私の歴史
重本一晃



大正四・一・十四生七五才っでペンを執るとは
よほどの遅れ智慧
  何かが足りなかったのだ 
論より証拠私の背骨の一片尾底骨が一箇足りない
それからも一つ いつも後手を踏む習性 
だから善い事をしても
たいがい悪く取られるか損バッカシ 
そのかわり四面楚歌にも強い
味方はなくとも落ち込んだりしない
私の歴史その一
生れは大阪堂島(父の本籍山口県) 
母は淡路豪農の出 
行儀見習いに堂島のご大家に来ていてガッチャン 
産後の日経ちが悪く一年後に他界
私はその妹に育てられた
とても大切にして呉れて十七八才までダッコネンネ
だが我がままは許さない食生活に厳しく 
嫌いなものは何日も出てくる連続
少しでも食べると許してくれる
昭八今の東京都立商工短大機械科卆
三菱重工発動機設計からスタート
ここが又ハードで昼時になっても技師長が僕の前を離れない 
好きなのか困ってるのか
腹ぺコの身にもナッテミロ それだけ設計に熱心な国であった
学生時代と三菱時代は私にとって青年王国時代だった 学生の頃
三重鈴鹿石薬師の片岡貢氏が我家に下宿した明大の学生さん
スゴイ達筆 平安朝流 暇ある度に習った 万年筆を垂直に使う
之にもオドロキまるで女性的な流れるような筆法
私には高い高い所にいる師匠であった 
やがて片岡さんは満州に行ってしまった
所在を失った私は俳句を初めた
俳人中塚一碧樓との出合いはご近所
向いの丘には萩原朔太郎氏のトンガリ屋根の三階建がある
夜になると下手な詩を懐ろにして大先生を悩ませた
でもご親切に指導して下さって僕も同人誌黎陽を出した
父は日本中の俳誌を集めてくれる
同人も殖えて月給すっかり入れあげて平気母はイカル
五年後スカウトされて大阪立売堀のメーカー商事会社に来た
国家総動員法が発令される前後だった
ここではエンジンの燃料ポンプを作っていた
やがて昭十六川西航空機発動機部に招かれ入社
第二次世界大戦始まる
やがて敗戦 云ふことが山ほどあるがグチはやめた
日本全国民が貧乏クジを引いた しかし
私の技術生活時代の末期は敗戦の悲劇
技術ヤがこんなにも酷使されたあげく
国家の指導者がアラレモない姿を世界にサラシタ直前の
一文は”民衆の苦悩に終戦はない”
経済大国といふ名のシンボルを付けられた日本の帳尻を
最後までツケを回されるのがキンベン日本の中堅勤労者なのである
敗戦後の技術ヤに職はなかった
それでも私は日本の復興の名をカザス所
何処にでも走った十社を超える会社に
個人的にも或いはグループをなして当たった
しかしみんなテレコ執念のあるのは経営者だけだった
旧川西が新明和興業となり軽自ポインタ開発の要請で復帰したが
労組が私を担いで川西龍三と真正面の矢面でポイステ
      私の歴史その二
オートバイ専門店に転身。親父は疎開先の山口の郷里を引き上げて「お前と一緒に住むしかない」と言って上神してきた。父は明治の頃、ロス・アンジェルス、桑港を結ぶ地下鉄作業に従事する事、三年。帰朝して大林組で敏腕を振るった。コミッション、袖の下を嫌って重役にもならずやめてしまった。ひでえ潔ペキ。
こんな父が大好き。「オートバイをやる」と言ったら「危険だが戦後にそれもよかろう」と云って賛成してくれたのは良いが、開店一年で父の軍資金を悉く使い果たして申し訳なし。もう之までと思った時、適役、ホンダ号がブームを作った。私はその軍門に降って代理店を始めた。売れるわ売れるわ面白いほどの数年だった。家も建てた、売掛も出来た。不渡手形も大洪水。毎日、その決済に追いたくられてハサン寸前。全手形を投げ出して転付命令を申請。やっと破産を免れたときに、昭和三十七年、ブームは終わった。小型自動車業界よさらば。私がこの世界に入って十二年の事であった。一寸良いことをしたのは川崎発動機とメグロ製作所(東京)を合併にした会談を一夜で決めたことだった。
昭和三十七年・・・・私の歴史その三
家族ぐるみのお付き合いの親友Tさんの紹介で雇用促進事業団の職業訓練指導員として入所。専ら、機会製図を担任。これは十二年で定年、六十歳。娘家族との未来を考え、転宅。三世帯合体の家とした。先生稼業の中で輝いたことの一つ、全国教育論文に応募。教科書の部で見事、入賞。ホテルニューオークラで表彰レセプションがあった。そこで私はオートバイ暴走族の製造家だったというと大爆笑。もう一つは標準かな、書手本を作って課外で教えたが夜は十二時過ぎてから手本作りと自分のトレーニングをした。その他先生稼業とは定年を待つ病棟。
・・・・・・私の歴史 その四
ポスト定年は書道に集中。昭和五十一年から準備二年間、小供さん方に無料奉仕、五十三年から塾を発足。忽ち塾は三十名突破。一対一のマンツウマン教授だから朝から晩、深夜まで休むことはなかった。会員の紹介で画家、小出苑女との出会いがあり、合作手本を百枚程作った。之が後の俳画手本作りの胎盤となった。
お手本集(一九八〇〜九〇)
手書き手本を千冊渡した最近の五年程はコピーして渡した。延べ千人にお渡しした。舞えんのとしのが気に入らなくて又書き直す。何処まで行っても決定バンがない自分で自分の背中を追っかける始末。
万葉捨歌撰・・・・・一  昭和五三年
万葉捨歌撰・・・・・一    五十三年
古今名歌撰・・・・・     五十四年
春の名句撰・・・・・     五十五年
夏の名句撰・・・・・     五十五年
秋の名句撰・・・・・     五十五年
冬の名句撰・・・・・     五十五年
四字「成句」撰・・・・・   五十六年
四季の名句撰・・・・・     六十年
四季の花ごよみ名句撰・・・・・    六十二年
俳画句付け集・・・・・    六十三年
名句撰行書(一〜四)・・・・・平成一〜二年
茶席の一行撰・・・・・・昭和五十七年〜平成二年

 手本作りの原本が完成した頃、大阪でティーハウス「ムジカ」=音楽の意味を経営する堀江敏樹氏が現れ、初回の個展を開いた。昭和六十年三月。この時代には私の体内にはお習字の道風平安朝流と華文字の創作者の二人が同じ筆を持っていた。何故、個展にのみ執着したか・・・それは小野道風先生の声からだ「お前は展覧会で競ってはいかん。貧乏クジの好きな一晃は必ずテキを作って後手を踏むであろう」そう聞こえてきた。そこで時代を逆行して道風平安朝流家元を名乗り隠トン。一方、花形となったのは華文字個展で客が目につけるのは、このお方はん、ドスエがまた売れっ子で仕方おへん。よって一流派を名乗り華文字家元を小さいながら公開したしだい。
書の一晃の歴史を終わります。






戻る