江田島の冬は、暖かい。しかし、人間の感覚なんて相対的なものだ。故郷の冬を思い出せば、ここの寒さなんて問題にならないくらいだというのに、今日は寒いな、などと口にしている。
ああ、なんてあてにならないこの身体、この感覚。
今日の午後は自由時間。士官学校の休日なんてそんなものだ。それでも普段はまったくと言って良いほど自由な時間はないので、待ち遠しい休日ではあるのだが、することがなくて困るのもしばしば。
同室の加山はどこに行ったのか、姿が見えない。部屋にいても退屈なので、ぶらぶらと散歩をするうちに、海岸に足が向いた。
あまり波打ち際を歩くと砂に足がはまり込んで難儀するので、少し離れたところをゆっくりと歩く。
天気は薄曇り。冬の屋外では、晴れているときよりも雲があるときのほうが暖かいものだ。風もなく、水平線や瀬戸内の島影が淡く霞んでいる。
ぼうっと航行する小船などを見ていたが、ふと視界の隅に動くものを認めてそちらを見る。少し向こうの波打ち際に、何かが浮かんでいるようだ。ゆらゆらと揺れるそれに向かってゆっくりと歩き始めるが、そのものの正体が自分の中で疑いから確信へと変わっていくにつれ、俺の歩調は早くなった。
「………何してるんだ、おまえ」
波打ち際でゆらゆらと海水に浸かり、胸から顔にかけてを水面に浮かばせていたのは同室の加山だった。力の抜けた両腕がぷかぷかと、身体から離れて浮かんでいる。
「……ん」
「……寒くないのか?海水浴にはだいぶ早いと思うが」
俺が声をかけると、加山は閉じていた目をゆるりと少しだけ開けた。もともとそれほど目が大きいわけではないので、開くところを見なければやさしげな睫毛の影となってしまい、目を開いているのか閉じているのかわからないだろう。
「…いや〜、海水って結構温かいんだよなぁ〜。一度入っちゃうと、出ると寒いだろ?だから、出られなくなってるところだ」
「………どうして入っちゃったのかは、訊かないでおいてやろう」
「…大神はやさしいなぁ〜。ちょっと入りたかっただけ〜、なんて、信じてくれないだろうしなぁ〜」
瀬戸内の海は波が穏やかだ。特に今日は、波なんてほとんどないと感じるほどに。
天気のせいで、海面が太陽の光を反射してきらめいているということもなく、ただ海水は透きとおっているだけだ。服を着たままゆらゆらと半分浮かんでいる加山を見ていると、水なんてなくてただ空中をふわふわと漂っているように見えてくる。
「……そろそろ上がらないと、気温が下がり始めるぞ」
「…ああ」
受け答えはしたものの、一向に起き上がる気配のない加山に手を差し伸べようと、足を踏み出す。
「ダメだ。近づくな。オレ、病気だから」
「……え?」
思わずぴたりと足を止める。加山はふわふわと漂うまま、わずかに顔をこちらに向けると、笑った。
「恋の病」
「あ?」
予想もしなかった言葉に、なんだか力が抜けて肩ががくりと落ちた。それが本当ならば、一瞬でも心配して損した。
「………その病気は、近づくと感染するのか」
「いいや〜。………ただ、オレの病状が悪化すると困るんでなぁ」
加山は、ただゆらゆらと浮かんでいる。目を離してしまったので、まぶたが開いているのか閉じているのかわからない。
「……どういう意味だ?」
「あれ〜。わかんない?恋しい恋しい大神くん」
加山の茶色い髪が、海水にゆらゆらと遊んでいる。いつもはつやつやと生気に満ちている肌が、妙に生白く病的に見え、俺は加山の水死体を想像して背筋がぞくりとした。
「……いつまでもクラゲみたいに浮かんでないで、上がってこいよ」
「……ん〜、オレ、クラゲなの。大神に、骨抜き」
何を言えば良いのかわからなくて、ただ加山に水から上がって欲しくて、ばしゃりと片足を波に踏み入れた。
驚いたように目を見開いた加山の二の腕を掴むと、強引に立ち上がらせ、反動でふらりと揺れた腰を抱き寄せる。
最初は同じくらいか、俺の方が低いくらいだった身長が、いつの間に俺が追い抜いたのだろうとふと思う。加山は目を見開いたまま俺の顔を見たが、その瞳を見つめ返すと、顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「………大神ぃ、悪化する」
「顔、上げて」
目をそらされて気づいた。俺は加山の目が好きだ。やさしく透きとおる、鳶色の瞳。
加山がゆっくりと、顔を上げる。その目を見たくて顔を上げさせたが、寒さのためか色を失いつつある唇が震えているのに気づいて、そこに唇をつけた。
冷たい唇。震えを止めたくて、強めに唇を押し付ける。
もっとその瞳を見ていたかったのに、加山は目を閉じてしまっていた。至近距離で、やわらかそうな睫毛が震えているのがわかる。
「………どうするんだよ、あんなことして」
「責任は取るよ」
横を歩いている加山の腰に腕をまわして引き寄せると、まぶたにキスをした。加山の肩がびくりと揺れ、足が止まる。
「……責任?」
「おまえを、俺のものにする。それでいいか?加山」
きれいな瞳だ。
「……言ってみるもんだなぁ。なんか、得した気分だ」
「……俺は、おまえの目が好きだ。すごく」
加山はひとつ身震いをすると、足早に歩き始めた。寒いだろうに、そんなことを微塵も感じさせない足取り。
「……寒くないのか?」
「ああ。大神と一緒にいるからかなぁ」
そういえば、と俺も足を濡らしていたことに思い至る。濡れているのは感じるが、不思議と寒いとは思わなかった。冬の海で、俺たちは狂ってしまったのだろうか。
加山が、笑いながら振り向く。濡れた髪がばらけて、その瞳を隠した。
俺はなんだかそれが許せなくて、加山の前髪を押さえて額を全開にしてやりたい衝動に駆られたが、そんなことをしたらきっとまたキスをしてしまうだろうと思い、こらえた。
キスばかりしていたら宿舎に戻れないし、第一、風邪をひいてしまうかもしれない。
ふわふわ、ゆらゆらと行く俺たちは、あの薄い雲の広がる空から見たら、2匹のクラゲに見えるだろうか。