「Kiss from a rose」







淡いベルベットローズに包まれた闇の空間。

細く透明な旋律が響く幻想空間の中、赤く輝く月が透けたカーテンから覗いていた。



零れる月光は儚げに揺れる陽炎のよう。



繊細なピアノと闇の風が奏でる調和音は、幻想世界のノスタルジー。

他には何もなく、誰もいない。

現世から切り離されたような、夢幻と悠久の狭間で、彼はメロディーを奏でている。





闇に溶け込むことのないノクターン。

赤月のファントム。





踊るように漆黒を滑るそれは、闇のヴェールを纏い――――消えた。

ぴたりと音が止み、静寂が瞬時訪れるその空間で、彼は先程の姿を探した。



淡い光がヴェールを揺らす。

引き寄せられるように光を覗けば、そこにはしっとりとした深紅の闇・・・















見上げるひとつのシルエット。





顔の見えないシェード。





















そして彼は、眼を覚ました――――

























たった一度。

ぴんと張り詰めた空気が肌を突き刺す真冬の夜に見た、たった一度だけの夢を、弥勒は忘れることが出来なかった。

夢などさほど気にも留めなかった自分だったが、どうしてかこのたった一度だけの夢は、心の奥深くに残っていて色褪せはしなかった。



不思議な夢だった。

赤い月の下の少女――――夢の中の少女。



シルエットに隠れ顔形は分からなかったが、それでも夢の中の少女は自分を惹き付けた。



ただの夢。そう言い切るのは容易いが、何故か胸が騒いでいた。

そう・・・これはただの夢じゃない。

これは、“予感”。



多少なりとも霊感能力の強い彼だからこそ確信できる。

漆黒のヴェールに包まれたあの少女と自分は、いつか出会うのだと。

遠くない未来できっと、“出逢う”のだと。

弥勒は確かに感じていた。

























それから数ヶ月後。

桜舞う風の中で、弥勒は夢の中の少女を“見つけた”のだ・・・――――

























緑が透き通る木漏れ日に、爽やかな風が流れる、眩しい午後。

ここ蒼城学園にも陽の光が踊るように差し込んでいた。



レンガ造りのプロムナード。

カフェテラスの中で弥勒は数枚のスコアを捲っていた。

名門校でありながらお祭り好きのこの学園では、ほぼ毎月といって良い程、何かしらのイベントがある。

彼は来月行われる演劇祭の曲選びに頭を悩ませていた。

通常の劇と違い、BGMを流すのだ。しかも選曲は自由。

劇のイメージに合うものであればクラシック、ロック、J-POPとジャンルは問わない。

これが頭を悩まずにいられるものか。

「音楽系クラスと分担するだけマシだが・・・しかし部長なんぞなるモンじゃありませんな」

はぁーっと溜息を吐いてしまうのも、致し方あるまい。



ぱさりとスコアを置き、頬杖をついてはコーヒーカップに手を伸ばす。

小さく波紋が揺れる褐色から濃香が鼻腔をくすぐり、肩の力がほうっと抜けた。



「ほえー。先パイ熱心ねー」

感心の色を帯びながら掛けられた台詞と両肩に重力を感じたのは、ほぼ同時だった。

声変わりの済んだ青年のその声は、男性にしてはやや高目で、どことなくあどけなさを感じさせる。

うんざりする程聞き慣れた声。どこか憎めない後輩。

「将斗クン・・・。常々言っているでしょう?突然前触れも無く抱きつくんじゃないと」

「抱きついてねぇじゃん。覗いてるだけっしょ?」

「この手と顎は何だ?」

「んー。愛嬌?」

肩に手を置き弥勒の左肩にちょこんと顎を乗せたまま、この憎めない後輩――――将斗はへにゃっと笑った。



「それよりさー。ソレって次のイベントのやつっしょ?」

弥勒の肩におぶさったまま右手を伸ばしてスコアを指差す。

まったくコーヒーを飲んでいる途中だというのに、こっちの都合はさっぱり無視で重心をかけてくるのだ、このマイペース男は。

「これ。零れるでしょう」

「置けばいーじゃん」

「お前が退けばいいんですよ」

ぴくりと青筋が浮かんだのが見えたのか、将斗はしぶしぶ解放し、隣の椅子に腰を下ろす。

選曲悩みで疲れているのかストレスなのか、今日の弥勒は少々ご機嫌ナナメのようだ。



「先パイ、お疲れー?」

「思いっ切りね。進学校のくせに授業よりもイベントの方が多いなんて、どんなガッコなんでしょうね」

「にゃはは。会長あー見えてお祭り好きのイタズラ好きだからなぁ♪」

けらけらと愉快そうに笑う将斗に、再び溜息が出た。

お祭り好きは兎も角、悪戯好きってなんだ?



「お上品な外見からは想像出来ませんがね。ま、そのギャップがまた魅力なんですが」

「だぁねー♪底知れないねー。あ、ギャップと言えばさ」

「ん?」

「意外なギャップあるコが先パイんとこに入ったね?」

テーブルの上に置かれたスコアを手に持ちながら、将斗は続ける。

細く長い指がパラパラとスコアを捲った。

「珊瑚ちゃん。あのコ可愛い顔して空手道場の娘だって?本人もかなりの腕前らしいじゃん」

「ほぉ。流石情報通だな」

「空手部の奴ら、俺ンとこに縋りにきたもん。スカウトしてくれって」

片足を椅子の上にかけてスコアをピンっと爪弾く。

生徒会副会長という立場から考慮すればとても行儀の良い格好とは言えないが、この男にそんな了見が通じる筈もないので、黙認する。



黙ってコーヒーを啜る弥勒に、将斗はじっと視線を寄越した。

スコアを置き頬杖をついては自分を見る将斗に、目線だけで「何だ?」と問うと、彼はにぱっと楽しそうに笑った。

本当に楽しそうに――――悪戯っこの眼差しで。



「先パイ、お疲れモードだけど楽しそうじゃん?けっこーマジ?」

くりくりと大きな瞳が好奇心旺盛に向けられる。

脈絡のない問いかけだが、何を示しているかは一目瞭然で、弥勒はつい苦笑してしまった。

「はて。何のことでしょう」

「ちっちっち。おトボケは通用しないよーん。つーかバレバレだし。カンのいー女子なんか、影で珊瑚ちゃんのコト睨んでるみたいだし」

「はぁー。女子は怖いですなぁ」

「女のコたちの嫌味にも全く動じない珊瑚ちゃんも、充分コワい存在だけどねん」

「純真無垢なんでしょうが、ある意味最強ですね」



話題に上る少女の顔が、その時二人の脳裏に浮かんだ。

今時にしては珍しいかもしれない漆黒の髪と勝気な黒瞳が印象的な一年生――――珊瑚。

幼少の頃かじった程度だと言っていたピアノの腕前は、確かにその程度だった。

だけど音は本人の本質を反映する鏡と同じだ。

技術的には今ひとつだが、彼女の音色は優しくあたたかく、他人を包み込むような慈しみがあった。

あんなに素直な音が出せる人間も珍しいと、感嘆したのを今でも覚えている。





うららかな陽射しと風が弥勒たちの横をすり抜けていく。

紫黒がかった前髪をさらりと掻き上げ、弥勒はプロムナードに視線を向けた。

視界の隅に映る噴水は清らかな水飛沫を跳ね上げていて、いつかのワンシーンを思い出させるようだ。



眼を細めて余所を向く弥勒の耳に、トントンと小刻みの音が聞こえ、視線を戻してみた。

すると頬杖をついたまま人差し指でテーブルを叩く将斗が、にやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。

「へっへ〜♪先パイ、今すっげー色っぽい顔してんぜ。何思い出してたん?」

「色っぽいって・・・気色の悪い表現をするんじゃありませんよ」

男にそんなこと言われてもなぁ、と本気で溜息をつく。

「いーじゃん♪だって俺初めて見たもん。先パイのンな表情」

揶揄る響きの中に喜悦を含ませて、彼は笑う。



性格こそ相反するが性質は似通っている彼らだから。

弥勒の“変化”が嬉しくて、彼は笑う。



相変わらず頬杖をついたままにこにこ顔の将斗に、やがて弥勒も小さく口許を綻ばせた。

こんな陽気だ。たまには自己陶酔するのも良いだろう。

「分かりましたよ。気分です、ノッてあげましょう。二度と言いませんからね」

「おうよ、上等。んで、何を聞かせてくれンの?ホレた理由?」

「それが聞きたいのか?いいでしょう」

心して聞くように、と。



ピンと人差し指を立てて口許を上げる弥勒は、どうやら不機嫌さが失せたようで。

優雅に足を組みかえた後、ゆっくりと口を開いた。















珊瑚と初めて会ったのは、入学式よりも前のことだった。

レセプション用の曲を練習する為と口実を打ち、ピアノ室を開放してもらったが、ただ単に退屈凌ぎと気分転換がしたかったのだ。



勉強する気も遊ぶ気にもなれず、だけど何か晴れ晴れとしない気分を持て余していた。

だったら曲を奏でていた方が無心になれる。本当にただの気分転換だった。



穏やかな風がカーテンを揺らし、不思議な感覚が全身に染み込んでくる。

静かな旋律と春の陽気、まるで夢見心地のような、うららかな午後。

悪戯な風がバサリとスコアを捲り落とすまで、弥勒は無心でピアノを弾いていた。

いや、無心というのは間違いだろうか。

だって、彼は無意識のうちにあの“夢”のことを考えていたのだから。

夢と現実が同調する、曖昧空間の中を、トリップしていたのだから。



鍵盤の上を優雅に踊っていた指が、宙でぴたりと止まる。

意識が戻っても身体は気だるいまま、彼は長い息を吐いた。

「・・・何と言うか・・・私らしくありませんな」

泰然自若が専売特許の自分が、こうも一心不乱に鍵盤を叩き弾いているとは、ある意味滑稽だった。

何故、こんなにも心急いでいるのか。

何故、こんなにも焦っているのか。

自分の感情なのに、何一つ解らない。



椅子の背凭れに脱力し、溜息とともに天井を仰いだ。

だらりと両腕が垂れ下がり、弥勒は瞳を閉じる。

「・・・受験、進路、将来・・・そんなところですかねぇ」

廻る季節の先々に置かれた自分の立場に、振り回されるほど柔ではないつもりだったが、それが原因なのだろうか?――――解らない。



閉じた瞼の裏に、光がちらつく。

ゆっくり瞼を開けると、視界の隅に、風に棚引くようなカーテンが見えた。

気だるく上体を起こし、床に散らばったスコアを拾うと、弥勒はかたりと椅子を引き立ち上がる。

窓の外には清々しい青空が広がっていて、小鳥の囀りが微かに耳を擽った。

本当に穏やかな陽気だ。

弥勒はスコアを鍵盤の上に置くと、空の蒼に誘われるがまま、窓際に寄った。

真っ青のキャンバスに桜の花びらが数枚舞い上がり、数センチ開けた窓から、穏やかな風がそよいできた。















窓枠に片手をついて寄りかかり、何気に下方を見下ろした、その時だった。















桜舞う風の中、水の光が乱反射する景色の中で















彼は、見つけた















夢の中の少女を・・・

























――――――……‥




















「ふうん。その夢って去年のクリスマスん時に言ってた夢っしょ?じゃあ予知夢だったんだ」

「と、言うのですかね」

「それが好きンなった理由?」

「いえいえ。それはきっかけに過ぎませんよ」

いくら不思議な夢だったからと言っても、所詮は夢。魅かれるまでには至らない。

「だろうねぇ。大体、外見だけでホレるっちゅー訳じゃなさそうだしぃ?

それだったら今までにもいっぱいいたっしょ?」

「外見だけでしたらね」

含みのある笑みを口許に刷き、弥勒はふっと瞳を閉じた。

自惚れでも何でもなく、自分の周りには美人と呼ばれる女性は沢山いた。

好意も持たれた。

だけど、それだけでは駄目だった。

上辺だけ着飾った女性に、欲は感じてもそれ以上の魅力は感じられなかったのだ。

外見だけじゃない。

夢だけじゃない。

真に彼女を欲したのは。



清らかな噴水の水が、陽を浴びて白く輝いている。

ゆっくりと瞼を上げる弥勒の双眸に、飛沫の粒たちは眩しいばかりの光を放っていた。

弧を描く、透明のしずく。

流れて落ちる、清流の水沫。





そう、あれは桜雨に濡れた放課後・・・

立ち寄った本屋で雨宿りがてら参考書を探してた時だった・・・。





















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