キルシュバウムメイデン7

「……えっ?!嘘ぉ、本当に?……うん、うん……そっかぁ、わかった。ならしょうがないよね」

手洗いから戻った加山は、職場の廊下で携帯電話で話している由里を見た。由里もこちらに気づいてちらと目線を合わせたが、すぐに口元を覆い、会話をまとめにかかったようだ。さすがハイカラなOLは携帯を持ってるもんなんだねえ、などと思いながら机に戻る。携帯電話といえばだいぶ一般的にはなってきたが、普及にはもう少し時間がかかりそうなところで、面倒なことが嫌いな加山は当然のことながら持っていない。
数分後に、由里が隣に戻ってきた。なんとなく落ち着かない素振りなのが気になって由里の方を見ると、ばっちりと目が合う。

「……ねえ、加山さん。今夜、何か予定あります?」
「……へ?なんで?」
「実は、さっきの電話、一緒にお芝居を見に行く約束をしていた友達からだったんです。急にご親戚に不幸があったとかで、キャンセルになっちゃって……」
「はあ」

心底困ったように喋る由里を見ながら、うーん表情が豊かな女性は素晴らしい、と加山は思う。

「今晩7時半開演なんですけど、よろしければ付き合っていただけませんか?だって、せっかく手に入れた帝劇のお正月公演のチケットなんですよ!もったいないと思いません?!」
「えっ?!……い、いいの?」
「あ、勿論チケット代はおごりますよ。……ダメですか?」

あー、その上目遣いは反則だ。



「あー、面白かった!ねえ、1幕の終わりのどたばたのシーン、すごかったですよね!」
「ああ、あれはすごかったなぁ〜!いやまさか、男役トップのマリアさんがあんな格好をするとはねぇ〜」
「本当に!私、笑いすぎて涙出ちゃった〜!」

芝居の興奮覚めやらぬ2人が心持ち大きめの声で話しながら劇場から出ると、雪がちらついていた。銀座の大通りは黒く濡れ、あたたかいガス燈の光に白い雪が舞っている。

「わあ、雪だわ」
「うん、どうも今日は今朝から冷えると思ってたんだよなぁ」

冷たい空気も、観劇で火照った頬には気持ちがいいくらいだった。隣の由里が嬉しそうに手のひらを上に向けて、雪を受け止めようとしている。

「ねえ、私お腹空いちゃった。どこかでご飯食べて帰りません?」
「ん、ああ、そうだなぁ……」

寒いし、居酒屋のカウンタで熱燗をきゅっと一杯やりながら、2人でおでんでも食べたらうまいだろうなぁ、確か由里さんはいけるクチだったよな、とそこまで考えたところで、部屋のゴスロリ青年を思い出す。もしかして、今夜も怪我を増やしてオレの帰りを待っているのかもしれない。

「……あのさ、オレ、やっぱり」

語尾は、鋭いブレーキ音にかき消されて聞こえなかった。
降り出した雪にタイヤを滑らせた乗用車が帝鉄に突っ込みそうになり、きったハンドルの先が歩道の加山だったのだ。

「危な…………っ!!!」

誰かの高い悲鳴が聞こえた。



路面にしたたかに肩を打ちつけて、顔をしかめる。腕の中にかばった由里は、顔面蒼白になっていたが大丈夫そうだ。

「ちょっ、誰か!!救急車!!!」

往来の誰かの声にはっとして加山が振り返ると、蒸気の煙をもうもうと上げている乗用車が横倒しになっていた。ガス燈がぐにゃりと曲がっている。その陰から、やけに鮮明な赤い液体がつうと流れ出すのが見えた。

まさか。

「……痛ったぁ…………、加山、さん?」

由里をその場に残すと、よろめく足で立ち上がり、事故現場に向かう。
そうだ、オレが。はねられたのは、オレじゃなかったのか?

「……大神……?」

なぜ、大神が倒れているんだ。

濡れた路面に広がる黒いスカート。
胸元の白いはずのレースが、真っ赤に染まっていた。


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