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ホームステイ
【9月30日〜10月1日・月〜火曜日】
 ボドルムから戻ったメディアの方々が着いたのは、30日の夕方6時過ぎだった。ホテルで2組に分かれ、今夜ホームステイする組の2人を、首を長くして待っているに違いないアルバトル家に案内した。
 30日は午後3時頃までこの上ない上天気だったのに、夕方から俄かに雲が張り出して、急速に暗くなってきた。アルバトル・アパルトマンは築80年、格調高いヨーロッパ風建築で最上階の7階まで、のんびりとしたエレベーターで上がってゆく。
 お母さんのマルギッタさん、長女ジェワヒル、次女メリエム、3女ジャーナン、そして3人の従姉でドイツ人のゲルヒルトさん。女性ばかり5人が賑やかに笑顔で出迎えたので、記者さん達も家族構成はあらかじめ知らせてはおいたものの、大いに面食らった感じで、育ちのいいお坊ちゃまタイプの記者さんと、職業柄身なりこそサファリロード風だが、人の良さが顔ににじみ出ているカメラマン氏は、互いに照れくさそうに笑いながら用意された部屋に入った。
 日本から女性達が喜びそうな西陣の巾着やら風呂敷やら、和紙の銘々皿などお土産に持って来てくれたので、お茶目な下の2人はことさら大はしゃぎ。記者さん達の緊張もほぐれて、まずはアルバトル家のベランダから息を呑むようなパノラマを見てもらった。
 昔のコンスタンティノープルを俯瞰出来るベランダからは、イスタンブール最大の観光資源トプカプ宮殿、アヤソフィア博物館、ブルーモスクとして世界に知られるスルタンアフメット寺院や、旧市街の丘の上に海を背景に稜線を描く数々のモスクや民家、ローマ時代の水道橋、ガラタ塔など、目をアジア側に転じればマルマラ海に浮かぶ島々や、ハイダルパシャコンテナ埠頭、歌で知られたウスキュダル(ウスクダラ)。そしてボスポラス海峡を行き交う船の数々。
 あいにくの空模様となって、鉛色の雲が垂れ込めてしまったが、街に明かりが点り始め、イスタンブールはゆっくりと暮れようとしていた。3人の娘達が給仕を始め、大テーブルの上に次々と料理が運ばれた。全員着席して写真を撮ってもらい、いよいよ宴は始まった。5〜6種類の前菜が大鉢に山盛りである。
 大学生である下の2人は英語も少し話せるので、記者さんもカメラマン氏も彼女達の程度に合わせてゆっくりと英語で料理の名前を聞いたり、趣味を聞いたりする。頃合いを見てお母さんのマルギッタさんが、ベランダの大きなマンガル(トルコの七輪)で起こした炭火で肉を焼き始めた。これもカメラに収め、ラムの骨付き肉、鳥の手羽が次々と運ばれてくるのをいただいた。
記者・カメラマン両氏が大学時代ともに第二外国語としてドイツ語を学んだとのことで、お母さんとは短いセンテンスながらドイツ語で料理を褒めたりお礼を言ったり出来たのだが、2人ともアンチョコを持ってきたとはいえ、トルコ語はさっぱり覚えられず、下の娘2人にいいように翻弄され、その度に笑いが渦巻いて、3時間にわたる晩餐は和やかに過ぎていった。
11時頃、両氏は寝室に引き取り、私もアルバトル家を辞して、昼間なら歩いて7、8分の距離ながら用心してタクシーに乗り家に戻った。日記が遅れがちなので少しでもと、2時まで下書きに費やし、やはり居眠りばかり出るので書きあがらず、ついにベッドにもぐりこんだ。

明けて10月1日は9時に朝食、10時頃アルバトル家をおいとますることになっていた。今日こそはからりと晴れた空を期待したが、あいにく小雨まで降りだすという薄情さ。
ホームステイ組はデミルジさんのオフィスに荷物を預けに立ち寄り、そこから記者さんとカメラマン氏は別行動となった。私は記者さんをベシクタシュにあるシェフムス先生のお宅に案内した。先生が以前からメディアの方々に自宅で食事なりお茶なりを振る舞い、いろいろ話をしたいと言っていたのだが、肝心の先生自身が、イギリスからの来客の応対に手間取って自宅に戻るのが遅くなり、とうとう会えずじまいだった。
もう1軒、世界各国のホームステイ協会のような組織と提携している会社があって、記者さんと私は先生のお宅を辞してそちらに向かった。女性のディレクターと記者さんが直接英語で話すのを脇で聞きながら、最後に私が、ロングステイのためのインフォメーション・オフィスを開ける準備をしている旨を話すと、ディレクター女史は快く、提携して協力しましょうと言った。
集合時間まであと1時間を残すばかりになった。
「できれば悦子さんから聞いていたグランド・バザールかエジプシャン・バザールを見てみたいのですが」と記者さんが言うので、私はより身近な日常的スペースであるエジプシャン・バザールを勧めた。タクシーに頼んでバイパスを飛ばし、15分でエミニョニュに到着、2人でドネルケバブ(回転焼肉の切り身をパン生地に挟んだもの)を頬張り、30分だけ見て歩き、会社へのお土産を買って、慌しくデミルジさんの会社に戻った。
 チャーターのワゴン車で空港までは幸い25分ほどだった。すぐにチェックインし、みんなで最後にお茶のみしようということでテーブルを囲むと、斜め後方にいた女性からデミルジさんに声がかかった。
 脇を通り抜けたときその女性を、あれ、と一瞬思ったのだが、同席していた男性が白い麻の詰襟服だったので、もしやカンボジアの王家あたりの、やんごとなき末裔ご夫妻か、と思い込んでいたら、彼女こそ女性日本語ガイドの草分け的存在のセラップさんで、お互いに名前はよく知っていながら、2年半前に1度会ったきり私がご無沙汰してしまっていたのだった。
 セラップさんは私を懐かしんでくれて、連れの殿方を紹介してくれた。聞けばカンボジアの王族ではなく、日本のさるテレビ局のプロデューサーで、今回のメディアのツアーで来た女性も、ぜひお見知りおきを、と名刺を取り出して挨拶に駆けつけたくらい高名な方だそうだ。氏が担当する教養番組「世界遺産」は、6年半も続く長寿番組だという。
氏は私の著書についても、新聞で見たタイトルに惹かれたと、記憶に留めていてくれた。帰ったら早速読みましょうと約束し、日本に来たときは必ず自分を訪ねてくるように、と念を押して帰って行かれた。

その晩のガラタサライ対ブルジュの試合はこの上ない凡戦で0−0、小枝子さんともどもがっかりしながら、よかったねえ、高いお金を出して指定席なんぞを買わなくてと、話し合いながらすっかり冷え込んだスタジアムを後にした。
2002年10月03日 00時14分14秒

またまたこんな偶然
【9月29日・日曜日】
 驚き桃の木山椒の木、という言葉はこんなときに言うんではないのかな。私にはピアニストの友人がいる。彼女は・・・う〜ん、仮に響子さんと呼んでおこう。響子さんもイスタンブール在住7年余り。トメル(トルコ語学校)で同級生として何ヵ月か机を並べたこともあるのだが、先日私に「ご近所に住む日本人の中年男性に加瀬さんのことを話したら、私達2人を日曜日のお昼、お食事に招待してくれたのよ。もうじき日本に帰ってしまうというので、お別れ会みたいなものかな。ご都合はどう?」と電話をかけてきた。
「そうねえ、あなたと一緒なら伺ってもいいわ」と、本日のお昼に出かけることになった。
 朝のうち、サッカーの小枝子さんから電話があって、10月1日の夜、アリ・サミ・イェン・スタジアムで行なわれるガラタサライと、ベルギーのブルジュチームの国際試合に誘われた。ブルジュは去年の2月、小枝子さんと初の旅行をした思い出の地である。
 10月1日は日本のメディアの方が帰る日である。午後3時頃空港まで見送って、それからゆっくり街へ戻ってきても大丈夫。試合に行くことに決め、彼女は早速チケットを買いに出かけて夕方わが家に来ることになっていた。
 響子さんがいるとはいえ、初対面の男性のお宅にお邪魔するなら2時間が限度、3時には失礼して、バルック・パザールでイカとイワシと海老を買おう。アンタルヤの碧さんが日本から重い思いをして持ってきてくれた里芋をついにイカと一緒に煮るのだ。イワシは半分は刺身に、半分は甘酢漬けにする。海老は茹でてたのをそのまま塩か醤油をつけて食べる。夕飯のおかずも頭の中で決めて、待ち合わせのタキシム広場に出かけていった。
 2人でワインとプリンをお土産に買い、広場からも程近いドイツ領事館脇の急な坂道を下って、当のお宅にお邪魔した。
 するとそこのアパルトマンは、かつて私のかせレストランが開店したばかりの頃、まったくの友情で給料も何も取らず手伝ってくれていたサユリさんのいた家だった。しかも同じフラットだ。懐かしいなあ、と私はしばしこの部屋へ招待してくれた彼女を思い出した。サユリさんは店を手伝ってくれたり、私の留守中のビクターの面倒をよく見てくれた女性で、今は日本にいるのだが、今年の春トルコ人のご主人との間に女の子が誕生し、めでたくお母さんとなった。この夏は休暇を取って日本に行ったご主人と、親子夫婦水入らずで暮したのだろうなあ。

 さて、響子さんのご近所のおじさまは、私達のためにまめまめしくも朝早く出かけて行って、対岸のウスキュダルからスズキを買ってきて野菜と煮付けておいてくれたのだそうだ。高校の教師を定年退職し、少年時代からの、一度海外で生活を・・という夢をかなえるために、去年イスタンブールの住人になったのだそうだが、1年いてこの街は肌に合わないと感じ一旦日本に戻るのだそうだ。
 響子さんが先生と呼んでいるので私もそう呼ばせてもらうことにした。出身地の話になり、東京世田谷で子供時代を過ごしたと言ったら、何とまあ、あちらは世田谷区の上馬1丁目、私は2丁目で、中学校が一緒だったと分かった。私より2年先輩に当たる人だったのだ。
「ではAさんて方、ご存じないでしょうか」
 Aさんとは私の初恋の人である。先日もこの日記に、加藤登紀子の歌うテネシー・ワルツを聞いて彼を思い出さずにはいられなかった話を書いた。
「A君は僕の同級生でしたよ。僕なんぞは落ちこぼれの方だったんですが、彼は背の高い、勉強の出来る人望のある人で、たしかパーマ屋さんの息子さんですよね」
「ええ、そうです、そうです。じゃあ、先生も3年6組でしたか」
 我ながら当時のことを実によく覚えていて、私が次々とAさんと同級の当時の3年6組の生徒達の名前をあげると、目を丸くして聞いていたおじさまは、次第に目の前にいるおばさんが47、8年前あのAさんに憧れていた後輩で、自分達がさんざんおちょくった元気な女の子だ、と記憶が甦ってきたようだった。彼は照れ笑いをしながら言った。
「中学卒業後、彼とは会っていないのですが、どうしたでしょうね」
「私が35歳頃、私のタイプ教室にAさんの高校・大学時代の親友である有名新聞の記者と言う人が英文を習いにきて、その人から日航のパイロットになったと聞きました。でもそれきりですけど」
「いやあ、不思議ですよね。すごいなあ。よろしい、私が日本に帰ったら、何とか彼に連絡を取りましょう。まあ、待っていてください」と、まあ、こういうことになった。

 私は高校時代に憧れた社会科社会のN先生にも去年40年ぶりで再会できたし、その再会もイスタンブールに来てから、お隣のアルバトル家(明日30日ホームステイの宿になってくれる家)に昔日本人男性が1年間下宿したとの話を聞き、その人の名前を偶然にも今回の取材旅行の方々のコーディネーターをしているデミルジさんの発行した雑誌で見つけ、アルバトル家に下宿した人が、私の卒業した高校の男子部の先生であったと知り、びっくりしたものである。
 その先生、石本寛治氏は定年後、トルコ・日本民間文化交流会という組織の日本側の会長に就任し、トルコ各地で日本の伝統文化を紹介するフェスティバルを催している人だ。私は去年の9月、石本先生の要請で、トルコの東の果てのカルスという町で行なわれた文化祭に通訳を務めさせてもらい、「仲を取り持つ」仕事に自信をつけたのだった。
 石本先生にN先生の消息を尋ねると、一番の親友だったそうで、すぐに連絡をとってくれた。私は京王線の沿線でN先生と出会い、寿司をご馳走になって2時間ばかり互いの来し方を話し合ったのだった。

 こういう偶然を思えば、つまり私は中学時代に憧れた人にも会わせてもらえるはずである。昔のことだから、どちらも好きとひと言が言えないままそれきりになってしまったのだが、あのタイプ教室で出会ったAさんの親友も「連絡をとってあげましょうか」と言ってくれたのだが、そのときは曲がりなりにも夫があり、しかも不幸な結婚生活だったので、そんな背景を持って憧れの人に会いたくないじゃない、と思い、お断りしたのだった。
 もう、愛とか恋とかでときめく自分ではなくなってしまったような気がするが、今とは雲泥の差で純情だった少女時代が懐かしい。

 夕方私はいつになく張り切って小枝子さんが驚くほどの料理をこしらえてしまった。
2002年10月01日 14時39分32秒

民謡酒場
【9月28日・土曜日】
 昨日の27日は、朝からちゃんと片づけ物をして、お掃除のおばさんが来ても恥ずかしくないように家の中を整頓しておくつもりだったのに、シェフムス先生から草履と下駄の絵を書くように頼まれて、半日が潰れてしまった。大体、イベントで着る着物はあるが、履物はないというのはどういうことだ。着物がどんなものか分からなくては履物も決めようがないというのに。
 仕方がないので男性用女性用の草履と下駄つごう4通りを、斜めから見た立体図、真上から、真下からの3通りずつ書き分け、ことに鼻緒の絵を書くときは、子供時代に祖母に連れられてよく行った近所の下駄屋さんを思い出しながら描いた。盆や正月には家族中の新しい下駄を買うのである。祖母の家から歩いて5〜6分の江戸川堤防のそばにあった下駄屋さんは、お母さんと娘さんが店先でせっせと新しい下駄に鼻緒をすげたりしていた。
その娘さんの婿取りの日、黒いすそ模様の花嫁衣装で近所の神社にお参りに行くあとからぞろぞろついて行く人々に混じって神社まで行き、手のひらにお赤飯を載せてもらったのを思い出す。それは私が5歳くらいのときで、その後若奥さんになった彼女には男の子が2人生まれたが、いつでも化粧っ気もなく言葉少なに下駄の鼻緒をすげている人だった。
私は子供時代から何にでも人一倍興味を持つ子で、作業している人の手もとを30分でも1時間でも見ていて飽きないのだった。そんなことが55年後のいま役に立って、私はイスタンブールで下駄と鼻緒と、足袋の絵を描いている。

鼻緒が下駄にすげられる前はどんな姿をしているのか、もう知っている人は少ないに違いない。ましてや下駄を見たこともないトルコの人が、私の絵を頼りに作るという。とんちんかんなものが出来ませんように、と祈りつつ各絵に説明をつけて私は先生にファックスを送った。

夕方はディレッキ(願い、望み)という名の、若い娘と出会うことになっていた。彼女は今年の夏結婚してデンマークに行った青年ザッフェルの妹だった。ザッフェルは2年前の6月、温泉の町ブルサで行なわれた世界凧揚げ大会に、日本チームの応援にボランティアとして私が参加したとき、同様に手伝いに来ていた若者で、日本語が少し話せた。
そのザッフェルが、デンマーク生まれのトルコ人女性チチェッキとインターネットを通じて知り合い、メールのやり取りから始まってついに婚約にまで漕ぎつけたのは去年の夏、1年後に式を挙げますからぜひ出席してと招待され、この7月12日夜に戻った私は翌日の彼らの結婚式に駆けつけたのだった。
それにしてもEメールと言うのはスピーディにことが運ぶものだ。お馴染みジェイハンとヅコちゃんコンビも知り合って半年くらいで手紙にしたら何百通もやり取りしたことになるとか。いよいよジェイハンの日本語の勉強が始まった。
「加瀬ハヌム、日本語は実にやさしい。文法も同じだし、発音も同じで、まさに僕にうってつけです。3ヵ月後にはバッチリです」
 ちょっとジェイハン、あんたが言うとアリガトゴゼーマスと聞えるぞ。外国語を覚えるのはそんなに生易しいことではありませんからね。2年勉強したザッフェルですら、怪しげだったんだから。

 そのザッフェルの妹、ディレッキは、花に喩えるとスミレのように可憐な感じだった。結婚式で知り合って以来、私にせっせとメールをくれた。デンマークに行ってしまった兄のいない寂しさを隠し切れない様子なので、私も8月9月には来客だ、旅行だと目一杯予定が入っているので、9月末に時間を作るから会おうね、と答えた。
 約束を守るために私はディレッキに電話して27日の夕食に誘ったのだった。彼女はお母さんと一緒にやって来た。お母さんも結婚式以来、加瀬ハヌムを家に招こうと言いつづけていたのだそうだ。エミニョニュのリーさんの食堂に出かけ、中華料理の何品かを食べたが、話をするのはお母さんばかりで、ディレッキは何か私が尋ねると赤くなって「はい」とか「いいえ」しか言わない。
「ディレッキ、私とボルボル(たくさん)話をしたいってメールに書いてきたのはあなたじゃなかったの」とからかうと、22歳の彼女は肩をすぼめ、「ええ」と言いながらうつむいてしまった。実に可愛いしぐさだった。

 28日の朝が来てしまった。お掃除のギュレルさんが張り切っていつもより30分も早めに来たので、私はとうとう一つも片づかないままのとり散らかった部屋の有様を露呈することになって、5回も6回も言い訳してしまった。彼女は手に1通の招待状を持っていた。19歳の末娘がニシャンランマ(婚約)するのでその式に招いてくれたのである。ところが残念なことに私はその日はキプロス滞在予定なので、出られないかも知れないとあらかじめ断った。初めて会ったとき、ギュレルさんの娘は12歳、中学1年生くらいだったろう。その子がもう結婚する。トルコの東部ではいまだに女の子は早婚だが、イスタンブールではいまや結婚しない女達もたくさんいて、19歳はかなり早婚に属する。まだ結婚のための貯金も何もないのだから、全部親がかりになっちゃうね、とギュレルさんはため息混じりに言った。
 
 いよいよ日本のメディアの方々と会うことになっているので、午後1時過ぎ家を出た。タキシム広場で待ち合わせることになっている。今日日のトルコの若者はどんな暮らしをしているのか、何を考えているのか、こうしたことをメインテーマにルポルタージュを行っているので、26、27の両日にまだ回っていなかった場所を覗こうというわけである。
 昼食をとったあと銀座通り(イスティクラール通り)に出ると、記者さんがまずトルコの代表的な歌手3人のCDを購入した。ポップ界を代表するタルカン、歌の女王セゼン・アクス、アラベスク(演歌)の正統派オルハン・ゲンジェバイ。
土曜の午後とて大変な混雑の銀座通りをゆっくり歩きながら、記者さんとカメラマンさんは「渋谷、新宿、いやまだこちらの方が賑やかで人出が多い感じですね」と感心しつつ、レトロな路面電車や、通りの両サイドに屹立する伝統的な彫刻に飾られたビルの数々をカメラに収めた。
イスタンブールでは近年、長らく放置されたままになっていたこれらの古いビルを整備する動きが高まり、世界に冠たる観光都市イスタンブールに、崩れかかったぼろビルがたくさんあってはまずいということになったようで、長期計画でリストレーションが始まり、私が来てから7年余りの間にも街がすっかり綺麗になった。
記者さんがまだ日本にいるうちに、うちの娘がイスタンブールの面白スポットや、このイスティクラール通り界隈について、かなり詳しい手製の地図なども描いて説明してあるとのことで、記者さんの予備知識もなかなかのものだった。
それにしてもバルック・パザール(魚市場)は大賑わいで、狭いしアーケードがあるので喧噪がこもっているという感じ。私は2人を静かなところに案内しようと、バルック・パザールの中程にあるアルメニア聖グレゴリー教会に導いた。
入り口でわずかな喜捨をして管理人にろうそくをもらい、中庭を抜けて誰もいない礼拝堂の扉を開けてもらうと、すぐ隣の喧噪が嘘のように薄暗い聖堂の中は静まり返っておごそかな雰囲気だった。現在の建物は200年前に建てられたもの、その前は100年ばかり木造の教会があったのだそうだ。
イスタンブールではコンスタンティノープル時代はもちろん、イスラムになってからも外国人の宗教は弾圧されなかったので、このイスティクラール通りには今でもたくさんの教会が残っている。ギリシャ正教もあればユダヤ教のシナゴーグと言われる教会まで。

次に私達は近くのワインハウスを訪れた。まだ4時を過ぎたばかりの店には客がまばらだったが、トルコワインの味をためしてもらった。この数年、楽隊も踊り子も呼ばず、ビールとワインだけを静かに味わわせるこの手のお店が増えた。しかしこの店は1914年の創業だというからトルコが共和国になる以前から営業していたことになる。記者さん達がトルコのタイルを奥さんへのお土産にと言うので、ワインハウスからも近いあの正直なハルクさんのお店に案内した。
装飾品としてのトルコタイルは、色鮮やかで日本人にも人気がある。タイルばかりでなく皿小鉢も実にカラフルだ。記者さんもカメラマンさんもちょっとだけ職業意識を離れ、あれやこれやと手にとって選ぶのに苦労している。最後にCDショップで記者さんがルーヒ・スという20年近く前に亡くなった歌手のCDを買い求め、他のグループとの合流場所であるレストランに急いだ。ルーヒ・スはクルドの出身で、ウズン・ハヴァと呼ばれる民謡の歌い手だ。
夕食のテーブルに私も加えてもらった。食事のあとは政府観光省の現地コーディネーター、デミルジさんの案内でタルカンのコンサートを取材に行くのだそうだ。コンサートのあと、時間があったら私の推薦したメジディエキョイの民謡酒場に行くことになっていた。夜10時半過ぎにデミルジさんから連絡が入り、私をピックアップしてくれることになった。
例の民謡酒場では、まずツーリストなど現れない場所に私達が訪れたので大喜び。歌い手のルーヒ・スばりのおじさんも力が入って更に重く渋い喉を聞かせる。酒場にはたまたま日本語の上手なおじさんが1人来ていた。名古屋や小樽や苫小牧で働いたことがあるという。明朝早くエーゲ海沿いのリゾート地ボドルムに出かける一行は12時で席を立ち、日本語を喋るおじさんがいろいろと食い下がってくるのを交わして店を出た。
30日夕方彼らが戻ると、さあ、アルバトル家のサプライズが待っているのだ。
2002年09月30日 21時13分37秒

カラクズ帰る
【9月27日・金曜日】
 25日のたそがれ時、私はアルバトル家を辞して肉屋さんに寄り、お茶を1杯ご馳走になって今度は臓物屋さんに回った。24日の早朝家に戻って以来、気にかけていたのだがカラクズは姿を見せない。今夜もいなかったら娘へのメールに何と書いたらいいのだろう。
 あの賢くすばしこい黒猫のことだ、そんじょそこらの車に轢かれるわけがない、と祈りにも似た気持でいつものようにアクジエル(肺)を1キロ買い、100万リラ出したら、150万リラに値上がりしたという。鼻じろんだ気がしたが言われた通りに払い、ひたすらカラクズの生還を念じつつ坂道をゆるゆる下っていった。角を曲がり、二股道を左に折れてモスクの前に出ると、見覚えのある黒い塊がちょこなんと鈴懸けの大木の下に座っている。
「カラクズーゥ!」
黒い弾丸のようにカラクズは尻尾を真っ直ぐに立て、ギャロップで私をめがけて駆けてきた。かくて私の心配の種は消えた。ところが去年カラクズが子育てしていた骨董屋さんの荷馬車の中に、今年は別な猫の産んだシマシマの子猫4匹が母親から離されて貰い手を待っていた。これがまた生後2ヵ月余りの可愛い盛り。まずはこの子達に分けてやり、大人の猫達は後回しになった。
カラクズはそれが気に入らないのか、ムッとして口をつけない。もしかしたらもう子供を産めないカラクズが、悲しい思いをしているのかな、などといろいろ想像してみたが、或いは単にどこかでもうお腹いっぱい何か食べてきていたのかも知れないので、余計な取り越し苦労はしないことにした。でも、「この1週間、私をほったらかしてどこに行ってたのよ」、なんて猫の方でも思っているかも知れないな。

その晩日記を書いていたら、インフォメーション・オフィスのパートナーになるシェフムス先生から電話が来て、ある会社で働いている教え子が、日本に関連するイベントについて協力を頼んできた、直接話してみてくれということ。
まもなく1人の青年から電話がかかってきた。提灯か行灯が入用なのだそうだ。四角いのがいいと言うので、それでは下に置く行灯のことでしょうと言うと、どこかに売っていませんか25、6個ほしいのですと言う。
さあー、行灯がトルコに売っているとも思えないのでないと答えた。すると作らせるから絵を描いてもらえないかと言う。明日の朝までに頼みたいと。今夜の11時よ、急な話だなあと思いながらも約束して、設計図風に正面、側面、立体、内部構造まで描いて墨入れし、翌26日先生のアトリエに届けてあげたら、先生が彼に電話をかけた。ところが・・・
「バヤン・ユミコ、丸い提灯にしたからもうこれは要らないそうだよ」
「えっ、先生、冗談じゃありませんよ。夜中に3時間近くも寝ないで描いた私の努力はどうなるんです。そんな、先生まで簡単に要らないそうだよ、なんて言わないでくださいよ」
「それもそうだ、バヤン・ユミコ。ああ、私も失敗したよ。この相談事は有料だと言っておけばよかった・・・」
 
 先生はその後、割り箸650膳、下駄と草履25足なんていう注文を受けてしまい、「大丈夫、大丈夫、私のアトリエで全部拵えてしまおう、バヤン・ユミコ、割り箸の見本を調達してください、下駄と草履がどういうものなのか図解で知らせてください」と言ってきた。
 ええ〜、先生。私達は総合商社じゃないんですから、無理ですよ。下駄の台は似たものが作れるかも知れないけど、鼻緒をどうするつもりなんですか、もう。
2002年09月28日 01時40分59秒

コーディネーター 腕の見せ所
【9月26日・木曜日】
 サフランボルから夜行のイスタンブール行きのバスで隣り合わせた女性が涙ぐんでいるのに気がついたのは、バスが走り出して間もなくだった。夕方イスタンブールから1歳半の息子を実家に預けに来て、夜行でとんぼ返りするところだという。
 彼女は看護婦で、しかも不規則な集中治療室勤務になってしまい、当分の間子供の面倒を見られなくなるので、遥々と片道6時間余りをかけて実家に預けにきたのだそうだ。産前産後の休暇はあっても、トルコではその後の育児休暇などなく、私設の乳児保育所に預ければ給料がまるまる飛んでいってしまうほど高く、夫側の両親は孫の面倒を見たがらないので仕方なくサフランボルまできたのだという。
 巷では選挙の前哨戦が華々しいけれど、誰一人として政治家は末端で働くものの幸せなど考えてはいないのよ、と彼女は苦笑した。ボルの峠にあるそのバス会社専用のドライブインで30分の休憩があった。このところ暑いくらいの上天気が続いてはいたが、さすがに山の上の風は肌をさすようだ。トイレから戻って2人で熱いチャイを飲んだ。
 真夜中の3時だというのに、あとからあとから大型バスが入ってくる。数年前に出来たこのメトロ・ツーリズムは、あれよあれよという間に路線や便数を拡張し、いまや老舗の大手をしのぐ勢いだ。料金も安いし、お茶だコーラだと、まめなサービスが人気を呼んでいる。
 出発時間が来て、お茶代を払おうとすると彼女が私の手を抑えて首を振った。24日明け方の5時半頃バスはハーレムのオトガルに入り、彼女はそこで降りていった。

 家に戻って少し仮眠を取った。長時間座っていたので腰がやたらに痛む。目覚めてからご飯を炊き、キノコを洗って茄子と一緒に煮てそれをおかずにもりもり食べた。植木に水をやり、留守の間にピンク色の花を開いていたセントポーリアに「アーフェリン サナ(お利口さん)!」と褒めてやり、キャットフードを手に階下に降りたが、いくら呼んでもカラクズが現れないので近所中に聞いて歩くと、みんなが口を揃えてそういえばこの2、3日見かけないなあと言うのだった。
 もしかしたら車に轢かれるかどうかして私の留守中に死んでしまい、みんなが私に知らせまいと口裏を合わせているのではないか、とまで勘ぐり、カラクズがいないというだけで何も手につかなくなり、仕方なくパソコンの前に座ってメールを開けた。HPに留守になると書いたので、受信メールは十数通だけだった。返事を書いたりその後日記を書くのに何時間も費やし、掲示板を覗いてみたりして1日は終わってしまった。

 25日は電気代と水道代を納めに行こうとしたらちょうどカプジュが電話代も来てたよと請求書を届けに来た。20日が納入期限になっている。18日の朝まで家にいたのに、それまで来なくて、どうして納入期限の過ぎた頃郵送されるのよ、とムッときたが、これは以前、封筒が開けられていると大騒ぎしたので、その後私への郵便物はいろいろな人が見かけるごとに保管しておいてくれるようになり、挙句に忘れてしまい、とんでもない頃思い出してもってきてくれるので、かえって以前より都合の悪いことも生じる。事実、きのう下の階の人が届けてくれた郵便物は8月31日の消印だった。
 いつものオヤック銀行に行き、番号札を取って、リュックから請求書などを出している間に電光板に表示されたらしく、あっと思って立ち上がったら窓口のお姉さんはもう次の番号を押していた。慌てて番号札を出すと、「もう一度取り直して!」とムスッとして言う。
「どうして? 私の番号が表示されたからきたのよ」
「でも、あなたのは過ぎてしまったのよ、私はもう次の人を呼んだのだから。もう一度入り口で番号札を取り直してください」
 仕方なく番号札を取り直しに入り口に戻ったが、そうだ、両替所に行って福沢諭吉をトルコリラに換えてこようと思い立ち、そのまま外に出た。銀行で日本円を換えられないことはないのだが、どういうわけか非常に手間がかかるので、銀行員にも他に待っている人にも迷惑をかけそうな気がする。外の両替所ならサッサッサーと換えてくれるのでそのほうが話が早いと思って出たのである。
 ところが考えたら私が何も言わずに出てしまったので、窓口のお姉さんは私が怒ったのだと思ったかもしれない。ひと言言えばよかったなあと悔やみつつ、2枚の諭吉におさらばして2億6千4百万トルコリラを手に入れ、銀行に戻って改めて番号札を取り直した。やがて私の番が来た。
「ねえ、あなたをもしも傷つけたとしたらごめんなさいね。私、日本のお金しかなかったので両替に行ってきたのよ。でも何も言わずに外に出てしまったので、あ、まずかったなと後悔したのよ」
 お姉さんはびっくりしたように目を見張り、次に心持ち腰を浮かせて身を乗り出し、
「いいえ、私のほうこそごめんなさい。気を悪くされたんだと思って、私もいい応対をしなかったのを後悔してました。追いかけて謝りたくても席を外せなかったので・・・」 
 お姉さんは期限の過ぎた請求書も快く処理してくれ、「奥さんはいい方ですね。これからもどうかずっと私どもの銀行をご利用ください」と微笑んだ。

 私はたいそう気分よく次なる仕事、アルバトル家にホームステイする日本のメディアの方々のことで打ち合わせに行った。サフランボルからのちょっとしたお土産もアルバトル夫人を喜ばせたようで、お客様にはどんなもてなしをしようかと膝を乗り出して私の意見を求めてくる。
 実はホームステイするご当人達にはまだ内緒にしてあるのだが、アルバトル家のベランダからは、おそらくイスタンブール随一ではないかと思われるほどのパノラマが見られるのである。それは以前のかせレストランと同じ角度だがさらにワイドな景色で、まさに息を呑む絶景なのである。
 そのベランダで、アルバトル夫人と娘さんたちが日本のお客様のためにバーベキューをしてくれることになった。いま25日の夕方6時。日本からのプレスツアーのメンバーを乗せた飛行機はまさに黒海の上空を通過しているところに違いない。
お二人さん、ツアーの最終日にあなた方をお待ちしているのは、壮大な歴史を語る海の景色と3人の美人娘とおいしいバーベキューですよ。かなり太目のおばさん2人と、コロコロの巨大な猫も3匹いますが・・・
2002年09月27日 19時30分20秒

サフランボル (3)
【9月25日・水曜日】
 サフランボルの新市街、高台にあるクランキョイの広場に一夜にして出現した特設舞台は、まだ日の高いうちから大勢の観衆に取り囲まれていたらしく、私がアンカラから戻って来た5時半にはもうかなりの人々が広場を埋めていた。
 アフメットさんが迎えに来てくれていたが、広場の一隅にあるバスの事務所前も混雑していて、おっとりした彼が珍しく早く早くと私を急かして車に乗り込ませた。チャルシュに着くと、もう早い人は店じまいしている。何と言っても大スターを見逃したくはないのである。私とネジュラさんはアフメットさんを店番に残して食事に出た。

「今日オープンしたバルック・ロカンタス(魚料理の食堂)があるのよ。そこに行って夕食を済ませよう」とネジュラさんが言う。サフランボルは黒海にそう遠くはないので、魚屋はあるが食堂は少なく、エスキチャルシュの中では初の魚食堂らしい。
 ジンジ・ハヌの近くに出来たその店は、ヤカモス(Yakamoz 月光にきらめく波)というギリシャ語起源の名前がついていた。ネジュラさんと私の他には誰もいない。私達は一番安くて一番おいしいハムシ(カタクチイワシ)のから揚げを注文した。
「この店、持つかなあ」と私が聞くと、
「無理ね」と彼女はいともあっさり答えた。
「土地の人は滅多に外食しないし、サフランボルではレストランや食堂はあまり流行らないのよ。ましてチャルシュには夜ひと気がなくなってしまうんだから」
 オープン当日だというのに、テーブルには紙ナプキン1つ置いてない。ウエイトレスの女の子が、長い髪を振り乱した状態でパンの入った籠を置きに来た。それを見てぐっと食欲が低下する。ネジュラさんの客として来たのでなければ、私の口からは間髪を入れず、
「ちょっと失礼、ねえ、あなた。サービスに出るときはせめて髪の毛を結んできてね」と一言出ていただろう。

 空がすっかり暮れなずみ、アフメットさんが戸締りを済ませて待っていた。今日ばかりはみんな早じまいで帰って行く。私達も早速新市街へ車で登って行ってみると、クランキョイの広場は黒山の人だかりで、セゼン・アクスの大物振りをうかがわせた。
 もうステージの近くには潜りこむ隙間さえなく、私達がようやく遠いけれど何とか舞台の見える場所に出たのは10分もしてからだった。8時45分頃、トルコきっての人気歌手、セゼン・アクスは胡蝶のように純白のドレスに銀のスパンコールをきらめかせながら登場した。ネジュラさんは私に舞台をよく見させようと大きな双眼鏡を持ってきていた。
 ややハスキーな声、小柄でちょっと重量オーバー気味の歌姫は、自分の声にそっくりな若い女性を選りすぐってバックコーラスを担当させ、やがて独り立ちさせて、これまでに幾人もの歌手を世に送り出していた。7年前に自家用機の墜落事故で亡くなった音楽プロデューサーとの間に娘が1人。その娘も母親の舞台でダンサーとして彩りを添えている。
 胸を絞られるような切ない歌から、陽気なポップスまで、彼女自身の作詞になるものが多く、歌の合間のトークも洒落ている。第一人者の貫禄たっぷりの舞台を堪能することができて、私はフェスティバルに招いてくれたネジュラさんに心から感謝した。

 翌朝はからりとした秋晴れで、9月下旬とは思えないほど陽射しが強かった。23日月曜日。ネジュラさんは店を休みにして、私をあちこち案内してあげると言い出した。同じ家の階下に住むアフメットさんのお父さんがワゴン車を運転して、山の上にあるス・ケメリ(導水路)を見に連れて行ってくれた。
 新市街の中心地クランキョイから少し登って行くとバーラルという地区があり、その辺りからも昔のヤイラの面影が見えてくる。谷間の家々と同じ2階がせり出した独特のつくりの、100年ものの家々である。
 サフランボルにはホテルや旅館・ペンションの他に、民宿の許可を得て営業している家が20軒前後あるという。こうした家々も幾つか見せてもらったが、現代からポッとタイムスリップでもしてしまったかのようなノスタルジックな空間がある。
 その昔、アメリカのミュージカル映画「ブリガドーン」で、100年に1日だけ谷間から現れる村がある。すべてが100年前のままという話だ。サフランボルもそんな感じのところである。昔はサフランの花がボルボル(た〜くさん)咲いていたというところから町の名前がついたそうな。山道の赤い実のたくさんなる潅木に目がうばわれる。クシュ・ブルヌという名で、その実は風邪によく効くといわれ、加工されてチャイのように飲まれている。
トルコではクシュ・ブルヌの他に、アルチュというリンゴのような味の、ただし今ひとつ冴えない真っ赤な実がある。これもカラビュクから少しボル峠に近いエスキパザールという村の辺りでよく採れるらしく、道端で首飾りのように糸で繋いで売っている村人を見かける。
私はどういうわけか、赤い小さな実のなる木が好きで、若い頃から千両万両、ななかまど、ゆすら梅、房すぐり、クコなどをみると、思わず足が止まるのだった。

山の中腹に、深い谷を跨いで真っ白に浮かび上がる橋が見えた。橋は人間が渡るためではなくて、山の湧水を向こう側の乾燥した台地に送るためのものだった。イスタンブールの水は石灰分が強くて飲料には適していないが、ここサフランボルではこんこんと湧き出る水が町の水道に使われていた。
山から戻り、新市街から旧市街に下ってくる急な坂道ほど、目が釘付けになる場所はない。すっぽりと谷のうちふところに抱かれた家並みの景観が素晴らしいのだ。旧市街の南側にあるフドゥルルックの丘に登ると、旧市街が一望のもとに見渡せる。

その晩は、ホームステイさせてもらったお礼に私が料理を担当した。卵料理のバリエーションで、澄まし汁、出し巻き玉子、中華風玉子とトマトとピーマンの炒め物。ジャガイモの細切りソテーなどなど。階下からお父さんお母さんも加わって、最後の夕飯は多めに作ったにも拘らず、たちまちにして売り切れた。
私は出発の用意をした。サフランボルの綿製品、地酒ならぬ地サイダー、キノコと山栗、その他こまごましたお土産を詰め、23時30分のバスに乗る。お父さん、アフメットさん、ネジュラさんがバス乗り場まで見送ってくれた。家族と別れるような寂しさだった。
2002年09月27日 07時25分54秒

サフランボル (3)
【9月25日・水曜日】
 サフランボルの新市街、高台にあるクランキョイの広場に一夜にして出現した特設舞台は、まだ日の高いうちから大勢の観衆に取り囲まれていたらしく、私がアンカラから戻って来た5時半にはもうかなりの人々が広場を埋めていた。
 アフメットさんが迎えに来てくれていたが、広場の一隅にあるバスの事務所前も混雑していて、おっとりした彼が珍しく早く早くと私を急かして車に乗り込ませた。チャルシュに着くと、もう早い人は店じまいしている。何と言っても大スターを見逃したくはないのである。私とネジュラさんはアフメットさんを店番に残して食事に出た。

「今日オープンしたバルック・ロカンタス(魚料理の食堂)があるのよ。そこに行って夕食を済ませよう」とネジュラさんが言う。サフランボルは黒海にそう遠くはないので、魚屋はあるが食堂は少なく、エスキチャルシュの中では初の魚食堂らしい。
 ジンジ・ハヌの近くに出来たその店は、ヤカモス(Yakamoz 月光にきらめく波)というギリシャ語起源の名前がついていた。ネジュラさんと私の他には誰もいない。私達は一番安くて一番おいしいハムシ(カタクチイワシ)のから揚げを注文した。
「この店、持つかなあ」と私が聞くと、
「無理ね」と彼女はいともあっさり答えた。
「土地の人は滅多に外食しないし、サフランボルではレストランや食堂はあまり流行らないのよ。ましてチャルシュには夜ひと気がなくなってしまうんだから」
 オープン当日だというのに、テーブルには紙ナプキン1つ置いてない。ウエイトレスの女の子が、長い髪を振り乱した状態でパンの入った籠を置きに来た。それを見てぐっと食欲が低下する。ネジュラさんの客として来たのでなければ、私の口からは間髪を入れず、
「ちょっと失礼、ねえ、あなた。サービスに出るときはせめて髪の毛を結んできてね」と一言出ていただろう。

 空がすっかり暮れなずみ、アフメットさんが戸締りを済ませて待っていた。今日ばかりはみんな早じまいで帰って行く。私達も早速新市街へ車で登って行ってみると、クランキョイの広場は黒山の人だかりで、セゼン・アクスの大物振りをうかがわせた。
 もうステージの近くには潜りこむ隙間さえなく、私達がようやく遠いけれど何とか舞台の見える場所に出たのは10分もしてからだった。8時45分頃、トルコきっての人気歌手、セゼン・アクスは胡蝶のように純白のドレスに銀のスパンコールをきらめかせながら登場した。ネジュラさんは私に舞台をよく見させようと大きな双眼鏡を持ってきていた。
 ややハスキーな声、小柄でちょっと重量オーバー気味の歌姫は、自分の声にそっくりな若い女性を選りすぐってバックコーラスを担当させ、やがて独り立ちさせて、これまでに幾人もの歌手を世に送り出していた。7年前に自家用機の墜落事故で亡くなった音楽プロデューサーとの間に娘が1人。その娘も母親の舞台でダンサーとして彩りを添えている。
 胸を絞られるような切ない歌から、陽気なポップスまで、彼女自身の作詞になるものが多く、歌の合間のトークも洒落ている。第一人者の貫禄たっぷりの舞台を堪能することができて、私はフェスティバルに招いてくれたネジュラさんに心から感謝した。

 翌朝はからりとした秋晴れで、9月下旬とは思えないほど陽射しが強かった。23日月曜日。ネジュラさんは店を休みにして、私をあちこち案内してあげると言い出した。同じ家の階下に住むアフメットさんのお父さんがワゴン車を運転して、山の上にあるス・ケメリ(導水路)を見に連れて行ってくれた。
 新市街の中心地クランキョイから少し登って行くとバーラルという地区があり、その辺りからも昔のヤイラの面影が見えてくる。谷間の家々と同じ2階がせり出した独特のつくりの、100年ものの家々である。
 サフランボルにはホテルや旅館・ペンションの他に、民宿の許可を得て営業している家が20軒前後あるという。こうした家々も幾つか見せてもらったが、現代からポッとタイムスリップでもしてしまったかのようなノスタルジックな空間がある。
 その昔、アメリカのミュージカル映画「ブリガドーン」で、100年に1日だけ谷間から現れる村がある。すべてが100年前のままという話だ。サフランボルもそんな感じのところである。昔はサフランの花がボルボル(た〜くさん)咲いていたというところから町の名前がついたそうな。山道の赤い実のたくさんなる潅木に目がうばわれる。クシュ・ブルヌという名で、その実は風邪によく効くといわれ、加工されてチャイのように飲まれている。
トルコではクシュ・ブルヌの他に、アルチュというリンゴのような味の、ただし今ひとつ冴えない真っ赤な実がある。これもカラビュクから少しボル峠に近いエスキパザールという村の辺りでよく採れるらしく、道端で首飾りのように糸で繋いで売っている村人を見かける。
私はどういうわけか、赤い小さな実のなる木が好きで、若い頃から千両万両、ななかまど、ゆすら梅、房すぐり、クコなどをみると、思わず足が止まるのだった。

山の中腹に、深い谷を跨いで真っ白に浮かび上がる橋が見えた。橋は人間が渡るためではなくて、山の湧水を向こう側の乾燥した台地に送るためのものだった。イスタンブールの水は石灰分が強くて飲料には適していないが、ここサフランボルではこんこんと湧き出る水が町の水道に使われていた。
山から戻り、新市街から旧市街に下ってくる急な坂道ほど、目が釘付けになる場所はない。すっぽりと谷のうちふところに抱かれた家並みの景観が素晴らしいのだ。旧市街の南側にあるフドゥルルックの丘に登ると、旧市街が一望のもとに見渡せる。

その晩は、ホームステイさせてもらったお礼に私が料理を担当した。卵料理のバリエーションで、澄まし汁、出し巻き玉子、中華風玉子とトマトとピーマンの炒め物。ジャガイモの細切りソテーなどなど。階下からお父さんお母さんも加わって、最後の夕飯は多めに作ったにも拘らず、たちまちにして売り切れた。
私は出発の用意をした。サフランボルの綿製品、地酒ならぬ地サイダー、キノコと山栗、その他こまごましたお土産を詰め、23時30分のバスに乗る。お父さん、アフメットさん、ネジュラさんがバス乗り場まで見送ってくれた。家族と別れるような寂しさだった。
2002年09月27日 07時24分52秒

サフランボル (3)
【9月25日・水曜日】
 サフランボルの新市街、高台にあるクランキョイの広場に一夜にして出現した特設舞台は、まだ日の高いうちから大勢の観衆に取り囲まれていたらしく、私がアンカラから戻って来た5時半にはもうかなりの人々が広場を埋めていた。
 アフメットさんが迎えに来てくれていたが、広場の一隅にあるバスの事務所前も混雑していて、おっとりした彼が珍しく早く早くと私を急かして車に乗り込ませた。チャルシュに着くと、もう早い人は店じまいしている。何と言っても大スターを見逃したくはないのである。私とネジュラさんはアフメットさんを店番に残して食事に出た。

「今日オープンしたバルック・ロカンタス(魚料理の食堂)があるのよ。そこに行って夕食を済ませよう」とネジュラさんが言う。サフランボルは黒海にそう遠くはないので、魚屋はあるが食堂は少なく、エスキチャルシュの中では初の魚食堂らしい。
 ジンジ・ハヌの近くに出来たその店は、ヤカモス(Yakamoz 月光にきらめく波)というギリシャ語起源の名前がついていた。ネジュラさんと私の他には誰もいない。私達は一番安くて一番おいしいハムシ(カタクチイワシ)のから揚げを注文した。
「この店、持つかなあ」と私が聞くと、
「無理ね」と彼女はいともあっさり答えた。
「土地の人は滅多に外食しないし、サフランボルではレストランや食堂はあまり流行らないのよ。ましてチャルシュには夜ひと気がなくなってしまうんだから」
 オープン当日だというのに、テーブルには紙ナプキン1つ置いてない。ウエイトレスの女の子が、長い髪を振り乱した状態でパンの入った籠を置きに来た。それを見てぐっと食欲が低下する。ネジュラさんの客として来たのでなければ、私の口からは間髪を入れず、
「ちょっと失礼、ねえ、あなた。サービスに出るときはせめて髪の毛を結んできてね」と一言出ていただろう。

 空がすっかり暮れなずみ、アフメットさんが戸締りを済ませて待っていた。今日ばかりはみんな早じまいで帰って行く。私達も早速新市街へ車で登って行ってみると、クランキョイの広場は黒山の人だかりで、セゼン・アクスの大物振りをうかがわせた。
 もうステージの近くには潜りこむ隙間さえなく、私達がようやく遠いけれど何とか舞台の見える場所に出たのは10分もしてからだった。8時45分頃、トルコきっての人気歌手、セゼン・アクスは胡蝶のように純白のドレスに銀のスパンコールをきらめかせながら登場した。ネジュラさんは私に舞台をよく見させようと大きな双眼鏡を持ってきていた。
 ややハスキーな声、小柄でちょっと重量オーバー気味の歌姫は、自分の声にそっくりな若い女性を選りすぐってバックコーラスを担当させ、やがて独り立ちさせて、これまでに幾人もの歌手を世に送り出していた。7年前に自家用機の墜落事故で亡くなった音楽プロデューサーとの間に娘が1人。その娘も母親の舞台でダンサーとして彩りを添えている。
 胸を絞られるような切ない歌から、陽気なポップスまで、彼女自身の作詞になるものが多く、歌の合間のトークも洒落ている。第一人者の貫禄たっぷりの舞台を堪能することができて、私はフェスティバルに招いてくれたネジュラさんに心から感謝した。

 翌朝はからりとした秋晴れで、9月下旬とは思えないほど陽射しが強かった。23日月曜日。ネジュラさんは店を休みにして、私をあちこち案内してあげると言い出した。同じ家の階下に住むアフメットさんのお父さんがワゴン車を運転して、山の上にあるス・ケメリ(導水路)を見に連れて行ってくれた。
 新市街の中心地クランキョイから少し登って行くとバーラルという地区があり、その辺りからも昔のヤイラの面影が見えてくる。谷間の家々と同じ2階がせり出した独特のつくりの、100年ものの家々である。
 サフランボルにはホテルや旅館・ペンションの他に、民宿の許可を得て営業している家が20軒前後あるという。こうした家々も幾つか見せてもらったが、現代からポッとタイムスリップでもしてしまったかのようなノスタルジックな空間がある。
 その昔、アメリカのミュージカル映画「ブリガドーン」で、100年に1日だけ谷間から現れる村がある。すべてが100年前のままという話だ。サフランボルもそんな感じのところである。昔はサフランの花がボルボル(た〜くさん)咲いていたというところから町の名前がついたそうな。山道の赤い実のたくさんなる潅木に目がうばわれる。クシュ・ブルヌという名で、その実は風邪によく効くといわれ、加工されてチャイのように飲まれている。
トルコではクシュ・ブルヌの他に、アルチュというリンゴのような味の、ただし今ひとつ冴えない真っ赤な実がある。これもカラビュクから少しボル峠に近いエスキパザールという村の辺りでよく採れるらしく、道端で首飾りのように糸で繋いで売っている村人を見かける。
私はどういうわけか、赤い小さな実のなる木が好きで、若い頃から千両万両、ななかまど、ゆすら梅、房すぐり、クコなどをみると、思わず足が止まるのだった。

山の中腹に、深い谷を跨いで真っ白に浮かび上がる橋が見えた。橋は人間が渡るためではなくて、山の湧水を向こう側の乾燥した台地に送るためのものだった。イスタンブールの水は石灰分が強くて飲料には適していないが、ここサフランボルではこんこんと湧き出る水が町の水道に使われていた。
山から戻り、新市街から旧市街に下ってくる急な坂道ほど、目が釘付けになる場所はない。すっぽりと谷のうちふところに抱かれた家並みの景観が素晴らしいのだ。旧市街の南側にあるフドゥルルックの丘に登ると、旧市街が一望のもとに見渡せる。

その晩は、ホームステイさせてもらったお礼に私が料理を担当した。卵料理のバリエーションで、澄まし汁、出し巻き玉子、中華風玉子とトマトとピーマンの炒め物。ジャガイモの細切りソテーなどなど。階下からお父さんお母さんも加わって、最後の夕飯は多めに作ったにも拘らず、たちまちにして売り切れた。
私は出発の用意をした。サフランボルの綿製品、地酒ならぬ地サイダー、キノコと山栗、その他こまごましたお土産を詰め、23時30分のバスに乗る。お父さん、アフメットさん、ネジュラさんがバス乗り場まで見送ってくれた。家族と別れるような寂しさだった。
2002年09月27日 07時24分59秒

サフランボル (2)
【9月24日・火曜日】
 フェスティバルの第2日(20日)にはさるホテルの庭園で、地元の婦人達による郷土料理コンテストが行なわれた。チャルシュの店の隣人達と揃って出かけたのだが、審査員や招待客に混じって試食ができるとあって会場はなかなかの賑わいとなった。ネジュラさんが機敏に立ち回ってビュッフェから料理をかき集めてくれなかったら、人前だとどうも気取って遠慮がちな(誰も信じないけどホント)私は食べ損なっていたかもしれない。
 コーンビーフのような塩味のダナーカヴルマ、ぶどうの葉にピラフを詰め込んだヤプラックドルマス、小麦粉のクレープとでもいうべきユフカを重ね、間にチーズやイタリアンパセリをはさんでオーブンで焼いたボレッキ、インゲンのトマト味煮込み、その他たくさんの郷土料理が並べられ、料理のカテゴリー別に1位から3位まで選出され、噂では毎年入選するのは同じ顔ぶれに決まっているとかいないとか、不協和音も若干聞えてくる。
 満タンになったお腹を抱え、2時過ぎにエスキチャルシュに戻ってそれぞれの店を開けたが、2、30分もするとチャルシュの広場で始まった二線級の歌手の歌や、国立民族舞踊団のメンバーによるダンスを、またみんなでぞろぞろ見に行った。
 その間店は近くの店の誰かに見ていてもらう。大体どこの店でも似たようなものを売っているので値段も分かっているし、どうしても用事があれば携帯で呼べばいい。相互扶助である。ダンスを見終わったあと、私は1人でぶらぶらとジンジ・ハヌに出かけ、筆ペンでその辺の人の似顔絵を描いたりして過ごした。この似顔絵は大受けで、来年は私にもジンジ・ハヌの中にブースを取っておいてくれるという。放浪の画家マダム・カセなんて評判になったりして・・・
そういえば2年前の6月、温泉で有名なブルサ市で行なわれた凧揚げ大会で日本チームの応援に出かけ、ボランティアの一環としてトルコ人の子供の名前を漢字で書き、その脇に似顔を描いてあげたら長蛇の列が出来て、6時間近くも描きっぱなし、顔を上げることも席を立つことも出来なかった思い出がある。もっともあれは無料だったからあんなに並んでくれたんだろうけど、有料だったら渋いんではないか、トルコも不況だし。

ネジュラさんの夫アフメットさんは、隣のカラビュク市の大きな製鉄所に勤めている。長年にわたる経済不況で、会社も人員整理の必要に迫られ、職員は交代で無給自宅待機を余儀なくされているのだそうだ。来月はアフメットさんもそのレイオフの対象になって、1ヵ月分の収入がなくなるのだそうである。
4時で仕事が終わるとアフメットさんは店にやってくる。仕入れや雑用は彼の担当だ。小柄なネジュラさんと180センチを越す縦横大きなアフメットさんは、性格もまた対照的な夫婦で、こまごまと気を揉む彼女に対して、暢気というかおっとりとしていてとことん人がいいので、「人がこんなに苦労してるのに」と、時にはその、始終にこにこしている顔にさえ腹が立って仕方がないと言う。それでも子供みたいに純真なアフメットさんは、実は彼女のすべてなのだった。互いに絶大な信頼を持ち合っている夫婦は、傍から見ていても気持がいいものだ。

さて、私は21日の朝、アンカラに向けて出発した。ファトゥシュの甥の結婚式に招かれているのである。サフランボルに着いてからも毎晩遅いので、イスタンブール出発前の寝不足を取り戻せずにいた。インシャーラー、アンカラまでは寝ていけますようにと願っていたのに、後ろの席の子供がビェーッ、ビェーッと泣き通し。泣き止ませようと苦労している若い母親の気持はもっと辛いに違いない。
私も娘が赤ん坊のとき、歯医者に夕方5時半の予約で出かけたら、その歯医者の院長は子供嫌いで、治療以外で子供を連れてくる患者は最後に回すという意地悪をするんだそうだ。そうとは知らずいい具合によく眠っているので、抱いて順番を待っていたが、あとから来る人を先に呼び、6時半過ぎてもなしのつぶてである。とうとう赤ん坊が目を覚まし、むずかり出してしまった。
途端に扉が開き、ぶくぶく太った院長が「やかましい、今日はあんたの治療はせんから帰れ。赤ん坊を連れてくるなんてまったく非常識な!」と怒鳴った。
さーあ、今の私なら、ことにトルコ語でなら負けちゃあいないぞ。
「ベイエフェンディ! 何をおっしゃいます。どういうわけか私をこんなに待たせて、挙句の果てに赤ん坊を泣かせたのはあなたですよ!」と怒鳴り返してしまうのだが、このときは花も恥らう若妻で、抗議のひと言も出てこない。すみません、すみませんと謝って、泣き止ませようと揺すったが、院長の怒鳴り声に驚いた娘は火のついたように泣くばかり。
 待合室にはもう、今の私くらいの年齢のおばさんしかいなかった。おばさんは見かねて娘を抱き取り、「外であやしていてあげるから、治療してもらいなさいよ」と言ってくれた。
 治療中、院長は乱暴に私の痛む歯を突っつきながら「次回また連れてきたらもう看てやらんぞ」と宣告した。しかも口を開けさせたまま、トイレかどこかに行ってしまった。涙があとからあとから噴き出してくる。私は復讐を考えた。火をつけてやる。ああ、でも駄目、うちのダンナ、消防士なのよね。女房が放火魔じゃクビになってしまうわ。
 口を大きく開けたまま涙にくれて復讐の手段を考えている若い母親、それが33年前の私だ。バスの旅は3時間程度、赤ん坊の泣き声くらいがまんしてやらなくては。

 アンカラでも指折りの豪華な式場でカクテルパーティ式の披露宴が行なわれた。私はファトゥシュの一族のご指名により、日本の歌を歌うことになっていた。演目は「黒田節」、ロングスカートもブラウスも黒一色だったので、ネジュラさんの店で買った赤地に金銀の縫い取りのある華やかなショールを巻きつけ、40年前に日本舞踊を習おうと思って買った舞扇を適当に振りながら、厚顔無恥ついでに春のうららの隅田川・・・と「花」も歌ってマイクをバンドリーダーに返した。
 夜の12時まで宴は続き、そのあとファトゥシュの会社の副社長イスメットさんの家で兄弟親戚が集まって朝の4時まで。私は遅く寝ても体内時計が正確で、7時頃には目覚めてしまい、イスメットさんの奥さんが起きてくるまでの4時間、本を読んで過ごした。
 帰りのバスは22日日曜日午後2時発サフランボル行き。帰りは寝るぞと思っていたらまたまた赤ちゃんの後ろの席となる。日曜日はフェスティバルの最終日。いよいよ大物中の大物、歌謡界の女王美空ひばりじゃなかった、セゼン・アクスの登場なのである。
2002年09月26日 15時41分27秒

サフランボル (2)
【9月24日・火曜日】
 フェスティバルの第2日(20日)にはさるホテルの庭園で、地元の婦人達による郷土料理コンテストが行なわれた。チャルシュの店の隣人達と揃って出かけたのだが、審査員や招待客に混じって試食ができるとあって会場はなかなかの賑わいとなった。ネジュラさんが機敏に立ち回ってビュッフェから料理をかき集めてくれなかったら、人前だとどうも気取って遠慮がちな(誰も信じないけどホント)私は食べ損なっていたかもしれない。
 コーンビーフのような塩味のダナーカヴルマ、ぶどうの葉にピラフを詰め込んだヤプラックドルマス、小麦粉のクレープとでもいうべきユフカを重ね、間にチーズやイタリアンパセリをはさんでオーブンで焼いたボレッキ、インゲンのトマト味煮込み、その他たくさんの郷土料理が並べられ、料理のカテゴリー別に1位から3位まで選出され、噂では毎年入選するのは同じ顔ぶれに決まっているとかいないとか、不協和音も若干聞えてくる。
 満タンになったお腹を抱え、2時過ぎにエスキチャルシュに戻ってそれぞれの店を開けたが、2、30分もするとチャルシュの広場で始まった二線級の歌手の歌や、国立民族舞踊団のメンバーによるダンスを、またみんなでぞろぞろ見に行った。
 その間店は近くの店の誰かに見ていてもらう。大体どこの店でも似たようなものを売っているので値段も分かっているし、どうしても用事があれば携帯で呼べばいい。相互扶助である。ダンスを見終わったあと、私は1人でぶらぶらとジンジ・ハヌに出かけ、筆ペンでその辺の人の似顔絵を描いたりして過ごした。この似顔絵は大受けで、来年は私にもジンジ・ハヌの中にブースを取っておいてくれるという。放浪の画家マダム・カセなんて評判になったりして・・・
そういえば2年前の6月、温泉で有名なブルサ市で行なわれた凧揚げ大会で日本チームの応援に出かけ、ボランティアの一環としてトルコ人の子供の名前を漢字で書き、その脇に似顔を描いてあげたら長蛇の列が出来て、6時間近くも描きっぱなし、顔を上げることも席を立つことも出来なかった思い出がある。もっともあれは無料だったからあんなに並んでくれたんだろうけど、有料だったら渋いんではないか、トルコも不況だし。

ネジュラさんの夫アフメットさんは、隣のカラビュク市の大きな製鉄所に勤めている。長年にわたる経済不況で、会社も人員整理の必要に迫られ、職員は交代で無給自宅待機を余儀なくされているのだそうだ。来月はアフメットさんもそのレイオフの対象になって、1ヵ月分の収入がなくなるのだそうである。
4時で仕事が終わるとアフメットさんは店にやってくる。仕入れや雑用は彼の担当だ。小柄なネジュラさんと180センチを越す縦横大きなアフメットさんは、性格もまた対照的な夫婦で、こまごまと気を揉む彼女に対して、暢気というかおっとりとしていてとことん人がいいので、「人がこんなに苦労してるのに」と、時にはその、始終にこにこしている顔にさえ腹が立って仕方がないと言う。それでも子供みたいに純真なアフメットさんは、実は彼女のすべてなのだった。互いに絶大な信頼を持ち合っている夫婦は、傍から見ていても気持がいいものだ。

さて、私は21日の朝、アンカラに向けて出発した。ファトゥシュの甥の結婚式に招かれているのである。サフランボルに着いてからも毎晩遅いので、イスタンブール出発前の寝不足を取り戻せずにいた。インシャーラー、アンカラまでは寝ていけますようにと願っていたのに、後ろの席の子供がビェーッ、ビェーッと泣き通し。泣き止ませようと苦労している若い母親の気持はもっと辛いに違いない。
私も娘が赤ん坊のとき、歯医者に夕方5時半の予約で出かけたら、その歯医者の院長は子供嫌いで、治療以外で子供を連れてくる患者は最後に回すという意地悪をするんだそうだ。そうとは知らずいい具合によく眠っているので、抱いて順番を待っていたが、あとから来る人を先に呼び、6時半過ぎてもなしのつぶてである。とうとう赤ん坊が目を覚まし、むずかり出してしまった。
途端に扉が開き、ぶくぶく太った院長が「やかましい、今日はあんたの治療はせんから帰れ。赤ん坊を連れてくるなんてまったく非常識な!」と怒鳴った。
さーあ、今の私なら、ことにトルコ語でなら負けちゃあいないぞ。
「ベイエフェンディ! 何をおっしゃいます。どういうわけか私をこんなに待たせて、挙句の果てに赤ん坊を泣かせたのはあなたですよ!」と怒鳴り返してしまうのだが、このときは花も恥らう若妻で、抗議のひと言も出てこない。すみません、すみませんと謝って、泣き止ませようと揺すったが、院長の怒鳴り声に驚いた娘は火のついたように泣くばかり。
 待合室にはもう、今の私くらいの年齢のおばさんしかいなかった。おばさんは見かねて娘を抱き取り、「外であやしていてあげるから、治療してもらいなさいよ」と言ってくれた。
 治療中、院長は乱暴に私の痛む歯を突っつきながら「次回また連れてきたらもう看てやらんぞ」と宣告した。しかも口を開けさせたまま、トイレかどこかに行ってしまった。涙があとからあとから噴き出してくる。私は復讐を考えた。火をつけてやる。ああ、でも駄目、うちのダンナ、消防士なのよね。女房が放火魔じゃクビになってしまうわ。
 口を大きく開けたまま涙にくれて復讐の手段を考えている若い母親、それが33年前の私だ。バスの旅は3時間程度、赤ん坊の泣き声くらいがまんしてやらなくては。

 アンカラでも指折りの豪華な式場でカクテルパーティ式の披露宴が行なわれた。私はファトゥシュの一族のご指名により、日本の歌を歌うことになっていた。演目は「黒田節」、ロングスカートもブラウスも黒一色だったので、ネジュラさんの店で買った赤地に金銀の縫い取りのある華やかなショールを巻きつけ、40年前に日本舞踊を習おうと思って買った舞扇を適当に振りながら、厚顔無恥ついでに春のうららの隅田川・・・と「花」も歌ってマイクをバンドリーダーに返した。
 夜の12時まで宴は続き、そのあとファトゥシュの会社の副社長イスメットさんの家で兄弟親戚が集まって朝の4時まで。私は遅く寝ても体内時計が正確で、7時頃には目覚めてしまい、イスメットさんの奥さんが起きてくるまでの4時間、本を読んで過ごした。
 帰りのバスは22日日曜日午後2時発サフランボル行き。帰りは寝るぞと思っていたらまたまた赤ちゃんの後ろの席となる。日曜日はフェスティバルの最終日。いよいよ大物中の大物、歌謡界の女王美空ひばりじゃなかった、セゼン・アクスの登場なのである。
2002年09月26日 15時41分19秒

サフランボル (1)
【9月23日・月曜日】
 トルコに旅する日本人の間で密かなブームとなっているのがサフランボルだ。その昔、オスマン朝時代にはシルクロードに至る 宿場町だったそうで、谷間にひっそりと取り残されたような集落の、独特な木造の家並みがそっくり保存されていることから世界遺産に指定されて以来、日本の旅行会社でもツアーに組み込んで売りにしている。
 昨年の9月に20何年来の友人が初のトルコ旅行に来ると言うので、サフランボルを含むコースを勧め、私も劇的に再会しようと先回りして次の日の朝から夕方到着するグループの来るのを待ったが、惜しいかな自由時間が20分しかとれないとのことで、まるで映画のセットのような町をゆっくりと一緒に楽しむことは出来なかった。
 それでも日本語ガイドさんが偶然私の知り合いだったので、彼の配慮で就寝前の1時間、昔の民家を改装したホテルで話をすることが出来た。とりわけあのニューヨークのテロ事件の直後だったので、参加者の多くはキャンセルし、最少催行人員の8名しかいないグループだったが、あちらも私に会えるからということでわざわざトルコ旅行を選んでくれたことだし、私にとっても彼女はイスタンブールから往復12時間、バスに揺られてでも会いに行きたい人であった。

 初めてサフランボルに行ったのは去年の3月末。このときも、イスタンブールで知り合って6年余り親しんだ友人、真樹子さんとお別れ旅行に行ったのだった。彼女は美貌と言い立ち居振舞いと言い、このがさつな私には過ぎた友人なのだが、ご主人の転勤とあっては抗うすべもなく、せめて思い出にしようと出かけたのがきっかけで、2人ともすっかりサフランボルに魅せられて、ことに私は郷愁めいたものを抱くようになった。
 真樹子さんと買物をした店で写した写真を店の女主人ネジュラさんに送ったら、彼女から丁寧な礼状が届いた。そしてまたそこに友情が芽生えて、土産物屋のネジュラさん一家が、その後はホスト家族として私を受け入れてくれるようになり、昨年9月もそして今年も彼女の家にご厄介になったのである。

 さて出発前夜の17日、遅くまでクシュ夫妻にお付き合いしてしまったので、いろいろやるべき仕事が後手後手になり、結局一睡もしないで旅支度をし、18日の朝どうやらアジア側のハーレムのオトガルに間に合う時刻に家を出た。3時間ほど走ってボルという峠を越えるところまでは、アンカラに行くのと同じ道で景色も見慣れているので、バスの中で眠るつもりでいたら、ホステスのまだうら若い女の子が私に素朴な興味を抱いたらしく、サービスに立つ以外は私の隣に座って質問の嵐。彼女が立つと向こう隣のおばさんが話し掛けてくる。とうとう寝そびれてしまった。
やがて、サフランボルの1つ手前、カラビュク市のオトガルから乗り込んできたおじさんがにこにこしながら、「こんにちは」と日本語で声をかけてきた。私はトルコ語でメルハバ(こんにちは)と答えたが、「ああ、トルコ語が分かるんですか、日本人ですね、どこから来たの、どこに泊まるの、え、友達の家? その友達は何という名前ですか」と矢継ぎ早に質問を浴びせ掛けてきた。
「どうして友人の名前まで聞くのですか。私はこのご質問にはお答えできません」
 私はやんわりと制した。悪気のある人ではなさそうだが、あまり立ち入ってこられても困る。おじさんはいままでにかなりの数の日本人を自分の家に泊めている、と言った。日本人が大好きなのだそうだ。私にも、今夜泊まる宿を決めてないのならうちへ呼んであげたいと思ったから声をかけたのだそうだ。
 私は丁寧に礼を述べて断り、バスはまもなく終点のサフランボルに着いた。ネジュラさんの夫アフメットさんが出迎えに来てくれていた。偶然にもおじさんはアフメットさんやネジュラさんと以前からの知り合いだった。「俺も一緒に行くよ。バヤンはトルコ語が達者だからいろいろな話を聞きたい。お前さんの店で1、2時間お喋りでもしようよ」
 おじさんがそう言うとアフメットさんは、
「せっかくだが、加瀬ハヌムは長旅で疲れているだろうからまたにしてくれないか」と断ってくれた。
「あの人は気はいいんだが喋るんだよ、とにかく」と車の中でアフメットさんは笑いながら言った。

 世界遺産の観光名所としてクローズアップされているサフランボルは、主に谷間にある旧市街を言うのだが、もともとが遊牧民だったトルコの人々は、冬暖かな谷間で暮らし、夏は暑さを逃れて風通しのよい高台や山の中腹に、夏の家を建てる習慣があった。そうした場所をヤイラといい、夏の家はヤズルックと呼ぶ。いわば別荘である。
 サフランボルの新市街はいわばヤイラである。しかし近年は町の中心はそちらに移り、旧市街に住んでいる人は少ない。大半の商店は夜店を閉めると、自分の車やミニビュスで新市街の住居に戻って行くのである。
 ネジュラさんの店は、エスキチャルシュ(古い市場)と呼ばれる旧市街のど真ん中のマーケットの一画にあった。間口が1間、奥行き2間くらいの小さな店が軒を並べてひしめきあい、路地はすべて昔ながらの石畳。路地の上は屋根から屋根に張り巡らされたぶどう棚が、涼しい日陰と独特な雰囲気をかもし出し、所狭しと並べられ吊るされた装飾小物や綿製品に木漏れ日が柔らかな陰翳を作っている。
 週末やバイラムと呼ばれる宗教的な行事のあとの休暇にはトルコ各地からの観光客も多く、それに混じって外国人もたくさん来るようになったが、特に今年、日本人のバックパッカーの数は半端ではないそうだ。ネジュラさんの店の周囲ではみんなが私を覚えていて再訪を喜んでくれた。

 私は今年、19日から22日まで4日連続で開催される第3回黄金のサフラン・フェスティバルにネジュラさんから招待されたのである。去年はフェスティバルの2日前にイスタンブールに戻ってしまったので、ネジュラさん一家は残念がり、来年はきっとだよ、と約束させられていたのだった。
 9月半ばはちょうどキノコのシーズンにあたり、山村からおじさんおばさんが採りたてのキノコを背負って下りてくる。街角に新聞紙を敷いて1つずつ並べて売るのだ。今年の相場は1キロ200円前後。日本の初茸にそっくりな茶色いキノコは触ったところが緑青をふいたように青黒くなり、匂いも初茸と同じだった。同じ形で薄いオレンジ色や白っぽいものもあり、まるで海綿みたいな形のものもあった。
白いのは初茸もどきやオレンジ色のとくらべると軸が縦に裂けるので煮物に適していると睨み、去年は帰る前の日に日本の友人からもらっただしの素と醤油を使って、日本で昔からキノコの毒成分を取り去ると言われている茄子と一緒に煮てみた。白キノコは思った通りなめらかな舌ざわりだった。
これにはネジュラさん一家も大喜びだったので、今年もキノコを煮ようと、私はリュックサックにだしの素と醤油の1リットル壜を詰めてきていたのである。その晩はさっそく夕食にキノコを煮て、ネジュラさん、アフメットさん、娘の中学生デニズ、アフメットさんの両親も加わり、歓迎のディナーとなった。

翌日からフェスティバルが開幕され、エスキチャルシュ(古い市場)の中のジンジ・ハヌという名のケルバンサラユ(キャラバンサライ=隊商宿)が長い改装期間を経てオープンし、その中庭にたくさんの一坪ショップがお目見えした。カラビュク県の知事やサフランボル市長などおエライさんが集まって式典も行なわれた。
夕方、やあやあと昨日のおじさんが店に顔を出した。手にしているのは日本の若者雑誌。そこにおじさんの家に泊まった若い女性コラムニストの一文があるのだという。
「なんて書いてあるのか訳してください」
 どれどれ、まずは読んでから。コラムは800字程度のもので、おじさん一家の小さな写真が2枚。書き出しから驚かされた。
『サフランボルでおやじにつかまりその家に泊まることになった。金を取っておきながら娘達と同じ部屋に寝かせるのかよ、おやじ、と思ったが・・・』という調子で、「○○の怒りのメッセージ」というコラム名からすると、彼女は旅先の不愉快な出来事にクレームをつけるのをそのコラムのメインテーマにしているらしい。他の号でどんなことを書いているのか知らないので言いようがないのだが、サフランボル編はそれでも、おやじも家人もみんないい人で楽しく過ごした、と結んである。私は書き出しの部分は訳さないでおいた。
次におじさんはもう1枚別な紙を出して、ここには何が書いてあるんですか、と問うた。去年日本人の青年2人を車でどことかへ送ってやった際、別れ際に書いて今後はこの紙を日本人に見せるようにゼスチャーで示したのだという。そこには、
『日本人のみなさん、このうさんくさいおやじは、悪い奴ではないようですが、金を取ることに慣れて日本人とみると声をかけるようです。金を払ってもいいという人はついていってもいいでしょう』と、本名かどうかは分からないが署名と日本の携帯の電話番号が書いてあった。
 この若い衆もずいぶん人が悪いじゃないか。おじさんはこの1年の間、にこにこしながら日本人と見るとこの紙を見せていたのだろう。もちろんおじさんは日本語はこんにちはとさようならしか知らないし、読んだ日本人がトルコ語で内容をおじさんに説明することも不可能だろう。トルコ語の分かる日本人でも本人にこれを訳して聞かせるのは憚られる。もちろん私も通りすがりの者ならおせっかいする必要はないのだが、おじさんがちょっと気の毒でもあり、今後のためにもあえて真相を伝えておこうと判断したのだった。
私達を大勢の人が囲んでいたのでおじさんにネジュラさんの店の中に入るよう促し、この若者とはどんないきさつがあったのかを、今度は私の方から尋ねた。
 話によると街で出会った青年達を自分の家に連れて行きお茶を振る舞ったが、彼らは泊まらずにどことかに行くと言うので、タクシーに乗ったら大変な金額になるからうちの車で連れて行ってあげようと言って、そこまで送って行ったのだという。そして別れるとき、ガソリン代だけはもらうよと、1人500万リラずつ払わせたのだそうだ。ちょうど1年くらい前だとすると、1人約500円くらいなものだろう。
「それはあなたがまずいことをしたと思いますよ。もし親切でやったことならお金をとるべきではないし、お金を払ってもらうつもりだったら先に話をつけておかなくては」
「だって、タクシーだったら1人500万じゃ済まないですよ。」とおじさん。
「そういう問題ではなくて、あなたのしたこと自体が間違いだと言うんです。彼らにはあなたが言ったタクシーうんぬんはわかってなかったかもしれないし」
「じゃあ、その紙には何か苦情でも書いてあるんですか」
「そうです。実は言うまいと思ったんですが、ここにはあなたに非常に不利なことが書いてあります。本当に親切にしてもらったら日本人が怒るわけがない。この紙はあなたについて行くな、という警告です」
 私はそのメッセージを訳し、雑誌の方にも、「お金を取ったくせに」と女性が書いてあるのをおじさんに告げた。
「私が本当のことをこうしてあなたに説明することで、傷ついたりがっかりさせては申し訳ないと思いますが、これからはお金は取らないか、または一切他人を泊めたりしないか、どちらかにするべきですよ」
「いや、よく言ってくれました。ご親切にどうも。知らないままでいたら、今後はもっと恥をかいていたかもしれない」
「そうです。その紙はもうゴミ箱に捨ててしまった方がいいですよ。そしてあなたも今後は宿泊でも送迎でも有料サービスなら有料と先に言ってからにするといいです。僅かなお金のために、相手に不愉快な思いをさせた上、自分も悪く言われることはありません」
 潔く私にお礼を言った割には、おじさんはアフメットさんとネジュラさんにくどくど言い訳していたが、やがて私に向き直った。
「どうです。手紙や雑誌を訳していただいたお礼に今夜は私のうちで泊まってください。いやいや、お金は要りません。女房や娘達とも会って今後ともぜひ仲良くしてください」
「ありがとう。せっかくですが、私は最初に知り合ったアフメットさん夫妻の客です。この街で2人を超えて他の方ともっと親しくなるわけにいきません。これは私のポリシーなので勘弁してください。そのうちアフメットさん夫妻とお茶をご馳走になりに行きます」
 
 おじさんの来訪で店じまいがすっかり遅れてしまったが、アフメットさん、ネジュラさん、デニズ、私の4人は新市街の野外劇場で行なわれるテュルキュという分野の歌手の開幕コンサートを見に行った。演歌歌手の角川博さんによく似た元気な歌い手オカン・ナユルの歌に合わせて、観客も踊りまくる。目の前の席に座っていた5歳と4歳くらいの兄弟が実に上手に踊るのを見ていたら、私も踊りたくなってオートマチックに手や腰が動き始めた。サフランボルの夜は十三夜の月と、大ボリュームの音響効果とともに更けていった。
 あとで知ったのだが、私がぶざまに踊る姿は、サフランボルの地元テレビ局にすっかり捉えられ、放映されていたんだそうだ。
2002年09月26日 01時01分06秒

偶然が偶然を呼んで
【9月17日・火曜日】
 今朝、私はこの年末に日本から再びトルコにやってくるヅコちゃんとそのお母さんが泊まるホテルを手配するために、アドレス帳をめくっていた。目指すホテルの電話番号の隣のページに、たまたま2年前の夏、私がマネージャーをしていたグランド・シービュー・ホテルの雑役係だった男の名前があった。フュセイン・カモ、ああ、どうしているかな、カモさんは。眉毛がものすごく太くてつながっていて、顔の真ん中でカモメが飛んでいるみたいな人だった。
あのホテルでは、オーナーがフュセイン、1日1度はやってくる取引銀行の支店長もフュセイン、ボーイもフュセイン、カモさんもフュセイン、ご丁寧にも最初にホテルを尋ねたときに乗ったミニビュス(マイクロバス)の親切な運転手さんがフュセイン。この人は、ホテルに1泊した私が翌日の朝帰るとき、ごみごみしたゼイティンブルヌの街中を歩いているところを見かけて、クラクションをせわしなく鳴らしながら追いかけてきてくれたとき以来の友達である。
とにかく石を投げればフュセインにあたるというくらいフュセインだらけだった。ミニビュスのフュセイン・クシュは、もと私の店のボーイだったフュセインを訪ねていった私が、オーナーのフュセインさんに口説き落とされて、マネージャーを引き受けたと聞くと大喜びで、夜でも昼でも私が業務を終わると迎えに来て、奥さんも呼んで紹介するわ、マクドナルドには連れて行ってくれるわ、自分が来られなければ、友達のタクシー運転手セルチュクさんを代わりに寄越すというほどの惚れ込みようだった。ある日、俺はコミュニストだというので、日本語で「インターナショナル」(労働歌)を歌ってやったら、どこで覚えたんだと問う。
「19歳のとき、勤めていた銀行の労働組合で婦人部長に立候補して満票で当選し、けっこう演説もしたもんだ」と説明したら、目玉を丸くして驚き、「ナーズム・ヒクメット」を知っているかと聞く。
「ロシアに亡命したコミュニストの詩人でしょ。詳しいことは知らないよ」と答えたが、彼が崇拝する詩人の名前を知っていたと言うことだけでもよくよく嬉しかったらしい。

 アドレス帳のカモさんの名前からクシュを思い出した。去年の9月末頃男の子が生まれたはずだが、私は薄情にも名前すら聞かずに日本に行ってしまったんだわ、そのうち電話してみようという気になって、とりあえずヅコちゃんの泊まるホテルに電話をかけた。
 私がオーナーのフュセインさんの気まぐれだけでマネージャーに抜擢されたホテルは、景色は抜群にいいのだが、お薦めできない事情があって今回は無視することにした。
 でも、少しだけでも働いたのでホテル事情に詳しくなり、ヒルトン、ハイアットなど超一流には縁がないけど、1.5流くらいからなら知り合いも多いのである。
 10時頃、携帯に電話がかかってきた。
「マダム、覚えていますか、カモですよ」
「ええっ、フュセイン・カモさん?」
「そうです、そうです。お元気ですか」
「元気よ。ちょっと、どういうわけ? 今朝あなたの名前をアドレス帳で見つけてどうしているかな、って思っていたのよ。ほら、私のそばのアドレス帳はまだ開いたままで、あなたの家の番号が書いてあるのよ」
「今朝、クシュさんのミニビュスに乗り合わせたので、マダムの携帯を教わったんです。クシュさんもマダムに電話をかけてもかけても通じないと嘆いていましたよ。こちら方面にはもう来ないつもりですか」
「いやいや、そういうわけじゃないけど。近いうち時間を見つけて行くわよ、必ず」

 電話を切った途端だった。ピンポ〜ンと誰かが訪ねてきた。郵便屋さんだった。私が7月に日本を発つとき、格安切符で来たために荷物の重量が制限されていたので、仕方なく着古した皮コートやセーターを段ボールに詰め、船便で送り出したのが2ヵ月かかって到着したのだった。といっても荷物が届いたのではない。お知らせの紙が来たのだ。
 その紙を持って、パスポートなど身分証明書のコピーを添付し、トプカプという地区にある貨物センターまで請け出しに行かなくてはならないのである。しかし私は驚いた。
そこがカモさんのいるホテルの方角だからである。本当は明日からまた1週間留守になるし、いろいろ仕度があるので別な日にしたいのだが、取りに行かないでいると発送地に送り返されてしまったり、高い預かり賃を取られたりすることもある。やはり今日のうちに行ってしまおうと決意し、留守の間に溜まっていたメールの返事を書いているうち午後になり、キリがないので家を出た。

道で拾ったタクシーでガラタ橋を渡り、旧市街に入ったところでトラムワイ(路面電車)に乗るために適当な場所で降ろして、と頼んだら運転手が「トラムでどこへ行くんだね」と聞く。
「トプカプまで荷物を取りに行くの」
「バヤン、それなら私は車を雇いの運転手に引き継ぐので、海べりを通ってベルグラード門のところであんたを降ろしてあげるよ。そこからトプカプへはミニビュスがわんさと通るから便利だよ。なーに、料金はここまでの分でいいさ。そうしなさい」
 歴史に名高いコンスタンティノープルの遺跡、テオドシウスの城壁は海沿いに延々と続き、ゼイティンブルヌ地区はその外側にある。ベルグラード門だなんて、私があのホテルに通うとき、毎日バスで通っていたところではないか。
 秋めいた気持のいい海岸通りを飛ばしてタクシーから降りるともうトプカプ行きのミニビュスは向こう側で信号の変わるのを待っていた。クシュさんの車ではなさそうだ。そうそう都合よく行かないよな、と自戒しつつ待っていると、やがて青になってミニビュスはこちら側に渡ってきた。運転手がやたらに渡る前からクラクションを鳴らすので、見たらそれはいつ鞍替えしたのか、なんとクシュさんの友達セルチュクさんだった。
 500人もいるだろうこの地区のミニビュスで知り合いの人の車に出会うとは。もしかしたらクシュさんにも会えて、車であの段ボールを運んでくれるかも。そんな都合よくは行かないか。
 セルチュクさんはいつ見ても髭面の、田舎丸出しのお兄さんだが、限りなく人がいい。大体ミニビュスに日本人が乗ること自体珍しいのだが、遠くからでも一発で私を見分けたと言うのだからすごい。
「おーい、フュセイン。誰だと思う。マダム・カセが俺の隣にいるんだ」
 ハンドルを握ってあちこちで客を拾ったり降ろしたりしながら煙草も吸って、電話までかけるセルチュクさん、おいおい、大丈夫か。
 やがてミニビュスは全部の客を降ろして溜まりに入った。7〜8年前からいまだに整備途中の広大なミニビュス溜まりには優に100台を越す車両がてんでな方向を向いて停まっている。運転手に軽食とお茶を出す店があって、大勢の男達が休憩していた。
「マダム・カセ、腹空いてないか」
「空いてる。よくぞ聞いてくれたわ」
「じゃあ好きなもの注文しなよ」
「クズシシ(子羊肉の串焼き)がいいな」
 気のいい田舎の人は遠慮するとかえって気分を害するので、私はセルチュクさんにご馳走になることに決めた。そこに仕事から上がったフュセイン・クシュがやってきた。
 願いどおり、車で荷物を取りに行ってくれることになり、早く受け取れたらシービュー・ホテルにも寄って、そのあとはクシュの家に行き、奥さんと子供に会いに行くことになった。串焼きを食べ終わって私達はセルチュクさんと再会を約し、席を立った。
 
 貨物センターには1年ぶりで来た。去年日本から船便で送った荷物は、3ヵ月余りかかって、近所への土産の団扇がもう要らなくなる頃着いたのだった。今回は冬になる前に冬物の服が届いたのだからいいとしよう。午前中と違って終業時間が迫った貨物センターは空いており、すぐに渡してもらえそうな予感がした。ところが、ところがトルコでは往々にして予想がくつがえる。
 私が日本の郵便局で貼った送り状には、価格の欄に50,000と書いたのだが、数字の前に¥を書くことになっていた。トルコ人の職員はこれを7と読んで、750,000円の1割に当たる金額を税金として請求されたのである。
「とんでもない! どうして自分の着古しの服を送って7万5千円もの税金を納めなくちゃいけないのよ。私は7年この方ただの一度も税金なんか払ったことないわよ、商売用の和食器以外は! いつ法律が変わったんですか。こんなお金持ってないわ。中味の1割と言うなら、私の古着を1枚税金として納めるからそれで勘弁してよ」
 私はタキシム郵便局のおやじの顔を思い出した。大声で文句を言ったら、もう一度調べて数字が間違っていないかという。
「75万円て、どっからきたの。私は5万と書いたのよ。あ、¥ね。これは7じゃありません。円のマークじゃないの」
 私の隣で両手を蟹のように持ち上げて怒鳴っているトルコ人のおじさんがいた。新学期の始まる3人の子供達のために日本から学用品や服やおもちゃを送り、やはり値段を書き入れたために税金をかけられたのだそうだ。私も抗議した。
「正直に金額を書き入れて税金をかけられるなら、今後みんな嘘を書くことになるわよ」
 結局おじさんと私の抗議が効を奏して、ベテランの上司のお出ましとなり、郵便法で自分の服や身の回りのもの、家族や友人への贈り物で一定額以下のものは税金がかからないという結論に達し、一件落着となった。

 結局税金も取られないで済み、カモ、クシュ、クシュの家族全部と出会い、家まで送ってもらって偶然が幾つも重なった不思議な1日は終わった。明日からまたバスの旅である。

 * 23日まで留守になります。
2002年09月18日 11時12分55秒

法事と餃子
9月16日・月曜日】
 アンカラはイスタンブールからおよそ450キロメートル東の盆地にあるトルコの首都で、1923年アタテュルク初代大統領によって共和制が敷かれたとき、イスタンブールから遷都されて以来約80年、発展を重ねて人口も飛躍的に増加し、街区は東西南北に広がって、積み木のように色とりどりのビルが市街地周辺の丘陵地に出現している。
 行政都市としてイスタンブールよりは機能的で近代的だと、アンカラの人々は言うのだが、数年前から造成されていた新市街地の広い道路の交差点に、何年経っても信号が設置されないので、毎朝毎晩大渋滞を引き起こしている。
 昨年の9月にアンカラに来たときも、ファトゥシュは「もーう、この道があるばかりに通勤が嫌になるのよ」と嘆いていた。今年の混乱振りはもっと酷くて、片側3車線くらいの広い道路の双方向からわれ先に車が突っ込んでくるので、どちらも身動きの出来なくなった状態で、お互いクラクションを目いっぱい鳴らしながらにらみ合って前には進まないのである。大小の接触事故が後を絶たないそうで、するとまた双方が車を放り出して口論となり、それに関係の無い人までが加勢するため大混乱に陥るのだそうだ。
「カセさん、見たでしょ。トルコじゃ上は大統領と首相から、下はその辺にゴロチャラしてる人間までみんな、丸木橋の上で出会った2匹の山羊みたいなものよ。お互いに道を譲らず、喧嘩になってもめているうちに、2匹とも川へ転落する、あれよ。まったく、どうしてこうなのかねえ」
 ようやく雑踏から抜け出したファトゥシュが痛烈なたとえ話でトルコの現状や、俺が俺がの人間性を批判する。
 かといって彼女は同胞を嫌っているわけではない。イスタンブールのボスポラス海峡にかかるファーティヒ・スルタン・メフメット大橋の工事中、日本人技師や労働者への日本厨房を担当してきた今は亡き夫君とともに、工事中の4年間おおいに日本人と係わりながら暮してきた彼女は、日本人の民族的な習性や固有の文化をかなり分かっていてこうも言うのだ。
「日本人は賢く礼儀正しい民族だけど、あまりに真面目、几帳面すぎて他人にも厳しいのよね。失敗を決して許さないとかね。その点トルコ人はミスも多いけどお互いにとても寛容よね。この点ではトルコ人は世界のどの民族にも負けないと思うのよ、カセさん」
 そうかあ、日本は株式会社で、トルコは協同組合ってところね、言うなれば。

 13日の晩、ファトゥシュの家では、大きな白熊の縫いぐるみみたいなメリエムばあちゃんが私達を待っていた。84、5歳になる今も、いくらか腰をかがめて歩いているにも係わらず、私よりまだ背が高い。8人の娘や息子の家を気の向くままに回って暮している。時にはもう独立して一家を構えている孫達の家に滞在しているときもある。来年早々にはひ孫の中の一番大きい青年が結婚する。どの家に行っても、ゆったりと急かず慌てず、床に布を広げてまめの皮をむいたり、冬に備えてオクラや唐辛子を糸に通してつるしたりと、トルコ東部の昔ながらのおばあちゃんである。
この夏、アメリカで暮していたメリエムさんの兄の未亡人が95歳で亡くなり、土曜日には施主である甥の家で40日の供養が行なわれることになっていた。仏教では49日の七七忌というのがあるが、イスラム教でも同じように亡くなった人の節目節目の供養をするのだった。1年とか3年経つと、親類縁者が集まり、ホジャ(僧侶)を呼んで、コーランを唱えたり、軽い食事をともにして故人を偲ぶのである。
次の日の午後、昔ながらの地区に昔ながらのたたずまいで残る2階建ての家で、亡くなったメリエムさんの兄嫁の供養が行なわれた。お兄さんは生理学の学者だったそうで、息子のヤルチュンさんも、国立大学の教授を退官した後も大学に自分の研究室を持ち、教育省の顧問でもあるのだそうだ。
ファトゥシュの従兄にあたるこの教授は、アパルトマンの谷間のようになった親譲りの家で、庭園に見事な花や緑を育てていて、冗談をよく飛ばす明るい人だった。研究室に出入りする若い学生に囲まれているので、実際の年齢65歳よりずっと気が若いに違いない。
ホジャを3人も頼んでの法事は贅沢でお金のかかることらしかった。3人が替わる替わる思い切りエコーを効かせたマイクを握って、たっぷりコーランを朗唱する。もともとよく通る美声なのに、エコーが効いていて、クワンクワンクワンと声の最後が山彦のように響いた。何でこんな広くもないサロンでマイクを使うのか分からないが、スピーカーが耳元にあったメリエムさんは、頭痛がして、兄嫁の供養どころでなく、一刻も早く終わらないかとそればかり念じてしまったのだそうだ。
その席にメリエムさんの弟の息子のムアンマルさんが来ていて、来週のムアンマルさんの息子の結婚式に私を正式に招待してくれた。ムアンマルさんはファトゥシュの亡夫アフメットさんの兄である。とにかく私は、夫と2人の子供を亡くして失意のどん底にいたファトゥシュを、日本に連れて行って2週間観光旅行のエスコートをし、楽しませた功労者として、自分でもわけのわからないうちにこの一族の中で賓客、同族扱いとなり、今後目白押しに控えている一族の若者達のすべての結婚式に招待されることになった。

日曜日、私は朝食のあと、10人分の夕食の仕度にかかった。餃子を100個くらい作って、他に3〜4種類のおかずの下準備をした。餃子の中味にはニラも白菜もないので、キャベツその他を使うが、商品開発にはけっこう苦労したものだ。でも、「かせ餃子」はレストランのあった頃一番の売れ筋だった。「加瀬さんの作る餃子は天下一品だよ〜」といってくれる栗原小巻に似たファンもいるので、とりあえず彼女を小巻さんと呼ぶことにするが、こう言ってもらうためには材料と香辛料の比率もさることながら、キャベツの茹で具合、切り具合、搾り具合1つだっておろそかには出来ないのである。餃子を巻くのをじっと見ていたメリエムさんが、「あたしゃ、珍しいものは食べないからね」と予防線を張っている。
 いったん冷凍にして、焼き餃子にしてみると、焦げ目のついた部分はちょりちょりと歯ごたえもよく、中味はふっくらやわらかく出来上がって久々にしてはなかなかうまく行った。餃子はトルコの人にも大受けだった。
日本に行ったとき、息子のためににんにくたっぷりのを作って待っていたら、腹一杯食べた後言った。
「お母さん。もう作らなくていいから。俺、こういうことに慣れたくないんだよね。どうせまたいなくなるんだからさ」
2002年09月16日 23時55分44秒

女は六十路からが旬
【9月12日・木曜日】
 昼前は日記を書くのが日課になり、書きながらいろいろなことに手を出す癖が治らないので、日記も書き上がらない、手を出した仕事も仕上がらないの悪循環。
 いつだったか、せっかくいい天気だからと洗濯機をかけ、昼近くなってから、あ、もう止まってると気づき、半分くらい干したところで電話が鳴って、話し終えたらパソコンが真っ黒になっていたので慌てて続きを書き始め、HPに送信したあと、ご飯を食べたりメールの返事を書いたり、爪を切ったり植木鉢に水をやったりしているうち、猫の餌を煮なければと思い立ち、煮てさまして階下に下りて、日も沈み薄暗くなるまで猫と遊んでふとわが家のベランダを見上げると、洗濯物がひらひらしている。あっ、残りを干すのを忘れたと思い出して駆け上がり、バケツの中をのぞいたら、残りのうすものはバケツの中でくしゃくしゃのまま乾いていた。
 もう、こ〜んな女に誰がした〜♪、と歌いながら、冷蔵庫の中を覗くと幸いにもつまみ食いするものが何も無く、ソファの上に読みかけの本がへの字の形に伏せたままにしてあるのを見つけ、またそこに腰掛けて続きを読んでその晩は風呂に入り損なったりする。母がもし生きていたら、「本当にお前はとっちまりのない女だね」と怒られるに違いない。

 今日は何としても、午後から郵便局に行って例の本を送らなくてはいけない。そしてアンカラ行きのバスのチケットを買いに行こう。と、朝のうちから思いつつ、もう10日以上も抱え込んでいる仕事を思い出してしまい、ちょっとだけでも手をつけておけばきっと仕上げたくなるだろうと、思い切って着手した。
 それは近い将来の日本移住に備えて、日本語を習い始めるジェイハンのために、いろはカード、なんてもう言わないのか。50音カードを作って、ひらがな、カタカナ、発音のアルファベットを書き入れる。裏面にその字を先頭にする単語を並べ、暗記用にする。これを半透明なカードホルダーに差し込んで持ち歩くことも可能だ。
 これが私からのささやかなはなむけなのだが、しかし、何でこう簡単に嫁さん側になびくのかね、最近の男の子は、と若干不服な気分でもある。印刷屋で買ってきた印刷前の名刺用カードに、カラフルな油性のマジックペンで、あ、い、う、え、お、と書き込んでいるうち4時近くなってしまった。
 慌てて家を出た。ベイオウル郵便局は混んでいた。いつもの窓口のきびきびしたおばさんは、9月から出世したのか後ろのマネージャー席に座り、窓口には転勤してきたらしい若い女性2人が働いていた。印刷物で開封便と言うことで、1025万リラという金額が出た。先日同じ人にサッカー選手のユニホームを送ったときでさえ、875万リラだったのだから、そのくらいは覚悟していたが、窓口のお姉さんは郵便料としては余りに高額なので、隣の職員や、もっとベテランのおじさん達に尋ねて3度も4度も計量してくれた。
「間違って余計払わせちゃったら申し訳ないからね」と自分ももう一度計りなおして、やっと納得したように1025万リラだと言った。いつかタキシム郵便局で、1020万リラのところを平気で2700万ぼったくりしたおやじ職員とは大違いだ。
 私はおおいに気分よく郵便局を出て、あちこちの顔見知りに引っかかりながら銀座通りをぶらつき、タキシム広場を横切ってトルコ最大級のバス会社ワランのオフィスで明朝のチケットを予約した。他のバス会社より5割も高い運賃を取るにもかかわらず、ワランのバスは安全だという定評があって、早めに予約しないとすぐ満席になってしまうのだ。
 朝8時45分のバスにはもう3つしか空席がなかった。これ以上遅かったら席がとれたかどうかわからなかった。
 先手必勝である。私はインフォメーション・オフィスを設立するほかにも、プランを1つ持っている。親友ファトゥシュが社長を務めるオヌル・ケータリングと組んで年内にも始められそうな仕事があるのだ。
 女は六十路からが旬。
 あれもこれもと、やりたいことがいっぱいある。こんな幸せなことがあるかしら。でもその前に、あの癖を治さなくてはいけないな、目移りしやすくて、片づけ物が下手で、いまだに自分のベッドの半分しか寝るスペースがないという、不名誉な癖を。

 * 16日まで留守になります。
2002年09月13日 06時10分18秒

雨 女
【9月11日・水曜日】
 1年前、私の家のテレビはロンドン経由で送られてくるNHKのニュースを見ることが出来た。夕方の4時は日本の夜10時に当たるから、そろそろニュース・テンが始まったな、テレビでも見ようかとパソコンをオフラインにした途端電話が鳴った。日本に行っていた娘からだった。
「お母さん、テレビ見てる? 早くつけてみな。今ニューヨークで大変なことになってるの、世界貿易センターが燃えてるよ!」
 実際、それはかつてない悪夢のような映像だった。手前のビルが黒煙を噴き上げて燃えていた。いつもは暢気そうに見える丸顔のキャスターが興奮した状態で喋っている。まもなく2機目が後ろのビルに突っ込んだ映像が入ってきた。
 世界を腹の底から震撼させた世紀のテロ事件から早くも1年。今はまたアメリカがイラクに戦争を仕掛けるのではないかと取りざたされている。
 世界があしたどうなるのかすらわからない時代である。一日一日を大切に生きるしかないな、と思う。

 イズミットのタイヤ工場ブリサに新しい赴任者が2人見えたとのこと。6日に集金に行ったとき聞いたので、本日改めてご挨拶に伺うことにしたが、家を出る前にやることが一つあった。
日曜日に長芋などを持ってきてくれた碧さんと、4時間以上もお喋りして別れたあと、日本の友人に頼まれた本を探してあちこちの本屋を歩いた。トルコのW杯に参加した代表チーム選手達の生い立ちの記を綴った分厚い本だそうである。やっと1軒で見つけたはいいが、次は本を送るのにちょうどいいクッションつきの封筒を買うために、近隣の文房具屋を何軒か回ったが日曜日なのであいにく全部閉まっていた。仕方ない、あした出直すか、と諦めて戻ったが、月曜、火曜は買物には出られなかったので、せっかく買った本がまだむきだしのままテーブルの上に置いてあった。
イズミットへ行く前にこれを一刻も早く何とかしなくてはと、家中探したら、いい具合に日本にいたとき、別の友人がCDを送ってくれた際の封筒が出て来た。私は普通、何か郵便で送ってもらったりすると包装紙まで捨てられなくて取っておくので、その封筒もイスタンブールまで持ち帰ってきたのである。この調子だと、晩年は「ごみ婆あ」になる恐れがあるかもしれない。

まあ、何はともあれちょうどいい封筒が見つかり、再利用だから私の名前の上に宛名を貼り付けるため、また荷物の山をひっくり返して、昔何かに使えるかも、と取っておいた糊つき透明ビニールのシートがあったのを思い出してうまく見つけ出し、包装はバッチリ完了した。
ところが郵便局へタクシーで駆けつけたら無情にも1分違いで昼休みに入ってしまい、仕方なく諦めて本はリュックに詰め、エミニョニュの波止場に向かった。ここからはいつものようにフェリーで対岸のハーレムに渡り、バスに乗ってイズミットに。
しかし私は出発前に郵便物に気を取られすぎて、またまた折り畳み傘を持つのを忘れてしまったのである。果たしてバスに乗ってから30分ばかりしたら空が異様に暗くなり、高速道路が短いトンネルを抜けていきなりイズミット湾の崖っぷちに出るところで雨が降り出した。有名な絹の絨緞の産地、ヘレケを通過するときなどバスの大きなワイパーが払いきれないほどの土砂降りだった。
それでもバスも他の車も速度は緩めない。海が真下に見える高速道路でハイドロプレーニングを起こしたらどうなる、なんてことをトルコの運転手達はいちいち考えないのかもしれないな。
幸いイズミットに近づくと、道路は濡れた気配もなく、料金所で乗り込んできたシミット売りからゴマをまぶして焼いたドーナツ型のパン、シミットを5つ買い、バスを降りてマイクロバス乗り場に向かった。
イズミット市はイズミット湾の最奥で、海沿いのバイパスや施設はすべて埋立地だという。3年前の大地震で海沿いの建物は大打撃を受け崩れ去った。復興はなかなか進まず、この大通り(バイパス)は雨が降るごとに水浸しになる。
工場方面に行くマイクロバスの乗り場で待っているうち、急に雨が降り出した。もあーっと埃が雨に濡れるにおいが立ち込め、あっという間に土砂降りになってしまった。バスに乗り込んだら雨脚は更に激しくなり、川端康成が踊り子と出会った天城峠の夕立もかくやと思われた。
伊豆の踊り子と言えば何度も映画化されている名作だから、私も一番古い田中絹代の踊り子は観ていないが、歴代のヒロイン達を思い浮かべるとそれはそれで時代を反映していろいろな思い出が甦ってくる。
美空ひばりと石浜朗、吉永小百合と高橋英樹、内藤洋子と黒沢年男、山口百恵と三浦友和、テレビでは栗田ひろみと小林芳宏・・・
とにかく俄かに襲う豪雨というと天城峠が出てくるので、かなり強烈にインプットされてしまっているらしい。
「アロー、ハーカンさん」
 ついに私は携帯電話から工場のクラブハウスに電話をかけた。
「今マイクロバスに乗ったとこよ。ものすごい雨だからさ、見習い君にご苦労さまだけど工場の門のところまで迎えに出るよう言ってよ、傘もって」
 コック長が怪訝な声で答えた。
「加瀬ハヌム、こっちは降っていませんよ」
「うそ!」
「私が嘘ついてどうするんですか。ほんとですよ」
 狐につままれたような顔で電話を切ると、バスの乗客が口々に言った。
「バヤン、街なかだけだよ、雨が降るのは。見ててごらん、傘なんかいらないから」と、みんな涼しい顔をしている。
「でもヘレケでもすごい雨でしたよ。イズミットに着いたときは降ってなかったのに、私がついたら途端に降り出して・・・」
「それじゃあ、あんたがイスタンブールから雨を持ってきたんじゃないのかね」
 誰かがそう言ったのでバスの中は大笑いになった。
「やっだ〜、そうかもね」と私も笑った。
まもなくイズミット湾が尽きたところで雨は上がった。工場の地域ではやはり全然降った気配がない。鈴懸けの並木道を歩いてクラブハウスに着き、冗談のつもりで、
「おーい、イスタンブールからお土産に雨を持ってきたよ〜」と厨房に向かって叫ぶと、コック長が飛び出してきて私を出迎えた。
 実に3時間余りもかかってやってきたので、彼らはもう夕食の仕度にかかっていた。リュックを下ろして厨房に入ったら、開けっ放しのドアから裏庭が見えた。ポツ、ポツ、ポツと真っ白に見えた地面に黒い粒が出来始めた。本当にイスタンブールから私が持ってきたらしい雨が降り始めたのだった。豪雨と言うほどではないが雨は小1時間降り続いた。
 そういえば、どういうわけか私が「犬と三日月」の話で東京四ツ谷にある出版社、新宿書房に行くとき3度に2度は雨が降ったので、社長から「雨女」といういうあだ名を頂戴していた。
 たしかに私は小学校3年生くらいまで、毎晩のように雨を降らせていた経験があって、あ、ここまで白状するつもりは全然なかったのに、つい濡れて口が滑りました。
 アラムズダ カルスン。(トルコ語で、「内緒にしておいてくださいね」)
2002年09月12日 18時43分26秒

オフィス設立に向けて
【9月9日〜10日・月〜火曜日】
 今回のメディアの方々の要望に応えるためにホームステイのホスト家族探しをしたのをきっかけに、私はトルコでロングステイのお手伝いをする組織を立ち上げる決心がついた。私自身も個人的にいろいろな方の手助けをしてきたのだが、もっと確実に組織的に、安全な形で日本からの来訪者を支援することが出来たらいいのに、と思っていたのだ。
 1人の力では限りもあり、好意で手を差し延べた私を、さんざん利用しておいて後足で泥をかけるような真似をする人も時々いるので、自分がバカを見ないようにするためにも、公の仕事にする必要性を実感していたところだ。
 私も娘も似たような性格で、聞かれればいくらでも教えたり、何か頼まれれば自腹を切っても動いてしまう。娘は大学で1年学んでは1年休んで日本に働きに行き、翌年分の学費を稼いで戻ってくるという暮らしをしている。だから学校に通っているときは、本当に真剣に予習しノートを整理し、夜中の1時2時まで勉強しているのだが、クラスメートがそのノートをちゃっかりと借り受けて、コピーを取りまくって友達に流していたらしい。
 私が大阪で講演することが新聞に写真入りで報道されたとき、セッティングをしてくれた友人のところへ1通の手紙が読者から舞い込み、千葉にいる私に回送されてきた。それは何項目も箇条書きにされた質問と、資料集めの依頼であった。
手紙には「講演当日、会場で質問すると時間をとるといけないので、あらかじめお尋ねします。当日までに調べてお答えいただければ幸いです。またお願いした資料は当日会場へお持ちいただきますようお願いします」と丁寧に書いてあった。
ええー? こんなたくさんの質問に私は答える義務があるのかい。資料って、トルコ語学校の入学案内なんか持ってないよ、イスタンブールから取り寄せなけりゃ。
かなり疑問に思いながらも、資料になりそうなものをインターネットで分かるところまで探してプリントアウトし、箇条書きの質問には知っている限り答えたら便箋4枚にもなって、書くだけでも5、6時間かかってしまった。
頼んだ人が読んで、「なーんだ、けっこうお金かかるからトルコに行くのはやーめた」と便箋を丸めてくずかごにポイと棄てたら、私の1日がかりの努力はどうなるの? と疑問を抱きつつも郵便局まで車を飛ばして出しに行った。

こんなことが度重なると、もの書きになるより前によろず引き受け屋になっちゃいそうだと恐ろしくなり、友人にもサービス精神過剰で自分を食いつぶすよ、と注意され、「かっこばかりつけてないで、報酬を貰わなくてはだめよ。お金もないくせに人助けしようなんて思い上がりもはなはだしい」と鉄槌を振り下ろされたような一言が私を奮起させた。
 月曜日は日記とメールの返事書きで1日が終わり、今日火曜日はいよいよオフィス設立のパートナー、シェフムス先生と奥さんが待つタキシムのアトリエで打ち合わせに入った。
インシャーラー、オルル(成れば成る)。イスラム世界では成せば成るではなくて、アラーの思し召しがあれば、だから「成れば成る、成らねば成らぬ、何ごとも」なのである。
2002年09月11日 17時54分34秒

向こう見ずな母
【9月8日・日曜日】
アリ・サミ・イェンを出たのは、11時を回ろうとしている時刻だった。トルコでも一番古いこの由緒あるサッカー場は、交通量の多いビュユック・デレ(大きな渓流)通りに面しているが、通りの上を更に高速道路が通っていてやかましく、広いメジディエキョイのバスターミナルまで行かないと横断歩道や信号がないので、道路の反対側に渡るのがまた一苦労なのである。ターミナルの何系統もあるバス乗り場は向きが縦、横、斜めと滅茶苦茶で、人々もやっぱりてんでんばらばら滅茶苦茶な方向に歩くので、ことにマッチ(試合)の後は車という車はクラクションを鳴らしっぱなし、喧噪はなお一段と凄まじいものがあった。

やっと信号を渡りきる直前、私は後ろについてきた痩せこけたおやじに気がついた。一瞬、私にぶつかったからである。痩せたおやじは、歩道に上がった私にもう一度後ろからぶつかった。そのとき微かにリュックが引っ張られたような気がしたので振り返ると、奴は私から離れ素知らぬ振りをして車道に下りていった。
手を後ろに回してみると、リュックの外ポケットのチャックが全部開けられていた。
「ちょっと待てっ、止まれっ」
私は車道に飛び出して行って男の腕を捉まえてひねった。
「私のリュックを開けたろう」
「お、俺がなんか盗んだとでも言うのか」
「盗んだかどうか知らない。でもお前は私のリュックを開けたんだ」
 おやじは私の手をふりほどき、開き直って両手をあげ、手にしていたビニール袋をふりながら「さあ、調べろ」とすごんだ。歩道からも渋滞で止まっていたたくさんの車の中からも、人が見ている。1台のタクシーの運転手が「どうした」と声をかけてくれた。
「チャックを開けられた」というと、運転手はエンジンをかけっ放しのまま降りて駆け寄り、痩せおやじのTシャツをムンズと掴むと歩道へ引きずって行き、喉輪を食らわせながら、「てめえ、外国人のリュックなんか狙っていいのか、恥知らず。何を盗んだのか白状しろ」と締め上げた。そのとき、男のTシャツがめくれあがって、ズボンにはさんだナイフの柄があらわになった。

「気をつけて。ナイフを持ってるわ」と私は叫んで男を押さえつけている運転手に知らせた。幸い、試合のある日は警備がたくさん出ているので、すぐに2人の警官が駆けつけた。
 1人が小枝子さんに「開けるのを見たかい」と聞き、彼女は「後ろにいたので、チャックを開けるところは見なかったけど、2度ぶつかっていったのは見ました」と答えた。
 警官達はわめく男を連行していった。はっと気がつくと、勇敢なタクシーの運転手さんはもうどこにもいなかった。お礼を言いそびれたが仕方ない。感謝しているのはきっと分かってくれるだろう。私も何も盗まれてはいなかった。そのポケットはモスクの丸屋根をかたどった飾りで、乗車券を入れたり、貰った名刺をとりあえず納めるなどには使うが、金目のものや家の鍵などの大事なものは入れていなかったのだ。

 まもなく私達は近くの居酒屋風食堂に入った。小枝子さんとうちの娘が以前マッチを見た帰りにたまたま入って大いに気に入ったのだという。おやじ専門というくらいおじさんばかりが集まる場所だが、食べものが飛び切りおいしいのだそうである。
 とりあえずトルコ・チームが勝ったお祝いにビールで乾杯したが、店では1人の歌い手が、パイプ椅子に座ってエレキのサズ(三味線に似た弦楽器)をかき鳴らしながら、トルコの東部や南部の民謡を情感たっぷりに歌っていた。
 でっぷりとした体格も髭面も、洗いざらしの木綿のシャツも、どこか羊飼いのおじさんといった風情の歌い手は、しかし尽きることのない美声で哀調を帯びた歌を次々に披露するのだった。

「加瀬さん、私、いつも心配してるんだ。勇ましいのはいいけどもしものことがあったらどうするの。あのおやじ、ナイフを持っていたんでしょ。自分が不利となったら見境なく刺す奴がいるから係わっちゃ駄目。加瀬さんに何かあったら私だってどうしていいかわからなくなるよ。ましてや悦ちゃんがそばにいないんだから、今」
「うん、まあ、わかったよ」
「どんな高いものを盗まれても、刺されたりして怪我するよりはずっと安くつくよ。ほんとにもう、泥棒だのと格闘するのはやめてね。私、加瀬さんは親だと思っているんだから」
「ようくわかったから心配しないで」
「と言いつつ、向こう見ずだからさぁ」
 小枝子さんの言葉にはいつも真実がこもっていた。60歳を目前にして、泥棒と格闘するなと諌められている自分もすごいけど、いやいや、実際日本だって昔のように平和ではないのだし、慢性的に経済恐慌状態のトルコでは、私のようにスキだらけな人間は磁石みたいに鉄くずを吸い寄せてしまうのである。それに確かに年齢だって若くない。3年前、強盗と大格闘したときも、幸い男はナイフだのを抜かなかったから手足のうっ血くらいで済んだが、護身術の心得があるわけでもなし、
私が飛び掛って行くことすら間違っているのだ。
 2杯目のビールを飲み終えて、12時も回ったことだし、会計して席を立つとき、歌い手のマイクにもチップを挟んだら、店中のお客さんに「まだ行くな」と引き止められてしまった。私は歌い手にクルド人のウズン・ハヴァというコブシとヨーデルを組み合わせたような独特の唱法の歌を一つリクエストした。店の客からも別な歌が私に贈られた。12時半を過ぎてから、小枝子さんに付き添われて家に戻った。夜中にも係わらず、空腹の猫達が待っていたので、私は簡単なキャットフードを撒いてやり、しばらく猫達と遊んだのち部屋に戻った。
 日曜の午後は、日本から戻ってきたばかりの碧(みどり)さんと会うことになっていた。小枝子さんとゆっくり朝食を摂り、一足先に彼女が家を出た後、洗濯物を干してから私もタキシム広場に向かった。小さな子供達を連れ、自分達の荷物だけでもいいかげん重いというのに、彼女は長芋、里芋、薩摩芋、ごぼうなどイスタンブールで見つからないものや、雑誌や文庫本まで提げてきてくれた。碧さんもまた、7年前、私の家で2ヵ月ばかり一緒に暮した娘のような人だった。
 夫との生活は不幸に終わったけど、その代わりに実の娘や息子のほかにもいい子供達をたくさん遣わせてくださったのだ、神様は。
2002年09月10日 17時53分12秒

テュルキイェ・ミッリ・タクム
【9月7日・土曜日】
 この耳慣れない表題は、トルコ・ナショナル・チームというトルコ語である。この国は日本ではトルコで通っているが、本当の国名はテュルキイェという。私もテュルキイェとトルコではずいぶん違うじゃないかと思ったことがある。トルコってどこにあるの、と聞く人さえあるのだから、テュルキイェなんて言っても誰も知らないだろう、日本じゃ。

 トルコ語には、名詞や固有名詞のあとにyaとかyeという字をつけた派生語があり、テュルキイェより以前にテュルクという単語があって、これは「トルコ人」という名詞であると同時に「トルコ民族の」、「トルコ人の」という形容詞なので、このテュルクが日本語では国名としてトルコになったのであろうと思われる。なぜなら、トルコ語が日本に入ってきたのは、今の国名が出来る以前だからである。
 昔のオスマン帝国の最大版図は、中東からロシア、ヨーロッパにまたがっていたが、第一次世界大戦でドイツに加担して敗北を喫し、帝国が解体したあと、分断されるはずだった現在の領土を守り抜いて、救国戦争に勝ったムスタファ・ケマル将軍つまりアタテュルク初代大統領は、トルコ民族の国という意味合いでテュルクにyeをつけて国名をテュルキイェ共和国としたのだそうである。
そういえばトルコ語では、日本をジャポンヤというが、これはジャポン(名詞では日本人、形容詞では日本民族の、または日本人の)に、yaをつけたものであり、同様にドイツをアルマンヤといい、これもアルマン+yaである。その他、イタリヤ(イタリア)、ルスヤ(ロシア)、ポロンヤ(ポーランド)、ロマンヤ(ルーマニア)とか、スーリエ(シリア)などもyaとyeのついた国名である。
 それにスタンというのがある。スタンはペルシャ語だというが、誰々の土地・国という意味だそうである。
有名なアフガニスタン(アフガン人の国)をはじめ、パキスタン、ウズベキスタン、テュルクメニスタン、カザキスタン、ヒンディスタン(インド)、ユナニスタン(ギリシャ)、マジャリスタン(ハンガリー)、フルバチスタン(クロアチア)などは、オスマン帝国時代から呼ばれていた名残で、まだまだ枚挙に暇がない。
 あ、いけない、また脱線。歴史の話をするつもりではなかったんだ・・・ミッリ・タクムについて書こうと思ったのに。

 さてさてその、テュルキイェ・ミッリ・タクム、以下、トルコ代表チームと書くが、W杯で3位という予想外の成績を上げたので一躍世界の注目を浴び、わけてもセネガル戦でゴールデンゴールをぶち込んだ上、3位決定戦で2点を稼ぎ出して自国を勝利に導いたイルハン・マンスズなる選手は、日本女性の黄色い声援で瞬く間にスターダムにのし上がった。日本からついにイルハンを一目見るツアーが来るという。ご当人は怪我で当分試合に出られないのだが、それでもいいからという人が大勢いて、かくてツアーは試合に出ないサッカー選手を見に来るわけである。
 誰が起爆剤になってもいいから、ぜひともトルコに注目し、末長くトルコを好いてくれる人が増えますように。イルハンの人気が衰え、あとは見向きもしないんじゃ困るよ。
 W杯に参加した選手の多くが怪我に泣き、ベストメンバーが組めないトルコ代表チームだが、誰かが引っ込めば誰かが台頭するのは世間の常、イルハンに替わってセルハットという生きのいい若者が大いに注目を浴びていた。いよいよ、ヨーロッパ選手権の予選が始まって、今日7日は東欧のスロバキアと闘うのだった。
小枝子さんが2回も足を運んで手に入れてくれたチケットがあり、試合開始は8時30分だが、事前に腹ごしらえしておこうというわけで、待ち合わせはアリ・サミ・イェンの近くで5時と、電話で打ち合わせた。
「私、うちにある大きい国旗を持ってくわ。それにサンバイザーには小さい国旗を取り付けて、くるぶしのところに国旗のついたミッリ・タクムのリストバンドはめて、紅白の鉢巻締めてくから!」
「やっだー、加瀬さん。恥ずかしいじゃん。並んで座るの、やだなあ」
「あなた、さいたまの時はおまけに頬っぺたに赤くトルコ国旗のペインティングしてもらったのよ。あいにくチケットが高過ぎて買えなくて会場に入れなかったんだけどサ。こっちじゃどこで描いてもらったらいいの」
「トルコの人はペインティングしないのよ」
「小枝子さんは何かつけるの?」
「そんな恥ずかしいことしないわよ。ミッリ・タクムの赤いユニホーム着ていくけどね」
「なんだ、人のことさんざん言って五十歩百歩じゃないか」

 午後2時、リュックを背負って家を出た。竿つきの国旗は巻いても赤いからすぐに国旗だと分かってしまう。持っていくのが恥ずかしい人は試合ごとにスタジアム周辺にたくさん出現するグッズ屋から買って、まさか国旗を捨てるわけには行かないから持ち帰る。試合のたびに旗がたまってしょうがないんだそうだ。それを持って売りに行けばいいのにね。
 印刷屋に行き、名刺を受け取ってムスタファさんと一緒に、日本人に家を貸してもいいという建築家のビルを訪ねることになった。そこに若い男女がニコニコしながら結婚式の招待状を受け取りに来た。100通ばかりの招待状は、別の印刷屋で拵えたのだが、招待者の宛名を金文字で一人一人書き入れることと、細いリボン飾りを貼り付ける作業をムスタファさんの店で頼まれたのだそうだ。
大至急と言うので、昨日宛名書きの専門家に頼んで名入れしたあと、リボン屋に運んで、1日で仕上げさせたらしい。
 女が箱を開けた途端、血相を変えたのがわかった。叫んだ。
「何よ、これは! 私が頼んだ鮮やかなワインレッドじゃないじゃないの! 封筒と同じ色にしてって、言ったでしょうが!」
 机の上に放り出したのを見たら、中に3通くらいワインレッドでなく、濃い目のピンク色のリボンがついたのが出てきたようだ。
 ムスタファさんも青ざめた。失敗作が出てきたことより、女の剣幕に青ざめたのだった。
「私がリボン屋だったらこんなまずいことはしないんですが・・・」と彼。
「結婚式なのよ。こんなの引き取ってもらいます。または、お金なんか払えないわ。こんな半端もので私達にみそつける気?」
「いや、決して。お二人の結婚式へのご奉仕だと思って、間に合わせるよう、あっちへ運び、こっちへ運びしたんですが。料金だって実費しかいただいておりません」
 がなり立てている女に気押されて、目の縁を真っ赤にしているムスタファさんを見るのは忍びなかった。明日の結婚式の招待状を受け取らないと言い張る女をなだめて男が口を開いた。
「金は俺が払うよ。当然、大幅に値引きしてくれるんだろうね。お詫びとして」
 ムスタファさんは値引きはしないと言った。女が騒いだのも、彼を頑なにさせたのだろう。
「1日だけしかないところを間に合わせたんです。よそでは間に合わないからうちへ持って来られたんでしょう。私はむしろお2人へ奉仕のつもりで引き受けたんです」
 私は少し驚いていた。普段あんなに優しい人なのに、ムスタファさんは2人に対して詫びもしないし、値引きもしないのだった。男は納得して全額払った。3500円程だ。
「ふん、あんたんとこなんか、お客をじゃんじゃんなくしてしまうわよ、きっと」と女はさんざん毒づいて、男に箱を持たるとぷんぷんしながら出て行った。

 地下街の印刷屋から外に出たら折悪しく盛んに雨が降っていた。旗のことに気をとられ、傘を持つのを忘れていた。ムスタファさんが私の分まで近所から傘を借りてくれて、銀座通りを最後まで歩き、それよりさらに下のガラタ塔への道をたどった。ビルは塔の近くにあった。
 建築家は長年の友人らしかった。ムスタファさんの顔色を一目見て「何かあったのか」と尋ねた。かいつまんでわけを話し、
「そんなわけでマダム・カセを君に紹介するのに冴えない顔で来たんだ。すまん」と運の悪い印刷屋が詫びた。私も招待状は全部別々の人に行くんだから、あんなに怒らなくてもいいのに、とムスタファさんの肩を持った。我々が来るのも遅れたし、雨もしょぼしょぼ降り止まないし、海の景色を見ながらテラスでお茶のみの予定は水に流れてしまった。

 テュネル(トンネル)という名の銀座通りの終点まで坂を登り、路面電車に乗ってタキシム広場まで出てメトロでメジディエキョイに行った。小枝子さんと落ち合い、軽食を摂ってスタジアムに向かった。少し内陸にあるメジディエキョイはあまり雨が降った様子もなく、早い目に入場したのでいい場所を確保することが出来た。
 試合前、悲報がもたらされた。バスで移動中のサカリヤ・スポルのサッカー選手達が事故に遭遇して3名の死者、大勢の怪我人が出たらしい。チームはもう、今シーズンはプレーが出来なくなったという。3年前は大地震の震源地で、選手や家族が大勢亡くなり、1年間を棒に振ったサカリヤ・スポル。
アリ・サミ・イェン・スタジアムではスロバキアとトルコ両国の国歌斉唱のあと、選手も観客も全員がキックオフの前に1分間の黙祷を捧げた。
試合は一方的にトルコのペースだった。新星セルハットは早々と先制を決め、今期ガラタサライで毎試合ゴールを記録しているベテランのアリフが2点を稼ぎ出して、トルコは3−0で圧勝したのである。
この試合のチケットは小枝子さんからのプレゼントだった。

2人が気分上々でスタジアムをあとにし、喉が渇いたから近くの食堂で1杯ビールでも飲んでいこうと、大混雑の交差点を渡ったとき、1人の男が背後からぴったりとつけて来ているのを、私はまだ知らなかった。
2002年09月10日 09時42分51秒

異国にて恋しや野辺の赤まんま
【9月6日・金曜日】 
3日遅れの便りを乗せて〜♪ とくれば都はるみのご存知「アンコ椿は恋の花」。私は3日遅れの日記をつけている。だいたい歳のせいで今朝のことも忘れるようになってきたのに、3日も前の日記をつけるなんて至難の業だ。ところが不思議。この、人様にも公開している日記風エッセイを書くようになってから、忘れなくなってしまったのである。
すごい責任感! 日記を書かなければ、というひたむきな思いが私を駆り立て、その日書けなくても次の日、次の日が駄目ならその次、ええい、まとめて書くからいいやとなり、かくて3日遅れとなってもまだ降参しないしぶとさが異国暮らしに向いている。

で、今日は・・・と書き出すにはさすがに白々しいのだが、あえてそう書くことにする。今日はイズミットに出かけるために少し早起きした。まず空模様を見る。アジア大陸の西の果てを通り越して、ヨーロッパにまたがるイスタンブールでは、夜の明ける時刻が日本より遅い。私は一応ヨーロッパの住人である。 
まだ太陽は見えないが、曇ってはいないから心配なさそうだ。以前だったら夏場のイスタンブールで雨の心配などめったに必要なかったのに、このところ大気が不安定で、1日1度は雨が降っている勘定である。
4日の分の日記が書きかけのままだったので、パソコンを立ち上げてメールのチェックをし、日記の方に移って小1時間奮闘したが書き上がらない。後ろ髪を引かれる思いながらまた閉じて、シャワーを浴びて髪を乾かしてからジハンギル・タクシーを呼んだ。
先月イズミットに行った帰り、メトロの入り口で空腹からめまいを起こし、高い階段から転落寸前になった出来事は、怖いもの知らずの私に若干の恐怖心を植え付けた。今日こそは早めに家を出て、エミニョニュか対岸のハーレムで何か朝食を摂ろうと思ったのである。
カーフェリーは定刻の9時30分より若干遅れて岸を離れた。空全体がグレーに見えたが、ところどころにちぎれ雲が飛んで、イスタンブールの重なり合ったなだらかな丘に密集するビル、ホテル、モスクとミナレット、教会の鐘楼、家々。色とりどりのそうした建物を船の上からゆっくり眺めるとき、この街に来てよかったと実感する。こんなに目を見張るほど綺麗で、洒落ていて、それなのに全然気取りがなくて、時には大変な悪たれ坊主みたいにやかましい街、他にある?
ハーレムのごちゃごちゃ混みあったオトガル(バス・ターミナル)で、路上のテーブルに席を取り、ソーセージのトマト煮込みを2本ときゅうりの古漬けを、ユフカという風呂敷みたいなうどん粉クレープに包んでもらい、アイラン(呑むヨーグルト)で流し込みながら食べた。食べながら私はエトランゼというフランス語を思い出していた。英語ではストレンジャー、そしてトルコ語ならヤバンジュである。もし私が男で旅の途中でこんなことをしているなら、沢木耕太郎氏みたいでかっこいいんだけど・・・

いつものアスィア・ツールのバスに乗り、イズミット湾沿いの自動車道を走ること1時間15分。高速から下りたイズミット市の中心街でバスを降り、ローカルなマイクロバスにほんの10分ばかり乗ると、ブリサの工場へ着く。工場のエリアは緑豊かな田舎なので、野辺にはたくさんの野草が或いは花を、或いはとげをつけて、風に揺れている。
近くにサカリヤ川という大きな川があるので、工場の周辺には小さなどぶ川みたいな流れもたくさんあった。みそはぎの大きな株がそこにもここにもいっぱい赤紫の花を咲かせている。道端でマイクロバスから降ろしてもらったが、足元にすべりひゆが絨緞のように広がって、つやつやした赤みのある葉が陽光を反射していた。草むらに背の高い犬蓼(いぬたで)の株が1本ひょろりと伸びていた。日本の野山で見られるよりはるかに大株で、花房もずっと大きいが、周囲の景色と相俟って、瞬時に懐かしい子供時代や、千葉の江戸川べりの故郷が思い出された。
異国にて恋しや野辺の赤まんま
私は去年、出版を目指して日本に行くまでは一度も日本を恋しいと思ったことはなかったが、8ヵ月息子と暮して、トルコに戻る日が決まったときはいつになくブルーな気持ちになったものだった。
この俳句みたいなものは、先月、誰かにもらった日本の週刊誌の俳壇に「赤のまま」という特集があったのをみて、自分も詠んでみたのであるが、実際にトルコの野原で日本のものと変わりない花を見つけたときの喜びは大きい。地球の緯度が同じなので、似たような植生があって当たり前なのかもしれない。すみれ、オオイヌノフグリ、ムラサキカタバミ、白粉花、ムクゲ、日本を恋しがらせる花はまだまだいくらでもある。
種明かしをすれば、もともとはこちらが原産地で、大昔、シルクロードを通って日本に行ったのだそうだが、それにしても・・・

本日の用事は集金させていただくだけなのですぐに終わり、コック長のハーカンさんと約1年ぶりの対面をした。
見習いコックには少々の煙草代を、ハーカンさんの子供達にはケーキでも買ってあげてよ、と若干の心づけをする。彼らに気分よく働いておいしいものを作ってもらうのが、お客さんである工場の日本人スタッフへの最大のサービスだからだ。
帰りは再び工場の連絡車に乗せてもらい、先月は私だけだったので運転手さんとお喋りしつつ帰ってきたのだが、今回は満員で、賑やかにああでもない、こうでもないとトルコ料理や日本料理、私の本の内容についてなどで話が弾み、あれあれと言う間にイスタンブールに戻ってきた。
またメトロに乗り、日本人会の事務局になっている会社にお邪魔した。先日、本を寄贈したら、新たに2冊お買い上げの声がかかったのである。部長さんは夏休みに日本へ帰省した折、本屋で探してみつからなかったそうで、「いやあ、この本は面白い。よく頑張ってますねえ」と、お茶を飲みながら30分ばかり四方山話でもてなしてくださった。

そのあと私は昔のトルコ語の先生の奥さんをお見舞いに行くことにした。交通事故で怪我をして首に太いギプスをはめられ、家から一歩も出られないで退屈していた奥さんは大喜びで迎え入れてくれた。幸い手足に骨折などはなかったとのこと。
テラスの2人がけブランコに座りながら、女同士のお喋りはつきず、そのうち先生から電話が入って、今晩の食事はぜひうちで、とおっしゃる。あまり遠慮する間柄ではないので、お言葉に甘えますと答えた。
ご夫妻とも日本文化に深い興味と共感を示してくれている。ご夫妻ともイスタンブール工科大学の高等トルコ語科の先生で、ことにご主人は楽器も製作し、螺鈿細工ではイスタンブールでも数少ないマエストロで、自分の製作工場で、オスマン朝時代のモスクの装飾の修理や、新築されるモスクの扉や説教壇の螺鈿細工を指導している。代々木上原の東京ジャーミイ(モスク)の螺鈿装飾も先生の手になるものである。
ホームスティの話から始まって、私がこの夏、日本でアンカラ由美子さんと真剣に討論し、将来ロングスティの希望者に道を開くオフィスを設立しようという話題に、先生が協力してくれることになった。教育者であり、芸術家であり、けっこう商才にも長けている先生は、総合商社みたいな人なのである。
12時過ぎまで話し込み、イスタンブールでのホームスティについて、将来の可能性を尋ねてきた日本のメディアの方にも、有望な返事が出来ると思うと私もほっとした。
さすがに朝9時に家を出、往復200キロ以上を行って帰って、日本の商社を訪問し、そのあと市営のバスや乗合自動車を乗り継いで先生のお宅へ1時間もかかって到着し、夜中まで女同士のお喋りやら仕事の話で、口を塞いでいる暇がないほど喋ってしまったので、非常に疲れた。
先生のお宅は、日本の商社があるところからは直線距離で4キロと離れていないのだが、どうして1時間もかかったかというと、私がタクシー代を節約しようと、例によって乗るバスの方向を間違えたために、とんでもない遠回りになり、大渋滞に巻き込まれたせいであった。
私って、やっぱりエトランゼなのね、いまだに・・・あれ、先月もこんな話をしたばかりだったんじゃないかしら。
2002年09月10日 00時15分04秒

トルコを好きなわけ
【9月5日・木曜日】
 このところ、日記風エッセイを書くようになってから、書き出すと長くなり、長くなるとまとめるのに骨が折れて、何時間もかかってしまったりする。その他にたくさんのメールをいただくので、早く返事を書かないと申し訳ないと思い、パソコンに向かっている時間は日々長くなる一方だ。それでも神経の集中できない日というものがあって、毎日のように出かけているものだから、言うなれば毎日神経が集中できないのが実情である。
 目玉は乾くし腰は痛むし。日本から持ち帰ってきた目薬は使い果たし、お土産は何がいいですかと問い合わせてくれる人に、点眼薬をお願いしたりしている。歳をとると涙腺がつまったり、涙そのものの分泌が減るので、若い頃より更に目の乾きが早いらしい。
 以前インターネットの掲示板で読んだ、トルコでは点眼薬を売っていないという話を鵜呑みにしていたのだが、目薬がないわけではなく、医師の処方箋がないと売ってくれないというのが本当のようだ。
 眼鏡もそうで、町の眼鏡屋さんに行くと、病院で度数を調べてもらってくださいと言われ、ついおっくうにしているうち、最近度が進んでしまい、手持ちの眼鏡では何もかも見にくくなってしまったので、日本にいる娘にメールで、2.5度というかなり強い眼鏡を2つ3つ買ってくれるように頼み、8月にプリンセスさんが来たときに持ってきてもらったのである。娘は3.0の眼鏡もおまけに入れて寄越し、母親思いのいい子になったなあと、私を感激させた。
 
 話は変わるが、小枝子さんが土曜日にイスタンブールのアリ・サミ・イェン・スタジアムで行なわれる、トルコとスロバキアのサッカー試合を見に行こうと、かなり以前から誘ってくれていたので楽しみにしていたら、電話がかかってきて「チケットが本日10時発売だというから、アリ・サミ・イェンまで行ったのに、午後2時からに変更になったんですって。またあとで行ってくるわ」と言う。
 会社から時間休暇をもらってわざわざ出かけて行くのに、1回で用が済まないのがトルコなのである。いつものチケット販売所ならば私が代わりに行けるのだが、今度の試合はスタジアムでのみ発売するのだそうだ。
 私はその後また外出したので、夜になってからパソコンを開けたら、彼女からのメールが入っていた。
「チケット2枚無事にゲット。列の後ろの方で並んでいたら、誰かが前のほうに声をかけて、おーい、この日本人のバヤンに早く券を買わせてやってくれ、と列の一番前の方に送り込んでくれたの。順番を守らなくては悪いから、って遠慮したんだけど、いいからいいからって、みんな番を譲ってくれて、すぐに買わせてもらえたんだよー。何だかますますトルコが好きになっちゃった。みんなやさしいんだもん」

 それ、それ。長くこの街に住んでいる私達は、スリもかっぱらいもいるし、乞食とゴミだらけの通りや、予告なしの断水や停電、四隅が直角でない家などに少々嫌気がさすときもあるのだけれど、人々の何気ない親切や人懐っこさをとても嬉しく、ありがたく感じることも毎日のようにあって、それがトルコを好きな第一の理由、として挙げたいのである。
2002年09月08日 15時18分26秒

コムシュ(お隣さん)
【9月4日・水曜日】
 午前中にやるべきことを片付けて12時少し過ぎた頃、家を出た。もう1時間も前から遠雷がゴロゴロ鳴るので、外出を危ぶんでいたのだが降るようで降ってこない。では早いところ用事を済ませようと、土砂降りに遭遇しても大丈夫なように、リュックにビニールの雨合羽を詰め、手には折りたたみの傘を持って玄関を出た途端に大粒の雨が降り出した。
 いつものように鋭い雨脚でたちまち本降りになってしまい、私は向かいの骨董屋に飛び込んで雨宿りをすることにした。小1時間たったところで、ようやく小降りになったので、
まずは印刷屋に急いだ。昨日頼んだ名刺の見本が出来上がったのである。
 3通りの見本を作ってくれたが、どれも捨てがたい味わいなので考えていたら、箱入りのピザが2つ届いた。アリさんが「お昼を食べましたか?」と言う。「まだ」と答えたら「ちょうどいい、ここのピザはおいしいよ」とすぐに電話で追加注文してくれた。
 実際ごちそうになったピザはイタリアに行くまでもなく、激ウマという表現がピタリで、遂にトルコでもこんなにおいしいのが食べられるようになったのかと感激した。15年くらい前、そうそう、ちょうどビクターが子犬だった頃、ピザ作りに凝り始めて、家族は言うに及ばず、下拵えしてよその家にまで押しかけ、そこの家のオーブンで焼くという出張サービスまでして、かなりたくさんの人に無理強いした記憶がある。
 ピザ1枚(何だか2人分はありそうだった)を平らげ、コーラを飲み干し、手書きのタッチの名刺を作ってもらうことにして印刷屋を出て、オヤック銀行に急いだ。
携帯電話の使用料を払い込む。8月は来客があり頼まれ事も多かったので、6千5百万トルコリラ(約5000円)だった。このうち33パーセントくらいが税金やもろもろの経費である。若者達はチクチクチクとボタンを目にも留まらぬ速さで押しながら、経済的なメッセージの送信でやり取りする。
私がメッセージを打つには眼鏡をかけて、アレ、sはどこだっけ、などと探しながらだ。時間がかかるので諦めているのだが、少し通話時間を気にしなければ、としみじみ思った。
顔なじみとなったオヤック銀行の警備員が、応接室でお茶をどうぞ、と言ってくれたが、公共料金を払い込みに来るだけの客のくせにお茶をご馳走になるなんてこっちが恥ずかしいから丁寧にお断りした。百万円くらいあって預金するならケーキも頼んじゃうけど。

さーて、たいへんだ。ぐずぐずしているとまた夕方になってしまう。印刷屋でもホームスティの件を話したら、ムスタファさんがあちこち電話してくれて、そのうちの1軒を土曜日に見に行くことになったが、今日の話には間に合わない。
知り合いの家々に電話をかけ、日本人男性2人、一晩お宅様でホームスティさせていただけませんか、と頼んだら、
「カセ・ハヌム、あなたが一緒に泊り込んで通訳してくれるなら、喜んでお引き受けしましょう」とジェイハンの一家がまず引き受けてくれた。そして訪ねていったどの家でも似たり寄ったりの返事がもらえた。
 ただし、あるお宅では私が日本に行っている間にお年寄りがなくなっていたり、昔のトルコ語の先生のお宅では、奥さんが交通事故にあって首にむち打ち症のギプスをはめていたりで、まさかそういう家に忙しい思いをさせるわけにはいかないから、次なる機会に協力をお願いすることにした。それでも日本のメディアの方から頼まれたホスト家族探しは、幸いにもう1軒も即日話が成立した。
 とは言え、ホームスティの観念が欧米ほどに出来上がっていないトルコでは、話を上手に持っていかないとうまくは行かないのだ。なまじ料金を払うと言えば、お金のためにやるんじゃない、とあくまでも受け取ろうとしないのである。それに、田舎に行けば行くほど、客に対する接待心は旺盛なのだが、若い娘達のいる家では男性のホームスティは難しい。昔、大島先生の授業で、「トルコの家庭で、男性のお客は奥さんの料理の腕前は褒めてもいいが、顔の美しいことなどは決して褒めないように。下手をすると下心ありと思われてしまう」などと教えられたことがある。

 ともあれ、イスタンブールで今後ともホームスティの可能性があるかどうかについては、「ある」と言えよう。やはりヨーロッパナイズされた家庭も多いし、先生のお宅では奥さんが事故にさえ遭わなければ、今日にも迎え入れて上げたかったという。「子供達のためにも、異文化に触れさせることは大事です。次回は必ず」とご夫妻とも大乗り気だったのである。
 二晩目にメディアの人達が泊まる家は、私が以前に住んでいた家のコムシュ(お隣さん)だった。立派な大きなヨーロッパスタイルのアパルトマンで、トルコ人のお父さんはもう私が一家と知り合うはるか以前に亡くなっていたが、ドイツ人のお母さんは残された3人の娘さんと姑さんの面倒を見ながら暮してきた人である。
 私と同じようにご近所ではマダムと呼ばれていた。マダムと言うのは、外国人の既婚夫人に対する呼称で、彼女はもう30年以上もイスタンブールにいるのでトルコ語は何でも話せるが、やはり土地の人が喋るのとは大きな違いがあった。私も実によく喋るし、学校で仕込まれただけに文法は正しいのだが、トルコの友人達は「マダム・カセ節」とか言って私が喋ると非常に面白がる。やっぱり違うんだろうねえ、トルコ人とは・・・

 ドイツ人のお母さんよりたぶんトルコ人のお父さんに似たらしい3人の娘さんは、みんな可愛い顔をしていて、ことに中の女の子は素晴らしい美人である。大学の美術学部で画家への道を歩んでおり、広いサロンに置かれたキャンバスには、完成間近のマタドールと牛の荒々しいせめぎ合いが描かれていた。
「ユミコおばさま、どうして長い間うちにいらっしゃらなかったの?」
「去年ビクターを亡くしてから日本に行っていたのよ。一度戻って来たけどまた日本に行って、今年の7月半ばに帰ってきたばかりなの」
「ああ、ビクター。信じられないわ。あの犬がもういないなんて」
 未来の女流画家は大きな目を潤ませた。彼女達はそろって動物好きで、三女も大学に合格し、将来は獣医さんになるという。家の中にはこれが猫かと言うほど大きな3匹の猫が徘徊していた。そのうちの1匹はカラクズそっくりの真っ黒な猫で、子猫の頃、私のレストランで食べた海苔巻きみたいだったので、「すし」という名前が付いているのだそうである。
2002年09月07日 19時25分04秒

加藤登紀子さん登場
【9月3日・火曜日】
 朝一番でまず空模様を見た。曇りがちだが降りそうな気配ではない。加藤登紀子さんのコンサート会場は、心配していたような野外ではなく、イスタンブール市が誇る近代的な公会堂だそうである。
 昨日肉屋さんでもらった4個の鶏がらを煮出してスープを取り、そのスープで猫達のパン粥を作る。コンサートに行く前に街へ出て用足しをしたいので、猫の餌はカプジュに預けていくのだ。
 シャワーも浴びて髪を撫で付け口紅をつけて用意万端、今出て行けば5時まで受け付けてくれるオヤック銀行で、携帯の料金も納められるしと思っていたら電話が鳴った。
 日本のさるメディアの人で、トルコの取材に当たって体験的ホームスティをしたいのでホスト家庭を見つけてください、とのことだった。しかも5日の昼までに決定しなくてはならないと言う。ということは、今晩はもう無理なので、5日と言っても時差の関係でこちら側では4日の夜までに決定しなくてはならないのである。
 それにしてもまたどうしてこんなに急なのかしら、と思いながら2、3の知り合いに電話をかけてみた。どの家も快く「あしたうちへいらっしゃい。話し合いましょう」と言ってくれた。
 さて、時計を見たら銀行はもう間に合いそうもない。印刷屋に名刺を頼むのに、自分の似顔絵がまだ出来ていなかった。筆ペンであたふた幾つも描いたが、どうも今ひとつ気に入らない。仕方なくペンと紙も持ち、先日コンサートのチケットが見つからずに1日棒に振った経験があるので、今度は念入りにリュックに詰めたのを確認して家を出た。
 印刷屋で先客の応待が終わるのを待っている間にもう一度、似顔絵に挑戦したらまあまあの出来だったのでそれを使うことにした。
 この印刷屋は、ムスタファさんとアリさんという友人同士が共同経営でやっているもので、銀座通りのバルックパザールの地下街にあった。彼らとは7年前に初めて名刺を頼んだとき以来の付き合いで、レストランを始めてからは伝票類も全部任せるようになり、私の変遷極まりないイスタンブール暮らしをつぶさに知っている人達でもある。
 トルコでは共同経営方式は非常にポピュラーだが、そのうちどちらにも欲が出て、儲かっても損をしても喧嘩別れをすることが多い。 その点、彼らはもう10年以上も何の問題もなく一緒にやってきたのだそうである。
トルコブルーの紙で名刺を頼み、6時半にタキシム広場でジェイハンと待ち合わせていたので、2人でチケット販売所に行った。あのやんごとなき某氏が、今をときめく日本の百円ショップで買ってきたというお土産、天狗のお面のキーホルダーを届けに行ったのである。
チケットのお兄さん、金髪のムラット君は青い目を輝かせて、小さいがギョロッと目をむいている真っ赤な天狗の顔に見入り、嬉しそうに金具に自分の鍵束を取り付けた。
「これは、何ですか」
「日本の伝説に出てくる神様なんだけど、あの、特に男の人の・・・あの、なんて言うかちょっと女性から説明するのは難しいんだけど、要するにその、いつもシャキッとこの、垂直であれと・・・私の言うこと、わかった?」
「やあ、よくわかりました。実は僕もそうかなと・・・」
 ムラット君は色白の顔を真っ赤にして笑った。よかった〜、通じたんだ、私の説明・・・というか、天狗の鼻って、要するに男にとっては世界共通語なのね、きっと。

 タキシム広場周辺のロカンタ(食堂)で腹ごしらえをし、タクシーで会場に着くと、日本企業の駐在の皆さんが次々と黒塗りの高級車で乗り付けてくる。コンサートは国際交流基金の主催で、後援が日本国総領事館とトルコ日本友好協会、メディアからはヒュリエット新聞がスポンサーについているそうだ。
 眼鏡をかけて鼻の下から顎まで髭をたて、ブルーのワイシャツに黒っぽいネクタイを締め、黒ズボンに携帯電話を挟んだ、がっちりした体格のジェイハンはさながらシークレットポリスのような雰囲気で私の一歩後ろからついてきたが、広い廊下を走ってトイレを探していた2、3人の日本人の小学生くらいの女の子達が口々に「バカル ムスン」とジェイハンを呼び止めた。
 私ははっとして振り向いた。「バカル ムスン」は目上の人間が年下や雇い人などを呼ぶときに使う言葉だ。間違っても年端の行かない子供が、いい大人の見知らぬ青年に使うべき言葉ではない。
「トゥワレット ネレデ?」(トイレどこ?)
「マアレセフ ビレメム」(残念ですが存じ上げません)
 ジェイハンは丁寧に答えたが、私は彼に日本人として申し訳ない気がした。子供達の親が日頃雇われの運転手やメイドに呼びかけるのを聞いて、トルコ人にはそう声をかけるものだと思ってしまっているのだろう。トルコ語は日本語以上に丁寧語の段階があって、言葉使い一つでいくらでも上品にも下品にもなるのである。

 会場は四分か五分の入りというところだ。だいたいコンサートのお知らせが我々に来たのも1週間前なので、PRが行き届かなければトルコの人に浸透するわけもない。一般に販売されたチケットを買い求めてきた人は少ないようである。
 ステージが始まる前に、司会の女性が皆さまどうぞシートナンバーに関係なく前のほうにお詰め下さいといい、私とジェイハンはほぼ中央の席から動かなかった。
 すぐ前に、先刻チケット売り場で知り合った日本語の出来る若い女性と、タキシム広場に面したホテルに勤める6年来の友人が座っていて、彼女達もそのまま留まった。
 日本語の出来る女性はアク銀行の本部に勤めているのだそうだが、もともと日本語を習い、山口県の下関で1年留学生活を送ったのだと言う。下関と聞いて私はすぐに薬局を切り盛りしながら頑張っている山口市の友達を思った。
 下関は海峡の町ということで、イスタンブールと姉妹都市になっている。彼女は日本で加藤登紀子さんの歌を聞いたこともあるといい、楽しみにしているようだった。
 開演時間となり、関係者の挨拶のあと、舞台にはピアニストと、キーボードのミュージシャンが一足先に登場し、黄色と紫色のスポットライトを浴びながら加藤さんが真っ白なドレスで登場した。
私と同じ1943年の生まれ、59歳とは思えない豊かな声量で会場を圧倒しながら、彼女は立て続けに5曲くらい歌ったが、昔大ヒットした「1人で寝るときはヨーオォォ、膝小僧も寒かろう・・・」で始まる「ひとり寝の子守唄」を歌う前に、ギターを取り上げ、通訳の女性を呼んだ。
今年の7月末、ガンで亡くなったご主人と結ばれた頃のことを語りたかったのだが、残念ながら通訳のトルコ女性は「牢獄の中でたった1人、膝小僧を抱えて眠る彼のことを思って・・・」というくだりなど全く訳せなくて、省略してしまった。
安保闘争の時代、学生運動のリーダーとして警察と対峙していた夫君は何度も投獄されたようだが、彼女は彼を守りつづけた。舞台の上の小柄な女性が、反体制の闘士だったなんて誰が想像できよう。アドリブとは言え、通訳に分かりやすいように言葉を区切ってゆっくりと語る加藤登紀子さんの若き日の思いを、通訳はトルコ語に直しきれなかったが、私も彼女の歌で思い出される光景はいくつもあった。彼女はトルコの人気歌手だったバルシュ・マンチョのヒット曲「ダーラル ダーラル」をトルコ語で歌い、拍手喝采を受けた。
休憩を挟んで先ほどとは打って変わった真っ赤なドレスをまとった登紀子さんは、世界各国の歌をアレンジして歌った。私の大好きなテネシーワルツもあった。テネシーワルツの切なさは、私に江利チエミの歌で初めて聞いた中学生時代を思い起こさせた。
まだ1年生のあの頃、とある3年生に恋心を抱いて、似顔絵を書いて押入れにしまい、両親のいないときにしみじみと眺めたりしたものだ。中村錦之助(後の萬屋錦之助)にちょっと似ていて、成績も良くて体育祭では紅組の応援団長で、リレーの選手だった。
3学期の最後近く、都立高校の名門に合格し、2本の白いジャバラの入った制帽をかぶって中学校に合格報告に来た彼は、私の教室の外の雪でも降りそうな寒さの中で、私が気がつくまでじっと立っていてくれた。私があっと腰を浮かした途端、くるりときびすを返し走り去った。その頃巷に流れていたテネシーワルツを聞くと、当時を思い出さないわけには行かないのである。
20何年か後、野田でタイプ教室をやっていた私のところに、珍しく男性の英文タイプ入門希望者があった。A新聞の記者で、東大卒という。
「高校はどちらだったんですか」
と私が聞くと彼はあの白いジャバラ帽の学校の名を上げた。
「○○さん、ていう方ご存知ですか」
「ああ、あいつは高一のときから、私の無二の親友で、東大も一緒に卒業して、あっちはパイロットになりましたよ。今はもう機長です。ツルのマークをしょって国際線を飛んでますよ」
 加藤登紀子さんの次の歌は「この空を飛べたら」だった。ああ、昔々人間は鳥だったのかもしれないね。こんなにもこんなにも空が恋しい・・・
 一流の歌手としてゆるぎない地位を築いてきた登紀子さんにも、たぶん私などと同じように、怒ったり笑ったり、涙が涸れるほど泣いたりしながら過ごした長い年月がある筈だ。
 歌い終えて舞台の袖に引っ込んだ登紀子さんにアンコールの拍手は鳴り止まない。再び登場した彼女は舞台から客席に下りてきて、知床の岬に・・・と歌い始めた。
 はるか最後列で私も唱和した。それは恐ろしい濁声で、とても自分の声とは思えなかったが、周囲の迷惑は顧みないで私は歌った。思い出を共有する人を見つけ出したような喜びで、涙にくれながら精一杯歌った。
2002年09月05日 23時47分13秒

加藤登紀子コンサート
【9月2日・月曜日】
もーう、いいかげんにしてねっ、と言いたくなるくらいしつこい雷が早朝からゴロゴロ。昨日と全く同じ時刻に土砂降りとなり、家の前は再びものすごい急流となった。これを木曽川ライン下り、と名づけずしてなんと言えよう。これしか書くことがないのかというほど雨続きだ。10時過ぎには雨は上がったが、天気が回復するにつれて蒸し暑くなった。
今朝の新聞には「悪夢に怯える如く」と大見出しがついて、ボスポラス海峡に不気味に覆い被さる黒雲の写真が第一面の中央を占め、別の面には「巨大都市イスタンブール、水没寸前に」という、ちと大げさな見出しと、冠水した道路や沈んだ車の写真が載っていた。気象学の専門家がこの雷と雨降りは7日くらい続くといっている。くわばらくわばら。

 実は明日3日は日本から歌手の加藤登紀子さんが来て、コンサートを開くので私も切符を買って張り切って待っているのである。2週間前、トルコの人気歌手カヤハンのコンサートでずぶぬれになった某氏と私は、すっかり風邪を引いて、彼は日本に帰ってから寝込んでしまい精密検査まで受ける羽目になったらしく、私は寝込む暇がなくて治らないまま微熱が続き、声もしわがれてしまった。今も喉が痛い。
 もしもまた大雨で、しかも会場が野外だったらどうするんだ。やめとけ、と大脳か小脳か知らないが私の頭の一部でそう囁く声がするのである。
 しかしトルコで日本人歌手のコンサートは滅多に聞けないのである。せっかくこっちの方まで来て歌ってくれるのだから、そして特にご主人を亡くされたばかりだという加藤登紀子さんが、悲しみを抑えてどんなステージを見せてくれるのか、それほどの大ファンというわけではないが、行かずにはいられそうもないのである。

 夕方、例の青い目のお兄さんのいるチケット販売所に出かけ、電話で予約しておいた券を受け取りに行った。すっかり顔なじみになったので、一番いい席を取っておいてくれた。
 次にタキシム広場の一角にあるアクビル(プリペイド式磁気ボタン型パス)を充填に行った。バスやトラムワイ(路面電車)やメトロ、連絡船に共通で使える便利なものだ。 去年の5月、日本に行ったときなくしてしまい、どこで落としたのかと思っていたら、息子の家の車庫の入り口で、砂に埋もれていたのを今年の5月に発見したのだった。
 雨ざらしで土中に埋もれていたのだからもう駄目かもしれないと思いつつ、アクビル充填所の窓口のおじさんに差し出し、「長いこと使わないでいたのですが・・無効になってませんか?」と聞いたら、おじさんは充填器に押し当て、「ちゃんと機能してるよ」と言った。
 嬉しくなって足取りも軽く銀座通りを下って、なじみの印刷屋で話し込み、土産物屋でまた話し込み、時計を見たら8時半、慌ててバルックパザールの臓物屋に行って猫の餌を買い、更になじみの魚屋さんに呼び止められて立ち話。すっかり暗くなってからばたばたと競歩のように歩いて、ジハンギルの肉屋さんまで駆けつけた。肉屋のおじさんが集めているレシートを届けに行ったのだが、お礼に肉団子と鶏がらまでもらってしまい、おおいに得した気分で猫達のもとに急いだ。
2002年09月03日 10時01分20秒

雨の日曜日
【9月1日・日曜日】
 8月中旬に始まった雷や集中豪雨は1週間ばかり毎日のように続き、その後の1週間はなりをひそめていたと思ったら、今朝いきなり恐ろしい勢いで雷鳴を轟かせながらまた襲ってきた。
 かなりの地域で浸水が起こり、道路が湖のようになって各地で交通が遮断された。下水道が完備していないイスタンブールでは、こうした豪雨のたびに道路がそのまま排水溝になってしまうので、坂道はことさらに急流となって水が下ってゆく。すり鉢の底のような低い土地には右から左から、絶え間なくそうした雨水が流れ込んでくるのでひとたまりもなく浸水してしまうのである。
 何度も書いたが、我が家の前の通りは山から土石流が流れてくるような勢いで右手奥から水が下ってきて、道端のゴミも何も押し流しながら流れて行く。それは不謹慎な言葉だが小気味よくさえ見えるのだった。
 9時から10時くらいの僅か1時間に雨を降るだけ降らせて、時おり稲妻を発しながら黒雲の塊は西空に去って行った。しばらくすると青空が戻ってきた。洗濯物を干してからパソコンに向かい、しばらく滞っていたメールへの返事を書いた。
日曜日は片づけ物はしない方針で、2〜3日分のおかずを拵える。まず赤ピーマンを焼いて甘酢漬けにし、賞味期限の過ぎてしまった海苔を、椎茸と冷凍の小女子を混ぜて佃煮にする。きゅうりは漬物器を使って、塩とかつおだしと昆布とするめを入れ、さらに鷹の爪を少々混ぜるとピリッと味が引き締まった押し漬けになる。鶏の皮を茹でて、にんじんやズッキーニの細切りとともにひじきの煮つけを作る。こうした作り置きがいくつかあると、食事のたびに一品ずつ何か簡単なメインディッシュを作れば済むし、これだけ副食があればメインを作らずともトマトでも剥いて切れば豪華なものだ。

私は料理が好きなので、おかずを作るのはおっくうにしない。トルコで手に入る日本食の材料は無いに等しいから、なるべく地場の食品で日本料理を作ることを心がけた結果が、レストラン開店につながったのだし、今後とも研究の余地ありと思う。
私にとって食欲は発明の母。ニラもなく、白菜もなかったトルコで、研究を重ねた結果、我ながらうまい!という餃子を開発したのはひとえに食べたい一心からだった。ラーメンもアンパンも自分が食べたいあまりに作り出してしまったのである。
去年、4年ぶりに日本に行ったときは、故郷の町の大手スーパーの端から端まで日本食の材料が並んでいる光景に感動したものだ。
私の大好物はうなぎの蒲焼で、朝昼晩と続いてもいい、今日も明日もあさっても食べたいほどだ。茨城に20年以上も親しく付き合っていただいている、さるご一家を訪問したら、何が好きかと聞かれて正直に鰻の蒲焼と答えたら、出版のお祝いにとうなぎ料理屋で一席設け、次の日の分までお弁当を持たせてくれた。日本を離れるときはまた、たんまりと鰻をご馳走になってしまった。

トルコ語では鰻を「ユラン・バルウ(蛇魚)」と呼ぶ。たまに見かけるが惜しいかな蒲焼はない。え、それもいつもの伝で自分で拵えたらどうかとおっしゃるのですか。こればかりは・・・
2002年09月03日 07時32分43秒


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