くれは様 御中

三角

 私が旦那様と一緒になったのは、今年の春のことでした。

 直属ではないにしろ、上司に当たるその方に私が好意を抱いていたことは、今思ってみれば、少し分をわきまえないことであったかもしれません。毎日顔をあわせるたびに、私は少女のように胸をときめかせていたものでした。

 思いというのは不思議と通じるもので、いつの間にか私たちは恋人同士のような関係になっておりました。ふたりきりの時間はなかなか持てませんでしたが、そういったときには、なんとも言いようのない甘い空気が私たちを取り巻き、私は夢の中にいるような心持でした。

 共通の上司の薦めもあり、私たちは結婚することになりました。同時に旦那様は昇進なさり、私は職を辞し、家庭に入りました。好きな人のために炊事や洗濯をすることが、私のごく平凡でささやかな夢だったのです。

 旦那様は一般の方とは少し異なる職に就いており、帰宅時間はまちまちです。泊り込みのお仕事で、帰られないことも多いのです。しかし、結婚生活はとても穏やかで、幸せに満ちておりました。旦那様は、元海軍軍人で社会的な地位もあり、性格も穏やかで、背筋の伸びた好い男なのです。私の待つ家になかなか時間通りに戻れないことをいつも謝ってくださり、お土産をお持ちくださることもしばしばでした。私はそんな旦那様に恥じない妻でいようと、料理を勉強したり、拭き掃除の仕方を工夫したりと、貞淑な妻であるよう努めて参りました。



 結婚から半年ほどたった秋の夜でした。私は、滅多に足を踏み入れることのなかった以前の職場、すなわち、旦那様のお仕事をなさっているところへ行く用向きがあったのです。どうして夜だったのかはよく覚えておりません。今夜も帰れないかもしれない、と旦那様が朝に話されていたことは覚えておりました。お夜食でも差し入れようと思ったのか、旦那様の執務室である支配人室へと足を向けたのです。

 どこか、不思議な雰囲気を感じ取っていたのかもしれません。冷える夜のことであったのに、妙に蒸し暑いような、肌にまつわりつく湿り気のようなものを感じ、ノックもせずに扉をそうっと引っ張ってみたのです。



 始めは、何のことやらわかりませんでした。もつれあうような格好をした人が二人、少しもじっとしていないので見きわめるのに少し時間がかかりましたが、それは紛れもなく旦那様とあの人でした。大きな机の上で、つかみあいの喧嘩をしているようにさえ見えました。

 しかし、それは私の思い違いでした。その人に覆い被さっていた旦那様が、その人の唇にくちづけをしたのです。それは、あまりにもはげしく、卑猥なくちづけで、幾度も夜を共にした私でさえ知らないものでした。心臓の音が早鐘を打ったように響き、私は、胸が張り裂けてしまうのではないかとさえ思いました。

 ようやく唇を離し、旦那様があの人を揺さぶり始めると、あの人が熱に浮かされたような瞳で、旦那様の下からこちらを見たのです。私は身体中の血がいっぺんに足元に下がったように感じました。どきんと大きく心臓が鳴り、そのまま止まってしまうのではないかとさえ思えました。

 嗚呼、そこで、あの人は何を思っていたのか、扉の陰で立ち尽くす私に向かって微笑んだのです。なまめかしく、うっとりと、大抵笑顔というものには慈愛のようなものが込められているはずなのでしょうが、その人のそれにはまったくそういったものが感じられませんでした。燃え上がりそうな行為のさなかに、あの人は、氷のような残酷な微笑を私に投げて寄越したのです。

 私は、その扉の隙間を閉じることもせず、よろめくようにそこを離れました。どこをどうして歩いたのか、気づいたときには自宅へと戻っておりました。



 今私は、玄関の扉にしっかりと鍵をかけて、部屋の隅で震えているのです。床に入って、すべては悪い夢だったのだと思えたら、どんなにか良いことでしょう。少し建てつけが悪く、歪んだ障子の隙間から、何かが覗いているようでどうにも落ち着きません。旦那様がいつものようにお土産を持って帰られるまで、どうして待っていることができましょう。このように紙に書きつけたところで、どうなるものでもありません。

 嗚呼憎い。女であるこの身が憎い。男であるあの人が憎い。旦那様、早く帰っていらしてください。素敵なお土産を持って、待たせてすまないね、と、いつものように笑ってくださいませ。



モドル