自分のこの、奇妙な志向――いや、嗜好と言うべきか。それに気づいたのはいつだっただろう。
幼い頃に刃物で指を傷つけた、あの頃か――それとも、もっと以前か。
普段はなりを潜めているが、ふとした瞬間に顔を覗かせる嗜好。今のオレは、確実に自分のこの性質を自覚していた。
―――流れる血が、赤い体液が流されるのを見ると、そこに密やかな快楽を覚えてしまうのだ。
草木も眠る丑三つ時…には少し早いが、こんな時間に活動するのは、繁華街の店主と客か、闇に身を隠す隠密か。
今日も仕事のおかげで、随分と遅い時間になってしまった。オレは明日が休日なのを幸いと帝劇に忍び入ったが、こんな夜中に大神が起きているはずもない、と思い直し、地下の月組専用隠し通路に向かう。
(……そりゃ、こんな時間に大神が起きてるはずもないが……うーむ、寝顔だけでも見て帰ろうかなぁ〜……いや、でも……)
うだうだと考えながらも地下への階段を下りきったところで、物音に足を止める。すると、大浴場に通じる更衣室のドアが開いた。
「…大神じゃないか」
出てきたのは、その目当ての大神だった。風呂上りらしく、濡れた髪でタオルなどを持っている。
「加山!どうしたんだ?こんな時間に……任務か?」
まさかこんな時間の帝劇地下で、オレに会うなどと思わなかったらしい大神は、目を丸くして随分驚いたようだった。通路の灯りも落とされているし、もしかしたらオレの姿がよく見えなかったのかもしれない。
「ああ、花組同様、月組も激務だからなぁ〜。おまえこそ、こんな時間に風呂か?珍しいじゃないか」
「うん……少し、寝付けなくてな。それに…この時間なら、みんなが入ってくることもないし」
自然に歩み寄り、お互いの距離を縮める。てっきり眠っていると思っていた大神に会えたオレは勿論だが、大神も柔らかい表情で口元を緩めていた。
「そうだよなぁ。男湯、女湯と分かれているわけじゃないし……おまえも大変だなぁ」
「まぁな……って加山、おまえ怪我してるのか?!その手……」
不自然に押さえられたオレの右手が赤く濡れているのに、距離を詰めたことで大神が気づく。スーツに染み出すほどではないが、結構な量の出血に、オレ自身も多少驚いた。
……見ないようにしてたんだがなぁ〜。
「ん、ああ……ちょっとヘマしちまってな。大したことない」
「何言ってるんだ!随分血が出てるじゃないか…ほら、医務室に来い。手当てしてやるから」
「……大体なあ、いくら押さえて止血してるとはいえ、怪我してる手をぶらぶら下げて歩くなよ。余計に出血がひどくなるだろう」
オレは診療台である白いベッドに腰掛け、戸棚を開ける大神の後ろ姿を見る。風呂上りの白いうなじが目に眩しい。
「いやぁ〜、それほどじゃあないと思ってたんだがなぁ〜」
「おまえ、痛覚のネジ1本取れてるんじゃないのか?」
一度意識してしまうと、どうにもそういう目で見てしまう自分を抑えられない。大神の、細い腰と、上気したなめらかな肌。優しげな所作は、やはり女性に囲まれての日常からか。
「…ひどいなぁ大神ぃ。それなりに痛いぞ〜?」
「当たり前だ」
消毒薬の瓶と脱脂綿を手に近づいてくる大神に、ふと悪戯心を抑えられなくなる。
「ほら、手出せ」
慎重な手つきで脱脂綿に消毒薬を含ませている大神が振り向いたときに、素早くキスをする。
「んっ…!」
面食らった大神が、反射的に抵抗する。振り抜かれた手が怪我をしたオレの右手に当たり、それが治療器具の乗った台に当たって派手な音を立てた。
「……ってぇ」
「おっ……おまえが余計なことするからだろ!……うわっ」
真っ赤な顔をした大神が、オレの右手を見てさっと顔色を変える。
「また血が出てるじゃないか!止まってると思ったのに…」
台にぶつかったせいで傷口が開いてしまったらしく、たらたらと赤い血液が手を伝い、床に落ちた。
あ、まずい。
「い、いやぁ〜、さっき手洗ったから、その水で出血が多く見えてるだけだろ?」
「とにかく、消毒しないと!ほら…今度は変なこと、するなよ」
流れ落ちる血液。赤い、赤い液体。それを見ていると、頭の奥が痺れたようになる。自分のそんな性質を知っているからこそ、普段はあまり流血しても見ないようにしていたのだが……よりによってこんなときに、こんな気分になってしまうとは。
「……なぁ、大神ぃ。これ、舐めて消毒して」
「な、何言ってるんだよ加山!こんなに血が出てるのに…」
ああ、駄目だ、駄目だ。
こんなに血を凝視してしまっては……もう抑えられない。
「ねぇ、お願い……」
流れる血はそのまま、おかしなことを言い出すオレにおろおろしている大神に、キスをする。その貪るようなキスに、息遣いに、オレが異常に興奮していることが大神にもわかるだろう。その勢いに気圧されたように、大神は抵抗をしない。眉をひそめ、目をかたく閉じて、されるがままになっている。
そして大神の返す反応は、だんだんと柔らかいものに変わってきて……
もうオレは、自分の目的を遂行することしか頭になかった。
……そろそろ頃合か。
「ふぁ…か、加山……」
「ね、舐めて……お願い…」
唇を離すと、まるで皮膚が剥けてしまったかのように、唇の表面が濡れてずきずきと疼いた。そのまま大神の白い耳朶に唇を這わす。
血に濡れた右手を大神の口元に持っていくと、熱い吐息がかかる。可憐な唇をなぞり、薄く開いたそこから口内へと指を侵入させた。
「ん………」
されるがままに指を咥えさせられてはいるが、やはり戸惑っている様子の大神に、ひどく情欲を掻き立てられる。耳朶に軽く歯を立て、吐息を耳の中に吹き込むようにしてやると、反射的に舌を指に絡めてきた。
赤い液体が、大神の濡れた唇からこぼれ、白い顎を、喉を伝う。その色の対比はこの上なく美しく、白く濁った精液で顔を汚すことよりも、更に退廃的でいやらしく見えた。
「…大神ぃ、すごくいやらしくて……きれいだ。…どんな感じ?」
大神はぼうっと視線を彷徨わせながら、控え目に舌を動かしている。やはり血液を飲み込むのは嫌なのか、とろとろと赤い唾液がこぼれ落ちる。
「ん……なんか、変な感じ……赤くて、血の味が、……なんだか…俺……」
おかしくなる、と吐息だけで言うと、疲れたように目を閉じた。舌を覗かせた紅い唇から指を抜くと、大神がオレのその手を握りしめ、胸元に倒れこんでくる。
「なぁ…加山、お願いだから……ちゃんと治療させてくれ。俺もおまえも…おかしくなる……こんなの………」
未知の、ひどく退廃的であるがゆえに甘美な、その快楽を知ってしまうことを怖れるように、なんとか元の世界に戻れるように。葛藤し、煩悶する大神はいじましく、美しい。
まっすぐな、いつも太陽の下を歩いているこの男には少し、刺激が強すぎたか。そして、ここまでの暗い感度を秘めているとは……オレは、口元に微笑が上ってくるのを抑えられなかった。
「…ありがとう、大神……痛みなんて、吹っ飛んだぞ」
まだ震えている唇にキスをする。血の味が口の中に広がって、軽い眩暈に襲われる。そのまま暗い衝動に駆られて大神を押し倒してしまわないよう、慎重に唇を離した。
「……と、とにかくそこに座れ!今度こそ消毒して、包帯を巻くからな!」
大神は慌てたように後ろを向くと、がちゃがちゃと台の上で消毒の準備を始める。
「それはそうと、大神ぃ。もう一度風呂に入ってくれ。口の周りが血だらけで、物騒だ」
「誰のせいだ!…ったく」
大神は、消毒薬を含ませた脱脂綿で傷口を消毒した後に、流れた血液で汚れた手を拭いてくれる。少し、乱暴だが……
「オレも一緒に風呂に入って行こうかなぁ〜」
「許さん」
大切であるがゆえに、向けるつもりはなかった、自らの暗い欲望。
そこに感応した大神に、正直なところオレは戸惑っていた。
軍人は血を流す。血を見ることが多いので、そんなところには無関心でいなければならないのだろうが……
自分の蒔いた種に振り回されそうな気配に、眩暈を覚える。
正義に向かって一直線、な大神には、受け入れ難い現実か。退廃的な苦痛や嫌悪が、快楽に変わることがあるなど――
……けれど、いつだってオレたちは、ひとつに向かってゆかなくても良いのだ。
流血が好きだなんて、言葉にしたらただの変態だもんなぁ。死なない程度に自給自足で楽しむんだから、勘弁していただこう………