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ハマム(トルコ銭湯)
【8月29日・木曜日】
 風邪を引いて10日も経つというのに、いまだ咳も止まらず、声はしわがれ、いいとこなしである。それなのに食欲だけはたいしたもので、夕飯もたいてい外食でお腹いっぱい食べているので、症状の悪化だけは防いでいると思う。
 私はよほどの重症でもない限り、布団の中で寝ていられないたちで、では起きたからといってまめまめしく掃除したり片づけものをするほどの元気はない。しかし今日こそはハマムに行って暖まってこようと思った。
 午前中は前日分の日記書きに追われていたので12時半頃家を出た。私の住むベイオウル地区にはハマムやサウナが多い。イスタンブール新市街随一の繁華街であるからだ。ことにこの狭いチュクルジュマ周辺には、ツーリストに有名なガラタサライ・ハマムを始め、アー・ハマム、チュクルジュマ・ハマム、フィルズ・アー・ハマムと4つもあり、男性専科のサウナなども幾つかあった。
 
 ガラタサライは観光用なので男湯・女湯に分かれているが、アーとフィルズ・アーは昼間が女性用、夕方からは男性用となる。私の家のすぐ筋向いのチュクルジュマ・ハマムは聞くところによると、特別の趣味を持つ殿方専用なのだそうだ。引っ越してきたばかりの3年前、「あ、こんなところにハマム。近くていいや」と洗面器を持って「開いてますか〜」とドアを押して入っていったら、「バ、バヤン、ここは男だけなんだよ」と胸毛もしゃもしゃのおじさんが慌てて手を振った。
 そんならそうと書いとけよ、と思ったが、どうやら知らないのは私だけだったようだ。
そもそも10年前に初めてトルコに来たとき、当時ツーリズムの会社をやっていた娘が「親孝行の真似ごと」と言って、オスマン朝時代の、スルタンの妃が造らせたという由緒正しいチェンベルリタシュ・ハマムを30分借り切ってくれたので、薄暗い銭湯内で中央の大理石の台座に裸で横たわると、大きな丸天井の穴から、青く輝く星まで見えそうだった。
 
 昨今の不景気でどこのハマムも客が減り、垢すりのおばさん達もお茶を引いていることが多い。95年にイスタンブールに引っ越してきたとき借りた家で、台所の改築工事のため半年もお湯が使えなくなり、私は週に2度3度アー・ハマムに通っていたので、おばさん達とはすっかり顔なじみだった。
ヒッタイトの土偶(小アジア中央部に栄えた昔の王国の跡から出土した女性の人形)のように、お腹とおっぱいの巨大なおばさん達の前では私でも小さく見える。昔は10人以上いたおばさん達も今や5人に減り、サロンを中心に2階、3階にもしつらえられた脱衣室も、こと女性の時間帯では無用の長物になってしまった。男性の方がまだ利用客があるような気がするのだが、夜はいかに私でもまさか覗きにいかれないから男性客の入り具合はわからない。
垢すりのおばさん達はみんないい人だが、サロンにいる雑用係の女が、客がくしゃみをしてもチップを要求するのではないかと思うようなクレクレ女だ。いやらしい目つきで擦り寄ってきて、さきにチップを出すと下へもおかずもてなし、出さなければサービスのゴムスリッパも投げて寄越しそうなタイプなのである。彼女がにんまりと流し目をしながら、怪しげな黒いレースのショーツとか、真っ赤なスリップなど売りつけに来たり、チップを無心に来て脱衣室のドアを力まかせに開けるたび、私は少し寒気がし、この女のせいでアー・ハマムが客をなくしたんではないかと疑いたくなる。
私も今までにも何度か、「もう2度と来るもんか」と思いながら帰ったことがあるが、実のところ、今度はどんなえげつないことを言うだろうと、けっこう楽しみに出かけている自分に気づいてしまった。

ハマムでは忘れられない思い出がもう1つある。97年春のことである。ラマザン(断食月)開けのお祭り、シェケル・バイラムで、或るお店のママさんと温泉にでも出かけるかということになった。船でアジア側に渡り、バスか鉄道で330キロ離れたエスキシェヒール市まで行くと、イスタンブールにはない湯船にたっぷりとひたれるハマムがあるのだった。
一泊の予定で友人に犬の散歩と餌を頼み、ママさんと2人でフェリーに乗った。あいにくアンカラ行きのエキスプレスは空席がなくて、鉄道は諦め長距離バスに乗った。女がおしゃべりしながら旅をすれば5時間や6時間はたちまち過ぎる。
ホテルに着いて少し休んだあと、町の女性用ハマムまで出かけて行った。今は改築されたかもしれないが、古いハマムでは石段を降りて地下牢に入るように、腰をかがめながら扉をくぐり奥に進むと、やがて湯気の向こうに1坪程度の湯船が中央にある流し場に出た。
ハマムは混雑していたが、私達がたどり着いた途端、場内が真っ暗になった。停電だった。モーターが止まってカランからお湯も水も流れなくなり、みんなわれ先に湯船に飛び込んだので、お湯は大量に流失してしまった。
天窓から差し込む明かりに目が慣れると、みんなは少しずつ落ち着きを取り戻し、たった今入ってきたばかりで、まだ掛け湯もできないでいる日本人の女2人を見ると、誰かが
「ちょっとみんな、遠くから来たお客さんがいるんだよ。この人たちに風邪を引かせては私達の恥じゃないの?」と言った。
「そうだ、そうだ」と湯船の女性達が幾人か外に出て、私達を湯につからせてくれた。しかしみんなが上がってしまうと、湯船にはもう汚れた湯が半分以下しか残っていなかったのである。風呂場の片隅に湧き湯の口があった。そこからは少し熱いがきれいな湯が出ている。幾人もの人が手桶に湯を溜めてリレー式に私達のところに送ってくれた。傍らの人たちは遠慮する私達の背中を流してくれたり、話し掛けたりしてくれた。
 こうして、湯船たっぷりの温泉につかる目的は果せなかったが、みんなの心遣いに暖められて私達は途中の食堂で焼き肉料理を食べ、宿に戻った。エスキシェヒールの町はあいにくその日、水道本管の破裂と停電というダブルパンチで、どこのハマムも休業を余儀なくされたらしい。
 翌朝6時に起床し、7時発のイスタンブール行きのバスに乗った。夕方のバスが満席でとれず、その前、その前と繰り上がってきたら、何と朝1番のバスにしか空席がないのだった。何のために行ったのか分からない旅行だったが、或いは何ごとも起こらず順調に湯につかるよりもなお、心に刻まれた温泉探訪だった。
2002年08月30日 08時36分21秒

エレベーターと犬
【8月28日・水曜日】
 去年のクリスマスに昇った横浜のランドマークタワーは、高速エレベーターが69階の展望台まで40秒で客を運び上げるという。1秒間に約7メートル昇る勘定だ。
 私の住んでいるアパートは1968年竣工となっているので、築34年もの。それでもちゃんとエレベーターがついているのだが、
これがゆっくりとガタゴトと4階のわが家に
約12,3秒かかって昇るのだ。
イスタンブールには、アガサ・クリスティーがオリエント急行殺人事件を執筆するのにこもったという有名なペラパラス・ホテルがあるが、110年前に築造されたそのホテルの、世界最古といわれるクラシックなワイヤーむき出しの鳥籠型エレベーターなども、ゆらゆら揺れながらゆっくりと昇降する。

 トルコでも近代的なビルやホテルはちゃんと二重扉で安心だが、少し前の建物や、17、8階建ての団地アパートのエレベーターになると、安上がりに造るため、扉は各階の入り口にだけついていて、エレベーター自体はコの字型のゴンドラである。
 各階の扉はふつうそこにエレベーターが来ていなければ開かないようになっているのだが、運悪く間違って開いてしまうこともあるらしく、ひょいと足を踏み出して下まで転落してしまった話もたまに聞く。
 トルコでもっとも人気のあるニュースキャスター、司会者として知られるアリ・クルジャもその1人で、幸い一命はとりとめたが、脚などを骨折して長い間ベッド生活を余儀なくされたものだ。

 ところでわが家のあるアパルトマンのエレベーターの扉ときたら明らかに設計ミスで、一つの階に廊下を挟んで2軒の家があるのだが、片方の家の入り口に向かって開くようになっているのである。廊下は幅90センチくらいなので、エレベーターの扉を開けるときは向かいの家の入り口の角にぴたりと体をつけていないと、特に私などお腹に力を入れてへこませていないと、僅かな隙間から乗り込むのは至難の業である。
 お向かいさんはまたエレベーターから降りないうち自分の家の扉を開けないと、降り立つ場所がない。私は降りたらお腹を引っ込ませ、廊下の角にぴたりと張り付いてエレベーターの扉を閉めないと廊下を歩けないのである。まったくもう、と日に何度か乗り降りするたび、各階の全部の家の人が苦情たらたらに違いない、と思うのだが、これがまたそうでもなくて、私の階は特に廊下のタイルに凸凹があって、扉が直角にしか開かないから不便なのだった。これを無理に押し開けると、鉄の扉が石のタイルをこすって脳天に響くようなきしり音が出るのだ。しかし大きな荷物があるときはやむを得ない。

何年か前の早朝、娘が日本に行くときスーツケースを乗せるのでエレベーターの扉を全開にする必要が生じた。まだ寝ている他の住人に遠慮しながら、そろそろと扉を押し開けやっとスーツケースを乗せたが、閉めないとゴンドラが動かないのでまた騒音を発して閉めた。
 夜が明けるとさっそく向かいの家からおばあさんとその娘さんがやってきて、今後一切扉を全開にしないこと、ついでにビクターをエレベーターに乗せないこと、と2項目を強硬に申し入れてきた。私も当然反論する。
「私達も早朝から騒音を立てて申し訳ないとは思いましたけど、あれだけいくつもの重い荷物を階段で下ろしていたら、もっと騒々しくなって迷惑だし、だいたいその扉が嫌な音を立てるのは私達のせいではないでしょう。毎日毎日音を立てているわけでもなし、娘が明け方に出て行ったのも飛行機の関係でどうしようもありません。もちろん今後ともあり得ることです。とにかく眠りを妨げたことはお詫びします」
「あと、ビクトルをどこかに預けるなり、よそへ貰ってもらうなり出来ませんか。私達の信心している宗派では犬はタブーなんです。犬のさわったところに自分達のスカートのすそが触れただけでも穢れになって、お祈りを捧げられなくなるんですよ」
「何をおっしゃいます。ビクターは私にとっては息子も同然です。もし、お宅の隣人がお宅の息子さんを見て、私の信心している神様がお気に召さないから、どこかへ養子に出して下さいと行ってきたらあなた、どうします」
「でもビクトルは犬じゃありませんか」
「犬ですよ。正直なおとなしい犬です。自分を襲う敵以外には牙をむきません。お宅の信仰するイスラムでは、世の中のすべてのものはアラーがお創りになった、と言うでしょう。それなら犬もアラーの創造物ではないですか。どうして愛情を注いでやれないんですか」
「でも私達にとっては穢れになります。昨日も実はエレベーターの中に犬のおしっこがあって、カプジュがビクトルだと・・・」
「何ですって。カプジュをここに呼んで下さい。昨日は朝早く散歩をさせたので、その後ビクターは一歩も外に出ていないのです。私も家にいませんでしたよ。娘と一緒に日本への土産を買いに出ていましたからね。私達の留守中に、ビクターが1人でどうやって家の鍵を開けて出たんですか、エレベーターを呼んで重い扉を開けて中でおしっこまでしたんですか。さあ、聞きましょう!」
 
 ビクターに濡れ衣を着せるなんて許せない。カプジュ(アパルトマンの用務員)がやってきて、思い違いだとあやまった。向かいの家も要求を取り下げた。カプジュはそれから1年以上も経った或る日、老いてとぼとぼと歩くビクターをみて、
「ジャポン・テーゼ、そろそろビクトルを挽肉にしたほうがいいんじゃないか」と幾人かの近所の連中の前で言い、みんなを大いに笑わせるつもりだったらしい。だが私は、
「無礼者! この間お前の息子が熱を出したとき、私がケーキを買ってお見舞いしたのを忘れたか。今度あの子が病気になったら、早く挽肉にしろ、と言ってやるから覚えておけ!」と厳しい口調できっぱりと言い渡した。
 カプジュも回りの男達も、はっとしたように居ずまいを正して「あやまります」と言った。ふだん滅多に怒った私を見たことがないので驚いたらしい。実はけっこう怒っているんだけど・・・
 
 しかし嬉しかったのは、お向かいさんが、いつのまにかベランダ越しにビクターに声をかけてくれるようになり、去年の4月ビクターが死んだときは、お悔やみにまで来てくれたことだ。
 しかしあのときのエレベーターの中の水分は何だったのだろう。大いたずらのカプジュの息子や娘の影がちらつくが・・・あり、かも。
2002年08月29日 16時45分32秒

リーさんの中華食堂
【8月27日・火曜日】
 日曜日に、元気おじさんプランナー氏が泊まったペンションで出会ったメイヨーさんとは、1998年の春、娘と一緒に初めて訪れたリーさんの中華食堂で知り合った。
 97年の夏、中国の吉林省からイスタンブールにやってきたリーさんと妻のマオさんは、オリエンタル特急の終着駅として歴史に名を残すシルケジ駅からもほど遠からぬ場所で、小さな小さなスペースを借りて中華食堂を始めたのである。
 マオさんはそんじょそこらのコックなど足元にも及ばぬくらい料理の達人だった。しかし2人ともトルコ語も英語も喋れない。店は開けたものの看板もないので当初客は全くつかなかったようだ。ところがここを通りかかった日本人のバックパッカーが気づき、食べてみたら激うまのめちゃ安ときて、たちまちスルタンアフメットのゲストハウスやペンションに泊まっている仲間達にひろまった。
 メイヨーさんもその最初のお客の1人で、中国語の喋れる仲間とともに、いろいろな形で応援しようと言うことになったようだ。
 幾人かがボランティアを買って出て、何時間かずつウエイターをしたり、皿洗いをしたり。メイヨーさんは中東や東南アジアの旅を繰り返し、さる旅行雑誌に自分のコーナーを持っているほどの人だから、スケッチやイラストも得意、店のパンフレットや日本語メニューなどを作って協力してきたのだった。
 
 娘と私が初めてリーさんの店を訪れることになったのは98年の2月で、我がかせレストランに皿洗いとしてバイトに来ていたバックパッカーの青年から何度も勧められて、或る日曜日ようやく重い腰を上げたのだった。
 行ってみると店の中は4つくらいしかないテーブルに大勢のお兄ちゃん達がはりついており、カーテン1枚で仕切られた台所からは、チャーハンやら炒め物を作っているらしい鍋の音が忙しく聞えていた。
 中国語の達者な男の子が、かせレストランからのお客さんですと、主人のリーさんに取り次いでくれたので、私は名刺と自分の店のパンフレットを差し出して挨拶をした。
「ニーハオ(こんにちは)」「シェイシェイ(ありがとう)」くらいしか互いに通じ合う言葉はない。リーさんのトルコ語はまだトルコ語以前の感じで、言葉も知らずに商売を起こした中国人の旺盛なチャレンジ精神には脱帽させられた。

奥の方のテーブルの青年達が詰めてくれたので私達はそこにすわり、ビールを頼んだらリーさんは隣のバッカル(トルコ式コンビニ・雑貨屋)から買ってきて注いでくれた。酒類販売の許可がまだ下りていないのだった。
 2つ3つのアラカルトを取ったのだが、料理は絶品と言っても過言ではなく、私と娘は思わず顔を見合わせた。
 その日から日曜になるとどちらからともなく「リーさんちに行こう」と言い出し、旅をしているたくさんの若者とも知り合うことになった。そうした或る日、陽気もよくなってきて、リーさんの店はすぐ向かい側にあった小さなレストランのあとを借り受けて移転したのである。前の店からするとかなり広かった。看板も出来、中華風の赤い雪洞や飾り物もつけられて、食堂としての体裁が整った。
 こうなると私は自分の店に来るお客様にも安くておいしい中華を味わってもらおうと、地図を書いて紹介につとめ、友人達の殆どを連れて行って実際に味わってもらった。
 或る日、また娘と食べに行くとかねてから知り合いになっていたメイヨーさんがいて、食事の後7、8人の仲間とともにぞろぞろとペンションまでついて行った。気候もよし、中庭で十何人かの若者達と同年代の娘とは気が合って、夜中まで旅行談義に花が咲いた。

それから程なく、6月の半ばに私のレストランがガス爆発で跡形もなく消え失せてしまうという事件が起きた。想像を絶する事件に遭遇したら、かえって肝が据わったというか慌ててもどうにもならないので、翌日はスルタンアフメットに出かけ、日本の古陶磁器展を見た。心静かにマロニエや鈴懸けの大木の下で1人涼を取った。
世界遺産に指定されているこの風致地区で、千古の歴史を秘めたアヤソフィア博物館や、オスマントルコの栄華を誇るブルーモスクなどを見ると、昨日今日のガス爆発くらいたいしたことではないような気がした。

日暮れる頃、歩いて6〜7分のペンションまで行ってみた。爆発で店がなくなった話をしたらメイヨーさんの方が驚いた。夕食にはやはりマオさんの料理でも食べようと出かけて行った。リーさん夫婦のトルコ語はこのころ少し通じるようになっていたのだが、それでも私は店の爆発事件については漢字をいっぱい並べて筆談で説明すると、意味が通じたらしく、おおいに嘆いてくれた。
1ヵ月後、再建なって私のレストランは7ヵ月前に開店したばかりにもかかわらずまたお披露目パーティを催した。同業者の寿司レストランのママさんや常連のお客さん、友人達、そしてペンションからオーナー夫人やアイシェさん夫妻、子供達、リーさん夫妻などなど、たくさんの人が駆けつけてくれた。

私にいろいろあったと同様、リーさん夫妻も順風満帆というわけに行かず、何度も危機に直面したらしいが、どうやらお店を持ちこたえさせ、一方で中国雑貨の輸入を始めた。この仕事でも税関や弁護士に何度も騙されたということだが、懲りずに続けて最近は食堂よりも雑貨輸入の方がいいのだという。
中国にはリーさん、マオさんの双方の親達と自分達の子供2人がいる。下の子は中国の一人っ子政策の規制が及ばないイスタンブールに来てから授かった子だ。養うべき口をたくさん抱え、5年にわたって奮闘してきたリーさん夫妻を見ると、どうも他人のような気がしなくて、つい中華を食べに出かけてゆく気になるのである。

今日27日はメイヨーさんが仲間を連れてくるから一緒にご飯を食べましょうという。もちろん私に異存はなくて、昨日も今日も連チャンで中華料理。8月はマオさんが中国へ子供達に会いに出かけているので、彼女の姉のルーさんが来ている。いずれはこのルーさんも夫や子供を呼び寄せてイスタンブールで働くのだという。
彼らを見ると人間は知らない土地に行っても何とか暮していけるものなのだなあ、とつくづく思う。たんぽぽの綿毛のように頼りない思いで風に飛ばされてきたとしても、大地に落ちればしめたものなのかもしれない。あとは自分で芽を出し、根を張ることが必要だけど。
2002年08月28日 20時48分36秒

スイカ その2
【8月25〜26日・日〜月曜日】
 夜中に2度ばかり寝汗で濡れた下着を取り替え熱いシャワーを浴びたので、朝はいくらか気分がよくなった。
 ゆっくりおきて前日分の日記を書いていたら大阪から来られた自称「更生念勤社プランプランナー」さんとおっしゃるおじ様から電話が来た。大阪での私の講演会と懇親パーティに参加してくださった方で、いただいた名刺にはなにやらいっぱい書いてあって、ユーモアたっぷりのお方のようだ。
 京都の日本トルコ文化協会でトルコ語の講座も受け、毎年11月中旬に行なわれるユーラシアマラソンにエントリーし、ボスポラス海峡にかかる大吊り橋を走りたいという長年の夢をかなえるためについにイスタンブールにやってこられたそうである。観光ビザで滞在できる3ヵ月、目いっぱいいろいろなことに挑戦したいという意欲が溢れている。
 
 12時半にタキシム広場で落ち合った。プランプランナー氏は今日マラソンに出るのかというくらいスポーティな格好で、背中には使い込まれた愛用のリュックが一つ。
「迷惑をおかけしてはいけないから、場所さえ教えてくれれば自分で何でもします」、としきりにおっしゃる。でもイスタンブールは生き馬の目を抜くというほどの街、私もそうだったのかもしれないが、張り切っている人ほど狙われやすいのである。
 最初のプランではイズミール(イスタンブールから450キロ南下したエーゲ海沿いのトルコ第3の港湾都市)で1ヵ月トルコ語を勉強し、拠点をイスタンブールに移してトルコ語学習を継続し、マラソンに出る、その間に奥さんが1週間ほど見えるのだそうだ。イズミールのことは私には分からないが、イスタンブールのトルコ語学校と、宿に関してならお手伝いできる。
 あのスイカ友達のエムレさんに電話してみると、「マダムのお友達で、1ヵ月以上の連泊なら、一晩○○ドルでいいですよ。その上朝食もつけて大サービスしますよ」と言う。ここには明記できないがまさかと驚く価格だった。彼が任されているホテルはアクサライという地区にある4つ星の老舗だ。夏場は満員のことが多い。しかもタキシムまでバスで10分程度。カメラマンのラファさんも泊まって大いに気に入ってくれたホテルで、どの部屋も非常に清潔だった。
  
タキシム広場に近い、8年前に私も通ったトルコ語学校に行ってみると、日曜にも関わらず昔馴染みの先生がいて、プランプランナー氏の意欲に感心して、丁寧に授業の時間割などを説明してくれた。
 そのあとまた広場に逆戻りし、アクサライを通るバスに乗って、エムレさんのホテルに部屋を見に行った。ホテル自体はデラックスでも何でもないのだが、清潔な調度品を置いた明るい部屋を見て、プランナー氏も大いに気に入ったようだ。エムレさんは部下に後を任せて私達をスルタンアフメットの広場まで自分の車で送ってくれた。プランナー氏が本日の宿にしているのは、日本人バックパッカーが集まるので有名なペンションだった。私も実はそのオーナー夫婦とは長い付き合いがあるので、久々に訪ねてみることにした。

 オーナー夫婦の奥さんは日本人で、日本で絨緞や土産物の店を持っていて、年に一度本店であるイスタンブールの店やペンションの様子を見にやってくる。そしてペンションはオーナーのお兄さん夫婦が管理していた。奥さんのアイシェさんは泊り客達と、宿の前の道路にテーブルを持ち出してお茶のみをしていたが、私の姿を見て大いに喜び、今出来上がったばかりのヤプラック・ドルマス(ぶどうの葉のピラフ詰)という代表的トルコ料理を山盛りにして全員に振舞ってくれた。
 小腹が減っていたのでありがたく頂戴し、4年半前に知り合ったメイヨーさんという青年がまたイスタンブールに来て泊まっていたので、四方山話に時を費やし、6時過ぎに今月の最後のお客様にいとまを告げ、ペンションの皆さんとは再会を約して今度はジェイハン君の家に向かった。別れ際にプランナーさんが奥さんからの心づくしである京菓子の入った可愛い包みを持たせてくれた。私は大切に袋に詰め、ケーキ屋を探して手土産のエクレアを買い求めた。
 イスタンブール郊外の、空港に近いジェイハンの家に行くのは1年ぶりだった。ハンサムで穏やかなユーモリストのお父さん、ギリシャ系か東欧系の美女らしいお母さん、サッカー選手を目指す気のいい弟。自由な気風の中で育ったジェイハンは、両親の相手思いの人柄を継承していた。
鳥の胸肉を叩いて卵黄やパン粉をつけ、やわらかく揚げたシュニッツェルにトマト味のマカロニを添えたメインディッシュのほかに何だかんだと拵えてくれたようで、このところダイエット、ダイエットとお題目のように唱えながらもつい食べものの誘惑に打ち勝てない私は、また黒星を重ねて重くなったおなかを抱え、ジェイハンがちょっと頼りなく運転する車で家まで送ってもらった。彼の両親は25年余り手塩にかけた息子が、まもなく手もとから遠く離れて行くかもしれないことに大いなる覚悟を決めたようだ。そこには自分達の育てた息子を限りなく信頼する愛情とゆとりがはっきりと見てとれた。

月曜日の夕方はエムレさんが私にご馳走してくれることになっていた。しかし、私は考えた。中華料理というまったく行ったことのない店に案内して、日頃私を大切にしてくれるお礼に、たまには私の方からご馳走してもいいかな、と。8時15分ちょうどに、私がもっとも気楽でもっともおいしいと思って通うリーさんの中華食堂に着いた。ほどなくエムレさんも来て、道路に置かれた涼しい席で、何種類かの料理をとり、久々に話が弾んだ。
 14歳のとき、両親が離婚してしまい、どちらにも引き取ってもらえなかったエムレさんは、あるホテルで住み込みのベルボーイとして働き始め、英語は自習で覚え、二番目に勤めた今のホテルでレセプショニストになり、私のいたヴィラ・フィルゼではフロント・マネージャーとして栄転したはずが、支配人のでたらめシフトの犠牲になって、古巣の今のホテルに戻ったのだった。25年の経験を生かしホテル全般に睨みを利かせているので、オーナーの信頼は厚いようだ。

 料理を食べ終わる頃、中華料理店の店主から、私達へ特別サービスがあるとボーイのボア君が伝えてきた。何だろうと思っていたら、ぶどうや桃で飾りつけられた大きな皿に山盛りのスイカが出てきたので、大いに3年前のスイカ三昧を思い出してしまった。もう一生分のスイカを食べたような気もするのだが。
2002年08月28日 00時44分45秒

帰り道
【8月24日・土曜日】
 披露宴がお開きになったのは12時半を回る頃だった。8時からの予定が実際新郎新婦が入場して始まったのが9時だから、3時間半式場にいたのだが、彼らの誓いや署名のあと、ケーキカットが済むと「タク」といって花婿側の親戚は花婿へ、花嫁側の親戚は花嫁へ、友人達もそれにならって、それぞれ持参の純金(金貨風)や、現金やブレスレットをつけてやる儀式が1時間半もかかってしまった。
 式場の2階まで埋め尽くされた来客にはタクが済むまで水1杯すら配られてこないので、
手持ち無沙汰な人々がさかんにひたすらに煙草に火をつける。私はコンサート以来風邪気味で喉が痛いところへもってきて、私のいる席にはまた格別煙草を吸う人ばかりだったので、場内はもうもうと煙っているが逃げようもなかった。

そのうち6人で一皿くらいの間隔で、クッキーが配られたが、小さなクッキーが6つ7つ載っているだけなので、おなかをすかした子供達優先で、大人たちの口には殆ど回ってこなかった。会場ではダンスが始まったが、私の頭の中では水のペットボトルがぐるぐる回り始めた。やっとのことでウエイトレスの女の子達がプラスチックのコップに7分目ほど継がれたコーラを運んできた。殆どの人が一気に飲み干してしまい、何もなくなったあと消しゴムくらいの大きさにカットされたケーキが3つくらいずつ皿に載せたのがまばらな間隔でテーブルに置かれた。
 これでは手の出しようもない。横目でチラッと見ただけで食べずにいると、前に座った人が取ってくれたのでようやく1つありついたが、隣のテーブルでケーキを食べ尽くした子供達が遠征してきたので、たちまちなくなってしまい、私のいるテーブルではメリエムばあちゃんと私だけがケーキを口にすることができたのだった。ファトゥシュが言った。
「去年の結婚式はうちの方が嫁取りだったんで、披露宴はうちの方持ちだったでしょ、食事もオープンビュッフェでアルコールも飲み放題にしたのよ。だからみんなお酒が入って陽気になって楽しかったのよ。ほんとに去年来たらよかったのに、カセさん。来年は姪の長男が結婚するし、その次はインシャーラーうちの息子か、甥の長男が式を挙げるからね。あなたこれからは、うちの親族の1人としてどの結婚式にも参加してやって」
 ファトゥシュの一族側が主催ならヨーロッパ風な披露宴をやるのもうなずける。彼女の一人息子セルカンはこの6月、名門の中東工科大学をめでたく卒業して、建築技師の見習いとして両親の故郷、トルコ中央部のエルビスタンに建設中の、火力発電所の第二次プロジェクトチームに参加したのである。
僅か数年の間に、苦労して育てた病弱な二人の娘と夫を相次いで亡くしてしまったファトゥシュにとって、彼は唯一の希望の星だった。それにこの一族の仲の良さが、ファトゥシュの孤独感をどれほど救ったことだろうか。彼女の周囲には甥、姪、甥の子、姪の子、など年齢が息子のセルカンと似たり寄ったりの若者や娘達がたくさんいて、どの子も昔小学校の先生だった、悲しみに負けない朗らかなこの叔母さんを慕っている。

しかし私がファトゥシュと知り合った頃は、夫に急死されたあと何年もしないうちに、下の娘も亡くした彼女が人生で最悪の時期にさしかかったところだった。オヌル・ケータリング・サービス社の日本人顧問だった緑川守さんの完全帰国に伴い、緑川さんに後を託された私が、いわば選手交替という形で引き受けることになったのだが、紹介された席で、型通りに握手し頬ずりをしながら抱き合う女同士の挨拶はしたものの、難しい顔をした彼女の目は私を見てはいなかった。どこか遠いところにあった。
 それが今では何でも語り合える仲になり、彼女の超過密な一族相関図が頭に入っているから、アンカラに行っても、エルビスタンに行っても、今回のようにチョルルに行っても、あの青年はファトゥシュの何番目の姉の息子だとかこの娘は姪の娘だとか、ひととおり理解できる。ファトゥシュの夫アフメットさんもいとこ同士なので、彼の側の親戚も結局はファトゥシュの親戚なのである。

若い頃は1度紹介された相手の顔や名前は滅多に忘れないのが私の特技であった。銀行や千葉県のさる市役所にいた頃は歩く郵便局とか、歩く電話帳とか言われ、それほどよく他人様の住所や電話番号や誕生日を記憶出来たのだが、最近は極端に能力が低下し、トルコ人の名前をこちらから聞いて、○○と答えが帰ってくると、忘れないためにああ誰々と同じだと思うようにして覚えるのだが、その晩のうちにもう忘れる。忘れないために誰々と同じ、と思ったのに、その誰々が誰だったかを思い出せないのである。
まったくもう、パソコンなら新しい機能をインストールしながらグレードアップがはかれるのにね。

 メヴリュット家にはメリエムばあちゃんやファトゥシュ、そのほかの親類や昔の隣人の家族や私など女ばかりが8人くらい泊まることになったので、メヴリュットさんは女性軍団に家を明渡し、長女夫婦の家に泊まりに行ってしまった。夜中の3時近くまでサロンでお茶飲みしながら新郎新婦の噂や、四方山話に時を過ごしていたが、咳が止まらなくなってきたので一足先に休ませてもらった。
前の晩まで末娘のいた部屋は綺麗に片付いて、彼女の寝ていたベッドに私は横になった。翌朝10時になっても誰も起きてこないのでシャワーを浴びさせてもらった。寝汗をびっしょりかいていたのである。
「カセさん、薬を飲む前におなかに何か入れないとだめよ。ほら」とファトゥシュが起きてきて私にトマトとチーズをきざんでくれた。まもなく全員起きてきて賑やかに朝食となった。メヴリュットさんの奥さんやファトゥシュが寝る前に仕度しておいたのだという。本当は日曜いっぱい滞在していくように勧められていたのだが、体調が悪いのと、日本から知人が来ることになっているのでイスタンブールに戻ることにした。
 ニメルさんはファトゥシュの一族が昔まだエルビスタンにいた頃、隣同士で暮していまだに親戚付き合いしている。ご主人は建築設計技師で、火力発電所の仕事の後、幾つもの大掛かりな建築現場を担当して、今はトルコ近隣のカザキスタン(カザフスタン)で大統領府の建設に当たっているのだそうだ。
 そのニメルさんは息子の婚約者デニズを連れ、娘のセーダの運転する車でチョルルに来たという。
「お帰りなら私達と一緒にどうぞ。私達はアジア側のカドゥキョイですから、橋を渡る前にタキシム広場に行くバスかメトロの乗り場で降ろしてあげますよ」と彼女は言った。私は親切に甘えることにした。昨日乗ったチョルル行きのバスはたった4百万リラ(305円)だった。信じられない安さだが、新しく知り合った人々との旅も楽しい。
午後3時メヴリュット家を発ち、長男の、去年結婚式を挙げたハールンとチイデム夫妻の家に寄ってコーヒーをご馳走になり、17階の高層マンションからの眺めを堪能した。私の出席できなかった結婚式の写真やビデオを見せてもらい、どの部屋もピカピカに掃除が行き届いているのにも感心してしまった。
トルコでは妻達が家の中を塵一つ落ちていない状態にしておかないと失格なのである。働いている女性は時間がないので掃除人を週1度とか月に2度という頻度で契約している。働いていなくてもお金のある人は掃除のおばさんを毎日呼んで洗濯やアイロンかけや植木の水やりまでさせて自分は何もやらない。

帰りの車中は女4人で賑やかに1時間30分が過ぎた。私が何度か咳をしたのでニメルさんが聞いた。
「実はカヤハンのコンサートの日、大雨で・・・」
 私がそう言った途端、助手席に乗っていたデニズが振り返り、「もしかすると前から5番目の列の左端に、若い日本人男性とご一緒ではありませんでしたか」と聞いた。
「えっ、何で知ってるの」
 私がびっくりしたのでニメルさんが、
「ああ、やっぱりカセ・ハヌム(女性の敬称、さん)あなたでしたか。ええ、デニズは息子と一緒にあの日のコンサートに行ったんですよ。自分達の少し上の段に日本人が来ているのを知って、ずっと注目してたんですって」
ニメルさんがそこまで言うと、デニズは話を引き取って、
「私、何か話し掛けるチャンスがないかと思っていたんですけど、隣に息子さんか友人か、とにかく男の人がいたので遠慮したんです。夕べお会いしたとき、ちょっとコンサートで見かけた方に似てるなって思ったんですけど、でもまさかこんなところでまたお会いできるなんて、奇跡みたい」
「それはすごいわ。私ね、こういう不思議な出会いがいっぱいあるんですよ、今までにも」
 日本で昔、南国娘ふうの健康さが売り物で人気のあった南沙織という歌手がいた。デニズはまさにそんな感じのチャーミングな23歳の女の子だった。
「カセ・ハヌム、これも何かのご縁でしょうから、ぜひいつかうちにも遊びに来てください。そうだわ、弟とデニズの結婚式に来てくださいません?」
 運転していたセーダが言った。お母さんのニメルさんも、息子の婚約者がいい記憶をしているのをほめ、私に向かって、
「私からもぜひ息子達の式に来てくださるようお願いしますよ。来年夫がカザキスタンから戻ったらすぐに式をするつもりでいるんですよ」

 思いがけず、また別な結婚式に出ることになりそうだ。それにしてもカヤハンのコンサートで私に注目していた人にこういう形で再会するとは。もう道でアイスクリームの立ち食いをしたり、タクシーの運転手と喧嘩するのはやめないとまずいなあ。
2002年08月26日 22時31分37秒

花嫁の父
【8月23日〜24日・金〜土曜日】
 家からタクシーで、旧市街のメトロ、アクサライ駅に行き、オトガル(長距離バス・ターミナル)まではメトロを利用することにした。アクサライ駅まで直接行かれる乗り物はタクシーしかない。
 運転手が「どうせオトガルまで行くなら、このまま直行しようよ。俺は今日まだ水揚げが少なくて困っているんだ」と言うので、「そうしてあげたいのも山々だけど、私も節約をしながら暮してるから駄目なの」と答えた。
 長年付き合いのあるジハンギル・タクシーを呼ぶと、メーターをごまかしたり、助平な話をする奴はいないから安心なのだが、短い距離のときは悪いから呼ばないようにしている。アクサライは近くも遠くもなくて、4百万リラ(305円くらい)ほどだから呼んだのだが、7、8年来の顔なじみと来れば時には運転手も本音でこうしたことを言うのである。
「その代わり、私が降りたらすぐに違う客がつくよ、保証してもいいよ」
「インシャーラー!」
 運転手はそれ以上しつこくは言わず、アクサライ駅に着くと、私の言ったとおりすぐに替わりの客がついたので、機嫌よく去っていった。
 旧市街のメトロは3つ目の駅からは地上を走るので利用者は非常に多い。いずれはタキシムからアクサライにジョイントし、空港まで路線が延びるのだそうで、そうなったら実際の出入国よりも、出迎えや見送りの多い私にとっては便利だし安上がりになる。何年先の話だかわからないが。
 
 オトガルに着くとチョルルに行くバスはいい具合に5分後にあって、私はファトゥシュに電話を入れ、1時間半から1時間45分くらいの後チョルルのオトガルに着くと予告しておいた。
 バスが出てしばらくすると、ハルカルという地区に建設された一番新しいアタテュルク・オリンピック・スタジアムが切り崩された丘の向こうにチラッと見えた。
 ガリレオが発明した飛行機のデッサンに似た、突飛な格好の屋根のついたスタジアムなのだが、あいにくアクセスを考えずに造ってしまったらしく、柿落としのガラタサライの試合には、交通渋滞が激しくて試合開始までに会場に着いた車はごく僅かで、30分くらい試合開始を遅らせたのだそうだが、結局諦めて帰ったとか、途中で車を捨て徒歩で丘を踏み越えてやっとスタジアムにたどり着いた人が多かったんだそうな。
去年の1月、アジア側の郊外に開設したサビハ・ギョクチェン国際空港も、造ったはいいが利用客が極端に少なくて、当時の新聞に寄れば1日に70人とか80人しかいなかったそうで程なく閉鎖になり、その後再開したのだそうだが、はて、今はどうなっているのか気になるところだ。

 バスがマルマラ海のすぐ際を走るシリヴリ地区を過ぎるとひまわり畑が目立つようになり、もうシーズンが終わったので枯れた茶色のひまわりの茎が果てしなく立ち並んでいる。いくらかはまだ花が残ってはいるが、6月から7月にかけての見事な黄色い絨緞はもうない。チョルルの町はトラキア台地の平坦なところにあり、風が涼しかった。周辺に工業地帯が出来るに及んで、小さな田舎町は今はかなり発展して東へ東へと町が延びているのである。
 バスは1時間45分後にチョルルのオトガルに着いた。私を迎えに来たのは、本日の花嫁の兄だった。今日の主役はファトゥシュの長兄メヴリュットさんの末娘で、近所の青年のところに嫁入りするのだそうだ。
 チョルルはファトゥシュが今は亡き夫の跡を継いで社長を務める「オヌル・ケータリング・サービス」の本社があったところで、同社がトルコ第2のシェアを獲得した数年前に本社を首都のアンカラに移転したが、依然としてチョルルの近辺を西の拠点として、幾つもの事業所の厨房を握っているのである。
 8人の兄弟が何がしかの形でこのオヌルの仕事に関わっており、もともとはトルコ中央部のエルビスタン地方の素封家なので、みんな大学卒、男性は機械や土木工学のエンジニア、女性は学校の先生だった。
 兄弟・親戚入り乱れていて、さらに親戚同士で婚姻関係を結んでいるのでややこしい。系図でも作らないと分からないのだが、去年初めてアンカラのファトゥシュの家で、お母さんである84歳のメリエムさんと2日間一緒に過ごしてようやく8人兄弟の全員とその配偶者、子供達、孫達の顔や名前が一致し始めた。
 しかしながらメリエムさんの孫やひ孫が毎年のように結婚式を挙げているので、一族はどんどん増えてゆく。それぞれが裕福な生活をしていて、どの家に招かれていっても広い家や立派な家具調度に目を奪われる。
 ところがこの一族はお互いがとても仲がよく、外から嫁に来た女性の家族、嫁に行った先の家族も全部わけへだてなく付き合っているところがすごいのである。
 メヴリュットさん宅に着く前に、私は貴金属店に寄ってもらい、2つの金貨を買った。
共和国刻印つきの金は、薄い金貨のように作られていて、大きさは3種類あり、12グラムがタム、6グラムがヤルム、3グラムがチェイレッキと呼ばれ、値段は金相場から計算されている。私はヤルムを買ったのだが、1つ2千8百50万リラ(2175円)だった。
 1つはもちろん今日の花嫁のために、もう1つは迎えに来てくれたお兄さん夫婦のためだった。去年の4月、彼が嫁取りをした際にも招待を受けていたのだが、ちょうどビクターが明日をも知れぬ状態のときであった。申し訳ないことながら、娘も大学で昼間はいないから、瀕死の状態に近い犬を留守番に置いて泊りがけで結婚式に出かけては行かれなかったのである。
 もちろん他に行かれない事情を作ってお断りしたのだが・・・

 メヴリュットさんの家に着くと、すでに親戚の人も集まり始めていて、みんなに引き合わされた。メリエムさんも85歳になり、太って大きいので何ごともゆっくりしか動けないが元気だった。大長老として一族から大切にされているのがよくわかる。子供8人、孫18人、ひ孫が私の知っている限りでも12人いる。1、2年のうちにひ孫が増えるし、玄孫(やしゃご)も見られるかもしれない。
 私の母方の祖母には5人の子供、17人の孫、31人のひ孫がいた。玄孫を抱く前に94歳で大往生したが、私はその祖母に育てられたので、おばあちゃんという存在に格別のものを感じている。
 大きな縫いぐるみのようなメリエムさんの分厚い背中に手を回して肩を組むと、祖母の背中の温か味を思い出すのである。

 ほどなく花嫁が美容院から仕度が整って戻ってきた。私は彼女を見るのは初めてだったが、彼女のほうはファトゥシュが来るたび私の話が出るらしく、私のことをよく知っていた。トルコ式に彼女を抱きしめ両頬をすり合わせて挨拶をする。みんなでキッチンやサロンに分かれて食事をとった。
 花嫁もこれから夜中まで食事する時間がないかもしれないので、腹一杯詰め込むように周りから言われてせっせとスプーンを口に運んでいたが、やっぱり興奮が隠し切れなくて実際にはいくらも食べなかったようだ。
 食事の途中でお父さんのメヴリュットさんが外出から帰ってきた。純白のドレスに包まれた末娘を見て、じわっと来たらしく眼鏡を外してハンカチを目に当てる。まもなく賑やかな笛や太鼓の音がして、花婿の車がクラクションを鳴らしながら花嫁を迎えに来た。
 コンボイとして行列に加わった彼の友人達の車もけたたましくクラクションを鳴らす。5階のベランダからみんなで覗くと、随走車は全部で15台だった。花婿の弟を先頭に姉、親戚一同が花嫁を貰い受けるため、サロンに入ってきて、花嫁の両親に許しを乞う、型どおりの儀式が行なわれた。
 メヴリュットさんはロマンスグレーの素敵な紳士であるが、長身を折るようにして娘を抱きしめると、顔を真っ赤にして、しばし涙にむせてしまった。
 夜の9時過ぎから始まった結婚式の最中も彼は柱の陰になった席に座り、新郎新婦が2人の席で市役所の結婚担当職員に宣誓し、台帳に署名する場面を見ようとはしなかった。奥さんがどうとりなしても、晴れがましい真ん中の席に出て行こうとせず、来客の中でムッスリしていた。

 私は35年前、両親と夫の母親のお陰で、ささやかではあるが人並みの結婚式を挙げてもらったのを思い出した。玄人はだしの写真を撮るので親戚からいつもカメラマンを頼まれていた父は、集合写真と新郎新婦の立ち姿だけは神社出入りの写真屋に譲ったものの、あとは俺に任せろとばかりにたくさん撮りまくったが、後日焼き上がったのを見せてもらったら、日頃自慢の腕はどこへやらすべてが大ピンぼけだった。
 
 私は今でも結婚式で泣いている花嫁の父を見ると、ああ、うちの父もおっかないお父さんだったけど、やっぱり文金高島田の私を見て泣いてくれて、レンズが曇ってしまったんだろうなあ、と改めて思うのである。
2002年08月25日 07時01分41秒

小旅行
【8月23日・金曜日】
 チョルルは、イスタンブールから西へ百2、30キロの地点にあり、イスタンブールのバスターミナルを出ておよそ1時間30分くらいの行程である。
 トルコでは鉄道が発達しなかった代わりに、長距離のバス路線は全国津々浦々と言っても過言でないくらい張り巡らされている。私が10年ほど前、娘とトロイ遺跡に行ったときも、ブルガリアとの国境に近いエディルネに行ったときも、友人とギリシャ東部の町に行ったときも、途中まではチョルルに行くのと同じ道を通って行くのだが、あちらこちらの分岐点で別れて行くのである。
 子供の頃から乗り物が大好きで、電車やバスに乗れば出来る限り前部に陣取っていた私は、男だったらよかったのに、とよく思ったものだ。ことに船が好きだったのだが、大きな客船に乗ったのは小学校時代の臨海学校で東京湾の竹芝桟橋から大島か八丈島行きの橘丸が初めてだった。
 イスタンブールにいると、どんな船にも出会うが、少し遠出しないと大きな船には乗れない。来年の夏はインシャーラー、お金が貯まれば乗れるし、そうでなければ乗れないしと、もうまるきりトルコ人になってしまって、インシャーラーの連発で日々を過ごしている。
 なるほど、トルコの人が野気楽に見えるのはこのインシャーラーのせいで、本当はやっぱり誰もが切ない願望をかかえているのだろうな、とたまにおせっかいにも推測する。

 私は月に1度東のイズミットに出かけるが、
現在のバス代はアジア側のターミナルからイズミット市の中心までで5百50万リラ(約425円)くらいである。ほぼ100キロ走る。それに比べて空港に行くシャトルバスはタキシム広場からでも途中のイエニ・カプからでも一律5百万リラ(約385円)、3人連れならタクシーの方が安くつく。
 いずれにしても、チョルルまでが7,8百万リラ程度だろう。去年の秋、友人がビザ更新のために出国するのについていったときは、バス代とペンション風の宿屋に泊って6千円ちょっとで済んでしまったので驚いたものだ。もっともお土産に豚肉製品を1万円近く買い込んでしまったから、旅費よりもそちらの出費の方が大きかった。
 イスタンブールにいると、ヨーロッパにもスカンジナビアにもロシアにもアフリカ諸国にも近いのでお金さえあれば自由に飛んで歩けるのだが、まあそのうち。

 それでは2〜3日、イスタンブールにおさらばです。あ、まだ若干頭痛が・・・
2002年08月23日 17時15分53秒

結婚式
【8月22日・木曜日】
 明日、23日の午後はチョルルという街まで出かけることになっている。トルコに来てすぐに知り合った女性ファトゥシュの親戚の息子が結婚式を挙げるのである。その一族とは浅からぬ縁があって、去年の夏、彼らの故郷であるトルコ中央部のエルビスタンという町に仕事がらみで行ったとき、私が誘われて参加した結婚式は、町一番の写真館の息子の嫁とりだった。
披露宴は夜、小学校の校庭で行なわれ、知人であれ通りがかりであれお構いなし。何百人というひとが集まって、果てしなくダンスを踊るのだ。ことにハライ・チェクメッキと言って、フォークダンス風に老若男女入り混じり、隣同士小指を絡み合わせて右へ左へホ、ホ、ホノホイと、音楽に合わせて単純にステップを踏めばいいのだが、興に乗ってくると生バンドが恐ろしく速いテンポで楽器をかき鳴らすので、みんな滝のような汗を流しながらそれでも輪から離れずに踊りつづける。花嫁も花婿も純白のドレスやタキシードをひるがえして踊りまくるのである。

日本の披露宴の粛々たる雰囲気からは想像もつかないけたたましさだ。トルコの結婚式というのは、一般には日本のように特定の招待客だけが、式場やホテルで豪華な食事つきの宴会をするのではなく、専門の式場にしても真ん中に小さな舞台が作られていて、ミュージックバンドが演奏するなか、司会者の進行によって新郎新婦の入場、市役所の結婚担当職員がきて両者の誓約をとり、結婚台帳に署名したあとは、出席者のご祝儀を新郎新婦の首にかけた幅広の白いリボンにピンで留めてゆく。花嫁には金のブレスレットがたくさん贈られるが、これは値が張るので双方の親族とかごく親しい友人達からのプレゼントである。普通の知り合いやご近所の招待客は、共和国の刻印の入った小さな金貨や現金を直接花嫁のリボンにピンで留めるのだ。花婿には現金が多い。たまに友人達がお金を出し合って買った、冷蔵庫とかテレビジョンとかの目録の入った封筒が手渡されたりする。
日本だとお金はどんな場合でもむき出しのままは渡さないが、トルコではどのくらいたくさんのご祝儀があったかを客にはっきり見せるわけで、ところ変われば品変わる、庶民ばかりではなくかなりお金持ちの結婚式でもそうして、お祝いの現金は花嫁花婿の首から下げた長いリボンにぎっしりとピンで留められて、ひらひらしているのがめでたい光景なのである。
 
ご馳走はなくて、コーラかジュースにクッキーなど添えて出すのが普通で、たまにチキンブロイラーとピラフなどが出たり、ケーキカットしたあとのケーキを小さく切って回したりすることもある。披露宴には招待された人だけでなくその友達やら友達の友達もひまだとご祝儀も持たずにやってくるので、出席者が大変な数になるからである。
新郎新婦は花嫁が美容院で支度が整うと写真館で何十分もかけていろいろなポーズの写真を撮り、披露宴会場まで真っ直ぐには行かず、花束とリボンで飾り立てた車のクラクションを思い切り鳴らしながら街じゅうを練り歩く。親戚や友人達がコンボイ(車の隊列)を組んでこれもけたたましくクラクションを響かせて後に従う。このごろイスタンブールではコンボイはあまり目にしなくなって、新郎新婦の車だけが賑やかに走って行く。田舎の方では相変わらず30台、40台が連なって走るのだろうか。

1994年に3回目のトルコ旅行をしたとき、娘の家で4ヵ月過ごす間に、2度も通りがかりで披露宴に顔を出したことがある。私は幼い頃からダンスの才能があったと見え(?)、でたらめに踊るのが得意である。高校卒業の前には、体育の時間にきちんとソシアルダンスも習ったのでワルツとボックスくらいは踊れたのだが、就職した銀行のクリスマスパーティで先輩の男性が誘ってくれたので応じたところ、これがステップも何もない全くのチークダンス。その上、あろうことか私のお臍のあたりでモコモコッと何かが!
あわてて逃げ出して以来、もったいなや、殿方と踊るダンスが嫌いになってしまい、長い年月踊ることは殆どなかった。それに夫や姑が歌とか踊りが大嫌いなせいもあって、その昔は好きな歌手のコンサートに行くにもタイピスト仲間に口裏を合わせてもらい、こっそりと出かけたものである。

トルコではみんな、葬式以外実によく踊る。人が集まって飲み食いすればすぐに誰かが踊りだし、ちゃんとラジカセやテープを用意している人がいるのである。ことに私はひげのおじさん達が、ザリガニがはさみを振り上げるような格好で両腕を上げ、前かがみになった独特の格好で踊るのを見るのが好きである。おじさん達はたいてい足が短くがっちりした体形で、肩や腰を微妙に震わせながらコミックなのかセクシーなのか分からないがとにかく上手に踊ってくれる。子供達もコトコトコトコトと肩を震わせて器用に踊るのだ。
これは民族性のなせるワザなのか、日本人である私が真似をしてもまったくサマにならないのだ。それでも私は招かれた結婚式ではでたらめではあるが一応踊ってみんなと楽しんでいるのでけっこう受ける。
自分ではもてもてで「マダム、踊れ踊れ」と言われているつもりなのだが、娘や息子がもし見たら、「処置なし。どうしようもねえなあ」なんて顔を見合わせるかもしれない。

それにしても、喉は痛いし熱がある。夜の10時頃オクタイから電話がきたので、アイスクリームを買ってきてもらったら気分が少しよくなった。小枝子さんからサッカーの話で電話があり、日本で人気のイルハン・マンスズが怪我の状態が深刻で、長期に渡って休養を余儀なくされるかも知れないのに、日本ではイルハンの試合見物ツアーが組まれている、どうするんだろうと、大いに野次馬として論議して、それよりこっちの風邪引き状態は明日までに治るのかどうか、まあいいや、明日のことは明日になって見なけりゃわからないよ、治ってください、インシャーラーとつぶやきながら解熱剤を飲んで床に入った。
2002年08月23日 15時43分33秒

みんな帰ってしまい・・・
【8月21日・水曜日】
 コンサートは2度も3度もアンコールに応えたカヤハンと、演奏中ずっと脇のマイクの前に立ち、デュエットの相手を務めた夫人イペッキ・アチャルの、控えめで好感の持てるサービスぶりで更に盛り上がり、舞台の明かりが消えるまで誰も立ち去ろうとはしなかった。
「いやあ、楽しめましたよ。加瀬さんのお陰です。サッカーといい、コンサートといい、これでまたすぐ仕事に戻っても悔いはありませんね」
 某所の某氏と記してきたが、もともとは娘の留学時代の友人である。もし彼女がイスタンブールにいたら、同じ頃同じ歌を聴いて勉強に励んでいたわけだから、共通の思い出がいっぱいあって、さぞかし話が弾んだのだろうが・・・

帰宅して、あらかじめ握っておいた梅干のおにぎりを食べて床についた。某氏はタキシム広場でタクシーを降りてからちょっと1杯のつもりが、周りにトルコ人がたくさん集まって遂に3時過ぎまで呑んでしまったのだそうだ。目覚めたら喉のあたりがいがらっぽい。くしゃみが出てやっぱり少しからだが冷えてしまったようだ。扇形の石段で作られた古代のテアトロを模した野外劇場だから、シートナンバーはビニールの座布団に印刷されている。これがたっぷりとスポンジに水を吸っている上に座るのだから、体にいい訳もなく、主催者側で用意してくれたビニールの雨合羽や、ゴミ用の黒いビニール袋を敷いても2時間も同じ格好で座っていたら、足がしんしんと冷えてきた。いい具合にタオルを持っていたので腰の周りに巻いて、少しは冷え性防止になったと思うが、やはり今朝は風邪気味になってしまった。

日記が滞っていたので書き送り、ラファさん宛ての小包を拵えた。これは某氏が日本に持ち帰り、彼女宛に送ってくれるという。2時半頃、ジェイハン君から電話があった。
「加瀬さん、僕達お互いに意思を確認しあいました。結婚します。彼女も僕を励ましてくれます。双方の親も賛成してくれています。勇気が出そうです。僕は日本に行きます。来週からでも日本語を習わなくてはなりません。どこか、いい教室はありませんか?」
「○○センターで聞いてごらんなさい」
「はい。ああ、それにしてもこんなにも早く、ほとんど急に、彼女が僕に勇気を与えてくれるようになったのはなぜだろう」
「うーん、私が虹に祈ってあげたからだよ」
 ジェイハンは真に受けていっぱいお礼を言って電話を切った。
 
 某氏のタクシーに便乗して空港まで見送りに行った。空港の雰囲気が好きなのだ。去年の1月、アタテュルク国際空港はみごとに改築されて、それまでの国際線発着ロビーは現在国内線に利用され、リニューアルされて明るくなったが、以前は空港にしては天井も低く薄暗いところだった。アテンションや呼び出しのチャイムがこれまたボ〜ン、ボ〜ン、ボ〜〜ンと、音階ならソ、ミ、ドであろうか、まるで奈落の底に引きずり込まれるような暗い響きだったのである。
 カウンターで旅行代理店に勤める知り合いの青年と出会った。彼は某氏とも面識があった。奥さんの弟の結婚式に出席するため里帰りするところだそうである。奥さんは一足先に帰っているという。気さくな彼は、
「いやー、親子3人で日本を往復すると金がかかりますよねえ」と首をすくめた。とは言え嬉しそうに、
「男の子なんですけどね、もうじき1歳です。いやー、かわいいんですよ、うちの子」
「まあ、おめでとう、いいパパね」
 
2人を見送って私は帰りのシャトルバスに乗った。タキシム広場に戻り、銀座通りの裏手のエメッキ映画館でかわいいネズミの活躍する「ステュワート・リトゥル2」を見ることにした。子供向け映画なのでトルコ語にばっちり吹き替えてある。エメッキ映画館は銀座通りに幾つもある中でも大きくて広く、先年改築したので綺麗だった。しかし観客は私を含めて10人に満たない。もったいないようだ。月曜日と水曜日は割引日なので4百50万リラ(日本円で333円)で見ることが出来た。
 主人公のネズミがなんとも言えず可愛いのだが、脇役で大きなチンチラ猫が出てきて、私はいやでも息子が飼っている、薄い灰色のチンチラの牝猫「チャモ」を思い出してしまった。チャモは透き通るような緑色の目をしていた。夫が飲み屋で手のひらに乗るような頃もらってきて、いくらもしないうちに本人が亡くなってしまったので、息子が後を引き受けて育ててきたのだが、完全なる家猫で、外には出たことがない。
 早朝から深夜11時まで1人で留守番である。私が行ったばかりのときはまだ私を警戒していて、日中でもトイレ以外は息子の部屋に閉じこもったきりだった。猫のためにホットカーペットをつけっぱなしにして行くので、冬場は一番寝心地がいいのである。暗くなるとなるとチャモは2階の窓からじっと外を見つめている。息子の車が道路の角を曲がった途端、彼女は脱兎の如く階段を駆け下りて、おばあちゃんの部屋だった玄関脇の6畳に飛び込む。連子の窓は冬でも少し開けたままなので、そこに乗り、ニャー、ニャーとご主人様歓迎の声をあげるのである。
 父親に続いて祖母を亡くし、姉と母親はトルコ。僅か2、3年の間に5人と犬1匹の暮らしから、1人暮らしになってしまった息子は、この猫を目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。擦り寄ってくる猫を懐に入れると彼はどどどっと階段を駆け上がって自分の部屋で倒れこむように寝るのだった。

 さて私は臓物屋さんでいつものように猫達の餌を買い、モスクの水場の空き地で撒いてやり、家に引き上げようとしたら向かいのアパルトマンの6階のご主人がせっせと箒でビルの入り口を掃除している。7階の住人の弁護士が窓の付け替え工事をさせていて、破片や屑を下に落として平気でいるのである。
「ご苦労さまですね、7階の人がやるべきなのに」と言うと、彼は情けない、という顔で、
「私は日本領事館発行の日本に関する本を読んだことがありますが、日本がどうして今世界一の進んだ国になれたかよくわかります。こんな、自分だけよけりゃあいい、という考えの人間ばかりじゃトルコは発展しませんよ。私は自分が箒を取って掃除をしていることは恥ずかしくないが、やるべき人間がすみませんの一言もなく掃除している私の脇を通るのが恥ずかしいですよ、マダム」と言った。
 残念ながらトルコにはそういう人も多いのである。知識階級にすら。
2002年08月23日 01時22分22秒

土砂降りコンサート
【8月20日・火曜日】
 前夜から引き続いて強い雨が断続的に襲ってくる。止んでは降り降っては止むのである。そして朝だというのにまだ夜明け前のように暗く、雷と稲妻は或いは遠く或いは近くで暴れるのだ。こんなに降るなら、午後からは晴れるに違いない。
 そして夜9時、台風一過にも似た爽やかな星空の下で、あのコンスタンティノープルを陥落させるため、ボスポラス海峡に築かれた550年前の要塞、ルメリ・ヒサールの中庭で人気歌手のコンサートを聴くのだ、と思ったのは私だけで、テレビの天気予報でも今晩はまたかなりの強い雨になる予想ですと述べていたんだそうな。
 日本から戻って以来、テレビを見るのをすっかり忘れていたというか、パソコンか手紙書きか、出歩くかで起きている時間のすべてを消費してしまっていたので、こちらに着いて1ヵ月以上も経つというのに、テレビを見るどころか、スーツケースから出した自分の衣類やこまごましたものが、いまだにベッドの上に雑然と並んでいて片づかない。
 そのくせ洗濯だけは結構まめにやっているが、取り込んでたたんでも、タンスの中に収めるのがおっくうだ。これもベッドの上に置いたままなので、半月毎に掃除に来てくれるギュレルさんが、「あらあら、この前と全く同じだねえ」と笑う。
 いつからこんなに整理整頓が下手になってしまったのだろう。若いときは仕事がバリバリ出来て、お金もいっぱい稼いだものよ、なんて言っても、誰も信用してくれないだろうな、この有様を見ては・・・
 
 土砂降りの音を聞き、家の前のゆるい坂道が急流になるのを2度も3度も見ては、パソコンを使うのが憚られて、そうだ、今日こそ少しは片付けてから出かけようと、まずソファの前に置いた小さな猫足テーブルの上に散乱する種々雑多なものに手をかけたとき、ふとコンサートの切符や財布や携帯電話が、きちんとバッグに収まっているかどうかが気になり、開けてみた。
 夕べ戻ってすぐにチケット売り場のお兄さんへの土産はバッグから取り出し、チェストの上に置いたのだが、バッグの中に残っているはずのチケットが見当たらなかった。逆さに振って中味を全部床に広げてみたがない。そんなところに置いた覚えもないが娘の部屋や台所、自分の部屋の机の上、サロンのパソコンデスク、住所録や書きかけの絵葉書が散乱する食事用の大きいテーブル、ソファの下。どこを何回探してもチケットは出てこなかった。そうこうしているうちに昼を過ぎてしまい、もしかしたら預かったつもりでいたが、某氏の手もとに残してきたんだったろうか。
 私は果てしなく悩んでしまい、立ち寄った肉屋さんに電話をかけてみた。ないという。
某氏の泊まっているホテルに電話してみたが外出しているという。弱ったなあ、まだチケットは売れ残っているだろうか、場合によっては新しく買いなおさなくてはならないと思い、私はパソコンを立ち上げてビレティックスというサイトを開けてみようとした。チケットの残り具合が分かるかもしれない。
 
  ところがどうだ、インターネットに繋ぐアイテムが稼動しないのである。あっ、今日でプロバイダー契約が切れるんだった。ええい、もう1年経ってしまったのかよ、よりによってこんなときに。10日くらい前から1日おきにこの契約が切れるので更新を促すメッセージが届いていたのだが、まだ平気、まだ平気と思っているうち、ずっとお客さんがあったのでつい念頭から飛んでしまっていたのである。
  幸い雨が3時過ぎに上がったので、てくてく歩いて銀座通りに出かけて行き、1年契約のCDを買った。土産物を売っているパサージュに行き、正直者のハルクさんの店にも立ち寄った。昨日、カメラマンのラファさんからお礼のメールが届いたのだが、「買ったと思ったぐい呑み程度の大きさのカラフルな小鉢が荷物の中に入っていなかった、残念だけどまあ、また次の機会に」と書いてあった。
  もしかするとラファさんは、一緒に行った瑠璃子さんがもう少し大きなキャーセ(kase,小鉢)を選んでいたとき、より分けてはね出した方の隣にラファさんはミニ・キャーセを置いたのかも知れなかった。それでハルクさんがそれとは知らず片付けてしまった可能性が高い。ハルクさん自身の記憶もほぼそういうことで一致し、私は改めて彼女が選んでいたのぴったり同じではないかもしれないが、色とりどりのミニ・キャーセを12個買って店を出た。

空は真っ暗だ。チケットの所在を尋ねて私はスーパーに寄り、臓物屋に寄って聞いてみたがそんな落し物はなかったという。バッグに押し込むように入れたので、簡単に落とすわけもないのだが、今となっては藁をも掴む思いである。彼の手もとにあってくれればと、祈る思いで電話をしても某氏は友人と外出中で連絡は取れなかった。
パソコンを立ち上げ、プロバイダーに電話した。以前からこの会社の回線は自動交換台から先には一発で繋がったことがない。待たされて待たされて嫌になって何度途中で切ってしまったか。友人の小枝子さんに電話すると、「ひたすら待てばいつかは繋がるよ、ほかに術なし」とのこと。
20分くらい待っていたら、突然音楽が止んで女性が出た。どうにか所定の手続きが済み、パソコンの機能は回復した。しかしもう、切符の件では某氏が持っていなければ私のミスだから謝って諦めてもらうしかない。またまた激しい雨が降り出したので、私はいっそコンサートが中止になってくれたらどんなにいいか、と思った。
7時少し前に某氏から電話が入った。正直にワケを話すと、さすがやんごとなきお方、「そうですか〜、じゃ、今一度探していただいて、駄目なら諦めましょう」とあっさり。こうなるとなお一層私は恐縮してしまうので、片付けようと思い立った昼前の状態より更にメチャクチャに散らかってしまった部屋の中を見渡して、へたへたと床に座り込んでしまった。
座り込んだらチェストの端からはみ出している天狗キーホルダーの台紙の裏側が見えた。はっと思って立ち上がって手にとると、今朝から探しまくったチケットは2枚とも、台紙の裏側の、表から折り返された透明セルロイドの端にしっかりと挟まれて、偶然にも縦横まったく同じ大きさだったので、ぴったりと収まっていたのである。ないわけだよ〜。
このかれこれ8時間に渡る私の危惧、奮闘は一体何だったのだろう。自分はよくこれに似た失敗を性懲りもなく繰り返している人間である。

まだ日本にいた5月、母の日にまず姑の墓参りをし、次に隣町のお寺まで実母の墓参りに行った。実家の寺の住職さんは、私が17、8年昔、町のタウン誌に連載していた子供時代の話や、「犬と三日月」の原作である「マダム・カセのイスタンブール便り」もずっと愛読してくれていたので、出版のご挨拶をすると即座に買い上げた上に、お祝いに自分が育てたミツバチの集めてきた蜂蜜を、500グラム容器にいっぱい詰めてプレゼントしてくれた。
花や線香や水桶を持っていたので、蜂蜜の容器は墓の囲いの手すりに置き、まず母の眠る加瀬家の墓に、次に祖母の眠る伊藤家の墓にお参りして、たしかに蜂蜜も持って車に戻ったと思うが、夜、料理をしていたら、蜂蜜をどこに置いたか思い出せない。もう、真っ暗なのに私には蜂蜜の容器が墓の間に置き忘れられてしょんぼりと私が取りに来るのを待っているような気がしてならなかった。
料理を中止し、即刻車に乗った。有料道路を吹っ飛ばして実家の寺に急行した。森閑とした墓場というものは、この歳になっても嬉々として足を踏み込めるものではないが、まあ仕方がない。しかし蜂蜜はなかった。私は非常に恥じ入りながら住職さんに正直に打ち明けた。穏やかな人柄の住職さんは、
「そのうちにまた新しいのが取れますから差し上げますよ」と怒った風もなくニコニコしている。
 人が苦労して作り出したものをいただいた途端になくしてしまう、自分の粗忽さに嫌気がさして私は元気なく家に戻った。コンビニで家の仏壇にも花を買い、亡き姑の部屋の仏壇の花瓶を下げに行ったら、何と仏壇にあの蜂蜜が鎮座しているではないか。
 驚いたの何の、自分で置いたに違いないのにまったく記憶になくて、後先見ずにすぐに飛び出し、結果、無駄足と恥掻き。しかもものを書いていてもいつのまにかこのように大幅に脱線する。この癖は治らないな、一生。

 で、コンサートの話に戻ると、無事に見つかった蜂蜜ではない、チケットをしっかりバッグに詰めてビニール袋に入れ、傘を2本持ち、しっかり着込み深めのブーツを履いて外に出た。猫の餌も煮ておいたのでそれも持つ。ところが家の前はものすごい急流で、ブーツなんか役に立たない。猫の餌はカプジュに頼み、4階に戻って黄色いゴム長に履き替えた。マダムどこ行くんだ、この天気に、と近所中の人に言われながら、某氏が待ちわびているホテルまで徒歩で漕ぎつけた。
 いつも利用する会社のタクシーを呼んで土砂降りの中を出発した。タキシム広場からイノニュ・スタジアムのあたりを通過する頃は土砂降りと雷鳴で車も立ち往生、運転手もこの雨でコンサートは中止になるんじゃないかと危ぶむ。でも雨さえ止めばと、私達は天に祈る気持でルメリ・ヒサールまで行った。

 14、5年前だそうだ。某氏がトルコに留学していた頃、次々に大ヒットを飛ばしてたちまちトルコミュージック界の大御所となったカヤハンは、たとえお客様が5人でも10人でも来てくれたら歌う、と宣言して待っていた。奇跡のように雨が上がり、びしょぬれの屋外劇場は最悪のコンディションだったが、席はすべて埋め尽くされた。某氏の思い出の曲があとからあとから出て、彼も感激している。カヤハンの土砂降りコンサート、私も一生忘れないだろうと思った。
2002年08月22日 19時17分11秒

集中豪雨
【8月19日・月曜日】
 トルコの8月でこんなに雨が続くなんて聞いたこともなかったが、とにかく今年は雨続きである。それも常に雷といっしょにやってくる。近所に落雷があったりすれば停電になるかも知れないから、ピカピカ稲光がすると私は愛用のパソコンを閉じてしまう。

 私のパソコンには去年の6月に使用開始して以来の記録が全部収まったままなので、11月に日本に行った時、息子が自分の機械に繋いでくれたのだが、「ひぇー、重てえ」と呆れていた。「そうか、そうか、こういう、ドヨヨ〜ンと画面がゆっくりやってくる状態をパソコン用語で重いと言うのか」と感心すると、「パソコン用語じゃねえよ、そんなの」ともっと呆れられてしまった。

 その後9ヶ月以上、以前より遥かにメル友の数も増え、やり取りしたメールの数は飛躍的に増大したし、本を作るときもとのオリジナルと書き直した原稿と、その他もろもろがそのまんま入っているので、立ち上げるのに時間がかかる。朝目覚めてスイッチを入れて、トイレに行ってきてからでも悠々間に合うくらいだ。明日は古い文書を整理しよう、もう見そうもないページは削除しよう、今日こそはパソコンを軽くしよう、容量の回復を図ろう、な〜んて毎朝思うのにいまだに出来ないのである。受信トレイに300通近いメールが並んでいる。気が重いけど今度、全然出歩く必要のない日が来たらそのときやろうと決心、今日はやめておくことにした。

 今日はプリンセスさんが帰ってゆく。某氏から電話がかかってきたので最後の面会にホテルまで出かけて行った。16日の夜到着して、17、18日と続けてサッカーの試合を見、今日はもう帰途に着くなんて、疲れるだろうなあ。何と言っても12時間余り飛行機に乗りつづけなくては日本には着かないのだから。
「大丈夫です。機内で爆睡いたしますから」とにこやかに彼女は去っていった。

 今日はまあまあの空模様だ。朝のうち何度か雷と雨が襲ってきたものの、午後は回復している。某氏は明日のコンサートのチケットを見せると懐かしげに歌手の顔写真を見ていたが、「あ、そうだ。加瀬さんがお友達になっちゃったというチケット売り場のお兄さんに、ほんの気持ばかりのお土産がありました」と部屋から天狗のお面のついたキーホルダーを取ってきた。そういえばチケットのお兄さんは17日から年次休暇で2週間、エーゲ海のリゾートに行っているはずである。私は明日のコンサートの写真と、お土産のキーホルダーを台紙ごと自分の小さなリュック型のバッグにしまいこんで、某氏と別れた。
  
 帰りにスーパーによって2つ3つ買物をし、肉屋さんで自分用に子羊の肉を買い、臓物屋さんで猫の餌を買って待ちくたびれた猫達に飛びつかれながらアクジエル(肺)を撒いてやった。その晩遅く、再びゴロゴロと雷が近づいてきた。私は今日の出来事を書いていたが不安になってパソコンを閉じた。夜通し雷と雨の音は続いた。集中豪雨をもたらす不安定な気団がトルコの上空に居座っていたのである。
2002年08月22日 04時16分44秒

虹ふたたび
【8月18日・日曜】
 トルコのサッカーを生で見たのは初めてだが、テレビ中継では何度か見たことがある。日本でJリーグが誕生した頃、私は何でこんなにだだっ広いコート(ピッチ)を、いい若いもんがボールのとりっくらをしながらただ駆け回っているんだ、とあまり好感が持てなかったのだが、そして今なおルールなどもよく知らないのだが、トルコに来てから何度か見ているうちに、単純そうに見えて実は緻密な読みが必要で、対戦相手を徹底的に研究しなければ勝つのは難しいということも分かってきた。
 おととしの5月、イスタンブールでも随一の伝統と人気を誇るガラタサライチームは、
デンマークのコペンハーゲンで行なわれたUEFAヨーロッパ選手権で、初の決勝に進出し、大方の予想を裏切ってイギリスの強豪アーセナルに一歩も譲らぬ攻守を見せ、どちらのチームも何度もゴールのチャンスはあったものの、守りも互いに鉄壁で、延長また延長の末ペナルティキックにもつれ込んだ。最後の最後、4対1、ガラタサライは文句なしに相手を打ち破ったのである。
 彼らの快挙は、2年越しの大不況、2度にわたる大地震で壊滅的なダメージを受けて、夢も希望も失っていたトルコ国民を狂喜、乱舞させた。今回のワールドカップで最速ゴールの世界記録を更新したあのハーカン・シュキュル主将を中心に、大きなカップを高々と掲げるイレブンの表彰式の模様は、トルコの国営放送TRTがあますところなく伝えてきた。
 
うちのビクターは白と黒のハスキー犬なので、みんなからベシクタシュ犬などと呼ばれていたが、私は彼の首にガラタサライのチームカラーである黄色と赤の鉢巻を巻いてやった。俄かガラタサライファンとなった私は、次の日凱旋してくるチームを一目見ようと、タキシム広場に面してそそり立つ高層タワー型のマルマラホテルに駆けつけた。街じゅうが黄色と赤に塗りつぶされた感があり、広場は人、人、人に埋め尽くされていたものだ。

 あれから2年と3ヵ月。このお盆休みに、贔屓チーム、フェネルバフチェの試合を見るために日本から飛んできたあの某氏も、本日めでたくプリンセスさんと一緒にアジア側のフェネルの本拠地シュクリュ・サラチュオウル・スタジアムに出かけ、チケットを買うという大任を果した私は、午後からジェイハン君と落ち合った。
ヅコちゃん達の私へのギリシャ土産、メタクサというお酒を彼が預かっていたのだ。いきつけの中華食堂で遅い昼を済ませたあと、イスタンブールの比類なきパノラマを見に、2人でサライブルヌ(宮殿岬)まで歩いた。金曜日に空港でヅコちゃんと2時間ほど話が出来た彼は、この上なく幸せな表情で彼女がいかに素晴らしい女性であるかを語った。
海辺でチャイを飲むうち、雲の加減でシャワーのようなこまかい雨が降りだした。通り雨をやり過ごそうと公園の大きな木の下にたたずんでいたら、西日が東の空の雲に反射して海の上にうっすらと虹が浮かんだ。

虹は希望の象徴であろうか。右手には果てしなく青いマルマラ海、正面にはボスポラス海峡と巨大な吊り橋、そして左手は金角湾とイスタンブールの7つの丘にびっしりと建ち並ぶ色とりどりの古風なビルやモスク群。サライブルヌからの壮大な眺望は、それ自体額縁も何もない大きな絵画のようである。
ジェイハンは虹を越えた彼方を見ている。ひたすらアジアの東の果てにある日本を見つめている。善意の塊のようなこの青年が愛する人と結ばれますように。あの可愛い人が、まっしぐらに彼の腕の中に飛び込んできてくれますように。
薄れてゆく虹に向かって私は祈った。
2002年08月20日 16時04分28秒

ひまわりの種
【8月17日・続き】
 イノニュ・スタジアムは丘のてっぺんにあるタキシム広場から、海の方角に下りてくると、ものすごく景色のいい坂の中腹にあって、海を埋め立てて造ったという絢爛豪華なドルマバフチェ宮殿を見下ろしている。

 2日も3日もチケット販売所に通い詰め、スタジアムの縦長方向、指定席の中央の一番前という、またとない席を4つ買ったのに、指定席だからと安心してゆっくり行ったのが失敗の元、長い行列の果てに、厳重なる身体検査、持ち物検査を受けてトリビューンに向かったがとき既に遅しで、もう先に入って我勝ちにいい席を占領した不心得な奴らのために、苦労して手に入れた3千3百万リラ(約2500円)もする切符の指定番号など、何の意味もなかった。
 それに前の方に行くのに通路なんか通る人はいないと見えて、みんな土足のままシートを踏み越えて移動してゆくのである。中心部には空席などまったくなくて、我々は結局片隅の方にようやく4人並べる場所を見つけたが、すぐ隣は鉄柵があってその向こう側はたったの500円で入れる自由席だった。腹が立って腹が立って仕方がない。

「まあまあ、マダム。こんなもんです」とオクタイがなだめるので、やっと私も口を閉じて用意した敷物を敷いて席に腰を下ろした。ところが、後ろから背中をピシャピシャ叩かれたので振り返ったら、真後ろの女が自分の席の泥を私の背中めがけてタオルで払い落としていたのである。私をめがけたつもりじゃないんだろうが、何度もタオルの先が私を叩くのである。土埃だって当然私の肩や背中にかかるのである。後ろの席の方が高くなっているのだから。自分の席さえきれいになれば、前の人間にゴミがかかろうが埃が積もろうがお構いなし。ついに私は右手の人差し指を立てて女の目の前に突き出した。「ちょっと待った!」のゼスチャーである。
それでなくとも場内は耳をつんざくようなベシクタシュファンの大合唱で、何を言っても聞こえない。私のおっかなーい顔を見てはさすがに女も掃除を止めて席に座り、ひまわりの種を食べ始めた。トルコではおやつ代わりに酒のおつまみに、実によくひまわりの種を食べる。煎ったものと生があるが、煎ったものは塩味がついていて私も好物である。しかし、ひまわりの種の殻を果てしなく周りに撒き散らすのが問題である。私はちゃんと殻入れの袋も用意して食べているのに、ゴミはポイ捨てで当たり前の国なのだ。

 西日が照りつけるこちらのトリビューンにも反対側にも、対戦相手のコジャエリ・スポルのサポーターらしき影は見当たらなかった。そして、まずはビジターのコジャエリチームが登場すると、スタジアムをどよめかしてブーイングの集中攻撃が起こった。相手チームを本拠地チームのサポーター全員で徹底的にたたきのめす。そのあとベシクタシュイレブンが出てきたら、正反対にピーピーと大歓迎の口笛と万雷の拍手がまた会場を揺るがせた。応援歌の大合唱が始まった。
「なんと現金なんだ、ホスピタリティのホの字もないのか」私はただ呆れて熱狂する人々を眺めていた。

 ベシクタシュは何度も優勝経験を持つ強豪チームである。白と黒とのチームカラーが物語るように質実剛健、野武士の集団といった趣がある。コジャエリは大幅に格下である。しかも彼らの本拠地はあの地震の震源地だから、今日は彼らにとって震災記念日、ぜひともこの古豪に打ち勝って凱旋してもらいたいものだ。判官びいきの私は、一流選手のいない、ゼッケンもゴールキーパーの77をはじめ、59だの57だのとサッカー選手にあるまじきユニホームを着た集団に密かに声援を送った。

国歌斉唱のあと始まった試合はどうにもならない凡戦で、ボール所有率は圧倒的にベシクタシュ側、私達の席の反対側のピッチでしかゲームが進んでいなかった。試合が始まるとみんな総立ちで、後ろの人が見えようが見えまいが関係ない。
後半、コジャエリが突然やる気を出して1点を先制した。超ど級のブーイングが飛んだ。私は思わずやったーと思ったが、さすがに全員がベシクタシュ・サポーターのど真ん中で拍手も出来ないから、黙って立ち尽くしていた。コジャエリは点を入れるということに慣れていないのか、ゴールを放り込んだ当人からも何一つパフォーマンスは出なかった。敵地でパフォーマンスなど見せると撃たれてしまうわけではなかろうな。
大相撲でも近年は土俵めがけて座布団を投げ込んだりするようになってしまったが、トルコのサッカー場では怒ったり喜んだりして、水の壜やら自分の携帯電話までピッチに投げ込んでしまうファナティックが実に多い。
試合が終わるまであと数分を残すところでベシクタシュは同点に漕ぎつけ、さらにロスタイムの延長でついに逆転のゴールを蹴りこんだら観客は一斉に立ち上がり、狂喜しながらわれ先にと外へ飛び出した。踏み潰されないうち、私達も慌ててオクタイに導かれて階段を下りた。

観客の去ったあとには夥しいひまわりの種の殻が散乱しているんだろうな、きっと。
2002年08月19日 14時32分23秒

島の2頭立て馬車
【8月17日】
 プリンセスさんが泊まるところは某所の某氏が日本からインターネットで予約を入れた、タキシム広場に徒歩2分程の小綺麗なホテルだった。荷物を部屋に入れてから、私は彼女が運んできてくれた私の本、「犬と三日月 イスタンブールの7年」10冊と、娘に頼んで買ってもらった老眼鏡の包みを受け取った。プリンセスさんは週刊誌やおかかのおにぎりをたくさん持ってきてくれた。お礼に本を1冊サインして贈り、そのあとトルコ料理を食べに2人で街に出た。

 さてさて、プリンセスさんは私よりも昔からトルコに何度も旅行していたそうだが、まだビュユック・アダには行ったことがないという。トルコの内海、マルマラ海のイズミット湾入り口付近に浮かぶ島々のうち、一番大きな島がビュユック・アダで、日本語に直すとやっぱり大きな島、いわば大島である。
 夕方から、日本で人気のあるイルハン・マンスズという選手のいる強豪ベシクタシュのサッカー試合を見に行くことになっているので、朝は9時前から家を出て彼女のホテルに迎えに行った。
 行き当たりばったりに波止場に行ったのがたたって、惜しいかな、煙だけ残して目の前で船は出て行ってしまった。1時間後でないと次の船は出ない。私達は別な波止場にタクシーを走らせた。そこで10時発の島々経由ヤロワ行き定期船に間に合った。
 海上に出ると晴れてはいるのだが空一面にスクリーントーンを貼ったように、不透明な景色が広がっている。それでもプリンセスさんは、30分ほどで最初の島クナルアダに近づくと、リゾートらしい真っ白な建物が建ち並んでいるのを見て子供のように喜んだ。
 ブルガズアダス、ヘイベリアダ、そしてビュユックアダと、汽船は順番に乗客を降ろしてゆく。ヤロワは3年前の今日未明、このマルマラ海周辺を襲った烈震のため、町の半分以上が壊滅状態に陥った保養地である。
 あの未曾有の大惨事となった地震から早くも3年が過ぎたのだ。おとといの終戦記念日にも感じたのだが、のどもと過ぎれば熱さ忘れるという諺どおり、人間はどんな大事件でもやがては忘れてゆく。またそうでなければ悲しみは一生つきまとうことになるのだ。

 先週イスタンブールに来たヅコちゃん達と同じように、島内半周ツアーのファイトン(2頭立て馬車)に乗った。ここ何年か、知り合いの人々が来てビュユック・アダに案内すると必ずこのファイトンに乗っていたが、常に御者の後ろ側に座ってガイドよろしく説明していたので、プリンセスさんと2人だけの今回は、私も前向きに腰を下ろした。
 すると今までに見えなかったものが見えてきた。馬車を引く馬達の尻である。短い夏の間だけしか稼げないファイトンジュ(ファイトンの持ち主、または雇われの御者)達は、それいけ、やれいけと鞭を振り回して容赦なく馬の背をたたきながらガラガラと車輪の音も荒く走らせるのである。
前の馬車を追い抜けば客が大喜びするので、御者はなお忙しく鞭を振り回す。中には速く走れない老いた馬もいた。私達の鹿毛馬はそれほど痩せてはいなかったが、前を行く馬車には、痩せた小さな葦毛馬が2頭繋がれていて、坂道に差し掛かったらいくら御者が鞭を振るおうともとうとう動けなくなってしまった。次から次へとあとの馬車が追い抜いてゆく。私達の馬車もやっと最後に前に出た。葦毛の2頭は驚くほど痩せていて、尻は三角にとがり、背中はくくりつけられた皮バンドのために擦り切れ、腹はぺちゃんこだった。
 プリンセスさんも動物好きな優しい性格のようだ。2人で馬に同情した。今回を最後に、私はもうよほどのことがない限り、馬車には乗らないことにしようと思った。もちろんそれで解決する問題ではないけれど・・・。

 海辺のレストランに席を取り、プリンセスさんの奢りで冷たいビールとシーフードを堪能し、3時半頃イスタンブールに戻ってきたら、私達が島に出かけている間にものすごい雷と集中豪雨が襲って2、3時間も続いたとのことで、道路に水溜りが出来ていた。このところヨーロッパや東欧では集中豪雨の被害で大変な状況になっているが、イスタンブールでもちゃんとした下水道がないので、低い土地では洪水になるのが常だった。
 
小枝子さん、プリンセスさん、オクタイ、と私の4人は、タキシム公園のティーガーデンでお茶のみをしたあと、いよいよイノニュ・スタジアムに向かった。(つづく)
2002年08月19日 05時53分43秒

目的達成!
【8月16日】
 11時ちょうど、チケット販売所のお兄さんに電話をかけると、「やあ、おめでとう!」と爽やかな第一声が聞こえてきた。
「出ましたよ。お値段は7千5百万トルコリラを最高にいろいろあります。まずは来てみてください」
「ありがとう。もう長い行列出来てます?」
「いやいや、まだ10人かそこらですよ」
 私はまたタクシーを飛ばして販売所に行き、十数人の列で20分ほど待ち、ついに某所の某氏とプリンセスさんのために「VIP」席の一番前の真ん中をゲットすることが出来た。それから電力公社までタキシム広場を突っ切りテクテク歩いて電気料金の払込に行った。イスタンブール新市街のど真ん中であるこの界隈は、車と人が無秩序に行き交い、いつ歩いてもまさに喧騒の真っ只中を横断しなければならない。
 それでもイスタンブールにゆっくりゆっくりと秋の気配が忍び寄っているのか、照りつける陽射しにはもう焼け付くような意地の悪さはなくなってきた。人波を掻き分けるような感じで銀座通りを歩き、オヤック銀行という、私が日本にいる間に出現した銀行へ、家の電話料金の払込に行った。
 本当は、チケットがもっと早く発売になっていれば、私は今日は空港にジェイハン君と一緒に出かけて、エジプト・ギリシャの旅から戻り、夕方の便で日本に帰るヅコちゃんとモコちゃんに面会に行く筈だった。しかしこちらを優先すると翌日ではチケットのいい席が売切れてしまうかも知れないので面会の方を諦めたのである。
 
 帰りがけ、猫の餌を買い、家の冷蔵庫に保管して夕方5時半、再び家を出た。空港へ日本から到着するプリンセスさんを出迎えに行くためだ。猫達が待ち構えていて私を見るとたちまち駆け寄ってきた。いつもなら手づかみでコマ切れになった牛のアクジエルをビニール袋から取り出し、一匹一匹に分けてやるのだが、本日は臓物の匂いが手に移らないよう、骨董屋のおじさん達に分配を頼んでタクシーを拾った。
 タキシム広場から空港行きのシャトルバスが30分おきに出ている。6時のバスに乗れば、道が空いているときは30分程度で着くからと、安心してバス乗り場まで行ったのだが、広場を通過するときに悪い予感がした。金曜日の夕方はそれでなくとも混雑するのだが、広場周辺がいつになく渋滞していた。
 果たしてシャトルバスの乗り場には、いつも停まっているバスの姿がなく、15分以上遅れてやっと入ってきた。バスはたちまち満席になったが出発しない。6時のバスは結局間引かれて6時半出発になってしまった。しかもこのバスがぐるりとタキシム公園の周囲を回って再び広場を通過するだけでも15分を要し、その先の並々ならぬ渋滞を覚悟しなければならなかった。
 プリンセスさんの到着は7時20分の予定である。いくら金曜日でもこの渋滞ぶりはどういうわけだ。普段なら広場から5分もかからないアタテュルク橋を通って金角湾を渡るとき、既に時計は7時を指していた。そのとき左に見えるガラタ橋に車が1台も通っていないのが見えた。ああ、納得。ガラタ橋が修復工事のために閉鎖されたのであろう。このところ連日忙しくてテレビも新聞も読む暇がなくて、橋が閉鎖になったのを知らなかった。ところが、ことはそれだけでは済まなかった。
 旧市街の繁華街を通り抜けて海岸通りに出るまでがまた大渋滞。バスは人の歩みよりなおのろのろと進み、海岸通りに出たらもっと混みあっていた。なんと上り車線が全面通行止めで道路のあちこちを掘削機がほじくり返しているのである。
 まあ、これはトルコのやり方だから我々が文句を言うわけにもいかないのだが、たとえばアスファルトの付け替え工事。何ヶ月もかかる大工事でも、迂回路を造成するとか、0.5キロずつ区切りをつけて順に片付けてゆくとか、そんな面倒くさいことはやらない。ドドーンといっぺんに全区間掘り返してしまい、
それからゆっくりと少しずつ修復してゆくのだ。竣工までの何ヶ月とか何年かの間、利用者がひたすら忍耐をすればいいのである。

 8時すぎ、遂に空港からプリンセスさんが私の携帯電話にかけてきた。シャトルバスでは携帯使用禁止なのだが、出発時から既に1時間半経過していまだに路上に停滞しているのでは、飛行機に乗り損ねる人もたくさんいるに違いない。みんな困って、小声で携帯電話かけまくりだった。私も彼女に小声で状況を説明し、遅延を詫びた。程なく工事区間が終わって、突然道路が空いたので、シャトルバスのカプタン(バスの運転手はこう呼ばれる)は、おいおい、空へ舞い上がる気か、と言うくらい猛スピードを出してまっしぐらに空港へと突っ走った。
 
 プリンセスさんはその名にふさわしい長身の美女で、カフェテリアでアイスティーを飲みながら待っていた。すぐに私の飲み物も注文してくれて、この7月、某所の某氏の紹介で成田空港で初対面を果していたのだが、1ヵ月そこそこで、こうしてイスタンブールで再会できるとは夢にも思っていなかった。
「なまじ私が迎えに来るなんて言ったばかりにずいぶんお待たせしてしまいましたね」と言うと彼女は、
「いえいえ、お迎えに来ていただいてすごくうれしいです。いま少し前に到着ロビーに出たばかりですから、ご心配なく」と細い綺麗な指先を軽く振りながら、満面に笑みを浮かべた。
 ああ、ここにも典型的な大和撫子が1人。成田発のトルコ航空の正確無比な運行時間を私はよ〜く知っているのである。
2002年08月18日 16時49分13秒

チケット狂想曲
【8月15日】
 昨日は瑠璃子さんも帰国の途につき、今度は某所の某氏が本日のフライトでトルコにやってきた。彼は友人を訪ねるため、乗り換えて首都のアンカラに直接行ってしまった。某氏はやんごとなきご身分を伏せて、お盆休みに自分のひいきにしている、さるトルコのサッカーチームの試合を見に来たのである。
 
トルコの代表チームは、今回のワールドカップに堂々第3位の銅メダルを獲得し、日本代表チームとの試合がフロック勝ちでないことを証明した。実際トルコのプロフェッショナル・リーグは、1923年設立されたトルコ共和国と同じ創設で、長い歴史もあり、選手の層も厚く、2年前にはガラタサライというチームが、UEFAヨーロッパ選手権を制覇している。このときのトルコ国民の歓喜と熱狂振りもすごかったが、今回はまるで優勝してきた凱旋チームを迎えるも同様だったそうだ。
 イスタンブールに本拠地を置くガラタサライとフェネルバフチェ、ベシクタシュの3チームは、実力・人気とも拮抗していて、毎年前期・後期の優勝チームはこのうちのどれかがさらってゆく。かつてはトラブゾンという、黒海沿岸の都市を本拠地にするチームもしばしば優勝争いに加わったが、近年は少し力が衰えたようだ。
 
 サッカーの話になると断然詳しいのは小枝子さんだ。彼女はかつて日本にいた頃、西武ライオンズのファンで、試合の帰りに遅くなるのがイヤで、埼玉県所沢市に引っ越してしまったという人だ。トルコに来てからはサッカーファンになり、ガラタサライチームが好きで、わが家の近所に住んでいたのに、ガラタサライの本拠地、アリサミイェン・スタジアムのどよめきが聞こえる地区に引っ越して行った。
 これらのすべてのチームには、2色の組み合わせのチームカラーがあり、ガラタサライは赤と黄色、フェネルバフチェは黄色と紺色、ベシクタシュは白と黒である。傑作なのはスイカの名産地ディヤルバクル。赤と緑の縞柄のユニホームを着るので、見るからに田舎臭くていただけないのだ。

 さて、某所の某氏と、明日イスタンブールに到着する彼の仕事仲間のプリンセスさんのメイン・イベントは、18日の日曜日、夜7時キックオフのフェネルバフチェの試合を見ることである。
 某氏から頼まれて2週間も前からチケット発売の日をチェックしている私としては、一刻も早く手に入れて彼らを安心させたいし、自分も早く義務から解放されたいのだが、1週間前の発売と言っておきながら、フェネルバフチェの本部では今日15日がとっぷり暮れたというのに、いまだにチケットの価格も発表しないし、発売もしていない。
 私は月曜日からこの方、万が一買い損ねてしまったら、日本からその試合のためにやってくる2人にとんでもない損害を与えることになってしまうので、毎日自分へのお客さんをあちこち案内する合間に2度も3度もチケット販売所に足を運び、いつ発売になるのか、いくらなのか尋ねているのだが、いまだに値段が決まらなくてチケットは市場に出てこない。
 
プリンセスさんと小枝子さんと私とは、オクタイをボディーガードにして、17日に行なわれるベシクタシュの試合を見に行くことになった。某氏と私は20日に有名歌手のコンサートにも行くことになり、それらのチケットも同じ販売所の窓口で買ったので、私が足を運んだ回数は一体どのくらいになるだろうか。とうとう、窓口の目の青いお兄さんが気の毒がって、特別に店の電話でなく、彼自身の携帯電話の番号を教えてくれた。
ま〜たこんなところでボーイフレンドが出来ちゃったわけね、まったく。
2002年08月16日 07時58分15秒

開けられた手紙
【8月14日】
 昨日ちょうどラファさん達と買物を済ませ、彼女の出発時刻が迫っているので急いで家に戻ってきたとき、アパルトマンの玄関にある郵便受けに、私宛ての手紙が封筒を持ち去られてむき出しのまま入っているのを見つけた。郵便受けと言っても、大きめな状差し型で蓋がない。
「子供が開けちゃったのね、誰だろう」と言っているところへこの秋小学校に入学するカプジュの娘が地階から上がってきた。
「ミネ、この手紙の封筒、見なかった?」
「ジャポン・テーゼ(日本人のおばさん)、あたしじゃないよ、破いたの。○○が破いていたよ、あたし見たもん!」
「じゃあ、その○○をここへ呼んできな。でもミネ、あんたも絶対にこういう真似をしちゃいけないよ。よそのうちへきた手紙を開けるのはとても悪いことなんだからね。いいか、わかったね」
 ○○よりも、この子や、裏のいたずらっ子こそいかにもやりそうだからきつく注意したら、私の声が大きかったのでカプジュの妻が血相変えて地階から駆け上がってきた。
「加瀬テーゼ、うちの子はやってないって言ってるのよ。やったのは○○だって、言ってるじゃないの!」
「ミネもその場にいたんでしょ、見たと言うんだから。誰がやったにしても、それが悪いことだって、わからせなきゃいけないんだよ、周りの大人達が。そうでしょ?」

 去年のクリスマスの少し前、私は友人のアンカラ由美子さんがうちの娘にプレゼントしてくれた子猫の写真がたくさんちりばめられたダイアリーと、私からのプレゼントであるシステム手帳を日本から送ったが、とうとう娘には届かなかった。封筒にいろいろな昔の記念切手を貼って出したので人目を引き、状差しから誰かが持ち去ってしまったと見える。
 以前にも銀行時代の1年先輩で、40年来の友人が定期的に送ってくれる絵手紙が紛失してしまったり、封筒の口が破かれていたりしたことは何回かあるのだった。

 トルコはイスラム世界でただ1つ、政教分離の世俗国家である。しかし国民の大多数がイスラム教徒でありながら、イスラム教で禁じている筈の嘘つきだの泥棒だのが結構多い。殺人事件もまた然りである。世界中どこの国に行こうとも、どんな宗教のもとに暮そうとも、悪人はいっぱいいるけど・・・。
 ということは、人間の道徳性を養うのは宗教ではなくて徹底した教育であり、人間としての正しいあり方を、親から子供へ或いは大人達から子供達へ申し送ることこそ最重要だということだ。
 トルコでは階級意識が強いので、アパルトマンの雑役をするカプジュは最下層の職業とされている。無知・無教養な輩も多いが、正直な好人物だってたくさんいる。
 
 うちのカプジュの息子は今9歳だが、3年前の或る日ビクターの散歩についてきたので、袋入りの小さなケーキを妹の分と2つ買ってやったら、もう1人の妹のために、3つ欲しいと言う。
「もう1人の妹って、どこにいるのよ。おばさんは会ったことないぞ。嘘ついてるな」
「嘘じゃないよ、お母さんのおなかの中にいるもん」
 この子の母親は身ごもってなどいないのだ。6歳にしてこのずる賢さ! 私は唖然としたが、くりくりした瞳の可愛い顔を見るとなんだか憎めなかった。しかし嘘は嘘である。厳しく叱って3つ目は諦めさせた。
 とはいえ、「座布団一枚!」と言いたくなるようなおチビのたくましさに、私も内心では舌を巻いていたのである。
2002年08月15日 15時49分47秒

オスマン朝絵巻
【8月13日】
 3番目のお客様は、トルコはキュタフィヤという町の特産品、タイルや陶器に興味を持つ関西のOL瑠璃子さん。毎年一度海外旅行に出、トルコ語も喋れて、趣味で絵やイラストも描く多才なお嬢さんだ。朝10時半、待ち合わせのタキシム広場に出かけていった。
 タクシーの中でなんとなく考える。今日は日本では月遅れの盆の入り。郷里の千葉県では今頃もう、掃き清められた墓地に花や線香を持って先祖を迎えに行く支度をしているだろうな。

 昨日の午後は雲が張り出して、ラファさんとの夕方からの船旅では、西空に雷の起こりそうな気配がみなぎっていたのだが、今朝はからりと晴れ上がって、日中暑くなりそうな様子だったが、さすがに8月も中旬になると涼風も立って、ひと頃の焼け付くような暑さではなくなった。
 瑠璃子さんはエスニック調の服が大好き。健康そうな小麦色の肌に、タイの女性がまとう朱色の長い巻きスカートがよく似合っている。3人で銀座通りを中ほどまでぶらぶら歩いて、バルック・パザール(魚市場)の一角でキュタフィヤ陶器や土産物を売っているパサージュ(小路)に2人を案内した。中に1軒、まことに正直者のおじさんがやっているところがあって、朴訥そのもの、小さな店だが所狭しと並べられた商品は手入れが行き届いていて、埃まみれのを平気で売ってよこす店が多い中、好感が持てるのである。
 ラファさんも、瑠璃子さんも、壁、棚、床に溢れるような彩り豊かな陶器に目を奪われて大喜び。多分2人でおじさんの店の2日分、3日分くらいの売上げに相当する買物をしたであろう。私もこのたびは尋ねてくれた友人達にはご飯茶碗くらいの小鉢をプレゼントしている。味噌や昆布や日本食の何がしかをいただいたお礼(ラファさんからはパレスチナ土産とイスラエル土産を貰った)もあるが、トルコ語で鉢や丼はkase(キャーセ)といい、私はレストランをやっていた頃、よくマダム・キャーセと呼ばれていたので、自分を思い出してもらう意味もあった。買物のあと、3人でバルック・パザール脇の居酒屋小路でビールや魚料理で乾杯し、浅からぬ縁で知り合えたことを喜び合った。
 ラファさんはそれでなくともカメラ機材などいろいろ不ぞろいな形の荷物が多いところへもってきて、日本で陶器屋を開けるくらいトルコの皿小鉢を買いこんでしまったので、私はちょうどわが家にあった引越し用の大きな未使用の段ボールを提供した。あたふたと荷造りして彼女は日本へ帰っていった。

 瑠璃子さんも4回目のトルコ旅行なのだそうだが、まだじっくりとボスポラス・クルーズは楽しんだことがないという。私はきのうラファさんと乗った船とは違う港に着く便を選び、また彼女と海に出た。日がとっぷりと暮れる頃、終点のサリエルに着き、そこからミニバスでメトロへ。
 メトロの各駅には、キュタフィヤタイルの大壁画がある。トルコがまだオスマン帝国という世界最大の版図を持つ国だった頃の、いわばオスマン朝絵巻ともいうべき歴史的な絵画を、トルコブルーを基調としたみごとな装飾タイルで描き出したメトロの大壁画。瑠璃子さんが胸を熱くして眺め入るのが伝わってくる。私はそういう瑠璃子さんを見て胸を熱くするのである。
2002年08月14日 16時45分11秒

或る女性カメラマン
【8月12日、13日】
 11日の昼下がり、島から戻ってきたところで私は、ヅコちゃん、モコちゃんやジェイハン君と別れ、アタテュルク空港までタクシーを飛ばした。テルアビブ発の飛行機が到着する時刻になってしまっていたからだ。
 
 ここ数ヵ月、予断を許さない状況だったイスラエルとパレスチナ。私の次なるお客様は、PLOのアラファト議長の動向を追ってパレスチナに詰めていた報道カメラマンの通称ラファ(RAFAH)さんだった。
 ラファさんは日本人である。それも若い女性の身空で、ずっしりと重くものものしい2台のカメラや撮影機材を抱え、男性報道陣に負けじと緊張の続く一触即発の危険地帯を駆けめぐってきたのである。
 去年(2001)の5月3日、英国航空で日本に行く途中、経由地のロンドン・ヒースロー空港から成田まで、席が隣り合わせになったのがラファさんで、彼女はそのときもパレスチナからの帰りだった。
 私はといえば、長年共に暮した老犬ビクターに先立たれてしまい、傷心を抱えての日本行きだったのだが、犬の話をうなずきながら熱心に聞いてくれた隣の席の娘さんが、自爆テロと殺戮行為の相次ぐ修羅場で何ヵ月も過ごしてきたカメラマンであることを私が知ったのは、もう成田が近づいた頃だった。
 互いのアドレスを交換して再会を約束し、私がトルコで人気のあるスパイシーな煎りトウモロコシを差し出すと、彼女は美容にいいという死海の塩を持たせてくれた。

 それから1年が過ぎた今年の5月、私の初の単行本の出版を知らせる手紙とパンフレットを送り、そこにEメールのアドレスを書き添えておいたところ、6月の初旬に「ご出版おめでとうございます。またパレスチナに行っていましたので、遅くなりましたがすぐにご本を読ませていただきます。私の方もちょうど今週号の写真週刊誌にスクープを取り上げてもらいました」と返事が来た。
 私はすぐ書店に走ったが、発売日から幾日も経っていたため、3〜4軒回って、隣町の大型書店にやっと1冊残っていたのをゲットしたのだった。それはまさに決死のルポルタージュというにふさわしく、イスラエル軍に監禁され、解放された直後のアラファト議長の怒りの表情、テロ、殺戮、荒廃した町など生々しい写真集だった。戦争と平和のはざまを行くラファさんの文にも、無論反戦の思いが綴られている。

 同じ週刊誌の冒頭は世界を沸かせるワールドカップ情報満載だ。国々の戦いが、サッカーのピッチ上だけのことであれば、どれほどいいだろうか。ほどなくまたラファさんは3度目のパレスチナに出かけて行った。イスラエル軍によって議長府が爆破されてしまったからである。
そして8月、ようやく小康状態を取り戻したヨルダン河西岸をあとに、帰国の途中彼女はイスタンブールに立ち寄ってくれることになった。
 予約のホテルに2泊するつもりが、あいにく2日目には空き部屋がなかった。それならば1泊はわが家に招き、ゆっくり骨休めしてもらおう、と決めた。第1日目はブルーモスクやアヤソフィア博物館、トプカプ宮殿など、世界遺産を見て回り、今日12日はわが家に移って街のハマム(トルコ風呂)にも一緒に出かけ、夕方から海峡を船で縦断した。魚レストランで舌鼓を打ち、メトロに乗って帰ってきた。私がビクターの写真をホームページに載せる作業が何度やっても失敗に終わっていたと話したものだから、彼女は自分の資料を整理した後、私が眠ってしまっている間に、いろいろとトライしてくれたらしく、3時頃、ふと目覚めると、「来ましたよ、ビクターが」とにっこりした。

 すごいね、ビクター。お前は国際報道カメラマンのお姉さんのお陰で、ホームページに連れてきてもらえたんだよ。
2002年08月13日 13時34分43秒

待ちに待った日
【8月10日、11日】
 お盆休みに入った日本から、ジェイハン君のメール友達であるヅコちゃんとその親友モコちゃんがやってきた。エジプトにも行く駆け足ツアーなので、せっかくイスタンブールに来たのにたったの1泊しか出来ない。ジェイハン君は大いに嘆いていた。
「これでは着いた夜と、翌朝の数時間しかイスタンブールを見せてあげられないじゃありませんか。僕は1週間ずっとでも、彼女にあちこちを見せてやりたいんです。それに初めて出会うというのに、すぐにまた1年も会えなくなるなんて、こんな理不尽な話がありますか!」
「それでいいでしょ、ジェイハン。短い時間だからこそ、大切に接待してあげられるんじゃないの? お互いまた会いたいという気持になれるんじゃないの?」

 善良で教養もあるジェイハン君なら、トルコ語を勉強中の彼女の文章を上手にフォローしてやれる。メル友として紹介するところまでは、私もその程度にしか考えていなかったのだが、どちらも嘘や飾り気のない人柄だから、毎日メールをやり取りするうち互いに惹かれるのは十分ありうることだった。
 10日の夜、彼女達のグループが泊まっているホテルでご対面となった。海を見下ろすテラス・バーで私達はそれぞれへのお土産を交換し合ったが、ヅコちゃんがジェイハンの満1歳の誕生日に写した2枚の写真を、Tシャツにプリントしてプレゼントしたものには私も胸が熱くなった。その1つは、若き日の美男美女の両親がまるまる太った赤ちゃんを間にして、幸せに肩を寄せ合っているもので、人のいいジェイハンのお父さん・お母さんがどんなに喜ぶだろう。
 その晩は4人でこれぞトルコ料理!というメニューで遅い夕食を楽しみ、ジェイハン君の提案で、週末は不夜城のオルタキョイという繁華街に行った。
 ボスポラス海峡の夜景を目の前に、ライトアップされた美しいオルタキョイ・モスク、
その上に照明灯が巨大なアーチを描くボスポラス大橋。電飾をきらめかせて海峡に浮かぶ遊覧船、モーターボートを突っ走らせる若者達、そして海辺の人、人、人。ヅコちゃんもモコちゃんもうっとりと見とれる。結婚式を挙げたばかりの花嫁花婿が、晴れ姿のままドゥルムという、薄焼きのピザを丸めたものを立ち食いしている。これから披露宴で夜っぴいて踊りつづけるのだろう。
 
 翌朝は8時半に集合して、アジア側の沿岸にある群島の中で、一番大きな島にわたることにした。汽船は島々に寄りながら行くので、
終点までは片道1時間半の青い旅路である。
 ヅコちゃんはメールのお陰でトルコ語をかなり書いたり読んだりできるが、耳がなれていないので会話にならない。ほとんど筆談で意思の疎通をはかる2人から、少し遠ざかった席で、モコちゃんと私は四方山話に花を咲かせた。島では2頭立ての馬車で30分ほどのツアーを楽しみ、残念ながら2時までしか時間がないのですぐ帰途についた。
 この日のためにお金を貯めて男らしく接待に努め、ヅコちゃんに指輪をプレゼントしたジェイハン。彼の差し出す手に、遠慮がちに指の先を預けるヅコちゃん。彼の待ちに待った日は幸せのうちに過ぎていった。
2002年08月12日 14時57分31秒

特異体質?
【8月9日】
 昨日イズミットからの帰り、メトロの入り口で軽いめまいを感じたのが前兆だったのか、珍しく寝起きはけだるくて腰が痛かった。
 前日分の日誌を書き終えて送信した後、椅子から立ち上がろうとしたらまともに立てないくらい腰に力が入らなくなり、なおかつ痛んで、仕方なく90度に折り曲げた格好でよたよた歩いてベッドに戻った。
 これは20日ほど前、アンカラのエセンボア空港で、トイレの入り口にこぼれていた水に足を取られ、思い切り滑って転んだときの後遺症だろうか、それとも夕べの映画館で椅子の背もたれが遠すぎて中途半端な感じで2時間も映画鑑賞していたせいだろうか、考えていたら今度は猛烈な腹痛が襲ってきた。 へんなものを食べた覚えもないのになんというひどい症状だ。
 やっとトイレから出て正露丸を飲み、また横になった。絵葉書の続きを書かなくては、とか、Eメールの返事を書かなくては、とか、たくさんの宿題を抱えた生徒のように心配しながら丸まっていたら、いくらかうとうととしたらしく、目覚めたのは12時半だった。
 昨日は空腹からめまいを起こしたのかもしれないので、食欲はなかったがとりあえずご飯を少し炊いて、炊き上がるまでの間に熱いシャワーを浴びたら、いくらか気分が上向きになった。きゅうりのお新香と梅干でおなかを満たし、熱を測ったら37.7度。解熱剤を飲んで肌掛けや毛布をしっかり掛けて眠ったら、しとどに汗をかき、熱が下がっていた。
 夜7時、もう一度たっぷりとシャワーを浴び、寒くないように袖の長い上着を着て、猫達に餌をやりに階下へ下りた。今日はとてもバルック・パザールまでアクジエル(肺)を買いに行く元気はない。キャット・フードを撒いてやり、擦り寄ってきたカラクズを撫でて早々に家に戻った。去年の5月、日本で冷房の効き過ぎから風邪を引いて以来1年3ヵ月ぶりの、まあ鬼の霍乱みたいなものである。
 
 9時半頃、友人の一人に電話を掛けて、タキシム郵便局からお金を取り戻したことを告げると「偉い、偉い」と誉めてくれたが、
「だけど加瀬さん、もともとはあなたの不注意から騙されたのよ。あなたは話の種がまた出来たと思って書くかも知れないけど、何も知らない日本の読者は、トルコはなんて恐ろしい、おぞましい国だと思うじゃないの。あなたが初めから疑ってかかって、手紙の一つ一つがいくらにつくのか調べれば、詐欺に会わなくても済んだ筈よ。7年もトルコに暮しているのにまだ騙されているなんて、呆れるというか情けないじゃない。頼むから加瀬さん、もっとしっかりして頂戴。あなたを思えばこそ、言うんだから」
 イスタンブール在住の日本人の中でも自他共に認めるインテリ女性ナンバーワンだけに彼女の言葉には説得力がある。私にとっては時には口に苦しの良薬である。いつの日か、疑り深くなって絶対騙されない私が出現することはあるのだろうか。
 彼女がせっかく心配して言ってくれているのに、私はこの点に関しては薬の効かない特異体質なのではあるまいか。それはもう、注意深く暮そうと毎日のように決心しているんだけど、どうも相手を先に疑うのを忘れてしまうからだ。
2002年08月11日 08時43分47秒

ハスキー犬
【8月8日】
 早朝の美しい虹は私を俄然やる気にさせ、いつも月初に行っているイズミットのタイヤ工場ブリサに出かけることにした。日本人スタッフ専用のクラブハウスで、朝晩の日本食サービスに関わっているので、前月分の売上げをいただきに行くのである。
 朝9時半頃家を出て、タクシー、船、長距離バス、マイクロバスと乗り継ぎ、100キロ以上離れた工場に着く。所定の金額を頂戴し、帰りは運良く工場とイスタンブールの本社を繋ぐ連絡車に乗せてもらえたので、メトロの終点第4レベントの入り口で降ろしてもらった。
 地下への階段を2、3歩下りたら、突然フウーッと目の前が薄暮状態になった。急いでサングラスを外したが、やっぱり薄暗い。朦朧としそうになったので手すりにつかまり、一歩一歩ゆっくりと下りた。急に血圧が下がったのかもしれない。
 プラットホームは夏なお寒く私は正常に戻ったが、朝から何も口にしないで出かけたことを思い出した。ホームの片隅にお菓子や飲み物の自動販売機があったので行ってみた。トルコでも最近、さるお菓子の会社やコーラの会社が自動販売機を置くようになったのだが、なにしろインフレが激しくてしょっちゅう値段が変わるので定着しないのである。20円相当のビスケットの袋を1つ買い、電車を待つ間に食べたら、少し落ち着いた。
 タキシムに着き、幾つもエスカレーターや階段を登って地上に出たが、ビスケットのお陰でめまいを起こさずに済んだ。すぐその足で郵便局に行き、例の窓口にまっしぐらに進んだ。
「ベイエフェンディ!(男性に対する最高の敬称。逆に相手の過失を責めるときにもこう言ったりする) 私が何であなたのところにまた来たかお分かりでしょうね」
「な、何だか、分からないよ」
「あなたは国家公務員にあるまじき行為をしたんです。ベイオウル郵便局で計算してもらったら、この間私がここで出した手紙は1千20万リラにしかならないのよ。それを最初5千万だといい、私がトルコ語が話せるのを聞いたら3千7百万、さらに間違った、2千7百万だったとか言って、騙したでしょう。局長さんに訴えてもいいのよ!」
「シィー、そんな必要はないよ、返すよ」
 おやじがあたふたするのを見て、私の脇にいた紳士が「ただの間違いでしょう、誰にも疲れてることがあるから」
「ベイエフェンディ、横から口を出さないで下さいな。とにかく2度とやったら、私と正義が承知しません。いいですね!」

 取り返した1千7百万リラは有効に使おうと、私はもと私の店でボーイをしていたオクタイを映画に誘った。彼ははたちになって、まもなく兵役に行くのである。映画はディズニーの「スノウ・ドッグス」、犬橇レースに出場するハスキー犬達と、それを操る青年の物語だ。始まる前からもうハンカチを用意する私を見て、オクタイも私の愛犬ビクターを可愛がっていた1人として、「あ、あれが一番ビクターに似てる、でもこれも似てますね」と劇中の犬達を見て私に囁く。
 目の前がビクターの面影でいっぱいになってしまい、私は久しぶりでハンカチをびっしょりにしてしまった。
2002年08月09日 15時46分07秒

朝の虹
【8月8日】
 昨晩友人のジェイハン青年と食事をしていたら、強いにわか雨が降ってきた。週末に日本から来る共通の友人を出迎えるための打ち合わせをしていたのだが、まだ猫の餌を買っていないので、雨脚が気になった。幸いロカンタ(食堂)から出る頃には雨は上がって、近くのバルック・パザール(魚市場)に立ち寄り、閉店寸前の臓物屋からアクジエル(肺)を1キロ買い、銀座通りをタキシム広場まで歩き、そこでジェイハンと別れて帰途についた。
 いつもより2時間近く夕飯が遅くなったので猫達は待ちわびていて、ひどい奴は私のパンタロンに跳びついてくる。猫達が貪るように食べているのを眺めているうち、再び雨がポツポツ落ちてきた。ピカッと稲光も。また雷の襲来である。いいときに帰ってきたと思いながら私は自分の家に戻った。家に入るや否や、雨がものすごい勢いで降ってきた。風がうなりをあげ、稲妻が炸裂する。稲妻のあとすぐに大音響が襲ってきた。
 昼間、私は家のアルミサッシのドアや窓の把手が壊れているので修理を頼んであったのだが、まず親方が一度下見に来た。壊れた把手を3個新品に取り替えるのと、シャワーの周囲に立てまわしたガラス戸の戸車がすっかりいかれて、開けたてに手間取り、いつもイライラさせられていたので、これも4個取り替える。見積もってもらったら、90,000,000(9千万)リラと出た。これは円にすると約6300円程になる。去年窓の把手を1つだけ替えたとき、350円程度だったのに。
 
 つい先日、タキシムの郵便局で、十数通の封筒を出したら、初め5千万リラと窓口のおやじが言い、おかしいと思った私が「封筒のスタンプを1つずつ見せてくださいな。なんでそんなに高いの?」と言うと、私のトルコ語を聞いたおやじはあわてて「冗談、冗談」と3千7百万と言い直した。私が日本に行っている間にこんなに値上がりしたのかな、と仕方なく払うと、出口でほかの局員に呼び止められた。さっきのおやじが「すまん、計算違いだ」と更に1千万リラ返して寄越した。
 しかし私の頭は疑いでいっぱいだ。あとでベイオウル郵便局に計算してもらったら、なんと1千20万リラにしかならないのがわかった。よくも2千7百万も取ったな! おやじ、お前は国家公務員だろうが! 一両日中におやじを糾弾するために私はタキシム郵便局に乗り込んでやる。こういう連中がいては、いくら私が自分の本でトルコはいい国です、と書いても嘘になってしまうではないか。

 雷は一晩中荒れ狂った。停電になるといけないので、パソコンは開けないことにして、早めに床についたが寝つかれない。夜中の2時、雨脚は最強となり、家の前の道路は緩やかな傾斜の坂道なのでものすごい急流となって朝方まで続いた。9千万リラも払ったお陰で家のドアも窓もきちんと閉まるようになり、雨に吹き込まれないで済んだ。
 朝6時半、西の空にくっきりと虹が浮かび、
雨に洗われた町の隅々に清潔な空気と爽やかな朝の匂いが立ち込めている。嫌なことはすっかり忘れて、今日からなお一層注意深く暮せばいいのだ。虹は、それはそれは見事なものだった。
2002年08月08日 15時12分55秒

私の長い1日
【8月6日】
 今日は出歩く用事をいっぺんに済ませようと、朝のうちに絵葉書に切手を貼り付けた。土曜日から書き溜めた分で30通余り。
 午前10時半、まずタキシム広場のチケット販売店へ。来週日本から来る友人と行く、ボスポラス海峡沿いのルメリ・ヒサールという要塞跡で行なわれる有名歌手のコンサートの切符を手に入れる。
 次はシシリという街に事務所を構える弁護士のバルシュ・ギュルオウルさん。新党を結成したもとイスタンブール市長のシンパなので、11月3日に選挙を控え事務所には熱気が渦巻いている。日本土産の扇子を喜んでくれたはいいが、バリバリッと真横に開き、一瞬ヒヤッとさせられた。私の土産の中では一番の高級品だというのに、もう。
 次は今週末日本から来る女の子達に、トルコ独特のデザインの小鉢をプレゼントしようと、銀座通りの横丁の土産物屋さんに行く。
 それからがたいへんだ。水道料と電話料をいっぺんに払い込める銀行を探して、銀座通りの下(しも)から上(かみ)まで逆戻り。日本に行っている間に、幾つもの銀行が潰れたり統合されたりで、すっかり銀行の名前が変わってしまっていたからだ。そういえば日本もなじみのない名前の銀行ばかりになってしまったが・・・。
 やっと1箇所で同時に受け付けてくれる銀行を探し当て、整理番号があと3番だったのでほっとしてソファにすわったら、これが待つこと30分。窓口は2つだが、何でこんなに長引くのかさっぱりわからない。
 さて、いよいよ絵葉書を出しにまた銀座通りを下に向かって歩き、ベイオウル郵便局に行った。毎月日本から送られてきていた原稿料を受け取りに行っていたので、職員の殆どと顔見知り。事務室に招じ入れられ、日本でどうしていたのかみんなが聞く。30分後そこを出て、坂道を下り、もと隣にいた骨董屋さんの引越し先に寄ってみたが留守だった。
 その足でアルミサッシ屋さんにより、壊れた窓のハンドルの修理を依頼し、また坂道を登ってジハンギルの肉屋さんに行き、そこの店員が配達に出たついでに、別の臓物屋から猫達の餌を買ってきてもらい、隣の花屋さんが病気だったと聞いてお見舞いを言いに立ち寄り、宮沢賢治みたいだなと思いながら最後にまた坂道を少し下って、昔、毎朝毎晩ビクターの散歩に通った風光明媚な駐車場に寄ってみた。

 そこには私のイスタンブール生活の原風景ともいうべき雄大かつ躍動的な眺望があって、西日に照らされた海には白波を蹴立ててたくさんの汽船が行き交い、アジア側の家々のガラスに夕陽が反射してまぶしい。
 駐車場の社長とそのお父さん、息子がみんなで歓迎してくれた。ビクターの思い出話も出る。崖っぷちに張ったテントの下で冷たい水やぶどうを振舞われ、海の景色を堪能した。
 しかし1日に7箇所も8箇所も歩くとさすがに疲れてしまい、さすがに絵葉書も日記も書く元気がなくなって、早めに寝ようとシャワーを浴び、今日は1キロくらい体重が減っただろうかと秤に乗ったら、なんと昨日より増えていたのでがっかりしてしまった。
2002年08月07日 18時49分49秒

スイカ
 夏の果物の王様はやっぱりスイカだろう。トルコ語ではカルプスといい、シリアに近いトルコ東南部のディヤルバクル市は、スイカの名産地としてつとに知られている。
 しかも市内に残る古代遺跡の城壁に、巨大なスイカのモニュメントを載せてあるのだそうだ。もちろんこのモニュメントは近年、観光地としても名乗りをあげた同市のコマーシャルであろうが、実際ディヤルバクルの知り合いからお土産にもらった城壁型のペン立ての真ん中にスイカが鎮座している。これはぜひとも一度本物を見に行きたいところである。

 ディヤルバクルに限らず、南部の各地方からは続々と一大消費地イスタンブールにスイカを満載したトラックが到着し、市の郊外にある農産物中央集荷場でせりが行なわれ、店頭に出回るのだが、スイカの相場は非常に安い。これで採算が取れるのかしらというほどだ。
 先日、通りがかりのスイカ売りのトラックを呼び止め、ちょうどラグビーボールくらいのを買ったら、50万リラ(35円くらい)だった。毎日でも食べていたいのだが、わが家の冷蔵庫はホテルのミニバー並みなので、しまいきれないから諦めることが多いのだ。

 私がスイカに塩をかけて食べるのを見てトルコ人はびっくりする。笑ったりする。そういう彼らは、スイカと一緒に、塩気の強い白チーズをせっせと口に運ぶのである。でも私はそれをみても珍しがったりしないぞ。甘いものにはちょっぴり塩気があったほうがいい。

 3年前の夏の或る日、私がレストランの営業を終えて階下に降りると、ホテルのフロントマネージャー、エムレさんがスイカを食べていきませんか、と呼び止める。新任の支配人が不景気対策として従業員の3分の2を削減したあおりで、エムレさんは1日18時間勤務となり、毎日疲れと眠気で発狂寸前だと告白した。
 昼間6時間足らずの仮眠を取りに自宅に戻るが、満1歳の可愛い盛りの子供とも遊んでやれないエムレさんは、一番眠たくなる午後11時頃、私が降りてくるので連日スイカを用意して待っているようになった。
 私も彼が爆睡状態に陥らないよう、2時間ほど話し相手を勤め、夜警に付き添われて家に戻る。3ヵ月近くそんな状態が続いたが、ついにエムレさんも耐え切れず辞めていった。

 今勤めているホテルはいいらしい。私が日本から戻ったことを知らせると喜んで、ぜひ何かご馳走させてくださいと言う。彼にそう言われても、スイカしか思い浮かばないんだけど、どうしよう?
2002年08月06日 15時45分53秒

ベランダで
 日本で出版記念講演会を開かせてもらったとき、アンケートにお応えいただいた方にイスタンブールからお便りしますと約束したので、数日前からベランダ(トルコ語ではバルコン。今後はベランダに統一)で絵葉書を書くのに着手した。絵葉書問屋から最もイスタンブールらしい図柄を選んでまとめ買いしたので、目の前に百数十枚も積んである。私はさらさらと書けないたちで、絵葉書に字が曲がらないよう鉛筆でうすく5ミリ間隔の線を引き、細かい字でいっぱい書くので時間がかかる。

 さすがにずっと書いていると、目も疲れ、飽きても来るので、何度となくペンを手放し、景色を見たり目を閉じて耳を澄ませたりする。
 隣のモスクのエザーンはもちろん、坂の上にある聖アントアン教会の鐘楼から澄んだ鐘の音が聞こえる。風向きによっては、空港へ着陸態勢に入った旅客機が、あとからあとから巨大な腹を見せて轟音とともに通過してゆく。小型トラックの移動八百屋や、ごまをいっぱいまぶしたドーナツ型のパン、シミットを売るおじさんが声を張り上げて通る。カモメが鳴く、ツバメが鳴く。

 西向きのベランダは午後のいっとき灼熱地獄と化すが、夜は涼しさが戻ってくる。夜空を見上げて、といってもあまり星は見えないが、ビールを一杯やるにはもってこいだ。しかし1人では味気なくて滅多に飲まない。たまに飲む気になっても、せっかく開けた缶ビールが一口でもう欲しくなくなり、残り大半は、「ほらほら、ビールまで飲ませてくれるのはお母さんしかいないよ」と恩着せがましくつぶやきながら、サロンの観葉植物に飲ませてやることが多いのである。
2002年08月05日 18時40分52秒

落 款
 私は若い頃から印判に興味をもっていて、子供時代にはよく消しゴムで花とか鳥の絵を彫って、友達にあげたりしたものだ。
 20代前半は千葉県の流山市役所でタイピストとして勤務していたのだが、その頃役所に出入りしていたハンコ屋さんの彫る、品のよい行書の字体が好きで、柘植の丸い印材を選び、まだ結婚もしていないのに、密かにカレシの苗字で大小幾つかの判こを彫ってもらった。
 幸い、このハンコは結婚したので使えるようになって、それまで何ごとも楕円形の三文判で済ませていた夫にもプレゼントしたのだが、女房の持ってきたハンコなど使えるかとばかり、よそに頼んで自分用を作ってもらったらしく、印材は水牛の角、書体はテン書という、洒落たハンコの所有者になった。
 しかし、30年後私は離婚して旧姓に戻ることになり、高校卒業のときに記念品として学校からもらった機械彫り、練り物の安いハンコが今では役に立っている。

 私の本を買ってくださった方や贈呈本にサインするときに落款があるといいな、と思い地元のハンコ屋さんに尋ねたらかなり値が張るので、手もと不如意だった私はいっそ自分で彫っちゃえとばかり、ディスカウントショップで印材だけ買ってきたが、やはり落ち着いて彫っている時間がなく、諦めて日本にそのまま置いてきた。

 今朝、山陰に住む友人にEメールの返事を書き、オンラインに切り替えようとした途端、ピンポーンとチャイムが鳴った。郵便屋さんだ。彼女が7月半ばに送ってくれたものが今着いたのだった。開けてみると落款用の立派な石の角印と、「由」の字をデフォルメしたかわいい認めが入っていた。伯父さんが彫ってくれたのだそうだ。
「何を送ってくれたのでしょう。いまだに着かないのですが・・・」と書いて送るつもりのEメールがもちろん、お礼状に早や変わり。それにしても恐ろしい以心伝心(電信か?)だった。(8月3日)
2002年08月05日 18時33分44秒

また乗るバスを間違えて
 イスタンブールでは電車や地下鉄が極端に少ない代わりに、市営バスとか、民営バスとか、ミニビュス(マイクロバス)、ドルムシュ(満員になると発車する乗合自動車)、タクシーなど車両を使う地上交通手段が圧倒的に多い。道が混雑する原因もそこにある。

 市営バスと民営バスはなぜか私の知る限りでは全く同じ路線を走っていて、1台おきに交互に運行している。料金も同じだが、市営バスはワンマンで現金は受け付けない。民営の方は前方の乗り口のすぐ脇の狭苦しいところにカウンターを作りつけて、車掌が座っており、現金を払うと切符をくれる。
 多分私がトルコに住み始めたたばかりのころからだと思うが、アクビルといって磁気を利用したプリペイド式の乗車券が開発され、券のイメージとは全く違うボタン式の小さな道具(「犬と三日月」124ページ参照)が便利なので人気を呼んで、今では庶民ならみんなが鍵束などにつけてチャラチャラと持って歩いている。カラフルでとても可愛い形だ。アクビルはアクルルビレットの省略で、バスだけでなくメトロや汽船の乗り場でも使え、賢い乗車券とでも訳すのか、2割か2割5分引きで乗れるので交通費の節約にもなるのである。

 今を去る8年前、言葉を少し習ってからトルコに来た私は、初めてたった一人でイスタンブールの街を逍遥しようと家を出た。船着場にいたら、船腹や救命浮き輪にメジディエキョイと大書したフェリーがきたので、メジディエキョイに行く船だとばかり思って乗ったら、どんどんアジア側に向かって進んでゆくではないか。
 隣のおじさんにおそるおそる聞いたら、「このフェリーはアジア側のハーレムに行くんだよ。なに、メジディエキョイと書いてあるって? そりゃこの船の名前じゃないか」
 
 私はイスタンブールに住みついて7年余りになる今も、この手の失敗が多い。今日はエミニョニュから船に乗ってみた。オルタキョイというところで船から降りて、バスでタキシム広場に帰ろうとしたら、乗ったバスが逆の方角に曲がってぐんぐん坂を登ってゆく。しまった、内陸経由に乗っちゃった。
 目的地は同じでも、海岸経由だったり、内陸経由だったり、路線の数がやたらに多いのである。いまだにバスを間違える私。やっぱり異邦人なんだなあ。でも同じ料金で倍の時間乗れたんだから、少し得したような気もするのである。 
2002年08月04日 04時43分55秒

 チビッコに雷を落とした話を書いたので、今朝(2日朝)、イスタンブールでも雷が大暴れしたのを思い出した。
 8時過ぎから雲行きが怪しくなり、空の一角でゴロゴロと不穏な音が響いてきた。9時前後にはたいへんな雨脚で降り出してきた。停電にでもなると困るなあと思いながらテレテレと朝食の支度を始めた。
 前夜10時半ころ下の家の奥さんから電話がかかってきて、「お茶が入ったからおいで」というのでちょっとのつもりで顔を出したら、おいしい手作りのケーキときゅうりの漬物がこてこてと山盛りになっていて、話が預言者マホメットの4人の妻は幸せだったかどうかということになり、一夫多妻をどう思うかですっかり盛り上がってしまい、午前1時過ぎに満腹のおなかを抱えて自分の家に戻ったので、起き抜けには何も食べる気がしなかったのだ。

 10時。ひときわ大物が接近してきた。絶え間なくおどろおどろしい雷鳴が聞こえ、家の前の坂道は急流となってゴミも何も押し流してゆく。先日、千葉の友人が常々エザーンと言うものを聞いてみたいと言っていたので、隣の隣のモスクからエザーンが聞こえるときに電話をかけてしばし聞かせてあげたら、彼女はもう大感激だった。
 ふと思いついて娘にこの雷を聞かせてやろうと0081・・・と日本へのダイヤルを回した。
「どうだい、すごい雷だろう」 
「なに言ってんの、お母さん。こっちも3日続きの台風みたいな雷だよ。もう、たいへん」
 ゴロゴロ、ガガガ〜ン。日本の雷も負けてはいない。
「じゃあ、電話代かかるから切るよ」

 午後、懇意にしている肉屋さんに立ち寄って朝の雷のすごかった話をし、「雷は大嫌いなのよ」と言って出てきてからはっと気がついた。肉屋さんちの苗字はユルドゥルム(雷)というんだったよ、ああうかつ。 
2002年08月03日 03時41分24秒

しつけ
 昼少し過ぎに出かけ、出かけたついでに猫達の餌を買ってぶらぶら坂道を下ってきたら、モスクの前のチェシュメ(水道)で小さな女の子2人が、壜に水を汲んではあたりを水浸しにしながら撒き散らしている。
 1人は幼稚園に通っているうちのビルのカプジュ(本来は門番。アパートの地階に住んで、住人たちの雑用やビルの清掃・メンテナンスなどを仕事にする人)の娘。もう1人は隣のビルの地階に住む家族の、4歳になる女の子である。この小さい方が、飛び切りの腕白と言うか野生児そのものなのである。
「こらこら子供達、もったいないことをしちゃ駄目だよ」とやさしく注意した途端、チビが私の足元めがけて水を撒き散らした。そして空になると放り投げたのだ。下は石である。壜は砕け散った。朱に交われば赤くなるというが、カプジュの娘も自分より年下のこのチビに付和雷同して、壜を路上に投げ捨てた。

「コラーッ、何をする!」とチビの首根っこを捕まえたがするりと逃げ出した。犬や猫はやさしく接する人には決して悪さはしない。これでは犬猫以下ではないか。私は追いかけていって裏庭で洗濯物を干していたその子の母親に言った。
「あなた、あの子に少しはしつけってものをなさいよ。このまま成長したらとんでもないことになるんじゃないの」
「あの子が何かしたんですか」
「これこれしかじかよ。親が充分しつければあんな悪さはしないはずです。それに毎日のようにうちへ来て、ピンポンピンポン鳴らすから、開けると飛び込んできて部屋中飛び回るし、引出しでも何でも開けちゃうのよ。初めて言うけど」
「それはすみませんでした。じゃあ、あとであの子を叩いておきますから。ジャポン・テーゼ(日本のおばさん)が怒るからやってはいけないと言っておきますから・・・」

 アッラハッラー、だめだこりゃ。



 
2002年08月03日 02時53分04秒

キャムランさんの美容院
 いつのまにか8月になってしまった。髪はいつカットしたのか思い出せない。本日1日は、初めてトルコ語を習い始めたころの個人授業の先生を訪問する予定だったので、少しこざっぱりとして行こうと思い、行きつけの美容院に電話をかけた。
「アロー(もしもし)」と言った途端、
「あっ、カセー、どこに行ってたの。3ヵ月したら戻るって言ってたじゃないの。トルコを忘れちゃったんだろうとうちの人と噂してたんだよ」
 娘時代にドイツにわたり、向こうで美容師の見習いから始めてせっせと働き、お金を貯めてイスタンブールに店を持ったキャムランさんは、外国人からはぼるのが当たり前になっているトルコの商売人をひどく毛嫌いしていた。

 私は以前住んでいた家の向かいの店で髪を染めたりパーマをかけてもらったりしていたのだが、そこのあるじが「マダム・カセ、あなたは我々の大切な隣人ですから、特別勉強いたします」と言い、会計のとき必ず「○○リラいただけばもう充分です」と言うのだった。
 長い間、私は相手を信じて気持ちよく払い続けていたのだが、家を引っ越した3年前、その店まで行くのがちょっと億劫になって、近所の子供が教えてくれた美容院を覗いたら、金髪の気の強そうなおばさんが1人で立ち働いていた。洗髪し、髪を染め、パーマをかけ、カットしてもらって、さあ、値段を聞いて腰を抜かしそうになった。は、半分以下なのだ!

「間違ってないでしょうね。向こうの店では、これだけやれば、○○リラ以下ってことはなかったのよ」
「えーっ、そんなに!?」と今度は彼女が腰を抜かしそうになった。

 以来私はキャムランさんの美容院に通っている。犬連れなので、必ず他のお客のいないときに行く。鏡の中に、私を待つ間飽きてうろつくビクターが映っているのが常だった。
 この不景気で客が減り、冷房装置も取り付けられないキャムランさんの店は暑い。それでも私は、あのべらんめえ口調と、正直一方の性格と、ビクターの思い出がいっぱいの彼女の美容院が好きで、今後も通いつづけるだろう。
 

 





 
2002年08月02日 02時32分37秒

カラクズとコンテス
 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房)は、5年半にわたる連載「マダム・カセのイスタンブール便り」(社会教育)を、単行本に直すためにかなりの部分を削ったりふくらませたりしたのだが、14年余り連れ添った愛犬ビクターの話以上に、近所の野良猫を描いたカラクズ物語が、動物好きの人にはグッときたらしい。

 カラクズはトルコ語で色の黒い娘。わが家の周辺にいる野良猫の一匹で、漆黒の毛並みの賢い猫である。犬猫病院に風邪で入院中に、近所のおばさんからの電話一本で、避妊手術を施されてしまってからは、恋愛のお相手だったテキル(縞模様の猫という意味)も近寄らなくなり、今は骨董屋さんの店先でごろごろしていることが多い。彼女は界隈の人々にも気を許さないが、うちの娘と私にだけは非常になついている。バルコンに出た私の足音を聞きつけると、さっと物陰から飛び出してきて下からじっと見上げ、小さな声で「カラクズ」と呼ぶと、何度でもニャーと返事をするのである。

 コンテスというのはもとカフェのあるじだったタシュクンおじさんが飼っていた猫なのだが、頭から背中、脚や尻尾にかけて茶と黒の縞模様、おなかとつま先だけは真っ白で、ペルシャ猫の血でも引いているのか毛足が長く、かつては伯爵夫人の名にふさわしい美しい猫だった。しかし何年か前、車にはねられたそうで、彼女の右目は白くにごり、片方は潰れてまったく何も見えないのである。
 商売の立ち行かなくなったタシュクンおじさんはエーゲ海の方の村に引っ越してしまい、コンテスは置いてゆかれてしまった。彼女も私の足音やかすかな咳払いでも聞き逃さず、もっさりとバルコンの下にやってくる。毎朝私を見上げる猫は2匹いるのである。

 夕方になると、娘はタシュクンおじさんの代わりに近所の臓物屋さんでアクジエル(肺)のこま切れを買って来て10匹以上もいる野良猫達の面倒をみていた。彼女は私が戻ると交替に日本に行き、留守中の猫達の世話をくれぐれもよろしくと頼んでいった。
 あとを引き受けてから10日になるが、猫達は私を見るともうさっと集まってくるようになった。カラクズはほかの猫を寄せ付けない気の強い猫だが、目の見えないコンテスとだけは喧嘩をしない。
 もうカラクズを見向きもしないテキルが、カラクズの餌を狙って近づいた瞬間、猛烈なびんたをくらわすのを見たときは、いいぞ、カラクズ!と思わず叫んでしまった。
2002年07月31日 23時23分48秒

メトロ
 昨日は用事があってメトロに乗った。イスタンブールのど真ん中、タキシム広場を起点として、北の方角の第4レベントまで6駅5区間を12、3分で結んでいる。
 始発駅タキシムはまず階段を2回降り、改札口からまた階段で降りてゆき、そのあと長いコンコースをたどるとまた階段を降りてようやくプラットホームに出る。地下の天井はかまぼこ方に穿たれていて、車両の作りも小さくて大量輸送は望めない。
 タキシムは丘の頂上にあるので、ことさら地下の深いところにもぐっていくような印象があるのだろう。コンコースやプラットフォームの反対側の壁には見事なオスマン朝時代のモチーフによるタイル壁画が飾られていて、それは見事なものである。
 しかし電車は空いていた。真夏だというのに駅には冷え冷えとした空気と、一種独特な匂いが漂っている。鍾乳洞にでも入ったような感じなのである。地下鉄の発達した東京とは比べるべくもないが、せっかく巨額の建設費と10年余りの歳月をかけて作ったのだから、もっと利用者があってもよさそうだ。
 市の交通局は、地下鉄をもっと利用させるために、庶民の足であるマイクロバスや、ドルムシュ(満員になると発車する乗合自動車)など、地上の交通機関に路線廃止や、路線短縮などを命じ、否応なく市民を地下鉄に向かわせるようにしているらしいが、開設された2年前とたいして変わらぬように見える。
 私が日本に滞在していた間に、わが街ジハンギルから1時間20分おきに出ていた市営バスも、やはり廃止の憂き目にあったそうだ。みんな文句たらたらで、意地でもメトロにゃ乗らないよ、などと言う人までいる。
 ひどい赤字で今にメトロも廃止、なんてことにならなければいいのだが。だって今のトルコには、造ってみたけど使い物にならなくて廃止したという施設や建物が多すぎるから、私は真底心配しているのである。
2002年07月31日 07時01分59秒

異国情緒たっぷり、エザーンの響き
 夏の盛りの今頃は、朝も5時半くらいになると、夜明けの祈りを促すエザーンの声があちらこちらのモスクから聞こえてくる。敬虔なイスラム教徒達は、エザーンが聞こえると近所のモスクに出かけてゆき、併設のチェシュメ(水道。元の意味は泉)で顔や手足を清め、本堂に額づくのである。

 エザーンは1日5回、イスラムの休息日である金曜日は6回朗詠される。断食月(ラマザン)の日没のエザーンは、その日の断食解禁を告げるありがたいものだから、みんな待ちに待っていて、ドド〜ンと街に号砲が鳴り響くと続いて始まるエザーンの声を合図に、一斉にラマザン・ピデという大きなパンやスープ、煮豆などで空腹を満たすのである。
 あるテレビ局では、ラマザン中の日没のエザーンに、トルコ屈指の大物歌手イブラヒム・タトゥルセスを起用して、全国に放映する。鍛えぬかれた美声は、信徒でなくともうっとりするほどだ。

 わが家はモスクの隣の隣にあるので、私は毎日エザーンのシャワーを浴びているが、時々朝の祈りがほかのモスクより30分も遅れることがあった。ホジャ(僧侶)に尋ねると、
「ええ、寝坊しちゃうんですよ、たまに。目覚し時計が聞こえなくてね」なんて、いともあっさりのたまわる。そんなのありかいな。
 もっとも、こちらも今ではすっかり慣れっこで、スピーカーのボリュームいっぱいに鳴り響く朝のエザーンにも、もう目を覚ますことはめったになくなってしまっているからおあいこですね。
 
2002年07月30日 15時09分07秒

ホームページ初体験
 去年の4月、息子からぴっかぴかのパソコンをプレゼントしてもらってから1年余り。だいたい、こちらからねだった手前、とっくにホームページくらい開設出来る腕前になっていなければいけないのに、メールのやり取りと掲示板の書き込み程度しか分かっていないので、子供達の前ではことパソコンに関しては親の面目まるつぶれである。
 1年経って一念発起。わが家に遊びに来た友人にHP作成のアクセスの仕方を教わって、まずは空家探しから。孤軍奮闘まる2日。
 やっと見つけた1軒にめでたく入居。ガーデニング風な表紙のページは出来たものの、その先に進む方法が掴めない。何も書き込めないうちカウンターばかりがカチカチ進んでしまう。これは訪問者の数じゃあありませんからね。自分で家を建てることになったにわか大工が踏み荒らした足跡でございます。
 とにかく、この文章が第1回として無事に日記に掲載されますように。
2002年07月30日 03時06分59秒

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