ハラ様 御中

邯鄲の夢

こういうところには来てはいけない、迷い込んではいけないと、言っていたのは誰だったか。
思い出したところで、もう迷い込んでしまったのだから遅すぎる。

辺りは薄暗く、夕闇が迫っているせいなのか、それとも鬱蒼と茂った樹木のせいなのか。
背高く真っ直ぐに伸びた竹かとも思ったが、どうも違うらしい。
針葉樹の類かもしれぬ。
それが何の木なのか検分する余地はなかった、何者かに追われているのだから。
それが何物なのか、逃げている自分にも到底わからぬ。

しばらく走ると、小さな家があった。
庵とでも言ったほうが相応しいかもしれない。
人の住んでいる気配があったので、迷わずそこに飛び込んだ。

「おや、どうしましたか」

入り口の柱に手を突き、息を切らしている俺を見て、家人はそれほど驚いた様子もなかった。
狭い座敷の真ん中には炬燵があり、そこに着物姿の長髪の男が座っている。
立ち上がりもせず、まあ入って休みなさいと、にこりと微笑んだ。

座敷に上がり込み、炬燵に入ると中の火鉢のおかげで随分と温かい。
自分の身体がすっかり冷えていたことにようやく気づいた。

「腹が減っているんじゃないか?大したもてなしはできないが」

そう言って、俺が止める間もなく男が立ち上がると、小さな土間にある台所へと向かった。

部屋の中をぐるりと見回す。
炬燵以外はほとんど何もないような部屋だった。
どうやら家には先程台所へと立ち上がって行った、あの男しか住んでいないらしい。
小さな抽斗が部屋の隅に置いてあるばかりで、主人が座っていた後ろの木の扉が、次の間への扉なのか、物入れの戸なのかは判別はできなかった。
主人と向かい合う形で腰を下ろした自分の背後は障子で、すぐに外というわけではなく、小さな縁側がついているようだ。

「こんなものしかないが、よければどうぞ」

男が盆の上に乗せてきたのは、握り飯と湯気を立てている味噌汁だった。
急に腹が減っているのに気づき、ありがたく頂戴することにする。

「……それにしても、君みたいな人がどうしてこんなところに迷い込んでしまったんだ?」

握り飯に噛り付いた俺を微笑みながら見ていた主人が、ぽつりと問いかけてくる。

「ここは、死人の住む場所だ」

それを聞いて、どきりと心臓が打った。
ただ微笑むばかりの、目の前の主人をまじまじと見つめる。
驚きはしたが、それで妙に納得してしまった。
そうか、ここは死者の住む森であったか。
では俺は死んでしまったのか?
いや、どうもそうではない。それだけはわかる。

ささやかな食事に満足し、礼を言うと主人が盆を持って台所へと立つ。
外が暗いので雨戸を閉めてくれないか、と言われ、背後の障子を開けた。
すると、辺りをきょろきょろと慌てた風に見回しながらこちらに近づいてくる女がいる。
まずい、と思った。

「……追われているんだ。そいつが、外に」

そう言うと、主人は黙って袂から手拭を取り出し、俺に手渡した。
桜色の小花柄のかわいらしい手拭で、それを被れ、と俺に小声で告げる。
俺がそれを被ると同時に、家の入り口が外部から開けられた。

「ごめんください。人を探しているんです。若い、男性で。ここへ来ませんでしたか?」

入り口から、若い女の声がした。
主人が対応している。

「失礼ですが、部屋の中を拝見してよろしいでしょうか」

俺は、まずい、と思ったが、どうすることもできない。
ただ黙って、被った手拭に顔を隠すように、じっと炬燵に座っていた。
女が、土間から俺の顔をじっと覗き込んでいる。

「……似ていますが、違うみたいですね。何よりそちらの方、女性ですし」

失礼しました、と言って女は出て行った。

どうやらこの手拭には、不思議な力があるらしい。
しかしどうして俺は追われているんだ?
どうして逃げているんだ。
訳がわからない、部屋の中まで夕闇が迫る。
主人が黙って、炬燵の向かい側に腰を下ろした。

どうして、何も、訊かないんだろうか。




ぼんやりと意識が戻る。
不思議な夢を見た、と思った。
窓に引かれたカーテンを開けると、終わりかけた朝焼けが眩しい。
中庭で、竹刀を振るう人影を見つけた。

「……おはようございます、大佐」
「ああ、山崎か。早いな」

夢の中に、この人が出てきたことは確かだ。
酷く不思議な夢だった。
なんとも、感想の抱きようのない夢だったようだ。

「……ここで、見ていても構わないでしょうか」
「ああ、別に構わない。……どうしたんだ?今朝は」

それがただの自分を気遣うだけの言葉であることを知っている。
やさしく微笑んで、傍にいることを許してくれることに甘えている。

この時間が、永遠に続けばいいと、願った。



モドル