クモは、網にかかった獲物の動きを糸の振動で知る。クモのあし先には、たくさんの刺激受容器が集している。クモはつねに、あしで糸をつかんでいて、網に獲物がかかると、振動の発生する方向へ向かう。
――――学研「大自然のふしぎ 昆虫の生態図鑑」1993年発行より
第七章の四 狂宴 II
(十三)
あたしは恋多き乙女だから。今時の女の子が使わない言い回しで本城万里江は自分をそう評価し、笑う。
万里江は色々なものに恋をする。片っ端からする。
男でも女でも、空の星にだって、恋をする。
今の万里江は、世間でいうところの普通の恋をしている。
相手は隣の家の大学生。幼なじみで、万里江は“おにいちゃん”と呼んでいる。
つきあいはじめてからまだ一月もたっていない。それなのにもう体の関係がある。ちょっと早すぎるかなと思うこともある。でも、肌と肌がくっつきあって、体のあちこちを触られて、いよいよ二人いっしょになる、あの一連の流れを思い出すと、体はもちろん頭の中までとろけるような感じになって、そんなことはどうでもよくなる。気持ちいいし、楽しいのだから、それ以上何を考える必要があるだろう?
万里江は今、相手に夢中だ。
男。自分と全然違う生き物。裸になると、必ず相手の体をじっくり見る。いくら見ても見飽きない。太い、がっしりした骨格。大して運動しているわけでもないのに衰えることが少なく、ちょっと鍛えただけですぐに嵩(かさ)を増す筋肉。
触る。頬に生える髭。胸。どうしてふくらんでいないのか不思議でしようがない。乳首だけぽつんと突きだしている。これは自分と同じ。小さいけど、いじれば同じように勃つ。男でも気持ちよければよがり声をあげるというのは、万里江にとっては大発見だった。だから万里江はいつも、相手が哀れっぽい声を上げるまで念入りに乳首を舐めてやることにしている。
でも、一番の驚きはそれじゃない。
穴があるところに、逆に大きく突きだし、ぶらさがっている「もの」。
こんなものがついていたら、歩くだけでもはさんで、ぶつかって、何をするにも大変じゃないかと思う。袋の方など、ちょっと弾くだけでもひどく痛がる。自分にそんなものがついていたらと思うとぞっとする。でも男は平気でいる。
面白い。だらんとしている情けない形も、すぐにむくむくと大きくなるところも、大きくなったときの手触りも、口の中で硬くなってくる感じも。最後に出てくる白いものも……乾くとひどくぱりぱりするのが困りものだが。とにかくこれが今の万里江にとって一番興味深いものだ。
――――相手の体にしか興味がないわけじゃない。
つき合ってみると、相手の性格も、趣味も、ものの考え方も、自分とはまるきり違っていた。
あまりにも違うから、かえって興味が湧く。
自分にはどこがいいのか見当もつかないものに夢中になっている。その熱心な目つきを見ていると、自分もその面白さというものを知りたくてたまらなくなる。どんなものであっても、ひとを面白がらせる要素がどこかにあるはずだ。だからそれはそこに在る。折角存在する面白さを、見つけて楽しまないなんてもったいない。
色々話をしているうちに、考え方が根本的なところで異なっていることがわかる時がある。どうやらみんなはそういう時には相手を嫌い、怒るみたいだ。(信じられない!)(あんなこと考えてたなんて!)――――馬鹿馬鹿しい。違う人間なんだから、違うのは当たり前。自分と同じだったら……まあ気楽ではあるが、そればっかりじゃつまらない。
大体、自分がそんなに大したものなのか。相手の知識は自分よりはるかに豊富だ。年上だけあってものの見方も多面的。自分がいかに単純な人間だったか、ほんのわずかの間に散々思い知らされた。
だから、ぶつかった時には、どこがどう違うのか、とことんつきつめて考えてみる。なるほどここが違うのか。わかれば勉強になる。また世界が広がる。相手をさらに好きになれる。
そううまくいくばかりじゃなく、どちらも譲らなくて、喧嘩になることもある。けれど最後の手段があるから、勝つのはいつも自分だ。簡単なこと…………ちょっと落ちついてから、短めのスカートをはいて、太腿を見せつけるように横座りして、下から色っぽく見つめればいい。笑顔でキスしてやるのも結構きく。そうすればもう男は怒れない。男なんて可愛いものだ。つきあってみてはじめてわかった。
女と男のからだのように、二人くっつくと足りない部分をおぎないあって、ぴったりひとつのものになる。まだ今はうまく噛み合わないところもあるけれど、やがてきちんとそうなるだろう。万里江は希望を持っている。
そして。
はじめて体を重ねた夜、万里江は男の胸に耳を当て、静かに静かにつぶやいた。
「好きだよ、おにいちゃん……」
――――一番大事な言葉。
これさえあれば、どんな問題も乗り越えられる。
(好きだよ、おにいちゃん)
(おにいちゃんのこと、あたし、好き)
万里江は今、相手に本当に夢中になっている。
しかし――――
(だけど)
と、万里江は思う。
男とつきあうのは生まれて初めてで、見ること聞くこと触ること感じること、一切合切初めてで、初めてだということがすごく嬉しいのだけれど、
(ごめん……ひとつだけ、初めてじゃないことがあるんだ……)
“おにいちゃん”にはこれは言っていない。
とても繊細な、きらきらしたもの。秘密にするようなことではないのだが、おもてに出したら大事な彩りが失われてしまう気がする。
だから万里江は教えない。
多分、誰にも言うことはないだろう。
ただ一度。
高陵学園に進学する直前、なんにもないワンルームマンションで、遊んで飲んで歌って踊って、脱いで暴れてわめいて泣いて、何がなんだかわからない滅茶苦茶な馬鹿騒ぎのあと、ふと訪れた静寂のうちに、一度だけ口にしたことがある。
「アヤ…………あたしの初恋ってさ………………相手は、あんただったんだよ……」
※
初めて会ったのは中学一年の時。
街で見かけた。
すれ違った瞬間、体に電気が走った。
万里江はその頃にはもう周囲から浮き上がっていて、いじめの標的にこそされないが、クラスではどの女子のグループにも入ることができないでいた。つらいと認めることはなかったが、心にいつも暗雲がたちこめて、面白くない気分でいた。苛立つままに、今日は何かしら危険なことをしてやろうと、熱に浮かされるような気分で街に出てきていた。
それが、晴れた。
見つけた。何がなんだかわからないうちに、そう口にしていた。
その日一日、万里江は駆け回った。徒労に終わったが、理由もなく、すぐにまた会えると思った。確信だった。
万里江の直感通り、翌日、背が高いその少女は万里江のクラスにやってきた。
『水南倉綾乃』という名前は見る前から知っていたような気がした。
親の仕事の都合で転入してきたと担任は言ったが、嘘だと万里江はすぐ見破った。これも理由はないが確信した。仲良くしてやってくれと言われ、は〜いと思い切り大声で答えてしまってクラス中から笑われた。
相手のことが気になり、昼も夜も相手の面影が脳裡から離れず、相手のことをもっと知りたくてたまらなくなる。相手のことを思うと胸がどきどきする。相手に気に入られたくなって、そのためならどんなことでもしようという強い意志が芽生える。
そういう感じが恋だと万里江は思う。
同性愛とは違う。セックスを知った今ならよくわかる。アヤとそういうことをしたいわけではなかった。
でも、セックスこそ関係してこないけれど、あの時感じた熱い思いは、間違いなく恋だったと思うのだ。
アヤはどす黒い、異様な雰囲気を色濃くまとわりつかせていた。いわゆる不良と呼ばれるタイプの生徒はクラスに他にもいたが、それとはまるで気配が違う。まだ子供の部分が多い中学生たちは、これは自分と別種の“もの”だと本能的に察し、恐れ、遠ざけた。
万里江だけが違った。
「水南倉さん。あたし、本城。本城万里江。よろしく」
生まれてはじめて自分から挨拶した。
アヤは机に突っ伏したまま、腕の底からちらりと見上げてきた。
――夜、万里江は眠れなかった。
胸が高鳴って止まらない。
アヤの目。
怖い。すごく怖かった。
自分をどうにかしようという意志はない。でも、怖い。自分には見当もつかない、ものすごいものを見てきている目だ。
穴みたいなもの。迂闊に近寄って落っこちたら大変だ。みんなはそう感じているから、近づかない。それはわかる。普通はそうする。
でも、と万里江は考えた。
あたしは普通じゃないみたい。
穴の底には何があるのか、見てみたい。
落ちてもいい。
いや……落ちよう。なんだかそうするために生まれてきたような気さえする。自分から飛び降りて、何があるか確かめにいこう。
そう考えるとさらにどきどきが強くなって、じっとしていられなかった。一晩中万里江はベッドの中を右に左に転がっていた。
はじめの週は無視されて、次の週では睨まれた。
反応があったのでいけるかと思ったが、さらに次の週にはまた無視に戻ってしまった。
あきらめはしなかった。同じ無視でも最初の頃とは違っている。最初の頃は自分の声そのものを聞いていなかった。今は聞いている。聞いた上で無視している。聞いてくれているのならあきらめることはない。
「おい」
呼び止められた時は、誰の声かわからなかった。
振り返って見上げると、底なしの暗い目がそこにあった。
「お前、うるさいぞ」
胸ぐらをつかまれ、言われた。
背筋がぞくぞくとした。腕にびっしり鳥肌がたった。多分次には殴られる。
なのに、顔は笑いをつくった。
「名前」
「……なに?」
「だから、あたしの名前。おぼえてくれてるよね?」
「知るか」
「おぼえてくれたら、放っといてあげる」
「……」
呆れた顔で転校生は手を離した。
ポケットに手を入れ踵を返した、その黒い後ろ姿に万里江はにんまりして追いすがった。
「水南倉さんって、いい声してるね。うん、気に入った」
「はあ?」
「ほんじゃ、またね」
万里江は熱しやすく、冷めやすい。
飽きっぽい、ともいう。
ひとたび何かに興味を持つと、全身全霊をかけてそれに向かう。けれども面白いものが他に見つかると、潮が引くように最初の対象への興味が薄まり、放りだしてしまう。
万里江は色々なものに恋をする。片っ端からする。
前の恋を引きずらないから、沢山の恋ができるのだ。
――――転校生……いや、もう“アヤ”と呼ぶようになっていた――――への恋も、唐突に終わった。
別のものが面白くなり、頭までどっぷりとつかった。そうなるともうアヤには目もくれなかった。
「……おい」
向こうから話しかけてきたときのことを、万里江はよくおぼえている。
「……お前、前に言ってたな。オレがいい声してるって」
「そうだっけ?」
「どういう意味だよ」
「………………え……?」
頭脳をフル回転させて、ようやく思い出した。
二ヶ月も前のことだった。今になって持ちだされるとは思ってもいなくて、ぽかんとした。
唇をとがらせそっぽを向いている相手をまじまじと見た。どうやらアヤは、万里江に話しかけたかったのに、話題がそれ以外思いつかなかったらしい。
突然、可愛いと思った。
それから爆発的な笑いの発作が起こった。腹をかかえて笑い転げた。真っ赤になったアヤに蹴りつけられ、パンツ丸出しでひっくり返っても、まだ止まらなかった。まだ短いポニーテールが床の埃を掃いた。息ができなくなって、このまま死んでしまうかと本気で思った。
――――アヤとつるむようになったのは、それからだ。
「高陵学園?」
思わぬ進学先を聞かされたのは三年生の秋。
名門私立女子高。
「……つまんなくない?」
「女子校でいいんだ」
「なんで?」
「男は嫌いだ」
「あんた、そーゆー趣味?」
「知らなかったのか?」
冗談めかしてこそいるが、この手の話題に触れるときのアヤには、万里江でさえ近寄りがたい陰影があらわれる。転校してきた理由について感じるのと同じように、それには絶対触れてはならないのだと万里江は直感的に悟っている。
アヤはどうやら高陵学園理事長の親戚らしい。
そのコネで推薦入学が決まっているのだと、みな陰口をたたいていた。
周囲には好き勝手に言わせていたが、万里江にだけは本当のところを明かしてくれた。
「関係ねえよ。ちゃんと試験受けるんだ」
それまで気にしたことはなかったが――――実はアヤの成績は非常に優秀だった。
家で、
「他にすることねーから」
勉強している、という。
テストをまともに受けないので通知表には芳しくない評価が並んでいて、自分と同レベルだと安心していたのだが、
「無茶はいけませんぜ、センセ」
茶化しにアヤは真面目に応えた。
「なんとかなるだろ」
一度だけ真剣に受けた模試の順位表の、上位一桁台に『水南倉綾乃』の名があった。志望校への合格率、90パーセント以上。
万里江は焦った。生まれてこのかた、これ以上ないくらいめちゃくちゃに焦った。
特にこれといった目標もなく、適当に今の自分で受かるところに行くつもりだったのだが、予定は全部変更された。アヤが行くなら、自分も行かねばならなかった。死にものぐるいで勉強した。
合格通知が届いたときには、親に見せるよりも先にアヤに電話して報告した。
※
女子校で、アヤは中学校の頃よりもよく笑うようになった。それが万里江には嬉しい。
だが――――最近、様子がおかしい。
自分に新しい恋人ができたからだろうと、最初は思っていた。
“おにいちゃん”。
……アヤは男嫌いな、硬派なヤツだ。だから、自分が男とつきあいはじめたのに怒ったのだろう。それはわかる。仕方がない。わかってもらうしかない。
それとは別にもう一人、非常に関心を持っているという意味での、恋人。
――――万里江が入った吹奏楽部の顧問、氷上先生。
入部した当初は怖くて仕方がなかったが、仲良くなってくると、結構面倒見のいい、やさしいひとだとわかった。すごく背の高い、外国人とのハーフ。日本人離れした顔立ちだが西洋人にも見えず、とにかく綺麗というしかない美貌で、一緒にいると頭の中がほわんととろけるような、すごくいい気分になる。美しい顔を見つめ、心の奥底にじかに響いてくるような声を聞いているうちに、夢見心地になって、時間がたつのを忘れてしまうこともよくある。あれだけ綺麗なんだから仕方がない。
アヤが、どういうわけかこのサングラスの先生をひどく嫌っている。
自分が先生と仲良くしすぎることを嫉妬しているのだろうと、最初のうちは思っていた。
でも、どうも違う。どう違うのか説明はできないが、わかる。アヤが氷上先生を嫌っているのは、並大抵のレベルではない。どうやればあんなに嫌いになれるのかわからないくらいに、ものすごい嫌悪感を抱いている。
五月の終わり頃。
氷上先生がらみで、アヤの言動がおかしくなってきた。
六月に入り、アヤは上級生に暴力を振るい、二週間の停学となった。
万里江は早速アヤの部屋に行った。別にアヤがそうなったからといっても、これまでと変わるものはない。やっちゃったか、と笑ってやろうと思っていた。
なのに、追い出された。何か気に障ることを言ってしまったらしい。謝ったが、アヤは許してくれなかった。アヤはたまにそういう時がある。明日になれば機嫌も直るだろうと、その時は簡単に考えていた。
次の日、部活が終わってからすぐに駆けつけた。
いくらチャイムを鳴らし、扉を叩いても、中にいるのは確かなのに、扉を開けてもくれなかった。
――――おかしい。
お腹の中に冷たいかたまりができた。いつもの、万里江が知っているアヤの反応ではなかった。
異常事態だった。ここで何とかしないとアヤとの仲がこれまでになると、万里江の直感は金切り声で告げていた。
さらに翌日、部活をさぼり、雨の中、マンションに向かった。
留守だった。夜になれば戻ってくるだろうか。雨音に包まれながら、扉の前に座りこんで帰りを待った。アヤと過ごした楽しい思い出と一緒に、組んだ腕に顔を埋めた。
「アヤ……どうしちゃったんだよ……」
暗くなり、お腹が空いてきた。近くのコンビニまで弁当を買いに行く。その間に戻ってきていないか心配だったが、その気配はなかった。どんどん冷たくなってゆくビニール袋を抱きかかえ、ひたすらに待った。
やっと姿を見せたアヤは、幽霊でも見るように万里江を見た。
「ちきしょう! 氷上! てめえ、どういうつもりだ! オレをこんなに痛めつけて、楽しいのかよ! オレが苦しむとこがそんなに見たいのか!」
わけのわからないそんなことを言って、万里江を壁に押しつけ、泣き出した。
なだめようとしたら、ひっぱたかれた。
「馬鹿あっ! もう知らない! 勝手にしろ!」
かっとなって走り出してしまった。
走りながら、あとからあとから涙があふれだしてきた。気がつくと駅にいた。キップを買いながら何度も鼻をかんだ。
家に帰るなり、窓から抜け出して隣家の屋根に渡った。
窓を叩き、もう寝ていた“おにいちゃん”を呼び出す。
部屋に上がりこむなり、万里江は体当たりして相手をベッドに押し倒した。胸に顔を埋め、「何も言うな!」と怒鳴った。わからずやのアヤに腹を立て、はたかれたことにむかつき、理由がわからないことに混乱し、アヤとの関係が崩壊する予感におののき、それとは別の理由もあるような感じもして、とにかく何がなんだかわからないごちゃごちゃした渦の中に放りこまれた気分で、でも悲しいことだけは間違いなく、しっかりした暖かいものに強くしがみついて、ひたすらに泣き続けた。
そのまま眠ってしまった。気がつくと朝で、ベッドに寝かされていた。
本来のベッドの主が床に丸くなっている。優しいものが胸いっぱいにあふれてきた。
「ありがと」
頬にキスし、家に帰った。
もう一度、会いに行こう。
そう思いはした。だが、行けなかった。もう昨日みたいな思いはしたくない。踏ん切りがつかず、どうやっても足を向けられなかった。
――――その日アヤに会いに行っていれば、催眠術をかけたアヤから過去のことを根ほり葉ほり聞き出している迫水千尋の姿を見ることになっただろう。
アヤにとっての地獄の夜を、何も知らずに万里江は過ごし、翌日、勇気を奮い起こしてアヤの部屋に向かった。
またいなかった。今日は土曜日、どこかに泊まって、帰ってこないかもしれない。夜、窓の明かりがついているのを確認してほっとした。
深呼吸してチャイムを鳴らした。
出てきたアヤは、猫にでもひっかかれたみたいに、顔じゅう縦横に絆創膏を貼っていた。
その顔を見た途端、水を浴びたみたいな心地になった。
(これ…………誰……!?)
アヤと同じ顔同じ姿。
(でも、これ、アヤじゃない!)
初めて会った頃の、底なしの洞窟みたいな、ぞっとする目つき。
これまで過ごしてきた日々、積み重ねてきた思い出が、何もかもリセットされたかのよう。
嫌われたとしても、ここまでの変貌はありえない。
自分の目が信じられなかった。実はこれはアヤの双子の妹だという方がまだ納得できる。
何があったのか?
まともに相手もしてくれず、アヤはドアを閉めようとした。これが閉じられたら何もかもおしまいになる。万里江は飛びついた。
指が引き剥がされ、突き倒された。
蹴られた。
本気の攻撃だった。みぞおちに爪先がめりこんだ。内臓がひっくり返る。引き起こされ、数度殴られ、階段から突き落とされた。踊り場の壁に激突してから、胃の中身を床にぶちまけた。
「ざまあみろ」
苦悶する耳にアヤの声が聞こえてきた。
這いずってなんとか外に出た。
湿ったアスファルトに顔がこすれる。立てない。左脚がずきんと痛む。くじいたみたいだ。
わからない。アヤが。自分が。どうなってしまったのか、どうしたらいいのか。
誰でもいい、誰かに助けてほしい。
(――――電話)
携帯電話は階段を転げたときに壊れていた。
何とか身を起こし、よろめきながら、裏手の公園に転がりこむ。
公衆電話があった。指が勝手に番号を押した。
「先生…………せんせい!」
呼びかけながら、万里江は泣きじゃくった。
気がつくと、闇に抱きしめられていた。
安心した。これでもう大丈夫。
「ゆっくりとでいいわ。落ちついて、ひとつひとつ、あなたの見たことを思い出してみて。大丈夫よ、映画でも見ているみたいに、あなたはどんなつらい場面を思い出しても、落ちついたままでいられるわ……」
右に左に体を揺すられていると、万里江は五感の感触を失って、アヤの部屋の前に戻っていった。
ドアの向こうから現れた、アヤみたいな、知らない誰か……。
(あ……!)
その姿が静止画像になる。
何かが気になった。でもよくわからない。
「少し巻き戻して、もう一回見てみましょうね。画面の隅々まで、どんなものでもとてもよく見えるわ……」
開いた扉。その陰――――ズームアップ。
あれは……。
アヤの足元……。
「何が見えるの?」
「靴…………女の子の靴…………」
「いくつあるか、わかる?」
「アヤが自分の履いてる……小さいのひとつ……同じのよっつ、きっちり並んでる……」
「三足、でいいのかしら?」
「はい……」
「三人の女の子が部屋の中にいたということね。そろいの、同じサイズのものが二足――――二人組……双子かしら? 誰か、心当たりはある?」
心の奥底までひっくり返してみたが、あてはまりそうな相手はまったく思いつかなかった。
「そう。じゃあ、まずそれが誰なのかを確かめなくちゃね。今日はこのまま帰りましょう。一緒にいらっしゃい、手当してあげるわ」
その夜、万里江は湿布を貼られた足首をさすりながら、満足しきって眠りについた。
あのひとが保証してくれた。必ずアヤは元に戻る。
あのひとって誰なんだろう。わからないけれど、もうこれで何の心配もいらないことだけは間違いない。
――――そのはずだった。
しかし、週が変わっても、アヤはそのままだった。
月曜日、火曜日と、探偵まがいにアヤの周囲を探ってみたが、何一つわかったことはなかった。
アヤは相変わらずおかしくなったまま。ぶらぶら外出することもあるが、万里江の姿を見ると戦闘モード全開で襲いかかってくる。殺気が肌にびりびりきて、話どころではなく、逃げるしかできない。
水曜日。
明日には停学期間が終わって、アヤは出てくる。
なのに、あんなままなのだろうか。
何とかしなければ。何とか。
でも…………何がどうなっているのかもわからないのに、どうすれば?
思うより動く。思考より行動。それが万里江のモットーなのに、行動方針が決まらない。
いらいらする。
「万里江、ご飯食べよ」
部活の仲間たちが誘ってきた。屋上で弁当を広げるのがお気に入りだったが、風が強いので階段に腰を下ろした。料理に夢中になっていた時には、よくアヤを新作弁当の試食係にしたものだ。思い出すと泣きたくなる。何も話さず、もそもそと箸を使った。
「ふ〜んふふふふふふふっふふふ〜ん♪」
クラリネットの須藤真央が、『ボレロ』のメロディーをしきりに口ずさむ。うるさい。
その真央が、夢で理想の彼氏を見たとか何とか、浮かれてごちゃごちゃ言い始めた。
「勝手に言ってろ、バカ」
内心がストレートに口に出てしまった。真央が気色ばむ。まずいとは思ったが、それまでのむしゃくしゃがはけ口を見つけて一気にほとばしり、止められなかった。
「欲求不満垂れ流すならトイレに行きな。折角のおべんとタイムにくだらない話聞かされるこっちの気分にもなってほしいね。にたにたすんのは鏡の前だけにしといてよ。あんたの色ボケ面って見られたもんじゃないからさ」
「………………」
言われた真央はにたりと笑い、隣の羽住祥香に顔を寄せて、とげとげしい低い声で返してきた。
「万里江はね、おレズの相手がいなくなって寂しいんだよ」
直接万里江を対象としないその陰険な言い方は、真正面から怒鳴り返されるのよりもずっと腹立たしかった。
万里江の手の中で箸が折れた。
「……もう一回言ってみな」
「あんな不良のどこがいいわけ?」
言われた瞬間、手が動いた。物を握って殴るとものすごく効くと、アヤから教わって知っていたから、とっさに箸を捨て、平手打ちに切り替えた。
「勝手なこというな! 何にも知らないくせに!」
怒声を叩きつけてから、グーで殴ってやればよかったと後悔した。
親友にあんな目で見られ、本気で殴られる辛さが、こんな優等生にわかるわけがない。
周囲に止められなければ、思い切り真央をぶちのめしていただろう。
……八つ当たりだ。わかっている。
その場を離れてから、ひどく情けない気持ちになった。
※
その日が来た。
ただならぬ気配が校舎を駆け抜けたのを万里江は感じた。
授業終了のチャイムも待たずに教室を飛び出す。
(いる……!)
校長室に駆けつける。
扉の向こうに、いる……!
耳をつけた。
『水南倉、停学明け早々に遅刻してきたくせに、なんだその態度は!』
生徒指導の男性教師が怒鳴った。万里江はびくっとして飛び離れた。
(アヤが…………そこに……!)
ひどい動悸がはじまって、息が苦しくなった。
次第次第に集まってくる生徒たちと逆に、ひとりその場を離れる。
『しつれーしやしたっ!』
アヤの声が轟いた。
ざざっと割れた人垣の間を、不機嫌そうな黒い姿が歩いてくる。
――――。
万里江は意を決して立ちはだかった。
たちまちアヤの眉が吊り上がった。
目が……変わる。
燃え上がる、ならまだましだ。自分を怒りの対象としてくれているから。そうじゃない、この冷たい光は――――道をふさぐ石ころを見るような目だ。忌々しい、邪魔だ、なくなってくれないかな……そんな目つき。
「アヤ!」
名を呼ぶだけで泣き出してしまいそうだった。
「………………」
「どうしたんだよ、一体……。何か、あたし、悪いことした? だったらあやまるからさ…………ねえ!」
懸命に呼びかける。そうしないとアヤには届かない――目の前に本人がいるのに、そんな気がする。
「どきな」
冷酷な声とともに万里江は押しのけられた。それでも呼ぶ。
「アヤ!」
するとアヤはじろりとねめつけて、おかしなことを言ってきた。
「うるせえ、人形」
「……なんだよ、それ……」
人形? どういう意味だろう?
いや、意味なんてどうでもいい。とにかくこれをとっかかりにアヤと会話を続けることだ。
だが、
「あ、いたいた」
別の声が廊下の向こうから飛んできた。
ショートカットの生徒。襟章は二年生。結構美人だ。
「よう」
アヤは万里江を無視してそちらに挨拶した。
「どっちだ、おめー?」
「へっへっへー、わかる?」
「だ、誰よ……それ…………」
万里江は混乱した。アヤに上級生の友人がいたなんて知らない。自分の知らない友人が、街にならまだしも校内にいるはずがない。
なのに……!
「それ、はないでしょ、上級生に」
相手の目を見た途端、背筋におぞけがはしった。“邪悪”と――――何事につけても正確な判断を下す万里江の直感は、そういう第一印象をよこした。
「ボクたちのこと知らないの?」
万里江の背後から声がした。振り向くと、目の前にいたはずの相手がそこにいた。
「え……?」
双子だ。同じ髪型をしていて、どちらがどちらかまったく見分けがつかない。
双子はアヤの左右に立った。見ればみるほどそっくりだ。アヤの腕に腕を絡めたポーズまで同じ。鏡を見ているようだ。
思いだした。二年生の、有名な双子。白河文月と葉月。
(双子……?)
なんだろう……なにか、引っ掛かる…………。
「おっしゃあ、来た来た、待ってたでえ〜っ!」
関西イントネーションの甲高い声がさらに加わった。
小学生でも通りそうな小柄な体。赤ん坊みたいな大きな目、結構長い髪は両側にしばって垂らしていて、笑顔は愛くるしい。迫水千尋、という名前は万里江も知っていた。新聞部の名物部員。お人形みたいな外見に似合わぬ体当たり特攻取材で知られている。
こちらは――――
見た途端、総毛立った。
(なに――――これ……!)
“これ”と……。
“この人”でも、“こいつ”でもなく。
“これ”と感じた。
自分をつくっている人間はすぐにそうとわかる。人を見る目には自信があり、これまでほとんど外れたことがない。
双子は邪悪ではあるが――――こういう言い方もおかしいが、普通の隠し方しかしていない。万里江には恐ろしい本性が簡単に透けて見えた。決して心を許してはいけないタイプ。ようするに悪人だ。わかりやすい。
その点、この千尋は……。
違う。
人間では…………ない――――?
そんなはずはない。
しかし……。
顔の造作はすごくよく整っていて、動作は活発、よく舌が回り、表情も生き生きとしている。
それらがことごとくつくりものだということはわかる。装っている。本性は別。
なのに、双子のときには透けて見えた着ぐるみの中身が、まったくうかがえない。
真っ黒い……穴? いや違う。穴なら穴とわかる。アヤがそうだったように。
これは――――わからない。まったく。
渦巻いているものがある。混沌。いや混沌に落ちこんでいるのは万里江の感覚だ。そこにいるのは理解不能のもの。虚無への入り口。正体はわからないものの、“それ”に触れたら最後だということだけははっきりとわかった。
そして……。
アヤが“それ”に汚染され、同化されかけていることも、瞬時に直感された。
「よう、ちひろ」
アヤは笑顔で応じた。
万里江は愕然とした。アヤがそんな顔を他人に向けたのは見たことがなかったのはもちろんだが、“これ”相手にそんな態度を取る姿に恐怖した。
「やっぱアヤさんおらんとガッコもつまらんわー。これからばりばりやるでえ、な!」
「オレに何させる気だよ」
「へへ、それは秘密。ま、今度、な。とにかく、行こか」
千尋はアヤのお尻を叩いた。アヤは怒らず、苦笑しつつ従う。
万里江はともすれば萎縮しそうになる心を必死でかきたてた。
「待ってよ! アヤ!」
背中を向けたアヤと双子、千尋がそろって振り返る。
千尋の目が万里江をとらえた。きらんと光る。また総毛立つ。
「アヤさんのツレ? だったらうちのツレもおんなじや。紹介してや」
「……いや。知らねーな」
「アヤ…………」
無視された衝撃は間違いなく強烈だったが、同時に、千尋に紹介されずにすんだことに対して、まぎれもない安堵を感じた。
追いすがるべきか、このまま見送るべきか。
迷った刹那、アヤの猫背の背中に稲妻がはしった。
窓ガラスが振動して音を立てたのは気のせいか。
「アヤさん? どしたん?」
アヤは再度こちらに向きなおった。
背筋が伸びている。
万里江を見たのではなかった。その頭上、廊下の向こうに憎悪の視線が飛んだ。
千尋と双子がびくっとなって離れた。万里江もまた青ざめて後ずさった。
戦闘モード。
この状態のアヤに接近することは、飢えた猛獣の檻に手を突っ込むのも同然だ。
「氷上…………!」
万里江はおびえながら、(あ、怒ってる)と、この日はじめてアヤの感じていることを理解できて、ほんのちょっとだけほっとした。
アヤがらみで氷上という名を持つのはただ一人。万里江の後方、多分職員室近くの廊下に、あの先生がいるのだろう。背の高いアヤには見えたのだ。
相手が消えたのか、すぐにアヤは元に戻り、くるりとまた背中を向けた。
「行くぞ」
「あ、待ってな、アヤさん!」
千尋と双子が続く。
万里江は茫然と見送った。
休み時間のたびに様子をうかがいに行った。アヤは教室の片隅で手負いの獣みたいにじっと突っ伏したままで、万里江の知るいつものアヤとどこも変わらなかった。
もしかしたらもう元に戻っているかも。そんな気さえした。
だが昼休みにはアヤの姿は消え――放課後、すぐに駆けつけたのに、もう教室にはいなかった。
元々目立つ外見だ、捜して回るとすぐに行く手はわかった。
(……え……?)
体育館のさらに向こうにある――
武道場。
剣道部や柔道部が使っているそこに、アヤは入っていったという。
アヤがスポーツに励む姿など想像もできない。
強い先輩たちにリンチされるという方がまだありそうだ。
しかし、このお嬢様学校でそんなことが……?
ともかく、
(調べなきゃ)
上履きのまま外に出て、武道場ににじり寄った。
中からはどしん、どしんと物音がする。柔道部が受け身の練習をしているらしい。
そっとのぞいてみた。
「あ!」
思わず声が出た。
我を忘れてまじまじと見つめた。
アヤが――
あのアヤが、柔道着を着ている。
明らかに上級生とおぼしき、180センチはありそうな大柄な生徒相手に、髪をばらばらに乱して、床の上でもみ合っている。
寝技の練習なのはわかるが――――。
(なんで?)
アヤが、なぜ突然柔道など?
スポーツに目覚めた?
でも、なぜ柔道?
わからないままに、相手の首を絞めるアヤの姿に見入っていると、突然、
「……何をしてるの?」
後ろから肩を叩かれた。
感触が手ではなかった。振り向くと、制服だが手に竹刀を持った、鋭いたたずまいの女子が睨みつけていた。
剣道部主将、柏木貴子。有名人なので万里江も知っていた。
「い、いえ、その……」
「入部志望? 見学なら中へどうぞ」
「いや、あの……これは……」
「なら練習の邪魔よ。帰りなさい」
竹刀の切っ先がびしりと額に突きつけられた。
脳天に氷の針を突き刺されたような感覚……まぎれもない、殺気。
おかしな動きをすれば、本気で打たれる。
(なんで?)
どうしてこんなに剣呑な目つきをしている?
逃げ出した後に考えたが、最後まで理由はわからなかった。
次にどうすればいい?。
こういう時は、誰かに相談するのが一番。
クラスメートや部活の仲間ではダメだ。一年生では三年生に太刀打ちできるわけもない。先輩は……やっぱりダメ。いくら後輩の頼みでも、体育会主将相手に体をはってくれるとは思えない。
頼りになるのは一人だけ。
万里江は音楽室に向かった。
階段にさしかかったところで足を止めた。
下から冷え冷えとしたものが昇ってくる。あの先生だ。いつでも夜の風をまとっている。
「せん……」
声を途中で飲みこんだ。
足音がもうひとつ、くっついている。
確か教育実習生の――――朝霞令子。
朝から学校中飛び交っていた噂をようやく思い出した。
朝霞のヤツが、氷上先生に告白した。迫った。できちゃった。……とにかく二人の仲が怪しい。
身を隠した万里江の前を二人は過ぎていった。
朝霞ばかりがしゃべっていた。なれなれしかった。氷上先生のものすごい綺麗な顔はちょっときつめで、わずらわしげに見えた。
(あいつのせいか)
氷上先生が何もしてくれないのは、あいつが邪魔をしていたからだ。あいつのせいでアヤはおかしなままなんだ。
すべて、あいつが悪い。
――真央に対してはまだ仲間意識があった。朝霞令子はそうではなかった。自分を見つめ直す余裕も失われていた。万里江は鬱憤のすべてを怒りに変えた。
翌、金曜日。
放課後。
万里江を含めた吹奏楽部の生徒が数人、屋上に並んで座っていた。
この日音楽の授業があった者は、全員さぼった。朝霞の授業などに出る気はなかった。
今日で教育実習は終わる。彼女と学校との関わりは切れる。
誰も、何も言わない。だが心の底で深く結びついている少女たちは、みな同じことを感じ、同じ事を考えている。
「………………」
樋口佳奈が立ち上がった。
万里江は手を挙げた。
差し出したカッターナイフを佳奈は受け取り、無言でちきちきと刃を出し入れした。
ポケットにしまうと、一言も発することなく出ていった。
続いて須藤真央が立つ。
万里江はやはり手を挙げた。真央はその手にぱあんと音高く手を打ち合わせて出ていった。
言葉は必要ない。思いは一緒。
万里江の心は晴れた。
これで邪魔者はいなくなる。先生はあたしたちの先生に戻る。
「……よし!」
一声叫んで立ち上がった。ポニーテールが元気よく揺れる。
アヤの様子を見に行こう。そして先生に相談するのだ。
※
昨日と同じく、アヤは武道場にいた。
今日は畳があげられ、剣道部が練習していた。それでもなぜか隅の方でアヤは昨日と同じ上級生相手にもみ合っていた。体育の藤堂美夏先生が色々指導している。先生は剣道着なのに教わる二人が柔道着なのはどうにも奇妙だ。
(?)
制服姿が現れた。白河シスターズ。
柔道部でも剣道部でもないはずなのに、なぜ出入りしている?
しかも見ていると、一年生の腕を取り、付属している剣道部部室へ引きずりこんでいった。
好奇心が湧き、隣の窓へ移る。
窓にはカーテンがかかっていたが、わずかに隙間があった。
のぞきこんだ万里江は目を丸くした。
一年生が倒れていた。いや違う。気をつけの姿勢のまま、目を閉じて、全身を棒みたいにかちかちにして、ロッカーに斜めによりかかっていた。その前で双子がにやにやしている。
異様な光景であった。だが、そういう光景はどこかで見たことがあるような気もした。唐突に氷上先生の姿が脳裡に浮かんだ。このことを教えなければならないと強く思った。理由なんてない。催眠術を使っている人間を見たら、連絡しなければならないのだ。催眠術という言葉を思い浮かべたことを不思議に思うこともしない。上を見上げれば空があるのと同じように、当たり前の言葉。
身をひるがえした瞬間。
「……ひっ!」
そこに。
「本城……万里江、やな」
髪を頭の両側で縛った、小学生みたいにも見える、きれいな、小さい上級生が立っていた。
迫水千尋。
愛らしく微笑んでいる。だが大きな目の奥には、あの正体不明の“もの”がある。
右の手に、柄のついた鈴が握られていた。
リ……ィン……と鳴った。
「来(き)いや」
頭の中を鷲掴みにされたような感覚が芽生え、逆らえなくなった。
蒼白になって武道場に連れこまれた万里江に、竹刀が投げ渡された。
剣道部員が壁沿いにずらりと並ぶ。
アヤは隅の方で、こちらに一顧だにくれず寝技の稽古を続けている。
「アヤ!」
呼んでも何の反応もない。鬼気迫る表情で上級生の襟元をつかみ、殺しかねない勢いで締め上げている。
「さて、はじめましょうか」
昨日の上級生――柏木貴子が正面に立った。頭に手拭いを巻いてはいるが、面は着けない。白刃を思わせる眼の光。
「は、はじめるって……なにを……」
「見学者に、剣道部の体験練習をさせてあげるのよ。早くしなさい!」
強烈な叱咤にむち打たれ、わけがわからないままに竹刀を握る。
「待ってください、ぼ、防具、あたし制服だし、じゃなくて、大体なんで――」
「ヤーッ!」
貴子の足が動いたと思った次の瞬間、万里江の視界に火花が散った。全国大会優勝候補の、全力の一撃。痛いと感じることもできず、気がついたときには世界が横になっていた。倒れたのだとわかるまで少しかかった。
「どうした! 立てえ!」
倒れているところをめった打ちにされた。剣道ではありえない。これはリンチだ。
(なんだってんだよ!)
万里江は身を丸めながらかっとなった。ケンカ慣れしているわけではないが、運動神経はよく、暴力にすくんでしまうほどヤワでもない。伊達にアヤとつきあってきたわけではないのだ。
貴子めがけて飛びついた。
しかし完全に予想されていた。顎先を横からかすめるように打たれ、脳を揺さぶられてくらっとした瞬間、剣先が腹に突きこまれた。げぶ、と喉が異音を立てた。激烈な苦痛、しかし手加減されており、失神して楽になることができない。
「交替」
涙と涎をこぼしながら顔をあげた万里江の目に、嬉々として竹刀を構える藤堂美夏の姿が映った。
先生が?
疑問に思う間もなく、
「ほら、立ちな」
背後から剣道部員に抱え起こされ、無理矢理竹刀を握らされた。
剣道部員が離れるのを待ち受けていたように、美夏の竹刀がうなりをあげ、万里江の手を打った。痛いと思った次の瞬間には、右地ずりから顎を斬り上げられ、文字通り吹っ飛ばされて、受け身も取れず、頭から床に落ちた。
「なんや、もう終わりか。つまらん」
「どうするの?」
「こいつ放っといたら、かぎ回られてたまらん。明日のイベントめちゃくちゃにされるかもしれへんし、そろそろ向こうの情報もほしかった所や、丁度ええ、このまま縛って部室のトイレにでも監禁しとき。後でうちがじっくり料理したる」
(アヤ……)
千尋の声を聞きながら万里江は闇に沈んでいった。
口の中いっぱいに広がった血の味が、最後に感覚されたものだった。
(十四)
土曜日。
朝から雨がしとつき、街も人も灰色のベールをかぶって、重くたそがれている。
少年は人気のない裏通りを歩いていた。
飢えた眼をしていた。
体の深奥が燃えている。激しい焦燥感が荒れ狂い、しみこんでくる湿り気もその肌を冷やすことができないでいた。
あぶられた脳髄はすでにまともな思考ができなくなっている。
頭の中にあるのはただひとつ。
金。
金がいる。今日の夜までに、少しでも多く。
今日は“パーティ”がある。
前の時は――いつ、どこでだったのかは思い出せない、だが夢じゃなかったことだけは間違いない――端の方で見ていただけだった。ものすごく興奮した。だが金がなく、金を持っている連中が、自分とは一生縁のないであろう美少女を次々と買ってゆくのを見ているしかできなかった。みじめだった。
(金、持ってくるんや)
(あんた、はした金しか集められんヘタレちゃうやろ?)
誰の声だ? でもそんなことはどうでもいい。大事なのは内容だ。俺は男だ。女を買い、強い男であることを証明するのだ。そのためには金がいる。誰よりも多く。
必死に集めた。毎日のように弱そうなやつを物陰に引きずりこみ、問答無用で殴りつけて財布を奪った。暴力の快感に達成感、美女の競り落としに一歩近づいた興奮もあるのだろう、そのたびにモノがものすごく固くなって、逃げる時に困った。
みな同じ事をやっているらしく、街中は警察の目が厳しくなり、郊外へ向かった。立派な家だと忍びこむのも難しそうなので、適度に普通の家に忍びこみ、中の人間を片端から殴り倒して金を探した。数をこなせばリッチな家一軒に忍びこむより稼げるはずだった。捕まるのはもちろん怖い。逮捕された奴の話は毎日のように聞いた。しかしびびってしまって男の証明ができなくなる方が厭だった。場所を変え、時には別の街まで出かけ、何軒も襲った。
そうやって集めた金が今ふところにある。
でもまだ足りない。噂だと、チームのトップ連中は組織を使って「集金」させて、かなりの額を集めたらしい。自分のように一人だけでやっていてはたかがしれている。
何とかしなければ。なんとか。
焦りばかりが強くなる。足裏が熱い。焼けた鉄板の上を歩いている気がした。水たまりに踏みこんで冷やす。
今日の“パーティ”では、あの水南倉が“売られる”らしい。
アヤ。すごくいい女だ。何度も見かけた。誰もあいつにはかなわない。女のくせに俺より強い。憎たらしい。許せない。あいつは俺が買う。めちゃくちゃにしてやる。俺が男だと証明するために、あいつを俺の足元にひざまずかせるのだ。必ず。だからもっと多く金がいる。あと数時間。何としても金を。
――――背後に足音がした。
雨が降っていなければ気づかなかっただろう。可能なかぎり足音を殺して近づいてきていた男が、ばしゃっと水音を立てた。振り向いた眼前に、金属バットを振りかざした姿があった。
目が血走っていた。同じだ、と瞬時に思った。こいつも俺と同じことを考えている。
「うらぁ!」
振り下ろされてくるのを、思い切り踏みこんで肩で受けた。勢いを殺したので痛くない。恐れは微塵もない。相手の顔面に頭突きを入れ、腰にむしゃぶりついて押し倒した。指を伸ばして、相手の片目に突き入れた。
悲鳴をあげた相手から離れて起き上がり、手放したバットを拾い上げ、声をだせないようにまず口を殴った。骨の砕ける音がして、相手の口はただの真っ赤な穴になった。それから両腕を砕き、足も数回殴りつけておいた。
血反吐を吐いた相手の懐を探り、自分の持っているより少し多いくらいの札束を発見する。やった。射精しそうになった。
※
闇がやってきた。
淡く煙るネオンサイン。濡れてくぐもる街の喧噪。行き交う人々はどこか悄然として精気なく、靄の中を足取り重く放浪している。
幽霊がさまよい歩く朦朧とした世界に、ただひとつの現実として確固と浮かび上がる――――“会場”。
雨に濡れて陰鬱に黒ずんだ、墓標のようなテナントビル。
はるか上階に幾つか明かりが灯るだけで、店はほとんど入っていない。取り壊しを待つ廃ビルのようでもある。
その横あい、地下への階段が目的の場所だ。
割れた置き看板が打ち捨てられたままに雨に打たれている。
全国紙にも紹介されたことのある――しかし今は潰れて訪れる者もない、主にアングラ劇を上演することの多かった、小劇場。演劇青年たちでにぎわった盛時は時の彼方に流れ去り、薄汚れ、ひび割れた壁面にはその頃を思い起こさせるよすがは何もない。
ここが会場だ。なぜか知っている。誰かに聞かされた。自分も誰かに伝えた。それがいつのことかは思い出せないけれども。
会場である何よりの証拠に――――紙が貼ってある。何もかもくすんだ中に鮮やかな、水色のメモ用紙。太めのサインペン、女の子の丸めの筆致で、
「催眠術ショー」
とある。
大事なのはそれよりも、その下の小さな“しるし”。
いたずら書きのようにしか見えない、一分もかけずに描いたであろう……丸と三角を組み合わせた――――鍵穴……てるてる坊主? いや、手と足らしき短い線がついていて、真っ黒に塗り潰されているから、あえて言うなら――――影法師、か。
それを見た瞬間、安堵が湧いた。
来るべき場所へ来た、自分が自分でいられる場所へ来たという確信が、何の根拠もなく生まれ、体をいっぱいに満たした。
何の恐れもなく暗闇へ踏みこむ。静寂。しかし段は色濃く濡れている。もうかなり大勢が下にいる。
一段を踏みしめるごとに自分の中で何かが変わってゆく。世界がすぼまってゆくような――行く手にあるものだけははっきりとして、それ以外は全部ピントがぼけて見えなくなる。見えないものへの関心が消える。
チケット受付の窓口はシャッターでふさがれている。
中へ入るとぎょっとした。真正面、ホール入口扉の前、薄暗い照明の下に、タキシードを着た男が立っている。両足をそろえ背筋を伸ばし、ほとんど身動きしない。異様なのは、顔に仮面をつけていることだ。金色に鈍く光る、薄気味悪い笑顔の面。丸くくりぬかれた眼窩の奥に、ガラス玉のようなうつろな眼球があった。人間のもののはずだが、自分を見ても反応しない。ロボットみたいだ。
しかしその腕が持ち上がり、右手を指さすと、左手を胸の前に添え、うやうやしく一礼した。
そちらにはテントのように暗幕が張り巡らされ、部屋がしつらえられていた。
恐る恐るめくり開けると、裸電球の下に机が並び、やはりこれも仮面の、しかし今度は女性が三人待ち受けていた。みな若く、大胆に肌を露出した恰好で、それでいて立ち姿にはいささかのうるおいも感じられない。人形が三つ立っているようだ。
ようこそと挨拶してきた。何の感情もこめられていない。これもロボットのようだった。クリーム色がかった厚紙が差し出された。縁に蔓(つる)草の模様が入っている、賞状に使われるやつだ。名前を記入する。ひとりひとり違う紙に書かせるため、先にどのような人間が訪れているのか知るすべはない。住所や職業などプライバシーに関わる内容を書く欄はなく、代わりに今日の所持金を書く枠があった。見栄を張って数十万多い金額を書きこんだ。相手の目はまったく動かず、それが平均より多いのか少ないのか判断する余地を与えてくれなかった。
女性二人が背後に回った。何やら服らしいものを持っている。こちらも操り人形じみた生気のない動作。
着せられたのは、医者や研究者が着る白衣に似た、しかし布地は漆黒、ところどころ金色の縁取りがついてそれなりに豪華には見える、薄地の、大きめの長衣(ロングコート)だった。前はスナップで留めるようになっていて、簡単に外して開ける。前を開くのは何のためか――――考えるまでもない。
さらに頭からすっぽりと、これも黒の布マスクをかぶせられる。目と口だけが空いている。参加者の素性を他の者に知られないようにするためらしい。
ハンドベルに似た、長柄のついた鈴を渡された。かん、かんと軽快な音が鳴る。競る際、声を出したくない者はこれを鳴らせばいい。これも“客”の素性を知られないための気配りだ。
最後にパンフレット。きちんと製本されているが、表紙は無地、中にも挨拶だの説明だのは一文字もない。写真とその人物のプロフィールが簡潔に記されているだけだ。
載っているのはいずれ劣らぬ美女ばかりだった。
まずスーツを着こなしたOL。「商品兼司会、誘導担当」とあるのは意味不明。
制服を着た女の子が二人。片方はセーラー服、片方は深緑のブレザー。それぞれ、市内の高校で一二を争う美少女だ。
男女の写真があった。金髪、悪党面の男と、赤メッシュの髪、彫りの深い、いい女。見覚えがあった。ここ最近、近隣の街で暴れて名を売っている男とその彼女だ。これはどういう風に“売られる”のだろう?
また制服姿の少女。名門女子校の生徒。隣に和服の写真が並んでいる。楚々とした、花も恥じらうような美少女だ。こんな上品な少女が“出品”されるとは――股間が熱くなる。
そして最後に。
『水南倉綾乃 私立高陵学園女子高等部一年三組』
手をポケットに突っ込み背中を丸めた、ふてくされたような姿の写真。
「本当かよ……?」
思わず声が出た。
だがここにあるからには……。
喉が鳴った。懐の札束をあらためて強く意識した。
“会場”には異様な雰囲気が満ちていた。
照明は赤く、薄暗い。
客席に椅子はなかった。舞台に向かって湾曲した、三段ほどの階(きざはし)に別れている。パイプ椅子でも並べたのだろう。演目によっては客席をも舞台の一部として使ったかもしれない。
ステージの中央が、客席の方へ、半円形に大きく突きだしていた。ここで何が展開されるのか、想像するだに血がたぎる。
一切の装飾をはぎ取られた、がらんとした空間に、自分と同じ黒衣姿がつめこまれている。予想よりはるかに多い。百人はいるだろう。
皆マスクをかぶっているので、当然どれが誰かわからない。見知った人間がいる可能性は高いが、まったく判別できない。またこちらも見分けられたくない。みな無言。これから始まる“パーティ”への期待感だけが渦巻いている。そわそわ動く誰かのベルがからからと小さく鳴っている。
冷房がよくきいて、空気はひんやりとしているのだが、照明のせいかあまりそうは感じられず、じっとり汗がにじみ、ひどい獣くささばかりが鼻についた。
赤い光の中にたたずむ黒衣姿はいずれも塑像めいて、人間ではないもののように見える。魔物の集会にただ一人紛れこんでしまったような気がする。落ちつかずに身じろぎひとつ、その動作だけで自分の正体が見破られ、襲われるかもしれない。ベルの柄を握る手に汗がにじむ。ぬぐおうとするとベルから大きな音が出た。慌てて黒衣の大きなポケットに突っ込んだ。身が縮む。
どうやら自分が最後だったらしい。
突然チャイムが鳴り始めた。学校で鳴るあれだ。間延びした、ゆっくりしたメロディ。学校は嫌いだが、自然に、自分が日常から切り離されてゆくことが実感されてきた。この音が消えると同時にそれまでと違う時間がはじまる。チャイムとは時間を区切るものなのだ。
最後の音がたっぷりした余韻を残して消えると同時に。
照明が落ちた。
非常灯の明かりもない、完全な暗黒。
ドクン。
心臓の音がした。
ホラー映画などで使われる効果音。
ふたつ大きく鳴ったあと、途切れ、耳が痛くなるような沈黙、それから小さくドクッ、ドクッと聞こえはじめて、一定のリズムを保ったまま、徐々に大きくなってきた。耳を澄ましているうちに、自分の心臓も鼓動を強めていく。
いよいよだ。
拍動が速まってきた。ドクドクドクと、聞かされるこちらまで息苦しく感じられるほどになる。早くはじまってくれ。祈りも近い気持ちでそう思った。
最高潮に達したところで、パンと強烈な爆発音が鳴り、奥に設けられているステージに閃光が炸裂した。
目を灼かれた。盛大なファンファーレが鳴り渡る。閉じた目を開くと、明るいが問題ないレベルに落とされた照明に照らされて、ステージ上にずらり人影が立ちならんでいた。
ぽかんと口が開く。
黒い、肩口のふくらんだブラウス、裾の長いスカート、目に鮮やかな純白のエプロン。首元に赤いブローチ、頭にはフリル付きのカチューシャ。
メイド……だ。
六人。パンフレットの女性陣ほどではないがみな美形。両手を前にそろえて、晴れ晴れとした顔でいる。
「「ようこそ、快楽と背徳の美少女オークション、みだらな操り人形の祭典へ!」」
少女の声がふたつ、声をそろえて言った。
メイドたちの後ろに、高さ二メートルほどの円筒形の台座がふたつあり、その上に置かれた豪奢な椅子に少女が座していた。
メイドからそちらにライトが移動する。
どちらも胸元の大きく開いた、体にぴったりした真紅のロングドレス姿。左右に大きくスリットがはいり、抜けるように白い足が太股の付け根近くまでのぞいている。
服装ばかりか、体格髪型までまったく同じ。双子だろう。これもそろいの、鈍く輝く金色の仮面をつけている。卵の表面のようにつるりとして何もない中に、目のところに穴がふたつ、それと正三角形を成す位置にもうひとつ穴。非人間的で不気味なマスクに魅惑的な肢体の取り合わせは、気味悪いまでに瓜二つなこともあって、この二人をこの世のものではない、高いところから場を睥睨(へいげい)するのが何よりふさわしい存在のように見せていた。
「「ようこそいらっしゃいました。ご存じの通り、本日ここにいらっしゃるみなさま方は、特別に選ばれた、この場にふさわしい方々ばかりでございます。これよりみなさまを甘美な催眠の世界へご案内いたします。深くて淫靡な催眠の世界がこれよりみなさまの前に開きます。みなさまは日頃とらわれているくびきより解き放たれ、何もかも忘れて、一匹の強くたくましい牡(おす)となって、深い催眠の世界へ入ってゆくのです。深い、深い催眠をかけられた美しき操り人形たちを望むがままにもてあそび、この世の常識も、理性も、自分が誰かも忘れてしまった、哀れな操り人形たちを、望むまま、思うがままにするのです……」」
奇妙な抑揚をつけてリズミカルに述べられる前口上では、やたらと催眠、深い、操るという言葉が繰り返された。官能的なイメージをほのめかされてついつい耳を傾けるうちに、気がつくと催眠という言葉が心に刻みこまれて、催眠術を信じるかどうかという段階を越えて、催眠というものの存在を当たり前のように受け入れてしまう。そういう効果を狙った文言だった。
「「それでは、これよりみなさま方のお世話をさせていただく、可愛い召使いたちを紹介いたしましょう」」
メイドにスポットライトが戻る。
六人は深々とお辞儀した。
「「この少女たちは、深い深い催眠術により、自分が何者であるかを忘れ、身も心もみなさま方に捧げる召使いとなっております」」
舞台袖から、小学生と見紛うような、髪を頭の両側でまとめた女の子が出てきた。助手らしい。仮面はこれも卵形、目は丸くくりぬかれ、口にあたるところは丸と三角を組み合わせた、あの影法師の形の穴が開いていた。
「「これよりみなさま方の元に参ります。本イベントの進行に合わせ、様々な役割を果たしますので、なるたけお手は触れぬようにお願いいたします。
ですがもちろん身も心もあなた方の下僕、ある方法を用いればどのような命令でも聞き入れます」」
影法師面の少女が、端のメイドの前に立ち、可愛らしい声で言った。マイクをつけているらしく、声は会場中に響き渡る。
「服、脱いで」
「……」
メイドは困ったような顔で小首をかしげた。
「「ただ言うのではいけません。魔法のチケットを使いましょう」」
双子の言葉に合わせ、少女はポケットから何やら取り出した。
ぴらっとかざす。一万円札だ。
それをエプロンのポケットにねじ入れてから、再度言った。
「脱いで、四つんばいになって」
「え……」
メイドは明らかに狼狽した。客席に目をやり、頬に羞恥の血の気をのぼせる。しかしうつむき、口元を決意で引き締めながら、背中に手をやった。
エプロンドレスが足元に落ちる。
おおと男たちのうなりが湧いた。肩の薄い、ほっそりした体を、純白のブラジャーとガーターベルト、ストッキングが覆っていた。パンティはつけていない。
今にも泣き出しそうな顔のまま、メイドはその場にひざまずき、裸の尻を高々とさしあげた。
「これで……よろしいですか……」
消え入りそうな声だったが、全員の耳に届いた。
双子が高らかに告げる。
「「この通り、魔法のチケットさえ使えば、どのような恥ずかしいことでも、どのようなみだらなことでも、お望みどおりに従います。みなさまどうかお忘れなきよう。それをしない限りは」」
影法師面の少女が別のメイドに近寄る。スカートをまくりあげ、これも剥き出しの秘所に手を這わす。
しかしこちらはまったくの無反応。
「「一切反応いたしません。チケットを使い、そう命令さえすればたちどころに」」
「気持ちよくなって」
万札をポケットに入れられた途端に、そのメイドは大柄な体をくねらせはじめた。あえぎ声が立て続けに上がる。演技ではない証拠に、すぐに粘液の音が……マイクでひろわれたものであったが、くちゅくちゅと聞こえてきた。
指を抜かれると長々と息をついて、それでも自分で衣服を直し、元の微笑みをたたえた立ち姿に戻る。
「「では、どうぞ存分に可愛がってやってくださいませ」」
双子が促すと、六人はぞろぞろステージから降りてゆき、会場に分散して立った。
早速いたずらを始めた者もいたが、間を空けずに照明が切り替わったので皆ステージに注意を引きつけられる。
「「それではいよいよ、オークションのはじまりです!」」
※
「何すんの! やめてよ! 離しなさい!」
金切り声が響いた。
「「では、商品番号一番、大友霧子!」」
舞台袖からまず、全身黒革で固めた、筋骨隆々とした男があらわれた。手に縄を握っている。後ろ手に縛られたライトグレーのスーツ姿の若い女性が、強力(ごうりき)に引きずられて姿を見せた。
目元に険のある、気の強そうな、目をみはるような美女だ。ステージと知り愕然とする。
「何よ、ここ! なに、やめて、お願い、離して!」
懸命に踏みとどまろうとしているが、とてもかなうものではない。
それにしても、どうみても催眠にかかっているようではないが……?
「「本日最初の商品にして、司会をもつとめる彼女に、みなさまどうぞ盛大な拍手を!」」
控えめな拍手とからんからんと鈴の音。口笛を吹き、野卑にはやしたてる者もいるが数人だ。
霧子はステージ中央へ引かれてゆく。ここまでかなり抵抗したのだろう、上着の前は大きく開き、怪しい黒衣の集団の前に引き出された恐怖もあって、大きく肩で息をしており、長めの髪はひどく乱れている。汗で濡れた頬に二筋三筋張りついて、肌は熱く上気して、凄艶というのがふさわしい。
「「まずはみなさまに、催眠術の素晴らしい力を見ていただきます。一介のOLである彼女がこれより、催眠術によって、みだらな獣に変化いたします。人が人の尊厳を失い、堕ちてゆく様を、よくご覧になってくださいませ」」
催眠術と聞いた途端、霧子の体がびくりと震えた。
「催眠術って…………ふざけないで! あたしをどうするつもり? ここどこよ! あんたたち、一体あたしに何する気?」
虚勢を張って猛々しくわめき散らす霧子に、影法師面の少女が近づいた。可愛らしく言う。
「わたしの眼を見てください♪」
「なに言ってんのよ!」
リ……ィン……と音がした。
少女の手に握られた、鈴の音だった。
霧子は驚いたのか、びくっとした。
「さあ、わたしの眼をじっと見てください……」
少女の声が低く変わっていった。小さな体にそぐわない、背筋がぞくぞくとなるような、妖麗な響きを帯びたものに。
霧子はそっぽを向いた。
「そんなお面の目ん玉見て何になるってのよ」
「見つめると、あなたは深あい催眠術にかかります……」
「馬鹿言わないで。そんなやり方でかかるもんですか」
「それならこちらを見ていただけますか」
「馬鹿馬鹿しい」
「そう口では言っていますけど、この鈴の音を聞いていると、だんだんと、わたしの眼をじっと見つめたくなってきますよ……」
リ……ィン……と鈴が鳴る。
「ふん」
またリ……ィン……。
「……」
顔をそむけている霧子の眉間に、不快げな皺がよった。目の前に羽虫が飛んでいるみたいに首を振る。
「ほうら、わたしの眼を見てみたくなったでしょう? なんだか心が落ち着かない。いらいらする。わたしの眼を見つめて、安らかな気分になりたくなってきた……」
「そんなこと……」
リ……ィン……。
「な……い……」
目に見えない手に頭をはさまれ、無理矢理向きを変えさせられているかのように、霧子の顔が、じりっ、じりっと少女の方に動き始めた。霧子は蒼白になって歯をくいしばる。
「いや…………いやっ……!」
「あなたの心は乱れています。ひどく焦って、怖がっています。不安でいっぱい。ちょっとでいいんです、わたしの眼をちらっとだけ見つめれば、嘘のように心が落ちついて、穏やかな、リラックスした気分になれますよ……」
鈴が鳴る。
また鳴る。
霧子の表情がふてぶてしいものに変わった。何で抵抗しているのさ、あんな仮面の穴ぐらい見たってどうってことない。そんな風に思い直したようだ。
「……これでご満足、お嬢ちゃん?」
薄笑いを浮かべて少女をねめつけた。
「そうです…………もうあなたは眼を離すことができません…………」
少女の声の妖気がさらに濃くなった。リ……ィン……と鈴が鳴る。
霧子の美貌が引きつった。
「ほら、離せない……あなたはもう目が離せない……。
そのまま、じいっと見てください……。すごく穏やかな気持ちになってきますね。ほうら、もう信じられないくらいに落ちついた。いい気持ちです。
頭の中に靄がかかってきます。だんだんと、ものを考えるのが億劫になってきます。あなたの頭の回転が、どんどん遅くなって、遅くなって、はいもう何も考えられない」
霧子の表情が見る見る失われてゆく。わずかに首を左右に動かした、それが唯一の抵抗だった。吸いこまれるように少女の面を見つめ続け、次第にまぶたがとろんとなってくる。まばたきが増える。
「とっても眠たい、眠たあい……。三つ数えると、あなたはすごく深い眠りに入って、安らかな気持ちになりますよ……ひとつ、ふたつ……みっつ……」
鈴の音とともに、霧子のまぶたはすっと降り、くっついた。
途端に全身の力が抜け、前のめりにくずおれた。
「とってもいい気持ち……もうわたしの声しか聞こえない……何も考えられない……頭の中は真っ白……わたしの声だけを聞いていると、もっともっとリラックスしてゆく……」
床に頬をつけた霧子は、どこか幸せそうにも見えた。
「「さあ、彼女はすっかり催眠の世界にとらわれてしまいました。命じられるままにどのようなことでもする、生ける操り人形となった彼女に、それではまず犬になっていただきましょう!」」
双子が言うと、少女が霧子の耳に何やらささやいた。
「はい!」
鈴が鳴ると、霧子は身を起こした。
お尻をつけて座りこんだまま、目を開き、きょろきょろする。手のいましめをほどかれても、逃げ出そうともしない。先ほどまでの強気な彼女とは明らかに別人だ。
「キリコ、おすわり!」
少女が号令すると、霧子は弾かれたように――――みずから四つんばいになって、腕の間に頭を埋めた。
犬の仕草であった。
「よくできました」
頭をなでられると、無邪気な子供のようにくりんと目を見開き、舌を突きだしてへっへっと息をして、馬鹿みたいな笑顔をつくった。お尻を激しく振っている。
「キリコ、飼い主のわたしは好きですか?」
少女が訊ねると、
「わん!」
一声吠えてまたお尻を振った。
「犬でいるのは幸せですね?」
「わん!」
「よくできました。なでてあげる」
すると霧子は自分から仰向けになった。両腕は折り畳んで肩前に、足は思い切り広げて、まさに犬の格好だ。スカートは当然限界まで広げられて、ストッキングをつけていない生々しい腿の奥に、モスグリーンのパンティがさらけだされた。声にならないどよめきが上がり、誰かが拍手し、それが伝染して五月雨のような音響となった。
「「それでは次に、彼女を正義の味方にしてみましょう」」
双子が言い、少女が霧子を起き上がらせた。
小さな体で霧子を後ろから抱くようにして、左右に揺さぶりながら暗示をかける。
「あなたはとっても素直になって、訊かれたことには何でも答えてしまいます。
……名前を教えてください」
「大友霧子……」
「年は?」
「二十四……」
スリーサイズ、プロフィール、住所、職業、会社名、給料の額に趣味とたてつづけにしゃべらされる。
「「おわかりの通り、ごく当たり前の女性にすぎません。その彼女が、はたしてどのように変わるのか?」」
双子が言うと、少女が鈴を鳴らして霧子に告げた。
「では…………これから、あなたは、この国を影から支配する秘密組織の一員に戻ります……。あなたは、有能な、使命感にあふれた、平和と秩序を守る戦士の一人なのです……。
これから三つ数えて鈴を鳴らすと、あなたは戦士になって目を覚まします。わたしを守る使命を持った、勇敢な戦士です。周囲は、影みたいな、恐ろしい敵だらけです。勇気を奮い起こして立ち向かわなければなりません。どれほど敵が多く、強そうでも、決して逃げ出すことはできません。ステージから降りることもできません」
みっつと少女が言うと、霧子は瞳に稲妻をひらめかせて飛び起きた。
瞬時に状況を見て取り、少女を背後にかばって、客席に向かって身構える。これが先ほど舌をつきだして尻を振っていたのと同じ人間とは信じられぬくらいに、体の隅々まで鋭く引き締まった立ち姿だった。
「ここは私が! お逃げください!」
「「みなさま、声を!」」
双子が促すと、
「いいぞー、ねーちゃん!」
「がんばれーっ!」
ノリのいい連中があちこちから叫んだ。
それがどのような悪罵に聞こえているのか、霧子はさらに剣呑な顔つきになって、両の拳を握って体の前に構えた。格闘技の心得などない普通の女性のはずであったが、まるで長年修行を積んできた拳法の使い手のように、一分の隙もなくびしりと決まっていた。
「これは秘密兵器です。そこのスイッチを押して、悪いやつらをやっつけましょう」
少女がバトンを霧子に手渡した。女の子向けテレビアニメの主人公の使う、魔法のバトンのおもちゃ。明るいピンク色とどこもかしこも丸っこいデザインが可愛らしい。
霧子は感謝しつつそれを受け取り、勝利を確信したのかにやりとして、胸を張って客席に向けた。
「はーっ!」
ものすごい気合いとともに――――
ぴこぴこと電子音が鳴り、先端の赤い電球が点滅した。
会場は爆笑に埋まった。
「効いてる! ものすごく効いてるよ! さあ、もっと浴びせてやろう!」
促され、霧子は自信満々に右に左にバトンを振り向けた。電子音は笑い声にかき消されて聞こえない。
「さすが山菱重工製……」
バトンをしげしげと眺め、国内屈指のメーカーの名を口にする霧子の姿がさらに笑いを誘う。
「霧子、油断しないで! 後ろから敵が!」
「ご心配なく!」
アクション映画顔負けにポーズを決めて霧子は振り向いた。何もないところに向けてバトンを一振り。
ぴこぴこぴこ。
また爆笑。
「敵は全員眠りました。ご苦労さま。さあ、眠って」
少女が鈴を鳴らすと、霧子の体から力が失われ、うつろな表情になった。だらんとした手からバトンが落ちる。
「「それでは、早速第一のオークション! 彼女の“恋人”になってキスしてもらう権利! 千円から!」」
それまでは意識しないと聞こえない音量だった音楽が、いきなり大ボリュームの、アップテンポのものに変わった。同時にステージの照明がリズムに合わせて明滅しはじめる。ずんずんと振動が体に響く。
双子がはじめて別々に声を出した。
「千円! 彼女に熱くキスしてもらう権利がたったの千円!」
「この美女があなたに甘いささやきを! 千円から! さあ!」
おーっと浮かれた声をあげ、これもノリのいい連中が手を挙げた。ベルがかんかんかんと鳴らされた。雰囲気に引かれて後追いの手が次々と動いた。自分で値段を言う必要はない。双子が口にする値段でいいと思った者が手を挙げるか、ベルを鳴らすかすればいい。
「千円!」
「二千!」
「二千、二千、二千!」
「三千! 彼女のキスはそんなもの?」
「はい四千!」
双子は完璧に息の合ったタイミングで、音楽に合わせて左右交互に口をひらき、巧みに値を釣り上げていった。
それでも最初とあって場はあまり活発には動かない。六千円で手が一本になり、落札した。
音楽と照明が落ちつき、霧子に照明が当たる。
「では霧子さん、今から五つ数を数えます。数が増えると、あなたの頭の中に、だんだんと男のひとの姿が浮かんできます。あなたが一番いいと思っているひとです。数が増えるにつれて、その人を想う気持ちがどんどん強くなってきます。そして五つで、あなたはその人の恋人になるのです。でははじめます。ひとおつ……ふたあつ……」
その間にメイドが落札者を客席最前列に連れてきている。
「いつつ! はい、あなたの恋人が、すぐ目の前にいます。あなたに向かって手を振っています。最近忙しかったのですが、久しぶりに会えたのです。喜びでいっぱいです。人目なんか気になりません。あなたの気持ちを思い切りぶつけましょう」
目を開けた霧子は、促されて手を振る落札者を――――黒服黒マスクの胡乱な姿を見るなり、彫りの深い顔立ちを、恋する女性の、華やいだ笑顔に変えた。わずかに目をそらしてはにかみ、思いきるように拳を握り……。
催眠をかけられる前に見せた気の強さそのままに、階段を無視して勢いよく客席に飛び降り、落札者に抱きついていった。
「キスしちゃいましょう!」
戸惑う落札者を強く抱きしめ、自分から唇を重ねた。
ちゅっ、ちゅっと軽く触れたあと、深く押しつける。重なりあった唇の間、歯を割って、舌が入りこんでゆく。
霧子はうっとりとして舌を使い続けた。鼻息が徐々に興奮を示して荒くなってきた。落札者の膝ががくがくしてきて、霧子に押されるように背中をのけぞらせた。彼は霧子に犯されているのだった。
「ふっ、はっ、んん……」
霧子の手が黒衣の前を割って入りこみ、相手の股間に添えられた。
「おっと、そりゃあかん」
不意を突かれて地が出たか、少女が関西弁を口にして鈴を鳴らした。
霧子はステージに戻された。
「「さてそれでは、いよいよみなさまお待ちかね、彼女とのセックスです! みなさま、お渡ししておいたベルを手にお持ちください」」
あちこちでかんかんかんと音が鳴る。
霧子に新たな、淫猥な暗示が与えられる。
「いいですか、これから数を数えていきます。千、二千とどんどん増えていきます。数が増えるにしたがって、あなたの体は熱くうずき、どんどんセックスがしたくなってきます。数が増えれば増えるほど、頭の中がセックスでいっぱいになって、ものすごいいやらしい気持ちになります。そして」
少女は客席に向かって、鈴を振る仕草をした。誰かが応えてかんと鈴を鳴らした。
「あの音を聞くと、あなたは興奮します。あの音に体を愛撫されているように感じます。あのベルの音はあなたをとても気持ちよくしてくれるのです」
「「みなさま、おわかりですね? 合図したら、鈴をいっぱいに鳴らして、彼女を気持ちよくしてあげましょう!
では、はじめます! 彼女とのセックス権! これも千円から!」」
またしても音楽と照明が狂騒的になった。
「「千!」」
かかかかかんっ、と、会場が金属音に埋めつくされた。もっともみな控えめで、一度しか鳴らさなかった者が多かった。
霧子はしかし見えない手に痴漢されたように身を揺らした。
「「二千! 三千!」」
あちこちから散発的に鈴が鳴る。
霧子の様子に明らかに変化が起こった。自分で自分の身を抱いて、戸惑うようにした。
「「四千!」」
足がふらついた。
「「五千! 六千!」」
唇が半開きになり、遠目にも明らかに、欲情してあえぎはじめているのがわかった。
本当に効き目があるのだと理解しはじめた黒衣の客たちは、鈴を徐々に強く打ち振るようになっていった。
「「一万!」」
「ああっ!」
霧子は甘い悲鳴をあげた。
それを皮切りに――――
かんかんかんかんかんかん!
ほとんど全員が、熱狂的に鈴を鳴らしはじめた。
「「彼女を自分のものにしたい方、さあもっともっと鈴を鳴らしましょう! どんどんいきますよ! 一万二千! 一万四千!」」
霧子は金属音に包みこまれ、足ががくがくとなって、耐えきれなくなって膝をついた。
かんかんかんかんかんかん!
「あんっ、ああっ、あっ、ひあっ!」
腕が、腰が、びくびく震える。
「「一万六千! もっともっと欲しくなる、欲しい、欲しいよ、男がほしい、彼女がほしい、さあもっと上がってく! 一万八千!」」
二万になると霧子はひときわ高い悲鳴をあげた。上半身は床に突っ伏し、高々とさしあげた腰を、後ろから見えない男に貫かれているように、右に左に激しく振りたくった。
「「三万!」」
終熄するどころかますます激しくなる金属音の嵐。
「あっ、くああっ、ひいいっ!」
霧子は獣じみた悲鳴をあげ、仰向けになり、胸元をめちゃくちゃにかきむしった。スーツのボタンが飛び、ブラウスが破れ、パンティとそろいのモスグリーンのブラジャーがあらわになった。
「イきたい。ものすごく気持ちよくて、たまらなくって、もう少しでイッちゃいそう。でもイけない。どんどん高まっていくけど、どうやってもオーガズムに達することだけはできない。気も狂いそうになるけど、絶頂に達することだけはない」
脇の少女が暗示を与え続ける。
霧子はますます激しく悶え、服を一枚一枚引きちぎってゆき、五万を越える頃には、裸体にほんのわずか服の切れ端をまといつかせているだけになった。
「は、はやく…………入れて…………犯してえ……おねがい……!」
客席に向けて大きく脚を開き、哀願した。パンティはぐっしょり濡れて変色している。仰向けになっても型くずれしない見事な乳房、乳首はもちろんその周囲の乳暈も、大興奮を示してぷっくりと盛り上がっていた。
マスクの下で目を血走らせた男たちは、まだ一人目だというのにもはや我を忘れ、声を張り上げ鈴をがんがん打ち鳴らして競り合い続けた。
「「五万! 五万五千! まだまだ! 六万、六万、はい七万!」」
「ひいいい! あああっ! お、おかしくなるう! あ、は、はやく、はやくうっ! だめ、あっ、ああ、だめえっ!」
二十二万で落札されたとき、霧子はほとんど正気を失っていた。
落札者は丸メガネをかけたメイドに金を渡した。ステージに上らせられる。
「さあ、やっと男が来てくれたよ…………彼のものが入ってきたら、あなたはこれまで感じたことがないくらいの、ものすごい快感を感じるよ……」
男は黒衣の前を開いた。若い体つき。黒のレザーパンツ。もどかしげにベルトをほどき、下ろす。マスクで顔を隠しているせいもあるのだろう、衆人環視の上でも少しもひるむ様子はなく、いきりたったモノをあらわにし、全裸に剥かれた霧子にのしかかっていった。
「ああああああっ!」
霧子は絶叫した。腕や脚がめちゃくちゃに痙攣した。涙をあふれさせ、半ば白目をむいて、まともな声すら出せずに、怒濤のような快楽に溺れた。
見ているだけでは我慢できなくなったのだろう、客席ではメイドが次々と押し倒されていった。中には数人に取り囲まれ、片端からフェラチオさせられる娘もいた。ポケットに次々と万札がねじこまれる。精液のにおいが漂ってくる。
感じている女性の膣は締まりも普段とはまるで違う。男はすぐに絞り上げられ、放出した。霧子は最後の悲鳴をほとばしらせて手足を投げ出した。
「あなたはもう、この快感を忘れることはできません……これから先、どんなにわたしに抵抗しようとしても、この気持ちよさがすぐによみがえってきて、逆らうことはできなくなります……」
影法師面の少女が妖美にささやき、霧子の身も心も絡めとってゆく。
少し場が落ちつくのを待って、双子がまた話しはじめる。
「「それでは、これよりこの大友霧子さんを、活発で弁舌さわやかな総合司会に変身させてごらんにいれます」」
舞台袖から衣装が運びこまれてきた。
暗示で冷静さを取り戻させられた霧子は、のろのろと身を起こし、渡されたものを身につけた。
エナメルの光沢も煽情的な、あちこちに銀の鋲を打った、黒いボンデージスーツだった。体の大半を覆い隠すが、胸元や背中、腰回りなどあちこちが大きく開いて肌を露出するようになっていて、脚の長い、引き締まった体の線はかえって強調され――全てを身につけ、最後に真紅のアイマスクを装着した霧子は、生まれ変わったように官能的で、かつ威厳ある姿となった。
リ……ィン……と鈴が鳴る。少女が霧子の目の前に手をかざし、ゆったりと告げる。
「あなたは催眠術師です。これまでずっと、辛く苦しい修行を続けてきた、すごく腕のいい、どんな相手でも催眠に入れることのできる催眠術師です。今、あなたはショーのまっただ中です。みんなはあなたの催眠術を見にきています。あなたは、お客さんを喜ばせなければなりません。お客さんが一番喜ぶのは、女の子を、エッチな風に変えてやることです。そうすることでみんな大喜びしてくれて、あなたも満足することができます……」
双子、少女のことは見えないようにされた。でもその言葉には自然と従ってしまうともつけ加えられる。
それからもうひとつ、フリーズと言われると時間が止まり、その間に起こったことは何一つ知覚されないという暗示を埋められる。
「三つ数えると、あなたは催眠術師に変身します!」
少女が鈴を鳴らす。
霧子は目を開く。
「「世界最高の催眠術師、KI・RI・KOOOOOOh!」」
ボクシングのリングアナウンサーのように双子が高らかに言うと、霧子は自分が何者なのかを“思いだし”、笑顔で大きく両腕を上げ、客席にアピールした。笑いと拍手と歓声とベルの音。霧子には全て、自分を歓迎するように聞こえているはずだった。
※
「「では、商品番号二番!」」
パンフレット通り、セーラー服姿の少女が登場した。淡い色合いの夏服。すんなりのびた脚に、白のハイソックス。やや丸顔気味、セミロングの髪に赤いリボンのよく似合う、その場の空気がふわっと爽やかになるような可憐な容姿だった。
しかし今はがたがたと震えている。
「はあい、お嬢さん、お名前は?」
すっかりその気になっている霧子が笑顔で問いかけた。ボンデージスーツ姿相手に、少女は気死したように蒼白になり、
「せ、仙石…………美和……」
「そう、美和ちゃんね。ありがとう。でも随分緊張してるわね。ちょっと落ちつきましょう。ほら、目をつぶって、深呼吸して」
すっかり舞台の主役然として、霧子は美和のまぶたをそっと押さえ、落ちついた深い声で暗示を与えはじめた。その手際の良さは、まさに熟練のステージ催眠術師を思わせた。
「はあい、リラックスした、いい気分になったわね。じゃあ目をつぶったまま、両腕を前に伸ばして。そう。
これから私があなたの腕をなでると、この腕がものすごく固くなって、石みたいにかちかちになっちゃいますよ。ほうら、固くなってきた、固くなってきた……私になでられていると、腕にどんどん力が入って、どんどん、どんどん力が入って、すごくすごおく固あくなってくる…………」
すぐに美和の腕は、外からどんなに力をこめても曲げられなくなった。
「私が三つ数えると、力がすうっと抜けて、だらんとなるわよ……」
前にならえをするように伸ばされていた美和の両腕が、霧子に一なでされるとぐにゃりと下にぶら下がった。
「じゃあ、両腕を体にくっつけて、気をつけの姿勢をして。顔はちょっと上に向けて。その姿勢のまま…………今度はあなたの全身が、今みたいに固くなります。ほうら固くなってきた……手が体にぴったりくっついて、脚もがちがちになってきた……腰も、背中も、肩も、首も……どこもかしこも固あくなって、もうぴくりとも動かせない……。
三つ数えると、固くなったまま、あなたの体は後ろに倒れます。私が支えているから大丈夫ですよ。ほら、こんな風に、私がしっかり支えるから大丈夫。では三つ数えます。三つであなたは後ろに倒れます。ひとつ、ふたつ、みっつ!」
美和の体は引っ張られるように傾き、棒のように倒されて床に横たえられた。
「はあい、すうっと、深いところへ入っていきまあす。いい気持ちい……。
……体が緩んで、起きあがれるようになります。はい立ちましょう。立って、背筋を伸ばしてぴんと立ちましょう。三つ数えると、あなたはまた今と同じように、固あくなって、後ろにすうっと倒れまあす……はい倒れる、倒れる……すうっと倒れる……」
次々と硬直暗示と弛緩暗示を繰り返され、美和はほんの数分のうちに深い催眠状態に落としこまれてしまった。
「エッチなことをさせよう……」
少女が霧子にささやく。霧子はわずかに逡巡したが、“神の声”は絶対だ。すぐににこりとして従った。
「あなたは小さな女の子になります。幼稚園ぐらいの、ちっちゃく、可愛い女の子です」
美和を立たせる。
「ここは公園です。トランポリンがあります。ぽんぽん飛び跳ねるとすごく楽しい。遊びたくなってきました。すごく遊びたい。さあ、トランポリンで飛び跳ねましょう」
指を鳴らすと、それを合図に美和はきゃははと子供じみた笑い声を発し、その場でジャンプし始めた。
飛び跳ねるたびにスカートがめくれる。白地に赤い水玉を散らしたパンティ。客席から拍手が起こる。
「はい、トランポリンはそれまでにしましょう」
用意された椅子に美和を座らせる。美和はすっかり童心にかえり、これもスカートなど気にせず、だらしなく脚を開き、ぶらぶらさせた。健康的な太股がなんとも色っぽい。
「ちょっと疲れちゃったね。木陰でのんびり休んでいると、すごく幸せな、いい気持ちになるよ……。お日様があたたかく照っているね…………ぽかぽかして、なんだかとても眠たあくなってきた…………幸せな気分……」
霧子は声を荒げた。
「あっ! 木の上から、毛虫が落ちてきた! 背中に入っちゃった!」
「きゃあああ!」
美和は飛びあがった。
「やっ! やあっ! とって、とってえ!」
「大変、どんどん奥へ、奥の方へ入っちゃった! 手がとどかない! 誰かに頼んで取ってもらわなくっちゃ!」
客席へ美和の背中を押す、そこへいきなり、
「FREEZE!」
少女の声が強烈に耳に突き刺さった。
途端に霧子も美和も動きを止めた。ビデオの静止画像さながらに、身動きひとつしなくなる。
この言葉を言われると、時間が止まる。――霧子はともかく、美和まで“止まった”。おかしな話であり、それはすなわち、この場で催眠をかけられたかに見える美和も、本当は事前に色々と予備催眠を施されていることの証明であったが、そんなことに気づく者がこの場にいるはずもなかった。
「「オークション・ターイム! 美和さんの体から“虫”を取ってやる権利! もちろん服を脱ぎ脱ぎさせて、体のあちこちを虫を探してやらないと!」」
また狂騒的な音楽と照明。
条件反射的に手が挙がり、鈴が鳴らされはじめる。
二万六千円。
決まると、リ……ィン……と鈴が鳴り、少女が手を叩いた途端、霧子と美和の時間は動き出した。
霧子は美和を、それが当たり前のように落札者のところへ送り出し、泣きじゃくる美和の体に男の手が好き放題に這いまわった。
「はい、虫は取ってもらえました。取ってくれたおにいちゃんにありがとうを言いましょう」
「……ありがと……」
べそをかき、ずれたブラジャーを直しながら美和はたどたどしく口にした。
ステージに戻ってきた美和の手を、霧子は笑顔で椅子の座部につけさせる。
「はいこの手がくっついて離れない!」
膝を伸ばさせ、足を軽く踏みつけた。
「足も床にくっついちゃった!」
客席に向かってお尻を掲げた格好になり、困惑して身をよじる美和のスカートをめくる。拍手喝采。
霧子は笑顔でパンティをTバックに寄せた。
「FREEZE!」
二人はまた動きを止めた。
「「仙石美和さんとのセックス権! この場でやるもよし、別室でじっくり楽しむもよし! 彼女は今晩ひとばん中、完全に調教された奴隷となって、心からあなたに奉仕してくれます! 男の夢、男の野望、誰もが夢見る魔法の時間が、千円千円、はいたったの千円から!」」
双子が煽る。音楽と照明も煽る。客は燃える。
十三万円。
落札者には赤い札が渡された。これを見せると美和はどんな時でも言うなりになる。ただし効き目は一度きり。この“パーティ”が終わり次第、美和は彼に引き渡される。――同じ人物が女性を二人三人と落札することもできる仕組みだ。
「「お買いあげありがとうございます!」」
美和の首に『SOLD OUT』というプレートがかけられた。
霧子は“神の声”に誘われ、美和のスカートを脱がせ、豚という暗示を与えて四つんばいで退場させた。
※
深緑のブレザー、髪にゆるくウェーブをかけた、奔放そうな女の子が三人目だった。
これも霧子によって催眠術をかけられ、彼氏がいること、何度もセックス経験があることを告白させられた上で、デートの最中、物陰で突然パンティを下ろされたという暗示を与えられた。
「いやだ……やめてよ……」
「ものすごくどきどきしちゃってる…………彼氏にちょっとさわられるだけで、すごく感じちゃう…………」
何もない空間にすがった少女は、甘い声をあげて身を揺すった。普通は下着が濡れることは不快なのだが、脱がされたという暗示を与えられ、水色のストライプのパンティをはいたまま、ぐしょぐしょに秘所を濡らし、しみをつくった。
「今日は彼氏はあんまりその気がなさそう。でも、あなたはすごくエッチな気分になっちゃった。エッチしたい。誰もいない所で、彼氏を誘惑しちゃおう……」
三万七千円で“誘惑される権利”を買った、黒衣黒マスクの男の前で、少女は淫蕩な笑みを浮かべてネクタイをほどき、ボタンを外して胸をはだけた。もう一万で胸を揉めると言われ、即座に支払った男が手を伸ばす。少女は頬を染めて快感に悶えた。
彼女とのセックス権は、でっぷり腹の出た中年男が買った。中年とわかったのは、我を忘れて声を上げたからである。
「いつもお前は生意気だったんだよ……今日という今日は、やってやる……先生を馬鹿にするとどうなるか、たっぷり教えこんでやるぞ……ひひひ……」
この後のオークションなどどうでもいいと、首輪をつけられやはり四つんばいになった少女を引いて男は舞台袖へ消えていった。勝手に洩らした口吻(こうふん)からすると、どうやら彼女の学校の教頭らしかった。
※
四番目は、男女カップル。
厳重に縛られて引き出されてきた。
男は体格良く、見るからに粗暴。三白眼ぎみの目、眉根はいつもしかめているので皺になっている。このところあちこちで暴れ、限度を知らぬ凶悪ぶりで知られはじめた男だった。
女はその彼女、浅黒く日焼けして、あちこちにピアスをつけ、美人ではあるが、ちくしょー、このクソやろー、ぶっ殺してやると口汚くわめき散らしていた。
客席からは一斉に罵声が飛んだ。
霧子がまず男をのぞきこんだ。目の前に手をかざし、ゆらゆらと揺らす。
「さあ、この手を見てください」
「なんだ、このアマぁ! っコロスぞ、オルァア!」
どすを効かせ、唾を飛ばしてわめくのを意にも介せず、指をゆらめかせ続ける。
「ほうら、だんだんと声を出すのがつらくなってきますよお。息が苦しくなってくる。息が苦しい。声が出せなくなってきまあす……」
「バァカぬかしてんじゃねえや、コラァ! ……う」
男の顔色が変わった。あごを引き、喉を見やるように目を動かした。
声が本当に出しにくくなってきたのだ。
ステージの上、大勢の黒い異様な人影の前に引きずり出されれば、誰でも緊張する。緊張すれば体が硬くなる。わめき続けていれば自然と喉が枯れてくる。当たり前のことなのだが、男の粗雑な脳にはそうと理解する能力などなかった。
「ほうら、もうすごく苦しい。心臓がすごくどきどきしてますね。声を出そうとすればするほど、喉が締まって、どんどん苦しくなってきますよ。ほら、顔がもう真っ赤ですね。喉が締まる。声が出ない。苦しい。声が出ない。どうやっても声が出ない」
一度暗示にはまるとますます効果が加速してゆく。男は目を真っ赤にし、口をぱくぱくさせ、湯気を噴いて苦悶した。
「か…………は…………」
「はい、目を閉じて」
霧子は手をあてて目をつぶらせた。指を広げてこめかみをはさみ、ぐっと力を入れる。
「はい、まぶたがくっついた! もう目が開かない! どうやっても開かない! 試していいよ……」
あごを上向かせてスポットライトを凝視させる。わずかに開いたまぶたは光線を直視することになり、苦しそうに閉じられる。
「ほうら開けられない。目を閉じているととってもいい気持ち。楽に息できるようになるよ。まぶたがぎゅーっとくっついて、固く固あくくっついて、体の力が抜ける、抜ける、ほらどんどん抜ける、もっと抜けて、抜けて、楽になる……」
男は憑き物が落ちたように安らいだ顔つきになり、霧子に体を揺さぶられるに合わせて弛緩してゆき、やがて心地よく床に横倒しになった。そうなると以外に幼く見えた。実際かなり若いようだ。
「じゃあ次はお嬢さんね」
女の方は、男がまるで魔法のように催眠状態に落とされるのをみてすっかりすくみあがっており、霧子と目を合わせただけですぐに言いなりになった。目が閉じ、首が後ろに傾き、かくんと倒れる。
「「みなさま方を散々苦しめ、悩ませてきたこの極悪非道の二人組が、これより天罰を下されます! さあどうぞ盛大な拍手を!」」
いきなり女とのセックス権のオークションが始まった。
落札した男はステージに上げられる。
「あなた」
霧子が女の肩を叩いて暗示をかけた。
「今あなたは彼氏の部屋にいます。すごくエッチな気分です……」
催淫暗示を与えられ、黒マスクの方を彼氏だと思いこまされて、縄をほどかれた女は身をくねらせておきあがる。甘える声を出して身をすり寄せ、抱きついていった。
「好きなようにエッチしてください」
霧子はそう言うと男の方へ行き、ゆっくり数を数えて男を覚醒させた。
指を鳴らされて目を開いた男は、眼前の光景を見るなり目も口もまんまるにして、それから猛然とわめきはじめた。
「おい、てめェ、ひとのオンナになんの真似だ、アァ!」
「ん……あはぁ……」
女は黒衣の前を開き、ひざまずいて、ズボンのチャックをゆっくり下ろしている。
「ナオミ! おい! 何してやがんだ、コラァ!」
「あなたと彼は二人きり。他にはなんにも聞こえない。彼の息づかいしか聞こえない……」
ナオミと呼ばれた女は、男の呼びかけをまるきり無視して、黒マスクのモノを取り出し、とろんとした目つきで口に含んだ。
狂騒的に声のトーンを上げてゆく男の目の前で、音をたてて丹念にしゃぶり、こすり、自分も興奮して服を脱ぎはじめた。
「ね、タカシぃ……来てえ……」
横たわり、大きく足を広げ、秘所を指で開いて男を誘う。
「ナオミ! 俺はこっちだ! 違う! 何やってんだ、バカ!」
黒マスクがのしかかる。
ナオミは鼻にかかった悲鳴をあげた。
「すごい、いい、あんっ、いいよ、タカシ!」
タカシの顔色が蝋人形のように変わり、目に残忍な光が宿った。
「てめぇ…………裏切ったな! ぶっ殺してやる!」
「いい、あんっ、あん、あっ、すごい、いい……」
霧子が何やら耳打ちし、ナオミはひときわ声を高くした。
「ああっ、すごい、いつもよりおっきい! おっきい……あたしの中いっぱいに、あんっ、おっきい、どうしたの、すごい、今日、すごいよ、感じすぎちゃう、ヘンになっちゃうう!」
暗示でそう思わされているだけなのだろうが、タカシにはそうはわからない。屈辱に打ちのめされ、裏返しで、悪鬼の形相となる。
客席は沸きに沸いていた。
「ざまーみろ!」
「てめーのはちっちゃいんだな、タカシよお!」
「かわいそー!」
「頑張れ、ちっちゃいタカシ!」
照明は徐々に興奮を誘う赤へと変わっていった。ずん、ずんと響く重低音のリズムも早く、強くなってくる。同じ男として同情する者もいたかもしれないが、この演出と盛り上がってゆく雰囲気にのまれ、理性は麻痺してしまう。最初おとなしくしていた者も次第次第に嗜虐心のとりことなり、いつしか腕を振り上げ、口汚く罵声を浴びせるようになっていた。
大合唱。
「タカシはちっちゃい! タカシはちっちゃい!」
「死ーね、死ーね、死ーね!」
「うるせえ! やめろお!」
タカシはわめいた。プライドだけで生きているのがこの人種である。なめられたと思うだけで脳天が沸騰する。なのに動けず、自分の彼女が裏切るのを止めることもできない。耐えるという機能は彼の脳髄には存在しなかった。
とうとうタカシは泣き出し、哀願しはじめた。
「やめてくれえ!」
客席はかえってさらに盛り上がった。
そうした一切が何も聞こえないまま、ナオミは悶え続け、やがて甲高い声を上げて絶頂に達した。
「「さあ、このナオミさんを抱きながら、哀れなタカシ君をめちゃめちゃにいたぶる権利! スペシャルサービス、一万円から! 普通はまずできないよ、こんな機会二度とない! さあ一万五千! 二万! ……」」
意気揚々とステージに上がってきた男は、用意されたソファーに腰かけ、隣に裸のナオミを座らせた。すぐにナオミは膝の上にしなだれかかってくる。
「ナオミさん、目の前に、敵対するチームの、すんごくムカつく男がラチられてきてるよ……。ここはあなたたちのホーム、何をしてもどんなことをしても大丈夫な所……」
胸を揉まれて甘い吐息をつきながら、ナオミはにやにやしてタカシを見つめた。
「ナオミ…………ナオミぃ……」
タカシは男の尊厳をめちゃめちゃにされ、涙と鼻水まみれで、母親にすがるように名を呼ぶ。
「な〜に泣いてんだか。バカみたい」
冷酷にナオミは言った。
「サルみたいな顔だね。ダサっ。あんた、早く死んだ方がいいよ」
ナイフを手渡されると、不気味な笑顔で立ち上がる。
いましめの縄をよけ、タカシの服だけを切り刻んだ。
「ナオミ……俺だよお…………お前、どうしちまったんだよお……」
「うるさいぞ、サル」
手慣れた手つきでナイフをひらめかせた。タカシの唇が縦に裂け、血がしぶいた。
ズボンを切り、一物をあらわにする。だらんとしなびている。
「うわっ、ちっちゃーい!」
客席は大爆笑。
ナオミは身をひるがえすと、腰に手をあてて形のいい尻を見せつけるようにくねらせ、黒マスクの“タカシ”に抱きついた。
「ね、タカシ、見せつけてやろ」
ナオミは蛇のように男に絡みつき、濃厚なセックスをはじめた。
暗示を重ねられ、すぐに激しく絶頂に達する。
汗を手の甲でぬぐい、股間から精液をあふれさせながら、立ち上がってタカシの方に行った。
こんな状況にもかかわらず、タカシのモノは勃起していた。目は真っ赤で、ほとんど発狂したような顔つきである。
「ははっ、アタシのエッチみて勃っちゃったんだ。サルでもセックスしたいんだ」
かがみこみ、タカシの顔をはさんで、色っぽく言った。
「どう、アタシと……したい……? させてあげよっか……?」
目を閉じて顔を近づけてゆく。
が、キスする寸前でぱっと手を離し、残忍に目をきらめかせ、
「バーカ、やるわけねーだろ、てめーみたいな貧弱チンポとよ!」
言うなりタカシの睾丸を踏みつけた。タカシは壮絶な悲鳴をあげて悶絶した。泡を吹く。それを見てナオミは声を上げて笑う。元々そういう女なのだった。
「殺ず……ごろず…………でべえら、びんな殺す……!」
みんな殺す、と言ったつもりなのだろう、タカシは切られて血まみれの唇を震わせ、人間をやめた目つきで口にした。
それまで傍観していた影法師面の少女が、霧子に近づいて暗示を与えた。
「何にも怖くない。霧子、あなたもマスクを取って、挑発してやろう。とっても面白いよ……興奮しちゃう」
霧子はナオミさながらに不敵な笑みを浮かべ、赤いアイマスクをむしりとってタカシをねめつけた。
「でべえのづら……おぼえだぞ…………」
「あっそう、だからなんだっての? おバカさん」
ナオミに倣(なら)ってタカシの睾丸を蹴り、ついでに頬に平手打ちを数回くらわせ、女王様然として腰に手をあて、愉快そうに高笑いした。
後に、これが原因で霧子は無惨な陵辱を受ける。
※
タカシ退場の後、上品なお嬢様に変えられたナオミは今一度客に犯された。今度は何をするにもひどく恥ずかしがり、はにかみながら快感をおぼえ、イッた後に男に抱きついて、愛していますとそっとささやいた。
下半身裸のまま、丁寧に一礼してナオミが退場すると、場の狂騒さめやらぬままに、次の少女が登場した。
「「本当のお嬢様、お茶にお琴に日本舞踊とたしなんだ、深窓の令嬢、小野寺智佳子!」」
かつて白河シスターズの下僕で、今は完全に千尋の催眠奴隷と化している智佳子は、何の変哲もない高陵学園の制服姿で登場した。
今し方ナオミはお嬢様に変身し、それまでが嘘のように優雅に振る舞ってみせたが、それは所詮紛い物、素養のない者がたどたどしく演技していただけだった。違いは一目で明らかだった。
生まれた時から高雅な雰囲気の中にあり、大切に慈しみ育てられてきた者ならではの、本当の気品が身の裡からにじみ出ていた。ややあごを引き、両手を前に組み、しずしずと歩み出てきただけなのに、客席は水を打ったように静まりかえった。誰もが清澄な湖水のほとりにたたずんでいるような気分になった。
霧子がこれにも催眠術をかける。心なしか、暗示も手つきも厳粛だった。智佳子はすぐに目を閉じ、霧子のなすがままになった。
「今日はあなたのお誕生日です。お父様、お母様がパーティを開いてくれました。沢山の人たちがお祝いに来てくださっています」
智佳子はステージから客席に降りていった。黒マスクに心からの笑顔を向け、繊細な白い手をさしのべる。一巡りし、ほとんどみなと握手した。
ステージに戻った智佳子は、目を閉じさせられ、一度何もわからなくさせられた。
「……今日はあなたのお誕生日です」
どういう魂胆か、“神の声”に導かれた霧子はまたしてもそういう暗示を与える。
「パーティに沢山の人たちが来てくれました。みんなにお礼をいって、握手してあげましょう。
――――でも」
智佳子の右手をさすり、
「あなたの右手。この手が、あなたの最高の性感帯になります。ここはものすごく敏感になって、ちょっと触れられただけでもあなたの体は熱くなって、いやらしい気分になってしまいます。誰もそんなことは知りません。握手をことわって、来ていただいたお客さまに恥をかかせるわけにはいきません、我慢して、最後の一人までなんとか頑張りましょう」
「FREEZE!」
「「オークション・ターイム! 彼女と握手する権利、一人一万円、先着三十名! さあ望む方はお急ぎステージへ!」」
黒い流れがステージへの階段に押し寄せる。
智佳子の傍らで、影法師面の少女が小箱を持つ。そこへ金を入れた男が智佳子の前に導かれた。
「おめでとう」
「おいでくださってありがとうございます」
智佳子は笑顔で手をさしだした。
握られた途端、表情に細波がはしる。
「どうしました?」
「い、いえ……」
男はなかなか手を離さない。智佳子の白皙の頬に恥じらいの色があらわれた。
二人目。三人目。
十人目の頃にはもう、笑顔は明らかに作ったものに変わっていた。
膝をもじもじとこすり合わせる。握手の合間にほっと熱い息をつく。目がとろんとなり、肩が次第次第に激しく上下するようになってきた。
「智佳子さん、お誕生日おめでとう」
「は、はい……」
突きつけられた男の手を、おびえと期待の半ば入り混じった、困惑の目で見る。ひとつ息をして、意を決したように握る。途端に電流がはしる。肩や足がぶるぶると震える。なんとか笑顔の形を保とうとする唇の間から、ともすればあえぎが洩れそうになるのを必死にこらえた。男は強く弱く緩急をつけて握り、図々しく親指で智佳子の親指の付け根あたりをこりこりといじる。智佳子はきゅっと眉根を寄せ、息を止めて激しい快感をひたすらに耐えた。
「まだまだお客さんが沢山挨拶に来ています…………失礼があってはいけませんよ……」
人数はわからなくなったが、二十人目ぐらいの所で、智佳子の足は傍目にもあやういまでにぐらついた。
相手の男は調子に乗り、手を離すと見せかけて智佳子の指を握り、指の腹や指股を愛撫しはじめた。
「ぁっ……や、やめて……っ……!」
膝が砕けた。智佳子は手を握られたままその場にへたりこんでしまった。
「智佳子さん、大丈夫ですか?」
わざとらしい心配の声。
「具合が悪いなら、パーティを中止して、お客さまには帰っていただかないとなりません……」
霧子が言った。にやついていた。暗示で操られているせいではあるが、非の打ちどころない令嬢である智佳子を、美形ではあるがそこまで上品ではない霧子自身が、自らの意思で喜んでいたぶっているようにも見えた。
智佳子はよろよろと身を起こす。
「い、いえ、大丈夫…………わたくしは、なんともありませんから…………このまま、つ、続けてください……」
パーティを自分のせいで台無しにするわけにはいかないと、健気に、懸命に言った。
再度握手攻勢がはじまる。
「おめでとうございます」
「あっ、……ありがとう……ございます……」
「おめでとうございます」
「んっ……お、おいでくださいまして、あ……あっ、あ、ありがとう、ございます……」
「お誕生日おめでとう」
「…………んああっ……んふっ、はあっ、あっ、あ……」
――――。
延々と行列は続く。三十人どころではない。小箱に金が山盛りになってゆく。
握手を続けるにつれて、智佳子の様子が変わってきた。
笑顔が固まった。口は不自然に吊り上がり、小鼻がひくひく動いて、見開かれた目は眼前の相手ではない別なところに焦点を結び、その目尻から涙を流す。ぬぐうこともせず、表情をそれ以上変えもしない。
腰が二度、三度とひくついた。その時だけ口からかすかな声がこぼれた。内股を締めるように足をぎゅっとくっつける。開いた腿に、つつうと熱い粘液がしたたってきた。
立ったまま絶頂に達しているのだった。
握手の相手が変わるたびに、激烈なオーガズムに襲われる。すでにまともな意識はない。
最後の一人が手を離した途端、口の端から泡を吹いてその場にくずおれた。
「具合が悪いのであなたは別室に引き取りました。みなさん何も気がつかず、あなたの美しさをほめそやしています……」
霧子は智佳子を椅子に座らせた。智佳子は激しく肩で息をして、表情こそ普通に戻ったものの、まだ夢見心地だ。
「あなたの体はまだものすごくうずいています。もっともっと刺激がほしい。心配するご両親に平気な顔をして、トイレに入りました。誰もいない個室。ここなら何をしても気づかれることはありません。さあ、思いきり自分の体をさわって、気持ちよくなりましょう。あなたの体はどこもかしこも敏感で、普段よりもずっとずっと感じてしまいます……」
肩を叩かれた途端、智佳子はうなだれて、ため息とともに体の力を全部抜ききった。
それから腕で自分の体を強く抱いた。
手がそろそろと、胸に移動する。
鼻にかかったあえぎ声が噴き出す。たちまち夢中になってもみしだく。
「服の上からでは物足りない…………服を脱いじゃおう。誰にも見られることはない。全部脱いじゃおう。そうすれば解放された気分になれる。服を脱ぐと肌がさらに敏感になって、どこをさわってもびりびりくるくらいに感じるようになる……」
どくんと、客の内心を代弁するかのように、強い心臓の音がスピーカーから流れ出た。
制服の下からあらわれたのは――――風に揺れる白蓮華を思わせる清麗な容姿とは裏腹の、毒々しいまでに赤い、想像以上にたっぷりした乳房を下半分だけ隠す真紅のブラジャーと、これもやはり真紅、極薄のレースをふんだんに使った、肝心かなめの部分以外は大半を透けさせている、何もつけていないよりもはるかにいやらしいパンティだった。
劣情をあおる以外に何一つ目的のない下着姿になった智佳子は、制服を脱ぐと同時に別の生き物に変身したように、激しく身をくねらせ、手をためらいなく強く動かしはじめた。
乳房をいじる。ブラからはみ出している乳首をつまみ、引っ張り、いじり回した。
「ん…………はっ……あん……」
声だけはそれまで通り、できる限り押し殺した、控えめなものだ。
「そのまま続けて…………ものすごく高まっていくよ……何も聞こえない……誰も入ってこない…………安心してイッていいよ……」
智佳子は暗示を与えられるなり脚を大きく開いた。ここまでなっても本来の資質を失わず、ひそやかに、恐る恐るといった風に指を這わせる。
「はうっ…………だ、だめっ……!」
すでにぐしょ濡れで、秘裂の形をはっきりと浮かび上がらせている布地の上から、敏感な芽を探り当てた途端に、その刺激の他は何も感じられなくなったように、もう片方の手が止まり、首をのけぞらせて高い声をあげた。
「……あっ…………イ、イキます……わたし、イッちゃいます…………だめ……んんんっ……あんっ…………ふああっ!」
その姿勢のまま、指だけを真紅の布地に当てて小さく揺り動かし、すぐにびく、びくっと痙攣してぐったりとなった。
「まだ全然おさまらない…………まだ体の火照りがなくならない……また強くなってきた……」
「はい、FREEZE!]
真白い脚を大きく開いた智佳子と、目を細めた不気味な笑顔でさらに催淫暗示を与えようとする霧子双方が静止する。
パイプ椅子がもう一脚持ち出されてきた。
「霧子さん、あなたの時間が動きます……ここに座ってください。はい目を閉じて…………頭をぐるんと回すと、もう何も考えられない……」
影法師面の少女は後ろ手に回させた霧子の腕に手錠をはめた。脚も同じように拘束する。
「これからあなたは目を覚まします。全ての催眠から解き放たれて、普通の意識に戻ります。催眠中にあったことは全部しっかりおぼえています。あなたが何をしたのかも、何をされたのかも、一つ残らず、鮮明に記憶しています。特に、自分がものすごい快感を味わって、自ら男を欲しがってのたうちまわったことと、自分に22万円という値段がついたことは、とてもよくおぼえています。いいですね」
忘れさせるというならまだわかる。だがすべて記憶させておくとは、どういうつもりなのだろうか。
少女は秘所に指をあてたまま静止している智佳子の方に行く。
「次にこの鈴の音を聞くと、あなたの時間は動き出します。あなたはものすごくたかぶっていきますが、絶対にイクことだけはできません。どうやってもイク寸前になると冷めてしまいます。自分で触るのでは駄目なのです。誰かに触って、あそこにものを入れてもらわないと、本当の満足を得ることはできません……」
こちらは十分理解できる。
「十数えて、鈴を鳴らすと、今言った通りになります……」
リ……ィン……。
即座に智佳子が悶えはじめる。
「はい! すっかり目が覚める!」
少女は霧子の前で手を叩いて完全に覚醒させた。
「ん…………」
霧子はぼんやりと目を開ける。
「!」
悪夢を見て飛び起きた時のように、満面冷や汗まみれで顔をあげた。
自分に当たっているスポットライトに顔をしかめる。手をかざそうとして、手錠がはめられていることに気がついた。拘束されていることに愕然とし、着せられている――自分で着たのではあるが――ボンデージスーツに目をむき、最後に客席に目を向けた。
「あ…………ひ……そ、そんな…………」
我を忘れてオナニーを続ける智佳子を見やったその顔色が、蒼白という段階を超え、みるみる土気色に変わっていった。
これをやらせたのは自分。この場にいるのが自分一人だけだったら、様々な記憶はすべて夢、今見ているのも幻覚なのだと逃避することもできただろうが、目の前にいる少女の痴態、耳に飛びこんでくる淫声、ぐちゅぐちゅという音は、幻覚として片付けるにはあまりにも生々しすぎた。
「いやああああっ! やああああああっ!」
霧子は絶叫した。錯乱の形相だった。
「違ううううっ! こんなの、あたしじゃない! 違う、違ううっ! あたしじゃない! あたしはやってない! 違うちがうちがう! やだああっ!」
元々の霧子はきわめて正義感の強い女性だったようだ。ひどい罪悪感に打ちのめされ、手錠をひきちぎらんばかりの勢いでもがき、身を揺すり、椅子ごと横に倒れた。失神すればこの現実を見ずにすむとでも考えたのか、顔にひきつった笑みが刻まれていた。
「そうはいかんで」
影法師面の少女が素早く頭を支えた。
霧子は床の上で悲鳴をあげて泣き崩れ、少女に懇願しはじめた。
「お願い、もういや、何でもする、何でもするから、お願い、はやく、やめて! こんなこと、もうやめて! 目を覚まさせて! お願い!」
どうやらこれは催眠で見せられている幻影なのだと、そういう風に信じこむことにしたようだ。なまじ意志強固であるだけに、自分が嬉々として少女たちを淫乱にし、人前で恥をかかせ、売り払い――まぎれもない犯罪に手を染めたという現実を受け入れることができないらしい。
「それは違います。あなたはもうすっかり催眠から醒めています」
「違う! 違う! まだあたしはかかってる! でなきゃこんなことするわけない!」
「では、あなたはまだ催眠状態にあるのですね?」
「そうよ、そう、だからあたしは、だから……」
「ではわたしの暗示は何でも受け入れるはずですね? あなたは催眠状態にあるのですから、そうなるはずですね?」
「そう…………そうよ!」
度重なる精神的衝撃によって、まともな思考能力が衰えている霧子は、楽になるために、自ら魂を売り渡した。
「じゃあ…………犬になってください。あなたは犬です。あなたには深い催眠術がかけられているのだから、あなたは犬になってしまいます……心から犬になって、喜んで四つんばいになるのです……」
「……」
普通の催眠状態の場合、理性が麻痺し、感情が逆らう。しかしこの場合、霧子の感情が拒否するのを、理性の方が強引にねじふせる形になった。
霧子は手足に鎖をつけたまま四つんばいになった。素晴らしい曲線美を描くヒップを客席に向け、少女の足元にうずくまり、
「……わん」
吠えた。
「よくできました。では、智佳子さんのアソコを舐めてあげましょう。あそこからはとても甘くておいしいものが流れ出ています。あなたはお鼻を突っ込んで、ぺろぺろ舐めてあげるんです。今から三つ数えると、あなたは催眠術の効果によって、そのように感じるように変わりますよ……」
ボンデージスーツの肢体は、不自由な手足を動かして這いよってゆき、激しくオナニーを続ける智佳子の秘所に吸いついた。
「あっ、な、なに、あんっ、ひいっ、あ、いやっ、ああっ!」
智佳子は混乱し、しかしすぐに霧子の舌がもたらす快感に溺れ、自ら腰を突きだすようにした。
霧子は指も使って、一切の躊躇なく智佳子を快楽の極みに追い上げていった。ためらったり嫌がったりしたら、自分は催眠にかかっていないことになってしまう。催眠術をかけられていればこそ、本来望まないこういうことを自分はしてしまう。淫らな真似をしていることが催眠にかかっていることの証。だからもっともっと、智佳子を気持ちよくさせなければならない。泣き声をあげさせ、愛液をかきだし、おかしくなってしまうまで責め続けなければならない……。そう、もっと……。
あたしは催眠術にかかっている。自分で自分にそう言い聞かせ続けるうちに、霧子は深い、最も深い催眠状態に、みずから進んではまりこんでいった。
自分が人間ではなく、犬であるような気になる。いやあたしは犬だ。秘裂からあふれてくる蜜はとても甘く、おいしい。尻尾を振り、夢中になって舐めまくった。
智佳子はやがて長々と悲鳴をあげて動かなくなった。
「ではこれより、この小野寺智佳子さんとのセックス権のオークションをはじめます!」
少女が高らかに言った。
「……ですが、その前に」
人間に戻り、椅子に座らせられた霧子の前で鈴を鳴らす。
「よく聞いてください……これから智佳子のオークションがはじまります。どんどん値段が上がってゆきます。するとあなたは、先ほどと同じように、ものすごく興奮してきます。値段が上がれば上がるほど、体が熱くうずいて、セックスがしたくてしたくてたまらなくなります……あなたは自由になるのです。あなたを縛りつけていた常識、モラル、そんなものはどうでもよくなります。あなたは自分の心に正直になってゆきます。わかりましたね」
「はい……」
霧子の目はうつろだ。彼女の五感は全て影法師面の少女の支配するところとなっている。先ほどまでと違い、今度は霧子自らが望んでこの状態に入っている。そう仕向けるために一度覚醒させたのだ。
しかし――――なぜ、そこまでするのだろう?
「「オークション・ターイムッ!」」
狂騒的な音楽と照明の乱舞がまたしてもはじまった。
あられもない格好をさらしている、最前まで清純美の極みを見せていた智佳子を買うために、黒衣の客たちは手を挙げ声を枯らし、ベルをめちゃくちゃに打ち鳴らした。“売り物”は残り少ない。何としても買わねばならない。
「「五万! 六万! 七万! まだまだいるね! 八万八万、はい八万! ……」」
双子が煽るまでもなく、うなぎ登りに値段は上がってゆく。
それに合わせて霧子も悶えた。先ほど同じ事をやられているので、反応がいい。
「手も、足も、ぴくりとも動かせません……あなたの体はどこも動かせなくなります……」
リ……ィン……と鈴を鳴らされ、霧子は生きた人形にされた。そのまま性欲だけを高められる。
「「十五万! みんなすごいね、さすがだね! 十六万! もっといくよ、十七万!」」
「ふう…………ひい、はあん……ふっ、かっ、あ……」
霧子は唯一自由にできる歯をがちがちと噛み鳴らした。体の中にごうごうと炎が荒れ狂っている。刺激が欲しい。頭の中はその思いだけなのに、指一本分の感触すら与えられない。黒革につつまれた肢体が震える。今の霧子は飢えた媚獣であった。
そして、値段が二十万を越え、自分につけられた値段の二十二万をさらに上回った時、咆吼をあげた。
好き放題に操られて、しかも一度覚醒させられて、そのことを自覚させられたために、己のよりどころをことごとく失っている。
それでもなお残っていたものが一つだけある。――自分を男たちが争って買い求めた、その値段は誰よりも高い、自分はこうも男にその体を求められるだけの美しさを備えている――そういう自信だ。
最後の誇り。最後だからこそ、強くしがみついた。
なのにそれが、この瞬間、崩壊した。
霧子は自分を自分たらしめるよりどころを失った。
そのくせ性欲だけは一層強まる。自分より高く評価された女の前で快感に悶える。死にたいくらいの屈辱。
暗示により、霧子の心は自由になっている。正常ならば封じこめたであろう醜い感情がとどまるところなく噴出する。
「ちくしょう! 許さない! あんた、絶対ゆるさないから!」
血走った眼をして智佳子に怒鳴った。嫉妬に狂った、鬼の貌(かお)であった。
霧子をこういう人間に変えるために、少女はあれこれ手管を使ったようだ。
※
二十六万で売れた智佳子が、初夜を迎えた新妻のように、湿った真紅の下着姿のまま買い手の黒衣にそっと身を寄せる。二人はそのままステージ脇に消えていった。
残された霧子は意識を失ったように首を折り、しかし口の奥で何やらぶつぶつ言っている。時折腰が波打つ。股間から床に粘液がねっとりとしたたっていた。
しかし誰も彼女には注目していない。あらゆる意味で敗北した霧子は、ひとり放っておかれるうちに、ますます深く狂気の世界へ沈潜してゆく。
音楽はなお激しいままだが、息が苦しくなるような気配が会場中に満ちみちた。
(いよいよだ……)
(ついに、出てくる……)
(――――あいつが)
(出る)
(あの水南倉が)
(アヤが)
「「それでは、みなさまお待ちかね、本日の目玉商品、誰もがまさかと思い、もしやと疑った、あの少女――――そうです、これは夢ではありません、これよりついに彼女がこの場にあらわれ、操られて痴態の限りをつくし、みなさま方にその身をまかせるのです!」」
双子が同時に立ち上がり、腕を大きく広げた。このオークションがはじまって以来、初めて動いた二人の仕草に、全員が目を奪われた。
ドラムロールが鳴り始める。きらめく光線が四方八方に飛び交う。
「「みなさま、どうぞ盛大な拍手を! 本日最後の商品、私立高陵学園女子高等部一年三組、水南倉綾乃!」」
どどどどど。
地鳴りのような足踏み――――。
ばらばらに動き回っていたライトがすっと一点に収束し。
舞台袖に立つ長身の少女を照らし出した。
歓声が爆発した。
アヤは智佳子と同じ、高陵学園の制服を着ていた。しかし同じ服でも着る者によってこうも印象が変わるものか、この不良少女が身につけると、明々とした照明のもとでも、清々しい色合いの夏服もどういうわけか黒みを帯びて見えた。汚れているわけではなく、まるきり違う布地でできているようだった。繊維の間に闇が縫いこまれている。
「「今、彼女は催眠術によって、夢を見ているつもりになっています。声は遠く、光は淡く、このステージは夢、みなさまも夢、これから起こる事柄も、みなことごとく夢の中」」
アヤはきょろきょろしながらステージに進み出てきた。
姿勢は悪い。スカートのポケットに手を突っ込み、背を丸めている。街で見かけるとおりの格好だ。
切れ長の目は眠そうな半開き、唇は少し尖らせて、あらゆるものを小馬鹿にしているような、これもいつもの表情だったが、視線が落ちつきなく左右にさまよっていて、どうして自分がこんなところにいるのか、不思議がってもいるようだった。
最初の興奮が収まった後しんとなった客席を眺め回す。黒衣がずらり居並んでいるという常識はずれの光景にも、別段驚いたりおかしいと思った様子はない。夢だから、どんな珍妙なものが見えても気にならない――どうやらそういうことらしい。
「「ではこれより、世紀の対決をご覧に入れます!」」
椅子に戻った双子が言った。
「「世界最高の催眠術師ははたして極悪不良少女に催眠術をかけることができるのか? KIRIKO vs アヤ! 霧子はアヤをどのように操り、どのように変身させてしまうでしょうか!」」
「霧子さん、あの子が見えますね? みんなの拍手で迎えられた、今日の人気ナンバーワンのあの子」
影法師面の少女が鈴を鳴らして指さした。
「あなたは催眠術師です。あの子に催眠をかけて、思い切り恥ずかしいことをさせてやりましょう……あなたがしたように悶えさせ、あなたと同じように男を欲しがる一匹のメスに変えてやりましょう! 最高の技術をもって、あの綺麗な子をあなたと同じように!」
霧子はアヤを見た。
自分に最悪の屈辱を味わわせてくれた智佳子。
それと同じ制服を着ている。
ぱっと見には智佳子の方が美しい。だが智佳子がすでに完成された美しさであるのと違い、こちらはまったく磨かれていない原石だ。
元々の顔のつくりは智佳子よりもさらに整っている。――睫毛の長い、切れ長の、黒曜石のような瞳――すっと通った鼻筋、ルージュを引いているわけでもないのにつややかな色合いに浮き上がるやわらかい唇。濡れ羽色の、右の耳にかかるところにちょっとだけくせ毛のある、長い髪。細く白い頸(くび)、しなやかな手足。姿勢は悪いが背が高く、スタイルは抜群。全身に野性の獣を思わせる精気がみなぎっている。男になどまるで興味のない風であるが、ひとたび火がつけばこの上なく激しく燃えさかるのではないか。そんなたまらない予感を抱かせる。目のある者なら見逃すはずのない、最高の素材。
これが誰かなんてどうでもいい。磨けば自分以上の輝きを放つことは間違いない宝玉は、何としても砕かねばならなかった。そんな存在は許せない。あの悔しさをもう一度味わうなど耐えられなかった。
壊してやる。
霧子は目に狂犬の光を宿して立ち上がった。
アヤの目が近づいてくる霧子をとらえた。
「何だ、てめえ?」
「こんにちは」
霧子は非の打ち所ない笑顔をつくって挨拶した。しかし目がまったく笑っていない。
漆黒のボンデージスーツに真紅のアイマスクという姿は、人によっては威圧感を与え、威光暗示の効果を及ぼすかもしれなかったが、少なくともアヤはそういうタイプではなかった。即座に戦闘モードに移行する。背筋が伸び、長身の隅々に稲妻がはしる。
危険な光をたたえて吊り上がったアヤの目に、霧子は人差し指をつきつけた。
「この指を見てください」
「……」
アヤはすっと前に出た。アヤが長い脚を生かした強烈な蹴りを得意とすることを知っている客たちは、霧子のその手を間合いに入れたことを悟って息をのむ。だが霧子は、初顔合わせのアヤの攻撃パターンを知悉しているかのように、同じだけ音もなく後ずさった。
指をゆらゆらと揺らす。肩から二の腕、肘、手首も連動して動く。その腕が絹布と変わって、吹く風にたなびいているかのようだ。アヤが止まれば霧子も止まり、前に出れば下がり、常に一定の距離を保ったまま、見る者を眩惑するその動きを続ける。
「ほうら、だんだんと、この指から目が離せなくなってきますよ…………目を離そうとしても、もう視線が吸いついて、動かない……動かない……」
「くっ……」
アヤの表情に動揺があらわれた。唇がぎりっと引き結ばれる。その眼は怒りにぎらぎらしているが、暗示にとらわれ、霧子の指から目が離せなくなっているようだ。
「そう、あなたはもうこの指から目を離せない…………ほら」
霧子は指をゆっくりと横へやった。アヤの目が後を追う。
――――かかりかけていることを確信し、霧子がにやりとした瞬間。
ひゅん
風が鳴った。
霧子の頬に斜めの筋がはしり、即座に太くなって、真っ赤なしずくがあふれてきた。
「ちっ」
アヤが舌打ちする。霧子を見ずに放った蹴りが、若干距離を読み違え、霧子の顔をかすめたのだった。スカートがめくれたと見えた時には、もう蹴り足は床に戻っていた。
場がしんとなる。誰もが注視していたはずなのに、足の動きが見えなかった!
「ねーちゃん、オレはな」
地底から響いてくるような低い声。
「催眠術ってのが大嫌いなんだ。お前、オレにかけよーとしただろ? 許せねえ」
声と一緒に、体内に燃え上がった怒りが煙となって噴き出した。それは暗雲となってアヤの周囲に渦巻く。どす黒いもやの中に雷光が飛び交う。
「あ?」
いきなり霧子は素っ頓狂な声をあげた。落とし物をしたOLそのままに、右下に向いた。仕草からすると、硬貨を落としたらしい。転がってゆく。指で追う。あらあらあらと指を先の方へ進めてゆく。もちろん硬貨などない。パントマイムだ。見る者はついその指の先を目で追ってしまう、巧みな演技。注意を引かれ、視線をはしらせると、暗示に引きこまれ――
「!」
気づいた時にはすぐ目の前にアヤがいた。
霧子に憎悪を向けていたアヤは、霧子が落としたものなどにまったく注意を払わなかったのだ。
それでも霧子はよく反応した。即座にアヤに抱きつく。手を伸ばし、首に触れた。あごの下、頸動脈を締めることで朦朧とさせ、そこへ暗示を与える手法を使おうとする。
だが、
「ぐ……」
霧子の顔が歪み、舌が大きく突きだした。
アヤの膝が霧子の腹にめりこんでいた。
肩を突き飛ばされ、よろめく。倒れていればまだ無事にすんだだろう。しかし、ねたみに狂い、何としてもアヤに催眠をかけると尋常ではない決意を抱いていた霧子は、執着心を頼りに、苦痛をこらえてなおも踏みとどまった。
その体重ののった足の膝裏に、バットもへし折るアヤのローキックが炸裂した。
ぶちんと腱が切れた。
痛いと感じる暇もなく、倒れかかった霧子の頭部に、瞬時に足を引き戻したアヤが再度蹴りを放った。
爆弾が耳元で爆発したようだった。倒れるところを蹴られたので威力が倍加していた。頭蓋がみしりと鳴り、視線を宙に泳がせて、まさしく糸が切れた操り人形のように、霧子は手足ばらばらになって倒れ伏した。手足が痙攣し、鼻と耳から血が流れ出た。
「「AYA――WIN!」」
双子が威勢良く叫んだ。二人同時の声は長々と不思議な余韻を引いて、展開された一切を、現実離れした、対戦ゲームの中の出来事のように見せた。
だから霧子に同情する者は一人もいなかった。
拍手と歓声が湧いた。
※
ステージ脇から飛び出してきた男性スタッフに手足を持ち上げられ、狩られた獲物のようにぶら下げられて霧子が退場してゆく。
アヤはそちらには何の興味も示さず、ふんと鼻をひとつ鳴らし、あらためて、どこなんだここはときょろきょろした。
その前に影法師面の少女が立った。
小さな手に、きらきら光るものがある。
水晶玉。直径十センチぐらいか、ライトをあびてまばゆい光芒を放っている。
「……今度はなんだ、てめえ?」
アヤは再度戦闘モードに移行した。
「「この珠を見て!」」
少女が水晶玉を掲げ、双子が声を上げる。
アヤの眉が大きくひそめられる。危険な目つき、だがその視線は一心に透明球に注がれ、きらめく光が色濃い瞳に反射する。
少女は腕をいっぱいに伸ばして、アヤの真正面でゆっくり左右に振った。
双子が声を発した。
「見て」
「じっと、見て」
「この水晶玉をよおく見て」
「左右に揺れる、ゆらゆら揺れる」
段上から交互に暗示を与える。
客はみな固唾を飲む。アヤが登場した際に、すでに彼女は催眠状態にあると聞かされたことなど、霧子とのバトルを見せられた時点で完全に脳裡から消え失せている。この凶悪な少女がどうなるのか、意識はその一点に集中し、アヤの反応と、水晶球のきらめきにひたすらに見入り、空っぽになった頭に双子の暗示が降りそそぐ。
「きらきらしてるね」
「きら、きら、きれい」
「見て。よく見て。じっと見て」
「だんだん体が重くなる」
「だんだん重くなってくる」
「まぶたが重くなる」
「なんだか眠たい感じになってくる」
「眠い」
「眠たい」
「まぶたが重い」
「体に力が入らない」
「いい気持ち」
「もっと見て」
「ますます力が抜けてくる」
「………………」
アヤがよろめいた。目はすでに半閉じになっている。水晶玉の揺動に合わせて頭が左右に揺れている。その長身が次第に脱力してきているのが傍目にもよくわかる。見ている客の手足もそれと一緒に痺れたようになってきた。アヤに催眠術をかけるのだと思いこんで見つめているうちに、次第次第に自分も催眠状態に引きこまれているのだが、まったく自覚はない。
「ふらふらしてきた」
「もう立っていられないよ」
「ほら、ものすごくふらふらしてる」
「三つであなたのまぶたはくっつく」
「三つでくっつく」
「必ずくっつく」
「三つで眠る」
双子は声をそろえた。
「「ひとおつ、ふたあつ……みっつ!」」
手を打つ音がふたつ、同時に響いた。
アヤは感電したようにのけぞり、それからがくりと首を折り、肩を落とし、床に膝をついてから、斜めにぐたりと崩折れた。少女が支えて頭を打たないようにした。床に身を投げ出す。長めのスカートがまくれ、この上ない美脚が半ばほどまであらわになった。
同時に客席でも騒ぎが起こった。あちこちで、眠りに落ちた者が倒れていったのだ。二十人余りもいただろうか。
「「お騒がせいたしました」」
双子はちょっとした手違いしか起きていないように朗らかに言い、影法師面の少女は水晶玉を客席に差し出すようにしながらその場でくるりと一回転し、喝采を望むように手を横に伸ばして一礼した。
この瞬間、客はことごとく彼女たちに支配された。
ここまで散々皆を操ってきた霧子。その霧子の催眠にかからなかったアヤ。そのアヤを、いとも簡単に眠らせてしまったこの三人……最初に霧子を登場させてからここまで延々と組み立てられた演出によって、彼女たちこそは最強の術者であることが、誰の脳髄にもこれ以上ないくらい強烈に刻印された。あちこちで観客が眠ったことも、強い支配力の証明となった。
それでは始めます、と双子は告げた。
「アヤさん、わたしの声が聞こえますね……?」
少女がリ……ィン……とあの鈴を鳴らしながら語りかける。
「わたしの声がよく聞こえます。わたしの声だけはとてもよく聞こえます。わたしの声を聞いているのはいい気持ちです。わたしの声を聞いていると、とても穏やかな、幸せな気分になります……」
半ば客に向けた暗示なのだが、誰も気がつかない。
「あなたはわたしの言葉に従います。どんなことでも、わたしの言うとおりにします。そうするととても安心できるのです。あなたの気分はわたしの言うとおりになります。あなたは自然とわたしの言うとおりにします。何も考える必要はありません。何もかもわたしの言うとおりになります。それはとても幸せなことです……」
時折鈴を鳴らしながら、あの妖麗な声で少女は語り続ける。その手にはいまだ水晶玉が掲げられている。ピンスポットがそこに当たり、他の照明は光量を落とし、ステージ上で、水晶玉はきらきらきらと閃光を放ち、星屑のように輝いて皆の意識をさらにかき集める。
「さあ、起きてください。体に力が入ります。ゆっくりと起き上がってください。頭の中は真っ白で、何も考えられません。何も見えません。聞こえるのはわたしの声だけです。とてもリラックスした、いい気分です。雲の上にふわふわ浮かんでいるみたいです……」
アヤはのろのろと身を起こした。
立ち上がり、少女に手を引かれてステージ中央の突出部にゆく。
「「さあ、みなさまご注目ください、あの凶悪な水南倉綾乃が、今や完全に催眠術にかかって、ごらんの通りの操り人形となりました!」」
おおと声があがる。
あらゆる感情、思考が失われた、虚脱した表情で、アヤは無防備に立ちつくしていた。目尻は下がり、まぶたは重たげにかぶさって、頬がゆるみ、口をぼんやりとひらいて歯をのぞかせている。
「ではアヤさん、わたしの質問に答えてください。あなたはとっても素直になって、訊かれたことには何でも答えてしまいますよ。いいですね」
「はい……」
「名前を教えてください」
「水南倉……綾乃…………」
「身長と体重」
「173センチ…………55キロ……」
恥ずかしげもなく淡々と答える。
「スリーサイズは」
「…………知らない……」
外見を飾ることに関心のないアヤは、まともに計ったことはないのだろう。
「じゃあブラのサイズは」
「92…………D……」
今のアヤに嘘はつけない。だからそれは見栄ではない、本当の数値だ。客席からひゅうと口笛が鳴る。
「おじょーさん、今どんなパンツはいてはります?」
少女は関西弁に切り替えた。卑猥な質問をするのにはその方が似つかわしい。
「……見せてもいいやつ……」
「スコートかいな。つまらん。んじゃ、何枚ぐらい持ってはるん?」
「八枚……」
「そんだけかい。女の子のくせに、ホンマ色気ないやっちゃな。ほんじゃ、そんなかでお気に入りは?」
「黄色いやつ…………」
「黄色、好きなん?」
「ああ…………」
「あんましええ趣味ちゃうな。よっしゃ、うちらが新しいのプレゼントしたるわ」
少女はアヤの目を閉じさせ、リ……ィン……と鈴を鳴らした。ゆっくりと、何回も鳴らす。
「あなたは、この音を聞いていると、だんだんと昔に戻って、小さな、小さな女の子になっていきます。ちっちゃくて、可愛くて、みんなにいい子いい子されてた、小さな『あやちゃん』に戻ります……。
今はあなたのお誕生日です。これから、お父さんがあなたにプレゼントをくれます。あなたはとても嬉しい。どんなものでもすごく嬉しい。嬉しくて嬉しくてたまらない。いいですね」
それからいきなりアヤの額を叩き、「FREEZE!」とやった。
客席に向く。双子がはじめる。
「「オークション・ターイムっ! 彼女のお父さんになって、プレゼントをあげる権利! プレゼントはこの中からご自由に選んでもらいます!」」
舞台袖から仮面をつけた少女が三人あらわれた。恐らく受付をしていた子たちだろう。マントというか、シーツみたいな白い布にくるまって、裾を引きずっている。並ぶと、一斉に前を開いた。
一人は黒いシルクサテンのビスチェ、ガーターストッキングにやはりシルクのタンガ。これを身につけたアヤは妖艶という以外に言葉がない姿になるだろう。
一人は対照的に純白、これもふんだんにレースをあしらったボディスーツ。露出は少ないが、スタイルのいいアヤにはこの上なくよく似合いそうだ。
最後の一人は、先の二つに比べればデザイン的にはおとなしい、ピンクのネグリジェだった。しかし布地は極薄――――素肌がほとんど透けて見える。そして少女はそれ以外のものは何一つ身につけていなかった。
「「ではみなさん、アヤのお父さんになって、優しくプレゼントをあげて、目の前で着替えてもらいましょう! 『あやちゃん』は大喜び、大好きなお父さんが写真を撮ってくれるというので、ちょっと恥ずかしそうにポーズをとってくれるでしょう! あの水南倉綾乃にそんなことをさせるなんて、どこの誰ができますか? 最初で最後のこの機会、男なら一度は試してみたい! そうら試してみたくなる! さあ千円から!」」
みな――――
ここまではまだ、財布の紐を締めていた。
待っていた。
最後に出てくるアヤを。
霧子がこの前に退場していたのは、彼女の精神のためにはむしろよいことだったかもしれない。
ここからはじまった“本当の”オークションの熱気を見ずにすんで――――。
※
「あ、綾乃、プレゼントだよ……」
激烈な競り合いに勝利した落札者が、ぎこちなく演技しながら下着のパッケージを差し出すと、アヤは幼児がやるように、顔中を笑いにして喜びを示した。
「おとうさん……ありがとう!」
かつてはそういう子供だったのだろうか、アヤは制服姿のまま、自分より背の低い“父親”に抱きついて、マスクの頬にキスした。幼児になっているせいだろうか、普段より幾分黒目がちに見える瞳は感激に輝き、うるんでいて、それまでは子供子供した仕草をあざけるようににやついていた男は、うってかわって照れくさげに顔をそむけた。マスクの下の肌は赤くなっているだろう。そのくらいアヤの笑顔は可愛らしく、幸せそうだった。
「あけていい?」
「……」
「ほれ」
少女が男の腰をつついて促す。
「あ、ああ、いいよ」
アヤはその場に膝を折り、姿勢良く座った膝の上に小函を置いて、リボンをほどいた。
「とっても素敵なお洋服だよ……」
少女がささやく。
黒の淫猥な下着セットをアヤは感動の面もちで見つめた。
「うわあ、きれい……」
「着て……みせてくれるかい?」
男は生唾を飲みながら問う。アヤはうん、と元気良く答えた。
少女はアヤと男をステージ奥へ導いた。
双子が上に座る円筒形の台座の間。そこには衝立状にスクリーンを張った『お部屋』が用意されていた。アヤがその影に入るとすぐに、床に設置されたライトが灯った。三人のシルエットが白幕に大きくくっきりと浮かび上がる。
「さ、あやちゃん、ぬぎぬぎしましょうね〜。見えない手が手伝ってくれますよ〜」
男がアヤに手を伸ばした。シルエットだと黒衣黒マスクは得体の知れない怪物のように見える。
アヤはまったくためらわずに身をまかせ、上着を脱がせてもらうために腕をあげた。男がごくりと喉を鳴らす音がはっきり聞こえた。
信じられないほど細く締まったウェスト、見事に盛り上がる胸。
「ブラも外していいんですよ」
男の手は明らかに興奮で震えていた。後ろを向いたアヤの背中をまさぐり、ブラジャーのホックを外す。
「それはあなたにプレゼント」
見ている者は、男が手にした布地に残る肌のぬくもりを、自分が手にしているように生々しく感じ取った。
アヤのブラジャーはバストアップの役はほとんど果たしていなかった。そんな必要はない。ブラを外してもふくらみのボリュームは少しも変わらない、素晴らしい形だ。前にかかった髪を肩の後ろへやる、その動作に従ってぶるんと揺れた。
スカートがするすると落ちていって足元に山になる。シルエットであり生々しさに欠ける分、逆に天来の完璧な脚線美がよくわかる。まだ成長しきっていない年頃のはずなのに、ぽっちゃりしたところはまるでなく、すらりと引きしぼられている。これがさらに成熟して華麗さを加えたら一体どれほどの魅惑のボディとなるのか。誰もが頭の奥底に煮えたぎるような感覚をおぼえた。
「靴下も脱がなくちゃ」
アヤは言われると床にぺたりとお尻を下ろした。片足を持ち上げる。男の手がかかり、脱がされるのを、ちょっと首をかしげるようにして、黙って見つめていた。
「パンツもぬぎぬぎするんですよ〜」
「はあい♪」
起き上がったアヤは、羞恥のかけらもなく腰の両脇に手をかけ、布地と肌の間に親指をさしこみ、前屈みになって、一気に最後の一枚をずり下ろした。
客席から声にならない声が湧き起こった。
「こっ、これ!」
スクリーンの向こうで、男が黒衣の下から札束を取り出した。
「払う! 頼む、やらせてくれ!」
一斉にブーイング。もしOKの気配が見えたら、暴動が起こったことは間違いない。
もちろん少女は許さなかった。
アヤは箱から取り出した黒い下着を目の前にぶらさげた。困ったようにうらおもてを返す。どうやって着ていいのかわからないようだ。
「これ、どうやって着るのー?」
スクリーンの向こうの“父親”に向かってあどけなく呼ぶ。
「教えてあげられますか?」
「あ、ああ……」
「では――――あやちゃん、お父さんが来てくれましたよお。……さあどうぞ。ただし、おかしなことしちゃいけませんよ」
これだけはわかったらしく、いちはやくタンガに脚を通したはいいが、尻肉の大半が露出するために、前後ろ逆だと思って、一度脱いでまたはき直そうとしているアヤ。そこに、襲いかかりたい欲望を必死に押さえている男が、
「違う……そうじゃない。最初にこのストッキングを……」
しかし手順は知っていても、実際に女性に着せた経験があるわけではないらしく、教え方はあやふやだ。
「待った、そないに爪立てたらあかん。破れてまうがな」
見るに見かねて少女が口をはさんだ。関西弁になっていたのは、これが予定の行動ではなかったからだろう。
「んで、これを腰に巻いて、ここでとめて……こいつを、ストッキングの端にはさむんや……」
まるきり少女が指導教官、男が助手といった風情でアヤの『着付け』が進んだ。
立ち上がり、ブラジャーをつける。
「ちっちゃいから、まずアンダーのところにきちんとつけて、ずれんように気をつけて、こう前屈みにして、ホックをとめて……こぼれんように、しっかりよせて、うまく布地に収まるようにするんや……ああ、ちゃうちゃう……兄さん、ホック止め直してあげてや」
「……」
辛抱しきれなくなったとみえ、男の手がアヤのたっぷりした胸乳に伸びた。
途端に少女が低く言う。
「おっ、やりましたね。生まれてこの方誰にも触らせたことのない、水南倉綾乃の胸を最初に揉んだ男!」
再度、会場からの大ブーイング。シルエットなので余計に妄想をかきたてられるのだろう。
「これは追加料金もらわなあきまへんなあ。アヤさんのおっぱいをもみもみするっちゅう幸せを手に入れたんやから。そうやろ、みんな?」
拳を突き上げ大賛成。
双子が即座に反応し、
「「ではオークション! おっぱい揉み代、この彼からいくら取る?」」
十万、五十万、百万と声が飛び交う。
「「はい、二百万で決定!」」
「う、嘘だろ……?」
「それは冗談」
少女が、シルエットしかも仮面をかぶっているはずなのに、にんまりとしたことは誰の目にもはっきりわかった。
「だけど、これからのことは本当。このアヤさんに、最初に抱きついてもらうというのはどうですか?」
追加料金さえ払えばやってもらえるという。
「アヤさんのファーストキス権!」
「「これは会場のみなさんにも敗者復活権をあげましょう! オークション・ターイムっ! そこのあなたには、既得権として二十万円が最初からプラスされます! 他の方、それ以上出してアヤとのキスを、あのエッチな格好のアヤが、あなたに熱い視線を投げて、舌をやらしくうごめかせ、夢中になってキスする権利、ほしい人は手を挙げて! はい、やっぱり千円、千円から!」」
会場は爆発的に盛り上がる。
さすがにやはり最初の男が、上乗せ分があってトップに立ち、さらに数枚払って権利を手に入れた。
「「では、着替えが終わったアヤちゃんの登場です! みなさん拍手!」」
おのずから淡い燐光を放って煙るような雪白の肌――――
官能を強く刺激する黒い下着――――
それらをさしおいて性欲中枢そのものに刺激を送りこんでくる、はにかみつつも口は微笑み、ちらちらとこちらの反応をうかがいながら進み出てくる、長身の、最前まで黒い暴風のようだった不良少女の、催眠術ですっかり人格を変えられてしまった――――美しい肢体、長い髪の、並ぶものなき美貌。
その場の誰もが、下半身がずんと重くなり、脊髄をつたって喉元へこみあげてくる、熱泥のような、しかしあくまでも甘い、たまらない感触をおぼえて、獣くさい吐息をこぼした。
「お父さんに、お礼をいいましょう……いえ、お礼の言葉じゃ足りないくらい、お父さんのことが大好きです……。その思いを、思い切り、キスで表現しましょう……」
鈴を鳴らされると、アヤの目つきが妖艶に変わった。肢体は十分すぎるほどになまめかしく、それでいて頭の中は幼児で、手管など使えず、仕草は稚(おさな)い者のそれでしかない、けれども情熱だけはなまじな大人の女性以上に強く、激しく……。
抱きつかれた男の脳裡から、相手が誰で、どういう年齢の何という女性なのか、そういった一切のことが消え失せた。そんなことはどうでもよくなるような柔媚な身体が密着してきた。
「ありがとう…………アヤ、嬉しい……とっても、うれしいよ……」
唇がふさがれた。
「さあ、感謝の気持ちを、全部、このキスで表現しよう……お父さんのことが好き、大好き、この世の全部よりも好き…………言葉なんかじゃ表せない、すごく強くて、すごく素敵な気持ちを、体の中からお父さんの中へ、唇から唇へ、伝えよう…………」
舌を動かすことはもちろん、入れることさえ知らない“幼児”のアヤは、それこそが愛情の証とばかり、ちゅっ、ちゅっ、と、ひたすら唇を重ねてばかり。
その繰り返しに耐えられなくなったか、黒マスクの男が、邪魔なマスクをむしり取り、素顔をさらして、アヤを強く抱きしめて、みずから唇を重ね、舌を送りこみ、アヤの口腔内でくちゅ、くちゅと音をたてはじめた。
あいつだ、来てたんだと客席でざわめきが流れる。
そんなことはどうでもいい。男はアヤを抱き、アヤも最初とまどいつつもすぐに陶酔の眼差しに変わり、入りこんできた舌を舌で受け止め、生まれて初めての感触に困惑しつつ、官能を呼び起こされて目つきがとろんとなり、黒い下着の魅惑のボディを我知らず男にすりつけるようにして、鼻を鳴らし、腕を絡め、シルクの布地に包まれた乳房を自然と男の胸板に擦りつけて――――
「はい、そこまで! FREEZE!」
アヤは“止まった”。
男は、舞台補助の男に引き剥がされ、投げ捨て同然に客席に戻される。
双子が立ち上がる。予想外の事態に戸惑うような、それでいて喜んでもいるような、晴れ晴れとした声で、言う。
「「みなさんもう辛抱たまらないご様子、それならこちらも方針変更、このアヤさんを猫に変えたりブルマ姿に着替えさせたり、色々趣向を考えてはおりましたけれど、もうそんなもの必要ないね!」」
大拍手。
「みんな、したい?」
「アヤとしたい?」
「アヤを犯したいんだね!」
「貫きたい!」
「アヤに入れたい!」
「ぶちこみたい!」
「「頭のなかはただそれだけ、オスの本能ただそれだけ、他の思いは何もない、入れられるなら何でもする、その熱い思いただひとつ!」」
双子の煽りに、とっくに麻痺していた客の理性は沸騰し、うおおと叫んで腕を突き上げる。
「「それならついにこの時が! みなさんこのときのために、力を尽くし、心を砕き、ありとあらゆる手段を講じ、己(おの)が男の証のために、気構えてきたその懐の、思いを形に変えるとき!
本当に長らくお待たせいたしました!
オークション・ターーイムーーッ!」」
真っ赤な光が炸裂し、重低音のビートが轟く。
「「紛うことなき処女、水南倉綾乃との、最初のセックス、はじめての男になる権利!
十万から!」」
双子は交互に叫びだした。
「十万十万、たったの十万!」
「高いと思うは考えて、一万二万、払えば場末のソープで抜くならできる!」
「だけどこのアヤ!」
「水南倉綾乃!」
「こんな美少女こんな不良、商売女と次元が違う、この世でひとり、ただひとり!」
「この美少女を我がものに!」
「たった一人の最初のひとに、一生忘れぬその人に!」
「なるは男の命のあかし、買わずは男のしるしが立たず!」
「買って、犯して、男を立てろ!」
「必死で集めたそのお金、準備してきたその全て!」
「あなたの人生あなたの力、欲しい思いを力の限り!」
「叫べ!」
「求めろ!」
「声を出せ!」
そして、台座下の少女とも、三人で声を合わせて、腕を高々とさしあげて、
「「「オークション、スターートッ!!」」」
うわああああああああああっっっっっっ!!!!!
歓声は屋根を突き破らんばかりに噴出し――――
「百万だあっ!」
「百二十万出す!」
「百五十万っ!」
双子の煽りを越え、金額に応じて了解のサインを出す手法も忘れ去られて、男たちは口々に、煮えたぎった脳髄の命じるまま、ひたすらに声を張り上げ腕を振り上げ、ベルを鳴らし声を枯らし。
「俺だあっ!」
「俺が買う!」
「有り金全部だ! 文句あるか!」
「「落ちついて! みなさん、どうか落ちついて!」」
あまりの盛り上がりぶりに、双子が慌てて叫んだ。
「これで終わりじゃありません!」
「まだまだチャンスはあるんです!」
「どうか、冷静に、冷静に!」
「慌てないで!」
しかし効き目はない。
わめき、叫び、腕を突き上げ、ベルを打ち鳴らし、黒いマスクをむしりとって振り回す者さえあらわれた、沸騰状態の場内――――一切の覆いをなくして噴き出してくる生のオスの本能を、所詮は若年、一介の高校生にすぎない双子に制御できるはずもなかった。
黒衣がうねり、沸き返る。真っ黒な溶岩のよう。じわじわと危険な気配が高まってくる。このままだと、オークションという枠組みが壊れて、みな一斉にアヤに襲いかかってゆくかもしれない。近づけない者がメイドはもちろん、双子にも獣欲の矛先を向けないなどとは誰にも言えない。
(どうしよう?)
(まずいよ、これ!)
双子は目と目で言い交わした。
仮面の下で背後をうかがう。――――場をなんとかするよりも、自分たちが逃げる方を最初に考えた。逃げ道を確認したその動作が完全に一致したのはこの二人ならではだ。
黒いうねりがステージに迫る。固まって、次の言葉を待っているアヤの足元に、ぎらついた目がにじり寄る。
「よこせえええっ!」
ついに、札束を振りかざした男がステージに飛びあがってきた。
それを皮切りに、黒い人波が、どっと――――
リン!
鋭い鈴の音が、叫喚を切り裂いた。
少女がアヤを守る騎士のように立ち、鈴を男の鼻先に突きつけていた。
刃を向けられたように男の動きが止まる。
「お前はもう動けない」
信じられないほど低い、それでいて強い声で言うと、鈴は微動だにさせず、空いている方の手で自分の仮面を外す。
「わたしの目を見ろ」
仮面を持った腕を、押し寄せる何かを薙ぎ払うように、客全員に向けてばっと回し、強烈な声で、
「お前たちもだ!」
あらわれた、幼い、しかし文句なしに美しい、その顔の中に――――
大きな目が。
赤く。
異様に見開かれた眼は、憤激か、それとも昂揚か、鮮烈な血の色をいっぱいにたたえて、凄まじい眼光を放っていた。
ひたと、押し寄せる流れが止まり、
リン!
――――腕が真横へ、
リン!
――――真正面へ、
リン!
頭上、両腕で握った鈴を高々と打ち鳴らす、その動作に誰もが目を奪われ、心ひかれ――――
一片の暗示も受けぬうちに、赤い目で見られた全員が、少女……迫水千尋に完全に心を支配されていた。
※
「……あなた」
目の前で彫像と化している男の目の前に握り拳を持ってゆき、ばっと開く。同時に鈴が、まるで千尋と共に本性を解放したように鋭い音を発したあの鈴が、本来の音色を取り戻して――あるいは本性を封印しなおして――涼やかにリ……ィン……と鳴った。
千尋の声も深みのあるものに戻る。
「もうあなたは何も考えることができません……あなたには特別なコースを用意してあります……」
目をうつろに変えた男のだらりと下がった手から、それでも離さないでいた札束を奪い取る。
「はい、今あなたは権利を買いました」
小さな、色鮮やかな唇が悪辣な笑みを形作る。
「一生懸命用意した大切なお金にふさわしい権利です。
あなたはこれから外に出ます。あちこちに女性がいます。それは全員水南倉綾乃です。あなたが買った“商品”です。アヤを路上ではずかしめる権利をあなたは買いました。アヤも、嫌がるふりはしますが、催眠術をかけられているので、じきによがりはじめます。遠慮なく押し倒し、痛めつけて、たっぷりと犯し、いたぶってやりましょう。相手はそれを望んでいるのですから、ためらう必要はありません。
あなたは勝利者です。苦労して大金を集め、他のみんなより抜きんでて、最高額で競り落とした、男の中の男です。それにふさわしい、最高の快楽を味わう権利があります。あなたは、これまでに感じたことがないくらい、ものすごい気持ちよさと一緒に射精することができます。すると、頭の中はからっぽになって、今日ここに来たことも、このようなイベントがあったということも、アヤを買おうとしたことも、何もかも忘れて、深く、深く眠ります。何もわからず、いくら起こされても起きない、深く幸せな眠りが訪れます。たっぷり眠ったら自然と目が覚めますから、安心して眠ります。いいですね、射精するとあなたは眠ります。眠って、目が覚めたら、今日のことは全部、きれいさっぱり忘れています」
鈴を鳴らして暗示を心にしっかり埋めこむと、千尋は男を回れ右させ、背中を押した。
「さあ、行きましょう! アヤを犯しに!」
男は焦点の合わない目つきのまま、耳まで裂けるような笑みをうかべ、腕を前に伸ばし、よだれをたらしながら飛び出していった。
「……他に、ああしてほしい馬鹿はいる?」
千尋は見回した。
場は慄然として音もない。いつのまにか音楽さえも消えている。
「それでは、みなさん、オークションの続きをどうぞ。明るく、楽しく、激しく、いやらしく――でも羽目だけは外さずに、盛り上げて、もっともっと盛り上げて!」
途端に客席はそれまでの狂騒を取り戻した。場の流れから言うと不自然だが、誰も演技などしていない。千尋がそうしろと言った瞬間、心が浮き立ち、騒ぎたくなったのだ。何もおかしなことはない。ごく自然に、先ほどと同じような競り合いが復活した。
千尋は満足げに微笑むと、仮面をつけなおして後ろに下がった。
この間、アヤはランジェリー姿で固まったまま、何も見ず、何も聞かず、深いところに沈んでいる。
※
何とか先ほどのペースを取り戻した双子が、場を盛り上げ、金額を提示して挙手とベル音を誘った。
この後も色々楽しみが用意されていることを繰り返し、何とか場の勢いを抑え、ようやく落札者が決まった。
周囲から頭ひとつ突きだしていた、小山のような体格の男がステージに上がった。肩幅といい胸板の厚みといいものすごいもので、あまりに体が大きいために、黒衣の前をとめられず、マントみたいに肩に羽織っている。
鷲掴みにした札束を差し出し、マスクの底からアヤを見て、鼻をくんくんと鳴らした。
「すまんが……ちょっと、いいか?」
ずしんと腹に響く声。
「まだ触るのは駄目ですよ」
「ああ」
巨漢はアヤの前でかがみこみ、犬のようににおいをかいだ。
「間違いない、処女だ」
「……わかるんですか?」
「俺にはな。俺は処女でないと駄目なんだ。経験者だと、男のにおいがして、臭くてたまらん。だから絶対に譲れなかった。
――――それだけの価値はある。素晴らしい」
千尋に対しても鼻を鳴らした。
「ふむ。この子は確かに処女だが……君のにおいがするな。君に心を寄せている――――催眠で支配されているならそういうこともあるか。それとも洗脳したか? 君も……面白い。実に面白いにおいがする」
「あんた……何者?」
「狼男」
「……失礼いたしました、聞かない約束でしたね」
“客”に対する態度に戻し、千尋は軽く頭を下げた。
「では、どのようにいたしましょうか? 痛がるのを無理矢理というのもよし、欲情させて、たっぷり濡らしてからもよし、痛いんだけど好きだからなんとか我慢する、甘ったるい顔をさせるもよし――――お望みのままに」
「人前というのは恥ずかしいな。ここでないと駄目か?」
「大丈夫です」
鈴が鳴る。
「ここは個室です。わたしたちだけ」
「……そうだったな」
巨漢は納得したように言った。
「それなら、シチュエーションは……そうだな、処女は好きだが、たどたどしいのがいいわけじゃないし、こちらのことを好きと言わせるなんてのもどうでもいいから、とにかくたっぷり濡らして、俺に合わせてよがるようにしてくれ。早く頼む。さっきからずっと我慢してるんだ」
言うなりさっさと服を脱ぐ。
身長二メートル近い、ただでさえ量感のある巨体を、凄まじく発達した筋肉が分厚くよろっていた。ボディビルダーの、見せるための筋肉ではなかった。普通の暮らしをしている限り決してつくはずのない、無惨な傷痕もあちこちに刻まれている。この男が真っ当な人間ではないことは明らかだ。
剥き出しにされたモノはそれ以上に猛々しかった。特別巨大というわけではなかったが、雄々しく天を衝くその威容に、誰もがしばし言葉をなくした。
「で、では……」
千尋が気を取り直して鈴を鳴らした。
「アヤさん。あなたの体から力が抜けます。抜けます、抜けます……はい、ぐらぐらしてきた。足ががくがくする。もう立っていられない……」
“動き出した”アヤは、すぐに床に倒れた。丁度客席側にお尻を向けるようなかたちになる。黒のガーターストッキングとの対比で、その魅惑のヒップは鮮やかすぎるほどに白く見える。
それを仰向けにさせ、
「では、これから本当のパーティのはじまりです……。
あなたはだんだんとエッチな気分になってきます……体が熱くなってきて、奥の方からずんと強いうずきが湧いてきます……肌がぴりぴりして、神経がすごく敏感になって……熱くて、でも誰かに触れていたいような、触れてほしいような、どうにも落ち着かない、たまらない気分になってきます……」
臍の下、ぬめ光るようななめらかな下腹部に手を置く。
「ここがじわーっと熱くなってきます……じんじん熱くうずいてくる…………」
「ん……」
アヤは小さく呻いた。熱帯夜にあえぐように、不機嫌じみて眉を寄せ、身をよじる。
「さあどうぞ。もう彼女は一切抵抗しません」
巨漢は意外に優しい手つきで、アヤの頬をそっとなでた。
アヤはぴくりと震え、それから安らいだ風にわずかに息をつく。
なおもなで続けていると、自分の脚なみに太い腕に、アヤの方から愛おしげに腕を添えてきた。
手が首筋に降りる。肩、鎖骨あたりを丹念に愛撫する。
「っ……ん…………」
明らかな快感の、しかしまだ浅く、心地よいのだけれど物足りない、そんな声をアヤは放つ。不満そうにさえ見える。これがまだ男を迎えたことのない少女とは思えない、快感を十分に知っており、強く求める媚態であった。
「あの不良がこうも変わるか。やっぱり催眠術は面白いな」
「やっぱり……?」
千尋が怪訝そうにつぶやいた。
巨漢の指がアヤの腰をつたいおりた。切なげに身をくねらせるアヤは、じらされて我慢できなくなってきたか、半ばをブラジャーの布地からあふれさせている乳房にみずから手をやった。
「……ぁっ……」
そのかすかな悲鳴は、客席になまぐさい吐息をいくつも呼び起こした。
いつも男をまるで寄せ付けず、雷光をまとい、霧子を蹴倒したときのように、どんな相手でも瞬時に血の海に沈めてきた黒い死神が――――
甘いあえぎをあげて、男の愛撫に身もだえし、腰を揺すり、みずから胸をつかみ、揉みたて……
巨漢が右の足首をつかみ、持ち上げた。
「素晴らしい」
美脚を賞賛すると、ほっそりした足の甲に唇を押しつける。そのままつうと舌を滑らせ、一気に膝まで舐め下ろした。
「ひゃあっ!」
驚いたのか、素に戻ったような声が出たが、もう一度やられると、
「あんっ!」
びくりとさせた二の腕にぞくぞくと鳥肌が立ち、
「ん……あっ!」
三度目には甘やかな声をこぼした。
男の舌が、持ち上げた膝裏を責めはじめる。同時に大きな手が腰を這い上がり、今度こそ胸に迫った。
ブラジャーがずりあげられる。
生のふくらみが衆目にさらされたのはこれがはじめてだ。
型くずれのない、見事に盛り上がる双丘。もち肌というにふさわしい、つややかな白さ。触れればやわらかく指がうまり、それでいてぷりんと弾けてはね返しそうでもある。
その頂点に、ここばかりは未熟、しかしそれだからこそ瑞々しい色あいを保ち、ひそやかに息づく乳首。今やそこは興奮を示して硬く突きだしている。
男の手は豊かなふくらみをほとんどその中におさめ、荒削りな岩石みたいな体からは思いもよらない繊細な手つきで揉みしだいた。
しかし乳首は親指と人差し指の輪の中におさめ、まったく刺激を与えない。
「ふ……うん……あ……」
最初うっとりとしたアヤは、こわれものを扱うようなおとなしい愛撫が続くうちに、今度こそ間違いない不満の気配をあらわしはじめた。
手が離れ、また全身をさする動きをはじめた。長身のアヤを子供みたいに持ち上げ、ひっくり返し、覆い被さり、上に乗らせ、あるいは包みこみ、抱え上げ、背中を、耳の後ろを、足裏を、いたる所に指を舌を時には猛りたったモノさえも使って刺激する。そのくせ強く感じる部位は念入りに避けていた。
おもちゃみたいに扱われ、平衡感覚を失い、自分がどうなっているのかわからなくなり、そのくせ性感はじわじわとしか高まっていかない。たとえ催眠で性欲を高められていなかったとしても、この責めを続けられればいずれは理性が蒸発し、みずからより強い刺激を乞い願うようにされてしまったに違いない。
見ている方もまた、拷問されている気分だった。
巨漢は、客の姿は見えていないはずなのだが、見せつけるようなことばかりした。アヤの脚を客席に向かって開かせたり、濡れて淫靡な匂いを放ちはじめている黒いタンガをつけた尻を客席側にかかげて左右に揺すらせたり、黒衣の客たちの脳髄は見つめるうちに次第次第に軟泥と変わり、誰も動かず、すぐ側にいるメイドに手を出しもせず、アヤの痴態にひたすらに見入るばかりで、時たま誰かが歯がみして、息はますます獣くさく、静かなうちに、先刻のパニック以上に危険な気配が高まってきた。
さすがにまずいと見たか、千尋が鈴を鳴らした。
「さあ、この音を聞くと、もっと熱くなるよ…………頭のなかがいやらしいことでいっぱいになって、してほしいことを、自分から口にできるようになる……何も恥ずかしくない。口にするとかえって興奮して、もっといい気分になる…………」
さらに鈴が鳴ると、たがが外れて、アヤは激しく叫び出した。
「お、お願い……触って! もっと、よくしてえ! はやく! も、もう、我慢できない!」
「……いいのか?」
あぐらをかき、アヤを背中から抱きしめている巨漢は薄笑いを浮かべた。
「は、はやく、はやくう!」
朦朧とした目でアヤは応えた。相手が誰だか認識できていないのだが、そんなことはどうでもよくなっている。このもどかしい思いをなんとかしてくれるのなら、実の親にでも身をまかせるだろう。
巨漢は千尋を見た。床に座っていても、立っている千尋と視線の高さはそう変わらない。
「鈴を頼む」
「え……」
「本気でやるぞ」
「え、あ、はい……」
リ……ィン……。
千尋の手から音が鳴ると同時に。
言葉通り、巨漢はそれまでとまるで違う動きをしはじめた。
アヤは文字通り蹂躙された。大海に揺れる小舟よりもさらにか弱く、一切の抵抗は剛力に粉砕されて、魅惑的な裸身は徹底的になぶり尽くされた。
「ひいいっ! あああっ! くああっ! はんっ!」
形が変わるほど乳房を握られ、乳首を根元からつまみあげるようにはさまれて、灼熱の針を突き通されるような刺激を味わいながら、剛直に太股の付け根をつつかれ、首が折れるほどにのけぞらせられたあごの下、弱点であるそこを舐められる。体をくの字に折り曲げながら、アヤは絶頂の悲鳴をあげた。
最後の下着がはぎとられる。長々と透明な糸がのびた。
しっかり手入れされた、少し薄目の恥毛。すでに大興奮してぷっくり色づいている秘唇からは蜜がじゅくじゅくとあふれだし、会陰部の方へしたたってゆく。腿には筋が浮き上がってひくひくしており、まだモノを入れられていないのに、膣内が激しく収縮していることは誰の目にもよくわかった。
ひっくり返し、片足を持ち上げて半ば宙づりにして、大きく開いた脚の間に、巨漢が吸いついてきた。音をたてて舐め、すすり、舌を存分に侵入させる。クリトリスも陰唇も尿道も膣口ももはや区別なく、アヤはただ激烈な快感しか感じなくなった。脳に血がいっぱいにのぼったまま、再度の絶頂が、三回連続で訪れた。
「……では、いくぞ」
アヤは横たえられた。息も絶え絶えであったが、脚を大きく開かれると、快楽にとろけ、ゆだったような目元に、理性の光が戻ってきた。ここまでなってもまだセックス――いや、挿入行為への嫌悪感は失われていないらしい。
「い……いやっ……!」
「アヤさん、落ちついて」
千尋がすかさず額に手をあて暗示を与える。
「怖い気持ちは奥へ引っ込んでいきます…………体が求めるものを、自然に感じ取りましょう。怖い気持ちはすうっと消えて、体の欲求だけが後に残ります……それはとてもいいものですよ……体の奥にずんと響いてくるような、深くて、気持ちいいもの……ものすごい快感」
「ん……」
アヤの口元から引きつりが消え、心地よさげに身を揺するように変わった。男の手が股間に忍びこんできて、挿入寸前の危険な刺激を秘所に与えている。それへの嫌悪感がなくなってゆく。
「そう……何も気にならない……体の求めるままに動きましょう……」
アヤは腰を揺すりはじめた。腕を伸ばし、男の体を引き寄せる。乳房を円を描くように男の肌にこすりつける。上体を浮かせ、乳首が触れるようにする。途端に力が抜けて、床に倒れる。また浮かせては、こすりつけて、繰り返し。
「そう……熱くなってくる……気持ちいい……とても気持ちいい……もう何も考えられない…………体が熱い、胸が熱い、あそこが熱い」
「あっ!」
特に何もされていないのに、アヤは身をはね上げた。
「熱い……すごく熱い。濡れている。どくどくあふれてくる。そら、音が聞こえる……ものすごくいやらしい音が聞こえる……」
タイミングを合わせて男の指が動きを速めた。
くちゅ、ぐちゅ……。
「……あ……あ…………ああん……ひっ……」
アヤは間断なく声をあげた。白皙の肌はどこもかしこも桜色に染まり、絶え間なく駆けめぐる快感が肉体の制御をきかなくさせて、ひたすらに悶え、腰を、胸を、激しく揺する。
巨漢がアヤの足を大きく開いた。その股間のモノは太い血管が浮き上がって、最初に見たときよりさらにグロテスクに、先端はすでにたっぷりと濡れて、ぬめぬめとてら光っている。
「い……入れて……はやく…………お願い……!」
期待に身を震わせながら、アヤははっきりと、言った。
自分から手をもってゆき、陰唇を大きく開いた。男が角度を合わせ、先端が触れる。
「あ……っ……」
「大丈夫、落ちついていられるよ……自分がしたい通りにやればいい…………必ずうまくいく……」
千尋がなおも暗示を続ける。
「ぐ…………」
たっぷり経験のある女性でも受け入れるにはつらそうな巨根は、いくら濡れていようとも、やはり処女のアヤには相当きついようだ。
それでもアヤは腕を巨漢の腰にやり、自分から引き寄せる。欲望にせき立てられて止められない。
歯をくいしばった。顔をしかめる。苦痛の表情。こめかみに血管が浮く。
「ぐ……う……くっ…………」
じりじりと巨漢の尻が下がってゆき――――。
突然、ぐっと、
「うあああっ!」
聞こえるはずのない、めりっと裂ける音を――
みな、聞いた。
「う、ぐ、ぐ、あ、あ……」
涙を流して痛みに耐えながら、汚れを知らぬ腹中いっぱいに、アヤは男のものを飲みこんでゆく。
突然、
「あっ! ――――?」
目も口も真ん丸に開いた。
両手で下腹を押さえる。
腰と腰が完全に密着した。
「な、なに……? あ……熱い…………入って――入ってる……中に、お腹に、ああ、こんな、こんなの、入ってる!」
「ああ……」
巨漢が恍惚と声をあげた。
口中の美味をじっくり味わう美食家のように、満悦の顔でゆっくりと腰を動かしはじめる。
「あ……あん……い、いいっ…………い、イクっ!」
わずかそれだけでアヤは絶頂の声をあげた。
「む」
相当激しく締めつけられたらしく、男もまた眉を寄せ、深呼吸して耐えた。
どちらにとっても激しく動く必要はなかった。もどかしいぐらいに巨漢は腰を上げ、またゆっくりと埋めてゆく。粘液まみれのもの同士がこすれあうたびに、アヤの脳髄に甘美な高圧電流が流しこまれる。
「ううっ、んんっ、あんっ、はあっ、す、すごい、いやあっ!」
髪を振り乱して悶える。汗が飛び散る。乳房が揺れる。
上体が引き起こされる。もうわけがわからなくなって、アヤは自分から男にしがみついた。大きな体は信じられないくらいに気持ちよかった。肩肉に歯を立てた。固い筋肉の束に歯形が刻まれ、赤いものがにじむ。アヤはすすり泣きながらそれを舐め取った。
「うっ、そろそろ、出すぞ!」
男が呻いて腰の動きを大きくした。
「ひいいいっ!」
アヤの背筋がびんと反り、乳房がゆさっと激しく揺れた。
次の一突きで絶叫した。
「く……ああああっ!」
首が後ろに傾く。
さらけだされた真白い喉が動く。
「が…………ぐあ……」
快感があまりにも強烈すぎて、もはやまともな声も出せない。
見開いた目が虚空をさまよう。巨漢を見る。
「…………ご……」
明らかに正気を失っている目から、突然涙があふれ出した。
自分よりはるかに大きな体に今一度抱きつく。
巨漢も腕を回してアヤの細身を強く抱いた。
アヤはわずかにはっとして、それから何かを理解したような顔をした。
唇がきれぎれに言葉をつむいだ。
「ごめんなさい…………」
泣きながら繰り返す。
「ごめんなさい……ごめんなさい!」
誰に向けて言っているのだろうか。
何を謝っているのか。
「……ごめんなさい……!」
誰にもわからないまま、アヤは巨漢にすがりつき、快楽に飲みこまれ、溶けていった。
「む、うっ!」
巨漢がひときわ強く腰を突きこんだ。アヤの中でモノがさらにふくらみ、襞という襞をこすって最強の刺激をもたらした。
激烈な噴出が子宮を襲った。
「ああああああああーっ!」
ここまでの快感もこれに比べれば児戯にひとしい、信じられないほどのエクスタシー。
アヤは自分が悲鳴をあげていることもわからず、のたうちもがくこともせず、白目をむいて、びく、びくっとあちこちの筋をひくつかせながら、全ての力を失った。巨漢の首を抱いた手の力がなくなり、ずり落ちていって、床にばたんと落ちた。
ゆっくりとモノが抜かれたあと、秘裂から、大量の白濁液が音をたてて流れ出してきた。二つの粘液が混じり合った、むせかえるほど濃い臭気が漂った。
※
「お疲れさまでした」
それまで圧倒されていた千尋が声をかけてくる。声色からすると本当に感心しているらしい。
「ふう…………金額だけのことはあった。最高だ……」
巨漢は大の字に寝そべる。
「後始末はどうなさいますか? 誰かに、綺麗にさせるか……」
「いや、処女でない女に触られたくない」
「では、シャワーでも」
「それはありがたい」
身を起こした巨漢は、黒衣だけを羽織ると、ぐたりとなっているアヤにかがみこんだ。
手首の脈を取り、閉じられたまぶたをめくって反応を確かめる。
「大丈夫だ」
「……もしかして、お医者さんですのん?」
「そんなところだ」
巨漢はマスクの口元をすっきり笑わせた。千尋の目が不気味に光った。
助手の男に案内されて舞台袖へ消えてゆく岩壁のような背中を見送り、千尋はそっとつぶやいた。
「うまくやるんやで……」
助手の男にあることを命令しておいた。巨漢は知らないはずだ。
鈴を鳴らした。
メイドが集まってくる。
みな、スカートを破かれたり、襟元を引きちぎられて肩を露出していたり、散々いたぶられた姿だ。中には顔の下半分、乾いた精液でぱりぱりになっている者もいた。
「きれいにしてあげて」
千尋に命じられると、二人、ステージに上がってきて服を脱ぎ、白いブラジャーとガーターベルト姿でアヤの体にのしかかり、その全身を、特に股間を、舌で丹念になぞりはじめた。すする音がして、顔をあげたメイドの口から白濁液がどろりとこぼれおちた。
アヤは朦朧としたまま、腰を揺すり、甘い声をあげた。
※
その間に双子が次のオークションをはじめた。
「「みなさま、ご堪能いただけましたでしょうか! では、続きまして、いよいよ本番、みなさまご自身で、女になった水南倉綾乃の体を、存分に味わいつくしていただきましょう!」」
しかし客席から歓声は上がらない。煽りにも反応しない。
コールタールのプールがどろっと波打つような気配。
黒マスクの下から、不気味にぎらつく目が幾十幾百、そろって双子に浴びせかけられてきた。
待っている。言葉を。値段を。
アヤを犯すにはいくら出せばいいのか。
ただその知らせだけを待っているのだ。
双子の喉は凍った。
これから三人ほど相手させ、最後にみなに輪姦させるつもりでいた。
だがもはや、相手一人を決めるだけでも、取り返しのつかない状況が出現しそうだ。
「全員!」
すくんでしまった双子に代わり、千尋が叫んだ。
ステージの中央、突出部の最前列に進み出て、腕を高く上げた。
ライトがそこに集中する。
小さな手の中に光。あの水晶玉だ。
「みんな、アヤを犯したいね!」
黒い水面が爆発する。
大歓声。
「誰かひとりになんて許せない!」
おおおおおおおと叫び声。
思い出したように重低音のリズムが強くなった。オークションタイムの照明点滅がはじまる。
「みんな、犯したい! 全員、やりたい! やりたくてやりたくてたまらない! そうら、固く、大きくなってきた! 体が熱くなってきた!」
水晶玉がきらきら光る。暗い世界できらめき光る。
「それならみんなにやらせてあげる! ほしい男は手をあげろ! 三つ数える! 手をあげろ! ひとつ、ふたつ、三つ!」
腕の、ベルの、林が出現した。
「もう高いも安いも関係ない! やりたいみんなにやらせてあげる! 持ち物全部メイドに渡し、やりたい男はこっちにおいで!」
千尋は招いた。
最初の男がステージ下で黒衣を脱がされ、その下の服も全部脱がされて、マスク一つで光の中へ上がる。金も全額メイドの手に渡ったが気にする様子もなく、一目散にアヤへ飛びつく。
「してえ…………もっと、して……」
アヤは我を忘れ、恥じらいも誇りも失って、肉欲だけしか頭に残らない、完全な色狂いとなりはてていた。むしゃぶりついてきた男に喜びの声をあげて抱きつき、貫かれて高い声をあげた。
二人目が乳房に吸いついた。
三人目が肉棒を口に突っ込む。アヤははじめのうちどうしていいかわからぬようであったが、すぐに自ら手を添え、首を動かすことをおぼえた。口内で弾けてあふれたものをおいしそうに飲みこむ。
四人目が来る。
五人目のペニスをアヤの手がつかむ。
「最高の女としてる! 最高の女! 気持ちいい! 最高!」
千尋が男たちの心を燃やす。双子も便乗して叫ぶ。人数はみるみる増える。
「ふああっ!」
口をふさがれたままのアヤが呻いた。イッた。
男もたちまち放出した。
射精を終えた男を、メイドが引き剥がして千尋のところへ連れてゆく。
「この手を見て……すごく幸せ。三つで眠る。ひとつ、ふたつ、みっつ!」
くたりと倒れる裸の男。
次の男もすぐに眠る。
それより早くアヤに群がる数が増えてゆく。
アヤの体のあらゆる所に肉棒がなすりつけられ、あらゆる所で放出し、アヤの肌を汚してゆく。
アヤは精液まみれになる。
長い髪も、顔も、肌という肌に白い粘液がこびりつく。
恍惚としてさらにしぼる。
くわえこむ。
舐める。
飲みこむ。
体の中にまた入ってくる。こすれる。もう快感と自覚することもない。これ以外の感覚はない。何もかも気持ちいい。触れられるのも、モノの形も、手触りも、味も、においも。自分を求める男の眼も、赤く瞬く天井のライトも、ずんずん響くビートも。
こんなに愛されたことはない。たまらない満足感がアヤを満たす。
ずっとこのままでいたい。
もうこれさえあれば何もいらない。
ポニーテールの面影が浮かぶ。誰だろう。どうでもいい。でも思う。あいつは正しかった。男とするのはこんなにいいんだ。
子宮に熱い刺激。
もっともっとしよう。
口の中のものがふくらむ。どくどくっと放出する。おいしい。飲みこむ。喉を通る感覚。いい。
肌のあちこちに肉の棒。どろっとした感触。熱い。いいにおい。手をやり、肌になすりつける。気持ちいい。
ああ、気持ちいい。
もうどうでもいい。気持ちいい。気持ちいい。
いい。いい。狂う。これでいい。たまらない。もっと。
もっと。
もっともっともっともっともっともっともっと………………!
してしてしてしてしてしてしてして……。
なんでもする、なんでもするから、もっとお………………!
もっと……。
……。
※
全てが終わり、誰も側にいなくなっても、アヤは床に広がる精液を恍惚と舐めながら、あらゆる穴から液体をあふれさせて、白い泥濘の中でひとり泳ぎ続けていた。
もはや千尋の鈴さえも届かなかった。
(十五)
その日の深夜、“会場”からほど近いクラブを完全貸切にして、オークション運営スタッフの打ち上げパーティが催された。
「かんぱ〜い!」
白河文月、葉月の音頭に合わせ、十数本の手が一斉にコップを掲げた。
テーブルの上に、その日のもうけの札束が山積みになっている。
「それじゃ、みんな、並んで!」
メイドだった女の子、受付嬢、手伝いの男たち。双子は気前よく札束を手渡した。みな笑顔になる。自分が催眠をかけられてひどいことをしたと記憶していたとしても、こうやって報酬を渡されれば、納得して、他言したりはしないだろう。それどころか、次の機会を自分から望むようになるかもしれない。
双子にしても、山積みの札束はあまりに高額すぎて、かえって実感が湧かなかった。何度も何度も手にとり、ためつすがめつしてため息をつく。
「はあ……」
「なんか……ここまでうまくいくと、怖いくらい……」
「よお、あんたら、大したもんだったぜ、あの司会ぶり」
金髪の男が声をかけてきた。このクラブのDJ。千尋に催眠をかけられたことがきっかけであったが、音と光の演出で客をトランス状態へ誘導する手法に非常に興味を持ち、今では自らの意志で仲間に加わっている。今日のオークションの照明、音響は彼の手によるものだ。
「お疲れさま」
高陵学園体育教師、藤堂美夏が笑顔で言った。暗示をかけられて、剣道部員たちと一緒にレクリエーションを行ったつもりでいる。みなが手にしているコップの中身も、オレンジジュースだと思いこんでいる。彼女にとってはこれは健全な、学校教育の一環だった。
DJが音楽をかける。女の子たちが歓声をあげて踊りだした。男も、藤堂教師も浮かれて身を揺すりはじめた。相性のいい者同士がだんだんと一緒になってゆく。じきに乱交がはじまるだろう。報酬を与え、性的満足を与え、人身売買への抵抗感をなくさせるのがこの打ち上げパーティの狙いでもある。
ドアの隙間から静かに千尋が入りこんできた。
彼女はこの場にいる全員の支配者なのだが、誰も特別な目を向けはしなかった。顔を知ってはいるが特に気にする相手でもない子が来た、そういう目で見るだけだ。
千尋はそれでよしとしている。もしこの場の者が捕まり、色々取り調べを受けたとしても、千尋の名は出すだろうが、一人たりとも千尋が主犯だ、中心人物だとは言わないだろう。そういう認識は誰一人持っていない。
そうではない双子だけが、小さな人影の動きに気づいた。
隅の席につき、難しい顔をしている千尋の元にゆく。
「ちーちゃん、お疲れ」
千尋はオークションの後、千尋でなければできない後始末をあれこれするために駆け回っていたのだ。
「アヤは?」
「どんな感じ?」
「まだ夢ん中や。男欲しがって手ぇつけられんさかい、数人に相手させとる」
「ありゃりゃ」
「もう駄目だね」
「結構頑丈そうだったのに、壊れちゃったか」
「ま、もうけさせてもらったからいいか。治療費ぐらいわけてあげようね」
同情のかけらもなく、罪悪感すらなく双子は言う。
「それよりさ、次のおもちゃ見つけないと」
「霧子さんはどう?」
完全KOされた霧子は、千尋が街中にいくつか作り上げているアジトのひとつに監禁された。これからさらに仲間、友人、周囲の人間への憎悪を吹きこみ、めちゃくちゃに暴れさせる予定である。
「怪我は何とかなる。頭ん中も、まあ大体こっちの思うようになるやろな」
「よかった」
「楽しみ!」
「そう言えばさ、あの人一体何者なの?」
「結構催眠術にも詳しいしさ、腕だけならボクたちよりずっと上じゃない?」
「催眠術が特技のOLや。それでええやろ」
「あ、ちーちゃん何か隠してる」
「あんたらは知らんでええんや」
「そりゃないよ」
「教えてよ」
「あかん」
「けち」
「じゃ、無理矢理言わせちゃうぞ」
「やれるもんならやってみい」
千尋はにこりともせずにカクテルのグラスを一気に空け、手の甲で口をぬぐった。
「……どしたの?」
「何でそんな怖い顔してるのさ」
「気にくわんことがな……二つ」
「なに?」
「あのでかぶつに逃げられた」
アヤの処女を買った巨漢である。
「あのおっきいひと?」
「……あんたら上から見てたからわからんやろ。ありゃ普通のやつちゃうで。それにどうやら……医者や。
催眠について知ってそうなやつはできるだけ呼ばんようにしとったのに、あんなやつ、どっからまぎれこんできよった……」
千尋は助手の男に、スタンガンを使ってシャワーあがりの巨漢を気絶させ、捕らえておくように言いつけておいたのだが――――巨漢は後ろに目がついているかのように相手の手首をとらえ、ねじってスタンガンを取り落とさせると、手刀で気絶させ、悠々と非常口から出ていってしまったそうだ。
「受付は? 名前書いてあったでしょ?」
すでに下僕と化している男は名も住所もわかっている。アヤを犯して眠らされた男は千尋に深い催眠をかけられ、個人データを何もかも白状させられている。オークション会場に知り合いがいたら教えるようにもしておいた。それで判明した人間を除き、最後に一枚だけ、巨漢の書いたものが残った。
「六三四やて。ムサシ、や。ふざけとる」
「ムサシ……ねえ」
「ホンマはこんな打ち上げなんぞしとらんと、すぐにみんな散らして、調べさせなあかんねんで」
「まあまあ。あんな大金払ってアヤを買ったんだから、ばらすなんてことはしないでしょ。それにあんだけ目立つ人なんだから、そのうち見つかるよ」
「そうそう。処女でなきゃ駄目なんて言ってたし、それならまた買いに来るんじゃない? そんとき仲間にすればいいよ。お医者さんならこっちにとっても大助かりだよ」
「探すにしても、明日からでいいじゃん。今日ぐらい楽しもうよ」
「………………」
千尋は双子の脳天気さに呆れたようにため息をついた。
「それにな、もうひとつある。悠華がおらん」
千尋たちは高陵学園の完全支配を目論んでいる。
そのための手駒として、現在有力なのは四人。
体育教師藤堂美夏。先ほど双子に暗示をかけられて、みなの目の前で「顧問として模範を示すべく」男の上にまたがって腰を振っている。
剣道部主将柏木貴子。彼女は現在、霧子を監禁したアジトで監視にあたっている。同じ場所にアヤ、万里江もいる。強い使命感を持つ彼女に監視役の任務はうってつけだった。
人望厚いお嬢様、小野寺智佳子。今頃は彼女を買った客に誠心誠意奉仕しているはずだ。普段は清楚な彼女は、セックスとなると人が変わったように乱れ狂う。そういう風に調教してある。買い手は骨の髄までとろかされることだろう。
それから問題の、生徒会長有原悠華。
「そういえば……」
「悠華、いなかったね……」
「アホ……気づかんかったんか!」
「昨日はいたよね」
「オークションの準備してる時……いたっけ?」
「昨日の夕方までは確かにおったんや」
「ケータイは?」
「電源切られとる」
「家には? 電話した?」
「今朝、友達と遊ぶって出かけたそうや」
「そんならこっちに来てるはずだよね……」
「どうも、いやな感じやわ……うちに見えんとこで何かが動いとるような…………気にいらん」
千尋は腕を組んだ。
双子も粛然とした。
その耳に、藤堂教師の甲高い悲鳴が飛びこんでくる。見れば面白がる少女たちに両腕をかかえられ、前をはだけられて胸をいじられ、首を大きくのけぞらせて絶頂に達していた。
刺激を受けたか、抱き合い濃厚なキスを交わしているカップルがいる。
双子もねばっこく視線を交わした。
「ま、それはそれとしてさ」
「めんどくさい話は後回し、今は楽しもうよ」
千尋の左右に座り、肩に手を回してくる。
「やめえ」
「まあまあ」
「見てよ、あのお金! すごいよ」
「これも全部ちーちゃんのおかげ。感謝してるよ」
「アヤん時、すごかったね」
「『わたしの目を見ろ!』――シビれたよ」
言いながらじわじわと千尋に体をすりつけてゆく。
「ごめんね、途中でびびっちゃってさ」
「助かったよ」
「ほんとにさ、ちーちゃんと会えてよかったよ」
「ボクたちだけだったら、とてもこんなことできなかったもんね」
「感謝感謝、ちひろさま」
「御礼の快感をどうかお受け取りくださいな」
双子の手四本が一斉に千尋の服のボタンを外し、スカートをめくりはじめた。
「ま、またかい! やめえ!」
「駄目」
「もうこないだみたいにはいかないよ」
双子はハンカチですばやく千尋に猿ぐつわをかますと、もがく千尋の両手両足を押さえこんだ。
たちまち服が、風に散る落葉みたいにはがれてゆく。
双子は千尋の耳を舐め、頬にキスし、首筋から鎖骨、胸へと下と指を這わせていった。
「ん〜っ! んっ、んんっ、うんっ、むううっ!」
千尋はもがく。大きな目がさらに見開かれて、鼻からふいごのような荒い息音を鳴らした。
「……なんちゃって」
「冗談だよ、冗談」
双子はにんまりとし、猿ぐつわをほどいて身を離した。
千尋は青ざめたままぜいぜいと喉を鳴らした。
「や……やめてや……ホンマ、頼むわ……」
「いやならやんないけどさ」
「ほしくなったら言ってね。いつでもイかせてあげるからさ」
「いらんわ、アホ!」
「まあまあ」
「それより、今日はもうひとつ、たくらんでることがあるんだ」
双子の片方が――やっぱり文月か葉月かわからない――立ち上がり、奥の方へ消えていった。
「……何する気や?」
「もうおかしなことしないから、目つぶっててくれる?」
「…………ホンマやろな」
「大丈夫だって。信じてよ」
千尋は不承不承目を閉じた。
がらがらとワゴンが入ってくる音がした。
「みんな、いい? 配置について」
双子がてきぱきと指示を下し、どうやらみんな壁際に寄ったようだ。何やらごそごそばさばさ音もする。
「それじゃ、ちーちゃん、一、二、三で目え開けて」
「一、二の、三!」
眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに振り返った千尋の目が、真ん丸になった。
パン、パン、パン!
クラッカーが次々と鳴った。
銀のワゴンの上に置かれた、大きなケーキ。
壁際の女の子たちが手分けして横長の幕を広げている。
『ちーちゃん お誕生日おめでとう』とあった。
「………………」
「驚いた?」
「悪いとは思ったけどさ、この間生徒手帳見ちゃって」
「誕生日、今日なんでしょ?」
「なんで言ってくれなかったのさ。水くさいよ」
「それでさ、打ち上げも兼ねて、ちーちゃんの誕生日パーティーやろうって決めてたんだ」
「さ、前へ前へ」
十七本の蝋燭に火がつけられた。
暗くなった中に、光がゆらめく。
「Happy birthday to You♪」
「Happy birthday to You♪」
誰からともなく合唱がはじまる。
千尋は炎を前に、戸惑うように左右を振り向いた。
双子が笑顔でうながした。
「ほら、一気に」
「ふうっと」
千尋はオークション会場でパニックを瞬時に鎮めた妖人と同じ人物と思えないくらいに狼狽し、どう反応していいかわからないきょとんとした顔のまま、場の勢いにのせられてほっぺたをぷくっとふくらませた。
漂う煙のにおい。
暗闇の中に、拍手。
「「おめでとーっ!」」
声を合わせてみんなが言った。
明かりがついた。
千尋の顔は――――
「さあ、パーティ、こっからが本番だよ!」
「みんな、ぱーっとやろう、ぱーっと!」
「ちーちゃん、これこれ、とっときの白ワイン!」
「この時のために用意させといたんだよ! 甘口だから大丈夫!」
手に持たせたグラスに、とくとくとくと音を立てて注ぐ。色濃い照明が透けて、黄金色にきらめき、甘い香りが静かにたちのぼる。
「ちーちゃん、こう言われるの嫌いみたいだけどさ」
「ボクたちの正直な気持ち」
「好きだよ」
「気に入ってる。これからもよろしくね」
双子もグラスを持ち、千尋のグラスにかちんと打ち合わせた。
飲み干す。
千尋は動かない。
「…………」
「ちー……ちゃん……?」
うつむいたままの千尋を双子はのぞきこんだ。
「……ひっ!」
グラスがふたつ、そろって落ちた。
千尋は――――。
その形相をたとえるなら――――。
口は牙を剥くように異様に引きつり、
目には尋常ではない力がこもり、
その瞳は、あの、鮮血の色……赤く染まって。
その貌(かお)は、まるで。
鬼、だった……。
・
「うれしいよ」
千尋は言った。
あの――――信じられないほどに低い声で。
「誕生パーティか。とってもうれしいな」
グラスが宙を飛んだ。
天井で粉々に砕け散り、優雅な香りのしずくとガラスの破片をばらまいた。
リン!
鈴が、鋭く鳴った――――
「みんな」
赤い瞳が見回した。
「魂、もらうよ」
双子は思わず声をあげた。それは、双子以外の全員、いついかなる時でもそう言われたら即座に千尋の奴隷となる、最も強力な後催眠のキーワード。
千尋が何をする気なのかはわからない。しかし、とてつもない悪寒が二人の背筋を駆け抜けた。
千尋が振り向き、二人を指さした。
「捕まえて」
場の全員が飛びかかってきた。
「全部脱がせて、そこに寝かせて」
「きゃああ!」
「何すんの! やめてえ!」
しかし襲いかかる手に一切の容赦はなく、双子の服はずたずたに引き裂かれ、すぐに全裸に剥かれて床に大の字に押さえつけられた。
「ちーちゃん!」
「何のつもり、これ!」
千尋は手を伸ばし、ケーキを、素手で鷲掴みにした。
「あたしの気持ち」
赤い目のまま、クリームとスポンジのぐちゃぐちゃの混合物を、双子の一方の乳房に押しつけ、セメントを塗るみたいにのばす。
「感謝の気持ち」
片割れにも同じことを。
「ちー……ちゃん……」
「おかしいよ…………どうしちゃったのさ……!」
「うるさい、嘘つき」
千尋は両手でむしったケーキを、片方の顔に押しつけた。
鼻と口を塞がれ、痙攣するのを冷酷にみやり、笑う。
口の中のケーキを何とか飲みこもうとして、気管につまってむせかえり、背中を反らして苦悶した。げぼっと音がなり、唾液まみれの砂糖のかたまりが吐き出された。ぜえぜえ息をするのを放っておいて、悲鳴をあげるもう片方にもやはり同じことをする。
「だからあたしもホントのこと言うよ。うれしいよ。とってもとっても、うれしいよ」
千尋は繰り返した。
声だけは弾んで。
しかしその表情には笑顔のかけらもない。
「やめてえ!」
「助けて……許して!」
哀願を聞く素振りも見せず、自動人形のように、ひたすらに甘い泥を双子の裸身に塗りつけてゆく。
生クリームで目をふさぐ。
「ありがとう」
耳にイチゴを押しこむ。強引に詰めこむので潰れて汁が流れ出る。
「大好きだよ」
“ちひろちゃんお誕生日おめでとう”とあるチョコレートの板を割り、広げた秘所にねじこむ。
「あなたたちへ、日頃の感謝をこめて」
スポンジ部分を握り固めて、小さく丸めたものを、アナルにひとつ、またひとつと詰めこんだ。双子は腰をめちゃくちゃに痙攣させた。
陰惨なデコレーションは続いた。
ワゴンの上からケーキがなくなり、床の上にふたつの人型の甘いかたまりができあがった。
手足は自由になっていたが、二人にはもはや身動きする力が残されていない。
リン、と、また鈴が鳴った。
目をふさがれ、かろうじて物音だけは伝わる耳の奥に、その音は容赦なく入りこんできた。
「大好きな、あたしの“大親友”、聞いて」
それは、双子用の後催眠のキーワード。
苦痛と衝撃から真っ白になっていた双子の脳髄は、楽になれる合図に飛びつき、理性をみずから放逐した。
「これからあなたたちの体をきれいにしてあげる。だんだんきれいになっていくと、あなたたちもとってもすっきりした気分になっていって、すごく気持ちよくなる。全部きれいになったら、きれいにしてくれたみんなに、感謝の気持ちをこめて、最高に気持ちよくなるようにしてやるんだ。いいね。それが終わって、全員が満足したら、とてもいい気分で、深く眠る」
鈴が鳴った。
その場の全員がみずから服を脱ぐ。
もう十日も何も食べていないという暗示を与えられ、飢えきったぎらぎらした目つきで、双子の体に群がった。
藤堂美夏が、教え子を殴りつけて追い払い、広げた片方のアナルに吸いついた。後ろからその髪を引っ張って、別の少女が秘裂のチョコレートにかじりついた。横から別の顔が迫ってくると、奪われるまいと首を振り回して威嚇する。チョコと一緒に陰毛が食いちぎられた。歯の間から突きだす。
クリームと砂糖とチョコレートと果物と、甘ったるい阿鼻叫喚の中からやがて、なまめいた声があがりはじめた。舐められ、噛まれ、血を流しながら、双子が快楽に悶えているのだった。
「そう、そうだよ、これでいいんだ……あたしのこと好きだなんていう嘘つきは、こうしてやる…………許さない……」
明らかに正気でない風につぶやき、千尋は影とともに外へ出ていった。
開いたドアの向こうからは、激しい雨の音が聞こえていた。
※
千尋は自分の住まいで、闇の中にうずくまっていた。
玄関チャイムが鳴った。
千尋は動かない。
数度鳴ったが、身を起こそうともしなかった。
ドアが叩かれた。
「いるんだろ? 千尋!」
「!」
弾かれたように起き上がった。
手に鈴を握り、暗闇の中を玄関へ走る。
「おい!」
鍵を回す。
待ちかねたように向こうからドアが開く。
千尋はいきなり鈴を突きだし、ひとつ鳴らした。
「……“お姫さま”、よう来たな」
「………………」
ドアノブを握ったままの格好で、カットソーにジーンズ姿、しずくをぽたぽた垂らす傘を片手に提げたアヤが、催眠状態に落ちて凍りついていた。
招き入れ、玄関に立たせたまま、千尋は“本気の声”で暗示を与えた。
「ここはあたしの家。高陵学園二年一組、女子高生、迫水千尋の部屋。わかるね。高校生が暮らしてる部屋。あなたにはここがそういう部屋に見える。色々なものが見える。何一つおかしなものはない。あなたの大好きなちーちゃんの部屋らしく見える。わかったね。じゃあ、三つ数えたら目を開けて。頭ははっきりするけど、あなたはずっと“お姫さま”のままでいる」
千尋は電気をつけ、三つ数えた。アヤは目を開けた。
「よ、よお……」
「……どないしたんや、こないな時間に」
千尋は甲高い方の声で、いかにも眠そうに言った。ひとつあくびをした。
アヤはすまなさそうに、
「ごめんな…………」
「それはええんやけど……なんで、ここに?」
色情狂状態のアヤは、アジトで男たちに犯され続けているはずだった。
「……オレ、どうしても、お前に会いたくて……会わなきゃならない用があって…………」
自ら抜け出してきたらしい。千尋の眉が不審げに寄った。あれほどのセックス地獄から舞い戻ってくるとは、どのような用件だというのだろう?
「迷惑ならすぐに帰るけどさ……」
「上がりい」
背を向けて誘うと、アヤはきょろきょろしながら靴を脱いだ。
「何見とんのや」
「いや…………お前、人んちのこと、一人暮らしがどうだこうだ散々言ったくせに、何だよ、お前だって一人暮らししてるんじゃねえか」
「アヤさんよりはましなはずやで」
「似たよーなもんだろ。なんだよ、この汚い台所」
「しゃあないやろ、掃除しとうても、うちじゃ上の方に手え届かへんねん」
「じゃあ今度やってやるよ」
「頼むわ」
室内に入るとアヤはさらに好奇心を発揮した。
「はあ…………なんというか、お前らしいというか……」
「どう見えるん?」
「もっと少女趣味……ってのか? ふりふりの、きらきらの、ピンクの黄色の、ぬいぐるみだのお人形だのが山盛りの、女の子でございますーって感じかなと思ってたんだけどさ、案外散らかってるんだな。男の部屋ってこんな感じなんじゃないか?」
「やかまし」
「ほめてんだぜ。オレ、こういう感じの方が落ちつくな」
「ほめられた気ぃせんわ」
「へへ」
「ところでアヤさん、体、大丈夫か?」
「体?」
アヤはきょとんとして、
「別に…………」
「つくづく頑丈なんやな」
「は?」
「何でもない」
「そーいや……初めて使ってみたんだけど、アソコにモノが入ってるってのは変な感じだ、やっぱ」
「何日目や?」
「夕方はじまった。面倒だよな、女って」
アヤは笑って下腹に手をやった。
処女を失い、手ひどい陵辱を受けて、アヤの膣はひどい有様なのだが、生理用品を使っているという風に暗示を与えられて、痛みは全部その感触に置き換えられている。
「……んで、用ってなんや」
「あ、ああ、それが…………」
アヤは珍しくもじもじした。
「もう日が変わっちまって…………一日遅れになってすまねえけど…………」
丁寧にラッピングされ、黄色のリボンをつけられた、四角い箱が差し出された。
「誕生日だってな。おめでとう」
千尋の笑顔が凍った。
「あんたもか」
「え?」
危険な響きに、アヤはまったく気が付いた様子はない。
「……開けるで」
「ああ」
包装を解かれる間、アヤは気恥ずかしそうにそっぽを向いていた。
千尋はぽかんと口をひらいた。
「…………何や、これ?」
やわらかいクリーム色の箱。小鳥や蝶の可愛らしい絵柄がいくつかついている。
十二色セットのクレヨン。
「誕生日プレゼント……これが?」
「ああ」
アヤは歯を見せた。
「お前に似合いそうでさ、こういうの」
「……あのなあ」
ため息。
「普通、“ぷれぜんと”ゆうたら、もうちょいまともなもん買うんとちゃうか? 何や、クレヨンて。うちをいくつやと思うとる、ああ?」
「………………」
「幼稚園児みたいに見えるかもしれへんけどな、うちやて立派なこーこーせーなんや! わかっとるんか!」
千尋が声を荒げると、途端にアヤは蒼白になった。
「このバカ! もうお前なんか知らんわ! 帰れ帰れ!」
「…………ひ!」
アヤはがたがたと震えだし、その場に土下座した。
今のアヤは千尋に全面的に依存するように人格を根本から変えられている。千尋に見放されるかもしれないと感じただけで、即座に一切の価値判断が停止して、千尋の歓心をかうためなら何でもする下僕と化す。床に鼻をすりつけんばかりに低頭するアヤは、本当に涙を流していた。
「ご、ごめん、ごめんよ、そんなに怒るなんて思わなかったから……ちゃんとしたもの買い直すから…………お願い、怒らないで……」
弱々しくうめく。
クレヨンに伸びてきたアヤの手を、千尋はぴしりと叩いた。
「まあ待ちい。どういうつもりでこれ買うた? それ次第で許してやらんこともないで」
人差し指をアヤの顎にかけ、くいと上向かせる。
濡れた眼の間、眉間を突いた。
「そら、もうあんたは絶対に嘘をつくことができん。頭んなかのホンマの思いが全部声になって出てくる。ええな」
アヤは涙目でうなずき、話し始めた。
「この間……みんなで買い物行っただろ……?」
オークションの下準備で、文月葉月、智佳子らと一緒に、ランジェリーショップをはじめ、あちこち回った。
「その時にさ……文房具んとこで……」
『あ…………』
千尋が小さな声を上げた。
ちょっとでも興味を引かれるとすぐに手に取り、触れてみないと気がすまぬようであった千尋が、その時だけ何もせず、ただじっと立ちすくんで見つめていた。
その視線の先に、クレヨンがあった。
「何でクレヨンなんや? 普通ケーキとか、光りもんとか、そういうもんやろ、誕生日プレゼントっつったら」
「あの時の、お前の横顔…………何だか、すごく寂しそうに見えたんだ……。
それ思い出したら、どうしてもプレゼントしてやりたくなって……誕生日が今日だって文月に聞いたから…………それで……」
「――――」
千尋は無表情に言った。
「眠れ」
即座にアヤのまぶたは降りた。
「三つで眠る。深あく眠る。朝、目が醒めたら、あんたはうちのベッドで寝てる。うちのベッドで、うちの部屋で、気持ちよう目が醒める。ええな。ほな、一、二、三!」
アヤはかくんと首を折り、床に長々と横たわった。
※
「ふん」
千尋はアヤを蹴飛ばし、仰向けにさせた。
安らかに寝息をたてるその横に座り、じっと寝顔を見つめる。
「なにも知らないくせに、何が寂しそうだ。つくづく勝手なこと言ってくれるよ、あんた」
部屋を見回す。
「きちんとしてそうで、案外散らかってる、ねえ。つまりあんたはあたしをそういう風に見てるってことだよね」
アヤの視覚にうつっていたのは、アヤが想像するところの千尋の部屋だ。
では実際はどうだというのか。
かつて千尋は、ベッドとテレビ、あと必要最小限のものがいくつかあるだけのアヤの部屋を評して、何もないと言った。
なのに、そう言った千尋の部屋には。
それ以上に――――いや、それ「以下」に。
何もなかった。
空っぽの部屋に入居して、天井に安い蛍光灯をつけた。
それだけ。
台所には、汚れ物どころか食器のひとつもない。
ガスコンロも、冷蔵庫もない。
室内にも家具は何もない。
ベッドどころか、床に毛布が一枚丸められているだけだ。
窓には分厚い無地のカーテン。二枚重ねで、激しい雨の音も遮断されて、遠く聞こえる。
テレビはなく、電話もない。
これはアヤの言葉通り、乱雑に散らかった学校の教科書類。本棚も机もなく、その日必要なものをそのごちゃごちゃした堆積の中からあさって鞄につめこんでいくのだろう。
そこら中に転がる空のペットボトル。ほとんどがミネラルウォーター。コップが見当たらないところからすると、じかに飲んでいるらしい。飲食物はそれだけだ。
押入の戸は開けっぱなし。中には高陵学園の制服が数着。アイロンがけも洗濯もせず、汚れたら捨てているようだ。同じく汚れた下着の山。生理の血がついているものさえある。
髪留めの類がいくつか、しまう引き出しもなくむきだしで置かれている。その傍らに抜け毛のからみついたブラシ。化粧品など皆無、鏡すらない。
いや、鏡はある。部屋の角に、なぜか逆向きに、姿見が置いてある。必要な時に向きを変えて使うようだが……なぜそんな風に?
部屋の様子からこの部屋の住人像を想像するとすれば――――。
日常生活に一切の関心を持たず、心を激しく病んでいる……としか思えない。
まともな感覚の人間の住居ではなかった。
そしてまた。
アヤを眠らせた途端に。
千尋の顔も、変わった。
それまでつけていた仮面を外したように。
豊かだった表情が、一切変化しなくなって。
ありとあらゆる感情がことごとく抜け落ちて。
皮膚はつやを失い、目からは生気が失せて。
あれほど生き生きと活動していた千尋が、瞬時に、人生の悲哀をなめつくした老婆のように、
――――枯れた。
のろのろとクレヨンの箱を膝に置く。
「アホ…………」
きれぎれにつぶやいた。その声もやはり死人のようにかすれている。
「誰が、こないなもん、喜ぶか……」
蓋を開け、きちんと並んだ十二色に目を落とす。
「…………ガキちゃうわ、嬉しいわけないやろ……」
放り出す。壁に当たってばらばらこぼれる。
がくんと首を垂らした。
髪留めを外しているので、結構長い髪がばらばら落ちかかり、すだれのようになる。
その姿勢のまま、膝をずらして、ゆっくりと壁に近づいていった。
床からクレヨンを拾い上げる。
茶。
「…………お絵かきなんか……誰が……するか……」
恐らく入居したときからまったく色あせていないであろう白い壁紙に。
横一文字に、線を引いた。
続いて斜め線。
丸。四角。三角。めちゃくちゃに線がはしりだす。
その間ずっと首を折ったまま。
すさまじい勢いで手が動く。
クレヨンが砕けた。
すだれ髪の間で、ぎろりと眼球が動く。
「……アホ……」
機械的に、別の色のクレヨンを拾う。
しばらくして。
壁面は色とりどりの落書きにびっしり埋めつくされた。
千尋は顔こそあげたものの、その目は自分が描いたものなど見もせずに、どこか遠くを見つめて、まったく動かない。腕だけが、右も左も別々に、独立した生き物のように激しく動いている。
右手は緑のクレヨンを握っていた。
短い縦線を次から次へと無数に描いている。
その上の方に、赤い丸が描いてあった。
左手が茶色のクレヨンのかけらを拾い、指で挽きつぶし、なすりつけながら、まるまるとしたかたまりを描いている。下へ四本、上へ一本の突起。――動物のように見えないこともない。
すると、緑は草むらで、赤丸は太陽だろうか。
緑のクレヨンを捨て、青を拾った。
縦長の楕円を書き、あれこれつけ加える。人の顔だ。
同じようなものがそこら中に描かれている。数十、もしかすると百以上も。オレンジ、黄色、紫、あらゆる色で。
どの顔も歪んでいる。眉はつりあがり、目も厳しく、口は大抵への字、あるいは開いた中にぎざぎざの牙が並び、見るからに恐ろしく、笑顔はひとつもない。
青い顔を描き終えると、その隣にまったく同じものを並べて描いた。
二つの顔はどちらも目は小さな丸、鼻と口は直線で、案山子みたいだった。
他のものと離れた所に、大きな顔を描いた。
輪郭だけで、目も口もない。
いや、目にあたるところを、左手に握った黒でぐしゃぐしゃに塗りつぶした。
見ようによっては、サングラスみたいに見えないこともなかった。
右手がさらに新しい顔を描いた。
これも大きい。
黒のクレヨンでごしごしと髪をつけ加えてゆく。
長い。
丁度、アヤと同じくらい。
目は山なりの曲線、口も下に湾曲したやわらかな線。
――――それひとつだけが、笑顔だった。
ほとんどのクレヨンがなくなる。
最後に一本だけ残った……残していたのかもしれない、赤のクレヨンを拾った。
「……寂しくない……」
間違ったテスト問題にチェックをつけるように、無数に描かれた顔のひとつに赤のバツ印をつける。
「なんともない……」
となりの顔に、ナイフで斬りつけるように斜めの線を。
「いらない……」
横線がいくつもの顔をまとめて切り裂く。
「誰もいらない!」
次から次へと赤線を引く。クレヨンはたちまちすり減って、巻紙がかさかさ壁にこすれる音がする。
三本指で持っていたクレヨンを、さらに幼児にかえったように拳で握り、ものすごい力をこめて、二つ並んだ同じ顔を塗りつぶした。
次にサングラスの顔を、それ以上に激しくめちゃくちゃに塗りはじめた。
途中でクレヨンは砕けた。いくつかの赤い破片だけが手に残る。
千尋の目が、すだれ髪の下からくいと持ち上がった。
見つめる先には、髪の長い、笑顔があった。
「…………あ…………」
からからになってひびわれた唇から、悲痛なうめきがもれた。
手が鉤爪になってそれへ伸び、寸前で止まってぶるぶる震える。
赤い細片がいくつもこぼれおちた。
「――――!」
人間と思われない声を千尋は放つと、手を壁に叩きつけた。広げた掌の下で、尋常でない力で押しつけられ、ぼりぼりとクレヨンの破片が潰れていった。
腕が右に左に動いた。
笑顔は、真っ赤なしみに汚された。
左手が、まだ床に残っていた黄色のかけらを拾った。
右手とは関係なく動いて、ぎざぎざの線で、
“ありがと”と書いた。
それを即座に右手が真っ赤に塗り潰した。
入念に、徹底的に。
「ひ……ひひ…………はは…………」
千尋は笑った。満足そうな顔をしようとして、中に眠る何かが邪魔してどうやってもそうできず、表情筋のいたるところが激しく引きつり、声は高く華やかなくせに微塵の明るさもない、奇怪きわまりない狂笑だった。
「ひひひ…………は……ふふ……」
開いた両手の、血濡れたような紅蓮の色合いを、泣き笑いの顔で見る。
苦悩の果てに戻れぬ一線を越えて安堵を得た殺人者ならば、多少なりともこれに近い顔をするだろうか。
「これでええんや、これで…………ははは……」
狂った笑顔のまま、アヤを見た。
「………………」
にじりより、上体を起こして、上着を脱がせた。ブラジャーも外し、豊かな乳房を露出させた。
小さな手でもみしだき、白い肌を赤く汚す。
それから床の上の毛布を引きずり寄せた。
アヤの隣に横たわる。
アヤの腕を取り、両手で握り、ささやかな己の乳房の間にかき抱く。
その感触を愛おしむように、唇が、ほんの少しだけ、安らかにほころんだ。
「…………わかっとる……」
小さな、甲高く、それでいて“本気”の声のように落ちついた――――そして悲しげな、これまで聞いたどんなものとも違う声が、頭からすっぽりとかぶった毛布の下から、かすかに漏れ出てきた。
「わかっとるわ、おっちゃん…………うち、ちゃんと言いつけ守っとるで。そやからそないな顔せんといて……。
大丈夫や…………誰にも心は許してへん。みんな嘘つきばかりや。おっちゃんの言った通りだったで。
そやから、言われた通り、あれからずっと頑張っとる。おっちゃんのためにも、絶対に負けんさかい、安心してや……」
毛布が震える。
聞こえてきたのは――――嗚咽。
「だから…………堪忍してや…………。
うち、疲れたわ……。
お願いや、おっちゃん、今日だけや、今だけ………………こいつには明日、もっともっとひどいことしたる…………だから……」
関西弁が消え、
「……ちょっとだけ、休ませて……お願い……」
無心に横たわる長身のアヤ。
横向きになったその豊かな胸に顔を埋めて。
千尋は小さな体をいっそう縮め、白い柔肌に身を寄せて、この場にはいない誰かにひたすらに詫びながら、滂沱と涙を流し、やがて動かなくなった。
分厚いカーテンを通してしみこんでくる雨の音が、荒廃した室内をゆっくりと包みこんでいった。