「大神……起きてるか?」
夜中に突然小さな声に起こされる。うつらうつらとしていた俺は意識だけが戻るが、身体を動かすほど覚醒したわけでもなく、そのまま眠っている。
「……寝たのか」
そうだ、俺は寝ている。用事なら明日にしてくれ、と言わんばかりの無反応。
すると、近くに感じていた加山の気配が動いて、唇にやわらかい感触が降ってくる。
数秒の接触の後無言でそれは離れ、加山が二段ベッドの上の段に上る気配を感じた。
あんなにも眠たくて開かなかったはずの目が、ぱっちりと開く。
………なんだ?今の。
また次の夜。俺が眠りかけた頃に呼びかけてくる、加山の声。
「大神……起きてるか?」
今日は目だって開けられるし、発声もできる程度の眠りの浅さだ。それでも俺は目を開けることもなく、規則正しく呼吸をすることに意識を傾け、そのまま眠っているふりをする。
そして、唇におとずれるやわらかい感触。
注意深く薄く目を開けると、加山の顔がすぐそばにあることがわかった。
………今日は昨日よりも長いな。
なんで加山はあんなことをするんだろう?
黙って唇を奪われている自分も悪いのかもしれないが。
……それにしても、キスって案外あっけないものなんだな。ただ、唇と唇が少しくっついているだけじゃないか。
…それでも、まったく無意味というわけでは絶対に、あるまい。
どうして俺にキスするんだ?なんて、面と向かって訊くのは恥ずかしいし。大体、そうしたら起きていたことがばれてしまうし、まるで俺が卑怯者みたいじゃないか。
うーん、次があるのならば、起きているぞ、と素直に言うべきか。それとも、終わった後に何をしているんだ、とでも言ってみようか。でも……
どうして加山が夜毎に自分にくちづけるのか、その理由を知りたいと思いつつも、それを尋ねたら密やかなあの行為は終わってしまうかもしれない。期待していたよりもあっけない接触に感じた、キス。
それを少し、楽しみにしている自分に気づいた。
次の夜、加山の姿が見えない。確か、風呂にはいたと思ったが……
消灯時間になっても部屋に戻ってこないので、俺はいささか心配になった。いくら俺の予想しない行動をとることが常のあいつでも、こんな時間に部屋にいないことが教官にばれたら、ただじゃすまないだろうと思ったからだ。
教官に見つかったときの言い訳を考えながら、部屋を抜け出す。とりあえず宿舎の中を捜して、それでも見つからなかったらお手上げだ。俺はもう知らん。
物置部屋の前に差し掛かったときに、その部屋の中から物音と、微かな呻き声のようなものが聞こえた。不審に思った俺は今までよりも丹念に気配を消し、物置部屋の扉を少し開いて中を覗き見る。
暗がりでうごめく人影。…3人か?1人は手前に立っていて、2人は壁際に積み上げられた箱の前にかがんでいるような……いや、寝転がっているのか?
天井近くに開いた格子の嵌まった小さな窓から、不意に月明かりが差し込んで、壁際でこちら側に顔を向けている2人の顔が照らされる。
……加山?!
すぐに月光は雲に遮られたらしく室内は元の暗闇に戻ったが、一瞬見えた顔は加山に違いない。髪はぼさぼさに乱れ、さるぐつわを噛まされ、頬に光っていたのは…涙か?そして、ほとんど衣服をつけていないような……
一瞬で頭に血が昇り、俺は勢いよく扉を開けると、その場にいた加山以外の2人を殴りつけていた。2人相手では分が悪いので、手前に立っていた方は鳩尾への一撃で沈んでもらい、縛られて動けない加山に覆い被さっていたであろう奴は、顔面を殴った。手加減はしつつも、脳が揺れて反撃できないくらいの強さで。
すると、物音を聞きつけたのか、教官が物置部屋に駆けつけてきた。
「おい!おまえら、何をしている!」
胸倉を掴んでいた手を強引に剥がされ、教官は室内を見回す。縛られ、衣服を破られている加山は、ぐったりと目を閉じている。俺に殴られてのびている2人の顔を見ると、上回生であった。
若い男ばかりの宿舎では、このような事態が起きることもそれほど珍しいことではないらしい。教官は何も言わず、携帯していたサーベルで加山を戒めた縄を切ると、俺を睨んだ。
「大神、貴様は今夜一晩、反省房で頭を冷やして来い」
反省房の冷たい壁に頭をもたせかけ、ぼんやりと思い返す。
上回生にあんなことをされて、加山はかなりの屈辱を味わったに違いない。もっと早くに俺が駆けつけていれば、と思うと、どうにもならなかったこととはいえ、悔しさで頭に血が昇った。
同時に、暗闇で見た加山の姿が目に浮かぶ。縄で後ろ手に縛られ、さるぐつわを噛まされていた。あらわになった肌は、破れた衣服のせいか、風呂場で見る裸よりもずっと艶かしいものに見えたような気がする。抵抗したのであろう、身体は所々に血が滲んでいたし、顔も腫れているように見えたのは、殴られていたからなのかもしれない。
そして、頬に光っていた涙。あいつの涙をこんなかたちで見ることになろうとは、思ってもみなかった。
………今夜は、キスできないな。
加山の唇の感触を思い出すと、今頃あいつはどうしているだろうと、気になった。怪我がひどくなければ良いが……
俺たちが向き合って話をする機会が訪れたのは、次の夜だった。
「加山……大丈夫か?」
窓際に座っている加山の肩に手を置くと、ぴくりと身を震わせ、こちらを振り向く。やはり顔には傷があり、ランニングシャツからのぞくなめらかな肌にも擦過傷のようなものが見て取れる。
「ああ…。大神ぃ……昨日は反省房だったんだろう?迷惑かけたな……」
「何を言ってるんだ!おまえのせいじゃないんだから…」
無理をして笑顔を作っているが、その覇気のなさから、やはりショックを受けている、という印象を受けた。そりゃあ、あんなことをされて何とも思わない奴がいるわけがない。
「一体どうしたんだ…どうしておまえがあんな目に…」
「う〜ん、オレもよくわからん。廊下であいつらに声をかけられて、そのままあそこに連れ込まれたんだ。…まさか、あんなこと………されるとはなぁ…」
加山は頭を大きくひとつ振ると、うつむいた。思い出してしまったそのことを、頭の中から必死に追い出そうとしているようだ。
いつも陽気で明るい加山のそんな姿を見ているのは、ものすごくつらい。
だからなのか何なのか、傷ついた身体と心を癒せるようにと、俺は加山を強く抱きしめていた。
「加山、かやま……災難だったな。早く、忘れろ……俺で良ければ、そばにいるから」
体格はほとんど俺と変わらないのに、抱きしめた身体は妙に頼りなく感じる。安心したように加山は身体の力を抜くと、身をあずけてきた。
「ありがとう…大神。……しかし大丈夫だ、未遂だ。純潔は守ったぞ!」
ようやくいつもの調子で喋る加山に安堵して、少し笑う。
「何と言ったら良いのかわからんが……間に合って良かったよ」
「ああ、まあ…オレは男だからな。あれくらい大したことはないのかもしれないが……やっぱり、なあ!こう……好きな人とじゃないとな!ああいうことはなぁ〜」
ぎゅっ、と抱きついてきた加山に少し、動揺する。
………好きな人か。加山の………、俺の?
「加山……寝ているのか?」
消灯後の暗闇の中、二段ベッドの上段で横たわっている加山のもとへ、梯子を上る。規則正しい寝息は、聞こえていない。
「…寝ているんだろう?」
それは、最早問いかけではなかった。仰向けで目を閉じ、加山はおとなしく寝たふりを続けている。
上回生に蹂躙されそうになったこの身体。そう思うと、普段は特に意識をしない加山の身体が、ひどく頼りなく大切で、守らなければならないものに思えた。
「……起きていても良いから、寝たふりをしていろ…」
目を閉じたままの加山にのしかかると、俺はその唇に唇で触れた。そのまま押し付けるとやわらかい唇が少し開き、誘われるままに舌をそっと潜り込ませる。加山の吐息が少し乱れたのを感じ、身体の中心を駆け上る熱い感覚に目が眩んだ。
あ、キスというものはこういうふうに………いや、いかんいかん。
唇を離すと、加山が息をついて、潤んだ瞳で俺を見上げる。
「………やっぱり、気持ち悪いか?男とじゃ……」
上気した頬で、少し心配そうに眉を寄せている。やわらかい唇から紡がれた言葉は、僅かだが震えているようだ。
……どうにも俺は、こいつが大切でかわいくて、仕方ないらしい。
「……いや、その逆だ。止められなくて、困る………」
今更、顔が熱くなる。見つめ合っている格好が妙に恥ずかしくて、加山の隣に寝転んだ。
「……オレに気を遣ってくれてるのか?大神ぃ。………それならこの次まで、おあずけだな♪」
「俺は犬か!」
勢いよく起き上がると、加山のベッドを飛び降りて自分のベッドに潜り込む。火照った肌に冷たいシーツが心地良かった。
「………とても今夜は眠れそうにない」
小声で呟くと、上段から小さく笑う声が聞こえる。
「……オレも眠れないかもしれないなぁ〜……なんだか妙だが、まあ、楽しみはとっておこうじゃないか大神ぃ♪」
「う………」
これは、あれか。俺が加山に振り回されるということなのか。由々しき事態なのか、喜ぶべきことなのか……
………とにかく、加山が元気になって、良かった。
「おやすみ、大神」
「おやすみ、加山」
今夜はもうお互いに干渉しない、という意味の挨拶をすると、目を閉じた。
……加山を励ますというか、慰めるつもりだったんだが……もしかしたら俺には、ものすごい下心があったのかもしれない。
親友なのに!加山だぞ、加山。
……加山め……
よみがえってくるやわらかく濡れた唇の感触を、必死で抑え込もうと努力する。しかしそれは、徒労に終わりそうだった。
………加山が寝付いたのを確認するまでは、決して手洗所には立つまい………
この事件をきっかけに、俺と加山の関係が結構な速度で深まっていくのは、かなり予測のできる事態かも、しれなかった。
それでも今夜は、やさしい沈黙に身を任せて、個別の眠りにつくことにしよう。