉じて、あたしの声をよく聞いて……。
あなたはまた、さっきみたいに深い所へ入っていく……」
狂瀾怒涛の快感地獄を経て心の中の何かが失われたか、アヤは何一つ抵抗しようとせずにあっさりと千尋の言うとおりになった。
ちゃんと催眠状態にあるのかどうか確かめるために、あなたは犬になると暗示を与えた。アヤは四つんばいになってお尻をふり、床に置かれた夜食――――親子丼にみそ汁を加えてぐちゃぐちゃにかき混ぜたもの――――に、顔をつっこんでおいしそうに平らげた。
「OK」
顔を拭き、人間に戻し、ベッドに寝かせ、また性的に感じる暗示を与える。
「さっきの、ものすごく気持ちよかったことを思い出す……。信じられないくらいの快感だったね。すごく気持ちよかった。
またあんな風に感じたい。イきたい」
アヤはそれだけの言葉でもう熱い息をつき、切なげに身じろぎしはじめた。手が自分の体をまさぐりはじめるのを止め、
「ちょっと待って。その前に大事なことを教えてあげる。あの、すごく気持ちいい感じ、いつでも、何度でも味わいたい。そうだね。それなら、簡単にいい気持ちになれる合い言葉を教えてあげる。
……“パーティ”。わかるね、みんなで集まってわいわい騒ぐ、パーティ。あの気持ちいいことするのは、特別なパーティなの。わかるでしょ。
いい、よく聞いて。“パーティを始める”って聞いたら、あなたはすぐにあの最高の気分になれる。いつでも、どんなときでも、パーティ始めようって言われたら、すぐに一番気持ちよかったさっきの感じを思い出して、体が熱くなってたまらなくなる。誰か他の人に体を触って、気持ちよくしてほしくなってたまらなくなる。わかるね。わかったら、右手を上げてみて」
「……」
すぐにアヤの右手が動いた。
「じゃあ、試してみよう。さあ、静かに目を開けて、立ってみて。体に力が入って、立つことができるよ」
うつろな目のまま立ち上がったアヤは、周囲の状態を認識できないままふらふらする。自分が裸であることも当然わかっていない。
「……“パーティ始めるよ”」
言われた途端に、人形のようだったアヤの全身が大波に揺さぶられたようになった。
飢えきった犬のように目をむき、口をかくかくと開閉させる。
「お…………おおおおお……あああ……」
喉が痙攣でも起こしているのか、異様に震えた音声がほとばしる。人間の声とは思えない響きに双子がそろって身を引いた。
自分の体を抱く。脚が震える。膝が砕ける。
床にへたりこむと、痛みに耐えるのと変わらない苦悶の表情で、誰に向けて言っているのかわからないまま、
「ああっ! し、して! さわって! 気持ちよくしてええ!」
両腕をさしのべて叫んだ。
汗が冷えてきて元の白さを取り戻しつつあった肌が、また炎にあぶられたかのように赤熱した。
「は、はやく! お願い! ひいっ! だ、だめ! 我慢できない!」
「ええ感じや」
千尋は双子を振り向きあごをしゃくった。心得ている双子はアヤをベッドに押し上げ、すぐに甲高い絶頂の悲鳴をあげさせた。
「……わかったね。パーティ始めるって言われたら、いつでも、どんな所でも、すぐにそういう気分になるんだよ。
でも、大事なことがひとつあるの。それは、他のひとに言われても駄目だってこと。これはあなたの大切な友だちの、迫水千尋、白河文月、白河葉月、この三人に言われたときにしか効き目のない、秘密の言葉なの。この三人以外の誰に言われても、全然いい気分にはならない。千尋、文月、葉月の三人に言われるまでは、パーティ始めるっていうのが合い言葉だってことも忘れてしまっている。これは大事なことだから、心の一番深い所にしっかりしまっておぼえておこうね。さあ、鈴を鳴らすよ。鈴が鳴ったら、今言ったこと全部が、きちんと頭に収まる。何もかもあたしが言った通りになる。三つ数えて鈴が鳴ったら全部今言った通りになる。いいね……」
同じようにして催眠に入るキーワードも埋めこまれた。
こちらの言葉は“お姫さま”。
「眠り姫ってやつ?」
「ちーちゃん趣味悪」
「やかまし」
「でもいいよ。けっこうこいつに雰囲気あってるかも。気に入った」
これも試された。
双子は難色を示したが、千尋はかまわずアヤにかけた催眠を一度全部解いた。
「はい! さあすっきりした気分で目が覚める。……」
「――――!?」
何がどうなっているのかわからずアヤは辺りをぼんやり見回す。その目つき、雰囲気は、全裸であるにもかかわらずやはり黒々とした印象があった。
室内に充満している淫靡なにおいに顔をしかめ、鼻をうごめかせた。自分が全裸であること、ここがどうやらホテルの一室であるらしいことに気がつき、悲鳴をあげて布団を被った。
「気分はどうや?」
「ち、千尋…………どうして、お前……」
その傍らの双子を睨む。アヤはまだ覚醒時にこの双子と面識がない。千尋も双子もちゃんと服を着ている。自分だけ裸なので余計動転する。
薄笑いを浮かべた三人の表情から、何をされたのかはわからないにしろよからぬ目に遭わされたことだけは間違いないと理解したらしく、両眼に雷光が宿った。
「おい、どういうことだ、これ……」
「アヤさんにはうちらのものになってもらった」
「……何だと、コラ……」
アヤは裸であることも忘れて千尋に詰め寄ってきた。
「アヤさんて、やっぱりええ体しとるなあ。……」
「ふざけんなよ、この野郎……」
「“お姫さま”みたいやね」
「え……」
言われた途端、アヤの全身から力が抜けた。
(何だよ、これ……)
千尋の襟首をつかんでいた手が離れる。体中が痺れたみたいになって、頭の中に靄がかかってくる。
(オレ…………何してるんだっけ?)
「アヤさん、ベッドに戻りい」
(…………ああ、そうだな、千尋が言うんだもんな……戻らなきゃ…………)
千尋の言葉は何も吟味する必要がない。アヤは踵を返してベッドに戻り、仰向けに寝転がった。
「あし開いて」
(………………)
何一つ疑問に思わずアヤは大きく脚を広げた。
「OK。よくできたね。じゃあ、深く眠ろう。はい……」
リ……ィン……と鳴る鈴の音を聞いた瞬間、アヤの意識は心地よく闇黒に沈んでいった。
※
千尋たちはテーブルに頭を寄せ合って次の調教メニューを考える。
「淫乱化と催眠に入るキーワード埋めたはええけど……」
アヤの個人データをあれこれ書き付けたノートをめくりながら、千尋が頬杖をついた。
「あれじゃあ、なんかの間違いで覚めてもうた時にどうにかすることはできても、覚めることそのものを防ぐことはできん。覚めたらさっきみたいに、いつものこいつに逆戻りや。そうやのうて、何かこう、こいつ本来の人格そのものをぶちこわすような手はないかいな」
「あなたは目を覚ましたら、とてもおとなしい、上品なお嬢様になっています……ってのじゃ駄目なの?」
「一日くらいならそれでもええけどな、三日もしたらもう元通りや。催眠てのは確かに人格変えられるけど、こいつがそうなりたがってない風に変えるのはほとんど無理やで、実際。そこまで便利なもんとちゃうんや」
「でも、これまでの子はみんなころっとボクたちのお人形になったじゃない?」
「ありゃあ普通の連中やったからな」
「普通?」
「自分は絶対こうでなきゃあかん、こういう風に生きるんや、なんて強い意志持ってるわけやなかった。だからこっちがこうせいって言ったら簡単にそう自分を変える。でもな、最初からこうなりたいっちゅうはっきりしたイメージ持たれてたら、それと外れた方向へもっていくのは難しいんや」
「貴子は?」
以前虜にした、剣道部のエース。今どき珍しいくらいにストイックで、剣士という言葉がぴったりくる求道者風の少女だった。催眠に入れて一度快感を味わわせてやると、面白いように溺れて千尋たちの下僕になった。
「あれも普通やった。表面は堅苦しいけど、心ん中にゃちゃんと普通の欲望持っとる。好きな男できたら多分がらっと変わるで。そうゆう普通の女やから、簡単に墜ちた。うちらのために生きる、てのにも不満持たへん。むしろ自分の能力を生かす場ができて喜んどるぐらいや。人間なんてたいがいそんなもんやで」
「………………」
「アヤはそこがちゃうんや。こいつは“硬い”んよ。部活もやっとらんし、これと言った趣味とか、熱中するようなことは何も持ってへん。そやけど、これは譲らない、こういうことはしない――――そうゆう風に自分の中に基準作っとってな、それを守ることが生き甲斐みたいになっとるんや」
「プライド……ってやつ?」
「ちょっとちゃうけど、まあそう考えとってかまわん。自分はこれや、ていう“核”みたいなもんがあって、いくら催眠にかかってても、ここまでなってても、多分まだ崩れてへん」
「さっきのめちゃくちゃな姿ビデオに撮って見せつけてやっても駄目?」
「怒るだけや。焚火にガソリンぶっかけるようなもんや。あれは催眠にかけられてたから……そう自分に言い聞かせて、さらに催眠に嫌悪感持つようになる。逆効果」
「……難しいね」
「何とかせんことにゃ、こいつの気にいらんことやらせようとするたびに、覚めてまうんやないかってどきどきしてなならん。この先考えたらどうもうまくない。何とかせな」
「その……“核”をぶっ壊せばいいんだよね」
「そや。自己啓発セミナーとか、やばい宗教とか、そういう所でやる、自我解体ってやつや。自分が自分である基盤を一回突き崩してやるんよ」
「洗脳の第一段階だね」
千尋も双子も世間一般の女子高生とはかなり違う分野の知識を多めに身につけている。
「折角ここまで深い催眠に入れてやったんやし、暗示使うてどうにかしたいんやけど、どないしたらええか、うちはどうもそうゆうとこに頭回らへんのよ。あんたら、なんかまたええ知恵ないか?」
文月と葉月は顔を見合わせてしばらくじっとしていた。二台のコンピューターが視線に乗せて多量の情報をやりとりしているように見える。
やがて、千尋に向き直った。
「……ひとつやってみたいことあるけど、いいかな?」
※
「……表」
「……裏だよ」
双子はコインで役割分担を決めた。
「じゃあボクが“万里江”役ね」
「ボクが悪者役。ふふふ、楽しみ」
千尋はアヤを立たせた。無論アヤは全裸のままだ。
双子は普通に服を着ているのに、なぜか千尋はバスローブを羽織っていた。その下は裸のようだ。
「さあ、アヤさん……いいかい、よく聞いて…………。
あなたは、万里江さんと街で遊んでいたら、悪いやつらに囲まれた。万里江さんがそいつらに捕まってしまって、言うことを聞くしかない……」
アヤの唇がぎゅっと引き締まり、拳が固く握りしめられて震えた。
「ここはそいつらのアジト。暗く、汚らしい……。へんなにおいもする。辺りには憎たらしい顔の男どもがいっぱい。にやにやした顔を並べてあなたを取り囲んでいる。
そいつらのリーダーが、嫌な声で言うよ……」
目配せで、双子の片割れ――自己申告によると葉月だ――が、できる限りの太くいかつい感じの声をしぼりだした。
「おうおう、アヤぁ、今までお前、よくまあ好き放題してくれたな」
「ゴミをゴミ箱へ捨てただけだ。感謝されると照れちまう」
アヤは即座に凄味のある声で答えた。すでに雷雲をまとったような戦闘モードに移行している。完全に暗示にはまっている証だ。一糸まとわぬ素肌に剣呑な気が満ちみちて、戦女神の彫像のよう。長い黒髪が真白い肌によく映える。
「でな、今日は、お前に痛めつけられた連中がな、お前の友だちにちょっと挨拶したいってね」
「きゃあ! アヤ、助けて!」
“万里江”が悲鳴を上げる。男に押さえこまれている風に、両腕を背中に回して床に膝を突いている。
「触るんじゃねえ、クソ野郎!」
「おおっと、動くなよ。動いたらカノジョ、ナイフでバッサリだ。まずはあの可愛いポニーテールを根元から。次は唇にピアスのプレゼントだ。ありがたく思えよ、わざわざ縦に穴あけてやるんだからな。そいつ、ラッパ吹きなんだってな? コンクールも近いんだよな。ピアスつけてラッパ吹いたら面白え音するぜ? へへへ……」
「やめてえ! そんなのいやだあ!」
「……あんたら、演劇部入りい」
千尋が呆れて小声で言った。
アヤはそれどころではなく、長い髪が残らず持ち上がって逆立つのではないかと錯覚するほどの形相に転じた。
「てめェ……」
「それがいやなら、おとなしく俺の言うこと聞け」
「……わかった。好きにしろ」
壁か、天井か、それとも床か、異様な振動音がした。地鳴りのようにも、雷鳴のようにも聞こえた。
「ただし…………言うことは何でも聞いてやるから、万里江には何もするな。もし万里江にそれ以上その“ド”汚ねえ手ェ触れたら……………………殺す」
実行されることは間違いないだろう、凄惨な響きだった。
それなりに悪(ワル)ではあるが、本当の命のやりとりなどに縁があるわけもない双子は震え上がり、青ざめた。小学生みたいな見かけに似合わず修羅場経験が豊富らしい千尋ひとり、平然としてむしろ面白そうにアヤの様子を観察しており、そちらに気がついて安心しろと言うように不敵に笑ってみせた。
「しっかり」
「うん…………け、けっ、何偉そうに言ってやがる。まあいい、アヤ、腕、前に出しな。おい、てめえら、準備しろ」
架空の部下に命令する。
千尋が暗示をささやいた。
「鎖が持ち出されてきた……。細いけれど頑丈で、どんなに力をこめても人間の力じゃ切れそうにない……。
鎖があなたの両手に巻きつけられる…………そして天井の方に、少しずつ、少しずつ、引っ張っていく…………腕が縛られて上がっていく…………」
アヤの腕がじりじりと上に上がっていった。
すぐに両手を組み合わせてバンザイしている格好になる。腋の下があらわになる。胸筋が盛り上がって両の乳房が悩ましく強調されて見える。背筋が伸び、お尻がすぼまる。かかとをわずかに浮かせた所で千尋は止めた。
「もう動けない…………足は動かせるけれども、腕のいましめをほどくことはもう絶対にできない…………」
「さて、アヤ、これが何かわかるかな」
“ボス”が細長いものを手にした。
――――割り箸だ。
だが、アヤの目には……。
「相手が持っているのは、先の尖った、長い、鉄の串……」
そのように見えるはずだ。
割り箸がアヤの頬に押しつけられた。
「すごく冷たいよ……」
アヤは顔をしかめる。
「これでな、お前の体にもピアス穴開けてやろうってわけだ。くくく、どこまで我慢できるかなあ? 言っとくけどな、俺は優しい男なんだ、お前が嫌がることはしたくない。お前がやめてくれって言えばすぐやめてやる。その代わり、そっちのポニーテールのお嬢ちゃんがちょーっと気の毒な目に遭うことになるけどな」
「この…………クソ野郎…………」
アヤは“ボス”の目論見を理解し、これから加えられる暴虐を予想して血の気を失った。だが吊り上がった眉とその下の業火を燃やす瞳はそのまま少しも揺るがずに、うつむいておびえている“万里江”を慈愛をこめて見やり、
「大丈夫だ………………オレは大丈夫だ、安心してろ……」
「アヤ……!」
“万里江”は顔を上げた。目に本当に涙が盛り上がっていた。それを見てアヤはさらに温かく笑ってみせた。
「健気なもんだ。だが、いつまで続くかな。はじめるぜ。いいな、やめてくれって言えばいつでもやめてやるからな。そこんとこよおく考えるんだぞ」
“ボス”が割り箸の先端をアヤの右肩に当てた。背後から千尋が暗示を与える。
「鉄の串が…………肩の皮の中に……ぶすうっと……刺さる……刺さる……刺さる…………」
「ぐ……ううっ……!」
アヤは呻いた。肩が痙攣する。割り箸を当てられているだけなのに、それが皮膚を破って身体の中に入りこんでくる苦痛が襲っているのだった。
――――催眠状態下でこれは焼け火箸だと暗示を与えて鉛筆を当てると本当に火傷する。無論相当に深い催眠深度に達していないとそうはならないのだが…………この場合もそれと同じことが起こった。
「肩の皮を貫いて、先端が後ろに突き出た……」
割り箸が引かれると、それが当たっていた場所に、小さな赤い斑点があらわれていた。後ろ側、想像上の“ニードル”が突き出した場所にも同じものができている。
「へえ…………」
“ボス”がつい演技を忘れて感心した。“万里江”も立ち上がって見に来てしまう。
アヤは苦痛をこらえるのに精一杯で、そのような周囲の動きに気を向ける余裕がない。
「……じ、じゃあ、二本目だ。いくぞ、今度は……そうだな、順番にいこう、左の肩だ」
割り箸を先と同じように突き立てる。ぐりっと回すと、アヤは歯を食いしばり脂汗をかいた。またしても赤い斑点ができる。
「うめき声ひとつ上げないなんて偉い偉い。でもな、どこまでそんなやせ我慢が続くかな……?」
“ボス”の葉月はこうやって苦痛を与える責めにこれまでなかった興奮をおぼえたらしく、瞳を輝かせ、舌を出して唇を一舐めした。
双子の片方がおぼえた興奮はもう片方にも同じように伝わる。“万里江”もまた、苦悶するアヤの姿にねっとりした視線を向け、うっすらと頬に朱を浮かせて喉を鳴らした。
「次……次は…………やっぱりこのすんごいおっぱいだよね……」
男の声にするのを忘れて“ボス”は言う。左の乳房を揉み、乳首をやわらかくはさんでこすりあげた。
「そうら、勃ってきたたってきた……」
「や…………」
羞恥とこの次に来るものへの戦慄からついやめてくれと言いそうになり、アヤは必死に口をつぐむ。
「すごい、固くこりこりになったよ……。じゃあ、次はここに、横から…………ほうら、ぶすうううっ……」
暗示を与えるのは千尋の役目のはずだが、そんな分担などなかったように“ボス”は口にした。左手の指でつまんだ乳首を右手の箸でつつく。
「っぐうああっっ!!」
乳首を刺し貫かれた感覚を味わわされ、アヤの目に涙がにじんだ。
「うわあ、超かっこいい! 乳首にニードルぶっ刺して、ぶらぶらぶら下げてる! いいねいいねえ、ちょっと指で弾いちゃお」
アヤの乳首に水平に当てた割り箸を弾くと、アヤは乳首に刺された鉄串を弾かれたように感じてさらに悲鳴をあげた。
普通の女の子であれば、体にニードルを突き刺される痛みなど想像の埒外にあるので、ここまでの反応を示すことはないだろう。催眠ではまったく未知の感覚を味わわせることはできない。火傷をしたことのない人間にはいくら暗示を与えても火傷させることは無理なのだ。
しかしアヤは喧嘩三昧の日々の中、人に様々な怪我をさせ、また自分も色々殴られる蹴られる刺される骨を折られる等々の経験があるために、かえって責め苦を生々しくイメージできてしまい、苦痛も現実にそうされたのと変わらぬ強さで脳に知覚されてしまうのだった。
「右の乳首にも同じ事してやるよ」
アヤの体が激しく引きつった。宙に持ち上げられて動かない手が、鎖にすがるようにさらに固く握り合わされ、指の関節がごきごきと音を立てた。
「まだ四本だよ。もしかして、もうやめてほしいと思ってる?」
アヤは脂汗の珠を浮かべながらなお強気に答えた。
「ば……バカ言え………………こんなもんで終わりかよ…………てめえらも大したことねえな…………十本でも二十本でも来い………………まだまだ……」
「おっけえ〜♪」
“ボス”はむしろ嬉しそうに、箸を今度はアヤの脇腹に突き立てた。
「ぐあああっ!」
「じゃ、どんどん行くよ」
箸を握ったまま、手首をぐいとひねった。ナイフで刺されたようにイメージしたものか、アヤは腹をすぼめ可能な限り前屈みになって凄まじいうなり声をあげた。
「大丈夫、針だから、いくら刺しても痛いだけでそんなに血は出ない。それに内臓とかには刺さらないようにするから、死ぬこともない。その辺はまかせて。こっちも慣れてるからさ」
もはやこの声を男性、まして悪党どものアタマと聞くことは不可能のはずだが、催眠状態にあり、シチュエーションを完全に受け入れてしまっているアヤにはなおそれまでと同じ声に聞こえ続けている。
「このたっぷり肉ついた太腿なんていい感じだよね。ここは一本じゃ物足りないな。ようし、十本刺すよ。そうら、一本…………ずぶうっと、ここなら深く刺しても命に別状ないもんね、骨だけはよけて、肉に深く、ふか〜く突き刺すよ……」
「……ぐ……ぎ…………」
「あんまり足動かさないでよ。でないと、万里江さんにこれやっちゃうよ」
「てめえ………………殺す…………」
「うん、頑張って。そら、二本目…………ずぶうううっ……」
「うぐう……っ!」
「三本………………大丈夫? そろそろ限界? まさか、あれだけ大口叩いたんだもん、まだまだいけるよね。そうら、四本目……」
葉月はアヤの悲鳴を耳にして酔ったような目つきになった。息が熱く、荒くなる。無意識だろう、膝をもじもじとこすりあわせた。感じて、濡れてきている。
それと一緒に別の所で小さな声があがった。
「は、はづき…………っ!」
“万里江”役の文月が、片割れの狂乱を見て自分も異様に昂り、手をスカートの中にさしこんで悶えはじめていた。
そのまま立ち上がってニードル責めに加わりそうな気配を見て取り、千尋が後ろに回りこんで肩を押さえる。
「駄目や。あんたは“万里江”、ここで泣き叫ぶのが役目や」
「わかってるよ…………あ、だ、だけど………………たまんないんだよ、ねえ、あれ見てたらおかしな気分になっちゃって……」
「そっちのケもあったか……ま、それほど意外でもないけどな」
千尋は文月の顔を両手ではさみこみ、自分の目を見るように告げた。アヤの耳に入らないように小声で、しかし中身の詰まった声で言う。
「ええか、うちの目ようく見い…………そうら、もう目を離せへん…………。今から三つ数えると、アタマの中がすっきりして、最初の計画通り、自分のやるべきことをしっかり最後までやれるようになる…………ええな。ほな、ひとつ、ふたつ、みっつ! はい!」
ぐんと強く頭部を揺すって手を離す。文月は一瞬目の焦点を失ってふらついたものの、すぐに大きくまばたきし、理性の戻ってきた顔つきになってひとつうなずいた。
「OK…………もう大丈夫。ありがと」
「頼むで」
双子の片方に催眠をかけるともう片方も必ず同じように反応する。今の施術の暗示内容は聞こえなかったはずだが、文月の変化から内容を読みとったのか、責める葉月もすぐにまったく同じように冷静さを取り戻した。
その間にもアヤの左腿には赤い傷痕が刻まれ続けている。八本目が突き刺さった。
アヤはまだ何もされていない右の足に重心を置き、少しでも苦痛を軽減しようとしている。あらためて双子は暗示の威力に驚きの目をみはった。
「まだ大丈夫かな? わかっているな、やめてほしければいつでもそう言えばいいんだぞ。やめてくれ、万里江にやってくれって言えばすぐにこの痛みは全部なくなる。簡単なことだ……」
男っぽい言い回しに戻して葉月が責めを再開する。
九本目の“ニードル”が肉に食いこんだ。
「ほうら、ぐいぐい入っていく………………血が出るぞ。痛いだろう。この先何日も歩けなくなる。下手に化膿したらしばらく病院暮らしだ。……それでもまだやってほしいのか? ん?」
「く…………クソが…………」
「やっていいんだな? よし、わかった。十本目を刺してやる。お前はやめてくれと言わなかった。だからお前の願い通りまた一本、ずぶうっと深あく突き刺してやる……」
アヤの屈服を誘うように言葉を選びながら、葉月はまだ赤い斑点のない腿の内側に割り箸をあてた。鍛えようのない柔肉が波打ち、アヤはがにまたになって苦悶する。
「さあ十本。これで左脚はしばらく使えないな」
「……お……おぼえてやがれ…………必ずこのお礼は……するぜ…………」
「まだ強情張るか。いいだろう、じゃあ希望通り、もっともっと刺してやる。お前はハリネズミみたいになって、体中から血ぃだらだら流して苦しむんだ。馬鹿な女だよ、たった一言言えばいいのに。それでもう何も苦しまなくってすむのにな」
「アヤ! アヤあ……!」
“万里江”がタイミングを合わせて悲痛な声を上げる。アヤは顔を上げてそちらを見て、顔面が痙攣する中でなお笑顔をつくってみせた。
――――それから数十分。
暗示の幻想世界の中で、アヤの両の耳たぶは、それぞれ三本ずつニードルを突き刺され、重く垂れ下がっていた。
両の乳首に加え、乳房そのものにも何本もニードルが突き立てられている。
脇腹には十数本の針が生えていた。
尻も赤い斑点だらけ。いつまでも耐え続けるアヤに業を煮やした葉月が、ついまとめてぐさぐさ突き刺すという暗示を与えてしまったのだ。
“縛られて”持ち上がったままになっている腕、その二の腕には特に太い針が使われた。突き刺し、深く深くくいこませ、ついには反対側から針の先がのぞく――――そういう暗示が与えられた時には、凄まじい絶叫とともに、割り箸をあてた“傷口”から本当に血が流れ出した。葉月は何かに憑かれたような目をして赤いしずくをアヤの肌になすりつけ、指先についた赤みを舌で舐め取った。
「交替」
文月が言い出した。目が据わっていた。千尋にも止められなかった。感覚を共有するとはいえ、実際に声を出し“針”を使う葉月は疲れてきており、うなずいて割り箸を片割れに譲った。
……その文月が、アヤの鼻をつまんで引っ張っている。
「さあて、お次はこの鼻だ。ガイジンじゃないんだし、もっと日本人っぽくしなくちゃ。横からぶすっと針で穴を開けてやろう。上から下まで四本ぐらいかな。それから先っぽを突っこんで、縦穴をつくるんだ。特製鼻ピアス。似合うぜ」
文月はアヤの心象を訊ねることなく、容赦なく“針”を使った。鼻の軟骨部分を貫かれる暗示にアヤはそれまでとは違ったうめき声を発した。三本目でアヤの鼻孔から鮮血がしたたってきた。
「これでもう鼻で息はできない」
文月は葉月と違い、かなり性急に嗜虐を進めた。
「……どういうつもりや?」
すっかり出る幕をなくした千尋が葉月に聞く。双子同士は互いの次の行動がほぼ正確に予想できる。小声で答えた。
「ちまちまやっても効き目弱いみたいだから、どっと痛み与えて一気に抵抗力奪ってやるの。気ぃつけてて、途中で限界くるかもしれないから」
「………………」
どちらに主導権があるのかわからない。気圧された顔で千尋は鈴を握りなおした。
文月はアヤの乳房を鷲掴みにした。すでにあちこちに傷痕の刻まれているそれを根元から強く握って引っ張り、張りつめた肌に、
「そうら、刺すぞ!」
真横から強めに割り箸を突き立てた。
「ぎゃああっ!」
箸の当たった所とその反対側に新たな傷ができる。アヤはニードルに乳房を貫かれたのだ。
「もう一本!」
「ぐああっ!」
アヤの脚が痙攣した。腰も異様に震える。三本目が突き立てられるのと同時に、苦痛のあまりに括約筋が緩み、アヤは失禁した。床に湯気をあげるしみが広がる。
「まだだ」
冷酷に“ボス”文月が告げる。
「次は足の指を指す。神経が集まっているところだ、ちょっとぶつけるだけでもすごく痛いのはよくわかっているな。そこに針を深く突き刺す。床に足の指を縫いつけてやる。その痛みがどれくらいか、想像できるか?」
「う…………」
アヤの歯がかちかち鳴った。鼻で息ができず、ふいごのような音をたてながら必死に呼吸しているそのリズムが狂った。
連続した苦痛の後にさらなる痛みをほのめかされて、さしものアヤも恐怖にとらわれたのだった。
「お前はそうしてほしい。そうだな。そう言え。でないと、やめてくれと言ったとみなす」
“ボス”は厳然と告げた。
「お前はやってほしいんだ。もっともっと、痛く、苦しくしてほしい。そうだな」
「……ち、ちが……」
「違うのか? つまり、やめてほしいんだな。ようし、万里江を縛れ」
「違う!」
「違うということは、やってほしいということなんだな」
「う……」
苦痛はいや。だが万里江は守らねばならない。アヤは混乱した。
「よし、刺す。左脚の、小指に…………どん!」
文月はかがみこみ、強く声を上げてアヤの足を箸で突いた。
「ぐあああああっ!」
「うわ……」
つい千尋までが眉をひそめて声をあげた。
食いしばったアヤの口の端に血がにじむ。全身を駆けめぐる苦痛の波がようやく引くと、大きく口を開け舌を突き出し、激しく呼吸して何とか痛みを抑えようとする。開きっぱなしになった唇からよだれがしたたりおちた。
「これは、お前がやってほしいと言った結果だ」
文月は今度は言葉でアヤに混乱を強いた。
「お前はやめてくれと言わない。つまり、やってほしいんだ。もっと刺してほしいんだ。そうだな? 違うなら何も言わなくていいぞ」
「………………」
「何も言わないということは、やめてほしいということだな」
「……ちが……」
「違うということは、刺してほしいということだな」
「ひっ……!」
「違うなら口に出して言うんだ。お前は刺してほしい。そうだな」
「…………」
「そうか、わかった、刺してほしくないということだな。やめてほしいとついに認めたわけだ」
「違う!」
「違うと言ったな。つまりお前は突き刺してほしいと望むわけだ。よし、刺す! 今度もまた足の指だ!」
「ひいっ! や、あ……」
「やめてほしいんだな?」
「ぐ……」
「やめてほしくないと認めろ」
「……あ……?」
「認めないということは、やめてほしいんだな」
「ちがう、ちがう……」
「違うということは、お前はやめてほしくないと認めたんだな」
「ちがう…………」
「違うのか。つまりお前はやめてほしいと望むんだな」
「……ちがう……」
連続する文月の問いは、アヤから“やめてくれ”の言質を取ることを目的にしているのではなかった。答えを引き出すのではなく、アヤの頭脳をかきまわし思考能力を衰えさせることを狙っている。だから支離滅裂でかまわない。相手にしなければいいのだが、文月のほのめかす苦痛を恐れ、質問にうまく答えれば逃れることができると無意識のうちに思い始めていたアヤは、もはやそうすることができなくなっていた。
苦痛に耐えるには集中力を必要とする。これから痛みがくると覚悟し、耐えようとすることで軽減することができる。その集中力が拡散させられたところに苦痛を与えられると、刺激はストレートに脳に伝えられ、強烈なものとなる。
文月はアヤが質問の答えを考えることにとらわれたのを見て取って、いきなり声をはりあげた。
「ぐさあっ!」
同時に、かかとでアヤの足の指を思い切り踏みつける!
覚醒していても相当に痛い。そこに刺された暗示が重なり――――。
「ぎゃあああああっ!」
アヤは全身を突っ張らせ、背骨が折れそうなほどに後ろにのけぞり――――現実には腕を縛られているわけではないのだから、当然重心を支えられなくなって、倒れた。飛びこんだ千尋が下敷きになって、なんとか頭を打たないようにすることができた。
アヤは血のまじった泡を吹いて悶絶した。
「だらしのねえやつだ」
文月は葉月と一緒になってアヤの髪をつかみ、強引に引き起こして風呂場にひきずりこんだ。
千尋は痛む背中をさすりつつ、床から呆然と見送った。
「やるなあ…………負けるわ」
言ってから乱れて開いたバスローブの前を合わせ、帯を締め直した。
シャワーの冷水を浴びせられたアヤは、半ば失神していたが、すぐに激しくむせかえった。
「まだやめてくれって言わない気なんだな。じゃあまた、今みたいに、もっと痛い所を刺してやる」
「ひ……ひいい……や……あ……」
足をつかまれるとアヤは弱々しく悲鳴をあげた。“刺された”足の爪が、暗示の作用で内出血して紫色に染まっていた。
「次はこの足の指の間だな。縦に、深あく、ずぶっと……」
文月の指にそこをなでられ、アヤは歯をかちかち鳴らした。
ここまできてもなお両腕は組合わさって離れない。
双子はアヤの足をつかみ、床を引きずってまた部屋の中央に戻した。
「また鎖を上に引っ張る…………お前はまた吊り上げられていく……」
かかえ起こし暗示を与えると、アヤの腕は震えながらもまたしても真上に持ち上がっていった。
これが現実であれば。
万里江を人質に取られ、またどのようにしても逃れようのない状況にあるアヤは、まだしばらくは耐え抜いただろう。
しかしこれは現実ではない。催眠暗示による架空の拷問だ。
催眠では、かけられた者の嫌がることはさせられない。その気のない女性に服を脱げと暗示を与えると、ここは風呂場だとかこれから身体検査を受けるといった、裸になることを受け入れる状況をつくっておかなければ、どうして私が服を脱がなければ? と疑問が起こり、おかしいと気がつき、瞬時に施術者の暗示を受け入れることをやめる――――つまり、催眠から醒めるのだ。
アヤは催眠にかかりやすい。
また、常々不良連中といざこざを起こしているため、いつかこういう目にあわされるかもしれないと覚悟してもいた。
そのためにこの拷問の幻想を容易に受け入れてしまった。
だがさすがにここまでいたぶられ続けると、アヤの強靱な精神も崩れてくる。万里江のためになお頑張らねばならない、と強く念じる表面意識の下で、己の身を第一に考える潜在意識が逃れる手段を模索しはじめる。
苦痛を軽減する脳内麻薬物質を分泌する、失神するというのが通常の場合の体の反応だ。
しかしこの場合、もっと簡単に苦痛を逃れる方法があった。
――――すなわち、催眠状態を脱すること。
アヤの腕の上昇が止まった。
「………………?」
すっかり力を失ったアヤの瞳が、中途半端なところに掲げられた自分の腕を見上げた。
体はまだ痺れて自由にならない。目だけがきょろきょろする。
「腕が上がる……もっと上がっていく……」
双子は暗示を与えたが、アヤは反応しなくなった。
「……いよいよや」
千尋がつぶやき、双子がうなずく。
「あれ………………どうして…………オレ……」
全身がおかしな具合に波打つ。まだ暗示の影響下にあり痛みを訴え続けている神経と、何もされていない現状を把握しつつある感覚とが齟齬をきたしたのだ。
ぼんやりではなく、明確な意志を持って室内を見回す。
振り返ろうとして、足に力が入らなかった。肉離れでも起こしたように小さな悲鳴をあげて崩れた。
「痛つつ……」
特にひどく痛めつけられた左脚をかかえ、顔をしかめた。本能的に手をあてる。……傷がどこにもないことにすぐ気がつく。自分の両手がいつの間にか自由になっていることにも。
「これ……なんだ…………どういう……?」
「おはよ」
声が飛んだ。
「お疲れさん」
「千尋…………?」
バスローブの黄色を気だるげに見やる。見ているものと現実とがどうにも結びつかない。
千尋と文月葉月がアヤを取り囲むように立った。
――――これも双子の計画の内だった。
これからが本番なのだ。
「てめえら…………なんだ…………オレに、何しやがった……ぐっ……?」
アヤは吐き気をおぼえて口を押さえた。ひどい頭痛と目眩。立とうにも体が重くて動けない。
深い催眠状態からいきなり覚めたせいで感覚がついていけなくなっている。寝起きに金縛りになるのと同じ原理である。
「あんたに、催眠術……かけたんだよ」
文月がかんでふくめるように言った。催眠術という言葉を特に強く発音した。
「なんだと…………」
「何したかおぼえてる?」
葉月が訊ねた。笑顔だが、目が少しも笑っていない。
「万里江さんと一緒にいて、悪いやつらにつかまった。そして縛られて、散々痛い目にあわされた。そうだね」
「………………」
催眠から醒めた後では、催眠中のことは夢でも見たように感じられる。何があったかおぼえているかとだけ問われれば、よくわからないと答えただろうが、細かく示唆されるとアヤの脳裡に先刻の凄惨な拷問のことがよみがえってきた。
「お前らが…………え……?」
激怒して当然なのだが、アヤの声にはまるで力がなかった。自分の身に加えられた暴虐がすべて催眠状態での幻覚だったということが納得できないのだ。
その心理を完全に読みきっている双子が、嘲りをこめて言う。
「面白いもの見せてもらったよ」
「アヤ、あんたが万里江を見捨てたところ」
「え……!」
「悪い連中に痛めつけられて、あんたは自分が助かりたいから、万里江を捨てたんだ」
「な…………! 違う! あれは、催眠術で、お前らが……!」
「催眠術かけたことはあやまる」
千尋がかがみこんで言った。
そして、陰をたたえた笑顔で、
「かけたことは、な」
「……」
「催眠術をかけて、痛い目にあわせたのはボクたち」
「でも、つらい目にあわされて、逃げる道を選んだのはあんた」
「……!」
アヤの血の気が一気に引いた。
双子は人形のような無表情で淡々と言いたてた。
「やめてくれと言えば自分は救われる。代わりに万里江が犠牲になる」
「そういう場面で、あんたはやめてほしがった。万里江を犠牲にしてもいいと思った」
「まて、おい……それは!」
「だから催眠から醒めた。痛いのが嫌だから、やめてほしいと思うから、目をさましてしまった」
「耐えきれなかったんだ、あんたは」
「自分を犠牲にすることが嫌になったんだ」
「だから万里江を見捨てて逃げ出した」
「違う、違う!」
「いや、あんたは逃げた。逃げればどうなるかわかっていて、万里江さんをいけにえに差し出して、逃げた」
「あんたが逃げたから万里江は酷い目にあわされる。あんたのせい」
「オレは逃げたんじゃ………………逃げたんじゃ……ねえ……」
「じゃあどうして目を覚ましたの?」
「逃げるつもりがなかったのならずっとあの場所にいればよかったじゃない」
「誤魔化したってダメだよ」
「わかってるんだ、あんたはやめてほしいからこっちに逃げてきたんだ。これ以上痛い目にあわされたくないから、万里江を置き去りにして、目を覚ました」
「違う…………!」
アヤの形相が錯乱の気を帯びてきた。
苦痛から逃れたことは人間として当然の反応で、責められるべき事柄ではない。普通の女の子であれば、最初の一刺し、いや刺すことをほのめかされるだけでもう催眠から覚めてしまうだろう。その先も、いかに普段は我慢強い人間であっても、潜在意識がこれ以上は嫌だと思えばそこで覚める。全身血まみれになるまで耐え抜いたアヤの精神力こそ尋常ではない。
だが催眠についてまるきり知識のないアヤにはそんなことはわからない。催眠から覚めることと拷問に屈服することとはまるで別なのだが、双子の言うとおり、拷問に屈服して催眠から覚めたのだと結びつけて考え、自分が最低の人間であるように思いこんでしまった。
自分を守るために暴れ出すには疲労しすぎており、冷静に考えようにも精神はすでに摩耗しきっていた。感覚の混乱もおさまっていない。
防ぐすべを失った裸の心に、双子の言葉がひとつひとつ強烈に突き刺さってくる。
「あんたはつらいから目を覚ましてしまった」
「違う!」
「大丈夫だなんて言っておいて、逃げ出したんだ」
「違う……!」
「最低」
「万里江を守れなかったのも当然だね」
「違う……違うんだ……」
「友だちがこんなやつだなんて万里江も思わなかっただろうね」
「信じてただろうにね」
「……違う……」
「みじめだね」
「クズだよ、あんたは」
「…………ちがう…………!」
アヤは耳をふさいだ。双子はのぞきこむようにしてなお言い続ける。
「自分が強いと思っていたんでしょ?」
「万里江を守るつもりでいた。思い上がって」
「保護者ヅラ」
「それでこれ」
「自分はさっさと逃げて、万里江を置き去り」
「みっともない」
「恥ずかし〜」
「よく生きてられるね」
「…………や…………やめて…………やめてくれ……!」
アヤはついに泣き出した。小さな女の子に戻ってしまったように裸の体を丸めた。
双子はその腕を取って上体を強引に引き起こした。片方が長い髪をつかんで後ろに引っ張り、傾いた顔にもう片方が自分の顔を思い切り近づける。こめかみを握り拳ではさんで強く揺さぶりながら、涙目をのぞきこんで怒鳴りつける。
「泣くな! 泣けばすむと思ってるの!? だからあんたはダメなんだよ!」
「う…………あ…………」
「ふざけるな! 友だち見捨てたダメ人間のくせに!」
新たな涙が頬からあごへ滂沱と流れた。アヤはぬぐうこともできずに震えるばかり。
叱咤がさらに叩きつけられる。複雑な言い回しはしない。単純な言葉の連続。一言ごとにアヤはびくっと震える。
「ダメ人間! クズ! 最低! 最低、あんたは最低! 救いようないよ! すぐ泣くクズ! 何もわかっていないくせに! 最低のダメ人間! わかった、お前は最低なんだ! 最っ低!」
突き倒された。
「死ね、バカ!」
アヤは身を丸めて号泣しはじめた。
今までのアヤならば死んでも口にしないであろう言葉がほとばしった。
「いたかった…………痛かったんだよ! 仕方ないじゃないか! あんなに刺されて、血が出て、死んじゃうんだ! 死んじゃう……死にたくなかったんだよ! 仕方ないよ! オレが悪いんじゃないんだ! うあああ!」
「言い訳するな!」
「まだ自分が正しいって言うつもりだよ、こいつ!」
「ほんっとにクズだ、お前!」
なお双子は怒鳴る。アヤはますます泣きわめく。
許しを求めて、ついには双子の足にすがりついてきた。
「悪かった! オレが悪かったよ! そうだよ! オレはクズなんだ、ダメ人間なんだ!」
「それですむと思うの! バカ!」
蹴飛ばす。
「認めればすむと思ってんだ。ひどい根性」
「みっともない。恥ってこと知らないの?」
「最低の人間らしいよ」
「やっぱりこういうやつなんだよ」
何を言おうと、どうしようと全て否定される。アヤの自我はますます解体されてゆく。
ついにはアヤは身を丸めてすすりなきしはじめた。
「いや…………いやだ……やめて……たすけて……!」
「お前を助けるやつがいるわけないだろ!」
「そんなこともわからないんだね」
「やっぱりバカだよ」
双子は千尋を見た。
無言のうちに意思が交わされる。
(そろそろ……いい?)
(OK!)
双子は了解とうなずく。アヤを見下ろす目つきに残忍の気が満ちる。
「だからあんなことしたんだ」
「!」
アヤの内部で何かが爆ぜた。
千尋の催眠によってすでに自分が何もかも告白させられていることをアヤは知らない。
誰も知らないはずの忌まわしい過去。
アヤの最後の正気を打ち砕く、巨大な一撃。
「だから、おじさん殺しちゃったんだよね」
言われた瞬間。
「うああああ! いやあああ! あああああ!」
喉の奥から金切り声が噴き出した。
顔にあてた手が鉤爪になり、めちゃくちゃにかきむしった。
「あああああっ、あれは、オレじゃ、あああああ、ちがううっ、ちがう、ちがうっ!」
「な〜に言ってんだか」
「見えないの、血ぃだらだら流してるのが」
「ほら、そこに」
双子は声をそろえ、男の声をつくって言った。
「「おい…………綾乃…………」」
「やだ、やだああっ、やめてええっ、くるな、くるなああっ!」
アヤは完全に正気を失い、腕をめちゃくちゃに振り回し、身もだえして“何か”から逃れようとした。芋虫のようにのたうつ後ろに赤い筋が尾を引いた。アヤの股間から、生理でもはじまったかのように、鮮血がだらだらと流れだしているのだった。
「「待てよ…………綾乃お……」」
「ひいいいいい!」
アヤは床の上で奇怪なダンスを踊った。両腕で頭をかかえこみ、顔をかきむしりながらめちゃくちゃに転げ回った。
「ひぎ…………うひい……あ…………ひひゃあ……」
痙攣とともに断続的にこぼれるうめきは、もはや人間のものとは聞こえなかった。
双子が合図の目配せを送り、身を引いた。
「…………大丈夫や」
これまで静観していた千尋が動く。
かがみこみ、手をさしのべた。
「アヤさん! もう大丈夫!」
のたうちもがくアヤの上体を押さえつける。
「何にも怖がることはない…………あたしがいるよ…………もう大丈夫…………大丈夫…………」
顔に爪を立てた手に自分の手を重ね、さする。アヤの痙攣が止まった。静かに顔から引き離す。何本も髪のからまった指は数本爪がはがれていた。着ていたバスローブの前を開く。下には何も着ていない。大きく腕を広げて抱き寄せ、赤い筋の刻まれた、崩壊した顔を、素肌に強く押しつけた。
「大丈夫だよ…………怖いものはいない。あたしがいるから大丈夫…………気分が落ちついてくるよ…………」
「あ…………!」
アヤの腕が震えながら千尋の身体に回されてきた。
自分に苦痛を与えない、幻覚ではないしっかりした存在がそこにいると理解し、腕に力がこもる。体がどうにかなりそうで千尋は顔をしかめたが、声や態度にはいささかもあらわすことなく、開いたバスローブの裾でアヤの頭を包みこみ、自分からも強く抱きしめてやった。
「もう怖いことはないんだよ…………何も心配することはない。あたしが守ってあげる…………あたしがいれば大丈夫…………さあ、落ちついて…………あなたはいい子だよ…………いい子だよ…………あたしにはちゃんとわかっているよ…………安心して……」
「……!」
素肌と素肌が触れ合う。あたたかさがアヤを包みこむ。アヤは千尋の胸の中で瞬時に赤子となり、泣きじゃくった。下半身が引きつりながらだんだんと縮まる。膝を近づけて大柄な体を小さく丸めた。胎児の姿勢だった。手もいつしか指を全部折り曲げた、新生児のそれに変わっていった。
千尋は優しく頭をなで、穏やかながら断固とした、まさに“母”の強さを感じさせる声で、大丈夫だよとささやき続けた。次第に狂乱は鎮まり、アヤは一切の恐怖から解放された、無邪気な――――どこか白痴じみた笑顔に変わっていった。
千尋は頭の位置をずらして自分の左の乳首をアヤに含ませた。アヤは涙を流し、あどけなく笑いながらしゃぶりついた。
「もう安心だよ…………あなたはあたしが守ってあげる…………あたしの言うとおりにしていれば大丈夫…………あなたはあたしのもの……安心できる…………怖いことはもう起きない…………」
アヤの舌が無心に乳首をまさぐる。無上の達成感が押し寄せ、千尋は強い快感にとらわれた。右の乳首も勃って痛いくらいに張りつめた。それでも双子と違って少しも揺らぐことなく、妖しい響きの声ではっきりと告げた。
「さあ、“お姫さま”…………」
アヤに変化はない。だが間違いなく心の扉は最も深いところまで開かれたはずだった。
「深い、深いところへ入っていこう…………。
そこは、いやなことなんて何もない、とても静かで、温かい場所…………。
何もかもあたしに委ねて、もっと深く……。
深く…………。
何もかも忘れて、ゆっくりと休もう…………。
あなたは何もしなくていい。何も考えなくていい。全部あたしにまかせて、あたしの言うとおりにしていればいい…………。
そうすると、とても安らいだ気持ちになれる…………。
気持ちいいよ……とっても気持ちいい……」
アヤの四肢から力が抜けた。千尋が支えるのをやめると頭がずり落ち、唾液の糸が長く伸びた。アヤは微笑みを刻みつけたまま、体を丸めて胎児の夢の中に沈んでいった。
※
「…………ふう」
「御苦労さま」
「お見事」
「あんたらこそ。ここまでやったのはうちもはじめてや」
三人は冷蔵庫からビールを取り出し、乾杯した。
床の上に丸まっているアヤを見下ろす。
「あんな過去あったなんてね」
「すごい効いたよね」
「トラウマってやつ?」
「もうこの先二度と触れるんやないで。うちが聞き出した時にも大変だったんや。泣いて、暴れそうになってな。なだめるのにえらい苦労したで」
「でもさ、ドラマチックな人生ってやつ送ってて、うらやましいよね」
「ボクたちなんか平々凡々だもんね」
「アホ。どこがや」
三人は明るく言い交わす。
「それで、こいつ、これで完全に洗脳完了?」
「まだや。後は第三段階……定着、やな。生まれ変わった自分をしっかり認識させるんや」
「認識って……何させるの?」
「これまで大事にしてきたものよりうちらの方が大事や、て確認させる」
「?」
※
地獄の夜が終わり、アヤは深い深い眠りからようやく目覚めた。
悪い夢を見ていたような気がする。どろどろした、ものすごくいやなものが体中にまとわりついていたような。
目を開けると、とても大切な人たちがいた。迫水千尋。白河文月と葉月。心の底から信じられる人。
ずっと自分の寝顔を見ていてくれたのだ。
これまでは一人ぼっちだった。これからはもう違う。嬉しかった。
自分は裸だった。でも気にならない。顔に何本も絆創膏が貼ってある。気にする必要はない。生まれ変わったと千尋に言われた。その通り。千尋が言うならなんでもその通り。千尋の言うことはこの世のただ一つの真実。だからこんなに気持ちがさっぱりしている。
服を着て、外に出た。今までいたあそこはどこだったのだろうと気になった。
「ダメやで。考えたらあかん」
……そうか、じゃあ考えないことにしよう。
街を歩く。
左右にくくった千尋の髪がひょこひょこ動く。面白くて触ってみる。千尋が嫌がったので肩に手を置いた。なんだか、ずっと千尋に触っていたかった。そうでないとたまらなく心細い。
「……ほれ」
千尋が手を伸ばしてきた。握ると涙が出そうなほどに幸せを感じた。自分は千尋のために生まれてきたのだと――――心からそう思った。
自分の部屋に戻った。千尋と双子も一緒に来た。楽しい時間が過ぎていった。食事の準備――料理は全然駄目なのでこればかりは買ってくるしかなかったけれど、惣菜屋であれこれ品定めしていると、陽気に歌い出したいような気分になった。三人の残り物はとてもおいしかった。風呂に入るというのでひとりひとりを脱がせ、体を洗い、丁寧に拭いてあげた。他人のブラジャーをつけるのは以外に難しかった。千尋が頭をなでてくれた。幸せだった。
「……ええか、これからあんたは大事なことをせなあかん」
夕方、千尋が真剣な顔で言ってきた。
「目えつぶりい。そや。今からうちの言うことをよく聞くんやで。
……ポニーテールの女の子」
言われるとアヤの脳裡に一人の少女の面影が浮かんできた。活発に動き回り、かと思うとナマケモノ顔負けにだらだらして、よく笑い、頬をふくらませて怒りもして…………たまらなく懐かしい、でもなんだか遠い…………。
「それは悪いやつなんや。あんたを襲ってくるおばけや。何だか昔仲良くしてたように思えるかもしれん。でもそれはおばけの悪い力や。だまされたらあかん」
「……」
そうだったのか。やっぱりそうか。前に思った通りだ。人間じゃないんだ、あれは。
「今晩、そいつがここに来る。毎晩性懲りもなくあんたを狙ってくる。それはあんたにある心の弱さを狙ってきとるんや。そやから、あんたは心を強くして、そいつを追い払わなあかんのや。わかるな?」
「ああ……」
「そいつを追い払えるかどうかはあんたの問題や。うちらは応援はできるが手伝うことはできん。あんた自身で戦って、追い払う。向こうは泣いたり、叫んだりしてあんたに取り入ってくるやろな。でもそれにだまされちゃあかんで。大丈夫や、うちらがついとる。安心して、思い切りやるんやで」
「わかった」
チャイムが鳴った。
「や、やあ……アヤ…………」
千尋の言った通りだ。ポニーテールの、人間じゃないものが来た。
「……! どうしたんだよ、その顔……」
「うるせえ。お前なんかに用はない。消えろ」
「何言ってんだよ……!」
媚びるような笑顔。気色悪い。
「失せろ! 二度とオレの前に顔見せるんじゃねえぞ!」
ドアを閉めようとしたら、飛びついてきた。
「待って! なんか変だよ、あんた! どうしちゃったのさ!」
「離せ!」
触るのはおぞましかったが、指を引き剥がし、突き倒した。
「ア……ヤ……?」
床の上から見上げてくる相手の瞳に涙が盛り上がる。
……変な気分…………なんだ、これ……罪悪感……?
いや。千尋が言ったじゃないか、だまされてはいけない。これが化物の手なんだ。
むかついた。二度とそんな卑怯な手を使わせないようにしてやる。
起き上がってくるところを蹴った。みぞおちに入ってうずくまる。胸ぐらをつかんで引き起こし、張り手を数発くらわせた。
鷲掴みにしたままひきずってゆき、階段から放りだした。悲鳴をあげて転がってゆく。ざまあみろと吐き捨てて部屋に戻った。
ひどい気分だ。胸の中に真っ黒な泥がぎゅうぎゅうづめになっているみたいな感じ。
けれども千尋の顔を見るとたちまち落ちついた。千尋は笑顔でほめてくれた。甘えていいと態度でわかる。身を丸めて、千尋の膝の上に頭をのせてごろごろした。
「完璧や。それでええんや。アヤさん、あんたはいつまでもうちらのものやで」
うん。オレはいつまでもあんたたちのものだ……。
いつまでも……。
〈幕間〉
『こんな時間に、どうしたの?』
「先生…………せんせい!」
『落ちついて。何があったの? 今どこにいるの? すぐ行くわ』
「……さあ、あなたはすごく深いところに入った。とてもいい気持ちよ。心が落ちついて、どんなことでも冷静に話すことができるわ。どんなにつらいことでも、穏やかな心のまま口にすることができるのよ。いいわね。
じゃあ、教えて。何があったの?」
「アヤが…………アヤの部屋に行ったら、顔が絆創膏だらけで、知らないひと見るみたいな目であたしを見て……」
「そう」
ポニーテールの少女を抱きかかえ、公園のベンチからマンションの窓を見上げる黒い影。
冴え冴えと輝く満月を映し、サングラスが冷たくきらめいた。