もうひとつの三角

 ふわふわとした妙に落ち着かない夜は、春特有の不思議な時間で更けてゆく。

 婚礼を翌日に控えた大神は、支配人室でいつものように仕事を片付けていた。祝い事の前とはいえ、仕事がなくなるわけではない。むしろ、しなくていいですよと言われたところで、大神のような実直な人間がそうするわけもないのだろうが。

 「……はい、どうぞ」

ノックの音に気づき、返事をする。扉を開けて入ってきたのは、出張から帰ったばかりの加山だった。

「いよう、大神ぃ。なんとか戻れたぞ〜」
「ああ、ご苦労様。……無理を言ってすまなかったな」
「何を言ってるんだ〜。親友の結婚式だぞ、出席しないわけにいかんだろうが」

予定をなんとか切り詰めて戻ってきたはずの加山は、その疲れすら感じさせない笑顔でにこにこと笑っている。
 大神が総司令となってからは、加山の帝撃内での位置も少し変わってきており、今では帝撃と軍とを繋ぐ重要な役職を担っていた。今回の出張も、海軍絡みの会議やら視察やらが目白押しだったわけである。

 「……それにしても、本当に結婚しちまうんだなぁ、おまえ」

感慨深そうに大神を眺める加山の視線は、どこか寂しそうに見えた。実際、誰よりも近くにいたはずの親友が結婚するのだから、加山でなくともいささか複雑な気持ちを抱くものなのかもしれない。

「ああ。ずっと米田前司令からは勧められていたんだけど、なかなか決心がつかなくてな。……だいぶ総司令としても、支配人としても、仕事には慣れてきたと思うし」
「……実際、おまえはよくやってると思うぞ。いい機会じゃないか〜。かわいい嫁さんに尽くしてもらえ!」

大神の肩を叩いて笑う加山に、大神はひどくあたたかいのに、せつないような気分になる。加山があの頃と変わらない、白い軍服を着ているせいなのかもしれない。
 自分は、あの頃と変わっただろうか。変にいろんなことを知りすぎて、あの頃のような純粋な気持ちを失ってしまったのではないだろうかと、不安になる。

 「……加山、俺は、あの頃と変わったか?」
「……なんだ、やぶからぼうに」

真っ直ぐに瞳を見据えてくる大神の視線が意味するところを、加山は咄嗟には判断できなかった。どちらの答えを求めているのかがわからないので、少し微笑んで先を促す。

「……不安なんだ。俺はあの頃と何も変わっていないはずなのに……すべてが突然重荷に感じたりして、希望に燃えていたあの頃を忘れる」

春の夜に揺らぐ大神の瞳が、加山の心に突き刺さる。
 今更、何を言えばいいというのか。既に愛しい女性と生涯を共にすることを決めた彼に、押し込めていた感情をぶつけることなど、愚行でしかない。

 「…………そんなこと」

たまらなくなって、大神を抱き寄せ、強く抱きしめる。加山が、自分を失うことがないように、現在を失うことがないように、そして、大神の視線から自分自身を隠すために。

「そんなことねぇよ。おまえは……、おまえは変わってなんかいない。いつも真っ直ぐで、その悩みも、優等生そのものだ」

願ってしまってもいいものか。あの頃に、誰よりも近くにいたあの頃に戻りたいと、そうして抱きしめてしまってもいいのだろうか。

 「……どうしたどうした大神ぃ!そんな顔するな〜。明日は晴れの舞台じゃないかぁ」

大神を離したがらない身体を抑えて、抱きしめた腕をほどいた。もう近づけないところに、大神は行ってしまうのだ。未練がましく自分のそばに引き止めても、与えられるものなどないという現実を、加山は痛いほどに知っていた。彼を支える温かい家庭を作ってやれるのは彼女だ。

「……どうしておまえが泣きそうな顔するんだよ」
「えっ……?そ、そんなことはないぞう〜。ほら、アレだ。おまえが不安そうにするからうつったんだ!」

大神に指摘されるまで、加山は自分の顔が歪んでいるのに気づかなかった。声が上滑りしているのがわかる。身体を離すつもりでつかんだ大神の両腕を、離せずにいる。

「………加山?」
「た……頼む、大神ぃ……。そんな不安そうな顔、しないでくれよう〜」

それは加山の本心だった。大神が不安になって自分に縋ってきたら、抑えきれないとさえ思う。
 大丈夫だと思っていたのだ。親友だとずっと、自分に言い聞かせてきたのだ。

 「……ああ、そうだな。せっかく祝ってくれてるのに……すまない」
「……そうだぞ〜。花婿がそんな顔してたんじゃ、彼女に悪いだろう?ほら、早く仕事片付けて、明日に備えろよ」

ようやく少し笑った大神に安堵して、加山は支配人室を出る。

 違う、と心の中で呟く。
 祝ってなどいない。
 祝ってなどいないんだ。
 帝劇を出ると、春の陽気が夜まで浮つかせている。

 ……オレだけのものだったはずなのに。

 もしかしたら春でなければ、加山は踏み外さなかったのかもしれなかった。



 (こんなに身体が熱いのに、どうして我慢できるんだ?)
 (こんなに触れたいのに、どうして触ってはいけない?人のものだから?)

 大神、と口の中で呟けば、舌が溶けそうになる。
 何度彼のことを思って、こうして一人欲望を処理したかわからない。
 裸の自分の肌に触れる、彼の肌を加山は想像する。
 吸い付くように全身を包み込まれ、濡れた唇同士が擦れるのを想像する。

 「…………最低だ」

てのひらを汚した体液を見つめ、ぼんやりと気だるい身体を持て余す。吐き出した途端にクリアになる悪い頭が恨めしい。
 部屋の壁には、明日の結婚式に着ていくつもりの礼服が掛かっている。きちんと寸法を測って、明日のために新調したのだ。
 その結婚式の主役である花婿の想像で、こんなことをしてしまうなんて。
 加山は、いよいよ自分の頭がおかしくなったのかとため息をつき、そしてどこかで諦めてもいた。大神よりも夢中になれる相手を、見つけられる自信は到底持てなかった。
 大神に焦がれて狂うなら、それもいいと思ってしまうところが、すでに狂っている。


 式は、絵に描いたように美しかった。新婦は白無垢が申し分なく似合って、これほどの美しい花嫁にはなかなかお目にかかれないと、その場にいた誰もが思った。横に並ぶ新郎はすらりとした長身に涼しげな目元、出会うべくして出会ったとしか言いようがない2人だった。

 帝劇の中庭をパーティ会場として行われた披露宴では、幾分かリラックスした表情で人々と会話を交わし、目を合わせては微笑みあう。これほどに似合いの夫婦はないだろうと思われた。

 加山は1日中、ぼんやりとしていた。目の前で繰り広げられる光景が、あまりにも美しく幸せに満ちていたからだ。まるで視界に紗がかかったように、舞台の上のお芝居を見ているように、まったく実感が感じられなかった。形ばかりの礼服を着て、話し掛けられれば器用に話を合わせる。相槌を打つ。新郎の親友としては、まったく問題のない態度でいられた自信はあった。
 そして、祝福できない自分が酷く惨めだった。



 太陽の陽射しは毎日少しずつ力を増し、初夏の風が太陽と地面の間を吹き抜ける。
 不慣れな新婚生活は、まるでままごとのような甘さを含み、日常生活すらも不思議な力を持つ。

 「加山!なんだか久しぶりだな」
「……いよう、大神ぃ!新婚生活はどうだ?」
「うん、うまくやってるよ」

糊のきいた白いシャツ、磨かれた革靴、昼時の弁当箱。大神の姿を見るにつけ、加山はやるせない気分になる。

「きれいな嫁さんに尽くされて、おまえは幸せ者だなぁ〜」
「ああ、自分でもそう思うよ。……おまえもそろそろ、いい人を見つけろよ」
「……いやぁ、オレは任務が恋人だからなぁ〜。それじゃあオレはそろそろ行くぞ〜」

無理やり作った笑顔で、加山は手をひらひらと振りながら大神から逃げ出した。
 大神が幸せでいてくれれば、自分は何も望まないと思っていたではないか。それなのに、幸せそうな大神に苛立つ自分はなんだ。だから顔を合わせたくなかったんだ、こんなふうに微笑まれたくなかった。
 おまえがいなくても俺は幸せだ、と言われているような気分になる。
 ぐるぐると頭の中がかき混ぜられる。かあっと頭に血が昇ったり、意気消沈してしゅんとしたり、そんな感情がまるで警告のランプのようにちかちかと入れ替わる。
 いつまで加山は、大神に捕われ続けなければならないのだろうか?



 冷たい雨に入梅を知る。毎日目の前の任務をこなし、気づいたら梅雨に入っていた。どんな気持ちを抱いていようとも、指令は下りてくるし、報告は上がる。
 警護するその人は、加山には決して立ち入ることのできない聖域へと帰ってゆく。
 そんな毎日に、加山の神経は磨り減っていった。


 梅雨の寒さに身を縮めながら、加山は出向願いを出した。


 「……対降魔用兵器の開発のために、わざわざおまえが花やしきに出向くこともないんじゃないのか?」

大神が、提出された書類と、目の前に立つ加山を交互に見る。少し尖った視線は、総司令のものだ。

「いえ、司令。それは単なる兵器開発計画ではありません。もう完成間近だと報告も受けていますし、それを有効に活用するために、月組内に新たな隊を組むことを考えています。運用に際し、適任者の選抜から行いたいと……」

すらすらと言葉を並べながら、この場から一刻も早く辞すことを加山は考えていた。
 あんなに一緒にいたいと願っていた大神と、離れたいと思っているなんて。
 大神の向けてくる真っ直ぐな視線を受け止めながら、意識を外に逃がすことだけに集中する。
 そうじゃなければ、気が狂いそうだ。

 「……そこまで考えているなら、素直に言うよ。加山、おまえが銀座本部から離れてしまうのが、俺は嫌だ」

 気が狂いそうなんだ。

 「おまえには、俺の傍でいつも助けて欲しいと思っている。月組にはかなりの重要な任務を任せているし、その隊長であるおまえが傍にいないのは、不安なんだよ……これは、俺の甘えだろうか?」

立ち上がるその動作、僅かに寄せられた眉に見る計算高さ。それが無意識の所作だとは知っているが、そこにある種の余裕を邪推して、加山は身を強張らせる。
 そうやって切り札を出してくるのは、自分が愛されていることを知っているから。
 なんて横暴なんだろう。

 「……う〜ん、そう言われちゃうとなぁ〜」
「数日間なら出向を許可してもいい。だが、それ以上は駄目だ。……俺の傍にいてくれ」

 おまえは知らないだろう。
 オレが今にも、おまえに焦がれて発狂しそうなのを。

 「……わかったよ、大神」
「わがままを言って、すまない……ありがとう」

 嬉しそうに微笑む大神に、心の中にぬるい雨が降る。それはかなりの土砂降りだった。
 濡れる心、固く閉ざしたはずの心の隙間に、雫が次々に染み込んでくる。
 どこまでも大神に侵蝕されて、表面と内部が乖離するのを加山ははっきりと自覚した。
 いつまで大神の傍で取り繕うことができるだろう、とぼんやりと思うと同時に、加山は無意識に自分の中に時限装置を仕掛けてしまっていた。ある種の一定の感情が鬱積し、閾値を越えたら暴発するように。



 「加山の様子はどうなんだ?!」
「ああ、司令!どうか、会ってあげてください……ずっと、あなたのうわごとを」

医務室に走りこんできた大神に、若い月組隊員が応じる。
 任務中に倒れ、そのまま担ぎ込まれたので、付き添っていた隊員も加山も黒い隠密行動用の服装だった。カーテンを開けると、青白い顔をした加山がベッドに横たわっている。

「怪我は、たいしたことはありません。ただ、突然倒れられたので僕もどうしようかと……」
「加山、加山!聞こえるか、俺だ、大神だ!」

大神が呼びかけると、加山はうっすらと目を開けた。目の前の人影が大神だと認めると、両目からぽろぽろと涙をこぼし始める。
 大神は絶句した。

 「…………木島くん、後は俺が付き添うからもう戻ってくれ。先ほどの副隊長の報告では、もう月組は帰還したそうだ。何かあったら、すぐに連絡する」
「了解しました!」

びしっと居住まいを立たすと、木島は静かにきびすを返し、医務室を出て行った。
 大神がすぐにベッドの脇へと近寄ると、青白い顔をした加山が泣きながら、しがみついてきた。抱きとめた身体が以前よりも薄くなったようで、大神は戸惑う。

「……大神ぃ、おおがみ……」
「一体どうしたんだ……!こんなに痩せて……何かあったのか?」

怪我はたいしたことはないとは言え、痩せた身体で加山が泣いている。
 加山を抱きしめながら、大神は混乱していた。
 ふっと加山の両腕から力が抜け、わずかに身体が離れたかと思うと、唇にやわらかいものがぶつかる。
 加山の唇だ。

 「……オレ、もう駄目だ………助けて、大神………」

 泣きながら唇をぶつけてくる加山、その声はかわいそうなくらいに掠れている。
 大神は、加山が自分のうわごとを言っていた意味を理解した。そして、自分が彼のためにしてやれることを考えたが、強くすがってくる加山の前で冷静な判断などできるはずもなかった。目の前の加山を助けてやれるのは自分しかいないのだ、と理性の顔をした本能が頭の中で警鐘を鳴らす。
 唇を受け止め、その身体を抱き返すと、そのままベッドに倒れ込む。

 「…………助けて、欲しいのか?」

 涙で顔をぐちゃぐちゃにした加山が、子供のようにうなずいて、しがみついてくる。
 暑いはずの夏の夜に、ぶるぶると頼りなく震えるこの腕はどうだ。今にも凍えそうな顔で助けを求めるその様は。
 そしてその吐息の熱さに、引き込まれるように覆い被さる。

 「……抱いてやるよ」

 かわいそうな加山が、溶けるように笑った。



 「……加山……」

 耳元で囁く声に、ぞくぞくと背筋が痺れる。司令室は微かに大神の匂いがして、まるごと大神に抱かれているようで酷く興奮した。
 はだけた胸元から立ち上る大神の匂い。そして、ぴしりとアイロンのかけられた大神のシャツからわずかに感じる、甘い香り。若い女性の匂いだ。
 だいぶ屋外は寒くなってきたというのに、この部屋の中は随分と暑い。
 すっかり大神を受け入れることに慣れた身体をいいように押し広げられ、痛みが快感にすり返る瞬間に目が眩んだ。
 ずっと好きだった。
 ずっとこうして、大神に蹂躙されたかったのだ。
 大神、大神、こうしていられればこれ以上は何も望まない。

 すうと首すじを冷たい風が撫でたように感じ、扉の方に目をやると、僅かに隙間が開いているのがわかった。誰かが扉の陰にいて、こちらを見ている。加山は快感に霞む頭で、それでもそこにいるのが大神の細君だということを理解した。
 大神のシャツの甘い香りが、強くなったように感じる。
 固い机の上で揺さぶられ、身体のあちこちの痛みさえも快感になる。
 こんなにいっぱい大神で満たされて、これを幸せと言わずに何と言えばいいのだろう。
 扉の陰に向かって、加山は自然に微笑んでいた。
 あの人もオレと同じ。大神がいなければきっと生きていけないんだろう、こうして大神を感じていなければ狂ってしまうに違いない。
 かわいそう、かわいそうだ。

 「……加山、こっち向いて……」

 唇が深く合わさり、舌を噛まれて呼吸が止まる。知らず、涙がこぼれた。
 身体の奥を抉られて、意識が途切れ途切れになる。もう何も考えられない。



 もうこれ以上、行けないところまで来てしまっていた。加山と大神は行き止まりだ。そして、かわいそうなあの人も。
 この妖しい秋の夜から、きれいな三角形は少しずつ、歪み始めていくように思われた。



 それぞれの思いをまだら模様に交ぜながら、三角がぐにゃりと歪んで溶けてゆく。

モドル