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| 【4月30日・水曜日】
ゆうべ10時近くなって帰宅し、さーて、とパソコンを開けて見ると、1日中留守にしていたのでメールがたくさん来ていた。相変わらず迷惑メールが山のように入っていて、1日に50通や60通はハード・コア・ポルノが届く。これを何とかしなければなあ、と毎日毎回パソコンを開く度に思うのだが、手順を踏んで処理しても相手はピッチングマシーンのように自動的に送り出してくるので、一向に減らないのだった。 書類を書き始めたらときどき猛烈な眠気が襲ってきた。でも約束は日本時間の明日の朝までに、クライアントの日程どおりに調整した新しい日程表を細かい部分まで記載して送信しなければならないのである。ということは、あと3〜4時間しかない。しばらくの間は睡魔と闘いながらパソコンに向かっていたが、そうか、シャワーでも浴びれば気分爽快になるかも、と立ち上がったのだが、いやいや、そんなことをしているうちには何行でも余分に書ける、と脱いだズボンをまた履いて、シャワーは明朝送り、書類の完成に精を出すことに決めたのだった。 手書にしろ出来あがっているものを清書するだけなら何ページあろうとそうそう苦にはならないのだが、1ヵ月分の長丁場の日程を1日ごとに細かく考え考え、分かりやすく紙面に収めていくにはそれなりに工夫が必要だし、時間もかかるのである。 どうやら打ち終わって送信したら、もう明け方の4時を回っていた。私はシャワーを浴びるのも億劫になり、明け方のエザーンが聞こえてくる頃、欲も得もなくなってベッドに倒れこんだ。 さすがに5時過ぎに寝たのでは、6時半に起きるというのは無理で、カプジュが御用聞きに来てチャイムで目が覚めた。寝不足の目をこすりながら、別なクライアントの要求してきた仕事の書類作りや、明け方送信した長期撮影のための費用の見積もりを出さなくてはならないので、目覚めてすぐにパソコンの前に座ったのだが、寄る年波には勝てないもので、目は渋いしあくびは出るしですっきりしなかった。 1日中ずるずるとだらしなく書いたり消したりを繰り返し、とうとう夕方には仕事を放棄して、サッカーの試合をテレビ観戦することに意を決した。 今日はトルコA2代表対ドイツA2代表チームが夜7時から、A代表チームは9時からチェコスロバキアと戦うことになっている。いずれも親善試合なので、お祭りムードであるが、国の正式代表であるA代表と比べ、A2代表というのは公式試合には出ないので、めったに国際試合のチャンスもないのだが、そのA2代表の正ゴールキーパーがほかならぬ金髪のギョクハンで、ワールド・カップやヨーロッパ選手権に出場するA代表の正副ゴールキーパーの次の地位にいるわけで、言わばトルコ第3のゴール・キーパーである。 偉いぞ、ギョクハン、きっとA代表の正ゴール・キーパーまで行けるぞ、がんばれ、とギョクハンを声援しながら、0−0の引き分けに終わった試合を見たあと、待望のA代表のチェコ戦を続けて見たが、0−4であっと驚く大敗。でも私は居眠りしていたらしく、相手の入れた4つのゴールを全部見逃し、気が付くたびに相手の得点が増えていたのだった。 |
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2003年05月04日
18時46分08秒 |
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| 【4月27日・日曜日】
アンタルヤから戻った昨日の夜は、チェティンさんが空港まで出迎えに来てくれていた。昔、日本にいた頃は列車で1人旅の出来ない、つまり旅行の下手な人間だった。海外旅行だなんて聞いただけでもブルブルブル・・・ 飛行機なんか一生に一度、冥土の土産に乗ってみたいものだわ、と考えていたのは10年前まで。それが今ではたった1人でも飛行機でどんどん出かけている。それでもイスタンブールに帰ってきて出迎えの人がいるのは嬉しいもので、熱が高くなってきたのか背筋が寒く、だるいのでパソコンもキャリーバッグも引き受けてもらったら、体がすっと楽になった。 2人でジハンギルのロカンタ(食堂)でピデ(トルコ風ピザ)を食べ、家まで送り届けてくれたチェティンさんがお茶も飲まずに帰っていった後、私はすぐに寝てしまった。 日曜の朝だというのにまた早く目が覚め、起きてメールの返事を書き、まだ頭がふらつくのでもう一度横になったら夕方4時まで眠ってしまったようだ。しかしひっきりなしに咳をしていたらしく、胸の筋肉が引きつれてひどく痛んだ。それでももう1つの仕事に関してリポートを書かなくてはならず、節々の痛む体で起き出し私は再びパソコンに向かった。 今日ばかりはサッカーの試合の中継を見たいとも思わず、ご飯も食べず、植木に水をやるのさえ忘れてしまった。 【4月28日・月曜日】 1ヵ月の長丁場で入ってきたコーディネーターの仕事に関し、日程や概算費用をシュミレーションするために、私はスルタン・アフメットに新しいトラベル・エージェンシーを興したエムラーさんのオフィスに出かけていった。ビロルさんとチェティンさんも集まってきた。仮の日程をつくり、飛行機やホテルやレンタカーの値段を調べ、まずは日程の雛型が出来上がった。お金の計算はビロルさんが正確にこなすので、彼に任せ私は横から見ていた。誰かが交代で吸っている1本の煙草の煙にさえむせ返って、横隔膜がひどく痛み、今日は最悪な状態だった。 夜はタクシーでタキシム広場まで出て、オープン・ビュッフェの食堂で魚の煮物を食べたが、味がよく分からない。ちょうどいい機会だから断食して痩せようか。まあどうせ3日坊主に終わるから宣言するのはやめておこう。 【4月29日・火曜日】 昨日の仮日程をクライアントに送ると、先方では全然違うプランを送付してきたので、再びエムラーさんの会社に行った。 先方のプランに沿って、ホテルもレンタカーも予約を取り直すことになった。その結果、6時間以上もああだ、こうだと言いながらエムラーさんの会社にいることになった。 先月、誕生日のお祝いに来てくれたジハンギル在住の瑞香さんと会う約束があったので、約束の場所に行くのにアヤソフィア博物館の前を通り抜けようとしたが、ふと気が変わってスルタン・アフメット広場を横切って、とあるチャイ・バフチェシの前を通った私は、思いがけない人に呼び止められたのだった。 3年前の夏、スルタン・アフメットで別れたきりになってしまっていた古い友人の早乙女白蓮さんだった。7年前に知り合い、私が出国の必要があったり、アンカラ由美子さんを訪ねて数日家を空けなければならないときなど、泊まり込みでビクターの面倒を見てくれた人である。 「ビクターちゃんはどうしました」 「おととし、老衰で死にました」 「え? じゃあもういないんですか」 白蓮さんの目にみるみるうちに涙が膨れ上がってきた。それを見て私も泣けた。私は瑞香さんに電話をかけて2人のいるところまで来てもらうことにした。すると瑞香さんと白蓮さんも知り合い同士だった。白蓮さんは春先にイスタンブールにやってきて、しかもブルーモスクに近いところに住んでいるという。木曜日、私達3人はそろってワラビ採りに行くことになった。 8時のスルタン・アフメット発タキシム広場行きのバスに間に合ったので、私はバスで帰った。広場を横切ってイスティクラール通りに行こうとしたとき、「こんにちは」と日本語で話し掛けてきたおじさんがいた。 きれいに禿げ上がっていて、ころっと丸っこい可愛いおじさんだった。一目で善意の塊と察せられた。私はこんにちは、と答えながら、夜ならばこんばんはということも出来ますよ、と付け加えた。白蓮さんに出会えた嬉しさが私をさらに寛容にしていた。 おじさんはサウジアラビアのリアドにあるトルコ系企業で働いている僧侶で、自動車会社の日本人の中に親しい友人がいるのだそうだ。話が上品で抜群に面白いので、私は30分だけと自分で時間を切ったのに、小1時間もおじさんとお喋りしてしまい、人生論、人間賛美、宗教などいろいろな話に花が咲いた。 おじさんとは書いたが、最後にお互いの年齢を当てっこしたが、どちらも大はずれだった。おじさんは私を45歳といい、私はおじさんを55歳と言った。トルコの人は老けて見えても実際には若いことが多いので、65歳と言いたいところだが55と言ったのである。 「もう少し若いんですがね・・・」 「じゃあ、私と同じ45歳ですか」 「いや、ちょうど40ですよ」 「ありゃ〜、ごめんなさい!」 「いいんですよ。トルコ人は老けて見えることが多いですから。叔父がいるんですが、2人並べると双子みたいですよ。20歳上なんですがね・・・」 おじさんはにこにこしている。 「本当に楽しい時間でしたよ。あなたが私の国を心から好いてくれていらっしゃるのが嬉しいです」 おじさんは大通りまで送ってきてくれた。本当に面白い1日だった。 |
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2003年05月01日
10時27分06秒 |
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| 【4月26日・土曜日】
ゆうべ冷え切った体を温めるようにと碧さんが勧めてくれたので、太陽温水器で充分な熱さになったシャワーを浴び、やっとひと心地ついてリビング・キッチンに戻ってくると、彼女はもうビールの栓を抜いて待っていた。なみなみと私のコップに注ぎ、自分のコップにはほんの少々注いで、「お疲れ様でした」とねぎらいの言葉をかけてくれた。 イラク戦争の勃発で沙汰止みになっていた撮影関係の仕事が、ありがたいことに昨日Eメールで再びオファーがあって、私は頼りになる碧さんに相談を持ちかけた。コーディネーターに要求されるものは、知識、経験、人脈の広さ、腰の低さ、根気のよさ、臨機応変に動ける身軽さ、そして現地語。 長期にわたる大きな仕事なので、先方はまず私の経歴や自己紹介を求めている。クライアントに安心して仕事をしてもらうために、身を粉にして出来うる最大限の働きをしたい。先方にそういう自分を分かってもらうために、過度にならない程度に売り込むというか、自分をアッピールする必要があった。 夜更けになって私はパソコンを開いた。重たい思いをしても持ってきてよかった。自己紹介のあとに、前回のBSフジの番組のサイトで書いてくれた私の紹介ページを添付した。それと仕事に対する自分のポリシーも書き添えた。 朝目覚めると、ひっきりなしに咳が出て苦しかったが、パソコンにはばっちり先方さんからの「ぜひ加瀬さんに今回の仕事をお願いします」という嬉しい返事が入っていた。しかもその上、従妹のはっちゃんから半年振りに「どうしてる?」とメールが入っていたのである。私は今度は嬉しさでゾクゾクしてしまった。 ゆうべビールのあと、生姜湯を作ったりかいがいしく世話をしてくれる碧さんを見て、私は本の出版のために日本に滞在していた頃、風邪を引いた私のために散らし寿司を作ったり、さっぱりした食べ物を持ってしばしば車で飛んできてくれた従妹のはっちゃんを思い浮かべていたのだった。 「由美子ちゃんたらトルコに帰ったきり、葉書1本寄越さないなあ」と怒っていないだろうか、気になった。7歳年下のその従妹が、パソコンの操作を覚えて自分でEメールを書いているのだそうだ。以前は彼女の娘が代わりに書いてくれていたのだが・・・以心伝心というのか、世の中には人智を超える何かの力が働いている、と思わずにはいられなかった。 いよいよイスタンブールに帰る時刻が迫り、私は3晩泊めてもらった部屋を片付けて荷物をまとめた。ミニビュスで街の中心街に行き、空港へのシャトルバスに乗るのである。地雷を踏むようにいつ爆発するかわからない、と母親の碧さんが表現するふくれっぽいジジちゃんは、実は私に帰って欲しくないのだった。むっと不機嫌にお母さんの胸に顔を埋めたまま私を見ようとしなかった。 一方シリンちゃんは私と手を繋ぎ、いよいよ私がバスに乗り込むと両手を広げて顔のあたりで振りながら、バスの窓から目を離さなかった。私はますますこの家族に、そしてアンタルヤに、惹きつけられてゆく自分を感じていた。 |
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2003年04月30日
18時35分50秒 |
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| 【4月25日・金曜日】
日本から連れてきたシベリアン・ハスキーのビクターが、15歳の誕生日から9日たったところで老衰死した日から早や2年。人間なら100歳を越える大往生だった。1987年4月16日生まれのビクターは、まだ母犬の胎内にいた頃から予約していた男の子で、乳離れした2ヵ月後の6月下旬に、もう1人前に耳をピンと立て、ギロッと鋭い目であたりをねめつけながらわが家にやってきたのだった。その犬が、終にはトルコの土になるなんて、誰が想像出来たであろう・・・ さて、私はサッカー観戦だけが目的ではなく、アンタルヤでござを織っているところがあると聞いて、本当はこれを調べるためにやってきたのだが、いざ来てみるとござについては何の情報もなかった。その代わり、空港までの街道筋に籠や籐製品を並べたかなり大きな店があったので、本日はそこを訪ねてみた。ござで作った座布団が売られていたが、それは中国からの輸入だそうだ。店の商品の半分は中国や東南アジアからの輸入、半分が地場の製品だという。 エーゲ海、地中海沿岸のリゾート地に行くと、布やビニール製のいわゆるビーチ・パラソルをかざした海水浴場は少なく、よしずを屋根に張り巡らせた休憩所とか、葦の茎を薄く割って竹篭を編むように骨材に巻きつけた大きな番傘ふうなパラソルが立ち並んでいるのである。それはなぜかヨーロッパとかアメリカの有名な海水浴場とは違った、一種独特な不思議な眺めである。 店長だという男性が親切に応対し、店の裏の傘置き場に案内してくれた。昨日コンヤから送られてきたという傘が何十張りとなく並べてあった。コンヤは葦の自生地が多く、よしずの名産地だということである。値段を聞いてみると、直径が1.5メートルほどの傘1張りが4千500万リラ(約3500円)とのことだった。 一緒に行ってくれた碧さんのデジカメでそれらを写させてもらい、店長に礼を言って私達は店を後にした。乗合のミニビュス(マイクロバス)を止め、カレイチといわれる城壁に囲まれた旧市街の入り口で降りて、海を見下ろすジュムフリイェット公園の下のチャイ・バフチェシ(ティー・ガーデン)に席を取ってビールを1杯ずつ飲んだ。 シリンちゃんを幼稚園までお迎えに行く時刻が迫ってきたので、碧さんはジジちゃんを抱いて一足先に帰っていった。私には4時に逢う約束をした女性がいた。今年の1月、イスタンブールでミニビュスの運転手をしているフュセイン・クシュが紹介してくれた人で、もと北キプロス・トルコ航空のスチュワーデス、現在は香港製品を輸入しているレイハンさんという妙齢の美女である。チェ・ゲバラに心酔している彼女の襟元には、有名なチェの写真をもとに作られたペンダント・トップが見え隠れしている。 1年程前、コミュニストを自称しているクシュが、チェのペンダントを見て声をかけてきたのだそうだ。最近はどうも彼女をよからぬ目的で追い掛け回しているらしいが、レイハンさんは非常に怜悧な女性で、彼が逆立ちしても及ぶ相手ではなかった。 3年前に知り合った私に、奴は今でもときどきわけのわからない詩か何かを携帯のメッセージに送ってくることがあった。大体はうっちゃらかしておくのだが、アンタルヤに発つ前日、例によってメッセージが来て、 「マダム・カセ、どうして私に逢おうとしないのですか。馬を見つけようと広場を探すと、広場があっても馬はいず、馬が見つかれば広場が見つからない」と書いてある。なんだ、こりゃ。私は少し意地悪く、 「あなたの探している馬はまたしばらく見つからないことだろうよ。アンタルヤに行って当分帰らないのだから」と返事に書いた。 レイハンさんも偶然私と同じ日にアンタルヤに行くことになっていたらしく、彼はアンタルヤと聞いて、「向こうでマダム・カセとぜひ逢いなさいよ」とメッセージで彼女に知らせてきたのだそうだ。アンタルヤに着いてまもなく、レイハンさんから私に電話が来て、私も彼女だけなら会ってみたいと思ったのだった。 気はいいがちょっと思慮の浅い、それゆえにどこか憎めない1人の男を肴にして、知らぬが仏、と私達は意気投合し、盛り上がって大いに楽しんだのだった。 雨が降り出したので別れたのは8時頃だった。アンタルヤはまだ気候が不安定で、いきなり集中豪雨と雷鳴が襲い、稲妻が前後左右に走った。私はバスに飛び乗ったが、碧さんの家の前は通らない路線だったので途中で降り、後続の車を待ったが30分経っても乗れるバスは来なかった。 幸い雨は止んだが、風がおそろしく冷たくなり、私は薄物を着ていたので心底冷えて背中がガクガクした。やっと来た乗合のミニビュスをつかまえ、ほっとして腰をおろし、お金を払おうと服のポケットに手を入れた途端、碧さんの家の前にある電機メーカーの緑色の看板が見えた。慌てて降りて振り返ると、私が立っていた交差点はすぐ後に見えた。 私は碧さんの家まで歩いて5分のところで30分も立ちんぼをしてしまい、クシュの悪口を言ったバチが当たったのか、重い風邪引きになってしまったのだった。 |
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2003年04月29日
09時32分36秒 |
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| 【4月24日・木曜日】
今日は午前中、メルテム地区の木曜市場に野菜を買いに行った。碧さんの下の娘ジジちゃんはいくらか風邪気味だったのか、むずかってお母さんの腕の中から降りようとはしなかった。この市場を撮影して歩く日本のクルーを追いかけて走り回っていた日々から早くも1ヵ月半余りが経過し、アンタルヤは初夏の季節を迎えていた。 午後からはオレンジ畑のオザンさんと奥さんのミュジェヴヘルさんを訪ねて、アンタルヤの郊外に当たるボズテペ村に向かった。今日は息子の誕生日なので、家を出る前に時差を考えて、簡単に祝いのメールを打っておいた。彼の好きな迷彩服と同じ色使いで大きな文字を書いた。 場所はよく分かっていたが、どんなバスを乗り継いでいくのか分からないので、碧さんはジジちゃんを抱えたまま、私はシリンちゃんの手を引いて最初のミニバスから降りて街角で待っていたが、そちら方面と思われるバスは来なかった。いつまでも待っていて子供達が風邪を引いてもいけないし、碧さんの腕がしびれているのではないかと思い、タクシーで行くことにした。 アンタルヤはタクシーの料金が高いので、あっという間にメーターの数字が変わり、どんどん増えてゆく。オレンジ畑に着いたときは2千400万リラを示していた。 タクシーを降りた途端にえもいわれぬ芳香が空に漂っているのがわかった。見るとそれはオレンジの木にびっしりと白く開いた花の香りだったのである。650本のオレンジの木がいっぺんに花開くと、こうも胸騒ぎのするほどの芳香を放つものなのか、私は前回見た枝もたわわのオレンジに引き続き、真っ白な花が上品な香りを放つさまを見て、仏教でいうルンビニの園とはこういうところを言うのではないかとさえ思った。 オザンさん宅には夫妻の友人だという2組の夫婦が逗留していた。それぞれの息子さんと娘さんが結婚していて、いわば舅・姑同士ということになる。お嫁さん側の両親はアンカラから来たとのこと。その夫妻の大の親友であるご近所の夫婦の娘は、数年前日本に嫁に行ったのだそうである。 「私もアンカラから日本にお嫁に行った人の話を知っていますよ。もしかしてお嫁さんの名前はドゥイグさんではないでしょうか」と私は、去年ビロルさんの客としてボスポラス海峡クルーズの終点、アナドル・カヴァウで知り合った大阪の男性とその息子さんの話を思い出して言ってみた。 「まあ、どうしてあなた、ドゥイグをご存知? そうそう、まさにドゥイグのことですよ」 夫妻も本当に驚いていた。ドゥイグさんは大学で日本人の彼と知り合い、はるばる日本までお嫁に来たのだそうだ。彼女の作ったトルコの家庭料理が雑誌に紹介されていて、お舅さんにあたる平城山さんは、私にも一冊送ってくれたので、写真を見たきりだが私はドゥイグさんの顔もはっきり覚えていた。 聡明さが額の生え際にまで現れているような感じのドゥイグさんは、花で言うならまさにオレンジの花。華やかさはない代わりに、純白で清楚で、しかも香りという強烈な自己主張も忘れない賢い花である。 オザンさんの家の番犬でシェパード系の雑種、シムシェクは最初だけちょっと警戒の色を見せたが、私に近づくと「伏せ」の形をしてにじり寄ってきた。右目の下に犬につくダニがとりついて、血を吸って大きくなっていた。それをとってやると彼は一瞬にして私に服従し、腹を見せて甘え始めたのである。 明日はビクターの命日に当たる。私はビクターにそうしてやったように、シムシェクの腹をやさしくやさしく撫でてやった。 |
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2003年04月27日
05時04分36秒 |
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| 【4月23日・水曜日】
12時20分イスタンブール発アンタルヤ行きの飛行機は、国内線では最大級のエアバスA−310で、210人乗りとのことだが見事に満席だった。トルコでは今日は「子供の日」にあたる国民の祝日で、各地で記念のイベントが用意されているのだが、分けてもアンタルヤでは夕方からアスペンドス古代劇場で数々の催し物があるということだった。 一方私のほうは今晩行われるサッカーのトルコ・カップ決勝戦トラブゾン対ゲンチレル・ビルリイの試合を見たくてアンタルヤに来たのだが、頼んでおいたユルマズから、ダフ屋が横行して買い占められ、150ドル200ドルするので入場券が買えなかったと言ってきた。しかし心配無用、トルコでは情報と実際には大きな違いがあることが多く、行けばなんとかなる、というのが通り相場だ。 昼頃に1度降った雨が、夕方からまた戻ってきた気配で、私は碧さんにキルティングの上着やレインコート、折りたたみ傘などを借りて大きなビニール袋に入れ、冴えないおばさんスタイルでタクシーに乗ってスタジアムまで駆けつけた。 ものものしい装甲車まで出動し、夥しい数の警官が5000人しか収容できない小さなスタジアムを取り巻いていた。混雑の中で切符売り場を尋ねると、初めはトラブゾン側の応援席に案内された。どうしよう。ここでもいいか、入場できれば・・・でもここまで追いかけてきてまたまた不本意にも相手側の席で観戦するなんて・・・私は思い切って案内してくれた人に「私はゲンチレルの席に行きたいんです」と言ったら、そうか、そうかと反対側の入り口まで連れて行ってくれた。 トルコの人はこういうふうに優しいのに、どうして試合だと興奮して牙をむきものを投げるのか、理解に苦しむ。ゲンチレル側の入り口には日本の縁日のようにゲンチレル・ビルリイ・グッズを売る店が何軒もテントを張って商売をしている。もちろん、トーストやドゥルム(焼肉や野菜を薄いパン生地でくるんだもの)やナッツの類いを売る軽トラックやリヤカーのおっさん達も繁盛している。私は旗や帽子や鉢巻を売っているおじさんに聞いてみた。 「切符売り場はどこでしょう。まだ買えますか」 「さあ〜、難しいかもな。バヤン、あんたナニ人だい」 「日本人です」 「日本人だって? 今日はイルハン・マンスズはいないぞ」 「いえ、ゲンチレルの応援に来たんですよ」 「ゲンチレルの? ほんとかおい、ちょっと待ってな、聞いてやる」 「えっ、でももしダフ屋からだったら買いませんよ。私が外国人だからダフ屋に気をつけろとイスタンブールの友人がみんな心配しているんです」 「違う違う、クラブの役員の人に紹介するんだから心配するな」 グッズ屋さんは自分の店をほっといて、私を赤と黒のジャンパーを羽織ったおじさんのところに連れて行ってくれた。 「アービイ、バヤンははるばるイスタンブールからゲンチレルの応援に来てくれたんだってよ。何とか、切符都合してやってくれないか。それに安全な場所で見られるようにしてやってくれるといいんだが」 「おお、イスタンブールから。そりゃあご苦労さん。おーい、切符係り〜い」 役員さんは遠くのほうにいたクラブの販売担当の人を呼んでくれた。あと数枚だけ残っていて、値段はたったの500万リラだった。私はグッズ屋さんに失礼なことを言ってしまったことを心から詫びた。彼は、 「なんの、なんの。用心深いに越したことはないよ」と日焼けした顔をほころばせた。 赤と黒はゲンチレル・ビルリイ(若者連合)のチーム・カラーである。1923年に創立されたクラブは80年の歴史を誇っている。名前の印象からはもっと新しいチームのような気がするが、トルコ共和国の誕生が1923年だから、国と同い年というわけである。 役員さんは入場門の行列に並んでいた一隊のところに私を伴い、「この人達といれば安全だよ。みんな、このバヤンにいろいろ手助けしてやってくれよ」 私は名を名乗り、挨拶して彼らの列に加えてもらった。中にトルコ人にしては華奢な上品な青年がいた。 「加瀬ハヌム、あなたは蹴鞠という女性をご存知でしょうか」 「はいはい、よく知っています」 「日本語でゲンチレルに関するサイトを開いたのだそうですね。去年アンカラまでゲンチレルの試合を見に来たのです」 「ええ、ゲンチレル・ビルリイを有名にするコミッティーというサイトです。熱心に元気にやっていますよ」 これを聞いていたほかの人達も蹴鞠さんの活動は伝え聞いていたらしく、口々に「今度その彼女も一緒にアンカラに連れていらっしゃい」とか「我々からも彼女とメンバーの人達によろしく伝えてくださいよ」と言うのだった。 私がせっかく恥も外聞もなく真っ赤な地に黒い模様の入った長い鉢巻をして応援したにもかかわらず、あいにく1−3でゲンチレルは負けてしまった。今日の今日まで勝ち星を重ねて来ながら、最後の決勝戦を逃してしまった若者連合は、好調の時に陥りやすい油断に足をすくわれたような負け方をしたのである。最近リーグ戦での成績が今ひとつ上がらないトラブゾン・チームは、名門の名にかけてリーグがダメならカップだ、とよくよく真剣にぶつかっていったに違いない。 奇襲作戦やかき回し作戦で勝ちを拾ってきたせいか、正攻法を忘れかけたゲンチレル・ビルリイにも反省すべき点があることをこの試合はまざまざと見せてくれたのである。 はるばる十数台のバスを連ねてきたという両方のチームの応援団が、試合後に遺恨から騒動を起こさないように、優勝したトラブゾン応援団には表彰式があるので残し、ゲンチレル応援団は早々に退去させられた。 碧さんが夕食の支度をして待っていてくれた。この近所の家々には、完全に私は碧さんの母親で子供達は孫だと思われているので、最近は否定しないことにした。私の娘や息子は独身なので孫を抱く日が来るかどうか分からないが、碧さんの子供達と会うたび、孫がいてもいいな、と思ったりするようになった。もっとも、孫のお守りをしていたらサッカーの試合に出かけて、若い衆と一緒に足を踏み鳴らすなんてとうていやっていられないか。 |
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2003年04月26日
20時01分21秒 |
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| 【4月22日・火曜日】
昨日のワラビは2つに分けて、おひたしとてんぷらにすることになった。朝からてんぷらもすごいメニューだが、今日はもうラファさんが日本に帰るので、ご足労願ったワラビ採りが報われるよう、本人の希望でてんぷらにすることになったのである。 ラファさんはトルコ産のややほろ苦いワラビのてんぷらやおひたしを目を細めて食べた。そしてそのあと、グランド・バザールに出向いて中東のお金を兌換に行った。ヨルダンの通貨ヨルダン・ディナールなど、一般の両替所では扱ってくれないのである。しかし、さすがに世界一の巨大市場グランド・バザール、かなり珍しい国の通貨でも取り替えてもらえるのだ。 メティンさんが付き添っているので安心、私は見送りに出る前に自分も日記を書いて送信しておいた。3時近くなって彼らはまた大きな荷物を抱えて戻ってきた。ゆうべ組み立てたダンボールに詰め込めるだけ詰め込んでしっかりとテープで封をした。3人がかりでわが家のエレベーターに全部の荷物を載せた。 空港のチェックイン・カウンターで果たして超過料金がいくらと出るか、ゆうべからそれを心配していたのだが、私はタクシーから荷物を下ろすなりポーターを呼んで、グループの荷物を載せる台車を頼んだ。 ポーターのおじさんは人のよさそうな笑顔で、1人でこんなたくさんの荷物ですか、と聞いてきたので、「彼女はイラクの戦場帰りのジャーナリストで、トルコでたくさんの買い物をしてくれたんですよ」と私は説明した。 おじさんは見るからに華奢な女の子が勇敢に戦場を飛び回ってきたと聞くと、感激の面持ちでカウンターの職員に口添えしてくれた。すると、常日頃グループの荷物を持ち運びしている顔なじみの仕事仲間の進言なので、カウンターの中年男性は深くうなずいて、ラファさんに「ヨルダンからの切符を拝見できますか」と言った。そして荷物は無事にそのままベルトコンベアーに載せられた。超過料金免除の特別な計らいだったのである。 ラファさんの搭乗時刻まで少々あった。このまま別れるには名残惜しく、3人でお茶やコーヒーを飲みながら30分ほど談笑した。 メティンさんが日本に行ったら、ラファさんができる限りの手伝いをしてくれるという約束になり、やがて彼女はパスポート・コントロールのゲートをくぐって、何度も何度も振り返りながら消えていった。 タキシム広場で5時に人と会う約束があった。私は海岸通りを飛ばすタクシーの中で、昨日日本のテレビ関係から仕事のオファーがあったことをメティンさんに説明した。もしかすると意外に早くメティンさんに一緒に動いてもらうことになるかも知れない。 ビロルさんは速攻型、メティンさんは慎重型。私は2人にそばにいてもらえれば、非常にいい仕事ができるような気がする。さあ、これからが正念場である。 |
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2003年04月26日
06時32分35秒 |
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| 【4月21日・月曜日】
日帰りとは言いながら、温泉にたっぷりとつかったり、マッサージをしてもらったせいか、ラファさんの筋肉疲労もほぐれて快調だという。今日はワラビ採りに行くことになっていた。昼のドラマが終わると同時に出発して、アジア側のウスキュダルでチェティンさんと待ち合わせである。 雲一点なく晴れた空を映してボスポラス海峡はエメラルド・グリーンに輝いている。ベシクタシュの船着場からウスキュダルに渡るには「モトール」と呼ばれる小さなはしけに乗るのだが、近年モトールもクルーズのできる大型サイズが主流となって、いっぺんに大量の乗客を運ぶことができる。デッキにいるとまだ海峡の風は頬にやや冷たく感じられるが、イスタンブールに一番美しい季節が到来するのも間近いことだろう。 ウスキュダルの船着場には数本の大きな鈴懸けの木があるが、1日2日前に枝下ろしをしたらしく、木の根元に切り落とされた枝が山積みになっている。せっかく春を迎えて新芽を吹いたというのに、木は上部をばっさり切られて丸坊主だった。そういう剪定の仕方が正しいのかどうか私はよく知らないのでなんとも言えないが、木がしきりに痛がって泣いているような気がして思わず目をそむけた。 チェティンさんと出会い、ラファさんと3人で市営バスに揺られ、私が毎年ワラビ採りに来ているカワジュクというところまで行った。先日2人連れの男にお金を無心された場所から、茨の藪の中に入って行くと、ワラビのよく茂っている場所に出る。 10日ほど前に来たときは、まだ芽の出た気配すらなかったのだが、今日は僅かながらも、枯れ果てて白く重なり合った古い葉の下から、みずみずしい若緑の芽が出ていた。茨の棘に刺されたり、上着やズボンを引っ掛けられたりしながら全員で約1キロほどのワラビを収穫した。 ここでも頼もしいエスコートぶりを発揮してくれたチェティンさんとは船着場で別れた。彼はタキシム方面に行くためにベシクタシュ行きのモトールに乗り、ラファさんと私はエジプシャン・バザールに行くために、エミニョニュ行きの市営連絡船に乗ったのである。 エジプシャン・バザールでラファさんはまた何種類もの土産物を買い込み、そのあと2人は新市街バルック・パザール脇にある居酒屋街に夕食を食べに行った。そのうち用事を済ませたチェティンさんも合流し、話は規定の重量をオーバーしたラファさんの荷物をどうするか、ということになった。 「ラファさん、私に任せてください」とチェティンさんは胸に一物、手に荷物で私達を家まで送り届けてくれた。ワラビを洗ったがさすがに夜中に茹でる気にはなれなかった。 私はラファさんに引越し用の大型ダンボールを差し出し、パソコンに向かったがふくらはぎの筋肉が突っ張っていて、どうやら茨の山道をカニのように横ばいに歩いたつけが回ってきたらしい。彼女はひっそりと荷造りを始めたが、やがて2人とも睡魔には勝てず、それぞれの仕事を中止して眠りに落ちたのだった。 |
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2003年04月25日
06時10分27秒 |
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| 【4月20日・日曜日】
今日は日帰りで温泉に行こうということになった。海苔巻を作ってお弁当にし、9時前には家を出てエミニョニュからカーフェリーに乗ってアジア側に渡った。ちょうどイズミールに行くバスがハーレムのオトガル(長距離バス・ターミナル)に着いた。チェティンさんもほどなく姿を見せ、9時半、私達3人はバスの客となって一番後ろの席に並んで出発した。 昨日の雨模様が尾を引いてどんより曇ってはいたが、雨粒は落ちてこなかった。ブルサに行くには、高速道路を途中で降りてイズミット湾の北岸にあるエスキヒサールという地点から、フェリーボートで対岸にあるヤロワに渡るのだが、観光シーズンになるとこのフェリー乗り場は車の列で埋め尽くされ、10隻以上ものフェリーがフル稼働していても追いつかず、1時間以上待たされることになる。 この地点には10年も前から橋をかける計画があって、ボスポラス海峡に2つ目のファーティヒ・スルタン・メフメット大橋を懸けた日本の企業体が、ふたたび登場することになっていた。1998年10月に契約調印も済み、1年後工事が着手されるはずだった。そのとき工事現場に作られる厨房は、ファトゥシュの会社オヌル・ケータリング・サービスが請け負うことに10中8、9決まっていたので、私も日本食部門で出番があるはずだった。 しかし、99年8月17日未明、突如として襲来したイズミット湾を震源地とする「トルコ・マルマラ大地震」のために、橋は基礎も打たないうちに水没してしまったのである。しかももう1つの地震帯が不気味に活動をしているという説があり、地震から4年経とうとしている今も橋の計画はお流れになったままで、見通しは立っていない。 冬の長かった今年は、戦争の影響もあって観光客が極めて少ない。フェリーにも待たずに乗れてバスはほどなく湾の南岸に運ばれた。あとは次第に上り坂になってゆく。ブルサは標高2543メートルのウル・ダー(ウル山)の麓にある。 14世紀、オスマン・トルコ帝国の創立者オスマン将軍が、セルジュク王朝から奪い取ったこの緑豊かな町を首都と定め、息子オルハンの時代まで約35年間続いたという。やがて孫に当たるムラット1世が、ブルガリアに近いエディルネに遷都して首都としての機能は終わったが、現在でも養蚕や林業、農業が盛んで、ブルサには温泉、桃、栗、柿、オリーブ、パルプ、絹織物、綿織物などたくさんの名産品があり、緑も豊か、財政も豊かな大都市である。 イスタンブールを出て3時間後、ブルサに入るとまもなく大きなオトガルがあり、市内に行くにはそこで民営バスに乗り換えなくてはならなかった。幸い空は明るくなって陽射しがこぼれ始めた。民営バスは出発時間が迫ると満員となり、私達の前にちょうどわがアパルトマンのカプジュの子供達、ジャンとシベルに年恰好も良く似た兄妹が乗ってきた。 兄弟はラファさんや私を見るときゃっきゃと喜んで「何人? どこから来たの? 日本語喋ってみな、おばさん歳いくつ?」などと矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。他愛もない子供達とやり取りしているうちに、道は上り坂になり、バスが渋滞に巻き込まれた。 渋滞の原因はブルサ・スタジアムで行われるサッカーの試合だった。夥しい人の群れが歩いている。長い行列がスタジアムを取り巻いていた。今日は地元のブルサ・チームが、デニズリというチームと闘うことになっていた。 ブルサは今季成績が悪くて、この試合を落とせば2部落ちの危険もあるとのことで、市民がこぞって緑と白のチームカラーの帽子やマフラーやユニフォームを着込んで、応援に駆けつけたというわけである。 私達は有名なウル・ジャーミイ(モスク)を見学した後、ゆっくり散策したが、街は日曜日のために商店街も閉まっている店が多かった。ラファさんは結構買い物が好きで、私がブルサではタオルが有名よ、と言ったので開いていたタオル屋に入り、お母さんや甥っ子のためにせっせと品定めをしている。 タオルはかさばるので大荷物となったが、そこはチェティンさんという頼もしい大男がいる。そしてお腹も充分に空いたところでブルサ名物「イスケンデル・ケバブ」を食べにレストランに入った。イスケンデル・ケバブは細かく切ったパンの上にドネル・ケバプの薄切りをたっぷり載せ、野菜などを付け合せて火にかけ、アツアツにした上にヨーグルトをたっぷりかけて食べるのである。 私達はヨーグルトの代わりに溶かしたバターをかけるスペシャルを注文した。食べている間にチェティンさんの電話に、回線会社からのサービス、「ゴールのお知らせ」がとどき、背水の陣のブルサ・チームが2点を入れて相手にゴールを許さず勝ったことがわかった。しばらくすると、町に喜びのサポーターたちが繰り出してきた。 5時過ぎから私達は本日のメイン・イベントの温泉ハマムにつかりに行った。豊富な湯の量を誇るブルサの温泉は、体の痛みに効果があるという。ラファさんは垢すりとマッサージも頼み、私は首まで温泉につかって幸せ気分にひたった。日本にいた8ヵ月の間に、私は温泉地に出かける余裕はなかったが、街のあちこちに出来たスーパー銭湯や健康ランドの湯船にたっぷりとつかっているだけでも嬉しかった。 イスタンブールにはハマムはあっても湯船はない。わが家にもシャワー・キャビンだけなので、私はいつかバス・タブを取り付けるだけのお金を稼ぎ出すぞ、と心に誓っているのだが、戦争の影響で仕事はキャンセルになるし、仕事に必要なデジカメをまた買いなおさなくてはならないし、まったくバス・タブはいつのことになるやら。 その夜、8時半のイスタンブール行きに乗る前にラファさんはまたオトガルの売店で名物のマロン・グラッセや新製品イチジク・グラッセなどを山と買い込んだ。 チェティンさんはこれらを両手にずっしりと提げて、家のドアまで運んできてくれた。「お茶でも飲んでいって」と言うと、「いえ、もう遅いので早くやすんでください。また明日会いましょう」とあっさりと帰っていった。彼の家はアジア側である。遅い時刻には船はなくなってしまうので、タキシム広場から出る乗合タクシー、ドルムシュに乗っていくという。 ガイドなので戦争で失業同然だ。ビロルさんには幸いグループがやってきた。私は次に何か仕事があったら、チェティンさんにメインの助手になってもらおうと考えている。お疲れ様、チェティンさん。 |
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2003年04月23日
14時09分13秒 |
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| 【4月19日・土曜日】
きのうたっぷりと長時間熟睡したラファさんは、3週間にわたる戦場での疲れも癒えたようで、夜すっきりとした笑顔で起きてきた。私が出かける前ににんにく醤油で仕込んでおいた若鶏のから揚げその他をおかずに、改めてトルコの蒸留酒、ラクで乾杯し、ゆっくりと2人だけの晩餐会(?)を楽しんだ。 本日土曜日の予定は、以前2回のイスタンブール滞在で見ることの出来なかった、世界最大の市場といわれるグランド・バザールに案内することである。 私は1月31日に、例の番組の撮影に先立つ事前調査でグランド・バザールに来たとき、 何年ぶりかで再会したセダット・カイハンさんと奥さんのオルジャイさんから、トルコ石のついた可愛いブローチをプレゼントされたので、お礼に夫妻の大好きな出汁巻き玉子を焼いてあげようと約束したのだった。 今日こそは約束を果たそうと、私は12個の玉子を割り、椎茸の戻し汁を利かせてニンジンや青ねぎ、椎茸と昆布を甘辛く煮てカラフルな出汁巻き玉子を2作焼き上げた。巻きすでしっかりと形を整え、斜めに切って容器に盛り付け、ラップには空気抜きの穴をあけて包装し、ラファさんと雨の中をグランド・バザールに急いだ。チェティンさんがラファさんのために駆けつけてくれた。 セダットさんはあいにく本日はよそで用事があるそうで店にはいなかったが、オルジャイさんは1ヵ月後に出産を控えた立派なお腹で店番をしていた。いつ見ても愛くるしい少女のようだった人が、もうじきお母さんかと思うと、私はトルコで過ごした8年がやはり短くはないことを感じた。 ラファさんは豊富なトルコ石のコレクションを目を細めて見ていたが、やがて、「こんなのが欲しかったんです」とシンプルな四角いカットの石がついた指輪を選んだ。いくつかのコレクションがラファさんの所有となり、オルジャイさんも大胆にディスカウントしてくれたので、みんながほのかな幸せに包まれた。 一方グランド・バザールのほうは駆け足で見て歩くことになったが、最後に炭火で焼いたドネル・ケバプを3人で頬張ったあと、6時から始まる映画のためにイスティクラール通りまでタクシーを飛ばした。 トルコで公開されてから8週間のロングランに入った「ザ・ピアニスト」という映画は、日本でも「戦場のピアニスト」と邦題をつけられ大いに評判を呼んだという。監督のロマン・ポランスキー、主演のピアニストを演じた俳優はオスカーを獲得したし、カンヌ映画祭では金賞に輝いたこの作品は、ナチに占領されたポーランドのワルシャワを舞台にしている。 ナチに追われ、逃げて隠れてまた逃げる日々。実話を元にした映画は、絶望の中で餓死寸前のユダヤ人ピアニストが弾ずる、怒涛のようなピアノ演奏で最高潮に達する。主人公に助かって欲しいというスクリーンのこちら側の観客すべての願いは、皮肉にも敵方のナチ将校の人間愛によってかなえられることになる。だがやがてその将校の身にも・・・戦争の残忍さと空しさを痛切に謳いあげる名作と出会ったこんなときこそ、映画の醍醐味を思い知らされる。私は久々に胸が痛くなるほどの感動に酔いしれた。 |
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2003年04月23日
04時46分23秒 |
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| 【4月18日・金曜日】
昨日パソコンを立ち上げたら、ラファさんからのメールも入っていて、金曜日の朝着きますという。例によって大荷物だろうから空港まで迎えに出るつもりでいたのだが、「7時35分着では早すぎるので直接タクシーに乗って伺います、出迎えはご無用に」とのこと。8時半前後にラファさんが到着して、空港ロビーから「今から行きます」と電話をかけてきた。 私は見計らって、階下に降りていった。耳ざとくエレベーターから降りた私の足音を聞きつけてカラクズが飛んできた。彼女は自分が私の一番のお気に入りだということをよくよく知っていて他の猫が私に擦り寄ったりするのを許さない。近づくとパンチを食らわせる。まったくやきもち焼きな猫だ。 カプジュの妻のゼリハがアパルトマンの入り口で立っている私に小さな腰掛を運んできてくれた。イスタンブールは再び小雨模様、寒さがぶり返して何日目にあたるだろう。コートの襟をかき合わせながら待っているとやがて彼女の乗ったタクシーが到着した。 朝食のあと、シャワーを浴びて彼女はひとまず眠りについた。いわゆる爆睡状態だった。夕方私はさる人のオフィスを訪問することになっていたので、一旦は彼女を起こして出かける旨を告げ、出掛けに響子さんが来月開くミニ・コンサートのお知らせを持って立ち寄ってくれたので、一緒に外に出た。 まずはタキシム広場の近くまで出て観葉植物の大きな鉢物を買い、知り合いの人の事務所開設のお祝いに出かけていったのである。その人というのは、私がジハンギルで2つ目のレストランを経営していた当時、パートナーシップを組んだフィルゼ・チェーンの筆頭重役、カーンさんだった。 かせレストラン開店から、爆発による全壊事件、ホテルの乗っ取り事件、大地震のときなど、カーンさんが頼もしく解決に尽力してくれたものだった。オーナーは片腕といわれるカーンさんの言いなりで、何を言おうとその通りに指令を出す、というほどの実力者だった。3年前彼が依願退職した後、私もかせレストランを手放さざるを得ない事情があってレストラン経営から離れた。カーンさんには1度夕食をご馳走になったが、その後まる2年半消息がなかったのだ。 先日、携帯電話の番号登録数が限界に達したので、しばらく音信不通の人の番号は思い切って消すことにし、どうしているかな、と思いつつカーンさんの分も消してしまった。 ところがその日の夕方、ご当人から「カセ、生きているか」と電話がかかってきたのだった。 私は不思議なことに長らく音沙汰のない人を思い浮かべたり、噂したりすると、1日2日のうちに当人から連絡が来たり、道でばったり出会ったりすることがしばしばあった。 なにしろ、2週間前にはピアノの響子さんと花を買いに出た日に、古い知り合いの人物の話をしたら、7年間音信不通だったその人が日本で私の本を読んだと言って、その日の留守電にメッセージを残してくれていたのでびっくりしたものである。 カーンさんは私が行くとあながちお世辞ではなく大喜びで、自らチャイをいれてくれた。 「カセ、まだ看板も出来上がっていないが、とどのつまり、ここが私の新しい仕事場さ」 「おめでとうございます。どんなお仕事をなさるんですか」 「ダヌシュマ・ビュロス(相談ごと事務所)だよ。またいつの日か、君と一緒に仕事が出来る日が来ると信じていたんだ。私にいろいろ協力してくれないか」 「お仕事は順調ですか」 「いやいや、見ての通りだよ。未だにチャイジュ(給仕)のバヤンすらも見つからないんだ。朝簡単に拭き掃除して、電話番もしてくれるようなおばさんがいい。誰か心当たりがないかね。いたら世話してくれないか」 「では探してみましょう」 「頼むよ、カセ」 3、40分ほど談笑してやがてカーンさんはジハンギルの交差点まで私を送り届けてくれた。ダヌシュマ・ビュロスを開いたカーンさんが私に従業員を世話してくれ、というのも面白い話である。してみると私なんか、オフィスを開かなくてもとうの昔からよろず相談所状態ではないだろうか。 |
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2003年04月20日
09時01分14秒 |
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| 【4月17日・木曜日】
昨日の日記で、ヨルダンに戻ったカメラマンのラファさんが、ダマスカスからの便で・・・と書いたが、これは私の間違いで、ご本人のメールにはちゃんとアンマンと書いてある。 子供の頃は世界地図を見るのが大好きで、国の名前が出ればたちどころに首都の名前が口をつき、地図を指差すことが出来たのに、いまはすっかり忘れてしまい、レバノンとヨルダンのどっちが北にあったか、とっさには思い出せなかったりする。 トルコ語で他国の地名、国名を覚えるのはもっと難儀で、ユナニスタンだのマジャリスタンだのフルバチスタンだのと、日本にいたときは聞いたこともない名前が出てくる。これはギリシャ、ハンガリー、クロアチアのことである。 スーリエのシャム、フリスティンのクデュス、ムスルのカヒレ・・・それなりに有名な国と首都なのだが、どこだよ一体、と言いたくなるほど日本語とは相違がある。答えはシリアのダマスカス、パレスチナのエルサレム、エジプトのカイロ。 もっとも日本語でよその国名を言うともっと怪しいかもしれない。「イギリス、ギリシャ、ドイツ」と日本語どおりに発音したら、アメリカ人の英語の先生がまったくどこのことか分からなかったほどだから。 さてさて、その風変わりで複雑怪奇な日本語習得の望みを、3ヵ月間の日本行きに賭けているジェイハンが本日もわが家にやってきた。3週間ぶりである。日本語教室は2期8ヵ月通ったが、まだ会話の出来るレベルには達していないので、日本での3ヵ月で飛躍的に発展するかどうかは保証の限りではない。 今日は春巻とひじきの煮物を拵えることにし、朝から準備万端ととのえた。椎茸があるのでどちらにも使えるように大き目のを5、6個選んで水に浸し、ひじき30グラムには茹でたとりの皮、ニンジン、ズッキーニに似たカバックを刻み、春巻の中味には挽肉と玉ねぎ、カバックともやしを準備した。そのほか生のマッシュルームがあったので、これはふわふわ揚げにすることにした。 椎茸の香りはやはり独特で、パソコン・デスクにいてさえ、水で戻した椎茸の香りが台所からほのかに漂ってくるのがわかった。ジェイハンの訪問は久しぶりなので、カプジュのオスマンにお使いのついでにビールを2本買ってきてもらい、夕方彼の到着と同時に太い春巻を揚げ始めた。 彼は揚げたてを一口食べると、「ハーリカ」と言い、マッシュルームを揚げている間に2本を食べ終わってしまったので、私は自分の皿から彼に譲り、もう2本追加で揚げることにした。 こんなに喜んでいるなら、彼の両親と弟のセイハンにも味わってもらおう。本当は明日の朝早くイスタンブールに到着するラファさんを念頭において作った分だけど、まあ、またすぐに作れるからいいや、と私は残りの6本を揚げずに包んでジェイハンに持たせた。 彼が帰った後、娘の部屋を狭くしていた新聞紙の山をサロンに運び出した。疲れてやってくるであろうラファさんがひと寝入り出来るように、洗いざらしではあるがシーツや毛布カバーを取り替え、ベッド・メーキングを終えたところで、サロンに置いた新聞紙の山にけ躓き、雪崩状態になってしまった。 10ヵ月分の、ましてやトルコの新聞の厚さは半端ではなく、そのまままとめてカプジュに処分してもらえればいいのだが、大きな事件のあった日の新聞は自分用に、トルコ・サッカーのスター達が載ったページは切り抜いて日本の蹴鞠さんや打原さんなど、ファンの人に送ってやりたいと思って取ってあったのである。 ため息をつきながら新聞整理に手をつけたら、また徹夜かなあとやるせなくなり、しばらくぼんやりしてしまった。待てよ、ラファさんは戦場を駆け回る人なのだからこのくらい、きっとへっちゃらだろうと変な口実を見つけ、もう寝ようと自分のベッドにもぐったが、あ、日記をつけなきゃと思い出し、居眠りと闘いながらようやく書いています。 |
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2003年04月18日
08時46分49秒 |
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| 【4月16日・水曜日】
今朝、午後の便で日本に一時帰国する貝塚君に「行ってらっしゃい。気をつけてね。蹴鞠さんに会ったらよろしくね」と電話した。 実は4月9日付けでサッカーのトルコ・カップについて書いたとき、最後にちょっと触れたのだが、私にはときどきサッカーがらみでメールをやり取りしている日本の女性がいる。彼女を仮に蹴鞠さんと呼ばせてもらうがこの蹴鞠さんと貝塚君は偶然知り合いだったのだそうだ。 蹴鞠さんが検索で拾った私のホームページを読んで「ゲンチレル・ビルリイのゴール・キーパーのファン」という共通項があることから私にメールを書いてくれたのがことの始まりだったのだが、彼女も読み進むうち、折々出てくる貝塚君が自分の知り合いの人ではないかと感じたらしく問い合わせてきたことがあった。 私は、「文中の登場人物は原則として仮名ですが、実際には誰であるかは、どなたにも申し上げられませんので悪しからず」と、筆者の立場上、お断りした。 ところが或る日、パソコンのことで貝塚君に来てもらった時、パソコン・デスクの上にあったアドレス・カードの一番上に出ていた蹴鞠さんの名前が彼の目にとまり、彼はびっくりして言った。 「あれ〜、加瀬さん、どうして蹴鞠さんをご存知なんですか」 「えっ、あなたも蹴鞠さんを知ってたの?」 というわけで彼らが知り合いで名前を明かしても差し支えのない同士だというのがわかったのである。 こばどり姉妹というのは昭和55年から、つまり1980年からこのかた、私が利根川の向こうにも実家がある、と思わせてもらってきたさる一家の仲のいい姉妹である。いつの頃か一世を風靡した演歌のデュエット、こまどり姉妹にちなみ、こまどりというにはチト体格がいいので、こばどりと私が勝手に名づけたのだ。 私の生まれた千葉県流山市が常磐線、千代田線、総武流山線、武蔵野線、常磐新線などたくさんの鉄道の乗り入れで大きく変わってゆくのに比べ、彼女達の住まいの周辺は、つくば学園都市にも遠からぬ地域だというのに、鉄道がないためいまだ田園地帯の面影を色濃く残している。 のどかな土地柄のせいもあるのだろうか、こばどりさんの一家は親戚も含めて善意の塊のような人達である。いつも「イスタンブール虹の街」を楽しみに読んでくれているそうで、お姉さんから2、3日前カメラマンのラファさんを気遣うメールが届いた。 ラファさんの撮った写真や記事が掲載された写真週刊誌を見つけて買い求め、本人の写真が私の日記に出てくるラファさんのイメージ通りの人であること、カメラマンとしてもっと安全な選択肢があっただろうに、あえてこの危険をかいくぐって戦地に赴く使命感に深く感動したこと、現場で悪いことが起こらないように、とあれこれ書いてあった。 私は本人の了解を取って、このメールの一部を戦場のラファさんに送った。彼女はこばどり姉さんの気遣いに感激していると書いてきた。そして予定より早くヨルダンまで戻ってきたそうだ。一両日のうちにラファさんはダマスカスからの便でイスタンブールに到着するに違いない。 3日ほどイスタンブールで休息してから日本に帰る予定らしい。彼女も言うなれば、戦場を駆け回る戦士の1人である。日本に帰ったら即刻たくさんの事後処理を始めなければならないだろう。 私は今回はこばどり姉妹のラファさんに対する思いも加えて、イスタンブールで彼女に田園ふうな安らぎのひと時を過ごしてもらおうと思っている。 |
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2003年04月17日
17時41分04秒 |
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| 【4月15日・火曜日】
去年の今ごろ私は日本にいたので、或る日友人の絵島さんと埼玉県は浦和郊外の田島ヶ原まで、国の天然記念物に指定されている桜草見物に出かけた。若き日に2人で出かけて以来、40年ぶりのことだった。最初に出かけたのははたちになるかならずの頃で、当時私は両親や祖父や2人の妹と浦和市田島で暮らしていたのである。 絵島さんは私が高校を卒業して勤めた銀行の1年先輩で、今はもう滅多に会えないが会えばその瞬間に40年以上も前のコンビに逆戻りできる仲である。数年前から始めた趣味の絵手紙の淡い水彩画は、2〜3ヵ月に1度、異国で暮らす私にそこはかとない故郷の香りを運んでくれる。 彼女と待ち合わせした武蔵野線の西浦和駅で下車し、徒歩で荒川にかかる秋が瀬橋を目指した。その日は春特有のおそろしく埃っぽい南風が、帽子も被れないほど吹き荒れていて辟易したが、どうやら目的地に着いて、叢の中に可憐な赤紫の花を開いている桜草を見たときは懐かしさでいっぱいになり、はるか昔を思い浮かべながら時を忘れて語り合った。 桜草はもと浦和市の市の花であったと同時に埼玉県の県花で、田島ヶ原の桜草は品種改良の手が加わっていない昔ながらの素朴な日本桜草である。桜草の自生地にはいかにも繁殖力の強そうな雑草も繁茂しているので、それらに負けず、どうか絶滅することなくこれからも咲きつづけてほしいものである。 トルコで鑑賞出来る桜草は、私の知る限りプリムラ・ポリアンサス、プリムラ・ジュリアン、プリムラ・メラコイデス、プリムラ・オブコニカの西洋種4つくらいであろう。ピアノの響子さんのお土産のポリアンサスは、今もベランダで黄色い花を咲かせている。このベランダでプランターにあの日本桜草の種を蒔いて、育ててみたいものだ。エミニョニュなどの花市場で見られる花の多くは、日本でも売られている園芸種であるが、野草の中にも日本と共通のものがたくさん見受けられるのは、地球の緯度が同じで植生が似通っていること、それにその昔、シルク・ロードを通って中国に運ばれ、海を渡って日本に定着したたくさんの植物があったせいとも思われる。 この季節にエーゲ海沿い、地中海沿いを旅する人は、青草の中に真っ赤に咲き乱れる野生のひなげしやアネモネを見たり、小さなカモミールが白い絨毯となって野を埋め尽くしていたり、瑠璃色のとんがり帽子のようなムスカリの芳香漂う群落にゆくりなく巡り会うことになるだろう。 それらは野山のすそに、丘の上に、朽ち果てた遺跡の陰に、人間が戦争をしようが平和に暮らそうが、栄えようが滅びようが一切関係なく、季節が巡れば土中から芽を出し花を開くのである。近年すさまじい勢いで広がった「姫踊子草」も、道端であれ公園内の空き地であれ至るところを赤紫に染め上げている。 4月半ばの今、イラク攻撃はいちおう収束状態とはいえ、中東のど真ん中にアメリカの傀儡国家が出現すればそれはまたいつか、戦争の火種になりうることだ。花の種には尽きてもらいたくないけれど、戦争はつくづくごめんだと思わずにはいられない。 |
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2003年04月16日
00時42分20秒 |
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| 【4月13日・日曜日】
昨日はあのワインのせいか、どうも1日中気分がすっきりしなかったが、今朝は何ごともなく目覚めた。病気のほうがよけて通り過ぎるのか、誰から見てもか弱い女とは思ってもらえない私・・・ 本日は夕方からまたアジア側に渡って、カドゥキョイのシュクリュ・サラチュオウル・スタジアムでサッカーの試合を見ることになっていた。首都アンカラから怒涛の勢いで押し寄せてくるゲンチレル・ビルリイ(若者連合)と迎え撃つイスタンブールの名門1907年創設のフェネルバフチェ。フェネルバフチェはアジア側のカドゥキョイ区に属する地区名で、フェネルは提灯や街灯、バフチェは庭、庭園のことである。思うにそのあたりに灯りをたくさんともした庭園があったのだろう。 試合は自分だけで観戦するのだが、スタジアムに入るところまで、チェティンさんがエスコートしてくれることになった。彼はスタジアムからもそう遠くないところに住んでいるのだが、エミニョニュまで迎えに来てくれるという。そして、まだ家にいた私の携帯電話にローマ字でメッセージを送ってくれた。「アメガフルソウデス。カサヲワスレズニ」 エミニョニュの船着場で落ち合い、カドゥキョイ行きの連絡船を待っていたら、果たしてポツリポツリと落ちてきた雨が、船が岸を離れる頃は土砂降りの様相を呈してきた。アジア側に着くと雨脚はもっと速くなり、カドゥキョイの船着場付近はすでに道路の低いところに流れ込んできた雨水で池のようになっている。傘を差さないトルコの人々は上下から濡れそぼり、交通も大混乱している。船着場のチケット発売所では、当日券を買い求める人達が長蛇の列をなしていた。私はおととい、不発に終わったワラビ採りの帰りに指定席を求めておいたのである。 チェティンさんと夕食を食べ、私が払おうとしたら「ダメデス」と手を抑えた。スタジアムの入り口まで送ってくれた彼は、私が列に並ぶのを確かめると手を振って去っていった。フェネルバフチェを子供の頃から応援している彼としては、このところ負けが込んでいいところなしの贔屓チームが、名前のとおり若い選手ぞろいのゲンチレル・ビルリイに、むざむざホームで一敗を喫するところを、金を払ってまで見たくないのだそうで、それももっともな言い分だと思えた。 私は選手のベンチの後方にあるほぼ真中に近い見やすい指定席に座って10分後に迫ったキック・オフを待った。選手達が向かい側の出口から登場すると満場がうわーっとどよめき、その瞬間どさくさにまぎれ、まだ空席の残っていた指定席エリアに、警備員の制止もなんのその、雨の降りかかる自由席から仕切りの壁を乗り越えて大勢の観客が先を争ってなだれ込んできた。こういうことが日常茶飯事に行われているのでは、何のために自由席の3倍5倍の値段も出して指定席の切符を買うのか分からない。 7時ちょうどに始まった試合は、降りしきる雨の中、水しぶきを上げながら壮絶なゲーム運びとなった。前半どちらも互角で休みなくせめぎ合い、36分にフェネルのセミフ選手が1点を先制し、スタジアムは耳をつんざく音響で2面の大スクリーンにゴール・アニメーションが躍り、観客はゴールの歓喜にどよめいた。ところがそのあと、がっくりしたゲンチレルは選手交替させ、ただ1人の控え選手、大柄なビュレントが登場した。彼は全速力でピッチを突っ切って、攻めに入っていたチームメートに追いつくと、パスされたボールをフェネルのネットに叩き込んで40分、同点に追いついた。 スタジアムの一角に陣取っていたゲンチレル応援団から歓声が上がっただけで、場内はシーンとしてしまった。球場内の2つの大スクリーンでも、相手のゴールではアニメーションなど一切なく、小さな細い字で申し訳程度にGOOOOL!と出ただけだった。しかし3分後、ふたたびゲンチレルが2つ目のゴール。リードのまま前半を終わった。フェネルのサポーターの意気消沈ぶりが気の毒なほどだった。 ずぶ濡れの選手達がさっぱりとした新しいユニフォームで登場し、後半が始まった。今度は追われるゲンチレル。64分にフェネルのセミフ選手がこの日2つ目のゴール、試合は振り出しに戻った。だが10分後、アリ選手の3つ目のゴールがゲンチレルのゴールキーパー、ギョクハンを襲った。場内のすべてのフェネル・ファンが乱舞し、ほどなく90分が過ぎて、名門チームがようやく長いトンネルから抜け出たかと誰もが確信した。 ところがどっこい、野球は9回裏ツーアウトから、サッカーはロスタイムから。3分間の延長に入ってまもなく、フェネル側にファウルがあったので、ゲンチレルはフリーキックを獲得し、蹴った選手の正確なシュートを ディフェンスのデニズ選手が長身を生かして跳び上がりヘッディングを決めたのだった。 試合は3−3の同点で幕を下ろしたが、場内は惜しみない拍手で沸き返った。手に汗握るシーソー・ゲーム、よくやった、両者とも。ほとんどの観客が、今日は勝負がどうこうではなく、後々の語り草になるような試合を見たと満足してスタジアムを後にしていく。 私にとっても、この感動はワールド・カップ以来だった。両チームが一瞬たりとも息を抜くことなくこれほどにも頑張って闘い抜いた結果の引き分け。立派なものだ。フェネルのチームカラーの黄色と青の帽子や、襟巻きをつけた黒い長い列に混じって、私も徒歩20分のカドゥキョイ港までの道のりを黙々と歩いた。雨はやや小降りになっていた。 9時半のカラキョイ行きの連絡船に間に合い、船の中から私はチェティンさんにお礼の電話をかけた。彼もカフェで観戦していたとのこと。家に着いてすぐテレビのダイジェスト番組を見た。後半で2つ目のゴールを食らったゲンチレルのギョクハンが、シンバルをたたくサルの人形のように両手をたたいて飛び上がったところがアップになった。 そうそう、あんな格好をしたっけ。可愛い奴だなあ。私の隠れゲンチレル・サポーターは今しばらく続きそうである。 |
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2003年04月15日
01時46分10秒 |
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| 【4月12日・土曜日】
サッダム・フセインの巨大な銅像が引き倒されてもう3日。事実上イラクの独裁政治は終わりを告げたというが、戦争の終結宣言が聞こえてこないのはどうしたことか。トルコの国営放送が、今も「戦争追跡センター」という特別報道番組で継続的に、市民の略奪が横行するバグダッドの様子を取材し報告し続けている。あちこちの地域で残り火もくすぶっているようで、残党狩りも行われるだろうし、占領された市内の警備もあって、兵隊達の役目は終わりそうにない。 終盤に入ってパレスチナ・ホテルの爆撃でジャーナリストにも死者が出るなどの事件があったときは、私もハタと心配になってさる写真週刊誌の女性カメラマン、ラファさんにメールを打ってみた。3日前のことである。 「報道関係者にも犠牲が出ているようです。あなたが無謀にもイラクに乗り込んだりしていなければいいのですが・・・」と書いて送ったら、翌日、 「無謀かどうかわかりませんが、いままさにその襲撃されたパレスチナ・ホテルの向かいのSホテルにいます」と返事が来た。 「げっ、ではオヤジの銅像が倒されるのを見たわけですか」とまた聞くと、 「はい、オヤジの銅像の前でよそのカメラマンのフレームに思い切り入ってしまい、日本で新聞の一面に載ったそうです」 何をかいわんや、これは彼女の職業だから集中砲火の中にも飛び込んでいかないと仕事にならないのは分かっているが、親しい人にあっけなく爆弾で死んでもらいたくはないじゃないか。私の余計な心配をよそに、彼女はあと2週間ほど現地にとどまり、事後の取材をしてから、帰りはイスタンブール経由なので少しゆっくりしてゆくという。 「帰る日が決まったら連絡してね、待っています」と結んで私はため息が出てしまった。知り合ってもうじき2年、おととしの5月、パレスチナ紛争の取材の帰りにロンドンから乗った彼女の隣の席に私がいたというわけである。 昨日、チェティンさんに見送られて連絡船に乗り7時頃ヨーロッパ側のカラキョイ波止場に着いたのだが、夕食のおかずに屋台でサバのサンドイッチを売っている親父から焼いたサバだけ買おうと2枚(つまり1匹分)頼んだら、400万リラだと抜かす。 「ちょっと、エミニョニュでサバ・サンドはパンに野菜もはさんで1食150万リラなのよ。外人だと思ってそんな値段言うのね。あなたみたいなことするからトルコ人はどうこう言われるんでしょうが。私は、ここに住んでトルコのいい面を一生懸命日本に紹介しているのに、現実はこうよ。あなたのせいで、トルコ人全部が悪く思われるんだからね。ちゃんと正直な値段で売りなよ、もう」 親父は私が一気にまくし立てたのであわてて300万リラでいいと言った。それでも高いと思った。トルコ人ならこんな痩せたサバの塩焼き、誰がそんな値段で買うかよ、とむかむかしながら家に戻り、ラジオでサッカーの試合を聞きながら、猫の餌を煮、自分のご飯を半合炊いた。 サッカーの中休みには猫に餌をやりに行き、トマトのサラダを作り、サバの切り身1枚を暖めて2、3日前開封済みのワインを下のアドリエさんにもらったので、グラスに1杯注いで飲んだところ、これが酸っぱくてひどく苦いような気がした。口のせいかな、でももしかしたらボズック(劣化品)なのかなあ、と疑いつつなおも飲んでみたがやっぱり苦いのでそこでやめにした。 しかしこのワインには思い切り当たったようで、頭痛や胃痛まで始まり、私は明け方まで安眠できなかった。そんなわけで本日は日記をつけるのが精一杯、猫と遊ぶ元気もない。 |
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2003年04月13日
00時13分20秒 |
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| 【4月11日・金曜日】
昼前に用事で銀行に出かけ、帰りに美容院に寄ってさっぱりしてから家に戻った。ワラビ採りに備えて軍手やビニール袋などを用意し、ドラマを見終わってからタクシーを頼んでアジア側のウスキュダルに渡るのに便利なベシクタシュの船着場に出た。 先日電話をくれたウスキュダルの知り合いの女性に、ワラビの採れる穴場へ案内する約束をしたのだった。子供が幼稚園から帰るのが4時くらいになるというので、4時過ぎまでに私が現場に到着したら電話を入れて落ち合うことになっていた。 ウスキュダルは歌に歌われたアジア側の街で、北や南に行くバス路線の基点でもある。ボスポラス海峡を北上するバスに揺られ、二本目の吊り橋であるファーティヒ・スルタン・メフメット大橋をくぐるとすぐに道がT字型に2つに分かれる。運転が荒っぽいので、立っている人は右に左に揺れてたいへんである。 T字路で下車し、私は海峡に背を向ける格好でゆるやかな坂道になっているカワジュク街道を登って行った。右手には通称第二大橋があり、高速で突っ走る車の音が滝の音のように間断なく降りかかってくる。この辺には住みたくないな、と思いながら15分以上歩いて、目的の場所にきた。 まだ去年のワラビが枯れた羊歯となって茨の藪に見え隠れしている。私は草深いその山地に足を踏み込むのを躊躇した。向こうから中年の男が2人歩いてきたからだ。この広い自動車道路を歩いている人は滅多にいなかった。男達をやり過ごそうと、日本語ガイドのチェティンさんに電話をかけた。ところが、男達は私のそばに立ち止まって、電話が終わるのを待っているらしい。私は一旦チェティンさんとの電話を切った。 「すみません、バヤン。実は私どもは土木労働者としてエルズルムから仕事を探しに来たんですが、仕事がなくてとうとう金を使い果たしました。ウスキュダルまで行きたいんですが、バス代がありません。それどころか朝から何も食べていないのでハラペコです。恥を忍んで言いますが、ご飯を食べるお金を恵んでいただけないでしょうか」 男の1人は身なりは粗末でも決して下品な言葉遣いではなかった。 「それはお気の毒ですが、私もたいした持ち合わせはありません。でもこの坂道を登りきると街並みがあるので、そこでドネル・ケバプくらいはごちそうできます。お金だけを上げることはできません」 「街へ出てバヤンに奢ってもらうのでは恥です。分かってください。私達は悪い人間ではありません。お金さえ渡してくれれば、どこかで食べますから」 私は頭の中でぐるぐる思いをめぐらしていた。周囲を見回した。人通りはないが目の前に数棟のアパートがある。話が本当なら気の毒である。だが男達の前で、ハーフコートをめくり、内側につけたウエスト・ポーチからごそごそお金を取り出すわけにはいかない。相手は2人だ。お金を見て豹変しないとは言い切れないのだ。 「いいえ。坂の上の町まで行く以外、私はあなた方へ援助できません。ああ、ウスキュダル行きのバスが見えて来ました。さあ、向こう側へ渡りましょう。バスの切符を上げますから、せめてバスにお乗りなさい」 私がそう言ったので男達はそれ以上私に金の無心をするのは諦めた様子だった。 「いや、バヤン、あなたを不快にさせたことをお詫びします。歩いていきますから結構です。アッラー・ラーズ・オルスン」 男の1人は胸に手を当てて礼を言った。アッラー・ラーズ・オルスンは、恵みを受けたときに、神があなたのしたことをお認めくださいますように、という感謝の言葉だ。私は何も恵んではいないのだが。 「ペキ、ギュレギュレ(そうですか。じゃあさようなら)」と私。 バスに乗ろうともせず、男達はまた歩き出した。ホッとしたがさすがに私はその直後に藪の中に1人で入っていく気はしなかった。家で連絡を待っている女性に電話をかけた。彼女は子供を乗せ、車を運転して来る予定だった。私はまだ時期が早すぎて収穫出来そうもないこと、1週間か10日後くらいがいいこと、1人でなく夫か友人と一緒に来るようにとすすめ、分かりやすいように目印と場所を細かく説明した。 「じゃあ、今日は行かないで失礼します」 彼女はあっさり来るのを取りやめた。私も彼女が来ないのなら家に帰ったほうが無難だと思った。チェティンさんに電話しなおすと、カドゥキョイにいるという。1時間後、私もカドゥキョイに着いた。アジア側の最大の繁華街カドゥキョイは、ウスキュダルの南東にある港町である。 バスの終点で待っていてくれたチェティンさんと船着場に向かうと、途中にエミニョニュと同じペット・ショップのマーケットがあった。何気なくそのうちの1軒に入ると、店にいた小学生の男の子が「あっ、おばさんだ」と私に駆け寄ってきたではないか。1ヵ月前、同じ飛行機でローマに行った家族の経営する店に偶然入ったのである。 私を覚えていた男の子が可愛くなって、ワラビ採りに来る予定だった女の子のために用意していたチョコレートのお土産を思わず彼に握らせてしまった。小枝子さんにもこの件は報告しよう。 船着場でチャイを飲みながら、私が道で出会った男達の話をすると、チェティンさんは大きな目をギョロンとむいて私を見た。 「駄目です、そういう人間とは話をする必要もないんです。無視しなさい、加瀬さん。ワラビ採りには、ビロルと私がお供します。くれぐれもたった1人で行かないように」 そう言ってくれるチェティンさんの存在が嬉しかった。しかし、トルコではどうしてああ簡単に通りすがりの人に金の無心をするのだろうか。バヤン(女性)に食べ物をご馳走になるのは恥で、金を無心するのは恥ではないのだろうか。 悪い人達ではなさそうだったが、いい人とも言えないじゃないか。私はそう結論付けてお金を出さなかったからといって私が良心の呵責を感じる必要はないのだと納得し、チェティンさんに送られてヨーロッパ側行きの船に乗ったのだった。 |
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2003年04月12日
11時42分52秒 |
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| 【4月10日・木曜日】
ドア・チャイムが鳴った。はて、さっきカプジュが頼んだ買い物をしてきてくれたばかりで、今度はいったい誰かしら、と開けてみると郵便屋さんだった。 「あ、うちにいましたか? 小包があります。今、車から取ってきますから5分ばかりお待ちください」とこの人はとても礼儀正しい。 彼が腕に抱えてきたのは2月3日に、日本から友人のノゾミさんが送り出してくれた航空便で、普通なら1週間、遅くも10日くらいの間に着く筈の小包だった。野の花の散歩道さんが同じ頃送ってくれた海苔は2度目に送ってくれたものより後になって着いた。 もしかすると行方不明になっているノゾミさんからの荷物も、いつかは届くかも知れないと微かな望みを持ってもいたのだが、本当に2ヵ月と1週間も経ってから来るなんて、クルバン・バイラム(犠牲祭)の9日間に渡る長期休暇で、滞貨を捌くのに今までかかったということかしら。 それとも郵便屋さんが来る度私が留守で、彼は確実に私に手渡すために何度も持ち帰りしていたのかしら。いずれにしてもこのところ、火事騒ぎ、デジカメ紛失などでややがっかりしていた私に嬉しい贈り物が届いた。開けてみると、食いしん坊バンザイの私向けの品々がこまごまと収められていた。 中に小さな白熊の縫いぐるみもあった。きれいな字で丁寧な手紙も添えられ、「お宅のコスタ・ビクトリアの弟にしてください」と書いてあった。 コスタ・ビクトリアは大きな白熊の縫いぐるみである。そこで小さい方にはマルコ・アントーニオと名づけ、パソコン・デスクに座らせた。パソコンの周囲には、私が縫ったビクターとカラクズの小さな縫いぐるみも置いてある。 最近は何かに追い立てられるように暮らしていて、縫いぐるみを作っているヒマがないのだが、私は実はけっこう器用で、その気になれば縫いぐるみや人形の洋服などは短時間で拵えることが出来る。若い頃からその道に進んでいれば、今ごろひとかどの人形作家になれていたかも、とか、漫画家になれていたかも、とか、あるいは料理研究家だったかもと、実務一本槍のタイピストになってしまって失敗したなあ、と再三再四後悔したものだ。 しち難しい和文タイプが、英文タイプと同じようにキーボードで書類を打てるようになったら、というのは私の長年の願望だった。自分でもどんな方法ならこの夥しい日本語の文字の類いをキーボードにまとめられるようになるのだろう、と毎日考えていた時代があった。 まあ下手な考え休むに似たりで、自分では全然思いつかないうちに、或る日あるときコンピューターなるものがすべてを制御し始め、タイプの代わりにワード・プロセッサーが出現してそれがパソコンに変わり、まさに20年以上前から、文字変換という方法で英文タイプ風に日本語を打つことができるようになったのだ。 遅れて届いたプレゼントのお陰で、いろいろなことを思い出した。夕方ノゾミさんにお礼のメールを書きながら、和文タイプのあの独特の響きが耳に蘇って、私はしばし感慨にふけってしまった。 |
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2003年04月12日
09時12分57秒 |
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| 【4月9日・水曜日】
今夜はサッカーのトルコ・カップ準決勝2試合が行われることになっているので、私は朝からまた海苔巻を作り、どこにも出かけず夕方5時半に始まる試合の中継に備えた。 トルコ・カップというのはトルコの1部リーグと2部リーグの所属チームが1年かけてトーナメントを戦い、4月下旬に決勝戦が行われるサッカーのイベントで、2部リーグの地方都市チームが、イスタンブールの3強といわれる名門チームを破ったりする番狂わせが面白い。 熱狂的なサッカー・ファンというわけでもなく、知識も余りない私があれこれ述べることは出来ないが、トルコ・サッカーを楽しむには、特定のチームのサポーターになってしまうより、満遍なくいろいろなチームの試合を見るほうが面白いと思うようになった。先週ガラタサライを応援して次の週にベシクタシュを応援しても自分の中では許せるのである。 ところが、トルコでは親の代からフェネルバフチェだとか、3代続いてベシクタシュなどと凝り固まった人も多い。家族内で贔屓チームが別々だと、親子でも試合の前後は口も利かないなどという話も聞く。私はどこのチームが優勝してもいいと思っているのだが、唯一国際試合でトルコの代表チームにだけは負けてもらいたくない。言うなれば「トゥルキイェ・ミッリ・タクム(トルコ・ナショナル・チーム)」のサポーターである。 今年のトルコ・カップでは、イスタンブールの3強は既に敗退してしまい、勝ち上がってきた4つのチームの1つが、私の好きなゴールキーパーのギョクハンを擁するアンカラのゲンチレル・ビルリイ(若者連合)。ゲンチレルはトゥルキイェ・スペル・リギ(トルコの1部リーグ・シリーズ)でも2月から始まった後半期では、ほとんど負け知らずで快進撃を続けており、リーグ3位の成績で上位2チーム(ベシクタシュ、ガラタサライ)を脅かしている。 3強というのは、ベシ、ガラタ、フェネルバフチェを言うのだが、フェネルは2002年秋のシーズン初頭に立て続けに格下のチームに負けたため、外人監督ローラント氏が解任され、替わって万来の拍手と共に迎えられたのはオウス・チェティンというかつての名選手だった。しかし、名選手必ずしも名監督ならず。日本のプロ野球でも多々見られた現象である。逆に現役時代は目立ちもしなかった西鉄の二塁手、仰木彬氏は名監督の名をほしいままにした。(私が日本を離れる頃までの記憶によれば・・・) チェティン氏は残念ながらいい結果を出せず、シリーズも終盤に入った4月5日、下位チームにストレート負けを食らって退陣を余儀なくされた。その後任の監督も2日で辞職するという騒ぎのフェネルバフチェ・チーム。今年はツキに見放されているのだろう。 さて、テレビ桟敷に陣取り、海苔巻を食べながら観戦したチャイクル・リゼ(黒海沿岸、チャイの葉の名産地リゼ市のチーム)とゲンチレル・ビルリイは互角の試合運びで1−1のまま延長にもつれこみ、1分後にゲンチレルのエジプト人ストライカー、アフメド・ハッサンがフリーキックで送られたボールをネットに叩き込んでゴールデン・ゴールを決めた。ゲンチレルは3月5日の準々決勝でも3−3で延長の末、優勝候補ベシクタシュにゴールデン・ゴールを食らわせて勝ち上がったのだった。第2試合はトルコ中央部の、アンズの名産地マラティアと黒海沿岸の大都市トラブゾンの試合だった。トラブゾンはかつてリーグ優勝もトルコ・カップ優勝も経験しており、イスタンブールの3強と共に4強といわれた時代があり、古豪と形容詞をつけたい重厚なチームである。健闘するマラティアを3−0で下し、ゲンチレルと対戦することになった。決勝は2週間後の4月23日にどちらかのホーム・スタジアムで行われる。 去年12月1日のホームページに、ゲンチレルの金髪のゴール・キーパー、ギョクハンについて書いたところ、W杯からトルコ・サッカーの大ファンになったという女性から便りをもらった。彼女が自分で立ち上げたホームページを訪ねてみると、これはびっくり。 そこにはゲンチレル・ビルリイ知名度向上委員会と銘打ったコンテンツがあり、本家ゲンチレル・ビルリイ・スポル・クルブ(スポーツ・クラブ)の公式サイトが、おととしから更新していない選手名鑑とか、最新の勝負結果が2ヵ月前の試合の表示のままだとか、思い切りお粗末なのに対し、トルコ語・日本語対比のサッカー用語集、インターネットで集めたらしい最新ニュースや写真、観戦記なども挿入された労作であった。 掲示板やチャット・ルームまであって、彼女がいかにサッカー漬けになっているかが偲ばれた。寝るヒマ、あるのかなあ。お勤めしていると聞くが、職場で居眠りしていないかなあと、ついつい心配になる。時差が6時間あるので、トルコの放送を生中継で見たり聴いたりするには、明け方の3時4時にラジオやパソコンの前にいなくてはならない。ところがみなさん、そうやって生中継を楽しみに、わけのわからないトルコ語にめげず、ラジオやパソコンにしがみついているという。 そこまで熱心にトルコ・サッカーを追いかけてくれている日本人が大勢いるのを、トルコの選手やクラブ首脳達にわかってもらいたいものだ。 なーんて、ぐうたらファンの私には口を開く資格なんかないか・・ |
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2003年04月11日
00時30分42秒 |
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| 【4月8日・火曜日】
仏教の世界では4月8日は花祭り、お釈迦様の誕生日だそうだ。私の子供時代というと55、6年も昔だが、この日は必ず信心深い祖母に連れられて東福寺という、かなり遠方の寺までお参りに行ったものである。子供心に東福寺は遠いので「遠福寺=トオフクジ」というのかと思っていたものである。 その後長らく不信心に過ごしてしまい、ましてやイスラム教の国に住み着いてからは、花祭りのことは念頭から消えうせて思い出すこともなかった。どうして今ごろ花祭りを思い出したかというと、アメリカの仕掛けたイラク戦争のせいである。 いったい、キリスト教徒とイスラム教徒はどうしてこんなに仲が悪くてしかもどちらも戦争が好きなのか。そこへ行くと仏教徒はあまり戦争好きではなさそうだな。でもそうとも言えないか、大日本帝国は仏教徒なのに戦争が好きだったし。ジンギスカンの時代の宗教は何だったのだろう、蒙古では・・・ などと果てしなく考えているうちに、ふと子供時代にお釈迦様の小さな銅像に甘茶をかけて手を合わせたり、線香の煙を祖母が私のおかっぱ頭にすり込んでくれたことなどを思い出し、4月8日が花祭りだったことを思い出したのだった。 しかし、人間を戦争に駆り立てているものは、宗教ではなくて、どの宗教にも入り込んで人間を支配するキャピタリズムにほかならないことを、私はずっと以前から結論として知っている。しかも私の見解は、コミュニズムもソシアリズムも外面を変えたキャピタリズムであるということだ。究極というか所詮というか、人間はキャピタリズムの奴隷なのである。 昨日メネキシェから頼まれた就職に関する話で、私は土産物のハルックさんが以前店で働いてくれる日本人の女の子を探していたのを思い出した。問い合わせてみようと店に電話をかけると、折りよくハルックさんが出て、 「加瀬ハヌムが間違いない人だというなら働いてもらいましょう。1度店に来てもらってください」という。 私はメネキシェにその旨を告げた。彼女は大喜びで早速店に電話をかけてランデブー(面会の約束)を取ると言った。うまく採用してもらえるといいが、と思いつつ私はイズミットへ出かけるために家を出た。雨模様の寒い午後である。フェリーで海峡を渡るときも身を切るような風が吹いていた。 長距離バスの道中は雪やみぞれで真冬のようだった。右手に見えつづける果てしないイズミット湾も灰色の中に沈んでいた。 イズミットの工場のクラブ・ハウスで、NHKのニュースを見た。戦争はバグダッド市街戦に入り終盤戦だというが、安全といわれていたパレスチナ・ホテルまで爆撃され、ジャーナリストも犠牲となった。アメリカの報道担当官は「再三危険だと警告を発してから爆撃したのに」と、非は逃げなかった死亡者にあると言わんばかりだ。もちろん戦争の最前線に安全な場所などあるわけもない。 誰か、この世を救ってくれる人が地球のどこかで生まれて欲しい。そうしたらそれこそ花祭りというにふさわしいお祭りが出来るのだろうに。 |
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2003年04月09日
06時38分15秒 |
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| 【4月7日・月曜日】
梅雨時のように雨がしとしとと降っている.イスタンブールに青い空が戻ってくるのはいつのことだろう。明日にでも天気が回復すれば、長雨で充分潤んだ山地や野原で満を持していたワラビの芽がつんつんと地上に顔を出すようになるのである。 今朝、台所を片付けるついでに久々に海苔巻を作ってみようと思い立った。長らく巻いていないので、もともとたいした腕でもないがさぞかし鈍ってしまっただろう、と思いつつ野の花の散歩道さんが送ってくれた海苔を取り出した。 芯に巻く具は甘辛く煮付けたニンジン、ほうれん草のお浸し、甘い出汁巻き玉子。これらも1つずつ海苔で巻き、2合の寿司飯を3等分して、いよいよ巻いてみた。ぬらした包丁で切ってみると、具はうまく中心に収まり、海苔で黒くトリミングされているから引き締まって見え、食べてみると我ながらちょうどいい出来。ようし、今週家の中を模様替えしたら、週末はワラビ採りに行って、煮付けたワラビも入れてまた太巻を作ろう、と希望が湧いてきた。 下の階のアドリエさんがいつぞや、寿司を教えてくれと言っていたのを思い出し、1本分を並べたトレイを持って降りていった。 「カセ、これ、あんたが拵えたの?」 「そうよ」 「おいしいもんだねえ、寿司って。生魚も入れて巻いたりするの?」 「マグロやアジなら入れられるのよ。でもトルコじゃマグロは売っていないもんね、海老の茹でたのとか、サメの煮たのとかを中に入れても美味しいのよ」 「材料を教えて。いつか、自分で作りたいよ」 料理上手なアドリエさんなら覚えられるだろう。幸い、海苔もたくさんあるし。私はそのうちに一緒に作って教えるから、と約束した。教えると言えば料理学校の話はどうなったのだろう。4月の初めまでにプログラムを組んでお知らせしますとか言っていたが、生徒が集まらないとか、いろいろ事情が許さないに違いない。 アメリカが無理やり起こした戦争のせいで、トルコでは大学や各種学校の新卒予定者もまったく仕事が見つからない状況である。それどころか長年勤めた会社員や労働者まで首切りの対象になっているのである。特にホテルやツーリズム関係の落ち込みようは話を聞くだに気の毒としか言いようがない。 アドリエさん宅から自分の家に戻って見ると、3年前マネージャーとしてちょっとだけ働いたゼイティンブルヌのホテルで、ウエイトレスのインターンをしていた可愛い女の子、メネキシェから電話がかかってきた。彼女もまもなくホテルマン学校を卒業するのだが、この不景気でどこに行っても働き口がないという。 「加瀬ハヌム、もしあなたのお力でどこでもいいのですが働けるところがあったら紹介してください」 少女の口調は真剣だった。私は確約は出来ないが努力してみる、と約束した。ウルジャン・ウスタといい、メネキシェといい、どうしてトルコ人の就職の世話を私がするんだ。電話を切ったあと、太巻を作るように簡単ならいいがと、1人可笑しくなってつい朗らかに笑ってしまった。 |
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2003年04月08日
18時49分53秒 |
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| 【4月6日・日曜日】
午後から響子さんを誘ってエミニョニュの花市場まで出かけた。あいにくちょうど出かける頃に雨が降り出し、いつもなら露天商とそれ目当ての客でごった返しているエミニョニュの人出はかなり少なかった。それでも花市場や同じ一角にあるペット・ショップだけは大賑わいである。 花屋のおじさんやお兄ちゃん達との駆け引きも面白いので、響子さんは目を輝かせて値段を聞いて歩き、思ったより高いことを言われると口を尖らせる。 「チョク・パハル〜、イステミヨル〜ム(すごく高いわ〜、いらな〜い)」 「マダム、お前さんどうだい」と花屋は今度は私に食い下がってくるので、私は、 「うちの娘が同意しなけりゃ買えないわ。彼女が財布を握っているんだもの」と響子さんを振り返る。そんな調子で何軒もある花屋を冷やかして歩くのも楽しいものだ。 春はどの店先にも色とりどりのプリムラ・ポリアンサス(桜草の西洋種)があふれている。赤、黄、紫、紺、ピンク、ツートン・カラーや絞りまで多種多様である。1鉢75万リラ(約55円)なので、響子さんに言わせると「こんな値段で1ヵ月以上楽しめるんだから、ベーダーバー(ただのことだが、ただ同然という意味でも使う)よ、ベーダーバー」 お正月に彼女がわが家に来たとき、お土産に持ってきてくれたポリアンサスは、1度枯れたが水を切らさずにいたらまた芽が出て、2度目の花が咲いている。本当にベーダーバーである。 今回私が欲しいのはセントポーリアだ。時期的にもう数が少なくなっているが、こちらは高級種に属するので1鉢300万リラ(約220円)である。2鉢で500万リラ(約370円)にしてもらい、赤紫と濃紫を買った。真っ赤なアネモネの大株は400万リラ(約300円)だった。 日本に行っていたおととしから去年にかけての8ヵ月間に、毎年見事な花を咲かせていた潅木のランタナや、15〜6鉢あったセントポーリアが全滅したので、わが家はしばらく観葉植物しかなかったのだが、やはり鮮やかな花の色があると気分が引き立つのである。お金を出せばいつでも勢いのいい新しい花は買えるが、響子さんのように上手に冬越しさせたり、採れた種を蒔いてみたりするのが本当の愛好家というものであろう。 セントポーリアはさながら言葉を解するがごとく、愛情のこもった一言をかけてやると生き生きと花を咲かせつづけるのだそうだ。このところ慌しく過ごしていたので、我が家の観葉植物や、見る影もなくなったセントポーリアの古株どもには、 「待っててね、もうじき植え替えしてあげるからね」と約束しているが、自分の言葉を空手形に終わらせないように、まずは今週、ワラビ採りを実行し、そのほか家の中の雑然としたありさまを何とかしなくてはならない。 響子さんは「作家の書斎は散らかってて当たり前よ」と慰めてくれるけど、今からこんな調子ではもしも本当に作家と世間が認めてくれるようになったら、部屋の中はどうなってしまうか思っただけでも空恐ろしいことだ。 |
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2003年04月08日
17時00分37秒 |
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| 【4月5日・土曜日】 先週、知り合いの女性から電話がかかってきて、 「加瀬さんのご本を読ませていただきました。つきましては1つお伺いしたいのですが・・・」 「はい、何なりと・・・」 「ワラビのお話しが出てきますよね。私にもワラビの採れる所を教えていただけるでしょうか」 「お安い御用ですとも。一緒に行ってみますか?」 「じゃあ、週末でしたら・・・」 というわけで土曜か日曜の午後にでも、彼女と一緒にワラビの生えている土地に出かける約束をした。今日は土曜日だがこの1週間は寒かったのでまだワラビは出ていないと睨んだ。12日か13日の土日にはいくらか芽が出ているかもしれない。 トルコでワラビが採れると聞くと、日本人なら誰しも喜ぶが郊外の山地には無尽蔵に生えているのだ。ボスポラス海峡の沿岸、ベルグラードの森、黒海への道すがら。イスタンブールばかりでなく、アンタルヤでも森でたくさん見かけたので、碧さんにも知らせてあげよう。(拙著「犬と三日月 イスタンブールの7年」第41章参照) 去年はちょうど日本で「犬と三日月」が出来上がってくるのを待っていた時期なので、トルコのワラビは食べ損なったが、その代わり大好きな鰻をもりもり食べたし、回転寿司でおいしいつぶ貝を心ゆくまで味わえたので、本当に幸せだった。 私は食べ物のことさえ考えていれば満足な、ごく単純な女に違いない。そうそう、ワラビのほかに、草もちを作るための蓬も摘みに行かなくては。去年の12月、アダ・パザールにあるファトゥシュの姉、エミネさん夫妻の別荘で見つけたのだが、イスタンブールにもきっとどこかにあるに違いない。 その昔、一緒に暮らしていた姑が秋田県の出身で、夏になると二つ違いの弟夫婦と八幡平の温泉に1ヵ月も湯治に行き、姫竹やキノコ採りの好きな弟夫婦が収穫したそれらをすぐに缶詰にしたので、毎年かなり分けてもらったものである。 私の夫はその叔父に似たらしく山菜取り、キノコ狩り、潮干狩りなどが大好きだった。私もまた、めだかすくいや、ザリガニ捕りに明け暮れた子供時代から、セリ摘みや栗拾いが大好きな人間だった。それだけは気が合って、ひどい夫婦喧嘩をしたあとで口も利きたくないのに、潮干狩りや山菜取りなどにはお互い黙りこくって一緒に出かけたものである。 そういえばある年の5月だったか、中学生の子供達はディズニー・ランドへ行ってしまい、夫と2人でにらみ合いしながら潮干狩りに行ったときのこと、引き潮で沖の方に出てアサリをたくさん収穫し、さて、引き上げようとして途中の伏流にはまってしまい、私はずぶずぶ沈み始めてしまった。 夫ははるか前方を歩いているので私が泥に足をとられて沈んだことに気が付かない。仲のいい夫婦だったら「お父さ〜ん」と助けを求められるのに、いや、それ以前に並んで歩いて泥にはまればすぐわかるのに、わが家はちょっと違うのだった。呼ぶのは癪だし、なんとか抜け出そうとすると力が入るので余計沈んでゆくのである。潮干狩り客のほとんどは引き上げてしまっており、私は最後の1人だった。上げ潮になってじわじわ海水が戻ってくる。私の脚は膝までめりこんでいた。 とうとう私は「お父さ〜ん」と叫んでしまった。夫はもちろん両手に提げたアサリの網袋を捨てて飛んできてくれたが、驚いたことに同じ海岸に立っているのに、めり込んでいくのは私だけで、彼は長靴の足首程度までしか沈まなかった。 トルコでワラビが食べられるのは嬉しいが、潮干狩りは出来ない。ムール貝は至るところに張り付いているが、さすがに採って食べようという気にはなれないでいる。ああ、木更津の海岸が無性に恋しくなってきた。 |
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2003年04月08日
07時10分20秒 |
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| 【4月4日・金曜日】 朝一番でかかってきた電話はビロルさんだった。 「お母さん、ツアーが入った。これからイズミールに行ってグループに合流するですよ。カッパドキアから首都に行って、水曜日に帰ってきます。なんかあっちの方から欲しいものある?」 「ありがとう、今はないよ。今日のお客さん、日本からのグループでしょう? よく来られたねえ。どこでもキャンセルなのに」 「そうですよ。トルコはなんでもないのにどうして全部キャンセルにするのか、ワタシ、分からなかったよ。じゃあ、行ってきます」 「うん、気をつけてね」 ビロルさんはこの時期に旅行を断行した貴重な日本人グループのガイドとして、勇んで出かけて行った。 4月に入ってから、イスタンブールでは雨がちで寒さがぶり返していた。4月4日というのは亡夫の誕生日で、私よりたった1週間あとに生まれた彼は、間に年度替りがあるので1学年下だった。それがよくよく面白くなかったらしく、 「私が高校のとき、東京でアジア大会があったのよね」などと話し始めると、 「どうせ俺は中学だよ、バカヤロウ。そんな話をするな」とすぐ怒ったものだ。今なら年下の男が流行りだというのに。 おとといあたりから、上唇が腫れている。これは風邪を引いて体調を悪くしている証拠で、でもめったに寝込んだことのない私は唇の腫れくらいでは食欲も衰えないし、具合が悪いうちには入らないのだった。3月の初めにテレビ・クルーの仕事をしたときも、風邪熱のせいで上唇の端にできものが出来て口紅も塗れず、髪は美容院に行く暇がなくてぼうぼうだったので、見るからになりふり構わぬおばさんだったろうな、はたから見ると・・・ このところまた家の中が散らかってきて気が重い。トルコの主婦達は、家の中をピカピカにしておかないと主婦の資格がないのだそうで、アンタルヤの碧さんもお向かいのきれい好き奥さんがしばしばチェックしにくるので、ときどき掃除コンプレックスに陥るのだそうだ。 私の母が若い頃ものすごくきれい好きで、畳に髪の毛1本落ちていても気が済まないたちだった。その反動が晩年に来て、家の中が余りにも家具と諸道具であふれ、収拾がつかなくなったらしく、時間があっても掃除はめったにしなくなってしまった。年を取ると片付け物は下手になるようだ。 今の私がそういう状態なのかもしれない。でも、私はこの次ぎにギュレルさんが来るまでは、きれいにしておくつもりだし、どうせ掃除するなら、もう救いようのない状態からあっと驚くピカピカ状態にしたなら、スカーッと胸がすくのではないかと思う。してみるともうちょっと散らかってからでもいいかな、と、ついつい先延ばしになって結局は片付かないのだった。 明日あたり、エミニョニュに花でも買いに行ってみようかな、あ、エミニョニュといえばウルジャン・ウスタはどうしているかな、準備万端整ったかな、と最後の電話を入れたら、「スイマセン(ここだけ日本語で)、用意が出来てあとは出発を待つだけです。俺がいなくとも女房のところに遊びにきてやってください、加瀬ハヌム」と元気な声がした。 |
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2003年04月08日
05時13分59秒 |
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| 【4月3日・木曜日】
今朝のサバー新聞の一面には、新聞のタイトルよりも上にデカデカと「また駄目だった」と大活字が躍っている。ゆうべイギリス時間夜8時(トルコでは夜10時)に開始されたサッカー、ユーロ2004予選、トルコ対イングランドの試合で、イングランドに対し過去にただの1度もゴールを入れられないトルコ代表チームが、今度こそはの期待もむなしく、またゴールなしに完敗したことを言っているのである。 ワールド・カップでの3位をフロックだとは思いたくないが、ブラジル、ドイツ以外の強豪が準々決勝までに早くも敗退するという幸運も味方していたことは事実だろう。トルコは選手一人一人は個性的なのだが、チームとしてみると中途半端だった。それが勝ち進んで3位になってみると、嬉しいだけでは済まされなくなった。世界第3位の家賃は意外に高かったからである。 「加瀬ハヌム。出発前にお会いしてお礼にお茶でもご馳走したいんですが」とウルジャン・ウスタから電話がきたのは昼少し前。 「ウスタ、ありがとう。2時半頃まではどうしても外せない仕事があるので、3時ではどう?」例のドラマだ。 「俺は加瀬ハヌムが3時と言うなら3時に出て行きますよ。どこで会いますか」 「エミニョニュね。鳩のいるところで」 連続ドラマを見終わって出かける支度をしていたら、アンタルヤの碧さんから電話がかかってきた。 「今日、加瀬さんのおっしゃっていた例のドラマ、見てみたんですよ。最後に製作関係者のテロップが一瞬見えたんですが、ポルトガル語みたいですね。これ、ブラジルで製作したドラマじゃないでしょうか」 「えっ、イタリアのじゃないの?」 「出演者もイタリア人に比べると顔立ちが少し濃いんですよ。ブラジル人だと思いますが」 「ブラジル人って、肌が黒いんでしょう?」 私はワールド・カップでトルコを下したにっくきブラジル・チームの主力選手たちの顔を思い浮かべた。 「いえ、必ずしもそうではないんです。ポルトガルとかイタリアとか移民した人たちの子孫もいるわけで・・・それで、ドラマの途中で挿入されるナポリ民謡が、いかにもわざとらしいんですね。イタリアの音楽といったらナポリ民謡だけじゃないですから、イタリア製作のドラマならもう少し音楽に神経を使うんじゃないでしょうか」 碧さんの指摘はなかなか鋭かった。 「なるほど。例えば外国人である私が見ていると、オオ・ソレ・ミオとか、帰れソレントへとか、フニクリ・フニクラが聞こえてくるとイタリアの雰囲気がいっぱいで、ドラマがいかにもイタリア作品と思えるけどね」 「ええ、そういう効果をねらっている点、かえってイタリア作品らしくないわけです」 イタリアに詳しい碧さんならではの見方である。 「今日初めて見たので多彩な登場人物がまだ分からないのですが、ま、もう何回か見てみようと思います」 「ぜひ見てみてよ。私はすっかりハマっていて、毎日ばっちりよ」 エジプシャン・バザールの入り口で3時に出会ったときのウルジャンさんは、もうあの髭面ではなくなって、色白の細面の若々しい顔になっていた。少し奥目であるほかは日本人にもいそうなタイプである。エジプシャン・バザールの東口にある門の近くのエネルジーというケバプ屋に入り、軽くドネル・ケバプを食べ、お茶を飲んだ。BSフジの番組でも撮影にきた店である。 ウルジャンさんはおととい貴金属のエンデルさんの店で注文したチェーンを残りのお金も払って受け取ってきたと言い、私に見せてくれた。手のひらに載せるとずっしりと重かった。 「あんな厄介な注文にもかかわらず、作り直す手間賃は取りませんでした。あんないいお店は他にありませんよ」 2階のサロンには先客が1組しかいなかったが、いつのまにかあとからあとから人が来て、満席に近い状況になった。 「加瀬ハヌム、またあなたの足の効果が現れてきましたね」とウルジャンさんは目を細めた。そしてボーイに聞いた。 「この時間帯でもいつもこんなに客が入るのかい?」時刻は3時半になろうとしていた。ボーイは、「さあ、今日は何ですかね。土曜日でもないのに」と首をかしげた。 ウルジャンさんは吸っている煙草の煙が私にかからないように、斜めに体を捻じ曲げて後ろの方に煙を吐きながら言った。 「実はパトロンは商売がうまく行っているので、今年中にもっと大きな店に移転する計画をたてています。そうなるともう1人コックが必要になるので、俺は○○を呼んでやろうと思います」 彼の言う○○とはかつての同僚で、腕もいいがどことなく抜け目のない男なので、私は気を許してはいなかった。 「ウスタ、あなたは人がいいからそう言うけど、自分の下で働かせるにはもっと年の若い、あなたと歴然とキャリアの違うコックを連れて行ったほうがいいよ。あなたの言うことをちゃんと聞く人間を。もし○○を呼びたかったら、あなた自身が日本語も話せるようになって、日本についてもっと詳しくなり、○○と大きな差をつけてからがいい。そうでないとあなたをおびやかす存在になりかねない」 「なるほど、そうですか。はい、よく分かりました」 私のアドバイスにウルジャンさんは奥目を見開いて聞き入っていたが、最後に言った。 「加瀬ハヌム、このたびは本当にありがとうございました。ご恩は忘れません。俺は自分を本採用にしてくれたパトロンの店で末長く働きます。お客さんに喜んでもらえるような料理を工夫します。あなたと知り合えたのはアラーのお陰です。アラーがあなたを一生お守りくださいますように」 「ウスタ、それもこれもあなたがいい人だからよ。じゃあ、体に気をつけてね」 私達はそこで別れた。そのあと私は昨年末に1児の親となった友人夫妻のオフィスに寄ろうと思い、エミニョニュのおもちゃ屋をはしごして、赤ちゃんへのお土産を探した。 赤ちゃんの手にもやさしい、やわらかな黄色いタオルで作られたピアノの玩具と、同じ素材の熊のプーさんの枕を買い、夕方で大混雑しているバス・ターミナルからタキシム行きに乗った。遠ざかる旧市街の景色を見ながら、トルコに根を下ろした自分を感じていた。 |
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2003年04月06日
17時09分28秒 |
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| 【4月2日・水曜日】
ミタットさんは私が「マフィア・ババス(ゴッド・ファーザー)」とあだ名をつけたジハンギル・タクシーの創始者で、25年前に故郷シワスの片田舎から大都会イスタンブールに青雲の志を抱いてやってきた人だ。 40歳にして使いっ走り、力仕事、何でも厭わずやって1台のタクシーを買い、営業許可を取った。同じ村の親友アリ・カルタルさんを呼び寄せ、2人で昼夜交替で働き、アリさんもまた1台タクシーを買って、自分の親類を呼び寄せた。ミタットさんのほうももう1台車を増やして弟と娘婿2人を呼び寄せ、弟の娘をアリ・カルタルさんの長男と結婚させて互いに親戚となり、数年後にはジハンギルの一角に事務所を建ててドラック(停留所・ここではタクシー・プール)を設け、今では18台の無線搭載車が所属する大世帯となった。 トルコではタクシーは個人免許制で、この18台の持ち主はすべてミタットさんかアリさんの身内や親戚である。夜間、交替で運転するのは車の持ち主の息子や婿や兄弟達である。つまりジハンギル・タクシー自体が一大ファミリーなのだった。 今年65歳になるミタットさんは皆から「アービイ(兄貴)」または「ババ(親父)」と慕われて、押しも押されもしない大御所的存在だった。恰幅のいい体にツイードの上着とニッカーボッカー、つるつる頭にはハンティングを被ってお洒落しているが、実はシワス訛り丸出しのとことん気のいいおじさんなのである。 14年前、娘がジハンギルに住み始めた頃は日本人の若い娘などほとんどいない時代だった上、童顔なので14、5歳にしか思われなかったらしく、タクシーの運転手さん達や隣近所の人々から可愛がられていた。娘のあとに住んだ私には、毎日散歩させなくてはならないビクターがいたので、ドラックの前を通る度に「おーい、ユミコ、お茶を飲んでいけ」と必ず呼び止められたものだった。そういう長い付き合いなので、チュクルジュマに引っ越した今も外出には必ずジハンギル・タクシーに電話するのである。 今朝私は、IGDAS=イグダシュ(イスタンブール・ガス供給会社)に行くためにタクシーを呼んだ。娘の名義になっている不動産権利書のコピーやら、申し込み書やらを手に持ち、デジカメの紐を手に巻きつけた。充電可能な電池を買ってセットするつもりだったからだ。 しかし、なぜかこんな持ち方をしたらなくすような気がして、私はクッションつきの大きな書類封筒に、書類とカメラを収めて階下に降りた。タキシム広場ではビロルさんが私を待っている。ミタットさんの車が来た。 「元気か、ユミコ。クズン(君の娘)から便りがあるか?」 「クズム(私の娘)も元気で働いてるって」 「そうか、そうか。そりゃあよかった」 タキシムからビロルさんが乗り、彼は私が手にした黄色い大きな封筒を取って、中の書類全部とカメラを自分の膝の上に出した。 「お母さん、何でカメラなんか持ってきたの」 「ガスの申し込みが済んだら、信用できるカメラ屋で充電式の電池を買おうと思って。誕生日の写真、電池がなくて写せなかったから」 「あーあ、わかった。それならワタシにまかせてください」 ビロルさんは日本語で話し、私はトルコ語で答えると言う変わったコンビである。 「ババ、紹介するわ。ビロルさんは日本語ガイドで私の仕事を手伝ってもらっているのよ。それからビロル、ミタットさんはジハンギル・タクシーの創始者で、10年来の友達よ」 15、6分でオク・メイダヌという場所にあるイグダシュの本社に着いた。ビロルさんが先に下り、私はタクシー代700万リラ(約520円)を払って彼に続いた。 申し込み窓口は3階で、整理番号札を取り申込金3億リラ(約22,200円)を鞄から出すとき、ふと電池は幾らくらいするだろうと思った。 「ビロル、カメラどうした?」 「えっ、お母さん持ってないの? ちょっと待って」 彼は慌てて黄色い封筒や自分のリュックをひっくり返したがデジカメはなかった。 「ワタシはねえ、シートに置いたですよ。お母さん、見なかったの?」 「あんたの膝の上に載っているところまでは見たけど、降りるときあんたがカメラをシートに置いたなんて知らなかったよ。落ちたんじゃないの?」 「いいえ、落ちてないですよ。お母さん、すぐタクシーに電話してください」 インシャーラー、ミタットさんの車が空車でありますように。私はドラックからミタットさんの携帯番号を教わり、かけてみた。 「ババ、ユミコだよ」 「どうした、ユミコ」 「後の席に私のカメラが置いてないか見て。お客さんがいるの?」 「おお、女性のお客さんがいるんだよ」 「悪いけどその人にも聞いてみて・・・」 ミタットさんが後部座席の客に聞いている声がした。しかし返事はこうだった。 「なかったそうだよ、ユミコ」 私が脇にいたビロルさんに首を横に振ると、彼は私の手から電話をもぎ取るようにして、 「ババ、俺は確かに席に置いた筈なんだ。客にもう1度確認してくれ!」 彼はそう言ったあと、再びないという返事が来ると血相を変えた。 「ガスの申し込みが済んだらまっすぐにドラックに行くからどこにも行くなよ、ああ、行ったら出るところへ出てはっきりさせてやる」 申し込み手続きはあっけなく終わり、私達はタクシーを拾ってジハンギルに向かった。 「奴が嘘を言っているんですよ、お母さん」 「ビロル、そういう人じゃないのよ、あのおじさんは」 「ケシケ、タクシーから降りる前にカメラといってくれればよかったのに、お母さん」 道中、私はいきり立つビロルさんをなだめるしかなかった。ドラックではミタットさんのほかに大勢の運転手達が集まっていた。気色ばんでつかつか歩み寄った若い男に、みんな身構えるようにして口々にビロルさんの言動を非難した。警察を呼ぶなら呼べ、とついにミタットさんまで叫んだ。私はビロルさんを抑えて言った。 「ビロル、落ち着きなさい。私はあなたを信頼しているのと同じほどに、ミタットさんやジハンギル・タクシーを信頼しているのよ。頼むから喧嘩腰でものを言わないでよ。ミタットさんと私の10年来の付き合いにひびを入れないでよ。デジカメがなくなったよりもそっちの方がよっぽど悲しいじゃないの」 「あっ、あー、お母さん、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ。よくわかりました。もういいです。ワタシ、もうこれ以上言いません」 私は自分が連れている若者の言葉を自分の非としてタクシーの面々に謝った。たぶんデジカメは、ビロルさんが降りるとき彼の膝から滑り落ちて車の外の道路に落ちたのだろう。厚いスポンジのついたビロードのケースに入っていたので、音がしなかったに違いない。 「ビロル、戦争が終わったらまた一緒に働くチャンスがあると思うよ。そうしたらカメラの1つくらいまた買えるよ」 「う〜ん、お母さん、ほんとゴメンネ。ワタシも買うときお母さんの手伝いするよ」 私は気を取り直して、先週ピアノの響子さんと食べた中華のビュッフェにビロルさんを案内した。思えば好意でガスの申し込みの手伝いに出てきて、逆に私を悲しませる結果になったとしょげているビロルさんに腹を立てても仕方のないことではないか。ガスの用事が済んだら中華を奢ると言った昨日の約束を果たさなくてはならない。 中華料理店で、私達は後から来た、きれいな長い髪を後で束ねた芸術家風な、1人の長身の日本人男性と知り合った。ビロルさんもようやくいつもの賑やかなビロルさんに返り、3人で話が弾んだが、本日もイタリアのドラマがある。1時半まで家に帰り着かなくては・・・ 長髪の男性とは再会を約束して先に店を出、タキシム広場でビロルさんとも別れて大急ぎで家に戻った。 テーブルの上に先週取り替えた窓ガラスの領収書が載っている。火事になったことを思えば安いものだよ、ガラス代くらい。事故に遭って怪我をしたことを思えば安いものだよ、デジカメくらい・・・ムムム。 人を責めずに暮らすのは忍耐の要ることである。そのときは多大な損をしたように感じるものである。だが私はいままで何度もそうしてきたことによって、今こうしてたいした不平もなく生きていられる喜びを味わっているのだ。 1つ悪いことが起きる度、それでも何かを学んで人間は少し成長する。生きることは一生、否応なく何かを学び続けるということなのだろう。だから今日も人生勉強をしたと思えばいいのよね。 |
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2003年04月05日
20時23分01秒 |
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| 【4月1日・火曜日】
ウルジャン・ウスタが日本のコック仲間に頼まれた買い物、金のチェーン・ネックレスとそろいの腕輪は、あいにく店が棚卸の最中に行ってしまったので、「加瀬ハヌム、あしたもう1日お願いします」と言うことになった。 サバ・サンドを食べたのち、バス乗り場まで送ってきた彼は、「じゃあウスタ、また明日ね」と言いながら私がバスのステップに足をかけると、両手を太ももの脇につけて日本語で「すいません」と言ってペコリと頭を下げた。彼の知っている日本語と言えば、「高い、安い、寒い、暑い、すごい、すみません」など6つか7つだった。 それでも自店のパンフレットの裏には、野菜や品物の名前が耳から聞いたらしく、間違いだらけのままたくさん書き付けてあった。先週ドネル・ケバプの機械を買いに出た日に、日本領事館の待合室でそれらを書き直してやったら大喜びで、日本に帰ったらきっと日本語を教えてくれる人を探し出して、みっちり勉強するから、と髭面の目を細めていたのだった。 朝10時に待ち合わせしてエンデルさんの店で待っていると、汗をかきかき遅れてやってきたウルジャン・ウスタは、友人に頼まれた鎖のデザインなどを説明し始めたが、店には似つかわしいのはなかった。エンデルさんは店の従業員をつけて、ウルジャン・ウスタに他の店のショーウインドを見てきて欲しい、注文と似たものがあれば、従業員がモデルの型式を報告するから、とエジプシャン・バザールの貴金属店がずらり並んだ通路に送り出した。 「ウスタはいい人そうだね、カセ」 「そうなの、エンデルさん。日本から来るとき、コック仲間にいろいろ買い物を頼まれたみたいよ」 「ふーむ。いま聞いた注文だと18金のチェーンは相当な金額になるよ。彼が立て替えるのかい」 「チェーンを頼んだ友達はウスタにビザ・カード預けたんだって」 「なに? そんなものを預けたのかい」 「ええ、それほど信頼できる人物ということよね」 エンデルさんは口元に笑みを浮かべた。 「まあ、君の知り合いに悪い奴はおらんだろう。話し方を聞いてもあのウスタは信用出来そうだと分かるよ」 思うに、店のほうにとっては高額な注文というのは、儲けより時に大きなリスクに陥りやすいらしい。そういう恐れのあるときは、あいにくうちにはご注文通りの品がありません、と断って、係わらないようにするほうが賢明かもしれないのだ。 私は気軽に幾らかでも知り合いの店の売上に貢献できれば、という程度の考えでいたし、ウスタに対してはクォリティーの確かな店だから、と連れて行ったのだが、どうやら18金の重いチェーンは20万円を越す金額になるらしい。ビザ・カードにもランクがあるので、ウスタの友達のカードで引き出せるのは10万円がリミットだということだ。代金を払い終えるまでは、一見の客の高額な注文はかえって不安材料でしかないのであろう。 従業員の報告を受けて、店の主任がグランド・バザールにある卸商まで似たようなチェーンを取りに行かされ、いくつか見本に借りてきたが、ウスタは「これらは友達に頼まれたのと若干違う」と納得しなかった。主任がまた雨の中を走って行って、別の形のものを幾つか預かってきた。その中に、友達が示したものとよく似たデザインがあったらしく、ウスタが選び出すと、エンデルさんはそれを文具店でコピー機にかけさせ、複写した紙を日本の友達にファックスで送った。まもなく、友達から気に入った旨、ウスタに電話が来た。 ところがその電話で、腕に巻くチェーンも同じデザインのセットで買ってきてくれというのである。男物はあまりセットで作らないので既製品はないとのことだった。急遽、エンデルさんのグランド・バザールにあるアトリエで作ることになった。10分や15分で終わる仕事ではない。私は時計を気にしていた。イタリアのドラマを見に家に戻りたい。 「ウスタ、じゃあ1時も過ぎたことだし、私は用事があるからこれで帰るわ」 エンデルさんの店を出ようとしていたら、ビロルさんから電話がかかってきた。ちょうどドラマが始まったところへ彼はやってきた。 「お母さん、もしかするとツアーがあるかもしれない。4日の朝、はっきりする。あればワタシ、水曜日までツアーに行って来るからね。行く前になにか手伝えることある?」 「あした、天然ガスを引くために、申し込みに行くのよ」 「じゃ、ワタシが一緒に行く。何見てるの」 「イタリアの連続ドラマよ」 「ああー、しょうがないね。ワタシのお母さんも、連続ドラマばかり見てるよ。他にやることないのかな。ワタシこういうの、見たくないよ」と彼はリモコンを取り上げた。 「じゃあ、パソコンでインターネットでも見てて。私はテレビが見たいのよ」 彼をパソコン・デスクに追いやって、私はゆっくり連続ドラマを見た。他の番組に回されてしまったら何のために大急ぎで帰ってきたのかわからない。 帰り道、タクシーに乗ったら、運転手は深夜料金のメーターのスイッチを入れたらしく、おそろしく早い勢いで料金が上がってゆく。2、3日前に値上がりしたとは言いながら、行きに乗ったジハンギル・タクシーとは明らかに料金の進みが違うのだった。家の近くまで来ると、私は車を一旦停めさせて言った。 「運転手さん。あなた、間違って深夜料金のメーターを押しませんでしたか」 「いや、これが普通ですよ」 「ではどうして料金が変わるたびにゲジェ(夜)と出てくるわけ? それに今朝は、いま乗った場所まで300万リラだったのよ。どうしてもう500万を越えてるの」 「バヤン、行きと帰りでは通った道が違うんだよ、きっと。それにゲジェなんてどこにも書いていないじゃないか」 「見苦しいことはやめてね。私はトルコ語を話すだけじゃなくて読めるのよ。メーターの数字が変わるたびに出るゲジェの文字をずっと見ながら来たんだからね、ここまで。乗るときはドアに書いてあるあなたの車の記号とナンバーを読んでから乗ったのよ。私の見た番号をポリスに訴えたりしたくないから、間違いだったんでしょうと言ってるのに、それがわからないの?」 むかつくのを抑えて、極めて冷静に言うと運転手は「アブラ、ヘラール・オル(姐さん、勘弁してくれ)」と言った。私は冷ややかに言い放った。 「ペーキ、ボイレ・イシ・ビダハ・ヤプマヤジャクスン、タマンム(いいわよ、こんなこと2度とやらないようにね。分かった?)」 娘の悦子から引き続き10年余り利用しているジハンギル・タクシーなら、こんな不愉快な思いは一度もしなくて済むのだが。 |
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2003年04月05日
07時17分21秒 |