露領沿海洲「秘密の山奥」
露國二等大尉アルセニエフ著、松本高太郎譯、今井昌雄編

二十四、アムバ

翌日は濃霧四面を罩(こ)め空は灰色に曇り濕氣があつて寒い、兵士等が携帶品を整理し、馬に荷を駄(つ)ける間に、予はデルスウと共に急いで茶を飮み、堅麺麭(パン)を衣嚢(いのう)に入れ、一歩先に出かけた。
道はリフウジン、河の右岸に沿いて居り、時々他に逸して河と離れ、深く林中に入ることがあるが再び河に沿ひ始める。
烏蘇里(ウスリー)極地のタイガーが如何に密林であるか、其實際を見た者でなければ想像がつかない。
二三サージエン[(四〜六m)]先に野獸が居るも其姿は見えず、唯だ音に依つて其所在を知るのみである。
斯んなタイガーを我々は二日間歩いたのである。
天氣惡く雨がしとしと降り、草は濡れ木から雫が落ち、路上に水溜が生じ、林中寂として禽(とり)さへ鳴かぬ。
駄馬の輜重(しじゅう)が我々に追ひ着くべき時刻であるに、未だ後方に馬の足昔が聞えぬ。
「馬の來るを待たう」と予がデルスウに言つたら、彼は獸して立ち止まり肩から銃を下ろして樹に立て懸け、自分の煙管(きせる)を搜して
「煙管を失つた」と舌打ちし、後戻りして煙管を搜さうとするから、予は
「後から來る人々が煙管を見附けて持つて來るであらう」と言つて彼を止めた。
我々は二十分間立ち止まり、デルスウは大に喫煙を欲する樣子で最後に堪え難くなり、自分の銃を取つて
「煙管は近所に在ると思ふから行つて搜す」と言ひ出し、予も亦(また)馬の來るのが遲く途中何事か超つたのではないかと氣遣つたからデルスウと共に後方に行つた。
デルスウは路上を見廻しつゝ歩いて居たが、不圖立ち止まつて足元を凝視する。
予が怪しんで近づいたらデルスウは周圍を見廻し不安の面で
「カピタン視られよ。之はアムバの趾跡(あしあと)である。我々に尾行して來たので趾跡が全く新しいから、今の前で此處に居たのだ」と低語する。
熟視すれば成程大きな虎の趾跡が路上にあり、此趾跡は以前歩いた時に無かつたもので、虎が我々に尾行して來たことが明かである。
「虎は其方へ匿れた。我々が立ち止まつて居た時此處に佇んで居り、我々が後方に引返した時急いで匿れたのである。カピタン視られよ。趾跡には未だ水が溜つて居ない」とデルスウは右方を指差して言つた。
成程附近の窪みには水が溜つて居るに、虎の趾跡には水が溜つて居らぬから、此猛獸が今の前まで此處に佇んで居り、我々は立ち止まり。
耳を欹てゝ何かの音のあるを待つたが氣味の惡い程靜かである。
「カピタン靜かに歩き、穴や倒木に眼を注ぎなさい」とデルスウは予に注意して先に立ち、樹間を覗きつゝ行く。
最後に、我々は哥薩克(コサック)が馬を罵る聲を聞き數分時を經て兵士等の姿が見えたが、二頭の馬が泥に塗(まみ)れて居り、之は水溜を越ゆる時二頭の馬が躓(つまづ)いたのであつた。
予の推察の如く、兵士等デルスウの煙管(きせる)を見附けて持つて來た。
前進せんには荷を積直し、馬の泥を落すを要した。
兵士等が馬から荷を下し始めた時、予はデルスウと再び出發し、約二百歩進んだ時再び虎の足跡に出曾つた。
虎は再び我々に尾行して、我々が引返したから避けて隱れたのである。
デルスウは立ち止まり、虎が隱れた方面に向つて大喝した。
「アムバー何故我々に尾行するか、我々の通行を妨げるな」デルスウの面(おも)てには虎が自分の言を聽くとの確信が現はれて居り、五分間佇んで煙草を吸ひ後銃を取つて進み出した。
約一時間、我々は密林中を歩いたが急に樹木が少くなり、我々の前に廣い草原が展開し、道が之を横斷して居る。
鬱林(うつりん)に倦(う)んだ我々は展望地に出て非常に嬉しく四方を眺めた。
「之はクワンダゴウ河である。間もなく獵師小屋がある」とデルスウが言つた。
此河原には丈けの短かい薇蕨(わらび)が生へ、北方に密林の峻嶺(しゅんれい)が霧の中に薄く見え、河原の右方に狹い沼があり、周圍に灌木が生へ、デルスウの言ふに、夜間イジユブリが此處へ萩を食ひに來ると。
午後三時に果して獵師小屋の在る處に來た。
予は此處に野營するに決め、久しく肉食せぬから獵を行つて肉を得たいと思ひ急いで晩食し、デルスウを促して獵に出かけた。
道は斜めに沼に通じて居り、草原にイジユブリの足跡がありイジユブリの通行の頻繁なるを知つた。
適當の場處を選んで其處に坐し、野獸の現はるゝを待つた。
軈て暗くなり草や樹が動物のやうに見え、予は屡之を野獸と見誤つた。
振り向いてデルスウを見れば、木像のやうに動かず熱心に沼畔を見廻はす。
一度彼は靜かに銃を取つて前方を凝視(みつ)めたから、予が心臟は鼓動し其方向を視たが矢張り何も居なかつた。
全く暗くなつて數歩の先が認め得られぬ。
蚊は用捨なく頸と手を螫し、予は覆面して之を防いだがデルスウは一向平氣である。
突然予は物音を聞き、其音は我々の位置と相對する沼畔の叢中に聞え、デルスウを顧みれば彼は頭を擡(もた)げ物音に耳を傾けて居る。
音は時として強くなり、時として全く靜まり何者か密かに我々の方に近づき來ることは確で之はイジユブリであると思ひ、覆面を取り除けて凝視した。
音は予の推定で我々を距(さ)る七十歩若くに八十歩の處である。
此時、突然遠雷のやうな野獸の唸り聲が聞え、デルスウは予が手を握り
「カピタン!アムバである」と聞を震はして言つた。
予は慄然として足が竦んだ。
軈てデルスウは起つたから、予は彼が射撃するのかと思つたら何ぞ圖(はか)らん、彼は虎に向つて物を言つた。
「アムバ忿(おこ)るな。此處が汝(おまえ)への場處であると知らなかつた。我々は今直立退く忿るな」ゴリドは手を虎の方に伸べ跪(ひざ)まついて二回叩頭(こうとう)し、低聲に何事か言ひ後、起つて木の切株に近づき自分のベルダン銃を取り上げ
「カピタン行きませう」と言つて予の返事をも待たず歩き出したから止むを得ず彼に從つて行つた。
二百歩程行つて予が立ち止まり 「暫時此處に居て虎の現はるゝを待たう」と言つたら
「アムバを撃つてはならぬ」とデルスウ顏色を變へて予を制止した。
彼は再び大股に歩き出し、予は獨り止まるも氣味惡く感じたから走つてデルスウに追ひ着いた。
月が出て一時に明るくなり遙かに野營の火が見える。
一時間を經て我々が野營に近づいたら、兵士等焚火の側に働いて居り、其中の一人が言ふに
「今日は馬が何故か草も食はずに、周圍を見廻はしたが附近に何かの野獸が居たらしい」と、予が兵士等に有りし次第を話したら、兵士等も獵に行つて種々の危險に遭遇した話を為し、談話に夜を更したが終に一同寢に就き、周圍は靜寂となつて人々の呼吸と焚火の薪の爆(は)ねる音のみ聞こえた。
一九〇六年旅行記