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静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」06年1月6日掲載 溝口忠博
草笛ネットワーク
浜松市フラワーパークで一九九〇年九月、開園二十周年を記念した「草笛コンサート全国大会」
が開かれ、全国から八十三人、台湾から一人の奏者が集いました。
世界で初めてと言われた全国大会の成功は、自費で各地を巡り全国の草笛奏者を掘り起こした加
茂光廣さん(当時同園の職員で私の師でもある)の存在を抜きには語れません。それまで遠慮がち
に吹いていた奏者の人たちが大きな自信を持ち、各地で活動を開始したことからもその功績は大き
く、草笛界の中興の祖と言っても過言ではないと思います。
大会では参加者から「何らかの形で連絡基地を」との声が挙がり、私が全国草笛ネットワーク事
務局を引き受けることになりました。以後、横の連絡等に当たり、現在はインターネット上にホー
ムページを運営しています。各地の奏者を閲覧できるようにし、全国からの演奏や教室の要請に対
して、近くの指導者の方を紹介するなどが主な務めです。県内ではその後、県草笛協会が発足し、
私が講師を務めた講座を核にできた「富士山草笛の会」は富士市を中心に活動しています。
草笛は一枚の葉(主に木の葉)を唇に当ててメロディを演奏する楽器で、二オクターブほどが無
段階に出せる代わりに、安定した音という意味ではほかの楽器にとても及びません。しかし生きて
いる葉が奏でるせいか「心に沁みる素朴な音」とよく言われます。
また、生きている葉に親しむことで、命とは何か、生きているとは何かという思考につながり、
途方もないほどの幸運に恵まれてこの世に生まれてきたこと、そして生かされていることを強く実
感するようになる人が多いようです。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」1月13日掲載 溝口忠博
響き合う喜び
自然界の無限の大きさは、宇宙の果てのその向うが誰にも判らないことからも明らかですが、私たちは自然界の大きな営みの中で一瞬を「生かされている」に過ぎないのだろうと思います。
自然界を仮に神と呼んでみれば(私は実に不熱心な仏教徒ですが)神の意志に沿って生きた時に喜びを感じ、反した時に苦しみを感じるのではないでしょうか。もしそうであるなら、日々豊な喜びを求めて生きることこそ神の意思であり、元々、人は苦を背負っていることなど無いはずです。 空腹を満たす、子孫を残すなど、本能的な欲を満たすことで得られる喜びも、神の意思であれば決しておろそかにしてはならないでしょう。しかし、これら「欲を満たす喜び」とは別に、人の真心、芸術、自然の事象などに触れた感動、すなわち「響き合う喜び」とでも言えるものもたくさん受け取っているのだと思います。
現在のように衣食の足りた状態で二種の喜びを比べたとき、多くの人はどちらに重きを置くのでしょうか。どんなご馳走も満腹になれば何の価値も無いことでも分るように、欲を満たす喜びはそれなりの限界があります。しかし響き合う喜びはどんなに豊でも「もう要らない」ということはありません。
前者は本能の喜びとでも言えるのに対し、後者は魂の喜びかもしれないのです。ただ,どちらも大切ながら後者を知るほどに大切にしたい思いは募るばかりです。
車を運転中、赤信号の手前で脇道から出たい車を見かけたとき、なるべく手前で停めてその車に出てもらうようにしていますが、相手の方が会釈してくれたりすると「あ、心が触れ合った、今日も良い一日になりそうだ」なんて嬉しくなってしまいます。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」 06年1月20日掲載 溝口忠博
死んでも死なない
「一つしか無い命」とはよく使われる言葉ですが、私たちには命が二つ有るのだろうと思います 一つは遺伝子によって伝えられる肉体的な命。もう一つは、生まれてから死ぬまでの間にさまざまな形で受け取り、磨き、そして受け渡してゆくもので、私は「魂の命」と呼んでいます。例えば啄木の歌に感動したことのある人は啄木の魂を受け取っており、ほかの誰かに自分が磨いた魂と一緒にきっと受け渡しているのです。それは単なる知識とかではなく、私たち人間にとっては一つの命と言える程の重さを持っているのではないでしょうか。
肉体的な命はせいぜい百年足らずですが、魂の命は受け取ってくれる人がある限り次々と続いて行きます。肉体的な命より魂の命を優先して考えれば、必ず訪れる肉体の死を恐れることはありません。魂を磨き、他者を一生懸命思うことで必ず受け継いでくれるはずですから、いつまでも生き続けることが可能になります。
お金や権力では長生きできませんが、多くの人と心を開いて交われば「新しい魂を頂いて豊になれる」受け取ってもらえたら「本当の長生きができる」そのように思えてなりません。
そうした思いを抱くようになったころ、あるお坊さんの講話で「お釈迦さまは死んでも死なないと言った」というお話を聴きました。お釈迦さまがどのような意味で言ったのかは知りませんが何となく勇気付けられたものです。
魂を受け取ってくれた人が顔や名を覚えていてくれなくても良いのです。ずっと昔からの無数の人の魂が今、自分の中で生きていることを考えれば、自分の魂もまた同じように受け取ってくれるだけで充分だと思うのです。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」 06年1月27日掲載 溝口忠博
三角関係
妻との三角関係などと言っても、何か告白するのかと期待しないでください。
私は県から自然公園指導員、環境学習指導員を委嘱されていますが、植物(特に野草の花)を訪ねて歩くのも趣味の一つです。
自宅の近くにある県立森林公園はホームグラウンドのようなところですし、北遠の野山も妻や友人とよく歩きます。ついでに言えば、長野県も近くて植生の豊なところです。北志賀の長い沢をさかのぼり、自生のシラネアオイに逢えた時は本当に感激でした。
昨年六月下旬、福島県いわき市での草笛教室の後、新潟との県境近くにある南郷村へ案内してもらいました。昔から念願であったヒメサユリに逢うためです。
妻と二人、とある山中で可憐なヒメサユリを見ている時でした。例年なら北海道の花を訪ねている季節なので積丹の友人を思い浮かべていると、妻が「丹代さんに見せてあげたいね」と一言、全く同じことを想っていたのです。
私たちの場合黙っていても通じ合うことはよくありますが、一つの対象に同じように心が向いていると特に多いようです。
「花との三角関係」などと言っていますが、頂点にあるのは花とは限りません。絵や歌であったり小さな流れであったりさまざまです。
夫婦の間だけかと言えばそうでもないようです。例は少ないながら友人との間でも同じことがあるようですから、言葉だけが心を通わせる方法ではないのでしょうね。
同じ対象に感動し、話題を共有する時間を積み重ねて行くことで「意識の共鳴」のようなことが起こるのかもしれません。
自然とのふれあいに喜びを感じ、多くの人と赤い糸で結ばれたいと願っています。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」 06年2月3日掲載 溝口忠博
森林砂漠
日本の山林を上空から見ると、一面の緑に覆われています。この緑の山を「砂漠」と呼んだら狂人扱いされそうですが、現実に日本の山は死につつあると思います。
戦後、大規模に植林された人工林が間伐されないため林床に光が入らず、ほとんどの山林で下草が全滅しています。下草の根によって支えられていた落葉や腐葉土が雨の度に流され、次に表土そのものが流されているのが現状です。
こうなると山はもう死の世界で、土の表面は干からび、虫もミミズも見当たりません。まさに砂漠と呼ぶにふさわしいと思います。
試しに、間伐が行き届き下草が茂っている場所へ入ってみますと、土は靴のかかとで楽に掘れるほど柔らです。土の中からは昆虫、ミミズ、沢蟹などが次々と出てきます。これらの生き物は土に無数の穴をあけますから、降った雨はスポンジが吸い込むように地中に沁みて行きます。
反面、干からびた土は岩のように固く、雨が降れば表面を一気に流れ落ちます。当然ながら洪水の原因になり、保水力が極端に低下しますから、いずれ大変な水不足になるでしょう。これは山の問題と言うより都市に住む人にとっての大問題だと思います。
また、流出する表土の経済的損失も莫大で、今まで五〇年で成木になった木が百年かけても物にならない時代になるでしょう。
行政も補助金などで間伐を促していますが、焼け石に水の感があります。山林に対する総ての税を免除するなど、民間の資金や意欲が山林に戻るような基盤を整えないと大変な事態を招くと思います。
間伐さえ進めばいずれ表土の流出は止まります。大きな禍根を残さないために皆さんで知恵を集めてもらえないでしょうか。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」 06年2月10日掲載 溝口忠博
勝ち負けからの開放
若い頃から負けるのが嫌いで、山歩きで血尿が出るほど競争したり囲碁に熱中したりしました。今も車で次々追い抜かれるとついアクセルを踏みたくなります。
生物の歴史は勝ち残るための競争の連続だったのですから「勝ちたい」本能はゆるぎない強さで染み付いているのでしょう。
しかし、勝つことによって得られる喜びは、所詮欲を満たす喜びでしかありません。魂が触れ合って得られる「響き合う喜び」を求めようとすれば、勝ち負けの煩悩から何とかして離れる必要があるわけです。勝ちたいばかりだと穏やかな顔になれませんしね。
ひとつの方法として、自分を遠くから眺めたらどうだろうかと考えました。お互いを間近で見れば、相手が勝つことは自分が負けることですからそのことに耐えられません。しかし高い山から下界を見るような感じで眺めれば、一方が勝ち、一方が負けたに過ぎません。戦争でさえ宇宙から見れば目にも入らない出来事です。
天空の彼方から眺めると言っても難しいのですが、もうひとりの自分を遠くに置いて自身を眺めるよう努めています。
また、結果より過程を重視するのもひとつの法方でしょう。勝ちたい本能を満たしながら、お互いのファインプレーをたたえる楽しさを味わうのがスポーツやゲームの本来の目的だろうと思います。そこまで考えた時、はたと思い当たりました。スポーツ大会での宣誓は、多くの人がそのことを充分意識していたのではないかと。
勝ちたいという本能を上手にコントロールし、勝ち負けの場面にも真心のふれあいによる「響き合う喜び」を求めることで「勝つこと」よりもっと深い喜びを味わえるような気がします。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」 06年2月17日掲載 溝口忠博
新しい出会い
合併により浜松市の中央部辺りになりましたが、近くに県立森林公園があります。
アカマツを主とした自然林が大半を占め、林縁や湿地では春から秋まで種々の草花が楽しめます。今の時期ですとソヨゴ、ツルアリドウシ、ハナミョウガなどの紅い実や、イヌツゲ、シャリンバイなどの黒い実が宝石のような美しさを競っています。園内の遊歩道が整備されてからは訪れる人も多く、運動のため早足で歩く人、カワセミを一目見ようと立ち尽くす人などでいつも賑わっています。
ビジターセンター(バードピア)の企画に毎週土曜日のガイドウォーク(参加無料)があるのをご存知でしょうか。環境学習指導員が交代でガイドを務め、鳥、昆虫、植物など何でも気軽に質問できるのも特徴です。
似たように見える小鳥もそれぞれの種によって違いがあり、生物によって「自然の芸術ではないか」と感心すような発見があります。例えばグミの葉の裏を拡大して観察すると、何とも繊細な模様に「きれいねえ」という驚きの声がもれるという具合に。
人の生涯は出会いによって豊かさを増すのかと思いますが、自然公園は「豊な出会いの場である」と言えるかもしれません。
「人間」は都会ほど警戒の対象になりがちですが、森林公園では見知らぬ人が挨拶しながら行過ぎるし、鳥や花を見ていれば寄ってきて声を掛けてくれたりします。
友人と歩いても、ガイドウォークなどに参加しても、動物や植物のさまざまな姿に出会うことでしょう。感動を共にすることで人との出会いも単なる出会い以上のふれあいが生まれるような気がします。皆さんも一度訪れてみてはいかがでしょうか。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」 06年2月24日掲載
溝口忠博
草の文化
昨年開催された愛知万博での市民プロジェクトに、県草笛協会も演奏や草笛教室で協力しました。この企画の中で「草の文化」というフォーラムが開かれ、「衣・食・住」などにおける植物と人間のかかわりについて、それぞれの専門家とともに、私「楽」という分野でパネリストを務めました。
衣は今でこそ合成繊維が多く使われているものの、昔は綿、麻、コウゾなどでした。食は説明するまでもなく、住についても日本では木や草が多用されてきました。
植物の恩恵を受けているのは単に実生活だけでなく、草笛を楽しむ、花を見て優しい気持ちになる、森を歩いて心や身体を癒されるーなど、植物と心のかかわりを念頭にした恩恵もあると考えられ、それが「楽」という分野として加えられたのです。
討論の中で関心を呼んだのが、一キロの肉を生産するためにその十倍もの穀物を必要とすることです。専門家の意見では、将来の食料不足に備え肉食を少なくすることが大切、とのことでした。 確かにわたしたちは、ほかの命を食べることでしか生きて行けませんから、命を頂くことは宿命です。しかし、頂く命をなるべく少なくすることは穀物を食べることで実現できます。
勝手な解釈ですが、動物も植物も命に変わりはありません。精進料理に肉や魚を使わないのは「生き物を殺さない」ためではなく、宿命だから他の命を食べるしかないけれど、頂く命をなるべく少なくするということではないでしょうか(もっとも、そう思いつつ肉も魚を頂いていますけど) 子供の頃「ご飯一粒でも粗末にしたら目がつぶれる」と言われたものですが、単にもったいないからというより、多くの人が精進料理の意味を命の大切さと理解していたのかもしれません。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」 06年3月掲載 溝口忠博
一期一会
人の肉体は二十代から老化が始まるそうですが、私たちの心に宿している「魂の命」はずっと成長を続けるのだと思います。
本や新聞を読み、芸術に触れ、多くの話を聞くことで、次々と「魂」を受け取ります。知識や情報という形で受け取りますから、魂を受け取るとは考えないことが多いと思いますが、それらの中には発信した人の思いが込められている場合もたくさんあると思います。
つまり、受け取るだけで自分の魂は成長するわけです(成長しなかったら哀しいですが)。特に意識しなくても、受け継いだものと自分の中にあったものをすり合わせ、磨き、日々新しい命に生まれ変わっているに違いありません。
このように「魂の命は常に変わってゆく」と考えれば、久しぶりに会った人はもちろん、毎日顔を合わせている夫婦の間でさえ 「一期一会」と言えるのではないでしょうか(一期一会の解釈はいろいろでしょうが)。
相手も自分も日々変わりますから、目の前にいる人は「昨日会った」人とは違います。明日会っても「今会っている人」とは少しかもしれないけれど多分、別な人になっているでしょう。
本などの場合でも、内容の一字一句は違わないのに間を置いて読み返したとき、前とは別なものを感じることはよくあります。読む側の魂が成長した証でしょう。
魂のふれあいによる感動は、人生において最も求めたい喜びではないかと思っています。初めて会った人もちろん、毎日会う相手でもお互いに磨いたアンテナを向け合うことで、豊な感動を伴うのではないでしょうか。
すべての交わりの場面で「今会えた」ことに感謝し、一期一会の思いを込めたいと思います。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」06年3月10日掲載 溝口忠博
自分の足で登りたい
報道でしか知りませんが、世界の各地で紛争が絶えません。原因として宗教や信じていることの違いもあると言われています。
一つの教義や考えを信じ、他の考えとは相いれないあり方は、単に激しい衝突を招くだけではありません。悲しいのは、自然界の無限の広さと奥行きを見失ってしまうのではないかと思うことです。
ある牧師さんから「登山電車に乗れば、楽に登れて美しいお花畑を見られる。しかも、楽しい仲間と一緒に」と教会に入ることを勧められたことがあります。私は答えました。「自分の足で登るのは苦労かもしれないけれど、線路の無いところの花も見たい。別の登山者とも友達になりたい」と。
誰も、ある時「生きるとは何なのだろう」と迷い、目の前の壁が余りにも大きく見えて途方にくれることがあるのかと思います。そこへ「あなたの進む道はこれですよ」と示されると信じ切ってしまうのかもしれません。掘割を進むと言わないまでも細い一本道を歩いてしまうわけです。
小泉首相も引用したことのある幕末の儒者、佐藤一斎(岐阜県岩村の人)の著書の中に「太上の人は天を師とし」の一節があります。「自然界から学ぶことこそ最も重要」という意味だと思いますが、迷って辛くても自分の足で壁をよじ登り、広い世界を知ることが大切だろうと思います。
政治の場合も「黙って付いて来い」より「情報を公開します、皆で良い方向を考えてください」の方が望ましいことは明白です。
宗教も、一つの教義だけを「絶対的に信じなさい」より「自分の目で見、判断し、自分の足で登りなさい、お手伝いしましょう」が望ましいのではないかと思えてなりません。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」 06年3月17日掲載 溝口忠博
天下り
天下りの禁止や公務員の削減が取りざたされています。莫大なお土産を持って天下るとか、省庁の目に余る無駄遣いなどが引き金でしょうが、本質の問題が置き去りにされているような気がしてなりません。
公務員の給与や官庁から発注される工事の単価が高いのは、権力というか政治体制の中枢がお金の力で(と言っても国民の税金ですが)公務員や業界に絶対の服従を強いるためだと思います。 働く人が自由に物が言えず服従だけを求められる体制がより良い方向に進むはずがありません。民間企業ならたちまち倒産です。
高給や退職金で公務員の自由を奪うことを止めることこそ、根本の改革ではないでしょうか。
一例を挙げれば、公務員の求職者が多ければ給与を下げて行きます。やがて「民間企業の方が良い」ところまで行きますから役所と民間の間で自由に転職が行われます。管理者には自由に解雇できる権限を与え、働く人の能力を引き出す努力を求めます。そんな厳しい職場は嫌だ、と公務員のなり手が無くなれば今度は給与が上がるわけです。管理者(首長)の手腕が問われますが、有権者がそれをチェックすれば良いのです。
公共工事にしても、入札が成立しないところまで単価を下げ、完全な競争入札を導入することで予算は半分で済むとの声さえ聞かれます。この分野でも高価格で業界を縛っているとしか思えません。
行政に競争原理を導入することで自由な発想が生まれ、成り立たない見通しの企画などの情報が内部から出てくるでしょう。
役所で働く人が公僕として社会に貢献できる喜びを享受し、能力が自由に発揮できてこそ、より良い社会になるのだと思います。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」 3月24日掲載 溝口忠博
葉っぱと仲良くなる
うれしいことがありました。それは一月末、藤枝の女性からの「『窓辺』を読んで草笛を習いたくなった」という電話がはじまりです。草笛は辛抱強く練習する必要がありますが、熱心な様子に島田の女性会員を紹介しました。やはりマンツーマンの手ほどきが効果的だからです。
それから一ヵ月半、指導した会員から「簡単な曲なら吹けるようになった」との報告です。随分早いと思いながらご本人に電話してみると「葉っぱと仲良くなることが大切とのアドバイスが印象に残り、言われたように毎日五分お風呂で練習した」とのことでした。さもありなんというか「毎日必ず」がよかったようです。
草笛と言えば、NHKの次の連続テレビ小説「純情きらり」が四月から放送されるようです。父親役の三浦友和さんが草笛を吹く場面があるらしく、舞台となる岡崎での撮影に、豊橋市の木下義親さんが草笛演奏で協力しました。ところが、現場で説明などしている間に、何とヒロインの宮崎あおいさんが少し吹けるようになったのだそうです。貴重な習得をドラマの進行に生かす方向で動いているようですが、スタジオでの協力を「全国草笛ネットワーク」の連携で東京の菅間忠男さんにお願いしました。ヒロインが実際に草笛を演奏したら画期的なことで、テレビの歴史の中でもあまり例がないのではないかと思います。
草笛は難しいと思われているようですが、理論的な理解と継続的な練習で誰でも吹けるようになるものです。私の経験では、公民館などでの講座で修了まで続けた方のほとんどはメロディを演奏できるようになっています。
皆さんも、心に沁みる素朴な音色にトライしてみませんか。
静岡新聞 夕刊コラム「窓辺」 3月31日掲載 溝口忠博
幸せと喜び
講演などで「草笛を吹くと幸せになれる」と話すと、あまりの我田引水に皆さんに笑われます。 もちろん冗談なのですが、全く見当違いというわけでもありません。自然への入り口は草笛でなくてもいいのですが、自然界の大きさを知ればこの世に生まれてきたことがどれほどの幸運か実感できると思います。樹木など、毎年何百何千の種を実らせながら、生涯に残せる子孫は平均すれば1本前後です。人も一人が生まれたことで生まれることができなかった兄弟が何億もあります。 このように「命」は生まれないことが普通ですから、この世に生まれただけで奇跡的なことです。その幸運を思えば、あらゆること(人にも自然にも)に感謝できるのではないでしょうか。すべてに感謝すれば必ず幸せになれると思います。嘆いても憎んでも幸せになれませんが、感謝すればその日から幸せになれるはずです。
病気の苦しさに感謝するのは無理かもしれませんが、そんな時でも空気を吸えることに感謝するしかないような気がします。
人生において「幸せ」と「響き合う喜び」は共に求めたいと願っていることですが、後者はすぐというわけには行きません。
趣味の場合でも、何かを深く極め、深い喜びを味わうまでにはそれなりの積み重ねが必要です。心の世界を広げるために努力し、真心を込めたふれあいを重ねることで豊な喜びを受け取ることができるのだと思います。
静岡新聞社から機会を頂き、拙文を読んで頂いたことに心から感謝します。「魂を受け取った」とのお手紙など、さまざまな励ましをくださった方々にも紙面をお借りしてお礼申し上げます。
ありがとうございました。