こんにちの教育体系はいろんなところから、しんどい仕事だの、割に合わない仕事だの言われている。 また、教師の不肖事件もメディアなどで取り上げられる事が増え,締め出しを食らう教師も増えているとよく聞く。その影響もあってか、教師に対する生徒側からの批評がメディアでは取り上げられ,親同士での評判に繋がり,教師ごとに「いい先生」、「どうでもいい先生」、「嫌な先生」といった極端なレッテルを貼られる。そんな昨今,もう一度原点に戻って考えてみたい。教育とは何だろう、ということを。

 一応、広辞苑によると、教育とは、「教え育てること。人を教えて知能を付けること。人間に他から意図を持って働きかけ、望ましい姿に変化させ,価値を実現する活動」とある。単純に考えて,今の時代,教育の現場においてこの活動が為されているか?という一点をまず見たい。教えるということは教育委員会や文部科学省が設定したマニュアルに沿って実施している。よってそれについては(とはいってもその教育委員会のマニュアルそのものすら今の世の中では疑問視されているが)まあ問題ないとしよう。

 しかし、教育の場において、どんな意図を持って働きかけ,望ましい姿に変化させたのか。学級崩壊を起こす原因となる生徒。「いじめ」の首謀者。登校拒否を起こす生徒。きっと誰しもが一度は見聞きしているであろう、あの惨状が望ましい姿?小学校において全国で調査をした結果、全国の小学校の約30%の学校において学級崩壊を確認している。教師としての価値を見事に実現しているか?そんな結果に至った時点で既にそれは教育と呼べる行為ではない。

 また、先生とは,「学,徳のすぐれた人・自分が師事する人、また、その人に対する敬称」とある。そもそも教師とは、広辞苑にもある通り,親子供及び周りの人々から尊敬されるべき存在として教壇に立つ人物だった。少なくとも戦後10年ほどはその体系を残していた。世の教師たちを親しみと敬意、畏怖も込めて先生と、そう呼んだ。それが今はどうだ。私の経験のみで語っても,尊敬に値する教師などほんの一握りだ。また、〜〜先生と親しみを込めて呼ばれる先生が今の日本にどれだけいる?例えその先生を目の前で「先生」と呼んでいても(一応,というべきであろう、今の日本の悪習とも言うべき学校内での風潮では教師のことを先生と呼ぶ傾向が抜けきってない)、たいがいは裏で呼び捨てや字名と言う風に憎しみすら篭もっていても不思議ではない呼び方で呼ばれる。もちろんそこに敬意などは皆無だ。畏怖すら危うい。

 では、今と昔では何が違うのか。その答えは私が教職を目指す身として一番重要視していることなのだが、簡単に言うと、認識の違いであるとおもう。昔は、教師といえば凄い,偉い,賢いというイメージが支配していて、生徒側はそれを最初から信用し,崇拝にも近い念で接していた。私の父親から聞いたのだが,教師たるもの常に完璧であれ、常に見本になるようあれ。このように話していた。それがそのまま父親の時代の教師に対するイメージなのだ。ちなみに母親も父と似たような事を言っていた。私のイメージは違う。教師も同じ人間であり,得意なものもあれば苦手なものもある。好きなものもあれば嫌いなものもある。参考までに同じような世代である(五歳年下の)妹に話を聞くと,基本的にキモい(生理的に気持ち悪い、という意味の現代語版のようなもの)、ウザい(鬱陶しい、という意味の――)、ムカつく(腹が立つ、という意味の――)といった回答だった。(ちなみに私の妹は世間一般で言われる「不良」たる存在ではないにも関らず)

 この認識の違いが生徒に少なからず不信感,不快感を与えているものであると私は見ている。すなわち、教師の昔のごとき威厳はこんにち存在しないということ。今や教師は年上の口うるさい先輩たちと言う風に扱われるようだ。そこで、無理矢理威厳を示そうとすることで鬱陶しがられる傾向にあるのだと見れる。この状況では教師に対して敬意など生まれるはずもない。ましてや教師としての価値など実現できるはずもない。

 では、どうすればいいのだろうか。その対策をきっと現職の教師も考えたことはあるはずだ。しかし、私の結論と同じ結論にたどり着く教師は少ないものと思われる。これは決して自意識過剰な表現でもなく、過大評価でもない。ただ、身の回りの資料から冷静に分析しただけにすぎない。

 結論を先に言う。教師としての威厳などいらないのである。すなわち生徒と同じように考え,間違え,成功を喜ぶこと。これによって連帯感が生まれる。言葉にすると非常に簡単な事だが,教師は完璧であるべきなどと言うイメージを持った大人には決して出来ない行為だ。何故なら,そこには少なからずプライドというものが存在するから。そのプライドをかなぐり捨て,生徒と共に在ること。これは子供としての、教育を受ける者としての私個人の意見だが。しかし、フレンドリーな立場をとることは非常に重要であるように思える。

 先ほど私の出した結論、教師としての威厳などいらない、というものにたどり着く現職教師は少ないといったこと。これは、私が尊敬している中学の先生が、「お前の考え方はきっと正しいが,それを受け入れることの出来る先生は多分少ないぞ」といったことも私の意見を支持しているが、何よりもそこそこのお年を召された教師方による、威厳のない教師と言う者に対する評価が低い,ということ。その考えを覆すことの出来る柔軟な頭を持った先生が少ないこと。そして、教師が威厳のない者だと認識している時代から生まれた教師がまだ少ないこと。私は,ちょうど今の時代が一番教育という行為を行いづらい時期であると見ている。それは、自分自身の昔の時代と今の生徒たちを比べても今の生徒たちを理解する事ができないから。これから教師になろうとしている私達の年代の人間はきっと接し方にもよるが、今の時代の生徒達と共感できることも少なくないはずだ。

 ここまでかなり話を引っ張ってきたが,結局私が言いたいのは,教育とは、これだ、という答えのない,常に変化,進化を続ける教え方の在り方であると思うわけである。今の時代には私達が教育を実施するのがきっと一番よい結果に繋がる。しかし、このまた十年後は判らない。十年後はその頃ちょうど大人になろうとしてる子供達の方がよい結果を出せるかもしれない。それをできるかぎり柔軟な頭で受け入れ,実施するのも私達の時代の教師の役割なのだと思う。それが出来るものたちこそまさに先生と呼ぶに相応しい。私もそう在りたいと願いながらここでキーボードを打つ指を留めるとしよう。


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