露領沿海洲「秘密の山奥」
露國二等大尉アルセニエフ著、松本高太郎譯、今井昌雄編

 二、デルスウとの出會

休憩の後一行は再び出發した。
此時は途中に大きな倒れ木が進路を塞いで居たから進行が捗取(はかど)らなかつた。
午後四時に我々は一の山頂に達し、予は人々を此處に待たせて地形の觀望に行つた。
樹に攀ぢて觀望した時、予の疑念は霽(は)れた。
我々の目指す圓(えん)形の山は現在我々の居る山である。
此山の西には峻嶺(しゅんれい)連なり此峻嶺の後の谷は北西の方向に延びて居る、多分此谷がレフウ河の水源であらう。
樹から下りて一行に加はつた。
太陽は早や西に傾いたから人馬の必要とする水の所在を搜さなければならぬ。
圓形の山を下りかけた時、最初緩斜面であつたが、後急斜面となり馬は後脚を屈めて辛(や)つと歩き、駄荷が前方に脱落するから長い之(し)の字形に途(みち)を取つて下つた。
山を下れば谿谷に出で此谿谷は非常に深く根扱(ねこ)ぎの倒木で埋まり、岩石(いわいし)累として一帶に苔が生へ斯んな不愉快の地に出會つたことがない。
予は此處に止まるを欲しなかつたが、日は將に暮んとするので止むを得ず此處に野營するに決した。
谷底に水音がするから其方に行つて、比較的平坦の場處を選んで其處に天幕を張つた。
兵士等は薪を運び馬の荷を解き、晩食の準備を始め、斧の音、人の聲は俄(にわか)に山中に寂寞(せきばく)を破つた。
山中は日の暮るが早く木の間から見える西の空は未だ明るいのに、地上は早や暗くなり焚火の焔が樹々を照らし四邊(あたり)を赤く彩どつた。
其後我々の野營は少しく靜かになつた。
喫茶の後、各(おのおの)自分の仕事を為し、或者は銃の手入を為し、或者は荷鞍を整理し、服の破れを繕つた。
自分の仕事を終つて兵士等は寢に就き、外套に包まつて死せるが如く眠り、唯だ予とオレンチエフは眠らなかつた。
予は日記を書き、オレンチエフは靴を修理してゐた。
夜の十時頃に予は日記を書き終つて焚火の側に寢たが、突然馬が頭を上げ耳を欹(そばだ)てた。
最初我々はこの事に注意を向けず談話を續けてゐたが、數分間を經て予がオレンチエフに或る事を問ひ、彼が答へぬから寢返りして彼の方に向き直り見ると、彼は起て身構へし焚火の光りを手にて遮り、前方を擬視(みつ)めて居る。
「何か」と予が彼に問ふたら
「何者か山を下りて來る」と小聲で答へる。
我々二人は耳を欹て、物音を傾聽した。
四邊(あたり)寂(しん)として何の音もない。
此時、突然山から砂礫(いしころ)が葉(は)ちて來た。
「多分熊であらう」と言つてオレンチエフは銃に裝藥した。
「撃つ無用。我は人間である」と暗中に聲があつて何者か我々の方に近づいて來る。
彼は鹿の皮の短衣と股引を着、頭に布を捲き、足に獵師靴を穿(うが)ち、背に大きな行李を負ひ、手には古いベルダン銃を持つて居る。
「カピタン*今日は」と言つて、彼は予に挨拶し銃を樹(き)に立て掛け、脊(せな)より行李を下ろし、袖で顏の汗を拭ひ焚火の側に坐を占めた。
其人物を見るに年齡四十五位、丈は高からざるも肩幅廣くて膂力(りょりょく)あるらしく胸は隆起し、腕は筋肉張り、足は少しく彎曲して居り、顏は黒く頬骨突起し鼻低く、眼瞼には蒙古人固有の皺があり、口に大きく強さうな齒をもつて居り、薄い鼻鬚は鼻下を隈取り、顎には少しく赤味ある。
疎髯(そぜん)が生へ、其黒く灰色を帶びた眼には沈勇(ちんゆう)と眞摯率直が現はれて居る。
我々は彼を注視したが、彼は我々を注視せず懷中(ふところ)から莨入(たばこいれ)を出し煙管(きせる)に煙草を詰めて吸ひ始めた。
予は彼が何者であるかを知らないが、兎に角有り合せの食物を彼に馳走した。
「カピタン有り難う。俺今日食事せぬから非常に空腹を減じた」と言ひつゝ嬉しさうに食べる。
彼が食する間に予は尚も彼を熟視した。
彼は腰に獵刀を帶ぶるから獵師であることは明かで、彼が手には野獸に掻き挘られた傷痕があり、顏には一層深い傷痕がある。
彼が布を解いたから其頭を見るに髮濃く所々糸で括つて居る。
彼は寡言(かげん)の男で自分の方から話し出さぬからオレンチエフは堪え兼ねて問ひ出した。
「汝(おまえ)は支那人か朝鮮人か」
「俺はゴリド人です」と簡短に答へた。
「汝は獵師か」と予が問ふたら
「然(そ)うです。他に仕事なく漁業は知らず獸獵だけを仕事として居ます」と答へた。
「何處(どこ)に住むか」とオレンチエフが問ふたら
「家はなく常に山住ひして火を焚き野宿する」と答へた。
彼が語る所に依れば、今日彼はイジユブリの獵を為し、一頭の牝を撃つたが殺すに至らず山中を駈け廻る時、我々が山を通過したことを知つて其跡を追ひ、日が暮れて焚火の光を認めたから其れを便りて來たのである。
「名は何と呼ぶか」と問ふたら
「デルスウ、ウザラと呼ぶ」と答へた。
予は彼が素性を知りたく思ひ種々のことを問ふたら、彼は徐(おもむろ)に身の上話しを仕た。
其語る所に依れば、彼は獵獲した物を支那人に賣りて煙草、鉛、火藥と交換し、銃は親の讓物であると。
尚彼が齡は五十三で常に山住ひし、冬は樹の枝で小屋を作つて之に住み、妻子があつたが天然痘で一時に死し今は孤獨であると。
彼は死んだ妻子のことを想ひ出し急に悄然となつた。
予は彼が境遇を氣の毒に思ひ、彼を慰めて遣りたいと思つたが別に其方法がないから、彼が古銃を新銃と代へて遣らうと言つたら、彼は謝絶し 「此ベルダン銃は父の形見で、多年用ゐ馴れたから之に優るものはない」と言つて、樹に立て懸けた自分の銃を取上げて其銃床を撫でた。
空の星は其位置を轉じて夜の更けたを示したが、我々は時の移るを忘れ焚火を圍(かこ)んで談話した。
多くはデルスウが話し、予はそれを聞いてゐた。
彼は馬賊に捕虜となつて逃げたこと、虎に出會つたこと、虎は藥用人蔘の保護者だから殺してはならぬこと、天狗のこと、出水のことなどを話した。
或時虎に襲はれて酷く負傷し山中に倒れて居り、彼が妻は十日間彼を搜し遂に瀕死の状態に在つた彼を見出したと。
予は彼に我々の居る場所の地點を問ふたら、此處はレフウ河の水源地で、明日我々は一番目の獵師小屋に到着するであらうと語つた。
眠つて居た兵士の一人は眼を覺まし、ゴリド人を見て怪しみ何やら獨語(どくご)して徴笑し再び眠つた。
地上も空も末だ暗く、唯新しい星の現はれた其方面に少しく曉光(ぎょうこう)が認められる。
露が繁く降りて明日の好天氣を證し四邊寂として萬物眠れるかのやうである。
一時間を經て東が白みかけた。
時計を見るに六時である。
炊事當番の起きる時刻だから、予が彼を搖り起したら眼を覺して起た。
デルスウを一瞥(いちべつ)して 「妙な人間だ」と評し微笑して靴を穿いた。
軈て野營所は人聲物音に復活し、塒(ねぐら)を出た小鳥が其處(そこ)此處(ここ)に啼く、一刻毎に明るくなり最初に太陽が山の蔭から現れた。
我々の野營所は全く一變(へん)し焚火は消えて灰のみ遺り、鑵詰の空鑵が散亂し、野營の跡には蹂躙された草が横たはつて居る。

第二章旅行期間=八日目〜九日目(この期間は文章から算出した参考日数で正式なものではありません)
カピタン《капитан》中隊長または陸軍大尉の意味でロシア語読みの発音。当時アルセニエフ氏は陸軍二等大尉。『ウスリー探検記』は「隊長」と表記
一九〇二年旅行記