キルシュバウムメイデン/ドールハウス

屋敷を出て行く大神と加山を見送り、あやめはふと夜空を見上げた。
そもそもどうして自分は、こんなドール作りなんていうことを始めたんだっけ。
もう随分昔のことのような気がして、理由なんて忘れてしまった。

「……あの二人が、羨ましい?」
「いえ」

いつの間にか背後に立っていたレニを振り返ることもせず、あやめは尋ねる。レニはその無表情を崩すことなく即答した。

「大神がドールでなくなってここを去ること、これって私にとって不幸ってことになるのかしら?」
「……お母様がそう思うのなら、不幸なんだと思う」

レニは静かに息を吸い込むと、小さな声で歌を歌い始めた。その旋律は高く低く、その歌声はまるで小鳥がさえずっているようでもあり、風の鳴る音のようでもあり、木々のざわめきのようにも聞こえた。
あやめは、レニの歌声がとても好きだった。

「何かあったのか」
「あら、昴。まだ起きてたの?」

重たい玄関の扉を開けて、第3ドールの昴が顔を出す。もう眠るところだったのを、レニの歌声が聞こえたのでやってきたらしい。上着を羽織ってはいるが、寝巻きであるため滅多に見せることのない薄紫色のベビードールを着ていた。うっすらと透けているまっすぐに伸びた腕や脚が、人間離れしていて美しい。

「……いいえ。この歌は、代償の歌ではないわ。レニが私のために歌ってくれてるの」
「……そうか」

大きな屋敷を包むように吹く風が周囲の木々を揺らし、レニの歌声がするすると吸い込まれていく。
レニの美しい歌を聴きながら、あやめは考えていた。
自分自身がレニのマスタであることを、やめる時期がきているのかもしれないということだ。
大神のような生まれついての性質を利用したドールは初めてのケースで、今まであやめが手がけたドールはすべて幸福の代償として別の行為を行わせてきた。
レニの場合は歌である。マスタに不幸がふりかかりそうになったとき、レニは歌う。

「……昴は思う。そろそろ、レニを外に出した方がいいんじゃないか、と」
「……そうね」

以前レニをつかせたマスタは、ものすごい量の不幸を背負った人物だった。レニはその不幸をすべて歌い、歌い、歌った。声が枯れ、喉が腫れ、眠ることもせず、血を吐くようにして歌っていた。
あやめはそんなレニの姿に耐え切れなくなり、その人物の運命台帳を改竄した。
もともと嫌で飛び出してきた世界だったから、その罰により二度と戻れなくなってもつらくはなかった。
そして、レニを自分の下へと連れ戻し、ドールのあり方についてひたすら悩みぬいた。 そんなとき、レニががらがらに枯れてしまった声でこう言ったのだ。
歌を歌えることが何よりも幸せだと。
あやめはレニを抱きしめて泣いた。そしてしばらくは、レニを自分のドールにすることに決めたのだ。
あやめの願う人間の幸せ、そしてドールの幸せ。
その間で自分は一生悩み続ける。それこそが自分に与えられた罰なのだ、ということに、気づいた瞬間だった。

「……幸せは、主観的なものです」
「……花火……」
「だから、お母様が悩まれることはありません。レニは、自分で考えることのできる、立派なドールです」

いつの間にか、第2ドールの花火も出てきていた。下半身の部分がふわりとふくらんでワンピースのようになっている着物を着ている。黒い髪と深い紺色の着物は闇に溶けているが、襟元や袖口にあしらわれた白いレースと赤い帯締め、そして何より雪のような真っ白な肌がぼんやりと光っているように見える。

「お母様、もっと私たちを信じてください」
「昴は思う。僕たちもお母様と一緒に、幸せを模索しているのだ、と」
「……あなたたち……」

レニの歌声が不意に止んで、じっとあやめを見据えた。

「……ボクは、お母様のために歌えるのが幸せ。それでいい」

そうだ。
幸せは人それぞれ、みんな違う。
大神のように普通の人間として幸せを得る者もいるだろう。そして、

「……私はもう、十分幸せだったんだわ……」

風が雪雲を払い、鏡のような月が屋敷の上に光った。


モドル