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みなみやま海外旅行よもやま情報5
(C)mintamiyama2005.3.22改訂


「シルミド」・「スキャンダル」「冬のソナタ」情報 冬ソナは、かなり遅れて参加しています。 韓国での報道が面白いので紹介します。 韓国から見た日本人の冬ソナとは。
冬ソナ「チュンサンの家」が日本人観光客に人気
KBS『日曜スペシャル』が冬ソナブームを特集  KBS第1テレビの『日曜スペシャル』(午後8時)が、日本の「冬ソナブーム」を特集する。  『冬の恋歌』(日本タイトル『冬のソナタ』)は日本で20%近くの視聴率をマークする超人気ドラマで、主演のペ・ヨンジュンは“ヨン様”と呼ばれ、多くの女性ファンを魅了している。 朝鮮日報「日本の冬ソナブーム」 よければ、『路地裏日記に集う冬ソナファン』の皆さんのコメント期待!! 『シルミド』情報

映画『シルミド』公式ホームページよく出来ている。映画を見る前に一度見るほうがベター。
goo映画『シルミド』特集
やはり、反応は別れる。日本の社会状況を反映している。
「シルミド」豆知識:やはり、映画を見ると疑問が出てくる。
既に「シルミド」を観た方から、劇中で歌われる“あの歌”の事を聞かれるので、今回はちょっと解説を・・
劇中で訓練兵達が何度か歌う“軍歌調の歌”は「赤旗の歌」と呼ばれるものです。
もともとはイギリスの労働歌だったようですが、この歌が日本経由で朝鮮半島に渡り、日本が朝鮮半島を植民地支配していた1930年代にはキム・イルソン率いる抗日パルチザンたち共産党員の愛唱歌として歌われていました。
南北分断後は北朝鮮側の革命歌として歌い継がれ、北朝鮮の兵士ならば誰でも歌えるということから、劇中では訓練兵が北朝鮮兵士に偽装するために、この歌を覚えさせられたという設定になっています。
684部隊は偽装の為、北の言葉使い、習慣などの訓練を受けていましたが、赤旗の歌は歌っていなかったという主張も有り、「シルミド」のカン監督は、韓国の右翼団体から国家保安法違反の容疑で告発されたというエピソードもあります。
因みに、この歌、日本では北の工作員に暗号を伝えるラジオ放送開始の音楽としても知られていたようです。へえ〜・・(5ヘエ)
前回は、劇中で唄われる「赤旗の歌」について書きましたが、今回は台詞に出てくる「連座制」(れんざせい)について・・・
「連座制」とは、犯罪の責任を犯人だけでなく、犯人の親族等、犯人と関わりを持つ一定範囲の他人にまで連帯責任を負わせる制度のこと。 極端に言えば「一族皆殺し」の発想・・怖いです。
朝鮮半島では、19世紀後半に、3親等まで適用されていた連座制が廃止されたようですが、実際にはそれ以降も、刑事責任以外のの犯罪者、特に思想犯の家族や親族は、就職や旅行の際に様々な制限を受けていました。
現在は1980年に改正された、第5共和国憲法12条
「全ての国民は、自分の行為ではない親族の行為によって不利益な処遇を受けない」によって禁止されています。
映画の中で、ソル・ギョング扮するカン・インチャンが北朝鮮に逃亡した父親のことを恨んでいるのも、この「連座制」によって自分と母親の人生がメチャクチャにされたからなのです。
ちなみに、この「連座制」という制度、日本では主に公職選挙法の中に残っており、候補者本人が選挙違反をしていなくても、選挙活動に関わった者が違反していた場合、当選が取り消される制度として活かされています。 goo映画『シルミド』年表金大中元大統領の歩んだ道とあわせるとわかる部分がある。

シルミド事件年表

1968年 青瓦台襲撃事件(1.21事態)発生。
北朝鮮人民軍特殊部隊31名が青瓦台(韓国大統領府)付近にまで侵入。韓国警官隊と銃撃戦を展開したという軍事停戦以来最大の武>装ゲリラ事件。北朝鮮人民軍側の27名が射殺され、3名が逃亡、1名を逮捕。韓国側の死者68名、負傷者66名。

1968年 4月 「684部隊」創設。31名の訓練兵が、実尾<島(シルミド)に集められる。

1969年 4月15日 北朝鮮、アメリカのEC121型偵察機を、領空侵犯の名目で撃墜。南北緊張が高まる。

1970年 2月 ニクソン・ドクトリン発表。アジアの緊張緩和の方向性が示される。

1971年 4月 大統領選挙実施、パク・チョンヒが再選される<も、野党・新民党のキム・デジュン(金大中)候補が大善戦、南北
融和のムードが高まる。

1971年 8月15日 北朝鮮外相、平和統一に関する8項目を<提案。

1971年 8月20日 南北赤十字連絡委員会が、板門店で初の
対面。離散家族問題について話し合う。
1971年 8月23日


午前6時 24人の訓練兵がシルミドから逃亡する。
午前6時15分 シルミドと空軍司令部との通信機関が閉鎖され
る。通信機関に詰めていた24人中わずか6人の兵士が生き延びR>る。
午後12時15分 逃亡訓練兵、インチョン・ドッペブリ海岸に上陸。
午後12時53分 逃亡訓練兵、最初のバスを奪取し、ソウルへ向かう。インチョン・ソン島駅三叉路にて、待機中の陸軍兵24人と小戦闘。2人が重傷を負う
午後1時10分 インチョン・オンリョン峠で、1回目の激しい戦闘。
午後1時20分 インチョン・チュアン交差点とカンソク洞峠の間で、2台目の バスを奪取。
午後1時30分 インチョン・ソサ三叉路で、警察官1名を射殺。
午後1時38分 インチョン・シニャンチョン検問所で、警察官1名を射殺。 午後2時15分 バスがソウルに侵入。バスの運転手は、ヨンドンポ区ムルレ洞 で脱出。
午後2時25分 ソウル・テバン洞ユハン洋行前で、最後の戦闘。 事件当時のバス乗客たちの証言では「最初の銃弾は、確かにバスの外から撃ち込まれた」逃亡訓練兵、一部が手榴弾を爆発させ、自殺を試みる。4人、生き残る。

1971年 8月25日 チョン・ネヒョク国防長官が更迭される。

1972年 3月10日 4人の生存訓練兵の死刑執行。

1972年 7月4日 南北共同声明発表。北朝鮮と韓国の代表が平和への合意と隠密の軍事行動によって交戦状態を刺激しない誓約に署名した。

金大中前大統領略歴 日本 外務省

職 歴
1960年   民主党スポークスマン
1966年   同政策審議室長
1967年   新民党スポークスマン
1971年   大統領選挙出馬 71年   大統領選に出馬し、朴正煕大統領に敗北、
72年以降 日本滞在を続けていたが、
73年   いわゆる金大中事件が発生し東京のホテルからソウルに拉致される。

1980年   死刑判決(内乱陰謀罪) 80年   発生した光州事件の後、内乱陰謀罪により死刑判決を受けるが、日本や欧米からの救援の声が上がり、 82年   刑執行停止となり米国へ渡る。
1982〜85年   米国滞在
1985年   民主化推進協議会共同議長(金泳三氏とともに)
1987年   統一民主党常任顧問、平和民主党総裁、大統領選挙出馬
1991年   新民党総裁、民主党共同代表
1992年   大統領選挙出馬、敗北を契機に政界引退
1994年   アジア・太平洋平和財団設立
1995年   政界復帰、新政治国民会議総裁
1997年   国民会議大統領候補、大統領当選
1998年   第15代大統領就任
2000年   ノーベル平和賞受賞決定(10月13日)
.横 顔 (1)
71年に大統領選に出馬し、朴正煕大統領に敗北、
72年以降日本滞在を続けていたが、
73年にいわゆる金大中事件が発生し東京のホテルからソウルに拉致される。
80年に発生した光州事件の後、内乱陰謀罪により死刑判決を受けるが、日本や欧米からの救援の声が上がり、
82年に刑執行停止となり米国へ渡る。
(2)85年に帰国して政治活動を再開、
87年、92年の大統領選挙に出馬したが、いずれも落選した。
一旦は政界を引退したが、英国滞在、アジア・太平洋平和財団設立を経て、
95年に政界復帰、新政治国民会議を設立し、総裁に就任。大統領選挙では、4回目の立候補での当選となった。

(3)カトリック教徒であり、洗礼名はトマスモア。
(4)著書に、「金大中獄中書簡」、「大衆経済論」、「共和国連合体制」、「韓国の統一」等がある。
国際共同プロジェクトとしての「韓国からの通信」 池明観(翰林大学日本学研究所長) 聞き手 岡本 厚(本誌編集長) 岩波書店 世界2003年」9月号 国際共同プロジェクトとしての「韓国からの通信」
池明観(翰林大学日本学研究所長) 聞き手 岡本 厚(本誌編集長)
 「1973年から88年にかけて本誌に連載された地下通信「韓国からの通信」。筆者はT・K生とされ、誰が執筆しているのか、どのように韓国の情報を得ていたのか、これまで一切が秘密にされてきた。このたび、金大中政権が任期を終えたのを契機にして、その全容を明らかにする。  1972年、当時の朴政権が永遠の執権を狙って打ち出したのが「維新体制」であり、民主主義は厳しく制限された。大統領の直接選挙も停止され、政治活動、言論・表現の自由や労働者の権利も甚だしく制限された。もはや韓国内に組織的に活動できる団体はほとんどなくなり、ほとんど唯一動けるのがキリスト教会だった。  その年の秋、東京にいた韓国の教会関係者が密かに集まり、韓国の状況と民主化運動の声を、世界に訴える拠点を東京に設けることを話し合った。韓国内の動きや様々な資料は、すべて日本人、外国人の宣教師たちが身につけて持ち出した。そしてそれらを翻訳し、まとめて執筆する役割を果たしたのが、当時東大に留学(後東京女子大学教授)していた池明観氏であった。  背景には、韓国の状況に関心を持ち、日本の言論の自由はアジアの人々の声を伝えるために使われるべきだ、という信念を持っていた、本誌編集長(当時)安江良介との出会いがあった。  当時の詳細な事情を明らかにする池氏のインタビューに、在日韓国人として協力した李仁夏・川崎教会名誉牧師と、日本人キリスト者として情報の「運び屋」も担い、また日韓連帯市民運動の事務局でもあった飯島信氏のコメントを付す。」
韓国からの通信 ―― 1972.11〜1974.6 ―― T・K生 「世界」編集部 編
(続)韓国からの通信 T.K生 岩波新書   1977 (第三)韓国からの通信 T.K生 岩波新書   軍政と受難  第四・韓国からの通信 T.K生 岩波新書   1980

べってぃ、シルミドを行く 偶然見つけたロケ地めぐりサイト。そのすじでは有名な方のようだ。
そして上陸  靴が濡れないよう、場所を選んで渡りました。少し苦労しましたが、シルミド上陸作戦は成功(笑)
心配した天気もこの頃には良くなり、風が気持ちいいーーーv(^^) 砂浜を歩きながら周りの風景(といっても海ばっか)を楽しんでいると、「撮影は島の反対側でやってる」とアジョシ。 思わず「見た〜い」と叫ぶ私。いえ、本気ではなくね、だめだろうなと思ってたからこそ出た言葉だったんですよ。見るからに、船でもないと行けそうにありませんでしたから。
が!アジョシは「はぁー、しょうがないな」という苦笑いをして、山の中に入って行きました。
え、えぇーー?おいおいおい、そこを登るのか〜! 予想外の事に突っ込みつつも、嬉しさを隠せない私(^^)ドキドキ、ワクワク・・・。 山道ですから舗装はおろか、幅20cmくらいしかないけもの道(爆)を必死に登っていきます。地面は湿っているので滑らないように気を付けて、とd(・・;)
急な山道を登りつめると緩やかな下りになり、パッと景色が開けた瞬間。私達の目の前に現れたのは!
まさに『シルミド』の撮影セットでした。いえ、シルミド特殊部隊の訓練場そのものでした。
しばし、言葉が出ませんでした。「わぁ・・・」感動で立ち尽くすって、初めての感覚かもしれません(ちょっと大げさか)。
そこにはスタッフと思しき若い男の人が2人。アジョシは顔見知りらしく、軽く挨拶をしてセットの中へ。
私達も「アンニョンハセヨ〜」と挨拶してそれに続きました。
一応、スタッフのお兄さんに撮影の許可を取って写真を撮りました。
でもでもっ。こんな時に限ってデジカメの操作がぁぁぁぁ!何故か動画モードになってる(苦笑)
ぬぉぉぉぉぉ!もういいや、写ルンですで撮っちゃえ!「ちゃんと撮れていますように」と祈りながらパチリ、パチリ。
真ん中がちょっとした広場のようになっていて、左右に迷彩色に塗られた木造の小屋が建っています。
右手は鉄条網が張り巡らされ‘接近禁止’と書かれた小屋を始め、その後ろにもいくつかの建物。
左手はおそらく生活の場かな?(暗くて中がよく見えませんでしたが、流しのような物があった気がしました)
地面には砂の入った袋を重ねてあったり、細部までよく作られています。
スタッフが3ヶ月かけて作った力作ですもんね。お見それしました<(_'_)>
その広場を降りていくと砂浜です。入り口には《ウリエ シンジョ》と書かれた板と髑髏を掲げた門(TOPページ参照)。
アジョシは「昔ここが爆破されたんだよ」(飽くまで推定)というジェスチャー。
そうなんですよね。セットではあるけれど、実際に事件が起きた場所でもあるんですよね。
今私達が見ているのんびりとした風景とほんの30年前に起きた事件が、どうしても結びつきませんでした。
元はどんな場所だったのでしょうか。そして撮影終了後はどうなるんでしょう。
この場所が人々から忘れられないことを望みます。
いきなりやってきて感動しまくる変な日本人を尻目に、お兄さん達はムイドへ引き上げ始めました。
時刻は14時過ぎ。そうだそうだ、早く帰らなきゃ。
帰りは下りなので、更に滑らないように注意。潮もさっきより更に満ちてきていました。
『スキャンダル』公式ホームページ
『ペ・ヨンジュン( Bae, Yong Joon )』公式サイト


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