名もなき風景の中で
第10号 沖縄と「向こう岸」、そして私
――「復帰」30年と終わらない廃墟の記憶――No.3
2.沖縄を問うことの射程について――沖縄と想像の共同体――
(1)1970年の大江健三郎と2002年の私
大江健三郎は1969年の文章において、次のように述べてい
る。
(引用ここから)
一九六九年一月九日未明、ついに三十八歳の生涯を終えるにいた
るまで、古堅[宗憲――大野]さんがただそれにみに熱中した沖
縄返還運動の現場での活動のいちいちについては、まことに数多
くの証言をみちびくことができる。(…)したがって、僕はひと
つだけ沖縄返還運動の現場での、古堅さんの仕事についての証拠
物件を提出するにとどめて充分であろう。それは沖縄現地にむか
って、日本国憲法を印刷した文書を大量に送りこむ努力を、熱情
をこめておこなったのが古堅さんであったという事実である。今
日、憲法にまもられぬ沖縄に、武器として憲法を政治的想像力の
根底にすえる態度が広くしみわたっている現実を考えれば、[古
堅さんの意志が――大野]なお生きつづけていたことを誰が認め
ないでいることができよう?(大江、1970: 10-11)
(引用ここまで)
1970年代、60年代は沖縄で本土復帰闘争が行われた。憲
法――国民主権、平和主義、基本的人権の尊重、天皇制の存続と
象徴化――によって象徴されるまだ見ぬ<日本>への思い。本土
から大江健三郎のような日本人は沖縄を眺め、日本人を眺める。
沖縄県の施政権返還=「本土復帰」30年を迎えた年に、私が
大江健三郎の当時の文章を読むとき、たくさんの問いが生まれる。
私にとって大江健三郎の文章は近くて遠い。
たくさんの問い。沖縄を思う大江とは、いかなる位置からもの
を書いているのか? 憲法によって象徴される本土への「復帰」の
願望とは何を記憶し忘却したのか?復帰運動と冷戦の真っ直中で
進行したであろう記憶の組み替えと忘却は日本・沖縄・アメリカ
・東アジアのその後にどのような作用をもたらし、現在へと続い
ているのか?「沖縄からの拒絶の声」(大江、1970: 14)を感じ
ながらも、沖縄を通じて憲法を語る大江(や私)は、戦後の日本
国憲法がどこかで支えてきたアジア地域の終わらない植民地主
義と戦争責任への問いの忘却を問題化できるのか?そのような
日本と沖縄の関係を、冷戦構造やアメリカの存在とともにどの
ように考えることができるのか? そして、沖縄を含めた世界中
の脱植民地化の試みはこれらの問いとどのような関係を持ちうる
のか?
沖縄に憲法という夢を託すことは、ある意味で植民地主義的眼
差しでもある。それは、「沖縄の人々を解放するのは私たちの理
念である憲法だ」という「沖縄人を日本人に強いる」ような暴力
でもあるからだ。そこでは、沖縄への片思いと、沖縄からの片思
いが、暴力的に絡み合い、何かに沈黙し、「本土復帰」以外の可
能性の芽を摘んでしまったのではなかったのか。沖縄を日本人と
して考える、という多くの人間が取った問いかけを少し迂回しな
がら考えてみよう。
(2)「本土復帰」闘争の批判的再検討
現在、「<沖縄の子ら>はどのように日本人になった/された
か」という問いが(沖縄で)設定されている(『EDGE』
No. 12、2001)。
(引用ここから)
友利[雅人――大野]がここに書き込んだのは、「沖縄を骨がら
みにとらえ、地獄にひきずりこんでいった先験的な思想」とそれ
に弄ばされたアドレセンスの態様であった。そのために、敗戦後
に生まれた沖縄の戦後世代の体験の内部に光をあて、<沖縄の子
ら>を<沖縄の子ら>たらしめた<沖縄の先生たち>の戦後責任
を鋭く問い返すことであった。ここでの<沖縄の子ら>とは、「
先験的な思想」によって過剰なまでに日本人意識=国民意識を注
入された身体性だと、ひとまずはいうことができる。<植民地的
な身体性>、そう言い換えても間違いではない(リー、2001: 19)。
(引用ここまで)
50年代、60年代の沖縄では、国民教育と標準語の励行とい
う情熱に満ちていた。それは、沖縄の先生たちを先生たらしめる
情熱であり、沖縄の子らを「想像の共同体としての日本(人)」
へと帰一させていく欲望でもあった(リー、2001: 19)。沖縄に
おける50年代、60年代のこのような状況をなぜ、どのように
問題化する必要があるのか。
問いの理由は、帰るべき場所「日本」への「復帰」が達成され
た後も、無くなると考えられていた軍事基地が引き続き押しつけ
られ、しかも軍事基地の集中を自ら受け入れてしまう(かに見え
る)沖縄をも再生産され続けているからである。この現実を招い
てしまったのは、沖縄の先生たちにも責任があるのではないか、
という問いなのである。
ゆえに沖縄の先生たちの戦後責任を問うことは、第一に、「本
土復帰」を日本という国民国家への@帰一・回帰の欲望の現れ、
A植民地主義的関係の内面化の現れとして捉え、その後の沖縄の
現実との関係を問うことである。
例えば「本土復帰」闘争は東アジアにおける冷戦構造とどのよ
うな関係があるのだろうか。冷戦中の「沖縄の先生たち」の本土
復帰闘争は、沖縄を含めた植民地主義の経験と終わらない植民地
主義――ポストコロニアルな現在――を一時的に忘却することに
よって成り立ち得たのではないか。なぜならば、日本を戻るべき
母なる土地として、再規定することによって、戦前・戦中の想像
の共同体・日本(人)を批判的に問うことを難しくさせたように
思うからだ。近年の研究によって、天皇制の存続と天皇の戦争責
任を不問にした歴史的事実が、実は日米合作の営みであったこと
が解明されている。そして沖縄の軍事基地の東アジアにおける役
割は、朝鮮戦争やベトナム戦争を通して、東アジアへも向けられ
ていることを明らかにする。であるならば、「本土復帰」闘争は
日本の過去の植民地主義を不問にしつつ、沖縄が「日本国民」と
して参戦していたということも忘却することによって、逆説的に
も沖縄が再度植民地主義的関係性へと自己規律化していく営みで
あったのではないだろうか。冷戦という関係性によって解毒・忘
却されてしまった、アジアにおける植民地主義の経験――植民地
主義的経験の内面化と自己規律――を沖縄とともに再検証するこ
とにまで射程は広がってくる。
第二に、沖縄の先生の戦後責任を問うことは、「本土復帰」運
動中に率直にあったであろう「本土復帰」や国民教育への拒否反
応や揺れ、とまどいこそを再度検討し、そこにあった可能性を拾
い上げる試みを誘う。リーは次のように続ける。
(引用ここから)
だが、ほんとうは彼/彼女の現実意識で触発される[「わたした
ちは、どこの国のひとでしょう」と問われた少年・少女が感じ
る身体化された表出としての――大野]波立ちや揺れのなかに
こそ未成の言語を発明すべきだったのだ。境界の少年の一人だ
った友利が「戦後世代の現実体験の基層は、さまざまな個性に
よって、深くそしてくり返し追求されるべきだとかんがえる。
その基層は戦後世代の思想にとって未発の可能性をもつ鉱脈と
して存在している」として、続けて「沖縄を骨がらみにとらえ、
地獄にひきずりこんでいった先験的な思想をこえる」倫理を書
き込もうとしたことは避けられない選択だったのだ(リー、
2001: 22)。
(引用ここまで)
とまどいとともにあった「未成の言語」や「未発の可能性をも
つ鉱脈」とは一体どのようなものなのだろうか。
そして最後に、沖縄の先生たちの欲望への批判的考察は、沖縄
イニシアチブ論などに顕著な、「軍事を交換価値の一つとしてみ
なす、驚くべき荒廃への荷担の論理」=想像の共同体への新たな
同化への動き、という現在的な事象の批判へとつながっていく
(リー、2001: 24)。冷戦が沈黙を強いた日本の戦争責任という
「過去」を表に出すことと、「本土復帰」後も軍事基地に苦しむ
沖縄とを、どこかで通底させることが現在行われる必要がある。
現在の沖縄への批判は、沖縄戦後の「廃墟」の風景へと戻り、そ
こにあった問いや可能性を今・ここにおいて再考することだろう。
復帰闘争と国民教育を沖縄の戦後責任として捉え直すラディカ
ルな試み。この試みは、時間軸として50年代、60年代と戦前
・戦中、そして現在とを、空間軸として東アジア、日本、アメリ
カ、「向こう岸」とを横断的に接続しつつ、「想像の共同体<日
本>」との関係に規定されながら再生産される沖縄を批判的に捉
えていく作業に他ならない。終わらない植民地主義的関係性と戦
後日本の関係の批判的再検証というテーマが、「本土復帰」30
年目の現在において重みを増している。
2002年7月21日