ルシファの翼

第四話 理緒は地獄のコックさん

作:おくとぱす さん

  後編  人面魔獣の逆襲

          (一)

「おはようございます」
 その日の理緒は、いつにも増して輝くようであった。
 昨日の夜、千種裕花の危機を救い、彼女の悩みを解消させ、また危険人物の陣面に二度と悪いことのできないような暗示を与えた。これまでにない達成感が理緒を満たしていた。
「理緒! おっはよ!」
 理緒以上に明るい声がして、いきなり背中を叩かれた。
「……さっ……ちゃん……?」
「はあい、お友達のさっちゃんだよお!」
 千種裕花であった。
 昨日までの陰鬱な雰囲気はどこへやら、理緒でさえ見劣りするような元気いっぱいの笑顔を浮かべていた。そういう顔をするとまるで別人だった。これほどの美少女がこの学校にいたのかと、通りかかった誰もがびっくりした目を向けてきた。
「さっちゃん…………なんだか、今日は……明るいですわね……」
「そうかな? ま、ちょっといいことあってさ、今日はごきげんなんだ、あたし」
(よかったですわ、大変満足していらっしゃるみたいですわね)
 理緒は鞄の中のマイアにそっとささやく。
『……だといいけど』
 どうしても気弱になるマイアであった。

「!」
 理緒とマイア、それに他の準天使たちも、同時にそれを感じた。
 突き刺さってくるような気配であった。
 理緒は上履きに履き替えようと片脚を上げたままの姿勢で固まり、振り向いた。バランスが崩れないのが不思議である。
『陣面!』
“亀”が校門の所に出現し、じっと理緒に視線を注いでいた。
 こちらは相変わらずの、濁りに濁った目つきであった。
『…………どうなったんだ、あいつは……』
『あの暗示では、一日やそこらでは変わらないだろう』
理緒はあろうことか陣面に対してにこりと微笑んでみせた。足を床に下ろす。-スカートの中身をのぞきこもうとかがみこんでいた男子生徒たちが逃げ散ってゆく。
 陣面の姿はふっと消えた。
「いい感じですわ。やっぱり愛なのです。命を投げ出してあたれば、どんな巨大な相手でも何とかなるものですわ」
『君が反物質でできているのならね。どちらかというとこの世のものじゃないのはあいつの方だ。ぶつかってこなければいいけど……』

 鞄の中からマイアは首を出し、理緒の背中を見やった。
 そこにちょこんと突き出した、悲しいくらいの小さな翼。
 それまではまさしく天使の翼というにふさわしい大きな翼だったのいうのに、どうしてこんな風にされてしまったのか、一晩考えてもまだわからなかった。
(何か…………何か、僕たちは見落としている……)
 理緒は全然気にしていない。
 空はよく晴れていたが、マイアや他の準天使たちには、黒いもやのようなものが頭上にたちこめ、次第次第に厚くなってくるように見えていた。

 数日が過ぎた。
 千種裕花は、それまでの引っ込み思案なところがなくなり、人が変わったように積極的に活動しはじめた。そうなると、まず元々が相当の美少女であったし、成績はよく運動も万能、人当たりがいいこともわかって、たちまち校内の人気者になった。
 最初のうち、急に心をいじられたための一種の躁状態ではないかと心配していた準天使たちだったが、しばらく見守っていて、これが本来の彼女の性質であることを納得した。
『認めたくないものだな、理緒がらみゆえの過ちとは』
『まだだ、まだわからんよ』
『そう、あの仮面。あれがどう関わってくるか……』
『にっこう仮面……』
 そのあまりにもあまりなネーミングの赤いマスクを思い、四羽はまたしても胃痛に身をよじるのであった。

          (二)

 台風が接近していて、午後から風と雨が激しく吹きつけてきた。本格的な上陸は深夜になるらしい。
 千種裕花は家路を急いでいた。
 傘をさしてはいるが、斜めに吹きつける風のせいでほとんど役にたっていない。レインコートがほしかった。普段は自転車通学しているが、こういう時ばかりはバスで帰れる生徒がうらやましい。家まで歩いて二十分。そっち方向へのバス路線がないので、歩くしかなかった。
 制服がぐしょぬれだ。ひどくなる前に帰りたかったのだが、彼女は生物部、飼育している動物の世話をしておかないとならなかったのだ。家に帰ったら真っ先にシャワーを浴びなきゃと思い、ふと脳裏に赤い仮面が浮かんだ。
 そうだ、今夜。
 こんな天気なら誰も外には出ないだろう。
 あの仮面をかぶって、出かけよう。どうせ気温は高いし、けっこう快適かもしれない。
 それにしても、露出狂の癖を解決するためにあんなことを考えつくなんて。裕花は自分で自分を賞賛した。あれは自分で思いついたものなのだった。予備も含めて三枚ある仮面も全部自分で作ったもの。裁縫はあまり得意ではなかったが、快心の出来だった。
 雨中の秘密の散策を思って、体が熱くなった。
 突然、手に何かが当たった。
「痛っ!」
 傘が手から離れ、風に吹き飛ばされる。
 裕花は何がどうなったのかわからないままに、傘を追って走った。
 風が、ふと止まった。
 傘をやっと取り戻した裕花は、背後に巨大な影が立っていることに気がついた。横幅の広い、亀のような体躯だった。
「きゃああっ!」
 反射的に傘を振り回す。
 硬いものにぶちあたり、動かせなくなった。
「かっ、かっ、かっ……」
 傘の骨がひしゃげ、握り潰された。
 陣面は突き出た目をぎょろぎょろ動かして笑った。
 身をかがめ、突進してきた。
 子供がラグビー選手のタックルを受けるようなものだった。裕花は口を悲鳴の形にしたまま失神し、陣面の肩にかつぎあげられた。
 全ては雨と風の中、目撃者は誰もいなかった。

 目を覚ますと、全裸にむかれていた。
 まだ何もされていなかった。けれども、気絶している間に犯された方がまだましだったと、本能的に悟った。
 足元に陣面がうずくまっていた。裕花が気がつくのを待っていたのだ。
 プレハブ小屋のような所だった。どこかの工事現場にでも潜りこんだのだろうか。
 薄い屋根を雨が激しく叩いている。助けを呼んでも届かない。
 裕花は犯された。
 初めてだった。先ほど少し妄想にふけったので、少しだけ濡れていた。けれどもそんなもの何の役にも立たなかった。巨根が強引にねじこまれてきて、激痛に泣きわめいた。
「痛い、うががが、いい、いいぞ!」
 陣面も一緒になって痛がった。だが裕花と違って、苦悶のなかに快楽の響きがあった。
 今の陣面は、理緒にかけられた催眠暗示のせいで、他人の苦痛を自分も同じく感じるようにされている。
 理緒はそれで陣面を反省させるつもりだったのだが、その苦痛が逆に陣面にはマゾの快感を呼び起こしてしまったのだ。
 体が引き裂かれるような痛みがようやく去り、ほっとしたのもつかの間、血まみれの一物をそそり立たせた陣面は、舌なめずりしながらさらなる苦痛を求めてきた。

 絶叫は、嵐がかき消した。

          (三)

 夜の間に台風は過ぎ去った。
 まだ雨は降っているが、次第に弱くなってきていた。雲の動きは速く、西の方に隙間が空いて、時折そちらに陽光が射しこんでくるのが見えた。輪郭がはっきりして、光の柱が立っているようだ。
「あら、“天使の梯子”ですわ。わたくし、あれ大好き。神々しいってまさにあれのことだと思いません?」
『…………まあね』
 真白い傘の下、理緒の肩の上でマイアはぶっきらぼうに答えた。
「……どうしましたの? 何か不機嫌なようですけど」
『いや………………何か、嫌な感じがするんだ……』
「いやな感じ?」
 理緒は言われて周囲を見回した。
 傘を連ねて自分を見上げる男子生徒の群れ。
 理緒は学校の校門の、『天上高校』の堂々とした文字が刻まれた門柱の上にいた。
 そんな所で空を眺めているので、まだ時々強く吹く風がスカートをまくりあげる。風は男どもをじらすつもりなのか、時には膝頭をのぞかせ、あるいは太腿までめくりあげるというのに、肝心の下着は決してのぞかせようとはしない。
「もう少し!」
「あと二センチ!」
 血走った目玉がずらりと居並ぶ中、理緒はくるりと回転してみせた。布地がふわりとふくらんで、またしぼんでゆく。一緒に傘から水滴が飛び散る。
「………………別に、そんな様子はありませんけど?」
 マイアは頭をかかえた。この情欲の渦の中では、それ以外の不穏な空気などとても感じ取れまい。
 ちなみに、理緒とマイアの会話を気にする者は誰もいない。準天使たちが知恵をはたらかせ、最近理緒は腹話術をおぼえたという噂を校内に流したからである。
「飛鳥!」
 女性であるが低い、きびきびした声がした。
 振り向いた理緒は、ジャージ姿のバレー部部長、長田彩子の姿を認めて目を輝かせた。
「まあ、サイコジェ…………長田さん。おはようございます」
「ああ、おはよう。…………ほら野郎ども、散った散った! 飛鳥、君もさっさと降りてこい。そんな所でただ見させることはないだろう。それとも見せたいのか? なんなら僕が代表して、二人きりでじっくり検分してやる」
「まあ、光栄ですわ」
 この凛々しい長身の少女は、かつてはノーマルだったのを、理緒の催眠によってレズに開眼させられていた。それが本人の性癖にあっていたらしく、次々と可愛らしい女の子を虜にし、今では熱狂的な親衛隊がいる。
 理緒が“サイコジェニー”というキーワードを与えるとタチネコが逆転し、理緒をおねえさまと呼ぶようになってしまうのだが、これは彩子本人も知らない秘密だ。
 彩子の手をとって理緒は門柱から降りた。勢い余って彩子の胸に飛びこむようなかたちになる。
「あら」
「おやおや」
「……濡れていらっしゃりますのね」
「君こそ、しずくがこんなに垂れて……いけないね……」
 雨粒を珠の肌にしたたらせながらねっとりと目を合わせた二人に、背後から親衛隊の黄色い悲鳴が飛んだ。
「やめてえ!」
「いやあ! わたしのおねえさまに!」
「…………静かにしてくれないか」
 彩子は一声で場を押さえると、真剣な顔で理緒に向かった。

「…………あの子たちから聞いたんだが…………これはまだ噂で、本当かどうかわからない、だからもし違っていたら――――違っていてほしいと思っている……」
 長い前置きは彩子に似つかわしくなかった。それだけ重要なことを告げようとしている。さすがに理緒の表情も引き締まった。
「千種裕花」
「……さっちゃんが、どうかしましたの?」
「…………この間バレー部に見学に来てもらった縁で、名前を覚えていたんだ。
 その…………千種くんが…………昨日……」
 轟、と強風が吹きつけた。
 あちこちで声があがった。ひとかたまりになって吹っ飛んでゆく傘の中に、理緒の真白い傘もあった。
 理緒はそちらを見もしない。
「…………なん…………ですって……!」
「今も職員室は騒ぎになってる。とりあえず命に別状はないようだが…………かなりひどい目にあわされたそうだ。相手は二十人だとか三十人だとか色々言われてるが、詳しいことはわからない。
 ……君の友達だと聞いて、とりあえず……」
 うつむいていた彩子が沈痛な顔を上げたとき、もう理緒の姿はその場にはなかった。

          (四)

 病室の壁際の椅子に、裕花の母親が眠っていた。
 看護婦がカルテをめくる。
「………………全身二十三カ所、八十七針縫ったわ。幸い、深い傷はなかったのでそれほど長く入院しないですむでしょうけど…………きれいに刃物で切った傷はむしろ少なくて、ほとんどが噛みついたり、その……皮膚を……ペンチみたいなものでむしりとったりした……普通じゃない傷なの。だからどうしても痕は残っちゃうし……強姦された精神的ショックも…………むしろ心の傷の方がずっと深くて…………退院してからが大変でしょうね」
 看護婦は理緒を見て首をかしげた。
 友達とはいえ、プライバシーの問題もあるし、そこまで細かく説明する必要はないはずだった。
 だが、ものすごい勢いで飛びこんできたこの少女と目があった途端に、何もかも全部教えなければならない相手だと“わかった”のだった。
「……犯人は?」
「意識は何度か取り戻したんだけど、パニックになって何も答えられなかったわ。無理もないわね。今も鎮静剤で眠っているのよ」
「そうですの。ありがとうございました」
『……では、今私と話したことは全部忘れます。この部屋には誰もいない、まだ見舞い客は誰も来ていない。私がまたあなたに声をかけるまで、この部屋からはどんな音も、どんな声も聞こえません。わかりましたね。さあ、行きなさい』
 看護婦の頭の中に暖かい声が響いた。その声に言われるままに病室を出た。途端に頭がすっきりした。持ち場を離れていたら怒られる。急いでステーションに戻った。

「さっちゃん…………」
 理緒は包帯だらけの無残な姿に変わった裕花を見て息を詰まらせ、胸を押さえて気を鎮める。
『裕花さん……』
『まさか、こんなことになるなんて……』
 窓から四羽全部が入ってきている。
『理緒………………』
「………………」
 理緒は無言で踵を返した。涙こそ流していないが、その消沈しきった表情に四羽は言葉を失う。
「お母さん」
 裕花の母親を揺り起こす。
『理緒、何を……?』
「黙って」
 母親が薄ぼんやりと目を開いた。
「……あ、すみません……。
 あら…………あなた?」
「おはようございます。はじめまして。裕花の友達の、飛鳥理緒です」
「ああ、あなたが……」
 母親は重く頭を下げた。
「いつも裕花から聞いていたんですよ。学校に、面白い子がいるって…………この子、人と話するのが小さい頃から苦手だったから…………学校でもあんまり友達いないみたいで…………し、心配していたんですよ……」
 深く刻まれた目尻の皺に涙がにじんだ。肌はかさかさで血色悪く、この一晩の間にひどい心痛を味わったことがうかがえた。
「……それは……?」
 理緒は足元に置かれたスポーツバッグ、その開いたチャックの中からのぞいている赤い色合いを示した。
「ああ、これ…………」
 頭からかぶる、真っ赤なマスク。
「はやっているのかしら…………最近とても大事にしているの…………丁寧に自分で手洗いして、アイロンかけて…………そういうの得意な子じゃないのに……」
「お母様」
 理緒はかがみこんだ。泣き出すのを必死にこらえていた。
“天使の瞳”が輝いた。
『理緒!』
「静かに!」
 いつにない剣幕。
『さあ、私の声をよく聞いて……』
 母親の脳裏に不思議な声が響いた。暖かい波が穏やかに押し寄せてきた。疲れ果てすり減った精神は、何も悩まないですむ安らぎの眠りにたちどころに引きこまれていった。
「ゆっくりおやすみになってくださいまし…………。次に目を覚ました時には、体の疲れが取れて、しっかりと物事を考えることができるようになっています……」
『理緒…………』
「わたくしにできるのはこのくらいですわ」
 理緒は椅子を集めてきて並べ、がくりと首を傾けた母親の体を丁寧に横たえた。

 それから裕花に向かう。
『…………一体、何をする気だ』
「届くかどうかわかりませんけど………………今のうちにやらなければいけないんですの」
『今のうちにって…………何を?』
 理緒は答えず、目を閉じて裕花の上に身を乗り出した。
“天使の瞳”が大きく開いた。この世のものではないそのまなじりも裂けんばかり。
 理緒の眉間に深い皺がよった。
 歯を食いしばり、渾身の力をこめた。
“瞳”から、まるで太陽のような強烈な光が放たれた。
『理緒! 無茶だ! そんなことをしたら!』
「いいん……です……! どうしても、これだけは……今のうちに……!」
 ベッドについた理緒の手が激しく震えた。こめかみに汗が浮き上がり、奥歯がぎりっと音をたてた。
「さっちゃん…………さっちゃん…………!」
『かかるのか…………この状態の相手に?』
「届いて…………夢の中のさっちゃんに……!」
 理緒はさらに力を振り絞った。
「さっちゃん…………お願いです、聞こえたら…………まぶたを………………!」
 やがて、裕花のまぶたがぴくぴくと動いた。
『届いた!』
『すごい………………こんなことが、できるんだ……』
『睡眠学習というのがある。眠っていても、脳は外界の刺激にちゃんと反応するんだ。不可能ではない……とは思うが……』
 理緒は荒い息を落ちつかせ、裕花に暗示を与えた。
「これからあなたは時間をさかのぼっていきます。深い記憶の海の中へ潜ってゆくのですわ。嫌なこと、辛いことを思い出すかもしれませんけれど、大丈夫。頑丈なロープをつかんでいるところをイメージしてくださいまし。どんなに深い所に潜っても、このロープをつかんでいる限り何の心配もありませんの」
 理緒は自分の手を握らせた。裕花は弱々しく握り返してきた。
 その手を何度か軽く引っ張る。
「どんなに危なくなっても、すぐにこうやって引っ張ってさし上げますから、安心してくださいな」
 夢の中でもやはり不安をおぼえていたのか、裕花の頬がかすかに緩んだ。
「では、ゆっくりと時間をさかのぼっていきましょうね。
 ――――さあ、あなたは一日前に戻りましたわ。学校が終わって、部活の帰り、ひどい嵐。あなたはどこにいらっしゃいます?」
 裕花は帰り道の途中の光景を口にした。
 その声は震えている。催眠で過去に戻されているとはいえ、潜在意識はその次に起こったことを記憶しており、恐怖を今一度体験しなければならないことに怯えている。
「小石……みたいなものが飛んできて…………傘が…………。
 拾おうとしたら、後ろに、う、後ろに…………あ……きゃあ! いやあああ!」
「誰です!? 誰がいたの!? 教えて!」
「じ、陣面! 陣面よお! いやああ! 助けて、助けてええ!」
「落ちついて! 大丈夫! 大丈夫です! 今はもう大丈夫! 陣面はいない、どこにもいない、あなたは無事、ここは安全、大丈夫、大丈夫ですわ!」

 もがく裕花をとりあえずリラックスさせ、理緒は息をついた。
「…………やっぱり、あの人……!」
『どういうことなんだ? どうしてあいつが!』
『暗示がきかなかったのか?』
『そんなはずは……』
『あ……ま、まさか………………』
『どうした?』
『マゾ、だ。苦痛を与えられると快感を感じる、マゾヒスト。陣面は確かに人の苦痛を自分も同じように感じる体になった。だけど、それがあいつには快感になってしまった……だからこんな、こんなひどいことを……!』
 水を打ったような沈黙。
 あまりにも重苦しく、しばらくの間誰も何も言えなかった。
 理緒が小さく波紋を起こす。
「……わたくしのせい、ですのね…………」
『いや、君は…………誰にもわかるはずがない、あいつがそんな風になるなんて……!』
「かばってくださってありがとう。でも…………やっぱり原因はわたくしです。だから羽が小さくなったのですわね。何も知らずに、正しいことをしたと浮かれて、いい気になっていた、これは罰なのですわ。……」
『理緒…………』
 うつむいて、前髪が目をほとんど隠している。理緒は泣かなかった。目を真っ赤にしながら、それでも涙を懸命にこらえ、今一度裕花に向いた。
「では…………続きを…………」
『続き? 相手を確かめるのが目的じゃなかったのか。一体、何を……?』
「責任はとりますわ」
『責任…………何を!』
「黙ってみていてくださいまし」
 そう言った理緒の表情を見た四羽は、凍りついた。
 ひたひたと流れる奔流に似ていた。
 黒く、深い。流れはとてつもなく早いのに、しぶきも上がらない。
 何もかもを飲みこみ、押し流す。
 止める方法がない。
「………………ではさっちゃん、怖いでしょうけど、もう一回今の場面へ戻っていきましょう」
「いや! いやあ!」
「駄目ですよ。わたくしがあなたの額をなでると、あなたはどんどん昨日へ時間をさかのぼっていってしまいます。どんなに嫌だと思っても、そうなってしまうんです」
「いやだああ! やめてええ!」
『………………』
 息をのみ見守る四羽。
 理緒の額にはまたしても“天使の瞳”が開き、ものすごい光を放っている。
「ほうら、どんどん時間が戻っていきます。今は夜六時過ぎ、嵐の中、あなたはお家へ向かって歩いているところ」
「………………」
「あなたの手から傘が飛びました。後ろに大きな人の姿が!」
「きゃああ!」
 理緒は泣き叫ぶのを無視して非情に裕花の記憶を探った。容赦ない、刃のような冷たい声で暗示を与え続け、どこかの小屋で陣面に犯された時のことをよみがえらせた。
「は、入ってきたああ! 痛い! 痛い! 痛いい!」
 陣面に押さえつけられている暗示が強力に作用しているので、手も腰もベッドにくっついて動かせない。大きく開かれた脚だけが宙に屈伸し、吹っ飛んだ掛布の下、白いパンティに赤いしみがにじんできていた。
「もういや、やめて、助けてええ! やだ、やだ、やめ、い、痛あっ、ぎゃあああ!」
『理緒!』見かねて叫ぶ。
「うるさい!」
 まさか、理緒がこんな声を出すとは。
『り、理緒……!』
「……あなたはとっても怖い、痛い、苦しいんですね。その気持ち、わかりますわ。早くここから逃げたい、助けてほしい。でも…………ごめんなさい、まだ駄目なの。今のあなたはパニックになっています。パニックになっているから、何がどうなっているのかわかっていません。心を静めて、辺りのものを、相手を、じっくり見られるようにならなければいけません」
「ぎゃあああ! 痛い、痛い!」
「大丈夫! 時間の流れがゆっくりになる! 何もかもがスローモーションになってくる! ゆっくり、ゆっくりになる! ひどい痛みも薄らいで、ゆっくり、ゆっくりと来るようになる!」
“瞳”の光はなおも全開。その力で裕花の心を強引に操る。理緒の顎から汗がぽたぽたと垂れ落ちる。
 裕花の悲鳴がようやく治まってきた。
「はい、時間が遅くなって、遅くなって、止まった! あなたの恐怖も、苦痛も、何もかも止まった! あなたの頭も止まって、感情は全部なくなって、怖くもない、苦しくもない、そこにあるものだけが、写真みたいにはっきり見えます!」
 裕花は脚を蛙のように開いたまま静止した。
 理緒は汗をぬぐう。
「…………さあ、何が見えまして?」
「……あいつ………………陣面…………にたにたした、すんごく気持ち悪い顔…………あたしの脚広げて、でっかい体、アレ、あたしの中に……!
 ……吐きそう…………うぐっ……」
「違います」
 理緒はきっぱりと言った。
「あなたはパニックになったから、勘違いしたのですわ」
 裕花の額に手をあてて、なでさする。
「はい、こうしていると、陣面さんの姿がどんどん薄れて、影みたいになってきます。ほら、薄くなって、薄くなって、もう誰だかわからなくなってしまいました。あれが誰だか、わかりません。あなたの脚を広げて、あなたを犯したのは誰なのか、わからない。陣面さんではない、他の誰かなのです。誰なのか、顔が見えますか?」
「………………見えない……」
 当たり前だ。
「では教えてさしあげましょう。理緒です。飛鳥理緒」
『理……緒……!!』
 あまりのことに、四羽がそろって飛び上がる。
「理緒…………?」
「信じられないようですわね。仕方がありませんわ。でも、本当なのです。あなたの友達の飛鳥理緒は、実は女の子に興味のある、レズビアンだったのです。レズなのを隠して、可愛いあなたを狙って、これまでずっと友達面をしていたのですわ」
「理緒が…………あたしを…………?」
 もはや四羽は上げるべき悲鳴すら蒸発して、空しくくちばしを開閉させるばかり。
「よく見てごらんなさい。三つ数えると、はっきりその姿が見えます。ひとつ、ふたつ、三つ。……
 ほうら、あなたを犯しているのは、理緒でしょう? あなたの脚を陣面さんに開かせて、あなたの大事な所に、にやにやしながら指を突っ込んでいる飛鳥理緒」
「あ………………まさか…………理緒…………」
 通常ではありえない深い催眠状態に落とされている裕花は、どんな突飛なイメージでも暗示されるままに受け入れてしまう。
 目を閉じたままの裕花の顔にとまどいが浮かび、それがやがて怒りへと変化していった。
「他の場面を思い出してみましょう。雨の中、あなたを陣面さんが捕まえた時。最初に投げつけられた小石。暗がりに身をひそめて、狙いすまして投げたのは…………ほら、理緒がそこにいます」
「………………」
「理緒と陣面さんは友達なのです。あなたをどうしてもものにしたかった理緒が、陣面さんをそそのかしてああいうことをしたんです。これまでに見聞きした二人の危うい関係は、全部演技。あなたを犯すためのお芝居。あなたはそれにだまされて、理緒に処女を奪われてしまったんです。
 あなたを傷つけたのも、理緒の趣味。理緒は実は相手を傷つけて喜ぶ、サドの顔も隠していたんです。あなたを傷つけて、悦んでいた理緒の顔も見えますわ。ほら、はっきりと見えてきた。
 ――――これが真実です。あなたが思い出した、これが真実。わかりましたね」

          (五)

 理緒は裕花を眠らせると、大きなため息をつき、よろめいてその場に倒れこんだ。
『理緒!』
「大丈夫ですわ………………ちょっとめまいがしただけ……」
『理緒…………どうして!』
『どうしてそんなことを!』
「今ならまだ記憶が定着していないから……簡単に置き換えられますわ……」
『違う、そうじゃなくて……どうして……!』
「みんな」
 理緒は裕花を指さした。
「確認します。さっちゃん…………いえ、裕花を、起こしてくださいな」
『………………』
 四羽は裕花の上に飛び乗り、顔をつついた。
「ん……」
 裕花が声を漏らす。催眠下でのパニックで、鎮静剤の効き目も切れたようだ。
 四羽が急いで飛び退いた中、裕花は長い冬眠から覚めた熊のように目を開けた。
 最初、自分がどこにいるのかわからない様子でぼんやり周囲を見回す。
「……さっちゃん」
 壁にすがって立ち上がった理緒が、そっと声をかける。
「理緒…………?」
 嬉しそうに輝いた顔が、すぐに曇り、影に閉ざされた。
 そして一度うつむいた後、きっと理緒を見据えた目つきには、もはや一片の親しみも残っていなかった。
「あんた…………!」
 口元を覆うガーゼの間から、劫火のような声が放たれた。
 固く閉じられた理緒の唇が色を失う。血の気はとうにない。
「よくも……あたしの前に、顔出せたな!」
「………………」
 裕花の顔が嘲りに歪む。
「まだしたりないの!? だったら、ほら、あたし動けないよ、好きなようにしなよ! そうしたくて来たんだろう、このクズ! レズ仲間のおま○この垢に湧いたウジでも舐めてろ、お似合いだ!」
「さ……」
「さっちゃんなんて呼ぶな! もうお前になんか呼ばれたくない! 消えろ! 二度とあたしの前に現れるな!」
 唾を飛ばし口汚く罵る顔が、くしゃくしゃになってきた。
「あたし…………お前のこと、気に入ってたのに…………面白いやつだって、結構いいところもあるんだって…………なのに……ずっと、そういう目で見てたなんて……! 知らなかったわよ、あたしが馬鹿だった!」
 真っ赤に腫れた目から涙があふれた。
「馬鹿だよ、あたし、馬鹿だ……! こんな変態のこと、友達だなんて思ってて………………。
 いやだ! もう、いや! 出てって! 出てけ! あたしを苦しめないで! 出てけ! 消えろ! 死んじまえ! 死ね! うわああああ!」
 号泣しながら、裕花は枕を投げつけた。枕元のコップ、体温計、花瓶。点滴の針を引き抜き、点滴台を理緒の方に向かって押しやった。倒れて盛大な音を立てる。それで母親が目を覚ました。
「裕花……?」
「おかあさん! こいつ追い出して! もういやだ! こいつの顔見てたら、あたし死んじゃう! いやあ、いや! 早く! 追い出して、追い出してよおお!」
 手の届く範囲にある全てのものが飛んできた。掛布も。裕花は自分の股間を見て、歯をくいしばってぼろぼろ涙をこぼした。
「やめなさい! 裕花!」
 母親は真っ青になって理緒をかばった。
「あなた、よくわからないけど、私にまかせて、帰ってください!」
「…………ええ……」
 理緒は頭を下げた。
「お騒がせしてもうしわけありませんでした」
「お騒がせ!? あたしの人生めちゃくちゃにしといて、ふざけるな!」
「………………ごめんなさい……」
 理緒は小さく告げると病室から逃げ出した。
「あたし学校やめる! あんなやつと同じクラスなんてもう我慢できない! うわああぁぁぁぁ!」
 裕花の悲鳴と何か物のぶつかる音、窓ガラスの割れる音が後を追ってきた。
 理緒は耳をかかえて廊下を走っていった。

          ※

 雨は上がっている。
 雲が割れ、鮮やかな青空がそこかしこにのぞいていた。
 病院の裏庭、色とりどりに咲き誇る花壇の縁に理緒はうずくまった。お尻の下の石はまだ濡れている。膝をかかえ体をできるかぎり縮めて、まるでこの世界から消えてしまおうとしているかのようだった。
 四羽が舞い降りてくる。
『理緒……』
「まだ…………そう呼んでくださるの……?」
『………………』
「わたくし、嘘をついたから、翼も、力も全部取り上げられるのでしょうね…………。これで、みなさんとも、お別れですわ……」
『あれが、君の言った、責任……か……?』
『一体、どういうつもりで……?』
「…………あれで、よろしいのです……」
 理緒は顔を膝に埋めたまま、ぼつりぼつりと口にした。
「あのままだと、さっちゃん……裕花さんは、陣面さんに犯されたひどい心の傷を負ったままでいなければなりませんでした……。
 催眠中に起こったことなら消せますけど、そうじゃない時の、あんな強烈な記憶、薄れさせて、普通に暮らせるようになるまでに、何年かかるかわかりませんわ……。
 心がずたずたになって、これからも、毎晩のように悪い夢を見て、男の人が怖くなって、誰ともまともに口きけなくなって……」
『………………』
 理緒はしゃくりあげた。
 病室では決して見せなかった涙。
「わ、わたくし、さっちゃんのこと、す、好きだから…………そんな風に……怖がって生きてなんかほしくない…………!
 い、いくら恨まれても、か、構いませんわ……それで、さっちゃんが、楽になるなら、わたし、わたくし、いくらでも、そう、どんな悪者にだって……。
 ――――元をたどればわたくしの責任なんですもの…………。
 だから、嫌い、憎み、恨む相手は、わたくし……わたくしこそが、本当に恨まれるべきで…………。
 そう、さっちゃん、陣面なら怖くても、わたくし相手なら、怒って、罵って、少しでも、う、恨みを晴らして、楽に……。
 わたくしを嫌って、見下げて、軽蔑して、そうすれば楽になれるから、その方がいいから、だから…………これで、これでいいのですわ!」
 理緒の背中が震えた。
 花が揺れ、真白い花弁から空を映した水滴がしたたり落ちる。
 静かにこぼれ出た嗚咽が、風に溶けて流れていった。

          (六)

「あなた! どうしたの!?」
 看護婦が駆け寄ってきた。
「…………何でも……何でもないんです……」
「女の子がそんな風に泣いてるのがなんでもないですって?」
「いいんです…………わたくし、大丈夫ですわ。……」
 看護婦は身を起こした理緒を扱いかねるように見ていたが、はっとして、
「……飛鳥理緒さんって、あなた?」
「………………はい、そうですけど?」
「……電話が来てるの」
「電話……?」
「おかしな電話で、お宅の病院の庭に、お見舞いに来た飛鳥理緒って子がいるから、呼んでくれって。一応見に来たんだけど……白い鳩と遊んでる子って、本当にいたのね」
「………………?」
 理緒はのろのろと立ち上がり、鼻をすすり、制服のお尻をはらって歩いていった。

「……はい、お電話代わりました、飛鳥です」
 四羽を代表してマイアが理緒の肩に乗っている。病院に動物を入れることには難色を示されたが、ロビーだけならということで黙認された。
 電話の向こうは沈黙していた。
「……もしもし?」
 車の音が聞こえる。屋外からか。こちらをじっとうかがっている気配。
「どなたですの?」
『………………かっ、かっ、かっ』
「!!」
 理緒もマイアも、外で“中継”を聞いている三羽も、瞬時に全身の血が沸騰する思いがした。
「……陣面さん、ですのね……!」
『オレはお前をいつも見ているぞ。かっ、かっ、かっ。今だって…………いけないな、制服をそんなに汚しちゃ』
「…………わたくしが狙いなのですね」
『かかかっ、その通り』
「だったら、どうして……どうして、わたくしに直接あたらないで、何の罪もないさっちゃんを!」
『かっ、かかっ、怒ったお前の顔はとてもきれいだ。お前をもっともっと怒らせて、きれいになったお前をオレは食いたい、かかっ、かっ』
「そんな…………そんな理由で、さっちゃんを…………!」
『飛鳥理緒、お前の恋人はうまかったぞ!』
 理緒は受話器を叩きつけた。
 マイアを電話機の横に下ろした。はたき落とすような勢いだった。
 背を向け、肩を激しく震わせる。
『理緒…………』
「……マイア………………見ないで……」
 一度も聞いたことのない声で理緒は言った。
 その瞬間、マイアは総毛立った。
 臓腑が生きながらただれてゆくように思った。準天使の彼が、存在を浸食されていた。
 まぎれもない、“魔”の気配。
「今の……わたくしの顔を…………見ないで……!」
 理緒は腕を背中に回し、羽のあたりをかきむしるようにした。
『…………ひっ!!』
 マイアは見た。
 理緒の背中が破れた。
 空気が凍る。
 禍々しい気配に息が詰まる。
 ――――そこに出現したのは。

 翼。
 風を切る音も強烈に、猛々しく広がる――――
 黒い…………美しい、漆黒の翼!

          (七)

 夜空を背景に、不気味にそびえる天上高校。
 校門前に立った白衣の理緒は、閉じられた門の上端に手をかけ、軽々と飛び上がって乗り越えた。
 運動部の生徒でもこうはいかないだろうという身ごなしであった。理緒は本気だった。
『理緒…………本当に、大丈夫か?』
 四羽がすぐ後ろについてくる。
 あの邪悪な黒翼は何だったのか。
 核爆発にでも巻きこまれたような衝撃をおぼえた。だが気がつくと何事もなく、理緒の背中は破れてもおらず、小さな黄金の羽はそのままぱたぱたとはためいていた。
 錯覚だったのだろうか。
 理緒の怒りのオーラが、あのような形となって感じられたものなのか。
 わからない。
 あのあとはもういつもの理緒だった。激怒してはいたが、四羽の知る通りの理緒には違いなかった。
 何もかも知り尽くしたつもりだったが、まだ自分たちの知らない何かが理緒にはあるのかもしれない。はじめて四羽はそんなことを思った。
(理緒がどうして催眠天使に選ばれたのか、もう一度確かめてみた方がいいのかもしれないな)
 黒翼を目の前で見たマイアはひそかにそんなことを考えている。

          ※

 ――――もう授業に出る気になれず、悄然と家に戻った理緒は、郵便受けに突っ込まれていた手紙に気がついた。
 じかに投函したらしい消印のないハガキには、今夜、学校でとだけ書かれていた。
『……あいつだな』
「……よろしいですわ。行きましょう! 第二第三のさっちゃんを作るわけにはいきませんわ!」
『……だが……一人で行くのは危ない! せめて、この間の番長とか、誰かボディーガードを……』
「そうしたら、向こうは隠れて出てこないでしょう。ここはわたくしが一人で行かなければいけません」
『しかし…………』
「大丈夫です。わたくしには“瞳”がありますもの。みんながついていてくれれば、怖いことなどありません」
 四羽を抱きかかえて言った。理緒の決意は固かった。

          ※

 校内は当然、暗い。
 生徒玄関は鍵がかかっているはずなので、職員通用口に回る。
 そちらの入り口脇に警備員室がある。
 電気がまぶしい警備員室から、おかしな気配がした。
 のぞきこんだ理緒たちは、警備員二人が倒れているのを見つけた。顔面が紫色に腫れ上がっていて、そう簡単には意識を取り戻しそうになかった。
『……あいつの仕業か』
「きっと。校舎のどこかで待ち受けているのでしょうね」
 警察を呼べば、陣面はこの場は隠れてしまって、次に誘ってくるまでにまた犠牲者が出るだろう。なんとしても今日、今夜中に片をつけてしまわなければならなかった。
「こんなことしかしてさしあげられなくて、もうしわけありません」
 理緒はしぼったタオルで傷口をぬぐってやった。
 きっと眉を吊り上げて、真闇の校舎奥を睨む。
「わたくしはここですわ! 出ていらっしゃい、陣面さん!」
 声は幾重にも反響して消えていった。
 静けさが、形あるもののように重くのしかかってくる。
 理緒は校舎の奥へ足を踏み入れた。

気配がある。
 あの、浴びているうちに全身の細胞一片一片がじわじわと腐ってゆくような、まぎれもない陣面の気配。
 熱帯夜の湿気でぬめる壁に、苔むしたような天井に、じめじめした床に、至る所にこびりつき、理緒を挑発している。
(来い…………来い。理緒、オレの所へ来い)
 理緒は走る。
 白いワンピースをはためかせ、淀んだ汚穢の中を、白い炎のように、廊下を駆け、階段を飛び、角から角へ、走る。
 四方を守る四羽の鳩。
『いた!』
 普通教室のある第一校舎の三階から、隣に立つ第二校舎の廊下が見下ろせる。
 その一階に、あの横幅の広い“亀”の姿がちらりと見えた。
 理緒は渡り廊下を突っ走った。

「!」
 突然、聞こえた。
 悲鳴。
 甲高い、あるいは低い、苦悶の呻き。
(きゃああああ!)
(うぎゃああああ!)
(痛い! 痛いいいいいいい!)
(許してくれえ! 助けて、助けてくれえええ!)
(何で、何で俺がああ! 俺が何をしたああああ!)
『何だ! 何なんだ、これは!』
「……よく聞いてごらんなさい。色々と声音を使っていますけど、全部一人のものですわ」
『…………ほんとだ……』
「どういうつもりかわかりませんけど…………下ですわね」
 理緒は地の底に下りてゆく。
 気配が濃くなった。どす黒い霧のようなものが充満している。
 家庭科室の扉が開いている。声はそこからしていた。
 さすがに緊張を隠せず、ひとつ深呼吸してから理緒は踏みこんだ。

「陣面さん!」
「来たか、かっ、かっ。……待ってたぞ」
 途端に地獄のうめきは消え失せた。
 わずかな光だけが外からさしこむ家庭科室に、机に座る陣面の巨体が不気味なシルエットとなって浮かび上がっていた。
 陣面は上半身裸。
 背中こそ曲がっているが、肉づきは凄まじいの一言である。なまじな鍛錬ではとてもかないそうにない。筋肉がグロテスクなまでに隆々と盛り上がっている。
 薄闇の中でも、その肌という肌に傷跡がこびりついているのが見て取れた。白みをおびてぎらつく肌に陰影ができて、小さな人の顔が無数に浮かび上がっているようにも見えた。
 陣面は長い舌をちろちろ出し入れしながら、その傷を指でひっかいている。血の臭いもした。
「この間、お前はここできれいな格好になっていたな。今度はオレにじっくり見せてもらうぞ、かっ、かっ、かっ」
「………………」
「こ、これか」
 理緒の視線に気づいて陣面が言う。
「み、見事だろう。オレが相手を殴る、痛めつける、かじる。そうするとな、オレの体に、そいつとまったく同じ傷ができるのよ。面白いだろう」
『……あの催眠の効果だ』
 催眠状態の相手に灼け火箸だという暗示をあたえて割り箸を押しつけると、本当に火傷するというのは有名な話である。
 陣面は相手の苦痛と同じものを感じるという暗示を深く埋めこまれている。体がそのような反応を示すのも、ありえない話ではなかった。
「そう、だから、こいつをいじるとな、その時の相手の顔が、声が、オレの中によみがえってくる」
 陣面は肩口の噛み傷らしきものをさすった。
「きゃあああああ!」
 大きく裂けた陣面の口から、陣面の声帯を使ってはいるものの同じ人物の上げたものとは信じられない、まぎれもない女性の悲鳴がほとばしった。
「そ、そう、こいつの時はこんな声だった」
 傷を触る痛みがその時の様子を脳裏に再現させ、記憶に残る声を陣面は無意識のうちに真似しているのだろう。
「理緒、お前の恋人は、確か、これだ」
 脇腹のひときわ大きな傷に指を突っこむようにした。
「……『いやあああ! やめてえええええ!』……」
 声音こそ違えど、間違いない、千種裕花の悲鳴だった。
「かっ、かっ、かっ……」
「…………許さない……」
 理緒は言った。
 冷気がどっと吹きつけた。
 しかし一体、どの方向から。
陣面の巨体がゆらり、と立ち上がる。
「許さなければ……かっ、かかっ、どうするのかな、理緒……」
いきなり飛びかかってきた。
 だが、尋常なやり方ではなかった。
 背中を向けて、後ろ向きにジャンプしてきたのである。
 理緒は奇襲をかろうじてかわした。陣面のぶつかった壁がきしみ、天井から塗料の破片が降ってきた。
「……いい感じだ、かかかっ。
 どうもお前と向き合うのはいやな感じがする。
 これなら、大丈夫だ。かっ、かっ、かっ」
 この間のことは忘れさせてあるし、そもそも人間には知覚されないはずだが、勘で“瞳”の存在をかぎ取ったらしい。恐るべき本能であった。
『まずい!』
 四羽は焦った。陣面がこちらをしっかり見ていなければ、“瞳”の効果は半分以下になる。両者の体重差は恐らく60Kg以上。一瞬で全身の力を奪えなければ、陣面の腕の一撃で理緒は吹っ飛ばされ気絶してしまうだろう。その後の展開は想像したくない。
『危険だ、理緒! ここは引くんだ!』
「いいえ」
 理緒は次の陣面の突進を側転してかわし、身構えた。
「いやですわ。絶対許さないって、わたくし誓ったの」
『だが!』
 四羽は人前ではしゃべらないという禁忌を忘れてしまっていた。それほどに状況は悪かった。
 三度陣面が背中を向ける。たとえ包丁を突き刺したとしても、さほどのダメージも与えられないであろう、それほどに厚い筋肉であった。前屈した体型ゆえに背中で相手の攻撃を受けることが多かったせいか、ところどころがごつごつと盛り上がって、亀の甲羅のようになっていた。
『理緒!』
「許さない!」
「かっ、かっ、かっ……」
 三者三様の声を上げ、感情が高まり、気合いが交錯する。
 刹那!

          (八)

「はあい、そこまで!」
 いきなり場違いな、威勢のいい声がかけられた。
 部屋の電気が点いた。
「かっ…………?」
「え…………?」
『………………』
 陣面も理緒もボケ老人と化して立ちすくんだ。
 そこにいたのは。
 頭の横に長い房を垂らした、すっぽりかぶった真っ赤なマスク。
 身につけているのはただそれだけ。
 マスク以外には布きれ一枚まとっていない、素っ裸の女体!
「にっこう仮面参上!」
「ええと…………」
 さしもの陣面もリアクションの取りようがない。
 理緒の驚きは陣面どころではない。
「とおっ!」
 にっこう仮面は跳んだ。宙で見事に一回転し、窓際の棚の上に仁王立ち。後ろ手に、黒い棒のようなものを握っている。
 足を大きく開いて腕を構え、ポーズを取った。
「たったひとつの常識捨てて、生まれ変わったハダカの体。燃えるアソコは正義のマーク、真っ赤な仮面は勇気の証、恥も名誉も昨日に捨てて、悪いやつらを叩いて砕く!
 天よりの使者にっこう仮面、お呼びにより即参上!」

『呼んでない呼んでない』
 四羽が声をそろえてツッこんだ。
「理緒…………お、お前の、知り合いか……?」
「どうして…………ここへ?」
 普段の理緒なら目をハートマークにして「お待ちしておりましたわ!」と黄色い声を張り上げるところだろうが、さすがに相手が相手、状況が状況なので戸惑っている。
「悪のあるところににっこう仮面は現れる!」
「でも、あんなお怪我で……」
「怪我? どこにそんなものがある? 正義の味方は怪我などしない!」
 にっこう仮面は胸を張った。乳首が揺れた。
 かすかに痕跡はある。だが、あれほどの傷が、ほとんどわからなくなっていた。健康的な、輝くような裸身であった。

 恐らく。
 理緒は裕花に“にっこう仮面”の暗示を与えたときにこう言った。
『その仮面をつけている時、あなたは本当の自分になれるのです。あなたの心にひそむみだらな思い、体を突き動かす卑猥な欲望、全てが仮面をつけると共に解放される。それは正しいこと』と。
“正しいこと”。
 裕花は羞恥心を克服するのにこの一言に飛びついた。
 裸を見せるのは正しい。つまり自分は正義。
 元々、家庭科の時間にマイアをかばったことでもわかるように、正義感は強い子だった。
 そこへ“にっこう仮面”のネーミング。それほど昔の番組の知識はないが、それがかつての国民的ヒーローの名前に近いことは知っていた。
 そうした様々な要因が重なり合って発酵し、裕花の中に“にっこう仮面は正義の味方”という認識を作り上げたのだろう。

 正義の味方が無様な傷を追ったところなど見たことがない。ゆえに傷はつかない。
 包丁で切ったという暗示により実際は存在しない傷が体に現れるのと逆の効果、体に傷はない、あってもすぐ治るという強い思いこみが、裕花の体から傷を消し去ったのだろう。元々それほど深い傷はなかったこともある。
 精神が肉体を凌駕したのである。

 なおもにっこう仮面は続ける。
「絶対許せぬ悪党ども! お前たちの悪事もこれまでだ!」
 二人をまとめて罵った。
 理緒に対する怒りから“正義の味方”を発動させたのか、あるいは、理緒に裏切られた辛さから、正義の味方状態に逃げこんだのかもしれない。
 いずれにせよ、理緒を助けるためにやってきたわけではなさそうだった。
「さっちゃん……」
 理緒が口走るとにっこう仮面は目をむいた。
「だ、誰よ、それ! 知らないわ、そんなひと!」
「さっちゃん? ……あ、あの女か……?」
 陣面が察してしまった。
「くっ……」
 にっこう仮面は理緒を憎悪の目で睨みつける。
「……ばれちゃあ仕方がないわね」
 構えを解いた。きりっとつり上がっていた眉がわずかに緩み、千種裕花の貌(かお)がのぞいた。
「理緒…………。
 あんたのしたこと、絶対許せない」
「………………」
「やっつけてやろうと思ってつけてきたら、陣面と会ってる。丁度いいから、二人まとめて仕返ししてやることにしたの」
 手にした棒を構える。銃だ。モデルガンではあろうが、重さ以外は本物とほとんど変わらない。
 理緒も陣面もたじろいだ。
 圧搾空気の激しい音と手を叩くような音が連続して、壁に直径50センチほどのねばねばしたものがぶちあたった。最初の音は発射音、次は弾丸が途中で破裂した音だ。
「うちの先輩がそこの鳥さん捕まえるために開発した、鳥もち弾だ。おかしな動きしたら、撃つ。顔に当たったら、はがす前に窒息するよ」
 理緒と陣面、交互に銃口を向ける。
「…………さ、痴話喧嘩の続き、どうぞ。どっちかが動けなくなるまでやりなさい。残った方をあたしが料理してあげる」
「ち、痴話喧嘩あ?」
 事情を知るはずもない陣面が言う。
「何のことだ?」
「とぼけないで。あんたと、そこの変態女ができてんのはわかってるの。一緒になってあたしに……ひどいこと、したくせに」
「オレが? 理緒と? 理緒が変態?」
 裕花もといにっこう仮面と、理緒とを見比べる。
「……変態はお前じゃないのか?」
 陣面に言われるようではおしまいであるが、見た目は確かにその通りだ。ただし今の裕花は正義の使者であるから、そんな言葉に傷つきはしない。
「お前、お、犯してほしいんだな、そうだな?」
 全裸の体を見て舌なめずりする。粗雑な頭脳は短絡的にそうまとめたらしい。
「よし、理緒、お前はひとまずおあずけだ。先にこの前菜を片づけて、お前はそれからゆっくりいただくとしよう」
「駄目です! あの方はわたくしのものですわ!」
 理緒が慌てて叫ぶ。折角陣面に犯された記憶を修正したというのに、上書きされてはたまらない。
「……理緒、お前はそういうヤツだったのか?」
「もう二度とあの方には手出しさせませんわ!」
「理緒」
 にっこう仮面が険しい声で言った。
「あたしを欲しいって言ってくれてるのを、あんたが邪魔する権利はないわよ」
「そ、そんな……!」
「陣面。あんた、あたしとそんなにしたいの?」
「……ああ、したいね。気持ちいいこと、たっぷりしたい、かっ、かっ」
 面くらいながらも答える陣面。
「いいわよ、じゃあ、しましょうか」
「!」
 理緒は蒼白になった。
 裕花の目が、理緒のその反応を見て愉快そうにきらめいた。理緒への怒りから、あてつけで陣面に身をまかせようとしている。
 なまじ完璧に記憶を変えたので、陣面への恐怖心も消えてしまっているのだろう。仮面をつけているせいで性的に奔放になっているというのもあるかもしれない。
 だが、それにしても何ということを言い出すのか。
「やめて!」
 理緒は叫んで、裕花の前に身を投げ出した。
「やめて! お願いだから、それだけはやめて! わたくし、何でも言うこときくから、お願い、やめて!」
「何でも?」
 裕花は邪悪に笑った。
「じゃ、そこの陣面さんとしてみせて」
「!
 ……そ、そんな……!」
「できないの? 
 ああ、そう。じゃ、陣面さん、しよ」
「かっかっかっ」
「――――!!」
 理緒の美貌が苦悶に歪んだ。

「………………わかりました…………」
 理緒はうなだれて言った。
『理緒ーっ!』
 四羽が、今度こそ禁忌を忘れて絶叫する。
 理緒はそちらを振り向いて、別れを告げるようにかすかに微笑んだ。
 頬に涙が一筋流れた。
(さようなら、みんな)
 きっと歯をくいしばり、陣面の前に立つ。
「い、いいんだな? かっ、かっ、かっ」
 陣面は二転三転する状況に戸惑いながらも、目の前に置かれた餌によだれを垂らした。
 理緒の肩をつかみ、引き寄せる。抱き寄せ、舌を出して頬を舐める。嫌悪感に泣きそうになる理緒を見て興奮し、巨体で理緒を組み敷いた。
 首筋に舌を這わせ、白い服の上から胸を揉み、スカートの中に手を入れてくる。
「いやあっ!」
 さすがに理緒は悲鳴を上げ、もがいた。
「う、うるさい、おとなしくしろ」
「いや、いやああっ!」
「だまれ」
 陣面の拳が理緒の腹を打った。
「ぐっ!」
 舌を突き出し、痙攣する理緒。
「………………」
 冷厳にその様を見ていた裕花が眉をひそめた。
「ストップ!」
「…………なんだ、じ、邪魔するのか」
「やめて。さすがにちょっと可哀想になってきた」
「うるさい。もうやめられん、かかっ」
 発砲。
 床に着いた陣面の手が鳥もちに接着された。
「がああっ!」
 衝撃はかなりのものだ。
 痛がる陣面の体の下から理緒は素早く脱出する。
「…………理緒、あんたにひとつだけチャンスをやるよ」
 裕花はそう言った後で、何にしようかと周囲を見回した。
「そうか、ここ家庭科室だったね」
 なめらかな腹をなでる。ぐぐうという音が大きく響いた。
「ごはん食べないで抜け出してきたから、お腹へったな。丁度いい、あんたら二人に何か作ってもらおう。そこの冷蔵庫に、料理研の連中の買い置きがちょっとくらいあるだろ。理緒、あんたが陣面よりあたしを満足させるごはんを作れたら、あんたの言うとおり、何もしないで引き上げてやってもいいわ」
「まあ…………」
 髪は乱れ、服も汚れたひどい有様のまま、理緒は両手を組み合わせて感激した。
「そんなことでよろしいのでしたら……!」
『絶対無理』
 四羽はそろって首を振った。

          (九)

「いいだろう」
 陣面は意外にも即座に認めた。
「オレが勝ったら、今の続きをしていいんだな?」
「そういうことね」
「もしわたくしが負けたら、わたくしは一生あなたの奴隷になって奉仕してさしあげますわ!」
『理緒! よせ! 無茶だ!』
 四羽はばたばた羽根を鳴らして理緒の注意を引いた。だが理緒はそちらを見ようともしない。
「かかっ、本気か? ようし、いいぞ、お前はオレのおもちゃになってもらう」
「じゃあ、わたくしが勝ったら、あなたはこの先ずっとわたくしの言うことを聞いていただきます! いいですわね!」
「よかろう、かっ、かっ」
 こうして、理緒だけが勝利を確信している勝負が始まった。

          ※

 冷蔵庫の中からは、ひき肉、タマネギ、ニンジン、牛乳、卵などが出てきた。
「か、かかっ、お前、勝てると思っているだろう?」
 陣面は材料をきっちり半分に分けながら言った。案外に丁寧な手つきだった。
「お前は知らないだろうが、オレは、こう見えても料理研にいたことがあったんだぞ」
「!」
「オレはグルメなんだ、かっ、かっ、かっ」
「…………ええと、それとそれがあるなら……」
 裕花が食材を見て宣言した。
「よし、ハンバーグ。そこの材料で、ハンバーグを作ってもらうわ。あたし、好きなの。つけ合わせはなし。材料を残したら負け。いいね」
「よ、よかろう、かかっ。……」
「ハンバーグ…………シンプルな分、味に差をつけるのが難しいですわ……」
『大丈夫だ、適当にやっても味に大差がつく』
 混乱しすぎてかえって冷静になった四羽が、テレパシーで投げやりに言ってきた。
『むしろその方がまだ被害が少なくてすむかも』
(何をおっしゃるの。手抜きなんかできるわけがありません! わたくしがこれまでに培った全てを懸けて、最高のハンバーグを作ってみせますわ!)
 心で答えた理緒の瞳は燃えていた。
『だめだこりゃ』
「はじめ!」

          ※

 陣面はタマネギを乗せたまな板を前に包丁を構えた。姿勢は揺るぎなく、達人の構えを彷彿とさせた。
「はっ!」
 とととととととん。
 たちどころにタマネギはみじん切りにされた。
『ぬう……できる!』
『理緒!』
 理緒の方も、陣面に負けぬ包丁さばきを見せた。
 だが――――理緒のまばたきが増えた。焦って余計な力を入れたのか、切断面に鋭利さが欠け、涙がにじんでいた。
「かっかっかっ」
 陣面はフライパンをコンロにかけ、バターを溶かした。みじん切りのタマネギを入れ、透き通るまでゆっくりと火を通す。かき回す手つきには余裕が見られた。
 理緒も同じことをした。ただし、炒めるのは半分。炒めるとハンバーグ全体に旨味が増えるが、歯ごたえは失われる。しゃりしゃりする心地よい食感を残すため、残り半分はじかにひき肉に混ぜることにした。
「腕は互角……」
 理緒はつぶやく。
「となると、味……。問題は…………」
 ニンジンを見る。冷蔵庫には半分使ったものが入っていた。それを縦に割った、かまぼこ状の固い姿。
 独特のくせがあり、ピーマンと並んで子供が苦手にする野菜の横綱である。
 スープでやわらかく煮こんでつけ合わせにするならともかく、ハンバーグに加えなければならないとなると、難しい。
 ひき肉とタマネギの調和を楽しむのがハンバーグだ。そこにニンジンが加わると、自己主張しすぎて味のバランスがめちゃくちゃになってしまう。
 裕花はそのあたりを見越して、つけ合わせなしを条件にしたのかもしれなかった。
 悩んだ末、理緒はニンジンをすり下ろして混ぜることにした。子供にビタミンを摂取させようとする母親がよくやる手だ。奇をてらうのはこの場合避けるべきだった。不慣れなことはしない方がいい。
「かっ、かっ、かっ」
 それを見た陣面が嗤った。
「それじゃあニンジンの味が死んじまうなあ。お百姓さんが大事に育てたニンジンが、それじゃあ死んだも同然だ」
「何ですって! じゃああなたはどうするおつもりですの!?」
「こうするのさ」
 陣面は自分の分のニンジンをつまみあげ、大きく開いた口の中へ放りこんだ。ぼりぼり音をたててかみ砕く。
「……ひ、卑怯ですわ!」
「食材を残してはいけないとは言われたが、全部料理に使わなきゃいけないとは言われてないぞ」
「それもそうね」
 裕花がうなずく。
「…………くっ!」
「かかかかかっ!」
 陣面は勝ち誇った。
「理緒、お前はひどいやつだな。お前は折角のニンジンの味を殺したんだ。どんな材料でもそのうまさを引き出してやるのが料理人の心構えってもんだ。なのに殺しちまうなんてなあ。
 それに比べたらオレは可愛いもんだ、オレはちゃんとニンジンを食べたんだからな。食べるのは悪い事じゃない、そうだろう? オレは食べただけさ、よく噛んで、味わって、大切に、大切に、食べたのさ……。
 だが殺すのはいけないことだ、いけないな、かかっ!」
「許さない、許しませんわ、陣面さん!」
 理緒は怒りに震えた。
『えっとお……』
 四羽はもうどこからつっこむべきかわからなかった。

 炒めたタマネギを覚まし、生のタマネギ、卵と一緒にひき肉に入れ、塩こしょうを加える。牛乳で湿らせたパン粉をつなぎに入れ、混ぜ合わせる。
 粘りが出るまでよく練るのがふっくらした仕上がりを出すこつだ。
 理緒は常ならぬ熱心さで練った。
 繊細な指、花のような手で、ひとかたまりの肉が丸められる。
 それがボウルの中に落ちた。
 ぶるぶると震え、四つの小さな突起が突き出した。理緒の方へ“手”を伸ばして、「ママ」と言った。
「今はお相手できませんわ!」
 理緒はその謎の生命体をこね回し、あっさり元のひき肉に戻してしまった。
「………………」
 さすがの陣面も目をむく。
「……理緒、それあたしに食べさせる気……?」
 マスクの上からでも、にっこう仮面の顔色が変わったのがわかった。
「究極の食体験をさせてさしあげますわ!」
 理緒はフライパンを火にかけた。
 小判型にまとめたハンバーグ種を入れる。
 ぴぎいぃぃぃと、超音波に近い悲鳴が聞こえてきた。しっかり押さえつけたふたの中で、何かが暴れた。やがて悲鳴は弱まり、フライパンは動かなくなった。
「………………」
 皆、唖然。
 ふたを開ける。涙を流すドクロマークのような湯気が上がった。
 ひっくり返して両面を焼き、表面を固めてから火を弱め、じっくり中まで熱を通す。
 ここまで、進み具合は陣面と同じである。
 できあがったのもほとんど同時だった。
 空のフライパンにトマトケチャップとウスターソース、ちょっぴりのマスタードを加え、煮詰める。ぐつぐついう黒ずんだ赤い色のソースを、皿の上でぐったりしているハンバーグに浴びせかけた。
 ――――陣面のものと変わらぬ形、ボリューム、焼け具合なのに、どうしても理緒のものは荼毘に付した後の死体のようにしか見えなかった。
「出来たぞ!」
「こっちもですわ!」
 二人はそろって皿を差し出した。
 陣面のものは、作った人間はともかく、見た目も、においも、ごく普通のハンバーグで、おいしそうだ。ソースの製法も理緒とそう変わらず、ケチャップが多いのか若干赤みが強い。
「………………」
 にっこう仮面はおぞけを振るって理緒のハンバーグを見やった。
 見た目だけならどこにもおかしな点はない。
 いつもいつも、製作過程さえ見なければ、理緒の料理は完璧なのだ。
 手をだすのに躊躇した。
「どちらから先に食べるべきなのか、悩んでいらっしゃいますのね!」
 理緒が嬉々として進み出た。
 ひとの悩みを解決するためなら……!
“天使の瞳”が開き、光った。

          (十)

 テレパシーによる暗示が裕花の心に響く。
『あなたはこれから私のハンバーグを食べた後、“おいしい”としか言えなくなります!』
 汚いと言ってはいけない。
 今の裕花は、陣面と関係を持つというのがどういうことなのか、わかっていない。
 全てを知っている理緒としては、絶対に陣面を選ぶような真似をさせるわけにはいかなかったのだ。
 だから四羽も文句は言わなかった。
 おいしく感じると暗示しなかったのは理緒の意地であろうが、果たしてどうなるか。
「………………」
 催眠状態に落ちた裕花、もといにっこう仮面は、それでも本能が命じるのか、まず陣面のハンバーグに手をつけた。
「…………へえ、なかなかいい味だね……」
「かっかっかっ、当たり前だ……」
 続いて、理緒のハンバーグ。
 四つに切ったうちのひとつを突き刺したフォークはひどく震えていた。
 目をつぶって口に入れ、噛みしめる。
 豊かな裸身が波打った。
「は…………」
 全身から煙のようなものがゆらめき立ち、淫らにくねりながら天に昇っていった。
「いかがですの?」
「お…………おいしい……」
 にっこう仮面はどこかうつろに口にした。
「わたくしの勝ちですわね、陣面さん!」
 理緒はここぞとばかりに言いつのった。
「あなたのものは“いい味”、わたくしのものは“おいしい”! どちらが勝ったか、明白ですわ!」
「ぬうう!」
 陣面の醜い面貌が屈辱に歪んだ。
 にっこう仮面は残る三つのかたまりも口へ運んだ。陣面のハンバーグにはそれ以上手をつけない。
「おいしい…………おいしい、おいしい……」
 ぶつぶつと繰り返す。
「…………おい、待て、何かおかしいぞ、そいつ……」
「な、何がですの?」
 冷や汗を垂らしつつ、理緒は急いでにっこう仮面を背中にかばって陣面と対峙する。
「さあ、これで決着はつきましたわ! 約束通り、この方はわたくしといいことをするのです! それから陣面さん、あなたはこれから先、わたくしの言うことを何でもきいていただきますわ! よろしいですわね!」
「くっ……」
 だが。

 いきなり理緒は押しのけられた。
「………………」
 にっこう仮面が銃を捨て、ふらふらと陣面の方に向かって歩き出した。
「!」
 止める暇もなく、陣面の前に立つ。
「……?」
 対応しかねる陣面に向かって、
「おとーさん、おんぶ」
 舌っ足らずにいい、飛びつき、首に腕を回し、裸の体を甲羅のような陣面の背中に密着させた。
 マスクからのぞく目は、幸せそうに閉じられていた。
『…………なるほど、幼児化をもたらしたのか、今度の料理は』
「何を落ちついていらっしゃるの! わたくしの苦労が、これでは水の泡ですわ!」
『……とは言っても、あれは君の料理のせいだし……』
「…………よくわからんが、こいつはオレを選んだということだな」
 陣面はそう納得したらしい。
「では、今度こそお前だ、理緒……茶番はここまでだ、かっ、かかっ、かっ……」
 理緒に向かってずい、と迫る。
「約束を破るつもりですの!」
「約束? 知らないな、かっ、かっ、かっ」
「卑怯者!」
 理緒は鳥もち銃を拾い上げた。
「おっと」
 陣面は素早く背中を向けた。
「いいぞ、撃て、撃て。こいつとくっついて、オレは余計に楽しめる。寝転がって、骨が砕けるところを楽しむのも悪くない」
 体重を乗せれば間違いなくそうなるだろう。
 陣面は手をやって、大股開きの裕花の秘所をもてあそびはじめた。
 裕花はくすぐったそうにする。
「かかかっ、どうした、撃たないのか」
 たじろいだ理緒に向かって、後ろ向きに突進してくる。
「なら、一緒に潰してやる!」
「さっちゃん!」
 理緒は悲痛に叫び、銃を放り捨てた。
 拳を握って身構えたのを四羽は見た。それで何ができるのか。迫り来る陣面の甲羅に比べ、あまりにもか細い姿であった。
 激突音。

「がっ…………」
 陣面が呻いた。
 床に横倒しになっている。頭をどこかにぶつけたらしく、血が出ていた。
 放り出された裕花は無傷。目をぱちくりさせると身を丸め、子供そのままに大声で泣き出した。
 どうして横倒しになったのか、陣面にはわからなかった。
 ――――四羽にもわからない。
『何が起こったんだ、今?』
『わからん! 理緒が何かやったのか?』
 彼らが見たのは、バックアタックをかけてきた陣面の巨体が、突然九十度回転して床に転がったところだけであった。
「?」
 陣面は頭を振りつつ起き上がった。理緒の白いワンピースが視界の片隅に躍っていた。
 裕花はもうくっついていないが、怒りが手管を忘れさせた。背中を向けることもせず、真正面から飛びかかってゆく。
『理緒! “瞳”だ!』
 今こそ待ちに待った時。
 なのに、理緒の額には何も現れなかった!
『なぜだ!』
 つかみかかる陣面を、理緒はすっと滑るように横に動いてかわした。
「……わたくし、本当に怒りましたわ」
 言って、陣面の手首をつかむ。太くて、指が回らない。陣面はあざ笑う。
「だ、だったら、どうする気だ、かっ、かっ、かっ……」
 その陣面が、突然、
「がっ!?」
 悲鳴を上げた。
 たおやかな手につかまれた所から先が、紫色に変わっている。
 激痛がはしり、巨体がいきなり回転した。そうしなければ手首と肘、肩が砕けてしまうと判断した本能が、体をそう動かしたのだった。
 背中から調理台にぶつかり、調理台の方がひしゃげる。
「……?」
 理緒は数歩下がって身構えた。
 何がどうなったのかわからないまま飛び起きた陣面は、懲りずに再度突進した。
 触れる寸前で理緒の姿が消え失せ、白いものが視界をよぎったと思った次の瞬間、一回転して今度は頭から床に叩きつけられていた。
「がああああっ!」
 陣面は吼えた。視界が真っ赤になった。力だけが自慢だった。こんなちっぽけな少女にいいようにされるなどと、認められることではなかった。
 殴りかかった。肘にかすかに触れられた途端、自分の拳が自分の頬を殴りつけてきた。
 つかみかかった。体重がないもののようにふわりと退いた白い姿の代わりに、教卓に思い切りタックルをかます羽目になった。
 飛んできた皿が顔面を直撃した。
 ――――床に転がる銃を見つけた。
「ががっ、ごれでおでのがぢだ!」
 歯が折れまともな発声ができないまま、理緒に銃口を向ける。
 発砲と同時に理緒は素早くかがみこみ、調理台の影に隠れた。
「ごの!」
 頭に血が上り、回りこもうとしたその足元に何かが投げこまれた。自分のハンバーグだった。踏んづけて、転んだ。耳の後ろを固いもので叩かれ、意識が一瞬飛んだ隙に、銃は奪い取られていた。
 理緒の動きが止まった。銃をどうしようか迷っている。
「ぬがああっ!」
 飛びついた。
 信じられぬほどあっさりと、理緒を押し倒すことに成功した。
 余計な抵抗をされぬよう、両手を押さえ、体重をかけ、身動きできないようにする。
 頭突きをかました。額と額がぶつかり、理緒の肌が裂けて血が流れた。
「がっがっがっ、どうだ、おがじな技も、使えなげればおしまいだなあ」
「…………わかりません? これは、わざと捕まったのです」
 理緒はひとかけらの慈悲もなく口にした。
「さっちゃんの味わった苦痛の千分の一でも味わわなければ、自分が許せなかったのですわ」
「がっ……!」
「陣面さん! わたくしの怒りを、お受けなさい!」
 ついに、理緒の額に“天使の瞳”が開き、光った!

          (十一)

「…………おどきなさい」
「………………」
 言われて、陣面はのろのろと体を起こし、理緒を自由にした。
 その突き出た目は半開きになり、どこを見るでもなくうつろにさまよっている。
『理緒!』
 四羽が集まってきた。
「わたくしなら大丈夫ですわ。心配をおかけしてすみませんでした」
 言いながら裕花を助け起こす。泣き疲れ、指をしゃぶりながら眠ってしまっていた。
『一体、何がどうなって……?』
「それは後にいたしましょう。
 まずはこの方に、これまでの数々の悪行の報いを受けさせてやらなければ、うふふふふ」
 再三の行為がよほど腹に据えかねたのか、理緒はどちらかというと悪魔にふさわしい笑いを浮かべた。
 冷蔵庫を見やる。
「そうですわ」
 理緒はまず陣面にめちゃくちゃになった室内を片づけるよう命じ、その間に料理を作りはじめた。
『な、何を?』
「わたくしと張り合うほどの方には、それにふさわしいお食事をさしあげるのが礼儀というものですわ」
 牛乳を満たした鍋を火にかけ、冷蔵庫から取りだしたものを片っ端から入れてゆく。
 たくあん。
 大福。
 塩辛。
 ジャム。
 ………………。
 鍋の中には、阿鼻叫喚の世界が出現した。
 たとえ冥界の血の池地獄でも、この鍋よりはましに違いない。
 室内には異臭がたちこめた。沸き上がる大きな泡、それが割れると数十本の小さな手の形になり、ここから救い出してくれる何かを乞い招きながら消えてゆく。立ちのぼる湯気はことごとく苦悶に歪む人の顔をして、さながら心霊の団体写真のよう。鍋の底をがんがん叩いているのは何だろう。
「カラシ、ワサビ、砂糖にお塩、カレー粉、きな粉、ケチャップ、みりん、味の素……♪」
 理緒はそこにある調味料を適当に放りこみ、魔女さながらに陰影のついた顔をしてかきまわす。
「……さあ、できましたわ」
 材料が生煮えであろうと知ったことではないと顔に書いてある。
 大体掃除を終えた陣面を呼び、強い暗示を与えた。
「さあ陣面さん、目を開けると、あなたは目の前にあるお料理を、どうしても食べたくて仕方がなくなります。あなたはとってもお腹がすいているのです。目の前にあるお料理を食べなくては死んでしまいます。どんなにひどい味でも、絶対に食べなければいけないのです。いやだと思っても、手が勝手に動いて食べてしまいます。本当にそうなります。いいですわね」
 自業自得とはいえ、四羽は陣面を憐れんだ。いっそのこと亀になって海に帰れと言われた方がまだましかもしれない。
 理緒の暗示はまだ続く。
「それから、味をわたくしが質問します。でも、あなたは“うまい”か、“おいしい”しか言えません。どんなに他のことをいいたくても、どうしてもうまい、おいしいと口にしてしまいます」
 逃げ場なし、容赦なし。
「ひとつ、ふたつ、みっつ! はい、目をお開けなさい!」

 勝手に動いて皿の中身をすくい取ってきたスプーンの中に、文字通りの地獄が見えた。
「がああああああ!」
 悲鳴をあげ、足をばたばたさせてせめてもの抵抗を示しつつ、陣面は“シチュー”を飲みこんだ。
「………………」
 陣面の顔が漂白されたようになった。
「お味はいかがです?」
「……う…………うまい……」
 顔色を赤や青に次々と変化させ、どす黒い汗にまみれながら陣面は口にした。
 理緒はこの上なく上品に微笑んだ。
「まあ。では、もう一口どうぞ」
「ぐ…………う、うまい……」
「嬉しいですわ。遠慮なくお食べになってくださいましね」
 黒い汗の色がだんだん澄んできた。
 陣面の顔色が健康的になってきたのは気のせいか。
 取りつかれたようにスプーンが動きはじめる。
「うまい、うまいぞ、うまい!」
「おかわりも沢山ありましてよ」

 むさぼるように食べる陣面を見て、ふとマイアが言った。
『なあ…………ちょっと気になるんだけど……。
 まともに作ろうとしたら、理緒の料理は“アレ”になるんだよね。じゃあ、おかしなものを作ろうとしたら……どうなるんだろう?』
『………………』
「うまい、う、ま、い、ぞーっ!」
 頬をふくらませ、感動の涙を流し、目からも口からも虹色の光線を放って、陣面はこれ以上ない至福の表情で叫んだ。

「さあ、これから先、あなたはわたくしの言うことはなんでも聞く、わたくしのしもべとなるのです」
「はいっ、理緒さま!」
 理緒の前にひれ伏す陣面は、憑き物が落ちたようにすっきりした顔つきに変わっていた。
「言うことをきかなければ、また今みたいな目にあわせてやりますわよ。そのことをよくおぼえておきなさい」
 陣面はその言葉に目を輝かせた。ちらりと上げた視線の先に、空っぽになった鍋があった。

『なんだか…………もっと悪い結果になったような気がするのは…………僕だけ?』

          (十二)

 陣面を帰し、理緒は裕花の体を拭いてやる。
「いい子いい子。もうなんにも怖いことはありませんですわよ、さっちゃん」
『……理緒、さっき、何がどうなったんだ?』
『どうして陣面はあんなにころころと?』
「ご存じありませんでしたの? わたくし、こう見えてもいささか武術のたしなみがありますのよ」
『武術……?』
「従姉に教わりましたの。古武術らしいんですけど、合気道みたいなもので、相手の力が強ければ強いほど効果的なんだそうです」
 してみると、最初の陣面の突進の時、陣面の体がいきなり回転したのも理緒の技か。横倒しにすることによって、背中の裕花が床あるいは理緒にぶつかるのを防いだのだ。
 四羽はこれまでのことを思い返した。
 そう言われてみれば、理緒は陣面と対峙したとき、一度も恐れた様子を見せなかった。
 理緒だからと思って気にしないでいたのだが、それにはこういう裏付けがあったのか。
『……待てよ……』
 ということは。
 理緒がその気なら、最初から、“瞳”を使わずとも片づけられたということではないのか?
 ……。
 それでは、自分たちの心労は。
 再三の悲鳴は。
 胃に開いた穴は……。
『………………』
 四羽からゆらっと炎のようなものがたちのぼった。
「さあ、さっちゃんの記憶を修正して、わたくしたちも帰りましょう」
 晴れ晴れと言う理緒の背中を、四羽怒りの“不動組み”が襲った。

          ※

 陣面はふらふらした足取りで校舎を出た。
「かかっ、かっ、理緒さま…………ああ、なんて味だ、すごい味だ、あれをまた食えるのなら、どんなことでもしてやるぞ…………かっ、かっ」
 体育館の方へゆく。そちらに、土木研究会が塀に作った秘密扉があるのだ。教師は知らないが生徒間では公然の秘密で、深夜にそこを通って出入りしている者も少なくない。
 亀づらには似合わぬ、夢見るような表情の陣面の前に、闇が不穏にゆらめいて、突如人影が出現した。
「……陣面」
 巨岩がぶつけられてきたような声に、陣面から瞬時にとぼけた気配が消え去った。
「その声…………キ……“キング”!」
 闇の底から、陣面よりさらに大きい、鋼鉄のような巨体があらわれる。
「貴様の数々の行為、もはや見過ごせぬ」
 陣面の顔が凶悪に歪んだ。
「かっ…………制裁……か……」
 キングと呼ばれた巨漢の背後からばらばらと人の姿があらわれ、陣面を取り囲んだ。
 キングを含め、五人。尋常ではない殺気が伝わってくる。
斬魔団のお出ましか。かかっ、認めてくれて嬉しいね……」
 進学校であるにもかかわらず、天上高校には危険なグループがいくつか巣くっている。その中でも最も恐れられているのが、この剣道部総長“キング”こと当麻高虎を中心とする一団、“斬魔団”であった。
「来い」
“キング”は悠揚と差し招いた。
 陣面から余裕が消え失せる。
「があああっ!」
 陣面は突進した。理緒にやられたダメージはほとんどない。回復力も常人とは違うのだ。
 その陣面の突進を、キングはまともに受けた。
「!」
 陣面から血の気が消えた。
 巨体は揺るぎもしなかった。大木にぶちかましをかけたような感触がした。
「うおおおお!」
 恐怖の声を上げ、無我夢中に拳を振るった。
 キングの腹を殴る。
 硬い。拳が砕けた。鎧を着こんでいるような感触であった。
「その程度か。もう少しましかと思ったが、話にならん」
 キングが片手を振るうと、陣面の体が五メートル以上も吹っ飛んだ。
「お前たち、片づけろ」
「へいっ!」
 退いたキングに代わって、四人が陣面を取り囲んだ。四人とも剣道部のはずだが、得物を持っているのは二人だけだ。
 陣面はおろおろと見回した。
 四人の中に、シルエットでもそれとわかる、無手の女がいた。
 反射的にそちらに向かった。
 女の手が動く。
 長さ三十センチほどの針が飛んで、陣面の両足を串刺しにした。
 ボクシングの構えをした男が、陣面の目に唐辛子粉を投げつけた。
 カンフー着の男の木刀が、陣面の指を一閃ですべてへし折った。
 小柄な少年が、「ズババアアン!」と奇声を上げながら、鉄パイプで陣面の胴体をめった打ちにした。
 ――――陣面は二分とかからずに、廃人になった。

「キング」
 女が巨体にすり寄って訊ねた。匂い立つような色気。明らかに関係がある者同士の仕草だ。
「なぜ、こんな小物相手に、わざわざ?」
「……天使だ」
「天使…………飛鳥理緒、ですか?」
「そうだ」
「なぜ、あんなおかしな子をそれほどに気になさります?」
「お前にはわからぬ」
 キングは星を見上げて言った。
「あの味………………あの日の、言葉に出来ぬ衝撃の味わい…………」
「お話はうかがいましたが……」
「俺がわざと留年し、古流剣術同好会やら生徒会やらと遊んでいるのも、あれをもう一度味わいたいがためなのかもしれん。
 うらやましいやつよ、陣面は」
「キング……」
「皆には秘密だぞ。“クイーン”、お前だから明かした」
「はっ……」
 うなずいた声に、嫉妬の響きがあった。
 キングは校舎を見やった。
 彼らのいる位置からは見えないが、ひとつだけ灯りのついた家庭科室の中で、理緒が四羽に盛大につっつかれて逃げまどっていた。

          (十三)

 結局、理緒は裕花にこの夜のことを全部夢ということにして、意識しないようにさせた。
“にっこう仮面”の正体が理緒にばれているということを、裕花に気づかせないための処置だった。にっこう仮面は裕花の欲求不満解消のための道具なのだから、それを台無しにするわけにはいかない。
 病院では大騒ぎになっていたらしいが、残酷なレイプのせいで精神的に変調をきたしたということで、裕花がどこをさまよっていたのかよくわからないと言っても、それ以上の詮索はされなかった。

『……すまない』
「どうして謝りますの?」
『君に与えた力が、催眠術じゃなくて、どんな記憶でも全部忘れさせてしまえるものだったらよかったのに』
「いいんです、これで。……」
 病院の窓を見上げ、理緒は寂しく口にした。
「さよなら、さっちゃん」

           ※

 理緒の背中の翼は四枚に増えた。大きな黄金の翼が堂々二対。
 けれども理緒は少しも笑顔を見せなかった。

           ※

 思ったより早く裕花は退院した。

 友人に囲まれて登校してくる裕花を、理緒はずっと待っていた。
「おはようございます……」
「………………」
 裕花の視線は、まるで理緒の姿が見えていないかのように、理緒の上を通り過ぎていった。
「ちょっと、あんたたち、ケンカしたの?」
「別に。……いいじゃない、あんなやつ」

 やがて、裕花に関する噂が校内に広まった。
 ――――レイプされた。
 ――――相手は、沢山の男。
 ――――いや、実は女の子。
(理緒なんだって)
(ええ、どうして?)
(理緒って、悪いひとたちと結構仲良くて、気に入らない裕花を襲わせたって話だよ)
(そんな子だったの? いやだあ……)
 理緒に近寄ってくる者はいなくなった。

         ※

 暑い日の水泳授業ほど楽しいものはない。
 水着の少女たちが更衣室からプールサイドにあふれ出てくる。
「そう言えばさあ、聞いた?」
 輝く水面を目をきらめかせて見つめながら、この天上高校に新たに出現した奇人の噂を言い交わす。
 頭からすっぽりマスクをかぶり、あとは丸裸で、高笑いを上げながら駆けてゆく女の子。
「何それ、信じらんない」
「スケベ親父をやっつける正義の味方なんだって」
「あはは、じゃあアイツをさ……」
 教師の誰を退治してほしいかで、皆盛り上がった。
 その話の輪から離れて、理緒はひとり金網にもたれている。

 体育教師はなかなか現れなかった。
 何かにつけては体を触ってくる教師なので、できればこのまま来ないで欲しいとみんな願っている。
 男の悲鳴があがった。遠かった。みなどこから聞こえるのかわからず、見回した。
 まばゆくきらめく水面に、黒いしみが現れた。
 空から突然、体育教師の太った体が落ちてきた。
 巨大な水しぶき。
「た、助けて、くれ、ガボボ……」
 両手両脚を縛られているらしく、必死になってのたうっている。
「思い知ったか、セクハラ魔人!」
 陽炎ゆらめく暑気を切り裂いて、凛とした女性の声が飛んだ。
「きゃあ!」
「何、あれ!」
 悩ましい全裸にマスクひとつ、わいせつ物陳列罪の生きた見本が金網の上に仁王立ち。
“無常識の天上高校”の生徒たちは、誰のどんな奇行を見てもそれほど驚かない。それでもさすがにこれには度肝を抜かれたようだった。
サタンの足の爪にも及ばぬ小物だが、このにっこう仮面の目を逃れられると思ったか!」
 鋭く告げると、伸ばした手の向きを変え、顔を背けている理緒をびしりと指さした。
「飛鳥理緒!」
「……は、はい?」
「この間、わたしに代わって千種裕花という子の危機を救ってくれたこと、感謝します! 悪を憎むその心をこれからも大切にね。わたしはいつでも見守っています!」
「………………」
「さらば!」
 金網の上から後方宙返りし、にっこう仮面は姿を消した。
 ……その消えた方に集まり、わいわいやっている生徒たちの後ろからやってくる水着姿の千種裕花。
「あ、裕花、何してたの! 今さ、すごいの出たんだよ! 例の、ヘンタイ仮面! ほんとに素っ裸だったんだから!」
「へえ、見たかったな」
 わずかに息が切れているのには誰も気がつかなかった。
「……そういえば、あんた、理緒に助けられたんだって?」
「う……うん……」
「何で言わなかったのよ!」
「だって…………あんなの出てきたなんて言ったら、信じてくれた?」
「あ…………」
 ばつ悪くうなだれた友人たちを尻目に、裕花は振り返る。
 理緒もまた、手の平を返した笑顔に取り巻かれていた。
「……ごめん、変な噂信じちゃって」
「言ってくれたらよかったのに」
「あたし、最初から理緒があんなことするはずないって思ってたよ」
「いえ。……」
 理緒は上の空で受け答えしながら、裕花に問うような視線を投げかけてきた。
 裕花は顔を背けた。
「先生いないし、入っちゃえ!」
 一声叫ぶと、水中へ身を躍らせる。

 他の女の子も続き、大騒ぎになった中、理緒は裕花の姿を求めてきょろきょろしている。
 その顔に、いきなり水がかけられた。
「きゃっ!」
 プールの縁に片手をかけ、裕花が睨みつけていた。
「裕花! 何すんのさ!」
 隣の子が怒鳴る。
「いえ、よろしいのです。これでよろしいのですわ。……」
 手の甲で頬にしたたるしずくをぬぐう。
「理緒……どうしたの。泣いてんの?」
「いえ。何でも……ありませんわ……」
 理緒は微笑み、また目元をぬぐった。

          (十四)

『なかなかうまい手だ。ああ言えば理緒も自分も傷つかず、しかも言った姿が姿なので、皆その真偽については追及するのを忘れてしまう』
『でも、本当に……許してくれたのかな?』
『せいぜい休戦協定というところだろう』
『どこかに平和があるならば、いつかは花も咲くだろう』
『……なんだ、それ?』
『歌だよ。昔の』
『また何とか仮面とか何とか戦隊のやつか』
『でも…………その通りだ』
『……ああ』
 四羽は力強くうなずきあった。
 いつの日か、理緒と裕花が仲良く弁当を広げる時が来るだろう。 それはそんなに遠い話ではないはずだった。
『………………』
『よせ!』
 理緒が裕花を組み敷いていちゃいちゃしている所を誰かが思い浮かべ、皆必死になってそのイメージをうち消した。
『…………今のは絶対阻止するぞ、いいな』
『おう!』
『目指せ健全! 外せ成年マーク!』
 四羽はスクラムを組んだ。
「きゃああああ!」
 理緒の悲鳴が階下から響いた。
 階段を駆け上がってくる足音。
 エプロン姿の理緒が、焼きたてのシフォンケーキを持って飛びこんできた。
「何てことでしょう! 大失敗! まさか、わたくしがお砂糖とお塩を間違えるなんて……!」
 理緒はショックを隠せずにへたりこむ。四枚の黄金の翼が残らずしおれて垂れ下がっている。
『…………失敗…………ということは……』
 誰かが喉を鳴らした。
あの日以来、陣面を見た者はいない。
 だが感動の涙を流してシチューをがっついていた姿は、四羽の脳裏に刻みつけられている。
『理緒………………その、ちょっと、味見してみて……いいかい?』
「いけませんわ、こんな、おかしなもの……!」
『捨てるんじゃもったいないじゃないか。な、ちょっとだけ』
「……そうおっしゃるのでしたら、どうぞ。でも、本当に失敗ですのよ」
 マイアが代表となり、舌なめずりしてから一センチほどの塊を飲みこんだ。
『…………どうだ』
『……すごくオイシイぞ』
 奇妙に抑揚のない口調でマイアは答えた。
『コレハたまらない、ミンナもたべてミロ』
『……おい、どうした』
『サア、たべるノダ』
『マイア!』
 様子がおかしいと他の三羽が押さえつけると、白い体がいきなり破裂した。
「きゃあああ!」
 理緒が尻餅をつく中、床に落ちた鳩の首から、マッチ棒のような柄のついた目玉が二本にゅっと突き出す。
 側頭部から蟹の脚を思わせる殻に包まれた脚が六本生えてきて、床の上を動き出し、ベッドの下に逃げこんでいった。
『ひえええええ!』
 三羽が押さえた胴体の方にはぐねぐねした触手が何本も生えてきて、腹に大きな口が開いた。牙をむきだし怪しげなうなり声を上げて三羽を食べようとする。
「何、何ですの、これ!」
『うひゃああ! 誰か、何とかしてくれえ!』
『来るな、来るなああ!』
『神様、お助けええ!』
 飛鳥邸の騒ぎはその後丸一日続いた。

 理緒の料理はやはり、理緒の料理なのであった。   


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