名もなき風景の中で
第6号 くるり『THE WORLD IS MINE』によせて
−−可能性の地平としての、僕たちの今・ここ−−
くるりの4枚目のアルバム『THE WORLD IS MINE』がリリースさ
れた。このアルバムを聴き、全方位・全風景を取り込みながら感じ
たとき、感傷的で、しかし前向きな<旅>のようにいくつもの時と
場所へ誘われた。ある時は、時の流れを飛び越えて、子供の頃の遊
びの場面へと舞い戻ったり、ある時は映画『ディスタンス』に出て
くるような湖の上をボートで漕ぎ、心の深い深い場所へ眠るように
潜り込んでいく…。そのような様々な風景へ誘われるのは、くるり
がこのアルバムで、最初に奏でた一音から無意識に生まれ出た物語
をそのまま音にしたような、初期衝動に導かれた作品をじっくりと
作ったからなのだと思う。僕はその音楽に引き込まれ、旅をする。
"The world is mine!" この言葉に込められた意味を考えながら、
摩訶不思議な「世界」への/からの<旅>として、この文章を綴り
たい。
◇「世界の遠さ」という感覚
僕がくるりと出会ったのは、大学1回生の頃だったと思う。くる
りのメンバーが通っている大学に通っていた僕は、高校の頃はじめ
たバンドで、スピッツやサニーデイサービスのカバーをやったり、
自分で曲を作ったりもしていた。その時、僕の友人が「くるりええ
でー」と語ってくれたのだ。「どういう感じなん?」と尋ねると
「う〜ん」と唸る。「フォークロックとかそんな感じ?」とさらに
聴くと「なんか、こう激しいギターロックもあれば、くねくねした
感じのもあるし・・よう分からん」というような答えが返ってきて、
僕はよく分からなかった。結局、くるりの音源にはしばらく触れる
ことはなかった。
最初に聴いたのは偶然のような出来事だった。ある日、家で聴い
ていたラジオから、イントロからして「これは絶対良い曲や」と感
じ入ってしまう曲が流れた。ギターがザクッザクッと切ない感じで
入ってきて、それに重く深いドラムとベースが重なり合う。そして
沈み込んだつぶやきのような声が言う「東京の街に出てきました…」。
聞き入った後にDJは言った。「京都出身のくるり・メジャーデビ
ューシングル『東京』でした」と。僕がくるりを好きになったのは
それからだった。
あれから随分時間が経って、『THE WORLD IS MINE』がリリース
されたとき、僕は東京の街に出て、「社会人」になって一年を過ご
そうとしている。僕はODA(政府開発援助)に関わる団体で仕事を
しているが、この一年、ODA事業の末端から眺めたとき、世界や社
会への援助とは一体何のためにあるのだろうか、と問うようになっ
た。その問いは、不況であるからODAを削減するべきだとか、ODAの
効果的な実施のための改革が必要だ、といった政策に関する議論や
問いとは別の次元にある。それは、僕の仕事が間接的であれ接して
いる「世界」なるものがどこにあるのか実感として沸かないという
ことだった。「貧しさ」や「豊かさ」、「人作り」や「発展」とい
ったODAを支えている概念そのものの意味や内容が身体的・感覚的
にうまく飲み込めないということ。仕事やメディアを通して流され
る言葉が、まったくの他者の言葉のようにうまく飲み込めない、身
体的感覚が生まれない、そのような(大きいというよりは)とても
微妙で小さい齟齬が確かにある。
そして昨年9月11日に起きた米国同時多発テロ事件とその後展
開されている世界各地での「対テロ戦争」や地域紛争。自らの正統
性を掲げて、武力攻撃を信じ続け、憎しみが憎しみを運ぶスパイラ
ル。なぜアフガニスタンに空爆しなければいけないのか。なぜテロ
事件が多発しているのか。なぜ「パレスチナ人」は己の命を犠牲に
してまでもテロを起こそうとするのか。それらの問いを噛みしめる
間もなく、「世界」が語られ、「イスラム」なるものが語られ、
「平和」が語られる。僕は垂れ流される情報に染められていくよう
な不安に襲われる。「世界は変わった」だって?「世界」って何な
の?その「世界」っていうのは今、ここにあるの…?
言い換えるなら、大きなスローガン=物語(「世界のため」、
「平和のため」、「未来のため」など)を実感できないということ
なのかもしれない。これは「世界の遠さ」と呼べるような感覚だと
思う。僕が感じられる「世界」とメディアや本で語られる「世界」
との微妙で、巨大な齟齬。
ここ数年で、僕が感じ、大切な友人たちと話す中で確認できたの
は「世界の遠さ」だけではなかった。実は世界はもっともっと複雑
なのではないか、という疑問と不安でもあった。「平和」や「世界」
を語ること、大きな物語やスローガン、それらが漠然と遠くにあり、
だからこそ、より小さな物語、路上の言葉やつぶやきを出発点とし
ながら複雑な問題を出来る限り複雑なまま捉えることが必要なのだ
という思い。
この「世界の遠さ」と「世界の複雑さ」のまっただ中で、どのよ
うに働きかけ、ある「現実的な」問題を解決していくことができる
のだろう?大学を卒業して一年経った今、僕はそのようなことを考
えたりする。そして、僕はくるりを好きでいたし、『THE WORLD IS
MINE』からも様々なインスピレーションを得ている。
◇揺れるアイデンティティ、終わりなき旅
『THE WORLD IS MINE』は「世界の遠さ」をしっかりと汲み取りな
がら、自らの場所から考えられること、働きかけることを音に乗せ
ながら主張し、静かで美しい抵抗のきっかけを作り出そうとしてい
ると思う。くるりは「世界の遠さ」を内から破るように"The world
is mine!"と歌い、そのことの意味や希望を届けてくれている。
【知らん間にこの世界すら君のものじゃなくなってた
そんな顔しなさんな
旅はこれから これから
旅はこれから これから
――――「アマデウス」(くるり、2002a)】
この「世界すら君のものじゃなくなってた」という感覚について、
例えば、メンバーの岸田繁はインタビューの中でこのように語っ
ている。
【やっぱり、世の中が、自分達、個人個人が思っているよりも、ホ
ンマは難しい回転の仕方をしているーーーそれに気付き始めてきた
、そういうことだと思うんですよね。(…)で、すべてを正当化出
来る、あるいは自分のものにして突き進みたいという強さは自分に
はあるんですけども、何も見ずにぶった切ってた以前よりは、『そ
れが可能なんかどうなんか?』っていう不安だったりとか。そうい
うことが、曲作りとか、アルバム作りに繋がってきているんじゃな
いかな。『知らん間にこの世界すら君のものじゃなくなってた』
っていうのは、多分、そういうことを言いたい。(くるり、2002b)】
自分が思っているよりも「難しい回転の仕方をしている」世界に対
して何らかの働きかけを行うその時-場所に、とても移ろいやすい
流動的なアイデンティティの表れとして、僕-たちはいる。「本当
の自分」や「自分なるもの」を認識できるために必要な様々な関係
(=世界)自体が、固定的でなく常に動き続けていることに僕たち
は気付くからだ。『THE WORLD IS MINE』の中で度々歌われる「旅
」という言葉には、流動的な世界と自己の捉えようのない関係が、
また、その可能性が含まれている。
【1.2.3.でチルアウト 夜を越え僕ら旅に出る
ドゥルスタンタンスパンパン
僕ビートマシン
ライブステージは世界の何処だって
ラフラフ&ダンスミュージック 僕らいつも考えて忘れて
どこまでもゆける
――――「WORLD'S END SUPERNOVA」(くるり、2002a)】
アイデンティティは、寄せては返す波の中に生まれる波頭に例え
て語ることができる(細見、1999)。波頭は水と風(空気)という
他者を絶えず取り込んで、そのせめぎ合いの一瞬に生まれてくる。
細見和之は波頭の在り様=生まれ様をアイデンティティと重ね合わ
せ、アイデンティティを、絶えず続く自己と他者のせめぎ合いの中
で、一瞬生まれては移ろいゆくもの=自己と他者の境界そのものと
して考える(細見、1999: iii-vi)。
『THE WORLD IS MINE』に強く感じられるのは、波頭のようなアイ
デンティティである。たくさんの他者の言葉――それは「世界」そ
のものかもしれないーーを貪欲に吸い込みながら、「ミクスチャー」
させ、「妖怪変化」をくり返し、「常に変わってく百鬼夜行」を突
き進む(「GO BACK TO CHINA」)(くるり、2002a)。一瞬生まれ
たたくさんの問いや、解決策と思えたアイデアは、やけっぱちな感
じで忘れられてしまっているようにも見える。けれど、永遠に続く
ものなんかないかのように、くるりは考えることと忘れることの間
でもがいている。「世界の遠さ」と、変化し続ける目の前の風景を、
一瞬の個人としてしっかりと捉えるからこそ、僕たちはくるりの音
楽の中に<旅>を見出す。与えられた「世界」や、飼い慣らされる
ために生産される「主体」や「世界なるもの」に対して、絶えず抗っ
て、目の前の風景の中で常に揺り戻されながらも変化し続ける。
だから、くるりの音楽は、他者と自己の境界線=波頭で、身体的
に「世界」を自分のものとして咀嚼し、その営みを世界を書き換え
るエナジーへと向かわせていくような、僕たちにも可能な<旅>=
抵抗を表現する。彼らの奏でる音楽は、「今・ここ」という生まれ
たての一瞬に、生まれたての自己を擦りつけて"The world is mine!"
と口ずさみながら進んでいく、一瞬の<旅>なのだと思う。個人そ
れぞれの「今・ここ」からつぶやきでも、言葉にならないダンスと
いう身体表現でも、オールを漕ぐ音を通してでも、「世界」を捉え
直す表現を始めようと言う。そして、それ自体が「世界の遠さ」を
内破させる可能性を作り出していく。
くるりは「世界」や「本当の僕」、「本当のあなた」、「本当の
幸せ」を知りたいと思いながら、その答えが実はあってないような
ものであることに気付いている。だからこそ、終わりのない問いと
ともに「どこまでもゆける」、とくるりは僕たちに手をさしのべる。
そう、僕らのライブ=ライフステージは世界の何処にだってあるの
だ、と。
◇世界の果て=地平
「WORLD'S END SUPERNOVA」という曲はアルバムに先行してリリー
スされたシングル曲だった。
"World's end"―――"end"という言葉には「終わり」という意味
だけでなく、「末端」や「先端」、そして「果て」という意味があ
る。くるりは、現在の「世界の遠さ」に対して、「終わり」や「果
て」といったイメージを持たせている。もしも「世界の果て」を
「地平」として読み替えたとき、ある詩人の次のような言葉は、く
るりの音楽を聴く僕たちの視座を大きく広げてくれるのではないだ
ろうか。
【行きつけないところに 地平があるのではない。
おまえの立っている その地点が地平だ。
―――金時鐘『地平線』より(細見、1999)】
「世界の果て」は、個人個人の一瞬の「今・ここ」こそをライブ=
ライフステージとして捉え直したとき、果てのない(without end
)「世界」へと生まれ変わるだろう。『THE WORLD IS MINE』――
―ともすればセンチメンタルで楽観的に感じられる言葉を添えた一
枚のアルバムを、僕たちは<旅>の最中に聴く。進んだり戻ったり
留まったりしながらも<旅>を続けていくことに対して、不思議な
危うさと可能性を見出しながら。
◇参考資料
・くるり.『THE WORLD IS MINE』(VICL-60854) Victor Entertainm
ent, Inc. 2002a.
・くるり.インタビュアー:Tanaka, Soichi.『snoozer』(2002年4
月号)Little More. 2002b.
・杉田敦.『権力』岩波書店.2000.
・細見和之.『アイデンティティス/他者性』岩波書店.1999.
◇参考ウェブサイト
・くるりon web (http://quruli.d4k.net/)
・ビクタースピードスター(http://www.jvcmusic.co.jp/speedstar/)
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著者:大野光明、「名もなき風景の中で」発起人、編集者
著者プロフィール:
「名もなき風景の中で」発起人、編集者。
1979年千葉生まれ。現在、団体職員。
2002年4月21日