名もなき風景の中で
第3号 名護市長選挙が問うもの(前編)
1.2002年、名護市民の声
2月3日、米軍普天間基地の「移設」をめぐって揺れる沖縄県北部・
名護市で市長選挙が行われた。即日開票の結果、名護市辺野古沖
への代替基地建設を推進する現職の岸本建男氏(自民・公明推薦)
が、基地建設に反対する宮城康博氏(社大・共産・社民推薦)及び
世界経済共同体代表・又吉光雄氏に9200票差という予想を大きく上
回る差で当選した。
この結果をどのように受け止めることができるのだろうか。
現在も在日米軍用施設の約75%が国土面積0.6%の沖縄の島々に
集中している。米軍人・軍属による強盗、騒音、レイプ、傷害事件、
環境汚染など基地があるがゆえの被害はこれまでずっと続いてき
た。1995年9月に起こった米兵3名による少女レイプ事件以降、米軍
基地をめぐる様々な問題群が再びクローズアップされ、沖縄内外の
人々を巻き込んだ基地の縮小・撤去を求める大きな運動が生まれた。
今回の名護市長選の焦点の一つ、普天間基地の代替基地建設をめ
ぐる問題が浮上したのは、1996年に日米両政府が普天間基地全面返
還を合意してからである。合意が県内移設を条件としていたためで
ある。
1997年12月、名護市辺野古沖への移設が検討される中行われた、
名護市「海上ヘリポート基地建設の是非を問う住民投票」では、
52.85%の投票者が反対及び条件付き反対を主張した。しかし、比
嘉市長(当時)は住民投票の結果を無視し受入を表明するとともに
辞任。その後、代替基地の使用期限を15年とすること、施設(空港)
の軍民共用化などを条件に、名護市への「移設」を推進する岸本市
長と稲嶺県知事が選ばれた。そして、1999年12月、岸本市長は普天
間基地の移設先として「キャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿
岸域」への受け入れを表明するに至った。
今回の名護市長選挙は代替基地建設を改めて問う選挙であった。
「本土復帰」30年を迎える年の名護市民の決断は新たな基地を受け
入れるということであった。なぜ名護市民は基地建設を推進する岸
本氏を選んだのか。そして、基地建設反対のために何が足りなかっ
たのか。私が名護市長選挙を前後して参加した沖縄一坪反戦地主会・
関東ブロック主催の2つの集会の模様を交えながら考えてみたい。
2.基地誘致と生活・経済のリンク
名護市長選直後の2月16日、東京・浜松町海員会館において代替
基地建設反対運動の中心団体・ヘリ基地反対協議会の代表委員・安
次富浩氏による講演会が開かれた。安次氏の表情からは疲労と敗北
のショックが色濃く感じられ、会場全体にも重たい空気がひろがっ
ていたように思う。
「前回の市長選1150票差をはるかに越える9000票余りの差の重み
は、私の脳裏にズシンと突き刺さり、正直いってこの報告(原稿)
を作成することがとても苦しい」とその痛々しい心境を、レジュメ
の冒頭でつづっている(安次、2002)。
代替基地建設反対派がサポートした宮城氏の敗退の原因は何だっ
たのか。安次氏の分析は次のようなものである。第一に候補者の選
定が遅れたことである。ヘリ基地反対協議会元代表の宮城康博氏に
決定したのは12月31日であり、選挙までの準備期間があまりにも短
かった。選定が遅れたのは「この4カ年間、政府、沖縄県及び名護
市の三位一体による(中略)『基地と振興策のリンク』の既成事実
化が進み、この動きに対抗できる有力な方策が見出させずにいた」
ためであるという(安次、2002)。第二の敗因は「長期不況と失業
者の増加、就職難という社会状況を繁栄して、やむを得ず振興策に
期待する市民が増えていること」である(安次、2002)。現職の岸
本氏は基地受け入れ表明とともに政府から引き出した北部振興策や
金融特別区などの構想を提示し、雇用の機会を広げることを訴えた。
岸本市政4年間で公民館の改築など目に見える変化が、生活レベル
で市民の心をつかんでいたことも背景にある。最後に、上記のよう
な「政府が打ち出してくる巨大基地建設案に対して、市民の心の琴
線に触れるような闘いを提示できていないこと」を上げた(安次、
2002)。
「市民は代表者をトータルな観点で選んだのであり、決して新た
な基地の建設を容認したものではない」と宮城氏は語った(『琉球
新報』、2002)。このコメントは「トータルな観点で」基地建設に
反対できなかったことを示唆している。日本政府・沖縄県・名護市
が三位一体となって戦略的にアピールする基地建設とリンクした振
興策に対し、基地建設反対派は市民一人一人の心の「琴線に触れる」
批判と対案を提示できなかった。基地を誘致し経済を立て直すの
か、それとも生活は苦しいままでも基地に反対するのかーー「基地
反対か、生活か」という予め用意され、再生産される論理を乗り越
えることができなかった。くり返し日本政府が落とす巨額の補助金・
振興資金が人々の生活や意識のレベルにまで浸透してきていること
がその土台を作っていると言わざるを得ない。
3.「停滞と沈黙」の中で
安次氏の講演の1ヶ月ほど前の1月19日、東京・大崎・南部労政会
館で「現地・名護から 基地にたよらず命の自立を!」と題された
講演会・集会が開かれた。講演者の輿石正氏は名護高等予備校の先
生やエコネット・美(ちゅら)のメンバーとして、そして商人(自
称)として名護市に生活しながら、代替基地建設をめぐる名護市民
運動にはじめから関わってきた。講演の詳しい内容については他の
文章にゆずり(近々「名もなき風景の中で」ホームページにアップ
予定)、ここでは輿石氏の講演内容と安次氏の講演の重なり合う部
分と、名護での新たな取り組みとしての「わったー市長を選ぼう会」
の意義について考えてみたい。
輿石氏は基地に反対するための、知識や情報を蓄積していくこと
の重要性を強調した。沖縄の市民運動は大きな事件を渡り歩かざる
をえなかったがゆえに、事件と政府への対応に追われ本土が好む活
字・声しか作ってこれなかったのではないか、というのだ。そのた
め基地建設推進派の論理・政策を打ち破るための知識・情報を蓄積
することができず、運動は疲弊してしまったのだという。もともと
血縁関係などが色濃く影響力を持つ名護市では、運動の盛衰ととも
に親戚・友人などと声をかわせなくなるほどのぎくしゃくした空気
が漂うようになった。そのような沖縄や名護を「停滞と沈黙」とい
う印象的な言葉で表している(輿石、2001)。
【グローバリゼーションという名の米国一極支配の顕在化というこ
とで幕をあけた二一世紀、この期に生きる人間として、しかも沖縄
で生きている人間として、「名護の記憶」はくり返しくり返し記録
されることになるだろう。その記憶には、運動の高揚期の記憶と同
時に、停滞と沈黙の記憶も書き加えられなくてはならない。「停滞
と沈黙の記憶」が語られないのは貧しい。太字で記された出来事と
して歴史を見る見方に慣れてしまうわけにはいかない。太字の歴史
は、どこかに権力の臭いがついてまわる。市長を変えればいい、も
その一つだ。名護の市民運動の停滞と沈黙をその種のもので決着さ
せてはならない(輿石、2001)。】
安次氏と共通する認識は、事件への対応に追われたということだ。
そして、現在の名護の「停滞と沈黙」は、「市民の心の琴線に触れ
るような」具体的な政策を提示することの困難さへと結びついてい
る。今回の市長選挙の投票率が過去最低の77%であったことにも
「停滞と沈黙」は表れているだろう。「停滞と沈黙」の中、一人一
人の小さな声、太字にならない出来事・記憶に寄り添う知識・情報
の蓄積と対案の構築はどうしたら可能なのか。
「辺野古沖基地建設ノー」の根拠は何であったのか、その自明と
されてきた問いを何度も何度もきたえ直し、そこからどれだけ新し
い<発見>をしていくか、その身震いするような深いため息に出会
うこと(輿石、2001)。
輿石氏がこのように問う背景には、自身が積極的に関わってこら
れた「わったー市長を選ぼう会」の取り組みがある。
(続く)
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「名護市長選挙が問うもの」(後編)は3月27日(水)
に発信の予定です
著者:大野光明、「名もなき風景の中で」編集者
著者プロフィール:
「名もなき風景の中で」発起人、編集者。
1979年千葉生まれ。現在、団体職員。
2002年3月23日