250年前に設立された大英博物館は、年間450万人が訪れる英国最大の博物館です。ギャラリーの通路をつなげると全長が9キロにもなるといわれ、90ほどの展示室からなり、全部見るのに1週間はかかると言われています。
ロゼッタ・ストーン
この石はナイル川の西デルタにあるラシッド(英語名でロゼッタ)という小さな村で古い建物の建材として使われていました。1799年、ナポレオン戦争の最中に要塞拡張工事をしていたフランス軍によって発見されました。当時エジプト象形文字への関心が高まっていたので指揮にあたった将校は一目でこの石の重要性を理解したといわれています。1801年、英国との戦いに負けたフランス軍はアレキサンドラ条約でロゼッタストーンを含む重要な古代エジプトの遺物を英国軍に引き渡さなければならなくなりました。フランス軍はロゼッタストーンを船底に隠すなどして抵抗しましたが、英国軍に見つかってしまい引き渡さなければならなくなりました。最終的にこの石は英国に渡ることになります。1802年末からロゼッタ・ストーンはこの大英博物館で一般公開されています。
上段がヒエログリフという象形文字、中段がデモティックという民用文字、下段が古代ギリシア文字で書かれています。ロゼッタ・ストーンの内容は紀元前196年に、プトレマイオス5世の戴冠1周年記念にエジプト全土からメンフィスに集まった神官たちが自分たちの都合が良い神殿修理・改築や免税、灌漑工事施工した王の徳を称えたもので、「太陽が勝利を与えたもの、ゼウスの生きる化身、太陽の子プトレマイオス」などと書いてあります。当時の公用文書はギリシア語でした。というのは王家の人たちをはじめ、政府高官たちはマケドニア系ギリシア人だったからです。
ヒエログリフの解読に重要なのは細長い楕円でカルトゥーシュと呼ばれるものが常に王の名を囲んでいるということです。ロゼッタ・ストーンのカルトゥーシュは常にプトレマイオスの名を囲んでいます。ヒエログリフは普通右から左へ読まれますが、デザインの都合で左から右、または上から下へ書かれる場合もあります。通常は蛇や鳥など碑文の生物が向いている方向から読まれます。フランス人のシャンポリオンがヒエログリフを解読するまでに20年かかっています。
エジプト・ミイラ
古代エジプト人は肉体には「カー」と呼ばれ自分に生命を与える力が棲むと信じていました。人はその「カー」を持って生まれ、生きている時はその人の中に棲み続け、その人が亡くなると「カー」は肉体を去りますが、肉体が保存されれば、彼が再び生きられるように、その肉体に戻るものとされていました。ですから肉体が墓の中でできる限り命ある状態に似せて保護され、保存されて生きつづけなければならないと考えました。現在知られているミイラ作りに成功するのは紀元前2500年、ギザのピラミッドで知られるクフ王の時代です。
ミイラの作り方
まず死にます。次に黒曜石で左の脇腹に15cmくらいの切り口を作り、肺、胃、肝臓、腎臓、腸を取り出します。内蔵は松脂を染み込ませた布で包み、相応のカノポスの壷に収めます。 壷の蓋には人間、バブーン、ふくろう、ジャッカルの頭が彫られています。 心臓だけはそのままにしておきました。心臓は考えるところだと思われていたからです。 脳は必要ないと思われていたので、頭蓋骨を傷めないように、鼻孔から先に小さなスプーンがついた棒で脳を取り出しました。次に体を乾燥させます。強力な乾燥剤であるナトロン(天然炭酸ソーダ)を振りかけ、太陽熱の力も借りて40日間にわたって乾燥させます。乾燥の後はしぼんだ身体を美しくするために死体を沐浴させ、スパイスや薬草をすり込み、聖油を注ぎます。香を焚き、この作業は15日間続けられます。今度は包帯巻きにはいります。遺体の名前や呪文の書かれたリンネルの布が用意され、指から肩へ、頭から足へと巻かれていきます。呪文を唱えながら儀式的にやるので、ここでまた15日間かかります。そして70日経ったとき、ミイラは喪に服している遺族の待つ家に戻されていきます。最後に墓の入口で口開きの儀式があります。神官が手斧を持ち、祈祷の朗詠に合わせて、見ることができるようにと目に、聞くことができるようにと耳に、話すことができるようにと口に、斧を触れていきます。
西暦1世紀以降のミイラは技術が悪くなり、保存状態はあまり良くありません。そのころになると、実際の顔に近い肖像画をつけるようになりました。ギリシア・ローマ文明の影響を受けていることが分かると思います。4世紀、ローマ時代後期にキリスト教が広まり、ミイラは作られなくなりました。
アッシリアのライオン狩り
メソポタミア文明は世界の4大文明の中でも最も古いもので、チグリス川とユーフラテス川を中心に栄えました。レリーフや彫刻に刻んである楔文字は紀元前4000年前からあったといわれる世界最古の文字です。アッシリアは今のイラクを中心に紀元前9世紀から7世紀にかけて栄えた国で、一番権力があった時には、イラン、北トルコ、シリア、レバノン、イスラエル、西エジプトも支配していました。
ライオン狩りの浮き彫りは、紀元前645年ごろアッシリアのニネヴェというところにあった、アシュールバニパル王の宮殿の壁だったものです。宮殿はジプシウムという現地で採れる比較的柔らかい石を使っており、壁全体に彩色してありました。アッシリアというのはチグリス川のほとりの小さな町アシュールから始まりますが、伝説では人民を困らせる悪いライオンを退治して、領土を広げていったといわれています。また、動物の王を殺すことで、すべての世界の王になるという意味もありました。しかしこの壁ができた紀元前7世紀半ば頃になると、野生のライオンは少なくなってきたので、わざわざライオンを生け捕りにして来させ、檻の中で飼って、何か催し物がある時に、王だけが殺せるようになっていました。ライオンは今のアフリカ・ライオンではなく、もっと小さいものでしたが、十分危険な動物でした。人間はみんな同じ顔をしていますが、ライオンの表情はすばらしいです。王様は常に他の人よりも大きく描かれており、王様の身につけているすばらしいアクセサリーにも注目してください。この腕輪、首輪、耳飾は金で作ってありました。宝石、皮製品などすばらしいものがありましたが、現在はほとんど残っていません。
この宮殿を造ったアシュールバニパルは戦争より学問の方が好きで、図書館を造ったりしました。紀元前612年にアッシリアは滅び、宮殿はそのときに滅びてしまいます。そのことは旧約聖書にも書いてあります。
パルテノンの大理石の彫刻群
ギリシャの首都アテネのアクロポリスの丘に建つパルテノン神殿からの彫刻です。この神殿ができた紀元前5世紀には、ギリシャは統一国家ではなく、ポリスと呼ばれる都市国家が、それぞれ独立してお互いに争ったり同盟を結んだりしていました。それぞれ自分たちの守護神を祭る神殿を丘の上に建て、その回りに町ができました。アテネのアクロポリスは標高165mの岩山で、市街地のほぼ中央にそびえています。丘の上のパルテノン神殿は市内のどこからでも見ることができます。
紀元前5世紀のペルシア戦争後、アテネはエーゲ海に面したおよそ150の都市国家に呼びかけて、ペルシアの脅威に対抗するための共同安全保証体制を作り上げました。これをデロス同盟といい、軍船を持つ国家は軍船を、持たない国家はその国力に応じて拠出金を提供するというのが取り決めとなりました。同盟に集まる巨額の資金を管理するのはアテネでした。政治家ぺラクレスはこの膨大な資金を独断で加盟国の同意なしにパルテノン神殿の建設に流用してしまいました。
紀元前432年、パルテノン神殿は完成しました。神殿は東西の破風の大彫刻をはじめ、外周は92面のメト-プ浮き彫り、内室の壁の上は全長163mのフリーズ彫刻で飾られていました。中には高さ13mの女神アテナ像があり、身体は象牙、衣装は金で作られていましたが、5世紀にコンスタンチノーブルに移された後、壊されてしまいました。建物は西暦4世紀ローマ帝国末期まで当時の姿のままだったと伝えれれています。7世紀の末、東ローマ帝国の時代になって神殿はキリスト教会に改造され、その時キリスト教徒はパルテノン神殿を飾っていた彫刻を異教の神々の偶像として削り取ったり破壊したりしました。その後ギリシャは1453年に東ローマ帝国を滅ぼしたオスマントルコ帝国の支配下になります。
17世紀、パルテノン神殿はトルコ軍の弾薬庫として使われていましたが、トルコと戦争を続けていたイタリアのベニスの軍隊がアクロポリスを包囲し、砲撃を加え、一発が弾薬庫に命中し、大爆発を起します。2000年以上にわたって美しい姿を守っていkタパルテノン神殿は、この時から廃墟と化します。
19世紀初め、エルギン伯爵トーマス・ブルースが、駐トルコ大使としてイスタンブールに着任しました。彼は初めから考古学に興味があり、残されていた彫刻を神殿から取り外し、船でイギリスに運び、ロンドン市内で私的に展示されました。1816年イギリス議会はエルギンが持ち帰ったパルテノンの彫刻の国家買い上げと大英博物館での展示を正式に可決しますが、価格はエルギンが彫刻の取り外し作業と輸送のために投じた私財62400ポンドの約半額の35000ポンドでした。公開の後エルギンがもってきた大理石の彫刻の評価は次第に高まって、ヨーロッパの人々が古代ギリシャ文明の進化を知るようになったのは、このエルギンの大理石の彫刻のおかげであるといっても良いでしょう。また、絵画においては、ラファエル前派の女性像に影響を与えています。
高貴な人たちを祭ったお墓のことを英語で Mausoleumといいますが、その語源となったのがこの霊廟です。驚くべき古代建造物ということで、フィロンが選んだ世界の七不思議の中にも入っていました。
紀元前350年がろに没したマウソロス墓として作られました。ハリカナサスは現在トルコの南西部にありますが、そのころはペルシアの支配下にあり、カリア地方の統治を任されていたのが、マウソロスでした。墓作りは生きているうちから始められましたが、彼のの死後、妻のアルテミシアによって完成しました。高さ50mの巨大な建物だったようです。建物はずいぶん昔に壊されてしまっていて、15世紀には十字軍の聖ヨハネ騎士団がマウソレウムの建築部材を再利用して防備を固めた際にだいぶ持ち去られてしまいました。19世紀にチャールズ・ニュートンによって発掘され、何点かが英国に持ち帰られました。
マウソレウムのピラミッド状の屋根の頂上は4頭の馬が戦車を引っ張っていました。紀元前4世紀にはチャリオットと呼ばれる戦車は戦争用には使われておらず、行進の際の儀式的な乗り物として、あるいは戦車競争に使われていました。青銅製のくつわは元の像についていたものです。ピラミッド状屋根の最下段には70頭のライオン像がありました。そしてイオニ式柱の間にはマウソロスとアルテミシアをはじめとする36体の像がありました。マウソロスと思われる像は髪が長く、おそらく剣を持っていたのではないかと思われます。高さ3mあり、立派で堂々としています。ハリカナサスは小アジアですけど、このころはギリシアの影響を強く受けていました。多分彫刻家をギリシアから招いたものと思われます。
マウソレウムには浮き彫りを施したフリーズもあり、そこには神話上の女戦士の部族アマゾネスとギリシア人の戦いが描かれています。フリーズは高い位置にありましたが、背景は青、人物は赤と金で彩色されていたので、明瞭に識別できたと思われます。
ポートランドの壷
今から2000年前、ローマ時代のローマでこの壷は作られました。結婚祝の贈り物として作られたものと思われます。ガラス製で、紺のガラスの塊の上に白いガラスを被せ、いっしょに吹いた後、カメオ技法で彫っています。青色ガラスが3ミリ、白色ガラスが3ミリしかないので、白色ガラスを彫る時に注意しないと穴が空いてしまう危険がありました。
18世紀に外交官だったハミルトン卿によって英国に持ちこまれました。壷はその後ポートランド伯爵の手に渡り、ポートランド伯夫人から大英博物館がこの壷を借り受けたため、ポートランドの壷という名がついています。1780年代にウエッジウッド卿が借りて、この壷のデザインを真似した陶器を作っています。現在のウエッジウッド登録商標がこの壷です。1845年に酔っ払った訪館者によって壊され、200個以上の破片に砕かれてしまいましたが、上手に修復されました。
壷の絵には32通りの解釈があると言われています。ぺリアスという人間がテェティスという若い女神に結婚を申し込みにいく図だという説が有力です。ぺリアスのことをテェティスの母ドリスが励ましています。エロスが「しっかりやれ」とはやしています。右側にいるのはテェティスの父親です。中央にいるのがテェティスで、結婚を申し込まれるのを知らないので、眠たそうにしています。手に持っている松明を落としそうです。右側は愛の神アフロディテ、左側は結婚の神ヘルメスです。私はぺリアスとテェティスがゼウスの前で結婚を誓い、裏の人は待ちぼうけをくっているという説の方が、何かピッタリくるような気がしますが・・・。とにかく人間と女神との結婚は成功し、二人の間にはアキレスが生まれます。
約2000年前のミイラですが、エジプト・ミイラとはまったく逆の気象条件下での死体保存例です。発見された地名からリンドー・マンと呼ばれています。この遺体は1984年に雨の多い英国北西地方のチェッシャーにあるピート畑から見つかったものです。この地方の泥炭や沼の水には、一種の漬け汁作用により死体を保存するのに適した酸が含まれています。
あまり保存状態が良いので、この遺体を見つけた人は自分がピートの切断機で殺してしまったと思ったほどでした。徹底的に法医学専門化によって調査され、2000年前にドルイト教の儀式のための犠牲者だったということがわかりました。最初に頭への一撃で気絶させられ、次に紐で首をしめられ、最後に喉を切られています。
身長165cm、体重60kg、25歳くらいだということもわかりました。爪が丸くカットされており、肉体労働者ではない高い位の人だったのではないかと思われます。腸の保存状態も良く、科学者たちは食事の内容物の分析を行ないました。最後の食事は種や草から作られた粥で、夏や秋の果物の痕跡がなかったので、多分早春に殺されたのではないかと思われます。
デンマーク、ドイツ、オランダ、スウェーデン、ノルウェーなど、ヨーロッパ北西地方の沼地でこのような死体は発見されていますが、英国本土はこのリンドー・マンが初めてです。
アステカのトルコ石の仮面
1492年のコロンブスの新大陸発見に刺激されたヨーロッパ諸国は、未知の世界をめざし、次々に大西洋へと乗り出していきました。コルテスは1485年にカスティリアで生まれ、1511年にディエゴ・ベラスケスのキューバ島征服隊に加わり、南米遠征隊長に任命されました。1518年、11隻の船と553人の兵士を率いてキューバを出港、1519年にメキシコ東海岸ベラクルスに上陸しました。
アステカ族は自らをメキシカと呼び、メキシコ盆地一帯には150万人もの人が住んでいました。14世紀ころからテスココ湖上の小島にテノチティトランの都を建設し、そこに君臨していたのはモクテスマ帝でした。首都テノチティトランには371を数える属国からありとあらゆる産物が集まり、活発な商業活動が行われていました。これらの商品がすべて数と寸法によってきちんと測られて価格がつけられ、商売上の争いが起きた時のために裁判所まで設けられていました。規模でも清潔さでも当時のヨーロッパの都市を超えるほどの文明を備えていました。
しかしアステカ族にはメキシコ盆地の先住者トルテカ族の神王である肌の色が白く、髭の生えたケツァルコアトルという現人神が国土を要求するために東から帰ってくるという伝説があり、彼らの暦で1519年はまさにその年に当たっていたのでした。 モクテスマの使いはコルテスを歓迎し、頭に王冠と仮面をかぶせ、首には貴石と黄金で作られた襟飾りを巻き、左腕には楯を持たせました。が、この儀式はスペイン人たちに黄金への情熱をめざめさせてしまいました。
コルテスと仲間たちは首都テノチティトランに進撃しました。軍勢の数において勝てるはずのモクテスマは、ケツァルコアトル帰還の伝説に影響されてかスペイン人に抵抗せず、捕因の身になり、その後、殺されてしまいます。テノチティトランの都は徹底的に破壊され、その廃虚の上にまったく新しい町メキシコ・シティーが建設されました。かつての都にそびえていた大ピラミッドの上にはカトリックの大聖堂が建てられました。こうして、地球上最後の古代文明は消えていったのでした。
コルテスは都テノチティトランへ向けて出発する前に、モクテスマから贈られた宝物を報告書とともに、スペイン国王カルロス1世のもとに送っています。この時、莫大な金銀とともにトルコ石の仮面がスペイン国王に献上された可能性は高いのですが、当時のスペイン人にとって関心があったのは金や銀だけで、異教徒の崇拝する偶像などには興味を示しませんでした。黄金は溶かされ、貴石は台から外されました。いくつかのモザイクだけが素材そのものの価値が比較的低かったので残り、他の国々へ流出していったのでした。
ルネッサンスの中心地フィレンツェの支配者だったメディチ家は、当時のヨーロッパで最も金持であったと同時に、芸術家のパトロンとしても有名でした。スペインと違ってイタリアには自由な精神と旺盛な好奇心があり、彼らの好奇心は当時まだ発見されたばかりの新大陸の文明にも及んでいました。メディチ家の人々はキリスト教世界とはまったく異質な文明の世界に目を向けた最初のヨーロッパ人でした。「トラロックの仮面」と思われるトルコ石の仮面は、メディチ家の目録に記されています。1737年にメディチ家が滅亡した後、絵画、彫刻のコレクションはウフィツィ美術館に集められましたが、アステカのコレクションはがらくた同然に売り払われてしまいました。1870年にパリで開かれたオークションに、メディチ家が所蔵していたものではないかとされるトルコ石の仮面が現れ、大英博物館が落札しました。 また、「テスカトリポカの仮面」はスペイン王カルロス1世(神聖ローマ帝国ではカール5世)の支配下であったベルギーのブリージュにあったものを、1865年に大英博物館が入手しています。
トラロックの仮面
雨の神トラロックを表したもので、モクテスマ帝からコルテスへの贈り物の中にあったと考えられている。顔面は目を縁取り鼻で交差して絡み合う2匹のヘビで構成されている。
ケツァルコアトルの仮面
人類を創造し、食糧となるトウモロコシを与えてくれた知恵の神。平和を愛する神であり、野蛮な生け贄の儀式を行うことを人々に禁じている。テスカトリポカによって都から追放されてしまった。
テスカトリポカの仮面
残忍な性格を持ち人間の奥底に沈むどす黒い欲望を象徴する神だった。本物の人間の骸骨の上に直接トルコ石のモザイクを貼り付けて作られており、この神の残忍な性格を物語っている。この神が都を支配するようになってから生け贄の儀式が盛んに行われるようになった。
アマラーヴァティーのインド仏教
アマラーヴァティーはサータヴァーハナ朝(紀元前1世紀から後3世紀)の後期に栄えた都市でした。東海岸の港に近いアマラヴァティーはローマとの貿易で繁栄、インドから香辛料、綿織物、象牙、宝石などが輸出され、ローマの金貨が大量にインドに流れ込んできました。大商人たちはより良い死後の世界を願って功徳を積むために、ストゥーパを建てました。各地を旅した商人によってストゥーパ崇拝も広まりました。 アマラーヴァティーのストゥーパは基壇部の直径が52mもあり、高さも40mを超えるものだったと推測され、当時のインドのストゥーパの中でも最大規模のものでした。三蔵法師で有名な玄 も7世紀にアマラーヴァティーを訪れています。
初期の仏教美術はブッダを象徴で表しました。
仏足跡=ブッダ自身 法輪=布教 菩提樹=悟り ストゥーパ=涅槃
アマラーヴァティー後期には、わずかですが、仏像も彫られています。規則的に平行に引かれた衣のひだと卵方の顔が特徴で、この様式は後にスリランカに伝わりました。
ガンダーラ美術(2ー3世紀)
アレクサンダー大王が征服した地域には、東西交流によって新たな文化が生まれました。西方の商人たちの中にはインドに帰化し、仏教徒になった人もいます。パキスタン北東部のガンダーラの彫工はギリシア・ローマのように神々を人間の姿で表すことに慣れていたので、ブッダを西方の擬人像に倣ってギリシア風の要望で表現した像が製作されるようになりました。 特徴は、彫りが深く鼻筋が通っている。アーリア系の顔。流れるような衣。頭髪は波状。
サールナートの仏像(5ー6世紀)
インド北部のサールナート(鹿野苑)はブッダの最初の説法の地です。5世紀ごろグプタ王朝の時は仏教の中心地でした。 特徴は穏やかな表情。深く瞑想するように伏した目。下唇が厚い。長く垂れた耳たぶ。衣にひだを表わさない。巻貝が並んでいるような髪 。 インド各地で独自の特徴を生かした仏像が広まりました。仏像にはブッダが生まれながらにして備えていたとされる身体状の特徴が32あります。(額の白い毛、髪の根本を紐で結び束ねた髪型など) 7世紀以降、インドではヒンドゥー教やイスラム教などの圧迫で仏教は衰えます。 現在インドではブッダはヒンドゥーのヴィシュヌ神の化身のひとつであり、仏教はヒンドゥー教の一派と見なされています。
ヒンドゥーの神々
インドという国名が「ヒンドゥーの国」を意味することでもわかるように、ヒンドゥーは宗教というより、インドそのものです。現在インドの全人口の82%を占めるヒンドゥーは、紀元前1500年ごろにインドに侵入してきたアーリア人のバラモン教と土着の信仰が結びついて発展しました。開祖がいて、教義がある宗教ではなく、土着の神々を取り込んでいく過程で、つじつまを合わせるために、神々の結婚や化身がとり入れられ、いつのまにか八百万の神の教義が存在することになってしまいました。他宗教の神も取り込んでしまうヒンドゥーは実に寛容な宗教で、それぞれの神様を通して人は宇宙の聖なるものとつながるという考え方を持っています。
ヴィシュヌ神
世界の維持、繁栄をつかさどる神。温和で受動的な性質。熱心に信仰を捧げるものに対しては必ず恩寵をもたらす。
4本の手にはほら貝、円盤、棍棒、刀を持つ。弓や蓮を手にすることもある。聖鳥ガルーダに乗って飛翔する。
世界の救済のために10の化身になる。
@魚(大洪水から救う)
A亀(不死の霊薬をもたらし神々を救う)
B猪(その牙で沈んだ大地を持ち上げる)
C人獅子(恐るべき魔神を退治する)
D倭人(体を巨大化させ魔王を打倒する)
E斧を持つラーマ(武士階級を一掃する)
Fブッダ(誤った思想を説き魔人を地獄へ導く)
Gカルキ(世界に正義をもたらす英雄)
Hラーマ(インドの国民的英雄)
Iクリシュナ(怪力で武勇に優れ美貌の持ち主)
シヴァ神
再創造のための破壊神。過激で能動的、恐ろしさと粗暴さ。人間の姿をとる時は4本の手を持ち、斧、太鼓、雌鹿、紐を持つ。彼の武器は三叉の鉾。
高く結い上げられた髪は左右に長く垂れ両肩にかかる。頭には三日月が飾られ、首や胴の回りに蛇を巻きつけている。
額の中心には第三の目がついている。乗り物は白い雄牛(ナンディー)。
宇宙の創造と破壊を表す舞踏を踊るとされ、南インドでは多くのブロンズ像が作られている。火炎輪を背に、毒蛇を首に巻き、魔物(アスラ)を踏みしめて、軽やかなステップを踏む。さらに生殖の原理としても崇拝され、円筒形の男根(リンガ)の形で表される。
ガネ−シャ神
シヴァ神とパールヴァティー妃との間の子で、三日月や蛇というシヴァ譲りの持物をもつこともある。小さなねずみが乗り物。 誰も中に入れるなという母パールヴァティーのいいつけを固く守って部屋の外で番をしていたガネ−シャは、シヴァ神をも拒んだのでその怒りにふれ首をはねられてしまった。しかし後に哀れんだシヴァ神は、最初にやってきた動物の頭をつけて息子を生き返らせることにし、たまたまそこにやってきたのが片方の牙が折れた象であったため象の頭を持つようになったという。巨体でありながら温和な性格、多くの荷をいとわず運ぶ象のイメージが人々に親しまれている。さまざまな障害を除き、成功と幸運をもたらす神とみなされ、旅行や起業、家の普請などあらゆる事を始める前にガネ−シャに祈りがささげられる。大きなおなかは、富と繁栄を象徴としてとくに商人階級に崇められている。学問と知恵の神としても知られている。現世利益をもたらす最もポピュラーな神。