純水装置

 その水はどこまでも透明で冷たく、決して濁ることはない。



 初夏の風が心地よい午後、大神は窓辺で江田島の海をぼんやりと眺めていた。ここ海軍士官学校に入学してから1ヶ月余り、そろそろ緊張が解け、故郷への思いが募ってくる頃である。大神とて例外ではなく、栃木の家族に手紙でも書いてみようかと考えているところだ。
 黒い髪がさらさらと風になびき、白い顔を影が撫でていく。頬杖をつく仕草はまだ少し幼げに見えるが、憂わしげに細められた目元には知性が感じられた。大神の優秀さや人間性、そしてその容姿に関する噂はあっという間に学校中に広まり、すれ違いざまに声をかけられることもしばしばあった。しかしそれと同時に、生意気だと妬む声もあることは確かだ。



 上級生からの突然の呼び出しに、加山は首を捻る。教官にならともかく、呼び出されるような覚えがなかったからだ。しかし、3人の上級生からの話の内容を聞いて、多少なりとも納得してしまった。

「それじゃあ、大神の呼び出しは任せるからな。俺らは倉庫で待機してるから」
「期待してるぜ」

返答に窮しているうちに、上級生たちは加山の肩をぽんと叩くと行ってしまう。話の内容は、同室である加山に大神を呼び出させるというものだった。大神を呼び出して何をするつもりなのかまでは聞いていない。大神にとっていいことが起こるとはとても思えなかった。
 確かに同室である加山は大神と親密になってはいたが、男同士なのでそれほどべたべたと一緒にいるわけでもないし、毎日の教練でお互いに疲れているので、お互いを深く知るほど会話しているわけでもない。しかし、大神がいい奴であることはもうわかっているし、ものすごく有能であることもわかっている。正直、自分よりも出来る奴に出会うのは初めてだった。
 そんな彼をみすみすそのような場におびき出す手伝いをしてもいいものか。いや、いいはずがない。しかし、上級生に睨まれたらどんな悲惨な学校生活を送るはめになるのかということも、ある程度予測できた。さて、どうしたものか……。
 加山は急に水が飲みたくなって、廊下に備え付けられている水道へと向かった。



 「あれ、加山」
「大神」

加山が水を飲み終えたところに、大神が現れた。片手に本を持っていることから、今まで図書室にでもいたのだろう。加山は迷ったが、大神に話すことにした。

「で、話って何だ?」

話があると言って、自分たちの部屋へと戻ってきた。他の誰かに聞かれたくない話をするなら当然の判断だ。

「いや、俺も話すべきか迷ったんだけどさぁ……。聞いた上で、聞かなかったことにしてくれても構わないからな」
「だから何なんだよ」

なかなか話し始めない加山に大神は少し笑いかけ、先を促す。

「上級生に、お前を呼び出せって言われた。絶対、いい意味での呼び出しじゃないと思う。応じるにしろ応じないにしろ、知っておいた方がいいかなあと思ってなあ。……勿論、聞かなかったことにしてもいいと思うぞ」
「そんなことができるか。……行くよ。行きたくないけど、しょうがない」

苦笑いをする大神につられて、加山も苦笑いをする。そもそもこんな話を大神にした時点で、聞かなかったことにすることなど、大神に関してはありえない。それがわかっていて言うんだから、大概自分も嫌な奴だ、と加山は思う。上級生にはいじめられたくないし、大神にも嫌われたくないのだから。



 問題の時間となり、大神は部屋を静かに出て行った。時間はもう深夜で、今夜は月の明かりもない。出て行こうとする大神に声をかけるべきかどうか加山は迷ったが、大神がまったくためらいもせずに出て行ってしまったので声をかけなかった。第一、何と声をかけたらいいのかわからない。気をつけろとでもいうつもりだったのだろうか、自分が伝えたくせに。
 加山は小さく舌打ちをした。こんな呼び出しをする上級生に、素直に応じる大神に、そして少なからず後悔している自分に。
 ベッドから這い出すと、そっと部屋を出た。



 扉の向こうから大きな音が聞こえ、加山はびくりとして足を止める。僅かの後、静まり返った廊下に微かな話し声が聞こえた。確かめるまでもなく、目の前の倉庫の扉からだ。取っ手に手をかけてみると、鍵がかかっている。気づかれた気配がなかったので、覚悟を決めて小さくノックをした。

「…………誰だ」
「加山です」

鍵の外れる音がして、扉が開いた。非常灯のついている廊下よりも、倉庫内は暗いのでよく見えない。「入れ」と言われ、黙って室内へと足を踏み入れた。後ろで、扉の閉まる音がする。
 月のない夜空も、室内に比べれば明るいらしい。鉄格子の影が僅かに床に落ちており、そこに大神が上級生2人に押さえつけられているのが見えた。

「……来ると思ってたぜ、加山」
「おまえにも回してやるからよ、ちょっと待っとけや」

大神は猿轡を噛まされているらしく、微かなうめき声しか聞こえてこない。必死で逃れようとしているようだが、二人の上級生にほとんど乗っかられるように押さえつけられているので、動くこともままならない様子だった。よく見ると、手首を縛られている。
 こうなることは、なんとなく予想がついていた。容姿に恵まれていることは、男だらけの環境では損としか言いようがない。当然、大神だってわかっていただろう。
 ではなぜ呼び出しに応じた?みすみす、上級生に乱暴されるために。それも、最も屈辱的な方法で。

「…………叫びます」
「あ?」
「俺、叫びますね、先輩」

考えるまでもない。加山をかばうためだ。

「おまえっ……!」

背後にいた1人が掴みかかってくるのを予想してかわすと、素早く扉の鍵を開けた。大神を押さえていた2人がこちらに向かってくる後ろで、大神が立ち上がるのが見えた。加山は安心して、1人の胸倉を掴むと投げ飛ばした。あまりにもきれいに投げられたので、少し驚いたほどだった。

「だってまさか俺、先輩たちがこんなことするなんて思ってなかったし!叫びますよ!!」
「っ……!!」

自分ながら名演技だと、加山は思った。上級生たちは観念したようで、加山を睨みつけると扉から慌てて出て行った。まったく、これくらいで諦めるくらいなら最初からやるなと思う。



 「ごめん、大神」

 倉庫の床はほこりだらけで、ほこりだらけになってしまった大神は風呂に入りたいと言ったが、こんな時間に宿舎の風呂は使えないので、海岸に来ていた。

「いや。だって言わなかったら、おまえが同じ目に遭ってたかもしれないだろ」

灰色の海の中に、大神の白いランニングシャツが浮かんで見える。

「それは……」
「だったら、俺がやられる方がいい。少なくとも俺は、それでよかったんだ」

加山は思う。どうして大神を試したりしたのだろう。この優秀すぎる友人を、疑っていたのだろうか。
 振り向いた大神が、にっこりと笑う。

「だって、助けに来てくれただろう?俺の思ったとおりにさ」
「大神……!」

波の音が一際高く響いて、雲に遮られていた月の光が大神の上に降り注いだ。きらめく冷たい水のような、決して濁らない輝きを加山は見た。この清らかな光に、助けられたのは自分の方だったのだ。

「おまえも来いよ」

足を踏み入れた水は冷たく、月の光に透き通る。
 運命と言うには大袈裟かもしれない。だがしかし、加山は確かに大神との出会いに、未来に繋がる何かを感じた。踏みしめた柔らかい砂は舞い上がり、波に揺れるけれどすぐに沈んでいく。顔を上げれば、大神が微笑んでいるのが見える。
 まるで幸せな水槽の中にでもいるようだと思う。循環する世界の中で、決して濁らないものがそこにはあった。

モドル