一
美しい絵画のような光景であった。
空はさわやかに晴れ、そよ風が草を軽く波打たせている。
通りすがりの誰もが足を止め、うっとりとため息をついた。
車道を走る車のエンジンさえも、その前にさしかかると遠慮して音をひそめるように思われた。
それは汚してはならない聖なる姿であった。
緑きらめく土手の上に、両脚をそろえてつつましく腰を下ろした、白いワンピース姿の少女。
純白の布地によく映える、長くつややかな黒い髪。透き通るような肌。路傍にひっそりと咲く水仙を思わせる、匂い立つような美貌。恥じらうようにそっとその身を包んだ風は、清浄な香気を引き連れて静かに流れ去ってゆく。
夢見るような瞳は空の青を映している。これから訪れる夏の息吹を待ち受けているのか、それとも愛する者への慕情を抱きしめているのか。見る者の心を切なげにかき乱すような、あるいは遠い日に抱いた甘酸っぱい想いをよみがえらせるような、ひそやかな微笑。
淡い光芒に縁取られているかのような愛らしいその姿。
そして、少女と共に、白い鳩。
いずれがいずれとも見分けのつかない、目にも鮮やかな純白の羽を持った鳩が、四羽。
一羽は草にそっと置かれた指の近く。一羽は膝の上。一羽はほっそりとした肩。そして最後の一羽は、誘うようにさしのべられた少女の繊手に舞い降りる。
誰も不思議には思わない。
妖精が鳥を呼び、共に戯れるのは当然のことだ。
少女の唇が動いている。
鳥と話しているように。
時になごやかに、時にあでやかに笑う。
それもまた、夏を待つ少女にはふさわしかった。
※
もっとも、飛鳥理緒という少女の名前を聞けば、見つめる目には好奇と戦慄の要素が入り混じってきたに違いない。
この街でも奇人変人の巣窟として悪名高い天上高校。
そこに跳梁跋扈する変わり者の中でも屈指の強者。
天上の双璧が一人、“暁の天使”。
それが、この美少女だった。
※
理緒は本当に鳥と言葉を交わしていた。
この鳥は四羽とも、見た目こそただの鳩であるが、その実体は天からの使いの準天使である。
だから人の言葉をしゃべることができる。
理緒の額に開く“神の瞳”には、どんな人間でも催眠状態に入れる力がある。それを彼女に与え、その力でこの世に光を導くためにつかわされたのが彼ら準天使だ。
ただ実は、理緒とこの四羽はこれが初対面だった。
「あら」
少し前、この土手に座り、空に白い点があらわれるのを待っていた理緒の所にやってきたのがこの四羽。
「いつもの方ではありませんのね。あの方はどうなさいましたの?」
『……ストレスのあまりに胃潰瘍』
四羽は声をそろえて言った。声と言っても人間のそれとは違い、どこか遠くから響いてくるような、どこから発せられているのか見当もつかないものであったが。
「まあ。お気の毒に」
『………………』
あえて鳩たちは黙っていた。
前任者から理緒についての話を聞き、あなた方に胃潰瘍というものがありますのという、とぼけた質問を予想していた。
そうきたら、人間であればそういうところだ、わかっているのか、その原因は君だ、君のあまりの無軌道ぶりが彼に多大な心労を与えたのだ、少しは反省したらどうだ、そもそも君に与えた力は世のため人のために使うべきで……と説教の速射砲をかますべく、待ち受けていたのである。
「よろしくお伝えください」
読みは外れ、理緒は痛ましげにそう言った。胃潰瘍という言葉を額面通り受け取り、何の疑問も抱いていない。
背中に生えている、理緒とこの鳥たちにしか見えない黄金の翼をぱたつかせる。ひどく小さく、人の手ほどの大きさしかない。
「ぜひお見舞いにうかがいたいところなのですが、わたくしの羽はまだこれしかありませんので、まだ天の国へうかがうことができませんの。いたらないわたくしをどうかお許しくださいまし。ご快癒の折には、わたくしのお友達を集めて、にぎやかに全快パーティーを催させていただきますわ。楽しみになさっていてくださいませと、わたくしが申していた旨お伝えいただけますか?」
……鳥に『苦虫をかみつぶす』という表情があるとすれば、これがまさにそうであっただろう。
その『お友達』というのは、理緒の“神の瞳”の力で催眠術をかけられもてあそばれた、元々その気はまったくなかった純真無垢な女の子ばかりだ。前任者から教えられてちゃんと知っている。
“神の瞳”の力は強大なもので、それを人間に与える準天使には慎重な人選が要求される。
理緒を選んだ前任者がはたして何を考えて彼女を選んだのか、四羽は知らない。それを訊くと天使の羽が黒く変わる悪魔化を起こしてしまうからである。人間で言えば発作の果ての喀血に相当する。
理緒から力を取り上げるのは不可能ではない。だが今のところ、理緒は力を使って非道なことをしていないのもまた確かなのであった。理緒とのレズ行為に引きこまれた女の子は、みなそれぞれ悩みを抱えて苦しんでおり、理緒と体を重ねることでそれなりに救われたのは嘘ではない。
あくまでそれなりに、ではあるが。
動機はともあれ、結果が悪くないのだから、取り上げるまでには至らない。
またそんなことをすれば、見る目がなかったと判断されたことになり、倒れた前任者は屈辱と責任感から堕天使になってしまうであろう。人間で言うなら切腹である。
かくして、お目付役の交代となった。
それも、一人というか一羽というか、とにかく単独では前任者の二の舞を演じかねないということで、一挙に増員された。天界の決意のほどがうかがえる。
「まあ、そうでしたの。よろしくお願いしますね」
自分が原因であるということを自覚しているのかいないのか、理緒は笑顔で四羽を順々になでさすった。見物人がため息をつく。あの鳥になりたい、と口走った野郎は十人をくだらない。ちなみに全員遠巻きにしているので、会話を聞き取った者はいない。下手に抜け駆けしようとしたら、他の男たちに袋叩きにあう。
ひしひしと包みこむような視線を感じ、四羽は急いで普通の鳩のような仕草をしはじめた。
『ともかく』
四羽のうち、理緒の手に止まった鳥が言った。
『これからは我々が』膝の上。
『君の面倒を見る』指の先。
『もう今までのようにはいかないぞ』肩口。
「ええ、色々とお教えくださいませ、みなさん」
理緒は殊勝に言って微笑み、それからふと四羽をそれぞれ見比べた。
「……みなさんをどのようにお呼びすればよろしいかしら?」
四羽はそれぞれ長ったらしい名を名乗った。
「覚えにくいですわね」
理緒は形いい眉をひそめた。
『ならば君の好きなように呼んでかまわんよ』
ここまで理緒が謙虚だったので、準天使たちは油断した。
理緒はにっこりした。
「では、あなたがミカエル、あなたはガブリエル。あなたはラファエル……」
『ちょっと待ったあ〜っ!』
四羽がいっせいに叫んだ。
『そ、それだけはやめてくれえ!』
いずれも準天使とは比べものにならない大天使である。
そんな名をつけられた日には、呼ばれるたびにその方々が天の彼方からこちらに注意を向けてくるのを感じてしまうであろう。恐れ多くて身もすくむ。
たとえは悪いが、やくざ組織末端のチンピラが、全国規模の巨大暴力団の総長の名前を愛称にされるようなものだ。
「いけませんの。じゃあ……」
準天使たちは己の犯したあやまちに今更ながら気がついたが、もうどうしようもなかった。一度口にした言葉を撤回するというのは、嘘をついたも同然だ。天界に属する彼らに嘘は許されない。肉体的なものと同じようなダメージとなる。天使としてのレベルアップに関する査定にも関係してくる。この辺りは天界といえども人間社会とそう変わりない。
「持国天、増長天、広目天、多聞天」
『…………我々は、天使なんだが……』
「四人となると難しいんですのよ。四大天使が駄目、四天王も駄目となると……そうですわ、火水風土の四大精霊、サラマンダー、ウンディーネ、エリアル、ノーム」
『……そういう大物の名前はまずいんだって』
「観音、普賢、文殊、弥勒の四菩薩もそれではいけませんわね……」
『つける気だったのか』
「朱雀、青龍、玄武、白虎も駄目ですの?」
『……いい加減大物から離れてくれないか』
「では、身近なところで、スペード、ダイヤ、ハート、クラブ」
『……まあ、それなら……』
「そうなるとわたくしはジョーカーですわね」
四羽はそろって『不機嫌』という波動を送ってきた。
あまりにも理緒にぴったりなので。
『いっそのことビッグワンとでもしたらどうだ』
一羽が皮肉っぽく言った。
「わたくしが、兄の仇を捜して全国旅をするのですか?」
『…………詳しいな』
「従姉から色々と。鞭も教わりましたわ。わたくし筋がいいそうです」
『……その顔が見たいよ』
「すごくきれいな方ですわよ」
理緒は次に移った。
「それでは、エース、キング、クイーン、ジャックではいかが」
『いいよ、それで』
「一番優秀な方がエース、一番偉大な方がキング、一番美形の方がクイーン。……ジャックはどなたですの?」
四羽はにらみ合って動かなくなった。
「猪鹿蝶。ひとつ足りませんわね。
トンナンシャーペー。シャーさん、ペーさん、なんて響きがよろしくないですわね。
タロットでは多すぎますし……」
『もう、何でもいいから……』
「じゃあ、ラオウ、トキ……」
『ストーップ!』
著作権マークのついた吹き出しが理緒の口をふさいだ。
「マミ、ペルシャ、エミ、ユーミ……あなたたち、女の子ではありませんわね」
『……男でもないが……まあな』
「ケン、ジョー、ジンペイ、リュウ」
『ジンペイなんて嫌だーっ!』
『………………』
叫んだ一羽を他の三羽が無言で見やる。
「つばくろに失礼ですわよ。
では、西遊記はいかが」
『君が三蔵法師か。どちらかというと悟空だが』
理緒は順繰りに指さして、
「悟空、八戒、悟浄」
そして、
「カトチャ」
『待てや、コラァ!』
キレた。
「ジェダイト、ネフライト、ゾイサイト、クンツァイト」
『鉱石の名前だよな、確か』
『……いいんじゃないか?』
『もう、このあたりで手を打っておこうよ』
ひそひそ言い交わし、納得しかける。
『いや、駄目だ』
またも一羽が断固として言った。
『なぜだ?』
『準とはいえ天使の我々にそんな悪の名前はまずい』
『悪?』
「あなた、本当によくご存じですわね」
言われて慌ててばたばた羽を振る。
理緒は両手の中指と薬指を折り曲げて、腕を右へ左へ動かした。
「こうでしたかしら? 昔見たきりなのでよく覚えていないんですけれど……愛と正義のセーラーふ……」
『やめーぃっ!』
顔の前で羽ばたかれて理緒は台詞を中断した。
「そうそう、月と言えば……ミランダ、アリエル、ウンブリエル、ティタニア、オベロン……ああ、折角の素敵な名前ですのに、お一方足りませんわ」
『なんだ、それは?』
「天王星の衛星ですわ」
やっとまともな名前が出てきたので四羽は安堵する。
「ああ、それなら木星のガリレオ衛星がありましたわね。イオ、ガニメデ、カリスト、ええと、あと一つ……」
『エウロパ。いい、それでいい、それにしてくれ』
「いけません」理緒は不機嫌そうに、「すらりと出てこないのはそれがわたくしの中に定着していないからですわ。そんな中途半端な名前を皆さんにおつけするなんて失礼です。いけません」
口をはさんだ一羽は他の三羽にきつく睨まれた。
「そうですわ」
理緒の表情が輝いた。四羽はぎくりとする。この少女の笑顔がろくなことにならないのはもう十分すぎるほど学習済みだ。
「いい名前を思いつきました。響きといいイメージといい皆さんにぴったり」
『……聞かせてくれ』
「ざるそば、もりそば、かけそば、てんそば」
『………………』
四羽はそろって、自分たちが前任者の後を追う日もそう遠くないことを実感した。
「お気に召しませんの?」
返事をする気力が出てこない。
「では…………困りましたわね、何にしましょう」
四羽は腹をくくった。こうなれば、とことんつきあうしかなかった。ここで投げ出したら、この先ざるそばさん、もりそばさんなどと呼ばれ続ける羽目になる。準天使のプライドがそんな事は許さない。
理緒は口の中でぶつぶつと、見た目はあくまで愛らしく、みそしおしょうゆとんこつとラーメンの種類、セイロンアッサムダージリンと紅茶の産地、パルメザンモッツァレラゴルゴンゾーラとイタリアンチーズの種類、キリンアサヒサッポロサントリと未成年としては不謹慎なメーカー名などをつぶやき続けた。
「そうですわ、これがありました。
アペン、ファリン、マイア、ペリト」
『何だ、それは?』
「アデニン、チミン、グアニン、シトシン、というのもありますけど」
『それは確か、人間の体の……』
「DNAを構成する塩基物質ですわ」
なんだかんだ言ってもこの少女は博識であった。前任者はその辺りを見こんでしまったのかもしれない。――――不幸なことに。
『ううむ……』
「アペン、ファリン、マイア、ペリトの方がよろしい?」
『だから、それは何の名だ?』
「略したものですけど、わたくしのお気に入りなんです。いつかペットにつけようと思っていた名前」
『ペットねえ……』
「本当はちょっと長くて、アペンディ……」
言いかけた理緒の口が、ぴたりと閉じる。
二
真夏にはまだ早いとはいえ、十分すぎるほどに太陽は熱を地上に投げかけてきている。
その中に、真っ黒な人影が立った。
男だ。
この距離でもわかる、剣呑な気配。
理緒に向かって堂々真正面から歩いてくる。
物陰から突き刺さってくる野郎どもの視線は、その羽織っているものの表面であっさり弾かれ、蹴散らされる。
ガクランだ。それも、今時どこで手に入るものなのか、裾が膝下まで届くようなやつだ。
足は下駄ばき、ぼろぼろのズボンに荒縄みたいなぶっといベルト、シャツの上から腹にさらしを巻き、ガクランは肩にかけるようにして、葉っぱのついた木の枝をくわえ、ぼさぼさ頭に斜めに学帽。
生きた化石、歩くシーラカンスのごときその姿。
天上高校三年、“番長”土門冴雄斗。
どもんさおと、と読む。
全身に喧嘩上等と書きなぐってあるようなたたずまいにこの風体であるからよくからまれる。番長、という名乗りを聞いて、大抵の相手は腹をかかえて笑う。だが意外にも彼は怒らない。相手が殴ってこようとも、微動だにしない。鋼鉄のような体だ。大抵の相手は自分の拳を痛めてそこで終わる。冷静さを備えた相手とにらみ合いの状態になると、彼は静かに地面か壁に自分の名前を書く。普通、土門はともかくその後の名前は読めない。相手が口ごもるとはじめて雄叫びをあげて襲いかかってゆく。どういうわけか、相手が自分の名前を読めないとこの男は怒りの発作にとらわれるらしいのである。
ちなみに、天上高校には他に三人の番長、総番長と大番長、裏番長がいる。土門に言わせればどいつもこいつも偽物だそうだが。
理緒は急いで立ち上がり、草いきれをはらった。
土手を登ってきた番長が理緒のすぐ前に立つ。
むわっと気温が数度上がったような感じになった。
土門の身長は180を若干超えるぐらい。腕力沙汰の世界ではそれほどの体格ではない。だが中身は野獣だ。想像もできないくらいの爆発力がそのガクランの中に隠されている。
強い眉。そういう言い方が許されるなら彼の太い眉毛はまさしくそれだ。人間としてありとあらゆる意味での強さが満ちみちている。目の光も強い。眉間に傷がある。そこら辺の学生とは迫力が違う。
だが粗暴な感じはしない。漢と書いておとこと読む。獰猛ではあるが筋は通す、そんな“漢”の目つきが理緒を見下ろしてきた。
「……大丈夫ですわ、アペン、ファリン、マイア、ペリト」
心配するように頭上を飛び回っている四羽に向かって理緒は言う。いつの間にかその名前に決めてしまったらしい。
「この方は女性には優しいのです。その辺りの無道非道な皆様とは違いますわ」
「ほ、人の言葉がわかるのかい」
土門は相好を崩した。そうすると意外に愛嬌のある顔になる。
「ええ、お利口さんですから。わたくしの頼れるナイトなのですわ」
「ナイトか。そいつはいい。お似合いだ」
「おはようございます、土門さん」
「ああ、おはよう」
天上高の生徒であるから、この“暁の天使”の名前の由来は当然知っている。それにしてもこの午後の日射しの中でいきなり言われ、さらりと返した土門もある意味ただ者ではない。
「……さすがですわね」
「天上の番長を甘く見てもらっちゃ困るな」
上空の四羽が頭痛でも起こしたみたいによろめいた。
「暑くありませんの? 日曜日ですのに、そのような格好で」
「暑い。だがこいつは俺が俺である証だ。脱ぐわけにはいかねえ」
土門は青空を舞う四羽を見上げた。
「……ああ、焼き鳥にビールが恋しい季節」
うっとりと土門――――ではなく、理緒が言った。
土門はあきれたように美少女の横顔を見やった。
「あんたのナイトじゃなかったのか」
「美味しいものは天上天下、万国共通なのですわよ」
「野バトはあんまりうまくないぜ」
食べたことがあるのか。
「ええ、筋は固いし、肉が少なくて」
なぜ知っている。
「でも、あれはまるまる太ってるな。うまそうだ」
「そうですわね。……いらっしゃい」
理緒は腕を差しのべ、王女のように優雅に呼ばわった。
――――もちろん、一羽も降りてはこない。
「…………それで、わたくしに何の御用ですの」
何事もなかったようににこやかに理緒は言った。
「ちょっと話がある。つき合ってくれないか」
「はい」
あっさりうなずかれ、土門の方がびっくりしたような表情になった。
歩き出した土門に理緒はついてゆく。
四羽の白鳩は、どうしようかと鳴き交わした。
「……アペン、ファリン、マイア、ペリトよりも、バドワイザー、クアーズ、ミラー、ハイネケンの方がよかったかしら」
「あいつらの名前か。酒ならやっぱり日本酒だろう。八海山、〆張鶴、天狗舞、越乃寒梅なんてのはどうだ」
「悪くありませんわね。ですけど、天狗舞よりは緑川ですわ。産地を越後で統一いたしましょう」
頼むからやめてくれと四羽が理緒の頭の近くでばたばた羽を鳴らす。
「あんた、お嬢様にしては意外にいけるくちなんだな。驚いたぜ」
「いえ、わたくし、お酒はまだたしなんだことがありませんわ」
「そうか、俺も下戸だ」
「………………」
「………………」
二人は力量を認めあった好敵手同士のように視線を交わした。
※
土門は理緒をとある喫茶店へ連れていった。
「……乙、かしら。もう少し色がやわらかいとよろしいのですけど」
メモ帳を取り出した理緒に向かって手が伸びる。
「これを」
「?」
百円玉が何枚か手渡される。
「お茶代だ。ここの中にいるやつに会ってくれ」
言うなり自分は店に背を向ける。
「あら、ご一緒してくださらないのですか。困りますわ」
「見りゃあわかるよ。じゃあ、すまねえが、頼む」
「……頼む?」
理緒はガクランの背中を見送って小首をかしげた。
鳩たちがすぐ脇の塀の上に並んで止まる。
『……どうするんだ? 何をたくらんでいるのかわからんぞ』
「悩みの波動を感じましたわ。あの方も悩んでいらっしゃるのですね」
『……君が悩みの波動を感じなかった相手というものがいるのか』
「人はこの世に生きてある限り悩みを抱えているものですわ」
『じゃあ早速彼の悩みを聞き出してやったらどうだ』
「でも大丈夫、あの方は御自分で悩みを乗り越えられる強さを立派に備えておられます」
『単にあのタイプに近寄りたくないだけだろう』
「さあ、悩める方を救いに参りましょう」
『図星だな』
理緒は空を振り仰いだ。
「あら?」
『……こっちだ』
「いつの間にいらっしゃったんですの?」
『………………』
どうやら自分たちの言葉をはなから聞いていなかったらしい。今の台詞は独り言だったようだ。四羽は転げ落ちるのを気力を振り絞ってこらえた。
店に入る。
男という男が投げかけてくる熱い視線を浴びながら、理緒は店内を見回した。冷房がよくきいていて心地よい。座席の数はざっと三十。それほど大きな店ではない。客は十人ほど。
「あの方ですわね」
すぐに理緒の目があるテーブルで止まった。
ガクラン姿の背中がひとつ。
「おはようございます」
いつもの挨拶をかけると理緒はするっと向かいの座席に座りこんだ。人違いだったらとは考えない。そういう言葉は彼女の辞書には載っていない。目的の人物ではなかったとしても、それは神様が巡り合わせてくれた運命の相手と考えるのが理緒なのだ。
待ち合わせの相手がいたのかと失望の空気が店に充満した。
「え……あ…………」
「あら」
理緒の瞳がわずかに大きくなった。
あの番長の紹介で、しかもまた休日にガクラン姿ということで、どんなむくつけき男かと思っていたら、これがまるで違った。
背筋をきちんと伸ばしていたので背中にたくましい印象があったが、向かい合ってみると理緒よりも一回り小さかった。
中学生らしい。
華奢な体である。
襟元のホックをきちんと留めている。これも細っこく色白の首にはまだ喉仏は出ておらず、その上に卵型の、象牙みたいな肌つやの顔が乗っかっていた。
小振りなあご。肉厚で見るからにやわらかそうな唇。一点のしみもないなめらかな頬は血の気が透き通って桜色。おとなしめの鼻は黒縁の丸メガネを支えていて、黒目がちの大きな目が突然あらわれた理緒の姿に驚いていっぱいに見開かれている。繊細な眉。長めの髪はふわりとふくらんでいて、照明が反射してできるいわゆる天使の輪というやつがほの光っている。
たおやかで、気弱そうで、それでいて精一杯突っ張っている感じがする。何をするにしても守ってやりたくなるような男の子だ。
「あ、あの…………?」
「アップルティーをお願いします」
平然と注文する理緒にどう対応していいのかわからない様子である。その困った顔がまた何とも愛らしい。
「はじめまして、飛鳥理緒と申します」
「ど、土門……たつまです……」
「土門? 番長さんと同じですわね。もしかして、弟さんですの?」
「土門冴雄斗は兄です。そうか、兄さん……またこんなことを……」
少年はうなだれてため息をついた。
「またとおっしゃいますと? ここに来てあなたとお会いするように頼まれたのですが、それ以外わたくし、何も存じ上げませんの。よろしかったら、教えていただけませんか?」
「え…………は、はあ……」
少年はそうは言ったが、屈託なく笑いかけてくる年上の美少女の姿に、顔を赤くしてうつむくばかりである。
理緒はにこにこして待っていた。それがさらに少年にプレッシャーとなる。
「……たつまというお名前は、どう書きますの?」
運ばれてきたアップルティーの香りを楽しみながら、理緒は氷水のコップの水滴を指につけ、テーブルに字を書いた。
「冴雄斗さんの弟さんですから、断末魔とか」
「いえ、坂本竜馬と同じ字を書いて、たつまって読むんです……」
少なくとも、動じないところだけは確かに番長と同じ血を引いているようだ。
「それも素敵ですわね」
「名前負けしているでしょう?」
自嘲するように言った。
「自分でも、どうしてこんな風なんだろうって思うんです……。兄さんの弟として恥ずかしくないようにしたいのに……」
「男の方からラブレターでもいただきましたの?」
「わ、わかるんですか?」
当てずっぽうが的中しただけなのだが、理緒は何も言わないので竜馬少年は心を見抜かれたと勘違いした。観念したように話し出す。
「そうなんです……。それも、今度で五回目です……。ぼく、そんなつもりは全然ないのに……。
兄さんみたいになりたいんです。でも、喧嘩は怖いし、背は全然伸びないし……これだって、うちの学校、ブレザーなんですけど、男らしく見せたくって着てるのに……女の子に可愛いってきゃあきゃあ言われるし、みんなはおかしな目で見てくるし……」
頭を深々と下げた。
「すみません、飛鳥先輩にご迷惑をかけました。兄は、兄なりに考えて、ぼくに彼女がいればおかしな男が近寄ってくることもないだろうと、飛鳥さんの気持ちも考えないで、勝手に……。前にもこんなことあったんです。本当に、ごめんなさい!」
「悩んでいらっしゃるのですね」
理緒は優しく言った。ひとの悩みを解決することが催眠天使の力を与えられた自分の使命。その自覚「だけ」は十二分に持っている理緒である。
理緒の前髪がふわりと持ち上がった。
雪白の額にぴしりと赤い横筋がはしり、肉がべりべりとめくれて“神の瞳”が出現する。人間のものより一回り大きな、赤い瞳だ。
竜馬は驚いた様子はない。普通の人間には見えないのだ。
この瞳の放つ光を浴びた者は、即座に深い催眠状態へ引きこまれる。
だが理緒は何を思ったのか、立ち上がった。
店内を見回す。
“神の瞳”がものすごい黄金の光を放射する。
『………………』
理緒は細々した暗示を皆に送った。その間竜馬少年はきょとんとしている。
「わたくしでよろしければ、詳しいお話を聞かせていただきたいですわ。でも、ここではお話しづらいでしょう? 場所を変えませんこと?」
返事を待たずに竜馬の腕を取る。
「え? あ、あの……」
「にーちゃん、いいねえ、お熱いことで」
中年男の野卑な声が飛んでくる。
そこかしこで好意とはほど遠い目がぎらつく。
わけがわからずに怯える竜馬。
二人が店を出ると、店内にいた客全員がそろってゆらりと立ち上がった。
ぞろぞろと理緒の後を追って出てゆく。
「……しっかりな…………あんなガキ、やっちまってくれ……」
店のマスターもどこかうつろな目をしてそう言った。
少年の腕を取って出てきた理緒を、四羽の白鳩が電線の上から心配そうに見つめている。
『……大丈夫かな』
『今のところはあの少年には何もしていないようだが』
『しかし、店内で瞳を使ったな。どういうつもりなんだ』
『おい……なんだ、あの連中は』
理緒は竜馬の腕に自分の腕をからませて、ゆっくりと歩く。時折後ろをちらちら振り向いているのだが、ゆで上がったようになっている少年はまるで気づかない。
「このあたりでいかがかしら」
理緒が竜馬を連れこんだのは、人気のない、塀と建物の壁で三方をふさがれた裏路地だった。
二人に影がさした。路地の出口を男たちがふさぐ。
「よお、にいちゃん。みせつけてくれちゃって。可愛い子連れてんじゃんかよ、俺たちにもちょっと貸してくれや」
チンピラ語の教科書を棒読みしているように言ったのは、腹の突き出た中年男。その後ろに立つのは暇つぶし中だったらしい老人。シャツをだらしなく着崩した大学生らしき二人組。競馬新聞片手の男。ウェイトレスも混じっている。喫茶店にいた人々だ。
荒事には縁のなさそうな人々ばかりだが、いずれも大まじめな顔で竜馬少年を睨んでいる。彼らは理緒に操られていた。“神の瞳”で催眠術をかけられて、本気で理緒を欲しがり、本気で理緒と一緒にいる竜馬を憎んでいるのだ。
「その子をよこせ」
両腕を前に伸ばし、ゾンビみたいな格好になって路地に侵入してくる。
「きゃあ。怖いですわ。……」
演技丸出しで理緒が叫ぶ。竜馬を半ば前に押し出すようにする。
「お願い、わたくしを守って」
竜馬は蒼白になった。
(さあ、男らしさを発揮するのです。あなたの強さを心の中から掘り起こすのです)
理緒は上を見上げ、監視している四羽に向かって、わたくしだっていつもいつも直接相手を操るばかりではありませんのよと自慢げに笑った。
店の客たちには、竜馬少年には絶対にかなわない、彼の手に触れられたら途端に力が抜け、達人にやられたみたいに簡単に吹っ飛ばされてしまうと強い暗示を与えてある。これで少年には大いに自信がつくはずであった。
「く、来るな!」
竜馬は泣きそうな顔になりながらも、精一杯の勇気を振り絞って拳を構えた。
(まあ、なんて健気な)
理緒は男には興味がない。なのに思わず抱きしめてやりたくなった。これが片づいたらそうしようと決めた。そうした時の少年の困った顔を想像すると、常ならぬ興奮をおぼえて体がうずいた。犬の尻尾みたいに背中の小さな羽根をぱたぱたさせた。
だが。
「待ちな!」
ど迫力の声が飛んだ。
やかましくはためく長ランの裾。
冴雄斗だ。
理緒たちの背後の塀の上である。いつそんな所に回りこんだのか、腕組みして仁王立ちしている。勇壮なテーマ曲でも流れてきそうな姿である。
「うちの弟に何しやがる」
下駄を鳴らして飛び降りてくるなり、愕然とする理緒が何をする暇もなく、二人の脇を駆け抜けて人垣に突撃してゆく。
さすがは番長、強い。
たちまち全員が地面に折り重ねられた。
女性には手を出さないが、ものすごい形相で睨みつける。
ようやく我にかえった理緒が急いで催眠を解いてやると、ウェイトレスは悲鳴をあげて逃げ出していった。
「にいさああん!」
「怪我しなかったか、竜馬」
兄弟はひしと抱き合った。
「………………」
『これは、どちらかというとあの兄の方に問題があるのではないか』
『過保護もいいところだ。こっちこそなんとかしないと』
理緒の肩に降りてきた鳩たちが口々にささやく。
『さあ、今こそ正しく“神の瞳”を使うんだ』
理緒は二人を見比べた。
強い、たくましい、むさ苦しい、熱気むんむんの冴雄斗。
気弱な、細い、可愛らしい、汗まで甘く香るような竜馬。
「……いえ、これはどう見ても弟さんの悩みの方が大きいですわ。わたくしが力になるべきなのは竜馬さんの方です。ええ、絶対に」
鳩たちが口をさしはさむ暇もない。理緒の額にかつてなかったほど迅速に“神の瞳”が開き、光った。
「………………」
まずはこちらに顔が向いていた冴雄斗が、次いで兄の変化に気がついて振り返った竜馬が、たちまち催眠状態に導かれる。
「いいですか、番長さん。あなたはこれから家に帰ります。帰って、お風呂に入って、着ているものを洗濯します。そうするとものすごくさっぱりした、清々しい気分になれます。これから先、きれいにしているといつもいい気分でいることができるんです。では、早速そうしなさいな」
「……おう……」
冴雄斗がうつろな目つきのまま去ると、理緒はそちらには目もくれずに竜馬の手を取った。
「さあ、わたくしと一緒に来るのです」
『ちょっと待てええ!』
三
鳩たちを振り切るようなものすごい早足で、理緒は竜馬をカラオケボックスに引きずりこんだ。理緒がよくひとの“悩みを聞く”ために使っている店だ。
“神の瞳”が光る。催眠状態になった店員が部屋に案内し、命じられるままにドアの窓にガムテープで目張りをする。監視カメラにこれから映る光景は彼の意識には入らない。捕まえられる危険を冒して白鳩が一羽店内に忍びこんだが、分厚いドアの前にはさすがに手も足も出なかった。
「……さあ、あなたの悩みをじっくり聞かせていただきますわ」
理緒は焦点の合わない目でいる竜馬の両頬をはさみ、すべすべした感触をじっくりと味わった。
「おひげはまだ生えていらっしゃらないのですね。そうでなければいけませんわ。あなたのような可愛いお方に触れるのははじめてなのですけれど……ぞくぞくしますわね……」
ガクランのホックと一番上のボタンを外す。首筋をさすり、鎖骨のあたりへ手を滑りこませる。竜馬はくすぐったそうに身をよじった。
「……わたくしの声をよくお聞きなさい」
理緒は竜馬の目を閉じさせ、あらためて暗示を与えた。
「あなたはとっても素直になって、わたくしの言うことはなんでもきいてしまいます。よろしいですわね?」
「……はい……」
「きゃあ、可愛いですわっ!」
理緒はつい竜馬を抱きしめた。
「……いけません、我欲に溺れては。わたくしは、この方のたくましさ、男らしさを引き出してさしあげなければならないのです。この方のために、わたくしはウサギとなって炎の中に身を投じるのですわ。よこしまな想いなどひとかけらもございませんのよ。わかっていただけますね、アペン、ファリン、マイア、ペリト」
四羽がこれを聞いたらどう思っただろう。ましてこのあと理緒のはじめたことときたら。
「では。
竜馬さん。あなたは、これまで女の子を見て、エッチな気持ちになったことがありますか? 正直に答えるのですよ」
「…………はい……あります……」
「やっぱり男の子ですわね。よかった。では、これからあなたの意識をいつもの状態に戻します。目を覚まして、わたくしを見ます。すると、あなたの頭の中はエッチなことでいっぱいになります。わたくしから目を離すことはできません。エッチなことで頭がいっぱいになって、あなたは一匹のオスにかえるのです。絶対にそうなりますわ。
あなたは、目を覚ました後は、今のことは何一つ思い出せません。けれども、わたくしに言われたことは心の中にうずまっていて、全部その通りになりますし、わたくしがお眠りなさいと言えば、また今とまったく同じいい気持ちになるのですよ。よろしいですね。
いいですか、ではこれから三つ数えます。三つ数えて手を叩くと、あなたは何もかも忘れて、いい気分で目を覚ますのですわ」
……竜馬はうっすらと目を開けた。
「はい、どうぞ」
理緒がマイクを差し出す。
目の光が戻ってきた。急速に周囲の状況が飲みこめてきたようだ。カラオケボックスにいるということで納得したようである。
「あ……!」
理緒を見た竜馬の顔面が、火がついたみたいに紅潮した。
すぐに視線を移す。目の前に突きつけられたマイク。それを握るほっそりした指。なんて白いんだろうと夢中になって見つめている。なんてすべすべしているんだろう、触ったらどんな感じがするだろうかと考えている。
少年の心臓がどくどく高鳴っているのが聞こえてくるようだ。理緒は体の中に火がつくのを感じた。
おそるおそる伸ばしてきた手が、理緒の指に触れた。
「あっ……! す、すみません……!」
弾かれたみたいに手を引っこめ、あらためて直接触れないようにマイクを受け取る。受け取って、理緒が握っていたところを自分も握って顔を赤くするが、それ以上の行動には出ない。
(んもう、何をしていらっしゃいますの?)
理緒はじりじりした。
「曲は決まりましたの? どういうのがお好きなのです?」
自分から竜馬の隣に移動し、選曲カタログをのぞきこむふりをしながら身をすりつける。
竜馬は理緒の髪の匂いを陶然とかいだあと、慌てて遠ざかった。
(ま)
暗示は間違いなく効いている。ということは、この少年の自制がそれ以上に強いのだ。
(こうなったら、直接行使ですわ)
目的と手段がめちゃくちゃになっているが、気にする理緒ではない。
額に“神の瞳”が開く。
竜馬の頭の中に遠くから響いてくるような声がする。
『あなたは私には逆らえません』
シンプルな分、強烈な命令。
「……竜馬さん」
理緒は竜馬の肩に手をかけ、引き寄せた。
「うわあ! な、な、何を!」
「動かないでくださいまし」
途端に竜馬の動作が止まる。
理緒は少年のメガネを取った。
目を閉じ、動けないでいる少年の唇を奪う。
抱きしめた腕の中で竜馬の体が催眠によるもの以上にがちがちに硬直する。そのまま汗ばかりがどっと噴き出してきた。
舌を送りこむ。竜馬は舌を入れるということを知らないらしく、歯を閉じたままでいる。舌先でつつくようにしてやるとかすかに開く。一度開いたところへ容赦なく理緒の舌は潜りこみ、少年の口腔を蹂躙してゆく。竜馬はほんのわずかだけ抵抗したが、すぐになすがままになり、理緒は時間をかけて存分に誰も味わったことのない処女地を検分して回った。
(ああ、この初々しい反応、汚れを知らない感触……たまりませんわ!)
少年の首の後ろへ片腕を回してがっしりと抱きしめ、空いた方の手でガクランの残りのボタンを外してゆく。舌はなおねっとりと動き回っている。下に着ているランニングシャツは兄と同じ赤。肩口を引っ張ってガクランを脱がせる。むき身のゆで卵みたいな丸い肩がつるんとあらわれる。それを見た理緒の目も陶酔の色に染まった。
「あはあ……」
唇を離す。抜き出した理緒の舌を追って竜馬の舌が突き出されてきた。少年は自分が何をしているのかもわからない、とろけた顔になっている。理緒は舌先で少年の舌をくすぐり、引いた唾液の糸を巻き取るようにした。それから相手の顔を上向かせ、あごから喉、首筋、肩へと舐めてゆく。竜馬の腕がだらんと下がった。ガクランを完全に脱がせ、シャツもめくりあげる。
「……ああ、どうして…………どうして、わたくし、こんなに胸が高鳴っているのでしょう…………おかしいですわ、わたくしは殿方には心を動かすはずがないのに……ああ、このなめらかな肌……なよやかな腰……どうして、どうしてですの……」
うわごとのようにつぶやきながら理緒は竜馬のベルトを外した。
「あ……や、やめて……」
「まあ…………こんなにふくらんで……なんてきれいな色……」
理緒はブリーフまでむしり取るように脱がせると、竜馬を立ち上がらせた。完全に目がすわっている。
竜馬の額に手をあてる。
「一度お眠りなさい。深く、深く眠りなさい…………。
わたくしはこれからあなたを縛り上げます。あなたの両方の手首を合わせて、細いけれども絶対に切れない強いロープで、固く縛ります」
組み合わせられた竜馬の両手が暗示により硬くくっついた。もう自分の意志では離すことができない。
「その結び目に鉤を引っかけます。鉤は天井からのロープにつながっていますわ。これからわたくしが滑車を回します。一回まわすごとにあなたの腕は上に引っ張られていきます。わかりますわね。
では、回しますわ。一回……。ほら、きりきりと滑車が回って、あなたの腕が上に引かれます。二回……。三回……」
竜馬の腕が言われるままに持ち上がってゆく。目を閉じたままの竜馬の表情が苦しげに歪む。だが理緒の暗示には逆らえない。
やがて全裸の竜馬は天井から吊り下げられた状態になった。
無論、はたから見れば両手を組んで伸びをしているだけだ。
「さあ、あなたはもう完全にぶら下がってしまいましたわよ。両脚は爪先が地面につくぐらい。動けますか? ちょっとは動けますわね。でもどこかへ行ったり、倒れることは絶対にできませんのよ。おわかりですわね。では、目をお開けなさい」
「……あ?」
竜馬はきょろきょろした。理緒が視界内にいない。
「ここですわ」
理緒の手が竜馬の肩越しに伸びてきて、丸い頬をなでた。
“縛られている”ので首をねじる以上のことができない。
布ずれの音が竜馬の耳に飛びこんでくる。かすかな風。甘い香り。
竜馬の前にあるテーブルの上に、白いかたまりがふわっと置かれた。
服だ。理緒が着ていたワンピースだ。
そう理解した途端、竜馬の首から上が火がついたように真っ赤になった。
「うふふ。わたくしが今どのような格好か、おわかりですの?」
「あ……」
目の前にピンク色のものがひらひらする。
ブラジャー。
それがテーブルに投げられ、視線がそちらに引き寄せられた瞬間を狙って、理緒の指が上げられた竜馬の二の腕から脇の下、脇腹まで一気になでさすった。
「うああんっ!」
甲高い悲鳴をあげて少年は悶えた。体が右へ左へくねる。拘束の暗示が効いているのでそれ以上は動かない。
理緒の指はさらに同じルートを往復する。
「あ、あ、ああっ!」
「感じやすいのですわね。可愛らしいお声。……あなたがいけないのですわよ。殿方のくせに、こんなに魅力的な体をなさっているなんて……。もっと可愛らしいお声を聞かせてくださいまし。ああ、そう、その声ですわ。もっと。……はあ、ああ、わたくし、もう、辛抱できませんわ……」
理緒が背中にもたれかかってきた。
髪を頬ずりする。腕が胸を抱きしめる。肩口に押しつけられた柔媚なふくらみ。熱い。こりっと突き出した乳首の感触。密着してくる肌。竜馬は溶けてしまいそうな快感に襲われた。
「あ……はあ……あ……」
竜馬はあえぎ、震える。両脚の間から生えている肉芽みたいな幼いペニスが、生まれてはじめての興奮に大きくふくらみ、花びらがほどけるように開いた包皮の下から、鮮やかなピンクの花芯がその姿をあらわしてきた。すでに蜜があふれており、花開くと同時に糸を引いてしたたり落ちる。
「まあ……いけませんわ、もうそんなにしていらっしゃるの…………」
理緒の体が一度離れた。かがみこむ気配。最後の一枚の布きれが、魅惑的な両脚の間から抜き取られてゆく音。赤熱した少年の脳髄にさらなる興奮の大波が押し寄せる。
「これ……おわかりになりますわね……」
ブラと同じ薄いピンクの、レースのフリルがついたショーツ。
丸められたそれが竜馬の顔に押しつけられる。かいだことのない、けれどもたとえようもなく甘い、むせかえるような香り。
体のいたるところをこすりながら、下へ降りてゆく。暴発寸前の肉芽を避けて、すべすべの腿から臑へ、足へ。
理緒の手が足にかかった。言われて竜馬は足を左右順番に持ち上げた。ピンク色の布地が自分の脚を迫り上がってくる。
「ほうら、あなた、今、女性の下着を身につけていらっしゃるのですわよ。前はこんなにきつきつ。先がはみ出てひくひくしておりますわ。興奮していらっしゃいますの? まあ、なんていやらしいんでしょう。可愛らしいお顔をなさって、女の子のパンティをはかせられて、そんなにぶるぶる震えるくらいに興奮するなんて。いやらしい。あら、もっと大きくなってきましたわよ。可愛い。もっといじってさしあげますわ。こうされると気持ちいいでしょう。ああ、ほんと、何て可愛いのでしょう。……」
「あ、ぼ、ぼく……あ…………ああっ!」
竜馬の腰が痙攣し、密着した理緒の体を跳ね飛ばした。
「で、出るう……! あっ! 出る!」
ふっくらした少年の頬を、あふれ出た涙がつたった。
こんな快感がこの世にあるなんて信じられなかった。体が爆発したみたいになって、いうことをきかない。腰から生まれた熱い感覚が背筋を駆け上がってきて、頭の中で荒れ狂った。
「……すごいですわ……あんなに飛んで…………あんなに沢山出て……」
耳元で淫靡にささやかれ、なおも白いしずくをほとばしらせるうちに、全ての力が抜けた。両腕の拘束に全体重をあずける。実際には何もないのだから、細っこい裸の体はかくんと傾いた。
※
気がつくと、ソファーに横たえられていた。
完全に真っ裸だ。
だけどまだ両腕は“縛られた”ままでいる。手首のあたりがじんじんする。
意識がまだぼんやりしている。そこへ、真白いものがのしかかってきた。
熱くやわらかい感触が全身をくるむ。
相手が誰と理解する前に唇が重なってきた。滑りこんできた舌を今度はすぐに受け入れた。唾液が流しこまれてくる。甘い。夢中になって喉を鳴らした。
舌が抜け出していった時には、寂しいとさえ思った。目の前で妖精のような美貌があでやかに微笑んでいた。
「……ねえ、教えて……。ここ、感じますの?」
言われると同時に脇腹をくすぐられ、悲鳴をあげて身をよじった。
唇がわずかに尖る喉に下がっていった。顔にかぶさってきた豊かな黒髪はいい匂いがした。肌に触れるか触れないかぐらいの微妙なタッチで、二の腕から腋の下にかけてをいじられる。ひどくくすぐったい。だけどそれと一緒に体の中身が溶けていくような感じがする。快感。
「ここは、どうですの? はっきり口に出しておっしゃい。ここ、気持ちいいでしょう?」
「あ、あはあ!」
出そうとしたわけではないのに、声が出た。脇腹のくすぐったさを何十倍も強烈にしたような感触が脊髄を駆け上がっていった。乳首を舐められたのだと気がついたのはさらに何度もあえぎ声を振り絞ったあとだ。男でも乳首が立つなんて知らなかった。固くしこったそこを舌と指がこすり上げている。雷みたいなかたまりが体中を走り抜ける。頭が溶ける。
両脚の間に腕がさしこまれてきた。腿を押された。
「さあ、開きなさい…………力を抜いて……もうあなたはわたくしのすることには抵抗できませんのよ……。抵抗なんてしたくないですわよね……。だって、ほら、あなたのここ、もう、こんなに大きくふくらんできていますわ……。そう、そうですわ……。あなたの脚がすうっと開く……もっと大きく……こんな恥ずかしい格好はしたことありませんわね。でもどんどん開いてしまいますのよ。そう、もっと、もっと大きく……。なんてはしたないお姿なのかしら。見えますでしょう、あなたの大事な所が、もうこんな風になってしまっているの。なんていやらしいの。あなたはいやらしい方なのね。出したばかりなのにもうこんなに大きくして、ひくひくさせて、出したくて仕方がなくなっていらっしゃるのでしょう。本当にいやらしい子。変態。腕を縛られて、体中舐められて、触られて、いじられて、そんなに感じていらっしゃるの。ま、声まで出して。いけない方ですこと。こんな可愛らしい、真面目なお顔をして、なんていやらしいお顔をなさっているの? ヘンタイですわ。あなたはヘンタイ。あなたが本当はこんなエッチな子だなんて他の方に知られたら、もうあなたは生きてはいけませんわ」
「いや……やめて……やめてよ……ぼく……」
「いやなの? じゃあどうしてこんなに大きく脚を広げて、こんなに」
「あ、ああっ!」
「こんなに固くなさっているこれを、びしょびしょに濡らしておりますの?」
「やめてえ! 触らないで!」
「本当に? 本当に、やめてよろしいのですの?」
「あ……」
「本当にやめてほしいのなら、どうしてそんなに物欲しそうな顔をなさるのです? 実はもっと触ってほしいのでしょう? わたくしにはわかっておりますわよ。あなたは本当はこんな風に、指で、舌で」
「ひああっ!」
「めちゃくちゃにいじってほしい。もっともっと気持ちよくして、イかせてほしくて仕方がない。わかっていますわ。あなたはエッチな子なのです。あなたはとってもエッチな子。もう隠さなくてもよろしいですわ。いけない子。あなたの感じる顔を、もっと見せてくださいませ。そう、そんなお顔。そう……もっと、ほら、もっと!」
少年は崩れた。腰がのたうち、縛られた腕を震わせ、甲高い悲鳴をあげて首をのけぞらせた。涙が新たに頬にあふれてきた。
「あ、ああ、あっ、はああっ! ひいっ! き、気持ちいい! いいよお! もっとお!」
「そう、ここ、ここですわね。ここを、こんな風に舐められると」
「ひゃあっ!」
「とっても気持ちいいですわね。こうやってわたくしにいじられていると、あなたはもう少しでイッてしまうのですわ」
「あん、ぼく、ああ、イク、出ちゃう、ああ、も、もう、もう、駄目ええっ!」
先ほどの強烈な絶頂、体の中が空っぽになるようなあの噴出。魂までとろけるような悦楽を待ち受けて全身が期待に震えたその刹那、肉芽をくるみこんでいた舌が、唇が、指が、ことごとくするりとほどけて遠ざかっていった。
「おしまいですわ」
なぜと思うよりも先に耐え難い喪失感が襲ってきた。
出口のない体の中を炎が暴れ、焼けただれた脳髄があと一触の刺激を求めて、狂った。
「いやあ! やめないで! イかせて! イきたいよお!」
「駄目ですわ。わたくしがするのはここまで」
「いや、いやだあ! やめないでぇ! もっとしてよぉぉ!」
「いけません」
「して……してよお……」
子供みたいにぼろぼろ泣いた。次第にしゃくり上げてきて止まらなくなった。
額に手があてられた。期待に全神経がそこに集中した。何か言われた。腕のいましめがなくなった。
考えるよりも先に、自由になった手が感じるところへ動いた。せき立てる気持ちのままに握りしめ、激しくこすりたてた。だがあれほど望んでいたにもかかわらず、敏感な先端に触れた指は痛みを生じさせ、前後にこすると皮がひっかかり、なんとかしようと思うとかえってもたつき、折角の快感がみるみる薄れて消えていってしまう。
「……御自分でいじられたことはまだありませんのね、その様子だと」
くすっと笑う声が聞こえた。
両脚を抱えて身を丸くしている理緒の姿が目に飛びこんできた。
見せつけるように持ち上げられた脚の間に、ほのかな茂みが息づいている。ソファーに張りつくような丸い腰回り。豊かな胸が太腿に押し潰されて横にはみ出している。
淫魔みたいな悩ましい肢体に、あざけりの笑顔がくっついていた。
自分の苦闘を、面白がっている。
「………………」
消えかけた炎が再び燃え上がった。別の、もっと禍々しい色合いになって激烈に渦巻いた。
ふざけるな、と思った。
ぼくを笑いものにして、楽しいか!
ちくしょう!
そのきれいな体を、めちゃくちゃにしてやる!
「――――!」
獣みたいな声をあげて、竜馬は理緒に飛びかかっていった。
※
(やりましたわ)
両腕をつかまれ押し倒されながら、理緒は達成感をおぼえていた。
(そうですわ、それでよろしいのです。男らしいですわよ、竜馬さん)
竜馬は開いた理緒の股間に体を押し入れ、なんとか自分のものを押しいれようとする。だが力を抜いたら理緒が逃げてしまうのではないかと恐れているので、手を使えない。知識も経験もない少年には腰の動きだけでうまく秘所を貫くような真似はできなかった。
(本当に残念ですけれど、わたくしはもう神様にこの身を捧げておりますので、ひとつになることだけはできかねますの。これで許してくださいましね)
理緒は両脚を竜馬の細い腰に回した。
強く締めつける。
ぬらぬらと光る竜馬のものは、密着した腰と腰の間で、動かすことができなくなった。
サオのところを濡れた柔襞がはさみこむ。
敏感な亀頭に、これも敏感な淫豆が触れる。
「ん…………」
理緒の口からも淫らな吐息が漏れた。
つかまれている手首を動かして竜馬の体を引きこみ、胸に自分の乳首をこすりつけた。
「あっ! い、いいですわ……!」
どうしてよいかわからなくなった竜馬を尻目に、組み敷かれているはずの理緒の方が微妙に体を揺すり、快楽の声をあげはじめる。
理緒の額に“神の瞳”が光る。
『……あなたはさっきのようにまたものすごく感じてきます。そして、自分から私にキスしたなら、その時最高に感じることができます』
見る間に少年の顔が痙攣をはじめ、血の気がのぼった額に大粒の汗が浮いた。
「あっ。……ねえ、キスしてくださいまし」
理緒がよがり声の中から悩ましげにささやいた。
我慢できるはずがなかった。
竜馬は理緒の手首を離した。腕を首に回し、細っこい体に似合わぬ力で抱きしめる。理緒の顔を持ち上げ、誘うように開かれた唇に、情熱的に己の唇を重ねた。
理緒の真白い細腕も竜馬を固く抱きしめた。
激しく舌を絡めあいながら、竜馬は喉の奥で悲鳴をあげた。二人の腹の間に熱いものが噴出した。同時に理緒もまた、そこから芽生えた強い快感に襲われて自制を失った。竜馬の背中に爪をたて、脚をほどいて突っ張らせた。足の指が広がって反り返っていた。
それからしばらく、二人は折り重なったまま荒い息をついていた。
竜馬の肩越しに天井を見上げてぼうっとしていた理緒の瞳に、徐々に光がよみがえってきた。
「……ん……」
竜馬は全体重を理緒にあびせたままぐったりしている。理緒はわずかに身をねじって片肩を出した。
次の瞬間、どこをどうしたのか二人の上下はくるりと入れ替わる。
身を起こした理緒は、目を半開きにして喪心してしまっている竜馬の頬を優しくなでさすった。
「素敵でしたわよ。では、最後の仕上げですわ」
“神の瞳”が光る。
『あなたの心の中をのぞいてください。先ほど私を襲ったときの熱く激しい気持ち。そういう強い、男らしいところがあなたにもちゃんとあるのです。これまでは奥深くにしまわれていて、見つからなかったんですね。でももう場所はわかりました。これから先、あなたが喧嘩や争いごとに巻きこまれ、強くありたい、力が欲しいと思った時にはいつでも、そこから熱い気持ちを呼び出してくることができるようになります』
「……これでよろしいですわ」
理緒は壁のインターホンを外した。
「……あ、わたくしです。おしぼりを五本ほど持ってきていただけます?」
店員と一緒に、白い鳩が室内にすべりこんできた。
催眠をかけられているので室内の状況を異常と思わない店員に変わって、鳩はほとんどパニック状態になって部屋中を飛び回る。
テーブルに舞い降りて、羽根で頭をかかえた。
『な、何を…………なんてことを!』
「ええと、あなたは……マイアですわね、確か」
理緒は真剣に鳩の顔を見つめて言った。同時に湯気をたてるおしぼりで体についた竜馬の精液を拭いている。あまりに堂々としているのでかえって鳩の方が恥ずかしげに顔をそむけた。
「あら、失礼」
理緒は相手の態度に気がつき、急いで床に脱ぎ捨てられた下着を拾い上げた。先ほど竜馬にはかせたせいで、しみこんだ粘液が乾いてごわごわになってしまっている。
「あら」
理緒は慌てず、テーブルの上の自分のワンピースを探った。ポケットから取りだしたのは、ハンカチ……と思いきや、これがなんと替えのショーツだ。
「わたくしのモットーは“こんなこともあろうかと”ですわ。従姉に教わったのですけれど、いい言葉でしょう?」
『それより!』
「あなたはマイアでよろしいのですわね」
『名前なんかどうでもいい!』
「いいえ、大事なことですわ。この先おつきあいしていくのに、あなたがファリンかそれともマイアかすぐに見分けられないのでは困りますでしょう? あら、それとももしかしてあなたはアペンですの? おかしいですわね、その目元はマイアだと思ったのですけれど」
『そういう問題じゃない! いい加減にしろ!』
「まあ。怒っていらっしゃるの?」
『怒っているんだ! こ、これが、て、天使のやることか!』
「ええ、もちろん」
理緒は笑顔で断言した。
「わたくしは清らかな体のままですし、神様のお力によって、この方のお悩みごとを解決いたしましたわ。何かいけないことをいたしましたの、わたくし?」
『………………』
あまりに図々しく言い放たれて、鳩は二の句が継げない。
理緒は水色のショーツに包まれたお尻を見せて竜馬の方へ歩みよる。顔からはじめて順々に汗をぬぐってやる。かがみこみ、腹をこすり、だらんとなっている幼いものを愛おしげにぬぐう。包み、揉みたて、他のところの倍ぐらい時間をかけてじっくりときれいにする。
「こんなにきれいなのに……いずれあんな風に毛が生えて、浅黒くなってしまわれるのですね。ずっとこのままでいらっしゃればよろしいのに。…………まあ。また大きくなってきましたわ……」
『やめろ!』
「そういえば、あまりためすぎると体によろしくないと聞いたことがありますわ。ここで全部出しておいた方が竜馬さんのためにもよろしいかもしれませんわね。では竜馬さん、わたくしの声をよくお聞きなさいな。……」
『頼むから話を聞いてくれえ!』
人間で言えば胃に相当するあたりに鈍痛をおぼえながら、白い鳩の姿をした準天使は悲痛な泣き声を上げた。
四
しばらくして、二人と一羽は夕暮れの街中に出てきた。
竜馬少年は、ガクランの重ささえも辛い重病人みたいにふらふらしていた。ふっくらしていた頬が幾分こけていた。どうして自分が見ず知らずのおねえさんとこの店にいたのか、どうして体に力が入らないのか、振り返っては首をかしげている。
ガクランの黒い肩に白い鳩が止まっていた。つくりものかと見間違えるほどに身動きしない。もはや気力が尽き果てているのだ。
「ああ、きれいな夕焼け。まるで朝焼けみたい」
理緒ひとりだけが生き生きと瞳を輝かせていた。こころなしか肌つやも増している。
人気がなくなったところで、ビルの上で待ち受けていた他の三羽が舞い降りてきた。
「あら、アペン、ファリン、ペリト」
理緒を無視して竜馬の肩の仲間に向かう。竜馬は鳩たちが何をしようとも一切気にしないよう暗示を与えられている。そのことを仲間同士のテレパシー交信で知っているので、平気で人の言葉を投げかける。
『おい!』
『……俺はもう駄目だ。後はまかせたぞ、友よ』
『そうはいくか!』
三羽は仲間に襲いかかった。
『中の様子はちゃんと“見て”いたんだ!』
『お前ひとりだけ楽にさせてたまるか!』
……天使にもやはり邪悪な感情があるようである。
「仲良きことは美しきかな、ですわね」
『『『『ちがーうっっ!!』』』』
見事にハモった四羽の声を耳に素通りさせて、理緒は晴れやかな顔をして夕空を見上げる。
「……歳はめぐり、春来たり、日はめぐり、朝きたる。……God's in his heaven―All's right with
the world!」
神はそらに知ろしめし、世はなべてこともなし。英国の詩人ブラウニングの名詩を口ずさむ。
その笑顔が、ふと消えた。
「あら」
声に緊迫感がにじむ。
鳩たちは不毛な争いを止めた。
「番長さん」
確かに、そこにいたのは土門冴雄斗だった。
長々と黒いシルエットを引くその姿。
番長の証である長ラン姿。男の熱気がむんと漂ってくる。先刻理緒が脱いで洗うよう命じたはずだが?
獅子の目をした総番長、雄牛の目をした大番長、鷲の目をした裏番長。この街で誰もが恐れる天上の巨頭たち。彼らと並び立つ土門冴雄斗。その眼光をたとえて言うなれば、熱く輝く原始の炎。
その目が今や、ごうごうと燃え上がって理緒を睨みつけている。
強い眉も急角度に持ち上がっていた。口にくわえていた木の枝が、音をたててかみ砕かれる。
理緒は青ざめた。
「ど、どうなさいましたの?」
「てめえ…………俺に、何をした!」
「!」
“神の瞳”が開き、光る。
『私の声を聞きなさい。あなたの体の力が抜ける……眠くなる……』
「きかねえよ!」
冴雄斗は叫んだ。理緒も鳩たちも愕然となった。
「……み、見えますの?」
「男はな、自分の道は自分で決めるもんだ! こいつを洗うかどうかは俺が決める! 余計な真似するんじゃねえ!」
ガクランへの執念が“神の瞳”の暗示をうち破ったのか。
恐るべし、番長。
後ずさった理緒が竜馬にぶつかった。
竜馬がふらつく。
「竜馬! ……弟にも、何かしやがったな!」
近づいてくる。下駄の音が少しも鳴らない。本気だ。
「どういう手品を使ったのか、じっくり聞かせてもらうぜ」
理緒はじりじり後ずさったが、壁際に追いつめられた。
「きゃあ!」
冴雄斗がつかみかかってくる。女には手を出さないはずだったが、怒りのあまりにその信条もどこかへやってしまったようだ。
『危ない!』
白い羽根が冴雄斗の眼前で勢いよくはばたいた。
「くそっ! なんだ、この……!」
「あ…………みなさん……」
『理緒! 今のうちに、逃げろ!』
「そんな!」
『いいから、早く!』
「この野郎! 焼き鳥だ!」
冴雄斗は学帽を手にして振り回す。一羽が跳ね飛ばされて壁にぶつかる。
「アペン!」
理緒は返しかけた足を元に戻した。
きっと眉がつり上がった。
「おやめなさい! やるならわたくしになさい!」
冴雄斗の目がぎらついた。腕の一振りで残る三羽を跳ね飛ばす。
理緒は殴打を覚悟して目を閉じ、歯を食いしばった。
下駄が一度だけからんと鳴った。
(………………神様!)
そこへ意外な声が飛んだ。
「兄さん!」
小柄な影が割って入ってきた。
理緒を体当たり同然に押しのけ、殴りかかってきた冴雄斗の拳を紙一重でかわし、下からアッパーカットを放つ。
がつんと骨がぶつかる音がした。
「た……竜馬……」
冴雄斗は立ちすくんだ。なでられた程度のものだが、どんな強者の一撃を受けたよりも激しい衝撃に見舞われたようであった。
「兄さん……やめてよ……!」
「お前……」
華奢な少年は石のような顎を叩いた自分の手を押さえてうずくまり、そこから必死に兄を見上げていた。
「女のひとは守らなくちゃいけないって教えてくれたの、兄さんじゃないか!」
冴雄斗は再び脳天を強打されたような顔をした。
「……その通りだ、竜馬」
理緒に向かって頭を下げる。
「すまねえ」
「い、いえ……」
さすがの理緒も単純にそう返すしかない。
「竜馬、立てるか」
「いいよ、一人で立つよ。ぼくだって兄さんの弟だ」
「……そうだな」
兄弟は笑いあった。
もう守り守られる関係ではない。対等の男同士としての笑みだ。
感動的なトランペットのメロディーが聞こえてくるような光景であった。
「帰るぞ。……手は大丈夫か」
「ちょっと痛い」
「痛みは男の勲章だ。お前のパンチ、効いたぜ」
漢の会話を交わしながら、夕陽の彼方へ兄弟は去ってゆく。
※
取り残された理緒は、はあと息をついて肩を落とした。
「アペン、ファリン、マイア、ペリト。お怪我はありませんか?」
『大丈夫、普通の動物とは違うよ』
「そうでしたの。よかった」
あらためて微笑む。
「……守ってくださって、ありがとう」
輝くような、まさに天使の笑みだ。
『こちらこそ。君の勇気に感謝する』
「勇気というなら、竜馬さんの方こそ」
遠ざかるガクラン兄弟の背中を見送る。
「……よかった。竜馬さんも、これからはお望みの通りに、強くたくましくなることでしょう」
『ああ、きっとな』
『手段に問題はあるが、結果はよし』
『では、早速』
鳩たちは羽ばたき、理緒の頭上で円を描いた。
四羽がつくる円の中が、そこだけ空を切り取ったみたいに黄金色に光り出す。
神秘的な光が射してきて、見上げる理緒を包みこんだ。
「………………」
両手を組んで祈りを捧げ、目を閉じる理緒。
聖なる力が体に注ぎこまれてくるのがわかる。熱いが、同時に心安らかにもなる。歓喜でいっぱいになる。
光が薄れたので目を開けてみると、四羽は円を解除して手近の止まり場に並び、理緒を温かく見つめていた。
「まあ!」
理緒は自分の背中を振り返って声をあげた。
そこにあったのは、それまでの小さな羽根ではない。
両腕を広げたよりもなお長い、見るも神々しい黄金の翼が輝いていた。
しかも一対だけではない。左右に大きく広がったその下に、これまでのものと同じくらいの小さな翼が、可愛らしくちょこんと突き出している。
「四枚に。こんな……!」
『少々大盤振る舞いだが、我々の挨拶、そして、君が見せてくれた勇気に敬意を表して』
「ありがとうございます。嬉しいですわ。嬉しい……」
理緒は感激して涙ぐむ。
四羽は照れたようにお互いをつつきあった。
理緒の方へ飛んでくる。理緒は左腕を伸ばした。四羽が次々と舞い降りる。重さはほとんどない。
右手を広げて近づける。伸ばされた細い指に、騎士が姫君にくちづけするように、四羽は順々にくちばしを触れさせていった。
『これから色々あるだろうが、正義のために一緒に頑張っていこう』
「ええ。よろしくお導きくださいましね」
『こちらこそよろしくな』
「……そう言えば、みなさんのお名前」
言い出した理緒の表情を見て四羽はぎくりとした。
「やっぱり、アペン、ファリン、マイア、ペリトよりも、ざるそばもりそばかけそばてんそばの方が……ああ、それよりもやきそばの方がよろしいかも……マイア、あなたは特にそういう感じがいたしますわ……」
『いい、いい、アペンでいい!』
『ファリンだ、俺はファリン!』
『やきそばなんて冗談じゃない! マイアだ!』
『ペリトと呼んでくれ』
「そうですの」
理緒が納得した様子でにっこりしたので、四羽は助かったと胸をなで下ろした。
「では、あらためて。飛鳥理緒です。
アペンディサィティス、
ファリンジャイティス、
マイアライティス、
ペリトナイティス。
これからもよろしく」
『……我々の本名と大して変わらないような気もするが』
『いいじゃないか、理緒がいいなら。響きも悪くない』
『そういうこと。やきそばなんてのよりよっぽどましだ』
『……しかし、それは一体何の名前なんだ?』
「あら、まだ申し上げておりませんでした? ……」
※
こうして、“暁の天使”飛鳥理緒は新たな仲間を得た。
数年後、髪をのばし体を鍛えた土門竜馬少年は、卓抜した運動神経と一旦火がついたら止まらない兄譲りの闘争心をもって、美しい帝王となってこの街の闇に君臨することになる。
そのはじまりがこの日にあったことを、無論理緒は知らない。
※
「明日も愛のために頑張りましょう。女の方のお悩みごとならわたくしにおまかせ。……でも、可愛い男の子でもよろしいですわ。どこかに可愛らしい弟さんをお持ちの美しい乙女はいらっしゃいませんでしょうか。お悩みごとを見つけだしてさしあげますわよ」
ほがらかに問題発言をしながら歩を進める理緒は、上機嫌な風に四枚の黄金の翼を動かしている。大きな二枚は優雅に、小さな二枚はぱたぱたと。
その背後の地面の上で、白い四羽は胃にあたるところを羽根で押さえて、壊れたおもちゃみたいにひくひくのたうっていた。
自分で認めてしまった以上、もはや変更できない彼らの名前。
すなわち。
appendicitis――――盲腸炎。
pharyngitis――――咽頭炎。
myelitis――――脊髄炎。
peritonitis――――腹膜炎。