大久保長安の脅威が去り、ようやく平和の戻った帝都のうららかな春の夜、大神は慣れない椅子に座って支配人業務と悪戦苦闘していた。
まったく大神にとって、米田の引退は予想だにしない事態であった。
いや、正確に言えば考えないようにしていたのかもしれない。
支配人の椅子、総司令の椅子は米田が座ってこそ説得力のあるものだったのだ、と思わずにいられない。まったくもって情けないことだ。
仕事も人脈もいきなり米田のようにいくわけがない、そんなことはよくわかっている。だが。
目の前の山積みの書類を見るだけでため息が出る。なにやら視界がにじんでくる。
きっと疲れているんだ、と大神が席を立とうとしたとき、卓上の蒸気電話がけたたましく鳴り響いた。
「助けて、大神くん!このままじゃ……加山くんが……!!」
かえでからの連絡を受けて、慌てて月組本部に駆けつけてみると、心配そうな隊員たちに囲まれて横たわっている加山がいた。
いつもの陽気な挨拶もなく、ぐったりと目を閉じている。
何より、うつぶせている背中を横切って奇妙に盛り上がっている傷口に、大神は息をのんだ。
隊員たちが大神に向かって口を開く。
「あの日、銀座文書を入手したときに、長安に背中を……!」
「……なんだって……!?」
「具合が悪そうにはしてたんです」
「でも普通に仕事してたし、隊長何も言ってくれないから…!」
連絡をしてきたかえでは無言でうつむき、加山の枕元で目に涙をためて震えている。
「……おそらく、傷口からあの金粉が入り込んで……このままでは、隊長は……!」
言われるまでもなく、加山のその背中の傷は、禍々しい金色に光っていた。
あの金粉は、霊力を奪う作用があった。人によって強さの違いはあるものの、人間は誰しも霊力を持っており、それは言い換えれば気の力、生命力とも言えるものだ。
その霊力を体内に入り込んだ金粉がじわじわと奪っているのだとしたら、加山の生命はそれほど長くはもつまい。
大神は頭からざあっと血の気が引いて、まるで気圧が変わったように耳が遠くなるような感覚にとらわれた。
「……お願い、大神くん!なんとかして……!加山くんにもしものことがあったら、わたし、私は……!」
腕にすがりつかれて、大神は我に返った。かえでが美しい顔を子供のように歪めて泣いている。こんなに取り乱している彼女を見るのは初めてだ、と大神はどこか冷静に思う。
「……私、知ってた……加山くんが怪我してたの、知ってたのに……!どうして、こんな……!」
いつもの気丈さを失って泣きじゃくるかえでに、月組隊員たちも沈痛な面持ちで目を伏せる。動かない加山の傷口をぼんやりと眺めながら、大神の脳は取り得る方策へと素早く思考を巡らせていた。
帝撃の医療ポッドではおそらくその場しのぎにしかならないだろう。軍の伝手で医者を紹介してもらっても、長安の金粉には対処できない。最早帝都では手の尽くしようがないだろう。だとしたら。
「……そう、月組の隊長が……で、彼の今の状態は?」
「……ほとんど意識がないんだ。怪我をしてから1週間が経過しているから、おそらくかなり霊力を奪われていると思う。こちらの医者の見立てでは、傷自体は治りかけているらしいんだが……なにぶん、症例がないから……」
「……なるほど……」
作戦司令室の大きなモニタに写っているのは、かつて帝撃花組に入隊していたラチェットだ。大神は医学の進んでいる紐育に相談することを思い立ち、すぐに帝劇に戻ってきていた。
今の大神が加山にしてやれることは、少なくともそばにただついていることではない。かえでが大神に助けを求めてきたのも、大神が帝撃総司令だからなのだ。だったら、総司令としてできるだけのことをせねばなるまい。
「こちらには霊力を医学的に研究している世界的な権威がいるわ。私の伝手では無理だけれど、ミスター・サニーサイドに頼んでみましょう」
「よろしく頼むよ、ラチェットくん……彼は、帝撃にとってとても大切な人なんだ」
ラチェットのきりっとした端整な顔立ちが、大神の言葉を聞いて僅かに動く。
「帝撃にとって……大神司令、本当にそれだけ?」
「え……」
月組隊長である加山は帝撃にとって本当に重要な人物だ。司令になってから、実は花組隊長候補として最初に上がっていたのが加山だった、という情報も知った。間違いなく加山は優秀な人物であり、彼なしでは月組すら存在していなかっただろうと思われるほどだ。帝撃は彼を失うわけにはいかない。
しかし。
「……月組隊長は、加山は……俺にとって、大切な親友なんだ。士官学校からの……、絶対に、助けたい」
「……オーケー、その言葉が聞きたかったの。サニー、お願いできるかしら?」
ラチェットが微笑んで、背後を振り向く。すると、ラチェットの後ろからぬうっと眼鏡の男が顔を出した。
「やあ、初めまして大神司令。マイケル・サニーサイドです。話は聞かせてもらいましたよ」
「あ……初めまして。帝国華撃団司令、大神一郎です。ご挨拶もせず、突然不躾なお願いで申し訳ありません。どうか……どうかよろしくお願いします!」
初対面のサニーサイドに突然頼みごとをするのは気が引けたが、そんなことを言っている場合ではない。必死に頭を下げる大神に、サニーサイドは微笑んだ。
「了解。大丈夫、安心してください。ラチェット、すぐに連絡を。ああ、一応王先生にも声をかけてくれ。それから大神司令、そのキンプンとやらのデータをすぐにこちらに送ってください。……患者の移送はどうします?」
「……帝撃の翔鯨丸を出します。非武装積載で飛べば、約4日間で紐育までなんとか行けるはずです。メンテナンスと復路の燃料補給をお願いできますか?」
「勿論!素晴らしい!翔鯨丸はトーキョーから紐育までノンストップで航行できるんだね?さすがは帝国華撃団だ」
「……あくまで、理論上は可能というだけです。しかし、他に手段がありません。4日間かかるだけでも、加山の命は危ない……医療ポッドを積んで、こちらから医師に同行させます」
「オーケー、ではお互い準備にかかろう。人事を尽くしてテンプラを待つ、だね」
大神は、訂正はしないことにした。
すぐに格納庫へと走り、翔鯨丸に医療ポッドを積載してもらい、発進の準備を整える。月組へ赴き事の次第を説明すると、付き添っていた医師が紐育までの同行を快諾してくれた。月組隊員に指示をし、長安の金粉にまつわるデータを紐育華撃団へと送信する。
するべきことを終えてから、大神は意識のない加山の青白い顔を見つめ、その手をぎゅっと握り締めた。
「……おまえは絶対に助かる。だから、頑張れ。元気になって……必ず、帰って来てくれ」
本当は、大神も同行したいと思った。しかし、司令である自分が帝撃を空けるわけにはいかない。
本当は、加山が心配で胸がつぶれそうだった。
大神は、手の微かな震えを力を込めて押さえつけた。
加山は、ずっと夢を見ていた。
とても寂しい夢だった。
周りには誰もおらず、一人ぼっちでぼんやりとした世界にいるような感じだった。
そこで、加山はいろいろなことを考えた。
けれど、考える端から思考はぼんやりとした周囲に溶けていってしまい、能動的に考えることができなくなっていった。
そしていつか、自分という輪郭がぼやけて、周囲との境界がわからなくなっていった。
それでも特に、なんとも思わなかった。
それが自然なことだと感じたからだ。
しかし急に強い力で身体の芯をつかまれたように感じて、自分から周囲がぼろぼろと剥がれ落ちていった。
ああ掬い上げられたのだ、と思った。
徐々に自分の輪郭がはっきりとして、境界を意識した。
それは加山にとって不安と、同時に安堵感をもたらした。
「いよう、大神ぃ」
「……加山!もう、起きてもいいのか?」
「ああ、もう大丈夫だ。明日には抜糸だし、もうしばらくしたら帝都に戻れるそうだ」
「そうか……よかった、本当によかったよ」
自室のキネマトロンへの通信を、てっきりサニーサイドかラチェットからだと思って受けた大神は、加山からだとわかって驚いた。加山の状況の報告は逐次受けていたのだが、まさか突然本人から通信がくるとは思わなかったのだ。
加山が倒れてから、初めて心から笑えたような気がする。
「いろいろありがとう、大神。おまえが便宜を図ってくれたおかげだ。サニーサイド司令もラチェットさんもとてもよくしてくれてるよ」
「そうか……いや、礼なんて言うなよ。俺は自分がしたいようにしただけだ。……おまえにはまだまだ頑張ってもらわないといけないからな」
「ああ!早く月組に復帰したいよ。隊員たちにも心配かけただろうからなぁ」
キネマトロンの画面で見る限りでは、もうすっかり元気になっているように見える。しかしサニーサイドの話では、体内から金粉を除去するのはかなり困難だったらしく、完全に取り去ることはできなかったようだ。しばらくは霊力の低い状態で過ごさなければならないが、新陳代謝でいずれはすっかり元の状態になるだろうという見通しだと聞いている。
「おまえ、まだあんまり起きたりしないほうがいいんだろう?もう休めよ」
「ん、そうだな。それじゃまた連絡するぞ!」
「ああ……あ、そうだ。かえでさんが随分と心配してたぞ。おまえから直接連絡を入れろよ」
「ああ、わかった」
キネマトロンのスイッチを切って、大神はふうと息をついた。久しぶりに元気な加山と会話ができてとても嬉しかった。
同時に、かえでのことを考える。加山が倒れたときに、一番心配そうだったのがかえでだった。あれほどに取り乱すなんて、まさか、と鈍い大神も考えを巡らさずにはいられない。
かえでが加山のことを想っていたとしても、それはまったく不思議なことではない。
そして加山もまた、かえでのことを想っていたとしても不思議ではない。
それなのに、なんとなく胸が痛むのはどうしてだろう。
ふと窓の外を見ると、春の水色の空が広がっていた。
早く加山が戻ってくればいい、と思った。
「やあ、加山くん。お見舞いに来たよ」
「ミスター・加山、具合はどう?」
「サニーサイド司令に、ラチェットさん!もう起きられるようになりましたよ。紐育の医療技術は素晴らしいですね」
サニーサイド邸のあるセントラルパークから程近い病院に加山は入院していた。一流の医師の手配といい、サニーサイドの権力にはまったく驚かされる。
「勿論さ。でも、王先生の鍼治療に因るところもかなり大きいんだよ。東洋医学は実に興味深い。まだしばらくは体内にキンプンが残っているから、漢方で治療を続けることになりそうだ」
「そうですか。……本当に、お二人には感謝しています。こんなによくしていただいて……」
「いやあ、なに。……君を助けたら、帝撃に貸しができるからねぇ。お安いご用だよ」
サニーサイドが加山に向かって、胡散臭いくらいに爽やかに微笑む。実際、胡散臭いところがかなりあるのだが。
「ちょっと、サニー……」
「いいんだよ。ボクがこう思ってることは事実だし、加山くんがボクたちのおかげで助かったのも事実だ。大体ボクは、建前ってやつが好きじゃない。ラチェット、君だってそうだろう?今回のことに関してもさ」
ラチェットが少し困ったように加山をちらりと見ると、加山は微笑む。
「僕も、そう言ってもらった方が気が楽です。真意がわからないのが一番怖い。僕は帝撃を心から信頼しています、だからこそサニーサイド司令のことも信頼できる」
加山の言葉を聞いて、ラチェットも安心したように微笑んだ。
「帝撃を信頼している……それは、何より大神一郎を信頼している、ということね?ミスター・加山」
「……勿論、そうです」
「……よかったわ。私も、建前ってあまり好きじゃないの。だからこそ、今回大神一郎に協力したのよ。……帝撃のメンバーとしてだけでなく、あなたを大切な親友だと言った、彼にね」
サニーサイドも、うんうんと大げさにうなずきながら微笑んでいる。
「ミスター・米田が引退して、正直心配していたんだよ。だけど帝都も平和になったし、君たちならきっとうまくやれそうだね。ちょっと安心したよ」
「そうね。私たちも早く紐育の守りを固めたいわね。そのときは……ミスター・加山、協力していただけるでしょう?」
病室の窓からは、セントラルパークの豊かな緑が見える。摩天楼との対比が非常に美しく、ここがホテルの一室ならば完璧なのに、と加山は思う。
そして、まだ自分が帝都で落ち着くには早いのだとも思った。
「さぁて、人事も尽くしたし、そろそろテンプラが食べたいよねぇ。加山くん、早く退院してうちのスタッフにテンプラの作り方を教えてくれないかなぁ」
「?いいですよ。何を揚げますか?」
「うーん、そうだなぁ……ホットドッグとか、ポテトとか……あ!ホットケーキもいけるかもしれないねぇ」
多分いけない、と加山は思ったが、まだ言わないことにした。
紐育から帝都まで、船で何日かかるだろう。
早く帝都に帰りたいと加山は思った。
だから早く傷を治して、船に乗らなければならない。
加山がいなくても、大神はきっと司令として頑張っているだろう。
弱音も吐けないくらいに頑張っているに違いない。
自分が大神にとって特別な存在だと思うことは自惚れかもしれないが、それが嬉しいんだからしょうがない。
今日の通信では、早く帰りたいということと、天ぷらのことを話そう、と思った。
フライエンド!