文緒さま 御中


禁断の放課後

「大河、そこ、間違ってるよ」
「え?」

指摘されてノートの数式を見直すと、確かに計算違いをしている箇所があった。どうも答えが合わないと思っていたところだったのだ。

「あっ、本当だ。ありがとうございます、昴さん」
「礼には及ばない。多分、数分後には君も気づいていたはずだから」
「じゃあ、その貴重な数分間をありがとうございます」

間近でにっこりと屈託のない笑みを浮かべる新次郎に、昴は少し面食らう。

「……本当に君は、興味深い反応をする」
「そうですか?」
「ああ。今までこんなに興味を惹かれる人物は、昴の周りにはいなかった」
「へへ……」

自習室の大きなフランス窓からは、夕陽が射し込んでいて少し眩しい。その窓をバックに立つ昴の黒髪がふわりと揺れて、新次郎は眩暈のようなものを覚えた。

全寮制の戒律の厳しい学園、その寮の、特別棟に昴は住んでいる。誰もが昴を羨望の眼差しで見ていたし、話しかけるような強心臓の持ち主はいなかった。つい最近転入してきた、大河新次郎を除いては。

「……この学園は退屈だ。そうは思わないか、大河」
「え?うーん……僕は転入してきたばかりなので、よくはわからないですけど……昴さんは退屈なんですか?」

その問いかけには答えず、昴は新次郎をじっと見つめる。すべてを見透かすようなその切れ長の瞳に、新次郎の胸はどきりと音を立てた。

「……ついてこい、大河」



昴が新次郎を伴って訪れたのは、校舎1階の突き当たりにある部屋だった。まさに突き当たりで通路でもなく、隣の部屋もすべて倉庫のようだ。用事がなければ絶対に訪れない場所であることが雰囲気でわかる。昴がドアを押すと、わずかな抵抗の後で重たい音を立てて扉が開いた。薄暗い室内からは、埃っぽくわずかに薬品のにおいのする空気が漏れてくる。

「な、なんですかここ?……標本室?」
「そう。標本室。倉庫みたいなものだ」

入ってすぐ目に入った棚に、液体に浸かった爬虫類があるのが見えた。ホルマリンで脱色した皮膚はぶよぶよと生白く、濁った瞳がやけに黒々としていて、正直あまり見ていて気分のいいものではない。その周りのびんの中身も、似たようなものだ。すたすたと室内に入っていく昴の後を追うと、壁際の棚の上に置かれた剥製なども目に入る。あれは狐だろうか。

「す、昴さん……こんなとこ」
「別に、入っても構わない。大河、怖いのか?」
「そ、そんなことないです!」

おどおどとしている新次郎を見て意地悪そうに微笑むと、壁際のひとつの棚に昴が近づく。

「僕は、この標本が一番気に入っているんだ」
「……蝶、ですか?どうして?」
「さあ?どうしてだろうね」

昴が手にした木の箱は硝子のふたがはまっていて、何種類かの蝶が虫ピンで留められている。蝶の下にはおそらくその蝶の学名などが書かれた小さな紙が貼られているが、ラテン語なのか、新次郎には読めなかった。

「……気に入っているものほど、こうしてみたくなる」

新次郎が止める暇もなく、昴はその標本箱のふたを開けて虫ピンを外すと、ひとつの蝶を指先でちぎってしまった。ひらひらと砕けた蝶の翅が舞い、鱗粉がきらきらと夕陽に輝く。

「ちょっ……昴さん!!何してるんですか!!」
「いいんだ、どうせ、僕のものだしね」
「だからって……!」

昴が何を考えているのか、新次郎にはわからない。ただ、ちぎれた蝶の翅が痛々しくて、床に落ちたそれを見つめた。ふと、昴の顔がごく近くにあることに気づく。

「……退屈だ、と思っていたけどね」
「…………昴さん?」
「言ったろう?気に入っているものほど……」

新次郎の唇が、やわらかいもので塞がれる。やわらかく、強いもので。

ああ逆らえない、と新次郎は目を閉じた。昴の指先でちぎられるのなら、それもいいと思ってしまっているのは、この部屋のせいだけではないだろう。

夕陽が、閉じたまぶたにやけに眩しい放課後だった。



モドル