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「大神さん」
廊下で不意に声をかけられて、大神は反射的に振り向いた。声をかけてきたのは三号生徒の松島だった。
「加山さんが寝込んでるって本当ですか?」
どこから聞きつけたのか、加山が熱を出して寝込んでいるという情報が下級生にまで広まっているらしい。常に注目を集めている二号の主席と次席、しかも一緒に行動していることがほとんどの大神と加山であるから、どちらかが欠けていれば皆が勘繰るのは当然のことかもしれないが、本人たちにはその自覚がない。
「ああ、そうだけど……なんだ、噂にでもなっているのか?」
加山自らが公言しているように、確かに加山はタフな奴だった。風邪や病気はもちろんのこと、多少のことであれば怪我すらしない。泥だらけで帰ってきて「崖から落ちた」だの、ずぶ濡れで帰ってきて「海に落ちた」だのを聞かされるたびに、加山の丈夫さに大神は密かに感心していたのだ。
「次の土曜の巡航、お二人とご一緒できるのを楽しみにしていますので、加山さんにはくれぐれもお大事にとお伝え願います」
小柄な松島がぴょこんと頭を下げて、廊下の向こうへ走って行く。そちらには、遠巻きにして待っていた三号生徒たちが数人いて、松島を輪の中に迎え入れて歩いて行った。上級生と下級生が気軽に会話をすることはあまりないが、そんな中で大神と加山はそれぞれ下級生と上級生に慕われていて、声をかけられる機会も多い。上級生に対しても物怖じすることなく、また下級生には気さくに応じる二人の態度が自然と彼らの周りに人を集めるのだった。おそらく松島は、三号生徒の輪の中で、憧れの大神と会話を交わしたことを自慢げに語っていることだろう。
(……いや、いくら無防備に置いてあるからと言って、アレは不可侵なものだ)
今まで気にしたことなどなかったのに、部屋の片隅に置いてあるその箱がどうしても気にかかる。何の変哲もない木製の箱で、いつもならばそうは見えないのに、なぜかふたがずれて閉まっているようにさえ思えてくる。
(…………少しくらい、いや、いかん。大切なものだからこそあの中に入れてあるのに……)
基本的に士官学校内への私物の持込は禁止である。しかし、休日に外出したからと言って持ち物を改められるわけでもなし、正月にでも帰省してくれば大事な宝物とやらを持ち込むことも可能だ。
(………………ちょっと見るくらいなら……)
「何をしてるんだ」
机に座っても教本を開くわけでもなく、ちらちらと壁際の衣装箱を見ていた加山に大神の声が飛ぶ。
「休んだ分を取り戻すんだろう?航海学なんて八ページも進んだんだぞ。早く読めよ」
夕食後の時間は、部屋で各自自習である。しかし、定期的に見回りが来るので、遊んでいるのがばれると鉄拳を食らうはめになる。大神は医務室からもらってきた薬の袋を加山の机に置くと、隣の机に座った。
「三号の松島がおまえのことを気にしていたぞ。お大事にと言っていた」
松島が大神に憧れているというのは、加山には非常にわかりやすい事実だった。いつも大神と共に行動しているので、松島が大神をいつも熱のこもった視線で見つめているのを知っている。そのたびに加山は一人気まずい思いで目をそらし、気づいていないふりをしているのだ。松島は、まだあどけなさの残る外見とは裏腹に三号の主席を争っていて、決して馬鹿な奴ではない。
「いやぁ、片方がいないと目立つって、それだけの意味だ」
大神が少し笑って教本を取り出す。加山と同じ、航海学だった。復習の必要などないのに生真面目な奴だなぁ、と加山は思うが、同時に、自分に付き合ってくれるのだと思って嬉しくなる。
「天気が良いといいな」 |