どこをどうやって帰り着いたのかは覚えていない。
ぼんやりと風呂に入り、自室に戻って扉を閉めたところで様々な感覚がよみがえった。
硬くざらついた壁、強くつかまれた手首、乱暴に扱われた下半身は熱を持っている。
不意にシャツが肩に擦れ、痛みにびくりと身体が震えた。
確かめていないからわからないが、身体中至るところに擦り傷ができているようだった。
どうして。
どうして。
そんな考えても仕方のないことばかりが頭の中をぐるぐる回る。
ふと机の上を見ると、カミュからもらったキャンドルが目に入った。
俺は少しためらったが、それにマッチで火を灯した。
月明かりだけの暗い室内に、ゆらゆらと小さな炎がゆらめく。
濃密な甘い香りが広がった。
これをくれたときの彼の表情や、手の感触を思い出す。
「…………っ」
涙がぼろぼろとこぼれた。
そもそもどうして俺は、あいつになんかすがってしまったんだっけ。
そうだ、加山にふられて、それでふらふらとついていってしまった。
甘やかしてくれる心地よさを知って、そこに溺れていったんだ。
まさかあんな形で終わりになるとは思わなかった、いや、終わることなんて考えていなかった。
ただその日、そのときが甘く幸せならそれでいいと思っていた。
なんて愚かなんだろう。
ベッドに寝転がり、天井を見つめていると涙が次々にあふれてくる。
利用されただけだと気づいても、覚えさせられた快楽はすぐには流れていかない。
例え俺から引き出せる情報が目当てだったとしても、あのとき、俺を抱いていたあの腕は、体温は本物だった。
強姦まがいのことをされても、それでも忘れることができない。
それまでの甘く濃密な、二人の時間があったことを覚えている。
気づくともう朝になっていた。
泣きながら眠ってしまったので酷い顔だったが、仕事をしないわけにはいかない。
冷たい水で顔を洗い、一番に花やしき支部に連絡を入れた。
カミュが俺から得たであろう情報は、おそらく花やしき支部から上がってきていた霊子力機関に関する研究内容だろうと察しはついていた。
カミュが突然に訪ねてきたあの日、支配人室内にあった報告書はあれだけだったからだ。
俺が手を回していることなど予測済みだろうからすぐに危険はないだろうけれど、機密保守機構の再確認と強化を促し、報告を上げるようにと申し渡す。
そうして、滞っている仕事を片付けたり、必要な事務用品を買いに出たりしているうちに、密度の濃い一日が終わってゆく。
気を紛らわすのには仕事をするのが一番いい。
余計なことを考えずに済むから。
仕事の締めには劇場内の見回りをする。
ランタンでゆらゆらと揺れる視界に、軽い酩酊感さえ覚える。
身体は疲れているのに、眠気は感じなかった。
普段ならば、あくびをかみ殺しながら歩いているのに、今夜はやけに目が冴えていた。
ふとサロンから人の気配を感じ、少し警戒しながら足を進める。
「よう、大神」
「加山……」
月明かりのサロンで、加山が窓辺に立っていた。
「……おまえが来るの、待ってたんだぞ。まだ終わらないか?」
「……いや、ここで最後だ」
逆光で表情はわかりづらいが、やさしくやわらかい声の調子に我知らずほっとしていた。
「なあ、ランタンここに置いて。ほら、見ろよ」
「あぁ……、おいしそうだな」
「だろ?アンジェラスで買ってきたんだぞ」
加山がテーブルに置かれていた箱を開けると、洋菓子が入っていた。
ランタンの灯かりに照らされて、ケーキに塗られたチョコレートがつやつやと光っている。
もしかして、今日の俺が何も食べていないことを知っていて買ってきてくれたのだろうか。
「甘いもの好きだろ?食べよう」
「ああ、じゃあ、紅茶を入れるよ。すみれくんに分けてもらったのがあるから」
「おっ、いいねぇ。真夜中のお茶会なんて、しゃれてるじゃないか」
「そうだな……」
どうして?
どうしてこんな夜中に、待っていてくれたんだろう。
どうして俺はこんなに穏やかな気持ちになっているんだろう。
「……大神?…………泣くなよ」
「……うん……」
そっと肩に置かれた手があたたかい。
許してくれるのだろうか。
それとも、こうして責めているのだろうか。
けれどそんなのはどちらでもよかった。
こうして触れてくれるそのぬくもりだけで、立ち直れる気がする。
「……おまえのこと、すごく大事なんだ。だから……泣かないでくれよ」
「……うん……」
その言葉だけで十分だった。
堕落した俺を殴るどころか、手を差し伸べて引き上げようとしてくれる。
これ以上何を望むというのだろう、この甘い男に。
もうあのキャンドルは燃え尽きて、記憶に残っているだけになる。
すがりそうになる俺は弱くて、だけど、薄く甘く、苦く溶けていくような夜を甘受することにした。
おわり