ふらりと帝鉄に乗る。
例の停車場が近づくと、視界に茶色い革靴が入ってくることを期待する。
微笑む金髪の男が、ごく自然に隣に座る。
まさか毎度尾行されているわけではあるまいが、どうしてこうタイミングよく現れるのだろう、この男は。
きっと、そういった才能に恵まれているに違いない、と俺は自分の思考を遮った。
快楽に反らした喉に、カミュが甘く噛み付いてくる。
その刺激にも身体を震わせ、更なる快楽を求める。自分は堕落したのだろう。
「ねえ……いいの?そんなに、無防備にして」
身体の内部まで丁寧に撫で回す指に、脳まで愛撫されているような気分になる。
「…………もっと、して」
君が望むままに、とフランス語で囁かれ、身体中にキスを落とされる。
もうどうにもならない、甘すぎて洒落にならない。
堕ちるところまで堕ちてしまったのだ、俺は。
ちりちりと焼けるように痛む胸をカミュに強く押し付け、にじむ涙を快楽のせいにする。
肉体からもたらされる快楽は否応なく思考を蝕み、俺から考える意思を奪っていく。
冷え込むようになってきた朝方に肩を縮めながら裏口へ入り込む。
こんなことをするようになってもう何週間だろう。
帝劇の中には俺の朝帰りに気づいている者もいるかもしれないが、どう思われていても別によかった。
ただ彼の身体のあたたかさが恋しくて、抱きしめられる安心感が忘れられなくて、何度も帝鉄に乗り、秘密の逢引を繰り返している。
しかし足音をひそめて朝の石畳を歩き、帰り着くべき裏口を確認するたびに、あの日赤い目をして座り込んでいた加山を思い出す。
その非難がましい眼差しを同時に思い出し、くちびるをかみしめた。
拒絶したのならば、いっそ無関心を貫いてくれたらどれだけよかったか。
あの日以来加山が裏口に座り込んでいるようなことはなかったが、それでも俺を蔑むことをやめたわけではないだろう。いや、哀れんでいるのかもしれない。
色に狂い、夜をふらつく哀れな男だと。
甘い時間の名残が抜け切らない身体で書類に目を通していると、扉がノックされた。
てっきり帝劇スタッフの誰かだと思っていたら、入ってきたのはカミュだった。
窓から差し込む日の光で明るいはずの支配人室がぐにゃりと歪み、扉の隙間から夜が入り込んでくるような幻想が頭をよぎる。
「こんにちは、支配人」
「……ああ……、何の用件ですか?」
そ知らぬ顔でにっこりと微笑む金髪の男に、動揺を押し隠して応じる。
「シャノワールとの提携商品について、いくつか問題点がありましたのでご相談にうかがったのですが」
「ああ……その件ですか。詳しいお話をお願いします」
カミュにソファに座るよう促し、意識して思考のチャンネルを切り替える。
目の前の男は、ごく自然に流暢な日本語で説明を始めた。
相槌を打ちながら、自分の不器用さを思い知る。
自分から深い関係を結んでおきながら、それを仕事の場と分けて考えることができない。
書類をめくるその指が、自分の身体を撫でる感触を知っている。
そのくちびるが、囁く甘い言葉を知っている。
今にも疼きそうになる身体を必死に押さえるが、ふと目が合ったときに訪れた沈黙。
そしてその一瞬後のカミュの微笑みに、打ちのめされた。
こんな劣情は、見抜かれて当然だ。
反射的に目をそらしたが、顔がかあっと熱くなるのがわかった。
「……支配人、どうかされましたか?」
机の上に置いていた手にそっと触れられ、そこからびりっと電流でも走ったかのような感覚に襲われる。
言葉が出てこない、顔を上げることができない。くちびるが微かに震えた。
「……それでは、こちらの対応でよろしければここに認印を」
「あっ、ああ……ちょっとお待ちを」
カミュの微笑みを振り切り、慌てて机へ行き認印を探す。
「あれ?おかしいな……」
ここ数日使うことが多かったので、机の上に出しっぱなしにしていた印が見当たらない。
そういえば今日は使っていないので、受付の誰かが持ち出したのかもしれない。
「ちょっと、すみません」
「ええ」
カミュに謝ると、支配人室を後にして受付へと向かった。
廊下で深呼吸をすると、少し理性が戻ってくる。
早くあの場から逃げたかった。もしあのままあそこにいたら、自分はおかしくなっていたかもしれない。
まったくどうにかしている。
胸に冷たい空気を取り入れると、少しだが膿んだ脳細胞が生まれ変わるような気がした。
結局、受付に認印は持ち込まれていなかった。
よく探してみるよ、とかすみに謝ると、支配人室へと戻る。
正直なところ、戻りたくはなかった。またあの空気に負けそうになってしまうと思ったからだ。
しかしそんなことは言っていられない。
軽く息を吸い込んでから扉を開けると、机の前にカミュが立っていた。
「ああ、支配人。印なら床に落ちていましたよ」
「えっ?ああ、そうでしたか……失礼しました」
差し出された印をなるべくその手に触れないよう注意深く受け取る。
そのときの俺は動揺に我を忘れ、まったく重要なことに思い至ってはいなかったのだ。
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