蜘蛛のノクターン

外伝 「トリオ・ソナタの章」 前編

作:おくとぱす さん


              





 誰かに呼ばれたような気がして、目を開ける。

 頭、重い。
 まだ眠いよう。もっと寝かせてよ。

 ………………。
 ……あれ…………。

 ここ、どこだろ。
 見たことのない天井。がらんとした部屋。自分のじゃないベッド。

「起きたか」

 低くてぶっきらぼうだけど、間違いない、女の子の声がした。
 ベッドのかたわらに影がある。
 髪の長い、背の高いシルエット。ジーンズにタンクトップ姿。飾り気は全然ないんだけど、影がそのまま形をとったみたいに、どこかしら黒々とした印象がある。
 誰かすぐにわかった。
 あたしの親友。

 アヤ。

 にっこりする。きれいなもの見た時って、自然とそうなるよね。

「うわ〜い、アヤだ〜」
「アヤじゃねえ。気分どうだ?」
「ん? いいよ。さっぱり」

 そりゃそうだ。起き抜け一番に見たのがアヤなんて、こんなラッキーそうはない。今日は何かいいことあるぞ。
 この子、水南倉みなくら綾乃って立派な名前があるんだけど、めんどくさいからいっつもアヤ。あたしも名前は本城万里江だけど、アヤはマリって呼ぶ。そこはそれ、お互い様。

「ん〜〜っ」
 のびをする。
 布団からこぼれるおっぱい。
 あれ? あたし、裸だ。ピンクのパンツ一枚きり。
「ありゃ……ちょっと、なんで裸なの?」
 布団を肩まで引き上げると、アヤは焦ったように言った。
「お、おめーが自分で脱いだんだろ」
「あたしが?」

 やっと頭がはっきりしてくる。
 きょろきょろ。あらためて見回す。
 絨毯とベッドだけの、本当に何もない部屋。

「……ねえアヤ、ここ、どこ?」
「オレの部屋」
 そうだっけ?

 アヤは家庭の事情ってやつで、高校生のくせに一人暮らししてる。
 だけど、アヤの部屋って、がらんとしてはいるけど、なんちゅーかその、生活感があって、アヤの“巣”って感じがすごくしてたような……。
 そもそもこんな壁、こんな絨毯じゃなかったし……ベッドの場所だって違うような気が。

「ここは、オレの部屋だぞ。何言ってやがんだ」
 強く言われる。
 それで、思いだした

「あ……そうかそうか、そうだよね」
 うんうん、あたしが間違ってる。ここはアヤの部屋。やっぱ寝起きはダメだねえ。

 窓の外はどんよりした曇り空。今は梅雨どき、仕方ない。

「……あれ、もしかして、今さ、朝じゃなくて……夕方?」
「5時過ぎてる」
「ありゃりゃ? なんであたしがアヤんちでお昼寝してるわけ? しかも裸で……」
「おめーが押しかけてきたんだろ」
「そうだっけ」
「そうだよ。酒ぶら下げて」
「え……?」
 そんなの…………おぼえてないぞ?
「ほれ、あそこ。山になってるだろ。あんなに飲んだんだぞ」
 指さされる。
 見ると…………うん、確かに。ビールやらチューハイやらの空き缶がごろごろ。
「な?」
「うん…………」
 あんなに飲んだのかあ。
 それじゃ、頭が重たいのも素っ裸で寝ちゃったのも、記憶がおかしいのも当然か。
 納得。

 それより、アヤだ。

「…………な、なんだよ」
 あたしにうっとり見つめられて、アヤが戸惑った顔をする。
 ああ、こんな近くでアヤを見ていられるなんて、幸せだよ、あたし。



 ――――この子は、あたし達が通っているお嬢様学校でただ一人の…………“不良”だ。
 見た目が派手だとか遊んでいるとかいうのなら、うちの学校にだっていっぱいいる。下級生いじめてるやつ、男と夜な夜な遊び回ってるやつ。ヤバいもの校内でこっそり売ってるやつだっている。
 そういう、先生とかPTAとかが目くじら立てそうなことやってる連中とは、アヤは全然違うんだ。

 普通の……というのも変な言い方だけど……普通の不良って、目立ちたいとか、楽しいことしたいとか、わかりやすい理由でそうしてるのがほとんど。だから、彼氏ができたら大抵ころっと男の好みに変えちゃうし、そうでない、硬派な生き様がどうたらこうたら言ってる子だって、誰も注目してくれなくなったらやっぱりそのやり方やめちゃう。反抗期ってのもある。親や先生に反発し、叱られることで自分を確認するんだって。そんなのかっこわるい。それで人に迷惑かけてんじゃねえよってあたしは思う。
 だけど、アヤは。
 なんて言うんだろ……気持ちのありようというか、考え方というか……う〜ん、違うな――――
 そう、“存在”…………。
 存在そのものが、異質。

 暴れるわけじゃない。目立とうともしない。普通の制服普通の格好。目立つどころか、他人と関わろうとせず、静かに生きていこうとしてる。
 でも周囲と全然違っているから、何もしていなくても浮き上がっちゃう。ありふれた比喩だけど、羊と狼みたいなもの。羊の群れのなかに狼が混じってたら、狼がどんなにおとなしくしてても、すごく目立っちゃうでしょ。アヤって要するにそういう子。羊が狼の格好していきがってるんじゃなくて、本当の狼。存在のあり方自体が“不良”。
 だから……不良やってるやつって大体似たようなツレ作ってるものだけど、アヤの周りには誰もいない。アヤは仲間を求めて不良やってるんじゃないから。
 無人島でも、山のてっぺんでも宇宙でも、辺りに人っ子ひとりいなくても、アヤはアヤのままだろう。
 あたしは、この子のそういうとこに惹かれてる。

 ――――うん、そう…………気に入ってる、なんて程度じゃない。惹かれてる。それ以外にあたしの気分を現す言葉はない。

 いや、もうひとつだけあった。

 恋してる

 女同士だけど、そんなの関係ない。きれいで、すごくて、初めて会った時に“これだ”と思って、目が離せなくなって、寝ても醒めてもそのことばかり考えるようになっちゃう。そういう風になるのなら、相手がどんなものであってもそれは恋。女の子同士でも、動物相手でも、草木でも風でも、空のお日様にだって恋することはできるんだ。

 中学生になるかならないかぐらいの頃、周囲の女の子は進んだ恋愛マンガとかドラマとかできゃあきゃあ盛り上がってた。でもあたしは男の子が読むような、探検家のドキュメンタリーに夢中になってた。それで変人扱いされたけど――――どうしてかよくわからなかった。あたしにとっては探検家の話も恋愛ドラマも同じ次元のものだったから。
 探検家ってのは、言ってみれば、秘境に、山に、南極に、あるいは学問に恋しちゃった人たちだよね。スコット探検隊の話はマジ泣きしちゃった。南極探検に行って、荷物運びの馬は全滅、南極点到達も別の探検家に先を越され、がっくり来ながらの帰り道、自分たちも死にかけてるってのにめちゃくちゃ重い岩石標本引っぱって運び続けて、それ持ったまま全滅しちゃったんだ。すごい恋だよ、これ。一人の男をめぐって愛がどうだこうだと言ってるだけのドラマより、こっちの方がずっと重くて深い。今でもそう思ってる。

 んで、あたしは今、そういう人たちとおんなじ感じで、この子――――アヤに恋してる。
 アヤのこと、気になって仕方がない。
 何でも知りたい。ずっと見ていたい。夢中。

 あたしのものにしたい――――?
 う〜ん、それは…………どうかな。

 世界で一番高い山、チョモランマだっけ、あの山に取りつかれて、登りたくて気も狂いそうになってる人ってのは沢山いるだろうけど、あれを自分のものに、自分の所有物にしたいって人はあんまりいないんじゃないかな。ま、そういうこと。

 そもそも、あたしは無節操で、女の子同士でも構わないって思ってるけど、アヤはそうじゃないだろうし。

 それに、自分のものにって、この場合エッチなことの意味になるよね。
 そっちにはあんまり興味ないんだ。あたしまだバージンだし。
 エッチに興味ないわけじゃないし、あたしって結構いい女だからさ、その気になれば相手も見つけられるとは思うんだけど……その気にならないんだから仕方ない。
 今のあたしはアヤ一筋。

 アヤより素敵な男が出てきたら話は別だけど、まず無理だろうなあ。
 まず、この子、背が高い。身長174センチ。体重……ヒミツ。一応女の子だからね。結構重いよ、とだけ。でも全然そうは見えない。引き締まってるんだ。動きもしなやか。ケンカする時なんか最高。ヘタクソなやつらがドタバタ手足動かしてる中で一人だけ世界レベルのダンスしてるみたい。見とれちゃう。しっかり筋肉ついてて、抱きついたら弾力あるんだよ。女の子のやわらかさと男の子のたくましさの両方兼ね備えてる感じ。だからあたしはアヤに抱きつくのが大好きだったりする。
 胸。というかスタイル全般。
 これはもう抜群。
 バストは92、Dカップ。92・58・93って、反則もののナイスバディ。脚の長さも外人並み。あたしだって胸は最近少し大きくなったけど、それでも82のCで、ウェストは……うう、だんだん悲しくなってきた。
 髪は長くて、ストレート。身を飾ることに興味ないから染めもしない、手入れだってろくにしてない。だけど逆にそのせいか、今時珍しいくらいにつやつやしてる。お風呂上がりなんかだともうたまらん。握ったら手の中でうねうね動き出しそう。体の一部、栄養たっぷり、生きてる〜って感じがもろにする。あたしの髪もそれなりに長いんだけど、こっちも比べるだけ空しい。
 んで、顔。
 う〜〜〜〜っ。
「きれい」以外に何言えばいいのかわからん。
 素のままでそこらへんのグラビアモデルよりよっぽど整ってる。
 どこもかしこもいいんだけど、特に目だ。目尻がきゅっと切れ上がってて、まつげが長い。本当にこんな格好いい目をした子がいるんだって、初めて見た時に感動しちゃったもんだ。
 そして一番大事な、瞳。
 アヤの瞳。
 これが、アヤの中でもっともアヤらしい所。
 顔かたちだけなら、うちの学校にもこのくらい整ってる子はいる。
 でもね、この瞳、どんな宝石よりずっと深い光をたたえているふたつの瞳の綺麗さだけは、誰もかなわない。
 見てるだけで吸いこまれそうになる。
 どれだけ見ても、見飽きるってことがない。
 今もあたしはでれでれになってる。

 アヤって、これだけの素材持ってるくせに、いつも眠そうにしてる。姿勢も猫背気味で、着てる制服もよれよれ、ちょっとだけしか持ってない私服は飾り気のかけらもなしで、折角の美人が全然活きてない。
 でも、ケンカの時とか、そうじゃなくてもマジになる時だけは、背筋ぴんと伸ばす。
 マジモードに入ってぴしっとなったアヤは、お目々はきりっとなって、全身に緊張が充ち満ちた感じになって、これがもう…………なんていったらいいかわからないくらいに格好いい。どんな男も相手にならん。そういうアヤ見るときって、あたしの目、絶対ハートマークになってると思う。

 中学生の時、アヤはあたしのクラスに転入してきた。その時に一瞬で恋に落ちた。
 それからもう二年。
 あたしは飽きっぽいたちで、興味の対象が次から次へと変わっちゃうんだけど、この想いだけはずっと変わってない。
 これからも多分変わらないだろう。

 いつまでも、何があっても、あんたのこと好きだよ、アヤ。

 ――――あたしのこういう熱い想い、アヤは知らない。
 あたしも知らせるつもりなんてない。知られたくもない。どうしてかって言われると困るけど…………知られたら、何か大切なものが壊れちゃう気がする。
 あたしはどんなことでもアヤに話してる。アヤになら何でも話せる。
 でもこの恋心は、たったひとつ、アヤには秘密にしてること。
 あたしの宝石。大事な大事な宝物。

 今、こうしてアヤを間近で見ていられる。気を許してくれて、一緒にいられる。あたしにしか見せない笑顔を見せてくれる。
 それで十分満たされる。
 こうしているだけで、あたしの胸の中の宝石は静かに豊かな光を放つ。
 この幸せがずっと続くといい。

「ふふっ」
 小さく笑う。
 アヤも困ったような顔で、でも笑顔を返してくれる。
「なんだよ、ほんとに」
 アヤは知らない。あたしの今の微笑みに、どれだけの意味がこめられているのかを。
 それでいい。

 アヤがアヤのままでいてくれれば、それ以上あたしは何も望まない。





              





「うっふ〜ん♪」
 布団を下ろし、両手で髪をかき上げ胸を突き出し、色っぽいポーズをとってみる。
「そそる?」
「バカ」
 アヤはそっぽを向いて床に座りこんでしまった。
 あ、なんか、その格好、可愛いっ!
 裸のまんまベッドを降りた。
 後ろからがばっとしがみつく。ふっふっふ、その姿勢では逃げられまい!
「アヤーっ!」
「うわあ!」
 ほっぺたすりすり。
 あれ…………?

「こ、こら、やめろ!」
「………………」
 いつもだったらゲンコツでぶったたかれるまで離れてやらないところだけど――――素直に身を引いた。

「ねえ、アヤ、あんた…………お化粧……してる?」
「はあ? なんでオレが」
「だよねえ……」
 でも――――アヤの肌が、見た目といいすりすりした頬ざわりといい…………違う。
 すごくつやつやしてる。元々きれいな肌してるんだけど、それにさらに磨きがかかってる。
 なんか…………すごくいいエッチしたあとみたい。

 エッチ?
 アヤが?
 それこそ絶対ありえない。無理矢理やられたってのでない限り、アヤがエッチなんてするはずない。なんでか知らないけどアヤはそういうの大嫌いなんだ。
 何かヘンだなあ。
 気のせいかな。
 まあいいや。
 理由なんてどうでもいい、アヤのお肌がつやつやしてるんなら、心ゆくまで味わわないと。

「むふふ……」
「おい、なんだよ、その目つき……」
 アヤは腰を浮かせた。あたしも運動神経には自信あるんだけど、アヤみたいな化け物じゃない。このまま飛びかかっても逃げられる。
 それなら……。
 握手するみたいに手を伸ばし、アヤの手首をつかんでやった。速い動きだったら避けられちゃっただろうけど、ゆっくりだったんで、意表を突くのに成功。
 つかんだ手を、あたしの胸に持っていく。
 むにゅっ。アヤの手、ちょっと冷たい。
「わ…………」
「いいのよ…………好きにして…………うふん」
「あのなあ」
 アヤの眉はつり上がってるけど、まだ本気で怒ってない。怒ってたらとっくに引きはがされてる。
 逆に、アヤの唇が、笑いの形になった。
 指が動く。
 もみもみ。
「きゃっ」
「こうかよ、ほれ、このこのぉ!」
 笑いながら、向こうから襲いかかってきた。
 押し倒される。バックを取られた。
 両方の胸を揉まれる。
「やんっ、きゃあっ、やだあっ!」
「うりゃうりゃうりゃ!」
「や、や、やあっ! きゃははは! やめてよぉ!」
 全身を強張らせる。だって、おっぱい揉まれたら、いっつもくすぐったくてたまんなくなるんだもん。機嫌のいいときのアヤとじゃれあって何度か経験済み。どんなに頑張っても、先に降参しちゃうのはあたしの方。
 ほら、来た、きゃはは、来たぁ!
 くすぐったい、くすぐったいよお!

 え…………?

 アヤの指が、おっぱい揉む中で、あたしの乳首をこする。

「ん…………」
 やっ…………な、なに、これ…………。
 くすぐったいのはいつも通りなんだけど――――その奥から、別な、じわっとした感覚が…………。

「ち、ちょっと、アヤ…………」
 アヤの手が、おっぱいだけじゃない、脇腹や脚にも下りていって、遠慮なくくすぐりはじめる。あたし裸だから、もろに来る。全身ぴくぴくしちゃう。弱いんだよ、くすぐりに。
 体丸めて悶えてるところへ、手が胸に戻ってきて、もみもみ、指がまた乳首をこすって…………あ、あっ…………。
「んっ、あ…………」
「なに気分出してんだよ」
 手の動きが激しくなった。
 ひあっ、うわっ、おっぱい全体を包まれて、大きくこね回されると、なんか、体の奥底からじんわり熱くなって、あ、こ、これ、やっ、やばい…………。
 はあ…………体に力が…………は、入らない…………。
 き、気持ちいい。
 感じてる、感じちゃってるよ、あたし。
 アヤにおっぱい揉まれて、感じてる。
 なんで、なんだよ、これ、どうして、こ、こんなに…………!
「乳首硬くなってっぞ、コラァ!」
 少しドスをきかせて言われる。
 同時にアヤの指が、あたしの乳首をいじった。
 これまでは、触れる、だった。
 今度は、いじる、だ。
 指の腹でつままれた。

「!」

 頭の中…………やわらかなハンマーで思いきりぶっ叩かれたみたいになった。
 あ、あっ、アヤの指、あたしの乳首、こりこりって、あ、そんな、それ、ダメ、あっ!
「へっへ〜、おじょーちゃん、こういうことされたいんか、あん?」
 アヤは何も気づかず、あたしの耳に口寄せて、冗談丸出しでそんなこと言ってくる。その声、低い声、低くてぞくぞくするような声が頭に響いて、快感がさらに強まる。
 だめ、だっ、だめ、体、あっ、動かない、動かせない…………。
 口がぱくぱく。でも、無音。
 声も出せないくらいに気持ちいい。
 よすぎる。ダメ。熱いものが、一気にこみあげてくる。
 な、なに、何なの、これ……!
 信じられないくらいに強くて、激しい。止められない。
「なんだよ、おい、震えてるぞ」
 気づかれた……!
 だったら、アヤ、やめて、あ、あっ、手、もう動かさないでえっ!

「何か言えよ、この……」
 アヤはやめるどころか、ふふって笑って……。
 やっ、い、息、耳に……!
 顔がもっと近づいてきて、あの髪、あの黒髪の甘いにおいがさらっと流れ。
 ぱくっ。
 耳たぶ、くわえられた……。

「――――っ!!」
 きゅん。
 きゃあっ、お腹、違う、もっと下、変なとこ、きゅんって!
 強い、熱い波が駆けめぐって、わけわかんなくなる。
 声だけはダメ、声出したらダメだって、なんでかそればっかり頭に残って、必死に唇閉じた。
 全身突っ張って、ぶるぶる震える。目も固く閉じて、波が通り過ぎるのをひたすらに待つ。
 多分、一瞬だったんだろう。でも永遠に続くみたいにも感じた。
「おい……?」
 がくん。体の力が一気に抜けた。
 首が斜めに。そのまま、ぜいぜいと荒い息をつく。
 もうちょっと続いてたら、あたしきっと、おかしくなってたと思う。止まらなくなってたかも。ぎりぎりのところで戻ってこられた。よかった。

「おい、どうしたんだよ?」
 アヤがあっけらかんと言ってくる。

 おい…………。
 わかってない、な〜んにもわかってないよ、こいつ!
 今の、じゃあ、あたしひとりで、昂って、悶えて……。
 お腹の底から熱波が噴き上げてきた。
 さっきの快感とは全然別なもの。
 感情のかたまり。
「ばかぁ!」
 怒鳴って、だだこねるみたいに手足ぶん回してアヤを追い払った。
「マリ……?」
「うるさい! こっち見るな!」
 アヤをまともに見られない。顔が熱い。きっと真っ赤っか。
 手を伸ばし、床に放り投げてあるあたしのブラを引き寄せた。
 ストラップをかけ、カップをおっぱいに。乳首、まだ勃ってる。胸がどきんとなる。アヤの指が、これ、いじってたんだ……。どきどきどき。ほっぺた熱い。畜生。なんだかめちゃくちゃ恥ずかしくて、悔しい。
 ホック、はまらない…………髪、邪魔! ああもう、くそっ!
「マリ…………なんだよ、お前、一体……」
「………………」
 無視。
 背中に腕回してかちゃかちゃ。何でだよ、何ではまらないわけ?
「マリ」
 やっとはまった。脇のお肉寄せて調整。なんかいつもよりきつい感じがする。おっぱいがふくらんで、うずいてる。むかむか。軽くひっぱたく。
「マリったら!」
 スリーブレスのシャツと、ショートパンツ。ちぇっ、くしゃくしゃだよ。酔っぱらってても脱いだ服はきちんとたたんでる、ってえ奥ゆかしさはあたしに備わってないのかね。
「この…………!」
 黒いものが襲いかかってきた。
 悲鳴を上げて胸を隠した。押し倒され、仰向けに。太腿にどしんと重いもの。目をあけると、アヤが馬乗りになって、きつい目であたしを見下ろしている。
 にらみ返す。
 あたしは怒ってる、怒ってるんだ、どんなにすごまれたって、許してなんかやらないんだから!
 しばらく、無言のにらみ合い。
「………………」
「………………」

 すると――――

「あ……?」
 不意に、アヤの眼光が弱まり、困惑の表情が浮かんだ。
 アヤらしくもなく、途切れ途切れに言ってくる。
「……おめー、もしかして……その…………なんだ、マジで、感じちゃってた…………とか?」
 かああああ。
 図星突かれて、脳天ぶち抜くくらいに血の気がのぼる。
「そ、そんなわけあるかああっ! バカァッ、アヤのバカ! どけっ、重い、どけよおっ!」
 右腕をぶん回す。お手々、ぐー。当たったって知るか!
 そしたら、本当に当たっちゃった。
 アヤのあごに、がつんと。
 うわ、アヤの目に、火が火がぁ!
「この…………」
 右手、捕まる。左手、まだしっかり胸ガードしてたのも、手首つかまれ、頭の上へ。
 両手ともバンザイするような格好で押さえつけられた。

 こ、これって…………なんか…………すごくエッチな構図……。
 腋の下、手入れしてたっけ…………なんでそんなこと気にしてるんだよ、あたし…………やだ、またどきどきが……おっぱい、ブラの下で、なんだか熱くふくらんできたみたい……。

 うわあっ、アヤの顔、すぐ目の前にいっ!
 どアップ。鼻と鼻がくっつく。いや本当に。
 キ、キスされるうっ!?

 …………さすがにそれはなかった。
 でも――――アヤの唇って、ふっくらしてて、やわらかそう。何もしてないのに濡れてるみたい。
 キスしたら、どんな感じするんだろ。
 ……なに考えてんだ、あたし!

「マリエ」
 唇が動いた。つややかな襞が、かすかに。心臓が跳ねる。唇ってなんでこんなにエッチなんだよお。
 …………って、今、アヤ、あたしの名前呼んだよね。
 万里江ってきっちり呼ぶのは、真剣になってる時。
 真剣モード、きりっとなったあの目が、至近距離からまともにあたしの目をのぞきこんでくる。
 漆黒の瞳。吸いこまれる。目を離せない。黒い瞳はどんどん大きくなってくる。まばたきもできない。深い、どこまでも深い瞳。あたし、飲みこまれる。食べられて、なくなっちゃうんだ。全部、アヤのものになっちゃう。
 あ、も、もう、ダメかも…………。
「やっ!」
 息が苦しくなって、すごい音たてて吸いこんだら、呪縛が解けた。
 目を固く閉じて、顔をそむける。
 そしたら、アヤの視線が、あたしの耳元から、首筋に動いていった。本当に感じた。そのあたりの肌から、羽毛でなでられたような感触が来た。

 アヤが見てる。あたしの体、見回してる。肩、鎖骨のとこ、腋の下から、胸。ブラしてることに心の底から安堵。でなかったら、さっき以上にむくむく盛り上がってる乳首、まともに見られちゃったとこだ。あばら、脇、おへそ…………やあっ、ふともも、くすぐられてるみたいにぴくぴくし出した……っ!
 パンツの下、大事なとこ、なんか、その…………変な感じ。
 もしかして、あたし――――濡れちゃってる?  うわうわうわああっ、だめえっ、そんなの、気づかれたら、恥ずかしくて死んじゃうよおっ!
 でも、アヤの視線が、あ、あ、パンツ見てる、じいっと、見られてるうっ…………。

 どくん、どくん。
 心臓が口から飛び出しそう。お約束の言葉だけど、本当にそうなるんだ、こういう時って。ひとつ脈打つたびに、体が内側から圧迫されるみたいで、頭とか指先とかにずきんって鈍痛。
 もし、今、さわられたら――――肩でも、頬でも、キスされちゃったりしたら、あたし、もう、どうなっちゃうかわからない。
 きっと、限界超える。キレる。
 もう知らないぞ。
 知らない。
 どうなっちゃっても…………かまわない……。

「………………」
 だけど、アヤがあたしの下の方見てたのはほんの一瞬だった。
 視線が顔に戻ってくる。

 ふうううう。ため息と一緒に、全身の力が抜ける。こんなにがちがちになってたんだ、あたし。
 でも状況はまったく変わってないわけで。
 あたしの体、ヘンになっちゃってる。すごく切ない気分。いやだし、恥ずかしくてたまんないのに、期待してるみたいにうずいてもいて、もう何がなんだかわかんない。
 あ、また、アヤの唇が、動いた……。
 なに、今度はどんなこと言って、あたしの心臓破裂させる気?

「マリエ、お前…………」
 ごくっ。すごい音があたしの喉から。
「もしかして………………おかしなシュミあんのか?」

 ………………は?

 黒い瞳に満ちているのは、子供みたいな純粋な光。
 こいつ――――やっぱり、本当に、なにひとつわかってないっ!

 爆発した。

「何言ってやがんだコラァ! おかしいのはてめーの方だろおっ、どう見たってあたしを襲ってるのはそっちだ、てめーの方がよっぽどアブねえだろーがこのヘンタイどスケベ色情狂っ!」

 腕を振り切り、アヤを吹っ飛ばして起き上がった。
 アヤは床に転がった。きょとんとしてる。目をぱちくり。
 身構えてるのは、あたしがお返しにのしかかってくると思ってるんだろう。
 やらないよ。
 だって………………止められなくなっちゃうもん、そんなことしたら。

 黙って背中を向け、ずれたブラを直して、あらためて服に手を伸ばす。
 アヤがごそごそ。多分、頭かいた音。
「まったくよお…………わけわかんねーぞ。なんだってんだよ、そっちだろ、最初に襲ってきたのはよぉ。今日のお前、なに考えてんのか、全然わかんねー」
「ああ、わからなくて結構!」
 どぎつく言ってやると――――気配が軟化した。
 アヤって、実は結構甘々。あたしに対してだけなんだけど、あたしを怒らせるようなことばっかりやるくせに、あたしが本気で怒ると、しゅんってなる。
 そういうときは別人みたいに可愛くなる。今もきっと眉を八の字にしてさ、子犬みたいな目であたしを見てる…………。
 ぶんぶん。頭を振る。ダメダメ、ここで甘い顔見せたら全部台無し。

 そしたら。
「おい」
 かぶったシャツから頭を出したところで、肩抱かれた。
 両腕封じられた格好で、固まる。

「今日のおめー、なんか素直じゃねえなあ」
「なんだよ、素直じゃなかったらどうするってんだよ!」
「素直にしてやる」
「お、なんだ、この、やる気かよ?」
 …………ミイラみたいなポーズで言ってもさまにならないんだけど、すごんで対抗。

 すると、アヤは――――

「おめーが素直になるような催眠術かけてやるよ」

 と、いきなり言いだした。

 ――――。





              





「ほへ?」
 あたしの口から間抜けな声が出た。

 今…………なんつった?
 外国語みたいなのが聞こえたような。

 あたしがぽかんとしていると、アヤは律儀に繰り返した。

「だからよ…………催眠術かけて、おめーを素直にしてやるって」

 さいみんじゅつ?
 なんでそんな言葉がアヤの口から出てくるわけ?

「はあ?」
「いやな、実は、最近おぼえたんだ」

 お目々ぱちぱち。意外すぎて反応できない。
 あたしが興味を持ったと勘違いしたのか、アヤは少し照れの入った笑顔を浮かべた。

「結構面白くてさ、はまってるんだ。…………なあ、マリ、ちょっと練習相手になってくれねえかなあ」

 ぷしゅうう。これまで燃え上がってふくらんでたものが、一気に音を立てて抜けていく。頭から煙が出てるかも。

「どうかな?」
「どうもこうも…………」
「いやか?」
「いやって、そうじゃないけど、でもね……」
「じゃあ、頼む」

 ぐっと迫ってくる、子供みたいな顔したアヤを見てると――――ああ、ホントに、ここまでのこと、全部どうでもよくなってきた……。

「わかった、わかったから、とりあえず、服着せてよ」
 腕を出し、ショートパンツはいた。靴下は帰る時でいいや。
 ベッドに腰かける。
 アヤはにこにこ上機嫌。
 なんでこういう展開になるんだろう。
 まったく、アヤったら……。

「で、どうすればいいわけ、あたしは?」
「えっと、ちょっと待ってくれ」
 アヤは部屋のカーテンを閉めた。
 薄暗くなった室内で、せきばらいをまずひとつ。誰もいないのに、誰か頼る人はいないかなって感じできょろきょろ。
 その落ち着かない様子を見ていると、あたしは逆に気が楽になってきた。

「でもまた、なんで?」
「え?」
「だから、なんで催眠術なんか? どーゆーきっかけ?」
 あたしはよくいきなり突拍子もないものにはまるけど、アヤにはそういうこと滅多にない。友達いないってのもあるだろう。アヤに新しいこと教えるのは決まってあたしだ。
「テレビだったかな、なんかで見てさ、面白そうだって……」
「ふうん。ま、いいけど……」

 催眠術かあ。
 実は、あたしも興味もったことある。学校の先生に催眠術使える人いて、色々教わった。そのことアヤが知ってるのかって、今の一瞬、かなりぎくりとしたもんだ。
 あたし、一度興味持つととことんのめりこむ方だから、かなり熱心に教わった。だからアヤよりはちょっとばかし詳しいと思うよ。
 催眠術ってのが、かかった相手を好き放題に操る魔法なんかじゃないってのもちゃんと知ってる。そうじゃなくて、かけられる側、今の場合だとあたしだね、こちらがとことんリラックスして、相手の言葉を何でも受け入れる状態になるものなんだ。“あなたは犬です”って言われたときは、外から無理矢理“犬になれ”って命令を流しこまれて自分の意志を消されちゃうんじゃなくて、“なるほどそうかあたしは犬なんだ”ってあたしが受け入れて、それではじめてワンワン言って四つんばいになる。ここが大事なところ。あたしがそれは違う、おかしい、いやだって思うことは受け入れない。催眠術では、相手のいやがることは絶対にさせられないんだ。無理矢理言うこときかせたら、それは強迫、おどし、洗脳、とにかく催眠とは違うもの。

 あたしが色々知ってるってこと、言っておこうかな。いや、やめとこ。アヤがどういう風にするのか見てる方が面白い。うまかったらそのまま楽しめばいい。催眠術かけられるのって結構気持ちいいんだよ。いまひとつだったら、プライドを傷つけないようになだめて、今度一緒にその先生に教えてもらうことにしよう。

「やり方知ってるの?」
「ああ」
「ただ振り子ぶらぶらさせて、あなたは眠くなる〜ってだけじゃダメみたいだよ」
「ああ、大丈夫だ」
 おや、ずいぶん自信たっぷり。
 それならなにも言うまい。お手並み拝見。

「気を楽にしてくれ。目ぇつぶって、肩の力を抜いて、ゆっくり、深呼吸」
「うん…………」
「吸う時に、お腹をふくらませるんだ。そうするといっぱい吸える」
「うん」
 腹式呼吸でしょ。わかってるよ。あたしブラスバンドでラッパ吹いてるから、いつも腹式呼吸してるんだよね。運動もいっぱいして心肺機能鍛えてるし。肺活量なら間違いなくアヤより多いよ。
 目一杯吸いこんで、静かに、思いっきり吐く。すぐに気持ちが落ちついてくる。リラックスするのは得意なんだ。コンクールとか演奏会の時、ステージに出る前はもちろん、演奏中でも。トランペットって音大きいから間違ったらめちゃくちゃ目立つし、ソロ吹くことも多いし、とにかくあがらないようにしなきゃいけないからね。
 考えてみれば、音楽ってのも結構催眠術っぽいところもあるような。特に舞台の上。普通じゃないところで、きらきらライト当てられて、指揮者じいっと見て、指揮棒に全神経集中して。夢中で演奏してる時って、結構みんな催眠状態みたいな感じになってるんじゃないかなあ。

「じゃあ、ゆっくり目ぇ開けて、この光を見てくれ……」
 アヤはペンライトを持っていた。
 青い光。あんまりないタイプだ。
 青って心を落ちつかせる色なんだよね。きれい。あたし青って好きだよ。特に深い色合いのサファイアブルーなんて最高。
 斜め上から照らされて、あたしは上目づかいになる。

 あ、気楽になってるのと、相手がアヤってことで、簡単に引きこまれちゃいそう……。

「ごめん、ちょっと待って」
 一回止める。
 このままだとあたし、すぐに催眠状態になる。確信がある。  だから、その前にはっきりさせとかなきゃならないことがある。


「さっき、あたしを素直にするって言ってたよね」
「……ああ」
「催眠術の実験はいいけど、あたしにどんなことさせる気? そこんとこ、先に教えてほしいな」
「なんだよ、オレが信用できねえのか?」
「だって、あたし、最初っから素直だもん。今更素直になったって変わんないよ」
「そうかぁ?」
 疑いの目つき。
「さっきのお前、わけわかんなかったぞ」
「それは……!」
「ほら、素直じゃねえ」
「あ……でもさ…………」

 折角落ちついたのに、また胸の中ざわざわしてきた。  だってさ、この流れだと…………あたしが素直になっ
たら、さっきのすんごくエッチな気分のこと、アヤに告白しちゃうことになる。
 それどころか、あたしの胸にしまってある大事な宝石、見せちゃうかも。
 これは隠しておきたい。いつまでも胸の奥に秘めたままにしておきたい。
 でも、ずっとしまったままにしておくんじゃなくて、見せて、教えて、楽になってしまいたい気持ちもある。アヤのこと好き、大好きって言いたい、声を限りに叫んで、抱きしめたいってのもあたしのもうひとつの本音。さっきは危ないところだった。
 こんな気分のまま催眠術かけられて、何でもかんでも素直に告白できるように暗示されたら、あたし、何を言いだすだろう。どんなことしちゃうだろう。
 そして、アヤはそれをどう思うだろう。

 ――――なんか、怖くなってきた…………。

「な、いいだろ。なに、そんなおかしなことさせるわけじゃねえよ。ちょっとだらんとなって、気持ちよくなるだけさ」
 アヤが言う。
 その言葉が、あたしの中にまた別な波紋を立てる。

 気持ちよく…………。
 アヤはもちろん、リラックスの意味で使ってる。
 だけど、今のあたしにとって、それは…………。
 全身、かーっと熱くなった。
 やだ!
“素直”になって、“気持ちよく”なんて!
 ほら、もう、想像しただけでどきどきしてきて、止まんない、止めらんないよ…………。
 膝の上で手を握った。

「ごめん。やっぱ、あたし…………今回は、パス」
「え」
「別の時ならいくらでも練習相手になってやるからさ、ごめん、今日だけは、勘弁して」
「…………」

 アヤは唇をとんがらせたけど――――嫌がる相手に無理強いしても催眠術はまずかからないってのは知ってたみたいで、食い下がってはこなかった。

「そっか。じゃあ、しょうがねえな。また今度、頼まあ」
 その声には怒りの気配はない。あたしが望まないならやめておこう、心からそう思ってくれてる。
「ごめんね」
「いいさ。こういうのは、好き嫌いあるしな」
「いやってわけじゃないんだよ。それだけはわかって」
「ああ」
「ほんとだよ。ほんとにほんと」
「ああ、わかってるって」

 アヤはカーテンを開けた。
 曇り空だけど、外の光が一気に入ってきて、その一瞬、髪の長い、スタイルのいい長身が輝いたように見えた。映画の一シーンみたい。
 アヤは微笑んでる。横顔、斜めの光が当たって、陰翳がすごくくっきりしてる。綺麗。

 …………うん、やっぱり――――あたし、アヤのこと、好き。

 わかってね、アヤ。やだって言ったの、あんたのことを信頼してないからじゃないんだよ。
 逆。信じてるから、信じすぎてるから、あたしは簡単にあんたの言う通りになっちゃう。だからダメなの。
 胸の中。きらきら光ってる、あたしの大事な宝物。アヤを見て、アヤと一緒にいて、少しずつ降り積もってきたものが、結晶して、こんなに大きな宝石になった。これ、壊したくない。ずっと抱きしめたままにしておいて、きれいにきれいに輝かせ続けたい。

 リ……ィン……。
 鈴みたいな音が聞こえた。きっと、この宝石が震えた音だ。深い、穏やかな音色。静かな響き。
 幸せな気持ちがふくらむ。笑顔になる。
 さっきよりずっと深いリラックス。全身の力が抜けて、なんだか眠たい感じ。催眠術断ったのに、今度は勝手に眠くなっちゃうなんて、ちょっとアヤに悪いなあ。でも本当だから仕方ない。
 そう、窓辺にたたずむアヤを見つめながら、ベッドにこてんと横になって、あ、すごく眠くなってきちゃったぞ、まあこの際いいか、寝ちゃえ。またアヤが起こしてくれるだろう。にんまりしながら目を閉じる。

 うとうとしたのはほんの一瞬だったと思う。
 思ったとおり、アヤに揺り起こされた。

 だけど今度は――――笑えなかった。

「おい、起きろ。なにまた寝こけてやがんだ、この」
「えっ!?」

 ……こんな短い間でも、夢って見るんだね。
 あたし、夢の中で、アヤだ〜いすきって思いきり告白してた。何でもかんでもぶちまけて、アヤにエッチ迫られたら断れないだろう、それどころかひそかに望んじゃってるかもかもカモンウェルカム大歓迎ようこそめくるめく禁断の官能世界へって、そんなことまであらいざらいぶちまけて、爽快感を感じていた。
 おねしょしちゃったことに気づいたみたいな気分。やってはいけないことをやっちゃって、背筋がうそ寒くなるあの感じ。

 深呼吸して、確認。うん、あれは夢。大丈夫、現実のあたしは、まだ一線越えてない。よしよし。

 ……あんな夢見るなんて、本当に危ない。
 うん、今日はここまで。これ以上は危険すぎる。

 窓の外は暗い。そろそろ帰らないと親がうるさいだろう。
 ポケットから紐を取り出し、髪をくくっていつものポニーテールに。

「じゃあ、帰る」
「送ってくか?」
「いいよ。ありがと」
「気をつけてな。最近おかしなの多いみたいだし」
「それならアヤだって、一人暮らしなんだから、気をつけなよ。それに、ちゃんとごはん食べなきゃダメだよ」
「へいへい」
 こういう他愛ないやりとりが好き。

 玄関には靴が三足。
 あれ?
 あたしのと、アヤのスニーカーと……もう一足?

 あ、そっか、アヤのに決まってる。アヤだって女の子、こういう可愛い靴履いたっておかしくないよね。

 自然と口元がほころぶ。
 アヤのやつ、あたしに隠れてこんなの買ったんだ。
 今度これネタにしていじめちゃお。他にもなんかあるかも。家捜しだ。

「じゃあね」
「おう」

 手を振って、外に出た。





              





 もう真っ暗。随分遅くなっちゃったな。
 駅へ。
 電車を降り、改札を抜けて、飲み屋が営業はじめてる商店街を抜けて歩いた。

 公園がある。近所のおかーさんたちがわが子のデビューに使う、ちょっと木も生えてて水遊びする場所もある、のんびりするにはいいところ。
 だけど今は、だだっ広いだけ。
 薄暗くて、なんだか不気味。茂みとか暗がりとか、危ないやつがひそめる所はないんだけど、まったく逆に、誰も隠れていられない、がらんとした空間ばかりが広がっていて――――怖い。

 影。あたしの影が、最初前にあったのが、踏みこんでいくにつれて薄れて、後ろにもうひとつあらわれて、斜め後ろにも、真横にも、ずっと向こうにある街灯が作り出す影が、どれもこれも同じ濃さ、あるいは同じ薄さをもって、四方八方あたしの周りに伸びてゆく。あたしから何本も伸びる影が、あたしの歩みに合わせて足を動かし、髪を揺らし、一緒に歩いてゆく。
 気持ち悪い。
 踏み出そうとした足がぴたりと止まる。
 影たちも一斉に動きを止める。
 しんとしすぎて耳が痛い。
 今、何の前触れも見せずに駆け出すことができたら――――この影たち、ついてこられなくて、あたしの後を追っかけてくるんじゃないだろうか。
 息の音。自分のだ。ふう、ふう。鼻から吐き出す音。喉を鳴らす。ごくり。うるさいくらいに大きい。
 足を動かす。ひどく強張っている。右足を、一歩。とんっと、土を踏む音。左足。またとんっ。跳ね上がる心臓を押さえつけ、とんっ、とんっ、とんっ。大丈夫、歩ける。影もしっかりついてくる。そう、影なんて、光が届かない場所が暗く見えるだけなんだ。それが何かするなんてできるわけがない。
 何かできるのは、実体のあるものだけ。
 つまり、人間。
 ……ぞくりとした。
(最近おかしなやつ多いみたいだし)
 アヤの言葉。
 バッキャロ、あんなこと言いやがって。気になっちゃうじゃないか。
 きょろきょろした。あたしの周囲五十メートル以内には誰もいない。よろしい。公園の出口まであと少し。出たら、住宅街。声を上げればどこかに届く。何かあっても呼べば助けは来る。
 ちくしょう、暑い。夜だってのに蒸し蒸しする。だからこんなに汗が。冷たい? いや違う。この汗は暑さのせい。歩き慣れた公園を歩くだけで冷や汗をかくはずがない。

 公園の出口に、人影が現れた。
 心臓が跳ね上がる。いや、ただの通行人。周囲の人間が全部自分を狙っているみたいに感じるなんて、被害妄想もいいところ。
 でも――――あの男、立ち止まって…………あたしを見てる…………?

 見てるよ!

 大学生ぐらいかな。知らない顔。でも、ひどくびっくりした様子。
 は、走り出した…………こっちに来る!
 や…………やだあっ!

「万里江!」
 え、あたしの名前?
 なんで?
 なんでこんなやつがあたしの名前知ってるの?
 やばい、こいつやばい、逃げなきゃ――――
 あ、足、すくんじゃって、動かない…………!

 固まってるあたしの目の前にそいつは来た。
 泣いてるみたいな、笑ってるみたいな、奇怪に引きつった顔。
 目つきが普通じゃない。  背筋にぞわっと悪寒がはしる。
(いやだ)
 こいつ、いや。
 きらい!
 なのに、そいつが――――
「どうしたんだよ、一体! これまでどこに……!」
 食いつかんばかりの勢いでそんなことを言ってきた。
「ど……どこにって……」
 よかった、あたしの口、動く。
「心配したんだぞ! 三日も、どこに行ってたんだよ!」
 心配?
 全然知らない、気持ち悪いこんなやつが、あたしを心配?

 ……わかった。
 こいつ、あれだ。
 ストーカー!
 あたしのこと、ずっとつけ回してたんだ。
 あたしの後つけて、家の周りをうろうろして、庭に入りこんで、窓に双眼鏡向けて、帰宅時間とか好きな音楽とか全部チェックして、洗濯物の種類確かめて、ゴミ漁って、家に盗聴器仕掛けて、毎日毎日、あたしの行動全部追っかけて……!
 三日――――つまりこいつはこの三日、あたしの行動をつかめなかったんだ。
 それで、業を煮やして、とうとう自分からあたしに接触してきた。頭の中だけで勝手にあたしと親しくなって。あたしを心配しているつもりになって。あたしの恋人、保護者づらして、こんな風に飛び出してきたんだ。
 そう言えばこの顔、どこかで見たような気もする。あたしの周囲をうろうろしてたんなら、駅のホームとか街中とかで出会っていてもおかしくない。

「ぐっ……!」
 口の中にすっぱいものがこみ上げてきた。
 気持ち……悪い。
 これまで普通に過ごしているつもりでいた裏で、こんなやつに張りつかれていたなんて!
「どうした!? 大丈夫か?」
 ひいっ、抱きついてきたあっ!
「きゃああっ!」
 振りほどき、思いきり突き飛ばす。
 相手は目を真ん丸にしてあたしを見た。
「万里江……?」
「ひ……」
 あたしは体を抱いて後ずさった。
 腕、びっしり鳥肌。
 ストーカー野郎がまた近づいてくる。引きつった笑顔。気味悪い。おぞけがはしる。
 やだ、やだ、来るな!
 蹴飛ばせ、ぶん殴れ、急所を狙って、もう二度と起き上がってこられないようにしろ。
 でも――――いやだよ。そうするためには、こいつに触らなきゃいけないじゃないか。そんなのいや。気持ち悪い。見るのもいや、声聞くのもいや、触るなんて絶対にいや。
 逃げなきゃ。
 なのに、体、動かない…………。
 アヤほどじゃないけどケンカなら何度もしたことがあって、こういう場面には慣れているはずなのに、どうしたの、あたしの体、重くて、鈍くて、言うことをきいてくれない。
 いや、動き出した。
 ひどく遅い。のろのろと向きを変え始める。
 もっと速く動け、動いてよお!
「まぁぁぁぁぁりぃぃぃぃぃぃえぇぇぇぇぇ」
 ストーカーの声がスロー再生したみたいに間延びして聞こえる。名前を呼ばれるのがこんなにおぞましいことだなんて知らなかった。
 やっと後ろを向くことができた。
 走り出す。一歩、二歩。全部スローモーション。どうしてこんなに遅いんだよ!
 がくん。
 え?
 足がもつれた!
 転ぶ。湿った土の上に手をつく。なま温かい。
 いやああっ、転んでる場合じゃないのに、転んでたら、あいつが、あいつが……!
 振り返る。
 正気をなくしたような目つきのストーカーは、両腕を前に突きだしたゾンビみたいな格好で、あたしの足元に、今にもあたしに覆いかぶさってきそうなところに立っている。
「万里江、どうして…………メールくれたから、心配して迎えに…………学校は…………友達の家ってどこ…………」
 わけのわからないことをぶつぶつ言う。多分、こいつの頭の中だけで展開されているストーリーだ。
 怖い。
 話の通じない相手というのがこんなに怖いなんて。
 腰が抜けて、立てない。土を引っ掻き這いずって逃げる。
「待てよ、おい!」
 相手の声が怒りを帯びる。最初だけは優しいふりをしていたのが、自分の思い通りにならないからカッとなったんだ。やっぱりまともじゃない。
 何とか起き上がることができた。
 そしたら、手をつかまれた。
「きゃああっ!」
 悲鳴を上げ、無我夢中で拳を振るう。
 めきっ。おぞましい感触。虫をつぶしたときみたい。冷たいものが体中駆けめぐり、あたしは凍りつく。
 相手の鼻に、あたしの手がめりこんでいた。
 つつうと、黒インクみたいな……血。
 あたしはさらに悲鳴をあげた。
 相手は逆にむきになって、あたしにつかみかかってきた。
「何で逃げるんだよ! どうしたんだよ、何で殴るんだ、ぼくが何したっていうんだ!」
「気持ち悪い、やだ、やだあっ、ヘンタイ、離せ、はなせええっ!!」
 恐怖は最高潮。頭の中、真っ白なんだか混沌の渦なんだかもうわけがわからない。とにかくこいつから離れたくて、それだけははっきりしてて、手足をめちゃくちゃにふり回す。
 助けてよおっ、誰か、助けて!
 お父さん、お母さん!
 お兄ちゃん!
 先生!


 ――――アヤ!


 その名前を意識にのぼせたとき。
 ストーカーが、高圧電線にでも触れたみたいに、吹っ飛んだ。

 疾風。視界の端に、黒いものが竜巻みたいに躍る。長い髪。舞い降りてくる。

 あたしは、尻餅をついたことにも気づかず、夢を見ているとだけぼんやり思った。
 夢に違いなかった。
 背筋をぴんと伸ばした、背の高い、とても綺麗な生き物がそこにいる。

「無事か、マリ?」

 そうだ、アヤ――――水南倉綾乃っていうんだった、“これ”。
 その時のあたしは、さしのべられた手を馬鹿みたいにぽかんと見つめながら、“どうしてここに”でも“助かった”でもなく、そんなことを考えていた……。

「ちょっと待ってろ、すぐ片づける」
 あたしの反応がないのは少しも気にせず、アヤは笑顔で背中を向けた。
 やっぱりあたしはぽかんとしてて、アヤのおしりっていい形してるなあって、また全然関係ないことを考える。

「てめえ…………オレの大事なツレに、何しやがった」
「……な、なんだよ……ぼくは別に…………」
 うろたえるストーカー。早く逃げればいいのに。今のアヤ、戦闘モードだよ。背筋伸びてるでしょ。それってスイッチが入ったってこと。そうなったアヤはあたしにも止められないよ。あんた、血みどろになるまで許してもらえないよ。
「ぼ、ぼくは万里江の……」
「恋人だとでも言うつもりか? 勝手なことぬかすな、クソ野郎」
 アヤはストーカーの胸ぐらをつかみ、引き上げた。相手の方が体は大きいのに、ぬいぐるみでも持ち上げるみたいに軽々と。相手の足が宙に浮く。アヤ、本気だ。怒り狂ってる。
「ひ、ひいっ!」
 ストーカーは可哀想なくらいにおびえてる。当たり前だ。戦闘モードのアヤの目、見慣れてるあたしでも怖いのに、あんな間近で睨まれちゃ。

 なんか…………可哀想になってきた。

「アヤ…………そのくらいでいいよ」
「なんでだ」
 アヤは振り向かずに応えた。
「こんなやつ、ぶっ殺した方がいい」
「ダメ!」
 あたしは金切り声を張り上げた。
 一発ぶん殴るぐらいならいいけど、それはダメ。今のアヤなら本当に殺しちゃう。そんなことさせられない。
「…………」
 アヤはちらっとあたしを見て、相手を突き離した。
 相手はよろめき、たたらを踏む。
(あ!)
 蹴る。
 アヤの得意技。相手の重心の乗った膝に強烈なキックをくらわせて、相手の足をへし折ってしまう。骨が無事でも靱帯がどうにかなる。
 ものすごい危機感が湧いた。
 人が骨折られるところなんて見たくない!
「や!」
 めて、と続けるより早く。
 アヤの姿が消えた。
 黒い風が流れた、と見えた次の瞬間、アヤの姿は相手の背後に移動していた。地面の上をすべっていったよう。どうしてそんな動きができるのか見当もつかない。
 白い腕が相手に巻きつく。首に、がっしりと。
 ストーカーはもがいたけど、すぐに力が抜けて、くずおれて、地べたにのびて動かなくなった。
 頸動脈を締められて、落ちたんだ。
 あたしはものすごい音をたてて呼吸を取り戻した。
「これならいいだろ?」
 外人みたいに肩をすくめてアヤは言った。
 倒れている体を憎々しげに蹴りつけ、それからあたしに手をさしのべてくる。
 まだ現実感がない。これ、夢じゃないの?
「万里江」
 呼ばれてやっと我にかえった。
 震える手を伸ばす。
 今度はしっかり握りしめた。

 間違いない、本物のアヤだ。水南倉綾乃だ。人間だ。
 夢じゃない、マボロシなんかじゃ全然ない、あたしの友達、一番大好きな、アヤだ!

「いやな予感がしてさ。間に合ってよかった。大丈夫か?」
「あ…………」
 強い力で引き起こされ、よろめいて、アヤの胸の中に。
 抱きしめられて息をつくと、全身ひどく震えはじめ、どうにも止まらなくなった。

 お礼、そうだ、助けてくれてありがとうって言わなくちゃ。

「やっ、アヤ、あ、あたし、あたしね、あっ、あの、あ、あた、あたし…………」
「行こう」
 動かないストーカーに一瞥をくれてから、アヤはあたしを元来た方へ引っぱっていった。
「お前の家はやばいだろ。あいつがまた来るかもしれねえ。今はとりあえず、オレんとこに戻ろう」
「う、うん…………」

 電車に乗ってから、涙がこぼれてきた。
 今更のように恐怖があたしをむしばんで、どうすることもできなくなった。
「万里江」
 周囲の目を少しも気にせずアヤはあたしを抱きしめて、肩を、背中を、何も言わずに優しく撫で続けてくれた。
 それであたしはますます激しく泣いてしまった。





              





 アヤの部屋に着くまであたしは泣き通しだった。
 この程度のことで、なんでだろ。男に怖い目に遭わされたの、これが初めてってわけじゃないのに。もっと危ないことになったことだって何度もある。なんであんなひ弱そうなやつ相手に。
 頭の中がぐるぐる回ってる。吐き気さえする。ひどく気持ち悪い。たとえば人殺しとか、自分の母親の手足をへし折るとか、恋人をタコ殴りにするとか、そういうひどいことやっちゃった気分。
 アヤがいてくれなかったら、途中でへたりこんで動けなくなってただろう。
 こんなに弱かったかなあ、あたし。

「シャワー浴びろ」
「うん…………」
 まだ時折しゃくりあげながら、のろのろと服を脱ぐ。
 あっ…………。
 手の甲に、土とは別な、茶褐色の染みがこびりついていた。
 血だ。あいつの、鼻血。
「!!」
 手をつかまれた時の恐怖、嫌悪感がよみがえってきて、蛇口に飛びついた。お湯を手に全開でぶっかける。石鹸。鷲掴みにして、押しつけ、潰した。
 アヤに止められるまで、あたしは全身びしょ濡れになっているのにも気づかず、洗面台を泡だらけにしながらひたすらに手をこすり続けていた。

 体を洗い、パンツだけはいて出る。アヤは扉のすぐ脇で腕組みしていた。あたしがまた変な真似したらすぐに飛びこむつもりでいてくれたみたい。あたしを止めるときに濡れたジーンズ脱いで、アヤも白のショーツ一枚きりの姿だった。
「大丈夫……もう大丈夫だから…………」
「そうか」
 その後はもう会話もなく、そろってノーブラ、上だけ着て、だらしなくあぐらをかいて座りこみ、帰る途中で買ってきたジュースを飲みお弁当をもそもそと食べるばかりになった。

「泊まってけ」
「うん…………」
「家に電話するか?」
「うん……」
 生返事をかえし、携帯を手にした。
「あ、おかーさん…………あたし、今日、友達のところに泊まるから。晩ご飯ごめん。じゃ。…………」
 家のすぐ近くで襲われかけたなんて言えない。心配させるもん。
 色々訊かれたけど答えず、すぐ切った。お兄ちゃんからメール入ってたけどそっちも見ない。明日だ。今日はパス。携帯の電源を切って、部屋の隅へ放り投げた。アヤはぎょっとしたようだけど、黙ったままだった。

「そんな心配そうな顔すんな」
 むすっとして言ってやる。
 心配され続けてると、自分は心配されるような目にあっちゃったんだって思いこんじゃう。そっちの方がダメージでかい。
 そう、あたしは何ともないんだ。実際、変なやつにからまれたといっても、それほどひどい目にあったわけじゃないし、その気になればあんなやつ、タマに蹴りくらわせてやれば――――
「やめろ」
 厳しい声が飛んできた。
 何を? と思って、アヤの視線に気がつく。

 あたしの手。
 左手が、あいつの血のついていた右手の甲をひっかいている。
 こすりすぎて真っ赤になっているそこを、かきむしっている。

「あ…………」
 アヤは何も言わずにあたしの手をとった。
 自分の手を重ねる。ひりひり。ちょっと痛い。
「痛いか」
 表情で気づかれたみたい。これじゃしらばっくれても無駄だ。
「痛い。離して」
「いやだ」
「離せよ」
「………………」
 アヤは口をつぐみ。
 ぐいっと、あたしの手を引いた。
 こてん。あたし、倒れる。寝転がって、床からアヤを見上げるかたち。
「もう、いじるな」
 今度はあたしが口をつぐむ番。
「気になるのか」
「…………別に」
 何となく意地を張って、頬をふくらませる。
 すると、アヤはあたしの目をじっと見てきた。
 不思議な表情だった。
 笑顔じゃない。目つきはきつく、唇も真一文字。
 だけど――――これ以上ないくらい暖かく、優しい気配が伝わってくる…………。
 手が、さらに引かれた。
 やわらかな感触。
 あ……。

 アヤが、唇を、あたしの手に…………押し当てた。

 それだけじゃない。熱い、ねろっとしたものが、真っ赤な肌の上を這う――――舌だ。
 舐めてる。アヤが、あたしの手にキスして、肌を、舐めてくれてる。
 ざらざら、こすれる。骨のところをこりこりされる。
 鈍い痛み。でも同時に、言葉にできない快感がさざ波のように全身に広がってゆく。
 怪我した子ネコを舐める親ネコみたいに、アヤは一心不乱にあたしの手を舐め続けた。
 だんだんとあたしの全身は痺れ、どこにも力が入らなくなってくる。ゆったりと広がる繊細な快感の波が、体中にぎっしり詰まっていたあたしの強情、意地、我慢、羞恥……ありとあらゆる強張った感情を解きほぐし、とろかしてゆく。
 アヤ。本当に、動物みたいなやつだ。すごく口べただから、どうやってあたしをなだめたらいいのかわからなくて、それでこんなことしてくるんだろう。
 でも、百の慰め言葉よりも、あたしにはこうして舐めてくれることの方がずっと嬉しい。

 すごく強くて、不器用で、優しいこの子のことが、前よりもっと好きになってきた。
 助けてくれた時、暗い中にあらわれた颯爽とした姿。
 あの時は呆然としてるだけだったけど、今思い出すと、胸の裡がかっと熱くなる。
 格好よかった。すごく。

 あたしの中で、熱いかたまりがふくらんでくる。ふくらみ、ふくらみ、さらにふくらんで、抑えられなくなる。

(そうか…………そうなんだ…………)
 わかった。
 わかってしまった。
 あたしの、今のこの気持ち。

 本物だ。
 あたし、本当に、この子のこと好きになっちゃってる。

 友達同士の“好き”、興味あるって意味の“好き”じゃない。もっと強い、もっと深い――――恋人同士の“好き”。
 見ているだけじゃイヤ。
 欲しい。
 この子を自分のものにしたい。あたしだけのものにして、ずっとずっと一緒にいたい。
 エッチなことだって…………したい。
 この子が相手なら。
 いくらでも。
 思いっきり、したい。

 だけど…………ダメ。
 この気持ちは隠さないと。
 でないと、嫌われる。女同士だもの。あたしはよくても、アヤがいやがる。
 アヤに嫌われたら自分がどうなってしまうのか、想像もできない。考えるだけでもぞっとする。

 だけど、ああ、舐められてると、気持ちいい、気持ちいいんだよ…………。
 ずっとこのままでいたい…………。

 どうしよう。どうしたらいいんだろう。
 この気持ち、どこへやったらいいんだろう。

「…………万里江?」
 アヤがびっくりしたようにあたしを見た。
 頬が熱い。
 いつの間にか、またあたしは泣いていた。

「痛いか?」
「いや…………違うよ」
「でも」
 気遣う声が、視線が、さらにあたしの涙を誘う。
「いいから、ほっといて!」
 手を振りほどき、身を丸めた。
「万里江」
 アヤの手が肩に置かれた。体がすぐそこに。あたしの上に。覆いかぶさってくる。
 腕を回し、長身を使ってあたしを包みこんでくれる。長い黒髪があたしの肩に、背中に降りかかる。
「もう大丈夫だから、泣くな」
「わかってる、そんなの、わかってるよ!」
 するとアヤは、指であたしの涙をぬぐってくれた。
 細い指。この手は、あたしを助けてくれた手。あたしを抱きしめて、あたしにさわってくれた、アヤの手なんだ……。
「やめて……!」
 必死に叫ぶ。
 でも、その声は悲しいくらいに弱々しい。腕も全然動かない。ちょっといやいやをするように首を振っただけ。

 あたしの心を裏切って、体がみるみる熱くなる。もっとして、もっとさわってと叫んでる。すぐそこにあるアヤの体に抱きつけ、今ならしがみついてもいいって、あたしの中のずるい部分が促す。これはチャンス、今ならアヤは嫌がらずにあたしのしたいようにさせてくれる。アヤの優しさに甘えろ、使え、利用しろ。さわりたいんだろ、この綺麗な肌に? 抱き合いたいんだろ、この子と? 自分のものにしたいんだろ、初恋の相手を?

「あ…………」
 なんてことを。
 あたしは自分への嫌悪に震えた。
 それを明らかに誤解して、アヤがますます強く抱いてくる。
「やっ、やめ……」
 蒸発寸前の理性を総動員し、逃れようとする。
 でもやっぱりこの体勢からは無理。
 首をねじ向け上体を動かしたところで重心が崩れ、横倒しになった。
 あたしの上にアヤがのしかかってくる体勢に。――――あるいは、そうなることを期待してあたしが自分から引きこんだのかもしれない。もうわからない。
 アヤの肌、アヤの体があたしに触れる。なめらかな肌があたしの肌と重なる。触れたところすべてが熱くなる。
(アヤ…………!)
 腕が動いた。あたしの意志じゃなく、勝手に。
 アヤの頭をかかえこみ――――
 引きこんで、そのふっくらした唇に、自分の唇を押しつけた。
「ん!」
 アヤの目が大きく見開かれた。

 ――――。

 やっ……ちゃっ……た……。

 もう取り返しがつかない。
 これでおしまいだ。嫌われる。ヘンタイって思われて、嫌われなくても敬遠されて、距離が開いて、一度できてしまった溝はもうどうやっても埋めようがなく、アヤと二度とこんなに近づくことはできなくなる。
 きっと、これが最初で最後のキスだ。
 甘い。
 あたしにとってだけ甘いキス。たまらなく甘くて、切ない口づけ。
 忘れない。

「………………」
 唇が離れた。
 呆然としているアヤを押しのけ身を起こす。
 背中を向け、体を丸め、喪失感に沈んだ。
「ごめん。…………ごめんね……」
 そう言うのが精一杯。

 もっと言いたい言葉はある。でもそれは全部溶けて、涙になってしまった。後から後から流れ出てくる。こんなに言いたいことがあったなんて。こんなに形にしたい想いがあったなんて。もう言えない。永遠に言葉にできないまま、こうして涙になって、空しく流れ落ちてゆくばかり。

「…………帰る…………」
 のろのろと身を起こした。
「え? おい、待てよ、帰るって」
「帰る」
「おい、待て、待てったら。もう電車ねえぞ」
「うるさい! 帰るったら帰るんだ!」
「何言ってやがる! 落ちつけ! 気ぃ落ちつけて、考えてみろ!」

 もみ合いになった。
 あたしの目は涙の幕で覆われて、周囲のものがまともに見えない。目の前にいる背の高い影に体ごとぶつかってゆき、赤ん坊みたいな泣き声を上げながら手足をめちゃくちゃに振り回す。壁を何度も殴り、蹴る。

「……ごめんな」
 あたしの首に何かがまきついてきた。
 次の瞬間、視界が狭まる。
 くらっ。世界が歪む。頭がぼうっとなる。
 何だ、これ。どうしたんだろ、あたし。

 額に手が。反射的に目をつぶる。
 すごく強い声がした。

「そら、お前の目が、もう開かない!」

 え…………?

「開けてみろ。絶対に開かない。お前のまぶたはしっかりくっついて、もう開くことができない」

 え、え、え…………。
 目が? なに?
 目を開けるんだっけ。
 ん……あれ。
 開かない。まぶたがひくひくするばかり。
 なに、何がどうなってるの?

「落ちつけ。ゆっくり、深呼吸するんだ。思いっきり息を吸って……」

 そっか、深呼吸だね。
 すううううう…………。

「静かに、体中の空気を吐いていく…………そうすると、すごく気持ちが楽になって、体の力も抜けてくる…………そら、もうどこにも力が入らない…………楽になるぞ、楽になる…………」

 ふううううう…………あ…………ほんとだ…………落ちつく…………。

 もう一回深く吸う。言われるままに、体が空っぽになるまで全身の空気を絞り出す。体がさらに重たくなった。立っているのがつらい。もたれかかる。何に? 何でもいいや。しっかり支えてくれているから大丈夫。

「三つ数えると、お前の全身の力が抜けて、もう立っていられなくなる…………お前はとても眠たくなって、眠ってしまうんだ。みっつで眠る。いいな。数えるぞ。ひとつ、ふたつ…………みっつ」

 あ…………。
 だめ、体、重い…………。
 足が溶けちゃったみたい。床を踏んでいるのかどうかがわからない。頭も靄がかかってきて、意識がでろでろと広がっていく感じになる。
 眠いよ…………。

 …………。

 低い女の子の声、とっても素敵な響きの声が、いくつもいくつもあたしの中を通り抜けていった。何も考えられない。声に包まれるみたいで、うっとりするばかり。体が自然に動いている。大きな流れに身をまかせて、あたしはゆらゆら揺れている。自分の体がどうなっているのか全然わからない。どうでもいい。この気持ちいい世界にいつまでもひたっていたい。

「……ここのつ。もうほとんど覚めている。目を開けることもできるぞ。次ですっきり目が覚める。すごく落ちついた気分のまま、完全に催眠から覚める。はい、十!」

 パン!

 鋭い拍手とともに、あたしは深いところから浮き上がってきて、ぱっちり目を開けた。