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ふわふわとした妙に落ち着かない夜は、春特有の不思議な時間で更けてゆく。
婚礼を翌日に控えた大神は、支配人室でいつものように仕事を片付けていた。祝い事の前とはいえ、仕事がなくなるわけではない。むしろ、しなくていいですよと言われたところで、大神のような実直な人間がそうするわけもないのだろうが。
「……はい、どうぞ」
ノックの音に気づき、返事をする。扉を開けて入ってきたのは、出張から帰ったばかりの加山だった。
「いよう、大神ぃ。なんとか戻れたぞ〜」
予定をなんとか切り詰めて戻ってきたはずの加山は、その疲れすら感じさせない笑顔でにこにこと笑っている。
「……それにしても、本当に結婚しちまうんだなぁ、おまえ」
感慨深そうに大神を眺める加山の視線は、どこか寂しそうに見えた。実際、誰よりも近くにいたはずの親友が結婚するのだから、加山でなくともいささか複雑な気持ちを抱くものなのかもしれない。
「ああ。ずっと米田前司令からは勧められていたんだけど、なかなか決心がつかなくてな。……だいぶ総司令としても、支配人としても、仕事には慣れてきたと思うし」
大神の肩を叩いて笑う加山に、大神はひどくあたたかいのに、せつないような気分になる。加山があの頃と変わらない、白い軍服を着ているせいなのかもしれない。
「……加山、俺は、あの頃と変わったか?」
真っ直ぐに瞳を見据えてくる大神の視線が意味するところを、加山は咄嗟には判断できなかった。どちらの答えを求めているのかがわからないので、少し微笑んで先を促す。
「……不安なんだ。俺はあの頃と何も変わっていないはずなのに……すべてが突然重荷に感じたりして、希望に燃えていたあの頃を忘れる」
春の夜に揺らぐ大神の瞳が、加山の心に突き刺さる。
「…………そんなこと」
たまらなくなって、大神を抱き寄せ、強く抱きしめる。加山が、自分を失うことがないように、現在を失うことがないように、そして、大神の視線から自分自身を隠すために。
「そんなことねぇよ。おまえは……、おまえは変わってなんかいない。いつも真っ直ぐで、その悩みも、優等生そのものだ」
願ってしまってもいいものか。あの頃に、誰よりも近くにいたあの頃に戻りたいと、そうして抱きしめてしまってもいいのだろうか。
「……どうしたどうした大神ぃ!そんな顔するな〜。明日は晴れの舞台じゃないかぁ」
大神を離したがらない身体を抑えて、抱きしめた腕をほどいた。もう近づけないところに、大神は行ってしまうのだ。未練がましく自分のそばに引き止めても、与えられるものなどないという現実を、加山は痛いほどに知っていた。彼を支える温かい家庭を作ってやれるのは彼女だ。
「……どうしておまえが泣きそうな顔するんだよ」
大神に指摘されるまで、加山は自分の顔が歪んでいるのに気づかなかった。声が上滑りしているのがわかる。身体を離すつもりでつかんだ大神の両腕を、離せずにいる。
「………加山?」
それは加山の本心だった。大神が不安になって自分に縋ってきたら、抑えきれないとさえ思う。
「……ああ、そうだな。せっかく祝ってくれてるのに……すまない」
ようやく少し笑った大神に安堵して、加山は支配人室を出る。
違う、と心の中で呟く。
……オレだけのものだったはずなのに。
もしかしたら春でなければ、加山は踏み外さなかったのかもしれなかった。
大神、と口の中で呟けば、舌が溶けそうになる。
「…………最低だ」
てのひらを汚した体液を見つめ、ぼんやりと気だるい身体を持て余す。吐き出した途端にクリアになる悪い頭が恨めしい。
帝劇の中庭をパーティ会場として行われた披露宴では、幾分かリラックスした表情で人々と会話を交わし、目を合わせては微笑みあう。これほどに似合いの夫婦はないだろうと思われた。
加山は1日中、ぼんやりとしていた。目の前で繰り広げられる光景が、あまりにも美しく幸せに満ちていたからだ。まるで視界に紗がかかったように、舞台の上のお芝居を見ているように、まったく実感が感じられなかった。形ばかりの礼服を着て、話し掛けられれば器用に話を合わせる。相槌を打つ。新郎の親友としては、まったく問題のない態度でいられた自信はあった。
「加山!なんだか久しぶりだな」
糊のきいた白いシャツ、磨かれた革靴、昼時の弁当箱。大神の姿を見るにつけ、加山はやるせない気分になる。
「きれいな嫁さんに尽くされて、おまえは幸せ者だなぁ〜」
無理やり作った笑顔で、加山は手をひらひらと振りながら大神から逃げ出した。
大神が、提出された書類と、目の前に立つ加山を交互に見る。少し尖った視線は、総司令のものだ。
「いえ、司令。それは単なる兵器開発計画ではありません。もう完成間近だと報告も受けていますし、それを有効に活用するために、月組内に新たな隊を組むことを考えています。運用に際し、適任者の選抜から行いたいと……」
すらすらと言葉を並べながら、この場から一刻も早く辞すことを加山は考えていた。
「……そこまで考えているなら、素直に言うよ。加山、おまえが銀座本部から離れてしまうのが、俺は嫌だ」
気が狂いそうなんだ。
「おまえには、俺の傍でいつも助けて欲しいと思っている。月組にはかなりの重要な任務を任せているし、その隊長であるおまえが傍にいないのは、不安なんだよ……これは、俺の甘えだろうか?」
立ち上がるその動作、僅かに寄せられた眉に見る計算高さ。それが無意識の所作だとは知っているが、そこにある種の余裕を邪推して、加山は身を強張らせる。
「……う〜ん、そう言われちゃうとなぁ〜」
おまえは知らないだろう。
「……わかったよ、大神」
嬉しそうに微笑む大神に、心の中にぬるい雨が降る。それはかなりの土砂降りだった。
医務室に走りこんできた大神に、若い月組隊員が応じる。
「怪我は、たいしたことはありません。ただ、突然倒れられたので僕もどうしようかと……」
大神が呼びかけると、加山はうっすらと目を開けた。目の前の人影が大神だと認めると、両目からぽろぽろと涙をこぼし始める。
「…………木島くん、後は俺が付き添うからもう戻ってくれ。先ほどの副隊長の報告では、もう月組は帰還したそうだ。何かあったら、すぐに連絡する」
びしっと居住まいを立たすと、木島は静かにきびすを返し、医務室を出て行った。
「……大神ぃ、おおがみ……」
怪我はたいしたことはないとは言え、痩せた身体で加山が泣いている。
「……オレ、もう駄目だ………助けて、大神………」
泣きながら唇をぶつけてくる加山、その声はかわいそうなくらいに掠れている。
「…………助けて、欲しいのか?」
涙で顔をぐちゃぐちゃにした加山が、子供のようにうなずいて、しがみついてくる。
「……抱いてやるよ」
かわいそうな加山が、溶けるように笑った。
耳元で囁く声に、ぞくぞくと背筋が痺れる。司令室は微かに大神の匂いがして、まるごと大神に抱かれているようで酷く興奮した。
すうと首すじを冷たい風が撫でたように感じ、扉の方に目をやると、僅かに隙間が開いているのがわかった。誰かが扉の陰にいて、こちらを見ている。加山は快感に霞む頭で、それでもそこにいるのが大神の細君だということを理解した。
「……加山、こっち向いて……」
唇が深く合わさり、舌を噛まれて呼吸が止まる。知らず、涙がこぼれた。
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