ルシファの翼

第四話 理緒は地獄のコックさん
作:おくとぱす さん

「さあ、よみがえるがいい、アイアン・シェフっ!!」
                             ――――鹿賀丈史

  前編    人面魔獣の挑戦
 

          (一)

 青い空、白い雲。
 燦々と降りしきる陽光を浴びて、木々も地面もまぶしく輝いていた。
 じーわじーわと蝉が鳴く、しごく平和な昼日中。
 電線に白い鳩が留まっていた。
 見下ろす先には天上高校がある。
 青空に白い点があらわれた。これも純白の鳩が飛んできて、先の鳩の隣に舞い降りる。
『……よう、腹膜炎』
『……なんだ、盲腸炎』
『………………』
『…………やめよう……』
『ああ……』
 二羽はひどく人間くさい仕草で首を垂れた。
 この鳩はどちらも準天使、天使の瞳を与えられた催眠天使の飛鳥理緒を見守るため、天界からつかわされた存在である。今この場にはいないが、他に二羽(二人?)いる。
 彼らにアペンことアペンディサイティス――――盲腸炎、ペリトことペリトナイティス――――腹膜炎というとんでもない名前を付けたのは、見守るべき当の相手、理緒だった。
 理緒が通う天上高校にはどういうわけか奇人変人が多く、街中に無常識の天上高として悪名高い。その中でも理緒はとびきりの変わり者として一目置かれていた。今ひとりの奇人と合わせて“天上の双璧”と呼ばれている。
 理緒は彼らに与えたこの名前を本気で気に入っていた。
 これはいくらなんでもあんまりだと、ファリンことファリンジャイティス――――咽頭炎、という名前をつけられた一羽が文句を言った。一度受け入れてしまったものを嫌だと言うのは、嘘をついたのと同じことになるので、準天使にとってはダメージとなる。それでも言わずにはいられなかった。
「お気に召しませんの?」
 理緒は心から驚いたようだった。
 折角のいい名前ですのに、と不満げな様子を見せ、じゃあこれにしましょうと別の名前を持ち出してきた。
「プロトゾア、トレマトーダ、セストーダ、ネナトーダ」
 響きだけなら異国風で悪くなかったが、四羽の白鳩はもう引っかからなかった。
『それは、何の名前なんだ?』
「素敵でしょう?」
『だから、何の名前だ』
「これもお気に召しません? 困りましたわ、ようやく思いついたいい名前ですのに」
『……何の名前か教えてくれと言っている』
 ――――人体に巣くう寄生虫の分類であった。原虫類(Protozoa)、吸虫類(Trematoda)、条虫類(Cestoidea)、線虫類(Nenatoda)。
 四羽が光よりも早く断ったのは言うまでもない。

『…………で、我らがベルゼバブはどうしてる』
 アペンが訊ねた。ベルゼバブとは蠅の王、この世に病をまき散らす大悪魔である。盲腸炎だの腹膜炎だのの主にはふさわしい呼び名だ。準天使たちのささやかな意趣返しであった。
『これから四時限目、家庭科だ。今日は調理実習らしい』
 二羽は天上高校一階の一室を見下ろした。女の子たちが家庭科室に入ってきている。最近は男子にも家庭科を受けさせる学校が出てきているが、天上高校はまだそうはなっていない。
(……おい!)
 突然、二羽の頭の中に仲間の声が響いた。
『どうした、マイア!』
 準天使同士はテレパシーで思考のやりとりができる。
 マイアというその準天使は、理緒の鞄の中にひそんで至近距離から理緒を監視することにしていた。もし見つかっても、今更理緒のやることに目くじらをたてる人間はこの学校にはいない。狭い中にじっと縮こまっていることも、本物の鳩の肉体を持つわけではない準天使にはさほど苦にもならなかった。理緒を野放しにしておくことで巻きおこるトラブルを思えば、少しくらいの不自由などいくらでも堪え忍ぶことができる。
 そのマイア――――マイアライティス、脊髄炎――――が、せっぱ詰まった様子で連絡してきた。
(大変だ!)
 電線の上の二羽が見つめる前で、家庭科室の窓のカーテンが閉じられ、中が見えなくなった。

          (二)

「先生、窓、閉じました」
「ドアの目張り、完全です」
「鍵はちゃんと閉めたでしょうね」
「はい」
 太った女性教師が険しい顔で振り返る。
 二クラス合同の家庭科実習。
 女子たちがぐるりと一人の生徒を取り囲んでいる。
 囲まれているのは全身白い光芒をまとったような美少女、“暁の天使”こと飛鳥理緒。
「はじめなさい!」
 教師に言われて、白い三角巾にマスク、エプロン姿の女子二人が進み出た。
 理緒は万歳するように両腕を上げた。二人の手が脇腹にかかり、理緒の制服を脱がせにかかった。
 クリーム色がかった白い肌がのぞく。細くくびれた腰、すっと流れるへその線。服の上からは想像もよらないほどに見事に盛り上がる二つの乳房を、大人びたデザインの純白のブラジャーが支えている。見守る生徒たちの間から羨望のため息がこぼれた。女性の目から見ても心惑わされるような裸体であった。
 理緒はされるがままでいる。
 その背中には大小二対、四枚の黄金の翼が生えている。もっとも普通の人間の目には見えない。大きな方は動かないが、小さな方がやや神経質にぱたぱたはためいていた。
 脱がせた上着が丹念に検査された。特に袖口のあたりを重点的に、布地の縫い目までほじくるように見た。
「何もありません!」
「化学部!」
 人垣を割って、まるでスズメバチの巣を壊す時に着る防護服のような重装備を着こんだ生徒が進み出た。
 理緒の上着を受け取り、大きなビニール袋にしまいこむ。
 部屋の隅にもってゆく。ひとつのテーブルを占領して、同じような完全防備の女生徒が三人座っている。テーブルの上には顕微鏡やら試験管やらバーナーやら、とても調理実習に使う道具には見えない器具類が所狭しと置かれていた。
 袋の中から袖口の所を取り出すと、真っ黒いプラスチック版の上で埃を落とすように数回叩いた。
 わずかに落ちてきた微細な粒を、目を輝かせて見つめる。
「これを分析して! それから布地の方を! うちの面目にかけても原因物質をつきとめるのよ!」
「はいっ!」
 その間に、理緒はスカートも脱がされていた。
 すらりとした長い脚。すべすべして柔らかそうで、男ならずともそこに頬ずりすることを夢見てしまう。肉づきはややたっぷりとしているが、余分な脂肪はほとんどない。理緒はこう見えても運動神経はいい。普段はぽーっとしているのだが、ひとたび何か興味を引くものを見つけるやいなや、奥歯のスイッチでも入れたかのように、文字通り目にも止まらぬ俊敏な動作を見せるのだ。
 スカートもまた検査に回された。
「これでよろしいですか? わたくし、何も持っておりませんことよ」
 理緒は困ったように小首をかしげて言った。
「洗浄!」
 教師は聞く耳持たずに声を上げる。生徒が理緒の両脇をかかえこみ、流しへ連れてゆく。バケツにたっぷりと用意されていた消毒液が遠慮なく注ぎかけられた。理緒の腕は肘から先がぷんと臭うまでになる。それを蒸留水ですすぐ。
「エプロン!」
 厳重につつまれた新品のエプロンがかぶせられた。
「消毒はきちんとしてあるでしょうね?」
「はい、じっくり煮沸しました」
 背中で紐が結ばれる。理緒は何一つすることなく、三角巾を巻きつけられ、薄いゴム手袋をはめられた。口にマスクをつけられたところでようやく一連の謎の行為は終わりとなった。
「……で、では、これから調理実習をはじめます!」

          (三)

 部屋の後方に置かれていた理緒のスポーツバッグがもぞもぞ動いていた。
 チャックが開き、白い鳩が這い出てくる。上に他の生徒のバッグが乗せられてしまったため、今まで脱出できなかったのだ。
 裸エプロン姿にされた理緒の後ろ姿を見て、大慌てで羽を広げる。
 ――と、その体が上からやわらかく捕らえられた。
「……こんな所に入ってきちゃ駄目だよ、鳩くん」
「どうしたの、千種さん」
「す、すみません……あ、飛鳥さんのペットが……」
「それは! 検査に回す! こっちへ!」
 いきりたつ化学部の防護服から、千種と呼ばれた生徒は鳩を守るようにした。
「駄目! 可哀相……!」
 理緒が気づいた。
「……マイア、外に出てらっしゃいな。わたくしは大丈夫ですわ。ただの調理実習なんですわよ。ご心配なく。ではさっちゃん、お願いできます?」
「うん」
 理緒が相手の名前を愛称で呼ぶというのは珍しい。マイアはきょとんと――――あくまで普通の鳩に見えるように――――千種というらしいその女生徒を見つめた。
 理緒には及ばぬものの、クラスの他の女子よりははるかに整った顔立ちだ。だが影が薄い。気弱そうにうつむいていて、これじゃ折角の美少女が台無しだとマイアは思った。

          ※

「きみ、マイアっていうんだ。格好いいね。あたし、千種裕花。みんな、ちぐって呼んでくれるけど、理緒だけはさっちゃん。“ちぐさ”だから“さっちゃん”だなんて、わけわかんなくて理緒らしいけど」
 マイアを胸に抱いた千種裕花は、廊下でマイアに話しかけてきた。
 授業時間中なので廊下には人気はない。
「今のあれ、驚いたかな、鳩くん?」
 マイアは緊張する。まさか自分が人語を理解すると気取られているわけでもないだろうが、ここは無常識の天上高校、この一見無害な女子にしてもどんな異能を持っているやら知れたものではない。
 だが、どうやらそういうわけではないようだった。単なる動物好き、話好きというだけらしい。暗めの表情とは正反対で、意外だった。これで声が明るかったらやかましいだろうが、低めの声で語尾を沈めるようにしゃべるので、それほど気にならなかった。
「理緒ってね、料理が趣味なんだよ。……だけどね、友達のあたしが言うのもなんだけどさ、はっきり言って……下手なんだよね……。
 ――――いや、そういうのとは違うか。何て言えばいいのかな…………あれは、上手い下手っていうレベルの問題じゃないんだ……。
 ほら、下手な人ってさ、ひとつひとつ見ていけば原因がちゃんとあるじゃない。
 おかしな材料を使えばそりゃ当然おかしな味になるでしょ。クッキーに塩入れたり、カレーライスに砂糖入れたりさ……。
 手順を間違えたら――――それも変な味になるよね。ジャガイモやニンジンを最後に入れて、全然火が通ってなくて、口にいれたらガリッていったり……タマネギが辛かったり……。
 実際の手つきがまずい。下手ってのは大体これだよね。いくら完璧な材料をそろえたオムレツでも、強火で卵を黒こげにしたんじゃ台無し……。
 ……理緒のはさ、どれにもあてはまらないんだよ。
 準備はばっちり、手順は完全に頭に入ってるし、手つきも完璧。どこからどう見ても、失敗するはずない。
 でも、どうしてか……駄目なの。とんでもないものばっかりできちゃう。パルプンテ料理って呼ばれてるんだよ。ほら、ゲームであったでしょ、何が起こるかわからない魔法。だからパルプンテ。ほんとだよ……ひどい時にはクラス丸ごと全滅したりもしちゃうんだから。
 ここだけの話、逃げ出したかったんだ、あそこから。……あたし理緒のこと気に入ってるんだけど、あれだけは駄目。だから、君には感謝してるんだよ……。
 どう? きみ、お腹減ってない……? よかったら、あたし生物部だからさ……うちの部室でお昼ごはんあげるよ。今なら危ない先輩たちもいないし。この間、きみみたいな白い鳥を捕まえそこねちゃって、次は逃がさん、なんて、色々と秘密兵器の開発してるんだ。……あ、あたしは無関係だから、心配しないで。ごちそうするからね。ありふれた鳥の餌だけどさ、理緒の手料理よりはよっぽどましだと思うよ……」
 これだけ口数が多いのにどうして陰気なのだろうと、マイアは不思議に思った。本当は陽気でいたいのに、無理に心にふたをかぶせて、陰気を装っている、そんな感じがした。
 理緒のことは気になったが逃げ出すタイミングがつかめず、そのまま連れられていった。

          (四)

 その日作るものは肉じゃがであった。
 女子生徒たちは班に分かれ、それぞれの調理台ごとに鍋を構える。各班がそれぞれ決められた予算内で材料を工夫し、いかに栄養的に充実したものを作るかという点が課題である。
 理緒だけは一人で調理台を占領していた。
 理緒を囲む生徒はいる。だが調理実習を共にする相手ではない。
 防護服の化学部員。
 理緒の行為の一切をビデオに収めようとカメラを回す放送部員。
 何やらぼそぼそとささやき交わす、黒ローブのオカルト研究会員。頭頂部が三角形に尖った黒マスクをかぶっており、怪しいことこの上ない。
 理緒はそういう面々に取り囲まれつつも、まったく気にかける様子がなかった。自分が裸エプロンという格好でビデオに撮られているということも頓着していない。
 もっとも、放送部の側でもこのビデオを男子生徒に売るような真似はする気がなかった。
 それがばれた場合、放送部は壊滅する。

 恐るべき噂があった。
 かつて、まだ理緒の料理の恐ろしさが知れ渡っていなかったころ。
 調理実習でクッキーを作った。誰一人として手をつけなかったその怪しげな物体を、理緒は校内を歩き回って無差別にばらまいた。美少女に手ずから渡されたクッキーを断る男子はほとんどいなかった。
 ――――男子生徒たちが七色の汗を流しながら次々と倒れ、校内がパニックになったのはその直後である。
 後日、ひそかに統計が取られた。
 クッキー――――悪魔の実、と誰言うともなく名付けられた――――を口にしたうちで、倒れた者が約半数。異様に凶暴化し、鼻血を噴き、泣き叫びながら暴れ出した者が三割ほど。
 それ以外の者は無事。
 だが真実は違うと噂は語る。
 無事だった生徒は、体の中身が別のものに変わってしまったらしい。
 表面的な行動はそれまでと少しも変わらないが、その実“悪魔の実”の壮絶な味わいに魂を奪われ、理緒のいうことならば何でもきく、忠実なしもべと化してしまった。
 その中には体育会の猛者が多い。強靱な体力と精神力を持ち合わせていたために、悪魔の実を消化吸収し、かつ味覚に加えられたとてつもない衝撃をも耐え、受け入れてしまったのだ。
 そういう生徒のことは悪魔と合体した奴、“合体者”と言われるようになった。
 どこまで本当かはわからない。しかし、もし理緒の裸エプロン姿のビデオを売るような真似をしたら、放送部員たちは身をもって噂の真偽を確認することになるだろう。
 合体者の中には天上高校十傑衆と呼ばれる武闘派の一人、剣道部総長がいるという。たった一人で暴走族三十人を叩きのめし、かすり傷のひとつも負わなかったという怪物であった。この一人だけでも放送部の手に負える相手ではない。

 ――――理緒はにこにこして包丁を構えた。
 皮むき器も使わず、鮮やかな手つきでジャガイモの皮をむく。包丁の根元の部分で芽をさくっとえぐり取る。他の生徒がもたもたしているのとは雲泥の差だ。一口大に切り、角を削って煮くずれしないようにしてから、あく抜きのために水につける。
 そのボウルを、早速化学部員が検査する。
「……特に異常なし!」
「ニンジンをくださいな」
 理緒が手を出すと、別の化学部員が色つやのいい人参を袋から取りだして手渡した。まだ葉がついている。他の生徒の食材はそれぞれが手近な所で買ってきたものだが、学校側は特別予算を投じて理緒用に無農薬有機栽培のものを取りそろえていた。どれもこれも、化学部生物部合同の調査隊が生産元まで訪ねていって、危険な化学物質が使われていないことを確認してきたものばかりである。何がどう反応するかわからないための処置だった。他の食材についても同様の処置がとられている。
 水洗いし、根元を切り、皮をむく。とととん、と小気味よい音を立ててこれも一口大に乱切りする。速い。
 タマネギを切る。水につけてから切れ味のいい包丁で鮮やかに切るので、タマネギの細胞が潰れず、涙が出ない。さくさくさくっと刃が踊る。
「……あのリズムは」
「光を反射させるタイミングに悪魔を呼び出す効果があるのでは」
「それよりも、切った後の形と配置だ。あのニンジンが気にかかる」
 オカルト研の黒頭巾がひそひそと怪しげなことを言い交わしている。
「……いけませんわ、だし汁を用意しないと」
 理緒が言うと、すかさず市販のだし汁瓶が差し出された。理緒はちょっぴりむくれ顔をする。
「まあ。あまり出来合いのものは好きではありませんのよ、わたくし」
「駄目よ!」
 全員が口をそろえた。

          ※

 同じ頃、千種裕花がマイアに説明している。
「……色々あったんだけどね、一番危なかったのは――――あのスープかな。
 そこら辺に売ってるスープの素をお湯に溶かすだけ……みんなそうしてたんだけど、理緒はさ、一から作る方がおいしいって、授業の最初から色々煮こんでたんだよ。
 できあがったのはね、まあ香りはいいし、おそるおそる味見した子もおいしいって――――そんなのはじめてだったんで、みんな飲んでみたんだ。あたしも。
 最初は、まあ塩気がきいてておいしいな……それくらいだったんだよね。
 だけどさ、少したつと、口の中になんだか別の味が残っているような気がしてきて……またそれが不思議な感じなの。自分の料理食べても、その味が消えなくて……どうしても確かめてみたくなってさ、もう一回飲ませてもらったんだ。
 そうしたら、さっきよりすごくおいしいの。こんな豊かな味だったっけかってびっくりした。
 みんなも同じみたいでさ。……で、人数が多いもんでスプーン一口ずつだったんだけど…………他の人が飲んでるの見たら、口の中に唾わいちゃって、どうしても止まらなくなっちゃって、お願い、もう一口だけ……。
 その一口が、前よりもっとすごくって…………あれはもうすごいとしか言えない味だった……。体中がもう一口欲しがって悲鳴を上げてるみたいになったの。
 みんなの目の色が変わったわ。飲もうとしていたのを奪い取って、一斉にお鍋に飛びついて……柔道部の子がお鍋に頭突っこんで、それをみんなで引きずり倒して、口からこぼれたスープに群がって。――――地獄絵図ってあれね。
 あたしはこうだから、早々に弾き出されちゃって無事ですんだけど…………沢山飲んだひとはさ、涙も鼻水もぐしゃぐしゃに流して、手足ひくひくさせながら、幸せいっぱいの顔で倒れちゃってて…………気がつくまでに三日かかった。病院でいくら検査しても原因不明……当のスープはみんな誰かの胃袋の中。床にこぼれた分まできれいに舐め取られてたんだってさ。
 幻覚剤、っていうの? クスリみたいなものを飲まされたときの症状が一番近かったんだって……。で、警察まで来て、色々調べたんだけど、理緒が使った材料をどう組み合わせてもそんな成分は合成できないってことだけがはっきりして、迷宮入り」
 マイアはぶるっと首を振り、理緒の手料理だけは口にするまいと固く誓った。

          (五)

 他の誰よりも早く理緒は下ごしらえを終えた。
 鍋を火にかけ、油を入れる。これも新品の油を、その場で封を切ったものだ。何グラム入れる気なのか細かく申告させられ、正確な計量ののちやっと鍋に入れることを許された。理緒は不機嫌そうだったが、教師に言われて従った。
 ニンジン、タマネギの順で炒める。軽く火を通してから豚肉を入れる。
「……異常なし」
「異常なし」
 緊張した声が飛び交う。他の生徒たちも、つい手をとめて理緒をうかがってしまう。
 だし汁を入れた。
 じゅわっと音がなり、勢いよく湯気が立ちのぼる。
 ――――それがドクロの形に見えたのは気のせいだろうか。
「い、異常はなかったわね!」
「はい! 材料も、手順も!」
「い〜ざす〜す〜め〜や〜キッチ〜ン♪」
 煮立つのを待っている間、理緒は歌い出した。目を閉じ、心地よさそうに手を空中に踊らせる。大きな天使の翼も歌に合わせて元気良く上下している。こちらは誰にも見えないし、人に当たっても体をすりぬけてしまう。この世界のものではないのだ。
「これよ!」
 色めき立つオカルト研。
「この音程、リズム、手の軌跡! 『死霊秘法』に描かれた邪神召喚法では!」
「いえ、『オーリックの書』に記された秘儀よ、これは!」
「……何を非科学的なことを言ってるの」
 化学部が冷たい視線を投げる。
「フッ、科学では計り知れない真理というものがこの世にはあるのよ!」
「高校生にもなってまだおまじないなんて信じてるの、馬鹿らしい!」
「じゃあ説明してごらんなさい、このお鍋の中で起きてることを!」
「うっ……」
 化学部は言葉につまった。
 ごぽっ、ごぽっと泡立つ煮汁。
 浮かんできたあくが泡の周囲に渦を巻き、この世のものとも思えぬ奇怪な紋様を描いている。
 立ちのぼる刺激的な臭気。毒々しい色合い。よどみによどんだ古沼の深緑色、不吉な国防色、イソギンチャクをすりつぶしたかのようなけばけばしい紫色。錯覚なのかもしれない。あの材料をただ煮ただけでこのような禁断の色合いが生まれるわけがない。だが今自分たちの視覚がとらえているのは、間違いなく、三匹の妖怪人間でも生まれてきそうな不気味な色彩の乱舞であった。
 理緒はあくをすくい取ると、水にさらしておいたジャガイモを投入した。
 あくはビニール袋に収められ、分析に回される。
「おっ砂糖、おっ酒、おしょうゆ……♪」
 脇に置かれた調味料に理緒は手を伸ばした。
 血相を変えて教師が遠ざける。
「?」
「お、お砂糖、何グラム入れるの?」
「…………ええと……」
 理緒が適当にスプーンに取り分けた分量が、正確に測定される。
「砂糖、6.5グラム!」
「酒、5.2グラム!」
「……なんですの、一体……」
 理緒はこれも不満顔。
 読み上げられた数値に従い、隣のテーブルではまったく同じ分量を投じて理緒の料理が再現されている。調理にあたるのは特別選抜された料理上手な生徒たち。そちらの鍋からは、心休まるいいにおいがたちのぼっている。
「何が違うってのよ!」
 化学部が半狂乱に叫ぶ。
「頑張って! これを解明できればノーベル賞も夢じゃないわ!」 さすがに見かねた放送部がエールを飛ばした。
 理緒はしょうゆを加え、火を中火にした。
 これから数分はすることがない。
 他の班の方に目をやった。みな、あわてて鍋を隠した。様子見にやってきて、触れられでもしたらことである。
 かつて、欲深なギリシアのマイダス王は手で触れたものがことごとく金に変わってしまう呪いを神にかけられた。では触れたものをことごとく異次元の味わいに変えてしまう理緒の手は、一体なんと呼ぶべきか。
 ――――時間がたって、最後の仕上げに入った。
 竹串を突き刺してジャガイモの煮え加減を確かめる。
「しまった、東洋医学研の連中も呼ぶべきだったわ!」オカルト研が悔しげに言う。
「なぜです?」
「おイモの経絡秘孔をついたのよ、今!」
「部長、気を確かに!」
 今一度しょうゆを回しがけして、グリーンピースを加える。
 しょうゆをかける手つきは余さずビデオに収められた。後日、その手の軌道をコンピューターで解析する予定である。
 火を止めた。
 濃密な湯気がむわっと立ちのぼった。まるでそれ自体が命あるもののように、ひとかたまりになったまま天井に流れてゆき、換気扇から外に出ていった。
 カーテンの向こうで、虫の声が途絶えた。
 木の葉が一斉に散る細波のような音がした。
「………………」
 誰もが押し黙る。
 小鳥が断末魔の悲鳴を上げてぼとりと落ちた。
「できましたわ!」
 理緒の弾んだ声が流れた。
 おののきと共に、見る。――――
 ジャガイモの黄色、ニンジンのオレンジ、グリーンピースの緑のコントラストがきれいな、ほくほくと湯気をあげる肉じゃがが優雅に盛りつけられていた。
 ごく普通の、どこから見ても異常のない、外観だけなら文句なしにうまそうな出来上がりであった。
 あの異次元の色彩は何だったのか。

 しばらくして、他の班もおいおい調理し終わる。待っている間に理緒は服を着た。
「では、隣の班とお皿を交換してください」
 教師の言葉に合わせて皆盛りつけた皿を交換する。
 その中に理緒は入ろうとして、決死の面もちの生徒たちに遮られた。
 他の生徒にこれをやればいじめもいいところだが、料理が料理なので誰も異に思わない。
 理緒は寂しそうに箸でジャガイモをひとつまみ取り、口に運んだ。
「……おいしいですのに」
「そりゃあ、毒蛇は自分の毒じゃ死なないわよね」
 陰口が聞こえたか、理緒はそちらへ目を流し、悲しげに眉を伏せた。翼が力無く垂れ下がる。
「そんな…………毒だなんて…………ひどいですわ、ひどい……!」
 うつむいた肩が震え、嗚咽が洩れた。
「………………」
 ばつが悪くなった生徒たちは、肘でつつきあう。
「ね、ねえ、理緒、よかったらあたしのと交換しない?」
 一人が言い出した。
 理緒の翼が天に向かってぴんと立った。
「ま、真弓、あんた、何考えてんのよ!」
「いいじゃない、理緒が今食べたの、見たでしょ」
「だけどさ、あの理緒の料理なんだよ!」
「わかってるよ。だけどさ、可哀相じゃない。大丈夫、ちょっとだけ口にして、やばかったらすぐにやめるからさ」
「……知らないよ」
「やめてよ、あたしだって怖いんだから」
 そういうやりとりが耳に入っているのかいないのか、理緒は満面を輝かせてお皿を差し出してきた。その明るい顔には当然ひとかけらの邪気もなく、真弓は何だかいいことをした気分にひたることができた。

「いただきます」
「………………」
 理緒以外の全員が固唾を飲んで見守る中、真弓は目を閉じ決死の表情で理緒の肉じゃがを口へ運んだ。
 皆、腰を浮かせている。真弓が凶暴化した場合にすぐ逃げられるようにしているのだ。
 戸口の所には、保健室へ走るための要員が待機していた。もっとも、養護教諭の小橋志保がこの場にいたとしても、理緒の料理に対して何ができるのかは疑問だ。
 咀嚼し、飲みこむ。
 息を呑む音があちこちから一斉にした。
「………………」
「ま、真弓……どう?」
 目を閉じていた真弓は、いきなり飛び上がるようにして叫んだ。
「おいし〜い!!」
「まあ! ありがとうございます!」
「こんなおいしいの、はじめて!」
 真弓は今度は大きなジャガイモをつまみ、飲みこんだ。
「うん、やっぱりおいしいよ! おかしな味なんか全然しない!」
「当たり前ですわ」
 理緒はにこにこ、真弓は興奮、だがそれ以外はまだ油断してはいない。これからが問題なのだ。――――

「ああ、おいしかった。ごちそうさま」
「お粗末さまでした。高橋さんのも、おいしかったですわ」
「ありがとね。お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞じゃありませんわ」
 のどかなやりとりがなされる。
 洗いもの、後かたづけ。
「真弓、あんた、何ともない?」
「……別に。大丈夫だよ。やっと理緒もまともなもん作れるようになったんじゃない? これで一安心だね」
「………………」
 意気消沈した様子で化学部、オカルト研両者が引き上げてゆく。
「そんな馬鹿な…………ノーベル賞の夢が……」
「今度こそ解き明かせると思ったのに……」
「ご苦労様」
 真弓が茶化し、理緒の腕を取って家庭科室を出た。
「………………」
 突然、真弓が足を止めた。
 理緒の腕をほどき、ふらついた。
 ついに来たかと、皆が息をのむ。
「どうなさいましたの?」
「あ…………いや…………なんでもない……」
 その顔が上気している。目がとろんとなり、口が半開きになって甘い吐息をつく。
「真弓!」
 呼ぶ友人たちを無視して、いきなり走り出した。
 廊下の角を曲がるところだった男子生徒に追いすがり、声をかける。
「真弓……!」
 後を追った友人たちが見たものは、お世辞にも格好いいとは言えない、冴えないオタク風外見の生徒に抱きつき、胸をすりつけている真弓の姿だった。
「あの人を見た瞬間にさ、“びびっ”てきたんだ。ああ、このひとが運命の相手なんだって。あとはもうたまらなくなって、少しでも一緒にいたくって、夢中で…………」
 引き離され、ものすごい勢いで泣きわめいた後、保健室で落ちついてから真弓はそう語った。
 ――――理緒の肉じゃがは、食べてから最初に見た異性に心を奪われてしまう、強烈な惚れ薬の作用をもたらしたのである。
 しかも、当初の効き目が消えた後も、真弓からは相手への思慕が消えなかった。
 そのことを知った生徒が、件の肉じゃが、あるいは皿にこびりついたかけら、鍋に残った汁一滴を求めて家庭科室に殺到し、重軽傷者五名を出した。

 以上、天上高校生徒会X−ファイルに記された“愛の肉じゃが事件”の、これが顛末である。

          (六)

 さて、その同じ授業時間中。

 授業がないので空いている生物教室。場所的には家庭科室の真上あたりだ。天上高校では特別教室は第二校舎にまとめられている。窓の向こうには普通教室の並ぶ第一校舎があり、授業中のクラスの様子がよく見える。
「さあ、鳩くん、たっぷり召し上がれ」
 千種裕花は床に新聞紙を敷き、鳥の餌を豪快に広げた。
 マイアは別に地上の食事をとらなくともよいのだが、食べられないわけではないし、彼女の好意を断るのも悪いので、勢いよくつついて見せた。
「ふふ、そうそう、いっぱい食べるんだよ。あの理緒のお友達なんだもん、体力つけておかないとたまんないでしょ」
 地上に降りてきてからはじめての暖かい言葉にマイアはじんとなった。人の情けが目にしみる。裕花に気づかれないように目尻をそっと羽でぬぐった。
「……理緒ってさ、」
 裕花はかがみこみ、膝をかかえて言った。
「ああいう風だから、友達少ないんだ。この世の誰とでも仲良しになれるって思いこんでるし、実際誰とでも仲良しになろうとするから、本人は別に気にしてないんだけど…………わかるでしょ、一緒に帰ろうとする友達はいないし、一緒にお弁当食べようとする子もいないんだよね。休みのときだって、連れ立って遊ぶ相手もいないし、誘ってくる子も誰もいない。
 ……だからさ、きみにお願いするよ。理緒と仲良くしてやって」
「………………」
 マイアはクルックーと喉を鳴らし、「君は?」と訊ねるように首をかしげた。
「何、あたしはって聞いてるの、それ?」
 裕花は正確にその意図を読みとった。
「ふふふ、お利口さんなんだね、きみ。……」
 可憐な顔立ちに影がさした。
「……あたしはさ、駄目なの。
 きみが相手ならこんな風におしゃべりできるんだ。でもね、あたし、恥ずかしがり屋で……話すとき、まともに人の目が見られないのよ……」
 暗かった理由はそれか。
「………………それに、さ……」
 裕花の声が消え入りそうになった。雪のような肌に赤みがさした。緊張のあまりの発汗かと思われたが、それにしては様子がおかしかった。
 裕花はかかえこんだ膝をわずかに開いた。
『………………』
 マイアはぎょっとしたが、面には当然何も出さない。その辺りの演技は完璧だ。
「……見える、これ? まあ、きみには何なのかわかんないだろうけどさ。…………はいてないんだ、あたし。……」
 裾の短いスカートの中、むっちりした太腿の付け根には、秘所が隠すものもなくあらわになっていた。
「自分でもおかしいってわかるんだけど…………時々、こういうことするの。冬だったら、何も着ないで、コートだけ羽織って出かけたりする。見せたい、見てもらいたいって…………彼氏作って、えっちしてって、そういうのじゃないんだ。いつめくれるかわかんないこんなスカートで、どこかで全然知らない男の人に見られちゃうかもって、そういうの想像したら、体がじんと熱くなる…………。
 彼氏の前で裸ってのじゃ駄目なの。あたしのこと知らない相手、どこの誰かも知らないひと、そうじゃないと……こうなんない……。
 違うのよ、あたし、普通のひとと。だけど、頭が一回そっちの方向にはまったら、止まんないんだ。止められないの、うずいちゃって……。
 今日も朝からこれで学校来て…………どきどきしながら廊下歩いて、授業受けて、何とか我慢してたんだけど――――さっきの、脱がされる理緒見てたら、何だか自分が裸になったみたいな感じしちゃって…………我慢できなくなって…………一人になりたかったの、ここで……こ、こんなこと……したくて……」
 裕花は立ち上がり、机に上体を伏せ、下半身を突き出した格好でスカートをめくった。
「窓の向こうで…………だ、誰か……見てるかもしれないよね…………見られるかもしれない……。あたしがこんなことしてるのわかったら、あたし、変態だって言われて、恥ずかしくて学校来れなくなる――――でも!
 ああっ、こうしてると、すごい、体が、あつ、あ、熱くなって…………ああ!」
 裕花はお尻をなまめかしく揺すった。手を伸ばして自ら秘裂を大きく広げた。
「見て! 見て! 誰か、あたしの知らない誰か、見て! あたしのこんな格好、見てよ! あたし、ヘンタイなんだ、まともじゃないんだ、だから、ほら、ねえ、あたしのお尻、あたしのおま○こ、よく見て!」
 腿が痙攣し、つうと粘液が垂れ流れてきた。裕花はひとつ甲高い悲鳴を上げると顔を伏せ、荒く息をついた。
「…………ね、鳩くん…………あたし、こんなだからさ…………こんな変態趣味ばれたら、相手にも迷惑かけちゃうよ……。だから、あたし、理緒の友達にはなれない………………誰とも友達になんかなれない…………」
 裕花の目尻からあふれた涙が机の上にたまって震えた。
 マイアはひとつ喉を鳴らして餌の方に戻った。残念ながら、今ここで彼女にしてやれることは何もない。裕花の方もそんなことは期待してはいないだろう。
 仲間に今の話を伝えた。ファリン、ペリトとつながった。
(いい子なのに……可哀想に)
(…………何とかしてやれたらいいな)
(……ああ)
 どちらも同じ思いを返してきた。
 それと共に、
(………………理緒には秘密だ)
 これも全員同感だった。
(何をしでかすかわからんぞ)
 こういう悩みこそ“天使の瞳”の力で解決できそうなものなのに、つくづく信用のない理緒である。

 その直後、なぜかそれまでテレパシーが途絶えていたアペンが、ものすごい勢いで仲間を呼んだ。

          (七)

 時間的には少し戻る。
 裕花がマイアを連れだした直後。
 アペンとペリトが見下ろす中、天上高校に一人の男が入っていった。
 制服は天上の生徒。遅刻なのは間違いないが、臆した様子もない。
『……おい、何だ、あいつは』
 アペンはペリトをつついて注意をうながした。
 見るからに普通の人間ではなかった。
 身長はかなり高い。185センチはあるだろう。
 それなのに全然そういう印象を与えないのは、極端に姿勢が悪いからだ。
 猫背というレベルではない。ほとんど前屈みと言っていいほどに背中が曲がっている。もしかしたら生まれつきなのかもしれない。
 体の幅は広い。厚みも相当なもので、特に背中は尋常ではない盛り上がり方をしている。かなりの量の筋肉がそこに張りついているらしい。それでいて手足は太く、短い。
 まるで巨大な亀が二本足で立ち上がり、学生服を着こんでいるような姿だ。
 顔つきは、さらに人間離れしていた。
 横にひしゃげたようになっていて、頬骨が異様に突き出ている。口は大きく、また横に長く、本当に耳元まで裂けているのではないかとぎょっとしてしまう。
 周囲がくぼんだ中に眼球ばかりが突き出ていて、ほとんど真ん丸に見える目。ぎょろりとむき出されたその瞳は右に左に落ちつきなく動き、時には左右別々に動くようにさえ見える。
 これもまた、亀の体躯にふさわしく、は虫類じみた容貌だった。
 とはいえ、あくまでも人間には変わりないはずだ。――――
『いやな気配だな。気になる』
 アペンはゆっくりと飛んでその男子生徒の後を追った。

“亀”はどういうわけか玄関には入らず、直前で踵を返した。
 第二校舎の裏に回る。
 カーテンを引かれた家庭科室。その窓の下に、元々前屈みの体をさらにかがめてうずくまった。
 窓をのぞきこむ。カーテンの隙間から中が見える。
 ぎょろっとした目が二つとも興奮にむき出され、眼窩からこぼれ落ちるのではないかというくらいになった。
「…………か、かかっ、かっ」
 喉から痰がからんだような音を出す。
 アペンは不快感にとらわれた。準天使である彼らの背筋を逆なでするような、邪悪な魂の波動を感じた。
「あ、あ……飛鳥、理緒……」
“亀”はいきなりそうつぶやいた。
 アペンは慌てて“亀”の後ろに回り、その見ているものを確認してみた。
 ――――裸エプロン姿で包丁を振るう理緒。
「かっ、かっ、かっ…………き、きれいだ……理緒…………お、オレの、理緒……」
 裂け目のような口元からよだれがこぼれた。
 アペンは総毛立った。
 この“亀”、理緒に懸想している!
 外見で相手を差別する気はない。彼が純粋に理緒に恋いこがれているならば、アペンたちは応援するだろう。
 だが、この“亀”の気配は、純愛などというものからはほど遠い。
 理緒を見る目つきには淫欲だけしかなく、その淫欲にしても、相手を愛し、悦びを共にしようというものではなかった。ただ相手を自分の好きにしたい、思うがままに蹂躙したいという昏(くら)い欲望ばかりが腐臭のように立ちのぼっている。
(まずい! こいつは、やばいぞ! マイア! 何してる!)
 後のことはともかく、とりあえずこの場だけでも、追い払うべきだろう。
 窓ガラスに体をぶつけようとした。中の人間の注意を引けば、いかにこの“亀”が性悪でも逃げ出すに違いない。
 だが、そうする直前で“亀”は身を引いた。
「おい! 何してやがる!?」
 校内を見回る教師、ではなかった。
 一目で不良とわかる、凶暴な目つきの男子生徒が五人。リーダー格とおぼしき生徒は金属バットを握っている。決してボールを打つために使うわけではないだろう。
「か、かっ、かっ…………プロレス野球部、か……」
“亀”は振り向いてそう言った。
 五人にさっと緊張がはしった。
「て、てめえ、陣面……」
 それが“亀”の名前であるらしい。
「かっ、かっ、かっ……お、オレの、楽しみを、邪魔するなら、あ、相手に、なるぞ……か、かっ、かっ……」
 この、かっ、というのが笑い声であることをようやくアペンは理解した。
「おう、てめえにゃ前からムカついてた! ぶっ殺してやる!」
「で、できるかな…………かっ、かっ、かっ……」
 不敵に言い放つと、陣面はいきなり背中を向けて逃げ出した。
 客観的に両者を見ていたアペンでさえ唖然とするほどの逃げ足であった。ほとんど四つんばいに近い姿勢で、亀というよりサイを思わせた。
「……ま、待ちやがれ!」
 五人は後を追ってゆく。
(とりあえず、助かった)
 ――――しんとなった中で、アペンは安堵の息をついた。
 次の瞬間、換気扇からむわっと白い塊が流れ出してきた。
『………………』
 それに包みこまれたアペンは、人間で言うなら髪の毛が全て白髪に変わってしまうようなものすごい悪寒にとらわれて、たちどころに気を失ってしまった。

 気がつくと、亀の目が自分を見つめていた。
 陣面の手に握られている。
『!!!!』
 封神台へ飛び去っていった魂魄を大慌てで引き戻す。
「お、起きちまった。つ、つまらん」
 アペンは投げ捨てられ、布に包まれた塊にぶつかった。
 見ると、正体なくのびている先ほどの不良少年だった。
 五人が五人とも、顔のかたちが変わるくらいに痛めつけられている。失神した後でもなお殴られ続けたようだ。粘着的な暴力の痕跡が見受けられた。
 対する陣面の方はというと、制服の背中だけがぼろぼろで、あとはほとんど無傷だ。一対五でこの結果とは恐るべし。
 校舎の裏手、人目につきにくい物置の陰であった。
 してみると、わざと逃げ出してこの五人をここへおびき寄せ、片づけた後、また家庭科室にやってきて、正体のないアペンを拾い、またここへ戻ってきたというところだろうか。
「つ、つまらん。男はつまらん。むしっても面白くない。は、鳩、お前もつまらん。むしっても、ち、血が出ない」
 血温が氷点下に落ちこむような心地になったアペンは、自分の片側の羽がほとんどなくなっていることに気がついた。自分は本物の鳥ではないからいいが、これが肉体を持つ鳥であったら。――――ぞっとした。この陣面は血を見ることに興奮する、残虐気質の持ち主でもあるらしい。
 これが女性を、理緒を襲ってきたら何をするか。
 ……むしる。
 想像するだに血の気が失せる光景が展開されるだろう。
「そ、そうだ、お、お前、足をもいでみたら、血が、血が出るかもしれないな。お、お前の真っ赤な血で、ラ、ラブレターを書いて、り、理緒に、送るんだ、かっ、かっ、かっ」
 伸びてきた腕からアペンは必死で遠ざかり、羽ばたいて空中に逃れた。
 飛びながら、全力で仲間に今の危険人物のことを知らせた。

          (八)

 その夜、準天使たちは顔つきあわせて今後の方針を検討した。
 問題のある人物が二人あらわれたわけである。
 どちらも面倒だ。
 千種裕花。彼女については、心情的には何とかしてやりたいと思う。
 だが“何とか”するのは理緒なのだ。
 理緒がもし彼女の悩みを知ったら、“天使の瞳”の催眠能力を使って何をしでかすやら見当もつかない。
 それを防ぎつつ、できるかぎり仲良くなれるように、理緒をうまく導いてゆかねばならない。
『……言われてみれば、これまで理緒の友達と呼べる相手を見たことがなかったなあ』
『我々がそういう感覚と縁がないからな』
『頑張ろう! これをうまく収めることができれば、理緒も少しはましになる!』
『そうだ! 理緒のためにも、裕花さんのためにも!』
 そちらはまだ簡単に結論が出た。

 陣面となると、より厄介だった。
 退治するべき相手ではあるのだが……。
 こちらから陣面に無理矢理催眠をかけ性格を矯正するというのは、禁じられた行為なのだった。
“天使の瞳”の力は、人の悩みを解決するために使わなければならない。
 相手が悩んでいるのならば強引に催眠をかけてもある程度は許されるが、あの相手に悩みはあるまい。悩まない相手の精神をいじるのは、天使に科せられた禁忌のうちでも特に強いものだ。このいましめがなければ、この世は天使の思うがままに動かされてしまう。神の意志とはそういうものではない。あくまで人々をよりよき方向へ導くために天使の力は使われるべきで、自らが基準となって人々をその枠にあてはめるようなことは許されなかった。それは神に背く行為、悪魔の所行で、即座に解任、天使能力の剥奪となるタブー事項だった。
 ただ、ひとつだけ、悩まない相手に催眠をかけても許される場合がある。
『あいつが、理緒を襲ってくれば……』
 そう、自分の身を守るときにだけ、その禁忌は外される。
 いくら強靱な肉体を持つ陣面であっても、人間である限り理緒の額に開く“天使の瞳”の力には逆らえまい。一度催眠状態に入れてしまえば後は何とでもできる。
『では、我々のすべきことは』
『理緒の周囲に気を配り、陣面の不意打ちをくらわないように用心すること。いくら“天使の瞳”でも、当の理緒が気絶させられでもしたらまったく無意味だからな』
『わかった』
 四羽は満足して電線の上での会議を終えた。
 
 見下ろす飛鳥家は、暗い。
 豪邸というほどではないが、かなり広い庭のある洋館である。だがどこか閑散として、寂しい雰囲気があった。
 年期の入った、重厚な造りの母屋。その二階に明かりがついて、ほっそりしたシルエットが窓に浮かんだ。
 理緒だ。
 窓が開き、白衣に身を包んだ清楚な美貌があらわれる。
「アペン。ファリン、マイア、ペリト。どこですの?」
『……行くか』
 羽ばたいて飛び上がった瞬間、
『待て!』
 一羽が鋭く叫んだ。
 何事かと驚く他の三羽に、首を振って指し示す。
 飛鳥邸の塀。
 街灯の明かりの届かぬその陰に、かすかに動いたものがある。
「……みんな? どうしたの?」
 理緒は夜空に身を乗り出して呼ばわる。
 その淡く浮かび上がる姿に引き寄せられたかのように、塀の上ににゅっと人の首が出現した。
『…………陣面!!』
 どうしてこんな所に?
 ――――考えるまでもない。ストーカーだ。
「か、かっ、かっ…………り、理緒…………」
 ぎょろりとした目は血走り、裂けた口の端からよだれを垂らし、まぎれもない偏執者の顔つきであった。そのまま放っておいたら塀を乗り越えて邸内へ侵入してきそうな気色がうかがえた。
 四羽はものすごい嫌悪感に襲われ、矢も盾もたまらず襲いかかった。
「くかっ! がっ! な、何だ、この!」
 いきなりのことにさすがの陣面も面食らったと見え、すぐに例の逃げ足で闇の奥へ逃れていった。
『…………ふう……』
「何をしていらっしゃるの?」
 何も知らぬ理緒の声ばかりが明るく流れた。

          (九)

 数日後。
 夕暮れが過ぎ暗くなった中を、部活を終えた生徒たちが三々五々下校してゆく。
 千種裕花は街灯の下をひとり歩いていた。
 物思いに耽っている。足取りは重い。
 その目の前に、横合いから人影が飛び出してきた。
「きゃあっ!」
 悲鳴を上げるのも無理はない、亀のような異形であった。
「あ、あんた………………理緒、あ、飛鳥理緒の友達、だな?」
「ひっ……!」
 陣面、という名前を裕花はもちろん知っていた。校内の誰もが忌み嫌う、掛け値なしの危険人物。事件を起こし制裁の口実ができるのを体育会系の猛者たちが手ぐすね引いて待ち受けているという。
 理緒からも聞いていた。
「この間の夜、わたくしの家の前にいらっしゃったの」
「…………理緒、それ、危ないよ、マジで……!」
 そうは警告したが、もし陣面が理緒に何かしてきた場合、非力な自分に何ができるだろう。
 憂鬱になっていたのは、それを思っていたせいもある。
 ――――自分を捕まえて、理緒をおびき出すつもりだ!
 咄嗟にそう判断し、逃げだそうとした。
「ま、待て…………待ってくれ……」
 背中に声をかけられた。意外にも、懇願する風であった。裕花はつい立ち止まった。
「……あ、あんた、あの白い鳥、知ってるな? 理緒のペット、白い、鳩みたいな、あの鳥…………」
「!」
 気が弱く、普通の生徒ともまともにしゃべれない裕花であったが、その言葉には驚いて目を見はった。
「マイアくん?」
「かっ、かっ、マ、マイアっていうのか…………そ、それが、すぐそこ、そこの所で、怪我して、苦しんでるぞ…………。
 あ、あんた、確か、生物部だったな………………オ、オレ、動物のこと、全然わからない…………み、見てやって、くれるか、かっ、かっ……」
「大変! どこです!?」
「すぐそこ、そこだ…………かっ、かっ、かっ……」
 歩き出した陣面に裕花は素直についていった。この、かっ、というのは何なのか気になったが、マイアの怪我が心配で、すぐに頭から追い払ってしまった。

          ※

『た、大変だ!』
 陣面を監視していた一羽が大慌てで仲間に連絡した。

          ※

 マンション建築予定地、という看板が立っている空き地。
 周囲に人気はなく、車もほとんど通らない。もし通っても、フェンスに囲まれていて暗い空き地の中にはまったく注意を払わないだろう。
 暗い所に陣面と二人きりということに気がつき、裕花は今更ながら怯えた。
「ど、どこなんですか……」
「そ、そこらへんに…………ね、猫にやられたらしい、血まみれで、落ちてた…………」
 陣面は四つんばいになった。本物の亀みたいだ、と裕花は思った。
 亀は動きが遅いもの。その認識が油断を呼んだ。
「あ、そ、そこだ」
「どこ……?」
「そこ……草の、かっ、陰……」
「?」
 陣面の指し示すままに、身をかがめて草むらをのぞきこむ。
 距離は取っていたはずだった。

 次の瞬間、想像もできなかった速度で飛びついてきた陣面に両足首を後ろから掴まれ、前のめりに引き倒されていた。

「きゃあああっ!」
「かっ、かっ、かっ、ば、馬鹿が…………かっ、かっ、かっ」
「いやあ! やめて! やめてええ!」
「い、いいぞ、そう、もっと、もっと泣け、もっと暴れろ」
「ひぎいいいっ! 痛い、痛いいいいい!」
「かっ、かかっ、ほうら、もう少しで、お、お前の、可愛い腕が、ぽきんといくぞ…………かっ、かっ、かっ、ど、どんな声出す、聞かせてくれ……」
「やめてえええ! いやあああ!」
「…………いい、いい声だ、た、たまらない…………そら、ぽきん!」
「ぎゃあっ!」
 裕花は動かなくなった。
「………………つ、つまらん、まだ何もしてないのに、声だけで気絶しちまって…………!」
 陣面は裕花の顔面を殴りつけた。
「……まあいい、これはこれで、た、楽しめる……」
 裕花を仰向けにする。服を脱がすなどというまだるっこしいことはしない。襟元を指でつまみ、左右に開く。制服がまるで紙ででもできているかのように軽々と破かれた。ブラジャーがひきちぎられ、あらわになった乳房が遠くの光に淡く照らされる。
「お、お前をひどい目にあわせれば、理緒は、お、怒るな…………とても怒るだろうな…………かっ、かっ、かっ……。
 お前、お前は、エサだ、かかっ、り、理緒を釣るための、エサ…………。
 理緒の怒った顔…………怒って、オレを怒鳴って、罵って、かっかっかっ、そ、それを、オレを許さない、そんな顔の理緒を、お、押さえつけて、ひきむしって、殴りつけて、食べる…………かっ、かっ、たまらないぞ、きっと……うまいぞ、かかっ、さ、最高の味だ、きっと!」
 変態の本性もあらわに口にすると、陣面は裕花の両脚を大きく広げた。
「……おやあ?」
 訝しげな声が上がる。
「はいてない? 
…………まあ、いい…………う、うまそうだ……かっ、かっ、かっ……く、食うぞ」
 ズボンを脱ぎ、巨体をのしかからせてゆく。失神した裕花の頬に長い舌を伸ばし、流れている鼻血を舐めてにたりと笑った。

 そのとき!

          (十)

「おやめなさい!」

 暗い闇を切り裂いて、明るい朝日が射すように、純白のワンピースが浮かび上がり、理緒の姿が現れた!

 理緒は肩で息をしていた。知らせを聞き、ここまで全速力で走ってきたのだ。
「さっちゃん!」
 理緒は叫んだ。裕花の反応はない。陣面の体の下で、ぐったりとなって動かない。
「そこをおどきなさい!」
 陣面は立ち上がった。無論理緒に気圧されたわけではない。下半身は丸出しだが、隠すどころか、猛々しくそそり立つ肉棒を見せつけるようにする。
「理緒…………。
 き、来たな…………。もっと、た、楽しんでからと思ってたのに…………かっ、かっ、仕方ない、今、今この場で、お前を、いただくことにしよう!」
 理緒は眉を鋭く吊り上げて陣面を睨みつけた。いつでも笑みを絶やさないこの少女が、怒っている。憤っている。
 陣面は相好を崩した。
「そうだ、その顔、それだ、理緒、かかかっ!」
 理緒は肩に留まっているマイアを追い払うように右腕を振った。飛び上がったマイアは他の三羽と一緒に理緒の頭上を旋回する。
「いつも想像していたぞ…………お前はどんな味がするだろう…………どんな可愛い声を聞かせてくれるだろう…………どんな風に、オレに命乞いをして、やめて、助けてって、泣き叫ぶんだろう!」
 陣面の声は興奮にどんどんうわずってくる。よだれを手でぬぐう。
「わかってる、かっ、かっ、わかっているんだ、お前のにおい、お前の体の甘い匂い、ああ、素晴らしい。はーやくお前を食べたーいなっ、理緒!」
 突進してきた。
 速い!
『理緒!』
 地響きをあげて迫り来る巨体を、理緒は闘牛士のようにすんでのところでかわした。
「さっちゃん!」
 理緒は放り出された格好の裕花に向かって走った。
 半裸の裕花を助け起こす。
「さっちゃん! さっちゃん!」
『理緒! 危ない!』
 陣面が迫る。理緒は振り向いた。
『今だ!』
「ええ!」
理緒は立ち上がり、両腕を軽く広げ、目を閉じた。
 前髪がふわりと持ち上がった。
 額にすっと赤い筋がはしったのは、陣面にはわからない。
 人間の目には見えないのだ。
 真横に伸びた赤い筋が、上下に開いた。めりめりと肉の裂ける音がしたのは錯覚か。むき出された肉には血管が網の目のように浮いているが、血は一滴も出ない。
 そこに球体が出現した。
 瞳孔と虹彩を備えた、眼球であった。
 人間の目よりもはるかに大きい。太陽の光が射していたならばそれは琥珀色、いや、黄金色に輝いていたことだろう。
 これこそ理緒に与えられた“天使の瞳”だった。
「陣面さん!」
“天使の瞳”がまばゆい光を放った。
「………………」
 陣面は目に見えない何かに蹴つまづいたように、地響きを立てて地面に倒れこんだ。伸ばされた手は理緒まであと数センチというところの土をえぐった。

          (十一)

「よかった…………最悪の事態は避けられましたわ」
 理緒は安堵し、それからハンカチで丁寧に裕花の顔をぬぐってやった。

『理緒、こいつはどうするんだ?』
『二度とこんなことができないよう、いっそのこと赤ん坊にでも変えてやれ』
 いち早く飛び上がり理緒の肩に舞い降りたマイアが言う。自分をダシに裕花がおびき出されたことで、他の誰よりも怒りをおぼえている。
「いいえ、それでは足りませんわ」
 理緒は裕花の血がついたハンカチを握りしめ、いつになく静かな声で言った。日夜の別なく理緒を照らす太陽が、その時ばかりはふっとかげったように思われた。
「この方には、御自分がなさっていることがどういうことなのか、思い知っていただかないと」
 その声の冷たさに、準天使たちから血の気が引いた。
“天使の瞳”が輝いた。

『これから先、あなたは、他の人が感じるのと同じ感覚を味わうようになります。他の人に痛い思いをさせれば、あなたも同じだけ痛みを感じます。他の人を気持ちよくさせれば、あなたも気持ちよくなります。どんな感覚も全部、他の人に与えたのと同じものがあなたに返ってきます。他の人を叩いたら、あなたも叩かれて痛くなります。他の人の血を流したら、あなたからも血が流れます。……』
 理緒は執拗にそういう暗示を陣面に与えた。陣面の歪みに歪んだ精神の奥底までしみ通るように、脳髄の襞ことごとくに行き渡るように、延々と繰り返し繰り返し暗示を重ねた。暗示の効果が一生続くよう、言葉による通常の催眠ではできない深いレベルにまで、“天使の瞳”の力をフルに使って埋めこんだ。
「……これでよろしいですわ」
 理緒は息をついて汗をぬぐった。
『そんなものでいいのか』
「本当はギタギタのメチャメチャにしてやりたいのですけど、残念ながら暴力は神様の望まれるところではありませんわ」
『表現が古いぞ』
「ですから、神様のおっしゃる基本に立ち返っていただくことにしましたの。“汝の欲せざるところを人に施すべからず”」
『それは論語!』
「ともかく」
“理緒耳”は都合の悪いことは全て聞き流す。
「これでこの方も他人の痛みというものに理解が及ぶようになるはずですわ。性懲りもなく非道な振る舞いを繰り返すようでしたら、己の身をもってその罪を償うことになるでしょう。ひとに幸せを与えない限り、決して御自分では幸せを感じることはできません」
 準天使たちにも文句はなかった。理緒にしては随分とまともだと感心さえした。
 暗示を植えつけられた陣面はうつろな目つきのまま去った。下半身は丸出しのままだが、それでどうなろうが理緒たちは構わない。捕まってくれればむしろ一安心というものだ。

 裕花を介抱する。
「さっちゃん!」
 裕花はなかなか目を覚まさなかった。
 理緒はその着ているものを脱がせる。
『おい!』
『待て!』
「何か誤解していらっしゃいません? この格好では人前に出られませんから、何とかしようというだけですわ」
 裕花を膝枕しながら、破られた制服を、“こんなこともあろうかと”持ち歩いている裁縫セットで縫い合わせはじめた。この暗い中で一発で針に糸を通し、目にも止まらぬ速さで破れ目を閉じてゆく。
『…………すごいな』
「こう見えてもわたくし、裁縫部に誘われたことがありますのよ」
『それだけできて、どうして入部しなかったんだ?』
「もう部員が九人いらっしゃいましたから、わたくしの出番はありませんでしたの」
『……おい』
 すぐに上着の応急処置は終わった。
 ちぎられたブラジャーを拾い上げる。上着を着れば胸は隠せるので、これは直さない。
 理緒は裕花のスカートの中に手をやった。眉をひそめて周囲を見回す。
『どうした?』
「…………あれが、見当たりませんわ。脱がせて、放り投げたのかしら……」
 パンティのことを言っているらしい。
「なくても家までは帰れますけど…………もし、陣面さんが自分のポケットにでも入れていたら…………嫌ですわ。返してもらうように言わなければなりませんわね……」
 もう一度陣面と向き合わねばならない、理緒の目つきにその決意が宿るのを見て、マイアが恐る恐る進み出た。
『その…………理緒。もしかしたら…………最初から、はいてなかったんじゃないかな……』
 準天使四羽の目には、理緒の背中の大きな翼が激しく動くのが見えた。
「どうして、そんなことが言えますの!?」
『いや…………ひょっとして、だよ……』
「ひょっとして、でそんな失礼なことをおっしゃるの?」
『そういうわけじゃ…………』
「……変ですわね。何か隠していらっしゃいません?」
 理緒は天然ボケであるが、鋭い所は人間離れして鋭い。今の理緒は、上空から獲物を発見した猛禽類そのものであった。相手がどのように逃げようとも、決して見逃さない。
「正直におっしゃい」
 まさしく鷹と鳩のような迫力の差があり、言い逃れることができなかった。
『実は…………』
 マイアはしぶしぶ、生物教室で見聞きした裕花の性癖について白状した。

         (十二)

「まあ…………」
 一転、翼が垂れ下がり、理緒は目をうるうるさせて裕花を見やった。
「そんなことで悩んでいらっしゃったのですね……。
 ああ、神様、これこそ本当にこの“瞳”の力を使うべき事柄なのですわ……」
 理緒は嬉々として裕花に向かった。もはやこうなると準天使たちには止められなかった。あまり無茶苦茶な目にあわされませんようにと、四羽は心から神に祈った。
「さっちゃん……」
「ん………………あ…………?」
 裕花はぼんやりと目を開いた。
「理緒……?」
「もう大丈夫ですわ」
「! あたし……!」
「大丈夫、危ないところでしたけど、あの人は追い払いました。安心してくださいまし、あなたは何もされていませんわ」
「………………」
 裕花は不安げに辺りを見回し、本当に陣面の姿がないのを確認すると、わっと声をあげて理緒に抱きついてきた。
「理緒、理緒……! 怖かった、怖かったああ……! うわあああ!」
 泣きじゃくるのを理緒は優しく抱きかかえた。子供をあやすように背中をぽんぽんと叩く。黄金の翼が前に回ってきて裕花をくるんだ。
「落ちつきまして? もう何も心配事はありませんのよ。わたくしにまかせてくださいまし」
 理緒は裕花の顔を上向かせた。
「理……緒……?」
「さっちゃん。わたくしの目を見てくださいな」
「?」
 言われるままに裕花は泣き濡れた目を理緒の目に向けた。
 遠くの灯りを反射して、暗い中に大きな瞳がきらりと光った。
“天使の瞳”が開く。
「………………」
『さあ、気を楽にして…………体の力が抜けてくる…………体の力がすうっと抜けて、頭がぼうっとなってくる…………体中がずんと重くなって、いい気持ち……まぶたも重い、重い…………』
 裕花の脳裏に暖かい声が響いた。男なのか女なのかもわからない、しかし心地よい、聞いているだけで幸せな気分になってくる声であった。大きな波のようなものが押し寄せてきて、裕花は言われるままになった。両の瞳が焦点を失い、涙の跡を頬にこびりつかせたまま、全ての表情が消え失せた。
「目を開けているのは辛いでしょう。目を閉じてよろしいのですわよ。ほら、まぶたがくっつく、くっつく……。そうです、ほうら、そのまま、深く、深く、お眠りなさい……」
 理緒が言うと、裕花はうつろな瞳を閉じて、首をがくりと前に傾けた。体のどこにも力が入らず、だがふわふわと浮かんでいるようないい気持ちだった。
 もたれかかってきたのを柔らかく受け止めて、理緒は裕花を胸に抱きしめた。安らいだ顔つきの裕花の頭を愛おしげになでさすり、さらに深い催眠状態へと導いてゆく。
『…………理緒…………頼むから、あんまりひどい目にはあわせないでくれ……』
「ひどい目? マイア、わたくしが、いつ、どなたにそのようなこといたしましたの?」
 まったく自覚なしに理緒は言う。
『………………』
「そんな戯れ言はどうでもよろしいですから、あなたの存じているさっちゃんの悩み事を、全部教えてくださいな」
『……だけど…………』
「教えてくださるわね」
 理緒はにっこりと笑った。
 マイアの脳裏になぜか、理緒の手料理に囲まれている自分の姿が浮かんだ。喉をひとつごくりとならし、即座に何もかも白状した。

「…………そうですの、御自分の体を他の方に見ていただきたい…………」
 話を聞いた理緒は考えこんだ。
『その、理緒………………できれば、君がいつもやっているようなことは……やめてくれないか…………』
「そうですわね。我慢できなくなったらわたくしに言ってくださるようにと思っていたのですけど……」
『………………』
「なんですの、その目は。何か誤解していらっしゃいません? わたくしは、さっちゃんの魂の平穏のために、彼女の欲望の受け皿になろうとしているだけですのよ。わたくし一人だけですむのでしたら、いくらでも恥ずかしいことのお相手を務めましょう。ええそうですとも、このお美しい体を存分に、わたくし一人だけで……」
 理緒は裕花のストリップを想像したのか、目尻を垂らし、にへらと口元を緩めた。
 マイアだけでなく、他の全員からの冷たい視線が飛んできた。
「コホン。…………ええと、それでは不十分なのですわね。
 では、どうしましょう。ただでさえ悩んでいらっしゃるのに、欲望を押さえこんでも、より悪い結果になるばかりですわね。かといって、望むままに振る舞えるようにするのはもっと悪いですわ。『ママー、あれ、ハダカのおねえちゃんだよ』『見るんじゃありません! 指ささないの! いい、あなたはあんなヘンタイになっちゃいけませんよ』……どう考えても不幸ですわね」
『じゃあどうするんだ』
「あわてないあわてない。……」
 理緒はいにしえの生意気な小坊主のようにつぶやくと、じっと考えこんだ。木魚の音が聞こえてきたのは気のせいか。
 ちゃんとした精神療法ならば、己の性癖を自覚させ、現実的に可能な範囲で欲求を解消できるようにもってゆくのだろうが、あいにく理緒は理緒、“暁の天使”にして“天上の双璧”、現実的という言葉ほど彼女から縁遠いものはなかった。
 理緒が沈黙している間、準天使たちは死刑宣告を待ち受ける囚人の気持ちを存分に味わった。
「……そうですわ!」
 理緒が目を輝かせて言い出した内容は、最初何のことか誰にもわからなかった。

「メキシコのユカタン半島に、古代遺跡の発掘調査のために欧米の調査団が踏みこんだときのことです」
『………………?』
「長期滞在するので、現地の方々を雇って、キャンプの設置を手伝っていただいたのですが………………できあがった立派なキャンプには、トイレがどこにもありませんでした」
 この話が裕花の悩みとどう結びつくのか読めず、四羽は黙って聞いている。
「調査団の方は、トイレを作ってくれと頼みました。すると次の日、地面に穴がひとつ掘られていました。四方に杭が立てられただけで、周囲から丸見え」
『………………』
「調査団の女性が、生活習慣の違いを説明する努力を怠っていたことに気づき、あらためて現地の方に話をしました。近代の衛生観念、プライバシーという概念について、排泄行為に関するタブー観などなど、じっくり説明してから、きちんとしたトイレを作ってくれとお願いしました」
『…………それで』
「翌日、穴の側の杭に、仮面がひとつかけられていたそうです」
『………………』
『………………』
『………………』
『……ま、まさか…………』
「そうですわ、さっちゃんだとわからなければいいのです。発想の転換ですわ」
 理緒はワンピースのどこから取りだしたのか、先ほどのものとは別な、真っ赤なハンカチを勢いよく広げた。持ち歩いている予備の下着、裕花のブラジャー、その他、その場にある限りの余分な布をかき集める。
 針と糸がさらに加速的に躍った。
「……できましたわ!」
 四羽はそろって絶望のため息をこぼし、胃のあたりに刃物で刺し貫かれたような痛みをおぼえた。

『裕花、目を開けてみてください。目を開けても今の気持ちいい気分はそのままです。話しかけられる言葉、目に入るもの、何もかもいつもと同じように理解できます。でもあなたの心はまだ深い所に沈んでいて、私の言うとおりになってしまうのです。わかりましたね。はい、まぶたが軽くなって、ぱっちりと目を開くことができます』
 裕花の目の前に、赤いものがつきつけられた。
 暗い中でも、真っ赤な布地に目の部分がくりぬかれた、マスクだとわかった。縁日で売っている子供用の仮面に似ている。後ろで留めるための幅広い紐は、どうもブラジャーのストラップらしい。
「即席ですみませんが、これをつけてみてくださいな」
 理緒の声だとわかったが、それについては何とも思わなかった。理緒がそこにいて、その言葉のままになるのは当然なのだ。あたまには濃い靄がかかったようで、物事を筋道たてて考えるのが面倒で、理緒の言う通りにしている方がずっと楽だった。
 裕花はマスクをつけた。
「よかった、ぴったり。……じゃあ、着ているものを全部脱いでみてくださいまし」
 裕花は立ち上がった。ここが屋外で、いつ誰に見られるかわからない場所だということはわかっていた。でも理緒が言うなら脱ぐべきだった。何のためらいもなく全裸になって立った。遠くの街灯が豊かな裸身をほの白く彩った。
「まあ、やっぱり綺麗ですわ…………」
 うっとりと理緒が言うのを聞いて、誇らしい気持ちになった。
「では」
 理緒が正面に立った。“天使の瞳”の光は裕花には見えない。
「辺りの景色が変わります。ここは街の中です。ビルの屋上。眼下には沢山の人たちが歩いています。車も沢山走っています。沢山の人たちに見られるところに、あなたは裸で立っているんです」
「……あ…………あっ……」
 裕花は身もだえした。
 本当に理緒の言うとおりの光景が見えてくる。
 消え入りたいようなものすごい羞恥が襲ってきた。体の芯に火がついたような感じもするが、今はそれどころではない。胸と秘所をかばってへたりこむ。
 みんなあたしを見ている、でも、駄目、こんな風に見られたかったけど、これじゃもう、明日からまともに暮らせない……あたしの人生おしまい……!
「大丈夫、落ちついて。あなたは仮面をつけていますでしょう。仮面をつけているから、あなたがどこの誰なのか、誰にもばれる気遣いはありませんの。よく見てごらんなさい、みなさんの顔を。みんなあなたの綺麗な裸をじろじろ見ています、でも、あなたが誰なのか一人も気がついていませんわ」
「あ…………」
 暗示が心にしみ通ってきた。
 あらためて眼下を見下ろした。
 好色な目つきがシャワーのように浴びせかけられてくる。だが…………本当だ、みんなにやにやしている、指さしてる、いやらしい顔してる、でも、これがあたしだとわかっているのは誰もいない!
 意を決して堂々と立ち上がった。熱い視線が集中して、体が燃え上がるかと思った。太腿がぶるぶると震えた。腕を頭の後ろで組んで胸を突き出してみる。乳首が痛いくらいに尖った。アソコはもう大洪水だ。我慢できなくなり、声を上げて体をくねらせた。
「あ、あはあっ!」
「そうですわ、それでよろしいのです。その仮面をつけている時、あなたは本当の自分になれるのです。あなたの心にひそむみだらな思い、体を突き動かす卑猥な欲望、全てが仮面をつけると共に解放される。それは正しいこと。隠したり、押さえこんでしまうようなことではないのですわ」
 裕花にそれが果たして聞こえたかどうか。
「そ、そうよ、そうなの、見て、これでいいの、見てよ、あたしを見てえ!」
 裕花は直接どこに触れたわけでもないのに痙攣し、淫らな液を垂れ流しながら、絶頂の悲鳴を放ち、くずおれた。
「満足していただけましたわね。これであなたの悩みは完全に解決されました。その仮面はまだ試作品、後日完全なものをお渡しいたしますわ。そのときこそ、あなたは――――」
 理緒は夜空を見上げた。それから裕花の、大股開きに倒れている姿に目を落とし、言う。
「そう、太陽、いえ、日の光、にっこう仮面に生まれ変わるのですわ」
『…………どうして日光?』
 さすがに横やりが入る。
 理緒はさらりと、
「ほら、似ていますでしょう、お日様と、落書きなんかでよくあるアソコの……もがっ!」
 口の中に白鳩が飛びこんできて、理緒は白目をむいて倒れた。
 いくら理緒でも言ってはいけないことがあるのだった。

          (十三)

 理緒は服を着せた裕花を自分の家に連れていった。
 着替えさせ、陣面と会ってから後のこと全てを忘れさせる。
 マスクは自分で思いついたという風にした。欲求不満が強くなったらマスクをかぶり、露出狂の性癖を満足させるように潜在意識にすりこんでおく。準天使たちのせめてもの懇願を受け、できるだけ人目につかないよう気をつけなさいとつけ加えた。

「これで完璧ですわね」
 裕花がちゃんと無事に帰宅するのを見届けたマイアが戻ってきた。
「けっこう大変でしたけど、やりとげましたわね、わたくし」
『………………まあな』
 四羽はそろって仏頂面。片づいたことは片づいたが、どうにも釈然としない。
 判定を仰ぐべく、天界との通路を開いた。
 場所はどこでもよい。準天使たちが望めばその場所に“通路”が出現する。今回は理緒の部屋の天井付近に美しく輝く円盤のようなものが現れ、神々しい光を降りまいた。
 理緒は両手を組み、神妙に祈りを捧げる。
 その背の翼はどのように変化するであろうか。
 善行を積めば積むほど翼は増え、理緒は天使に近づく。逆に理緒が悪事を行ったならば、翼は縮み、しまいには“天使の瞳”そのものが剥奪され、理緒から全ての記憶が消されることになるだろう。
 四羽も息をのんで推移を見守った。
 実際、今回の件を天界がどう評価するかは予想がつかなかった。
 天界でも今頃、理緒の行為の是非をめぐって喧々囂々の大騒ぎが起こっているかもしれない。
「………………」
 理緒は無心に祈った。これからも愛と正義のためにわたくしはこの身を捧げますと真摯に繰り返した。
 天界の光を浴びて体に満ちた幸福感が、清流が流れ去るように静かに退いてゆく。
“通路”が消えた。
 世界が元に戻ってから理緒は静かに目を開き、肩越しに背中の具合を確かめた。
『……り、理緒…………!』
「あら」
 理緒にはそれまで、大小二対の翼があった。
 それが。

 今や、そこにあるのは手の平ほどもない、極小の翼が二枚だけだった。

「まあ、可愛い」
『な、なぜ?』
『裕花さんのことは仕方がないとして……』
「どういう意味ですの」
『陣面に施した処置はあれでいいはずだ。強引に矯正するのではなく、自ら罪に気づくようにさせた…………』
『差し引いても、現状維持か、ちょっと縮むぐらいで、ここまで削られるはずは……!』
『おい…………我々は、何かとんでもない勘違いをやらかしたのかも…………』
「そんなはずはありませんわ」
 理緒は明るく言った。この異常事態に少しも動じた様子がない。
「どこが間違っていたのか、どなたか説明できまして?」
『………………』
「ならば気にすることはありません」
『だが!』
「いいですの、アペン、ファリン、マイア、ペリト」
 理緒は教師のように四羽に言った。
「わたくしたちはできる限りのことをしました。少しでもみなさんが幸せになれるように、世界が平和でありますように、乏しいながらも知恵をしぼって頑張りました」
『…………あれが知恵か』
 ばきっ。
 理緒は腕を大きく広げた。ついでに裏拳で余計な発言者が吹っ飛ばされたのは、多分偶然だろう。
「そうです、わたくしたちはやるべきことはやったのです! それがどのように評価されようとも、気に病む必要はどこにもありませんわ!」
『………………』
「あれ以上何かできましたの、わたくしたち?」
 面と向かって問われるとはっきりとは答えられない。
「大事なのは神様の教えに従うことで、羽の枚数ではないのです。それにこだわるのは間違いです。わたくしは羽が欲しいわけではありませんわ。この世の中に光をもたらしたいのです。ですから、たとえ羽が全部なくなろうとも、わたくしたちが神様の教えをきちんと守り、世界平和のために吶喊(とっかん)し続けている限り、何も心配することはないのです!」
『……何か、理緒に言い負かされるのってめちゃくちゃ悔しい』
 身を震わせた背中を他の三羽が同情をこめて叩いた。
「……よろしいですわね? では、このお話はこれでおしまい。今日中に、予備の仮面をあと三つは作っておかないと……。
 明日も頑張りましょうね、みんな!」

          ※

 理緒も、四羽の準天使たちも知らない。

 人の欲望の強さを。

 その夜、住宅街の塀の上を、素っ裸に粗末な仮面だけをつけた少女が、高笑いを上げながら走っていった。

 そして、同じ頃、夜のとばりの奥底で、亀のような巨体が何の罪もない少女を組み伏せていた。

          (十四)

「ふぐうううう! ぐがああああ!」
 口に丸めた布を押しこまれ、涙と鼻水まみれで苦悶する少女を、陣面は思うがままにいたぶっていた。
 目一杯に広げられた両脚の間に、剛棒を無理矢理ねじこんでゆく。
「かっ、かっ?」
 何か違う――――そんな表情が爬虫類の顔をよぎる。
 その顔には鼻血が流れている。この少女を暗がりへ引きずりこみ、抵抗するのを、おとなしくさせるために殴りつけた。途端に鼻に痛みがはしり、生ぬるいものが口につたってきたのだ。
 だが、どうしてなどと考える頭脳は今の陣面にはない。血の味はかえって興奮を誘っただけだった。
 剛棒が、まだ男を知らぬ幼い裂け目に押しこまれる。
「?」
 陣面はこれまで感じたことのない奇妙な感覚を腹におぼえた。
 構わず体重を乗せた。
「ぐうううう!」
 少女のくぐもった絶叫が上がる。肉襞がちぎれ、骨がきしむ。激痛と新たな血の臭い。内臓が圧迫されて、中身全部が口へ押し戻されてくるように感じた。耐えきれずに失禁した。
「があああっ!?」
 同時に陣面も叫んでいた。
 殴られたり蹴られたりすることには、恐竜なみに鈍感だ。
 そういうものとはまるで違う、生まれてはじめての、言語に絶する痛みが腹に生じた。
 刃物で刺されたとしてもこうは感じるまい。
 陣面は飛び上がり、転げ回った。
「い、痛い、痛い、痛い、痛いいい!」
 下腹を押さえ、這いつくばって息をつく。小便を洩らし、異臭が漂った。
 相手の突然の狂態に、少女は逃げることも思いつかずに震えている。口の布がなければ歯をがちがち鳴らせているだろう。
 陣面は顔を上げた。突き出た目が、まだ湯気が上がっている少女の股間に向く。
「ふ! は、が、ああ!」
 ひい、いや、やめてと言おうとしたらしい、もがく少女を押さえつけた。
「お、お前、何か、したのか」
 足首をつかんで逆さに吊り上げる。目の前に持ってきた血まみれの秘所に、ごつごつした指をいきなり突き入れた。
「があああっ!」
「うおおお!」
 少女と陣面は同時に叫んだ。
 少女の体が宙に投げ出され、頭から落ちる。失神した。その方がまだ幸せであろう。
「な、何だ、今のは……」
 陣面は少女の体をうつぶせにし、尻を持ち上げた。むき出しになった菊座にまたも指を突き入れる。
「……!」
 尻をかかえて飛び上がる。
「………………」
 さしもの陣面もへたりこみ、しばらく荒い息をついた。
 怯えの色が見られた。
 だが、しばらくして、元から偏執的な光を放っていた目に、さらに別の、不気味な輝きが宿った。
またしても少女の体を開き、のしかかる。
「痛た、痛い、痛いぞ、痛い!」
 呻きながら、剛棒を今度こそ深々と少女に突き刺してゆく。
「ふ、ぐ、ぐあああっ!」
 腰が進み、深奥まで貫いた。
 陣面の面相は正視しかねるほどに醜く歪み、脂汗が噴き出して角張った顎からつたい落ちてきた。
 よだれを垂らしながら、ただでさえ横に長い口が、さらに大きく、本当に耳まで裂けたように見えるほど大きく開いた。
「こ、これは、は、初めてだぞ…………こんなのは……!
 いい!
 痛いぞ! かかっ、かっ、痛い! 痛いのに、いい! 気持ちいいぞ、かっ、かっ、かっ!」
少女の体を押さえつけ、腰を動かしはじめた。
「ぐおっ、こ、これは、痛い、いい、たまらん!」
 まろやかな肩に噛みつく。血がしぶく。
「おおっ!」
 自分の肩をおさえて陣面は喜悦の声をあげた。

 ――――恐るべきマゾヒストをこの世に産み落としてしまったことに、理緒はまだ気づいていない。

 まして、その陣面が、血まみれになった少女から離れて満足げに息をついた後、虚空に向かってこうつぶやいたことなど。

「かっ、かっ、かっ。
 理緒、オレの理緒、お前の痛みを、オレにくれ。オレに食われる苦しみを、オレに食われる悲しみを、オレの体に刻みつけてくれ。かっ、かっ、かっ……」

                           (続く)


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